fc2ブログ
プロフィール

亀さん

Author:亀さん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

kamesan

人生は冥土までの暇潰し

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
武士の時代 19
■徳川家康
22010204.jpg

今東光和尚の『毒舌日本史』で、家康を中心に江戸時代について書いてあるのは、p.353~370と僅か17ページに過ぎず、p371からいきなり幕末の話に移っているが、何ともあっさりしたりものだ。ただ、冒頭で和尚は以下のように家康を評している。

そりゃ何ったって偉いの一言に尽きますよ。
『毒舌日本史』p.353


最近取り上げることの多い小名木善行氏の場合、家康について言及している動画が数本あり、個人的に気に入ったのが以下の動画だ。


関ヶ原の戦いと徳川家康の真実・知られざる歴史の裏側|小名木善行

22022101.jpg

この金山についてだが、飯山一郎さんも以下のような記事を遺している。

また、(以下は鷲が発見・発掘した極秘の歴史情報であるが…)徳川家康の金山奉行・長谷川長安(元・山師)は、「小山評定」のときに、「真岡の根本山」の地下に途轍もない金鉱脈を発見した。

この世界一の金鉱脈を守り、温存するために、家康は、春日局の夫を初代真岡藩主に封じ、真岡を直轄領としたのである。

(鷲の調査研究では)真岡・根本山の金鉱脈は、世界一と言われる住友金属鉱山の菱刈金鉱脈よりも遥かに高品位である!

◆2015/06/29(月)  親友・池田 敏君を悼む(いたむ)


飯山さんの家康についての記事で目に留まった、もう一本の記事が以下である。

江戸時代という平和な時代をつくったのは、家康の影武者なんだ! (家康本人は、関ヶ原か大阪の陣で、死んじまっただ~)
◆2015/01/12(月)  影武者・家康のように…


これは、プーチン影武者説についての記事である。小生も最近の記事で以下のように書いている。

マドモアゼル・愛氏と言えば、同氏の別の動画で「本物のプーチンは既に亡くなっている」と、サラリと語っていたのが今でも小生の耳にこびりついている。それは、プーチンと30年間連れ添い、2013年に離婚した元妻のリュドミラさん、「(目の前にいるプーチンは)夫ではない」という言葉を残してプーチンの元を去っていたからだ。恐らく、事の真相を永久に我々は知ることはないだろう。ただ、仮に本物のプーチンや金正恩が、既に亡くなっていたとしても、プーチンあるいは金正恩が遺していった国家としての土台は、これからも継承されていくはずだ。それが国家というもの、マドモアゼル・愛氏が謂うところの「サーッと変化してきている流れ」に乗ることになるからである。
ウクライナ情勢


ウィキペディアも「徳川家康の影武者説」と題する項を設けていた。

ともあれ、家康から慶喜までの江戸という時代は、実に平穏な時代だったわけで、そのあたりを如実に示した本を、以下に紹介することで徳川家康稿を終わらせることにしよう。

16021701.jpg
『逝きし世の面影』(渡辺京二)

【毒舌日本史】

飯山史観シリーズで取り上げることの多い今東光の『毒舌日本史』、和尚から孫のように可愛がられた島地勝彦氏による同書の書評を紹介しておこう。
島地勝彦さん<2>博覧強記の今東光が日本史をぶった斬る!

スポンサーサイト



人間の建設
今朝、掲示板「放知技」に小生は次のような投稿を行った。

インターネットや携帯電話で代表される現在の科学、すなわち科(とが)の学に染まっている我々ですが、中国の兵法書一つを取り上げただけでも明らかなように、精神面あるいは智慧となると、とてもではありませんが昔の人たちには逆立ちしても勝てません・・・。
https://grnba.bbs.fc2.com/reply/17342561/14/


中国古典の一角を成す兵法書で思い出したのが、数ヶ月前に取り上げるつもりだった以下の動画である。


小林秀雄入門!文系の天才と理系の天才による歴史的対談!二人が語る人生の極意とは?【人間の建設】【小林秀雄】【岡潔】【スケザネ図書館】【書庫】

22021900.jpg

これは、岡潔と小林秀雄による、何とも贅沢な対談動画であり、実に多くのことを教えてくれる動画でもある。この動画の制作者は冒頭で以下のように語っているが、これはどういうことか?

22021901.jpg

個人的に解釈すれば、拙稿「飯山史観の事始め」で示した、「守破離」図が解りやすいように思う。つまり、人は最初に「守」から入るというのが筋道というわけだ。

18091901.jpg

このあたり、動画制作者の解説、すなわち岡潔と小林秀雄の古典観に通じるのである。

22021902.jpg

就中、重要となるのが素読だ。

22021903.jpg

大分前に素読の重要性を悟った小生は、子どもたちが小学低学年という年齢の頃、論語の素読をさせている。そのあたりは、旧ブログで「古典の素読」と題して記事にもした。

22021904.jpg

就学前の小さなお子さんのいる家庭のお父さんお母さん、子どもに素読を体験させてみては如何だろうか・・・。

プロパガンダ 2
22021504.jpg

拙稿「プロパガンダ 1」についての感想を、suyapさんが掲示板「放知技」に投稿してくれたことが切っ掛けとなり、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』を巡って、suyapさんと多くを情報交換できた。
https://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/975-980/

ところで、小生は>>978で以下のように書いている。

どのようにケネディ大統領はキューバ危機を回避したのかについては、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に詳述してありますが、決め手になったのがアメリカ側に寝返ったソ連のスパイでした。彼は核兵器を専門としていたのですが、高空から撮影したキューバの写真を解析して、核兵器基地がキューバの地に、建設中であることを突き止めています。このスパイの情報が無かったら、本当に第三次世界大戦が勃発していた可能性大でした。


すると、suyapさんから>>979で以下のような問い合わせがきたのである。

そのスパイはペンコフスキーとは別人なのでしょうか?
ちなみにペンコフスキーは1962年10月のキューバ危機勃発直後にモスクワで逮捕され、翌年5月に処刑されています。『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に出てくるペンコフスキー関連の記述に興味があります。


22021502.jpg


それに対して、小生は>>980で以下のように回答している。

ご推察のとおり、ペンコフスキーです。『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』も、p.176あたりからペンコフスキーについて、かなりのページを割いていました。


ここで小生は、「『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に出てくるペンコフスキー関連の記述に興味があります」と、>>979で書いてきたsuyapさんに何等かの回答しなければと思った。また、ペンコフスキーを巡ってプロパガンダや諜報について、色々と考えを巡らすのも悪くないと思ったのである。

そこで、ペンコフスキーについて考えを巡らしてみたところ、以下の三つのポイントを解明してみたいと思うに至った。

1.ペンコフスキーが生存前後のソ連事情
2.ペンコフスキーが西側に寝返った理由
3.ペンコフスキーにとっての国益とは?


最初に、「ペンコフスキーが生存前後のソ連事情」だが、処刑されたのが1963年5月16日、フルシチョフがソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1953年9月7日 - 1964年10月14日)の時代であった。そのフルシチョフは、宮廷クーデターにより第一書記の座を1964年に追われている。フルシチョフが失脚した背景として、ウィキペディアは以下のように記している。

フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落とし、あるいは暗殺を着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をも企んだとも言われている。


ここで、フルシチョフ前のソ連はスターリンが牛耳っていたわけだが、スターリンが何を行っていたかというあたりは、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に詳述してある他、多くの史料が書籍やネット記事として出回っているので多言は不要かと思う。ともあれ、端的に言えばスターリンが行った大テロル(恐慌政治)こそ、小生が>>976で述べたアンドロポフ〝限界〟の最大要因だったのだ。この大テロルのもたらしたものについて、明白に述べた箇所を以下に引用しておこう。

外国語に堪能な海外諜報担当者やスターリンに進言するような知見のある幹部は大テロルで軒並み処刑されてしまい、ソ連の国内政治闘争で何とか穏便に生き抜いていくことしか考えていないような人たちが次の世代を担うことになったわけです。
『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』p.177


次に、「ペンコフスキーが西側に寝返った理由」だが、suyapxさんが紹介してくれた「恩師と一冊の本の思い出(1)」を中心に言及してみよう。

22021501.jpg 22021500.jpg

上掲の記事を書いたのはワイン研究家の金子三郎氏で、『ペンコフスキー機密文書(The Penkovskiy Papers)』(1966年、集英社刊)の一部(50ページ)を分担翻訳した方である。その金子氏が以下のように書いている。

では何故、軍人としてエリートの道を歩み続け、出世を望む野心家でもあり、ソ連の権力の座に近い地位にあった一人の情報将校が、国を裏切ったのかという疑問が絶えず付き纏います。

ペンコフスキー大佐をしてソ連政府に対して積極的な反逆者に仕立てたものは、敢えて単一要因を挙げるとすれば、何よりも、恐らくフルシチョフ(1894-1971)の冒険主義によって触発されるかもしれない、突発的な核戦争への恐怖だったと考えるのが正しい答えのように思います。ペンコフスキーは、ソ連の核戦争準備だけでなく、フルチショフが核戦争の脅威を利用しようとする無謀さについても、その真相を知る数少ない一人だったからです。彼は明らかにフルシチョフとソ連の指導部を憎んでいました。そして「わが共産主義社会」と呼ぶものは、ひとつの欺瞞に過ぎないものだと信ずるに至ったのでした。何とかしてエネルギーを絞り出し、ソビエト連邦の偉大なる要素と生活力を平和的目的へと転換させることが必要である。大きな世界的闘争を引き起こさせないためにも ― これは私が、私の観察したことを、アメリカ合衆国とイギリス国の人々に対して書いた真の理由である、とペンコフスキーは述べています。


要するに、本当にフルシチョフが核戦争を引き起こしかねないと思ったことが、ペンコフスキーが祖国ソ連を裏切った最大の理由だった、と金子氏は語っているわけである。確かに、小生も十代後半から二十代の頃にかけて、核による世界大戦勃発を恐れていた一時期があったし、関連の書籍や雑誌にも少なからず目を通した経験があるので、金子氏の言い分、分からないでもない。

しかし、本当に核戦争防止ということだけが、西側に寝返った理由だったのだろうか・・・。核戦争を防止したいという崇高な思いだけで、人は果たして死を賭してまで行動に移せるものなのだろうか・・・。思案に暮れていた時、ふと以下の金子氏の記述が目に留まった。

最後の危機が身に迫った時、彼の頭に浮かんだのは、自分の家族を何とかしてソ連の国外へ救出させることでした。ペンコフスキーは金銭欲のためにスパイを働いたとは到底考えられません。


家族・・・、そうなのだ! と思わず膝を打った。ここにペンコフスキーが〝裏切り行為〟に打って出た、原点があったと解ったのである。換言すれば、己を大事にできない者に、家族、地域社会、さらには母国への愛が持てないのは道理ということなのだ。無論、ペンコフスキーの個人的な思想など他の動機もあったと思うが、何よりも核心は、家族、地域社会、そして母国への愛だ。

ここで話は横道に逸れるが、小生が気になったのは上掲の金子氏の記事に、「先生宅にタス通信の現役の記者も集まって」という記述があったことだ。タス通信と云えばソ連の国営通信社であり、その通信社の現役記者との交流があったことを示す行なので、『ペンコフスキー機密文書』の監修的な立場にあった佐藤亮一氏の思想歴が気になったのである。念のため、同氏は他にどのような書籍を翻訳したのかネットで確認してみた。すると、確かに『ペンコフスキー機密文書』をはじめ、『フルシチョフ最後の遺言』といったソ連をテーマとした訳書もあるにはあったが、圧倒的にアメリカやイギリスといった西側を取り上げた書籍が中心だった。

佐藤氏は戦時中に毎日新聞の特派員として中国大陸に渡り、敗戦後は北京の収容所に投獄されている。投獄中、思想教育を受けたのか、受けたとすれば後の佐藤氏の思想に大きな影響を及ぼしたのだろうか・・・。そのあたりは、佐藤氏の自著『北京収容所―私の獄中日記』を紐解く必要がありそうだ。だが、その前に『ペンコフスキー機密文書』に目を通す必要があると判断し、同書の文庫版『寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書』を申し込んだ。近日中に届く予定である。ペンコフスキーの考えていた国益を確認したいこともあるし、何よりもペンコフスキーの家族のその後を知りたいと思ったからである。

最後の「ペンコフスキーにとっての国益とは?」だが、上掲の金子氏の記事には以下のように明記されていた。

「わが共産主義社会」と呼ぶものは、ひとつの欺瞞に過ぎないものだと信ずるに至ったのでした。何とかしてエネルギーを絞り出し、ソビエト連邦の偉大なる要素と生活力を平和的目的へと転換させることが必要である。


ペンコフスキーの考えていた国益というものが読み取れよう。そして、国益とは巡りに巡って己を大切にする姿勢、そして、家族愛、地域社会愛、母国愛へと繋がるのであり、だからこそペンコフスキーは、「死を賭した」行動ができたのだと思った。

武士の時代 18
■豊臣秀吉
22010203.jpg

拙稿「武士の時代 16」で、信長・秀吉・家康・光秀という四傑の人物を一霊四魂に照らし合わせ、「和合・友好の力を持った秀吉は和魂」と小生は書いた。

つまり、秀吉は人誑しだったというわけだ。そのあたりは、小名木善行氏の動画を観れば納得してもらえると思う。


豊臣秀吉が出世した本当の理由|小名木善行

小名木氏が、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」を引き合いに、「努力で、人格で、徹底的にサービスして、ホトトギスを鳴かせてみせた」のが秀吉だったと、8:35あたりから語っているが、いかにも小名木氏らしい物の言い(解説)だと思った。

今東光和尚の秀吉評も面白い。自著『毒舌日本史』で和尚は、信長と秀吉の関係について以下のように述べているが、信長に人誑しの秀吉が気に入られていたあたり、まさに面目躍如たるものがある。

秀吉がいかに信長に信任されていたかわかりますね。どうも信長は、わざと或る程度の気ままをさせていたんではないでしょうかね。そして満座の中で「このドブ鼠」だの「禿げ鼠」だのとやっつけている。秀吉の女房に与えた信長の手紙にも平気で、貴様のところの禿げ鼠は浮気者で仕様がないが、少し位は我慢しろなんて書いている。
『毒舌日本史』p.293


この秀吉の人誑しという性格についてだが、上掲の動画で小名木氏は秀吉の腰の低さを語っており(29:00~)、現代人に喩えるなら明石家さんまだと謂うものだから、思わず小生もつられて笑ってしまった。加えて、そうした秀吉の性格を如実に示す二つのエピソードとして、蓑笠およびにまつわる出来事について小名木氏は語っていた。

それから、上掲動画の題は「豊臣秀吉が出世した本当の理由」となっているが、単に秀吉が出世した理由について述べているだけではなく、今を生きる若者への貴重なアドバイスにもなっている。その意味で、若い人は見ておいて損はない動画だと思った。

22021301.jpg

ところで、小名木氏が秀吉を取り上げた動画は他にも何本かあるが、小生が最も注目したのは以下の動画だ。


学校では教えない豊臣秀吉が朝鮮に出兵した本当の理由|小名木善行

秀吉の朝鮮出兵は、日本を護るためだったとする小名木氏に対して、『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬 大日本雄弁会講談社)は、異なった見解を述べている。そのあたりを示す意味で、少々長くなるものの、『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』の一部を以下に引用させていただく。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が国内統一の大事業を完成し、彼が外に向かって日本を代表して立つ事になってから、それまで地方の諸大名との間に個々に行われていたフィリピンとの関係は、主として秀吉という大きな手一つに掌握される事となった。フィリピンでは新太守ゴメス・ダスマリナスが強大な権力を振るって外交関係の矢面に立つようになり、日比の関係は一気に繁雑となってきたのである。

英国では有名なエリザベス女皇が、鉄石の意思と、驚くべき判断力と、巧妙なる政策とをもって、従来の第二流国をして欧州最強国に名乗りをあげ、スペインではフェリペ二世がいまだにその世界征服を夢見、世界最強君主という矜恃を棄てなかった時代であるから、これらの強大なる君主や英雄の出現によって、当時の世界は緊張状態にあった

以前から外国攻略の大望を抱いていた秀吉にとっては、今やその時が来たのである。彼は自分が支那、朝鮮を攻略する前に海上自由発展者のために、支那、朝鮮を荒らされる事を好まず、1589年7月8日、諸大名に厳命を下してこれを禁じ、支那・朝鮮方面における日本人海上発展者の跡を絶ったが、残党はあえて南洋、インド方面にその足を伸ばす事となった。

野心家の秀吉は、早くも1592年には朝鮮征伐を始めた。朝鮮を攻め、支那を攻略し、続いてインドに侵入し、ついでに南洋をも征服しようというのが彼の志であった。支那の寧波に都を移し、東洋を一丸として、この総帥になろうという壮大なる計画を立てた。

『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』p.56~57

22010206.jpg


朝鮮出兵とは、「日本を護るため」だったとする小名木氏に対して、「東洋の総帥になる」のが秀吉の狙いだったとする、上掲書の奈良静馬氏の主張との間には大分隔たりがあるが、同書が刊行されたのが昭和17年だったことを思えば、今から80年も前の話だし、その間に朝鮮出兵についての研究も大分進んだことを思うに、朝鮮出兵の見方が異なってきても致し方ないと思った。ちなみに、小生は小名木氏の主張に軍配を上げるものである。

そう思う理由の一つが秀吉の皇室観にある。何となれば、「日本を護る」ということは國體、すなわち皇室を護るということに他ならないからである。以下は『皇室と日本精神』に記されていた、信長と秀吉の皇室観を示す格好の行である。

安土桃山時代は、一般に国民精神の旺盛なる時代であった。百有余年に亘る戦雲が、信長・秀吉の力によって漸く攘われ、国内統一の業が成ると共に、国家的概念を著しく発展した。信長が父信秀の遺志を継いで、皇室の復興に努め、禁裏を造営し御料を復した事などは申すまでも無い。その足利義昭と結んだ約定の中には「天下静謐の為には、朝廷の事を万事粗略に致さざゞること」という一箇条を、特に載せて居る。秀吉に至っては、尊皇主義の殊に顕著なるものがあった。秀吉は微賤より起って遂に位人臣を極め、天正十三年に関白になり、十四年に太政大臣となった。その時にその栄誉を深く心に感じて、皇室の為に何とか致して、幸あれかしと考えた。
『皇室と日本精神』p.337


ところで、上の引用で奈良静馬氏は、「当時の世界は緊張状態にあった」と記していたが、それに関連して以下の行も引用しておこう。

秀吉は1587年、彼に反抗した最後の大名、薩摩の島津氏を征服し、国内平定の事業が一段落つくと共に、長崎の治外法権地に目をつけ、伝道師から長崎及びその付近の抵当地を回収した。元来秀吉は宗教について好悪は持たず、今目の前にキリスト教伝道師を手先とする侵略が日本で始まったのを見て、キリスト教絶対厳禁の挙に出た。しかしながら朝鮮征伐などのために忙しかった秀吉は、ひそかにキリスト教を信じる者があっても、それは黙認しておいた。
『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』p.171


「彼(秀吉)に反抗した最後の大名」という記述に注目していただきたい。その島津家は後にイギリスの影響下に入り、そのイギリスは鹿児島の地に「薩摩ワンワールド」を形成している。

ここで思い出すべきは、秀吉が1587年に「薩摩の島津氏を征服」した翌年、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れたという史実である(アルマダ海戦)。

22021302.jpg

1587年頃のイギリスは、未だ〝黒い貴族化〟されていなかったことを思うに、その後島津家に浸透していったイギリスの動きが、母国の〝黒い貴族化〟に至る経緯と、どのように関わっていたのか・・・。どうやら、『悪の遺産ヴェネツィア』を再々読すべき時がきたようだ。

心のしがらみ
22021201.jpg

2月1日に発売された『ザ・フナイ』(3月号)に、安西正鷹さんの「時間とお金の関係を読み解く」シリーズが掲載された。自動車の大量生産方式(フォード・システム)と、チャップリンの映画「モダン・タイムズ」を取り上げたもので、小生は半年ほどだったがホンダの狭山工場で、自動車組立ラインを経験していたこともあり、安西さんの新記事を貪るように読んだ次第である。以下は、米国メーカー「フォード」についての安西評だ。

「作業の標準化」と「ベルトコンベア・システム」を核として、「フォード・システム」は生産効率の著しい向上を実現し、大量の自動車を低コストで生産することを可能にしました。


一方、この大量生産システムには負の面もあり、安西さんは「人間疎外」という言葉を用いていた。日本の自動車工場の実態については、鎌田慧氏の著した『自動車絶望工場』(講談社文庫)に詳しい。

22021202.jpg

ところで、大量生産システムの負の面を、如実に示した映画を安西さんは紹介している。それは、チャップリンの映画「モダン・タイムズ」だ。


チャールズ・チャップリン ~ モダン・タイムス | Modern Times 1936年 ‧ ドラマ/コメディ

安西さんは同映画について、以下のように評している。

1936年に制作されたこの喜劇映画は、チャップリンの代表作のひとつであり、彼自身が監督・製作・脚本・作曲を担当しました。資本主義社会や機械文明を題材にした作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の歯車のようになっている世の中を笑いで表現しています。


このチャップリンだが、以下の動画に注目していただきたい。


【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第3回「ロスチャイルド家の手練、コロナとチャップリンのプロパガンダ戦略」[桜R3/6/19]

チャップリンの裏の素顔が分かり、実に興味深い動画だと思う。

最後に、掲示板「放知技」の常連の一人である、mespesadoさんの最近の投稿を取り上げておきたい。
https://grnba.bbs.fc2.com/reply/17332230/248-249/

特に、248の以下の結語は注目に値しよう。

 「新しい時代が来る」とは、既に物理的には可能になった現代において、

あとはその「心のしがらみを捨てる」ことができたとき、現実にもそれが可

能になるわけで、その「心のしがらみを捨てたとき」が、イコール「新しい

時代の到来」ということに他ならない。


mespesadoさんの謂う「心のしがらみ」とは、どういうことか? 放知技でmespesadoさんの投稿を追ってきた読者なら、詳しい説明は不要かと思うので割愛するとして、mespesadoさんの過去の投稿を読んだことのない読者は、以下のmespesadoさんの講演ビデオを一度観ておくことをお勧めしたい。そうすれば、朧気ながらもmespesadoさんの謂う「心のしがらみ」とは何かが分かるはずだ。


mespesadoさん講演録「本当のオカネと経済の話 」

【チャップリン追加情報】

【林千勝先生㊶】麻〇太〇は現代の松方正義?チャップリンの正体

プロパガンダ 1
小生は一月二十四日の拙稿「ウクライナ情勢」で、佐藤優氏の記事を以下のように高く評価した。

この佐藤氏の記事は8年前の記事なのだが、今日読み返しても、ウクライナの国情を知る上で最良の記事の一本だと小生は思っている。


しかし、二週間ほどが経過した二月五日、JBpressから以下の記事が掲載されたのである。
ロシアのプロパガンダを発信してしまう日本の「専門家」たち

同記事で、2013年にリヴィウ国立大学(ウクライナ)修士課程を修了(国際関係学)し、その後は在ウクライナ日本国大使館専門調査員だった(2014~18年)平野高志氏、佐藤優氏について以下のように評した。

 例えば外務省主任分析官であった佐藤優氏は「Business Insider Japan」の記事で、「ウクライナは東部と西部で文化が異なる」として、以下のように述べている。

「西側のガリツィア地方は、歴史的にはハプスブルク帝国に属する地域で、ウクライナ語を使い、宗教はカトリックです。一方、ロシアに近い東側のハリコフ州やドネツク州に住む人々はロシア語を常用し、宗教的にもロシア正教なんです」

 残念ながら、このウクライナを西と東で決定的に異なる地域かのように紹介する、いわゆる「ウクライナ東西分裂論」は、ロシア政権が2014年のウクライナ侵攻の際に好んで用い続けた、典型的な偽情報だ。ウクライナの実態は、このように東西を2つに単純に分けることは不可能である。地図を見ながらその問題を検証してみよう。


続いて平野氏は、本当のウクライナの国情について詳述した後、以下の結論を述べている。

 上記のような偽情報は2014年以降、さまざまな専門家の間で頻繁に見られる。特に昨年(2021年)秋以降、「ウクライナがあたかも2つに分断している」かのように示す、専門家による日本語記事は急速に増えている。


では、そうした偽情報を流しているのは何処なのだろうか? その点についても平野氏は明瞭に述べている。

 なお、ロシア発の偽情報が日本語空間に入ってくる際のチャンネルは以下の3つに大別できる。

(1)ロシア大使館がSNSアカウントを通じて発信する公式チャンネル
(2)「スプートニク」や「ロシア・ビヨンド」といったロシア国営メディアによる半公式チャンネル
(3)ロシア発の情報を用いて日本語で発信する日本人専門家による間接的発信

 その中で日本における特徴は、(3)の専門家の情報発信の中に紛れ込むロシア発偽情報が特に多いことである。例えば、現在の緊迫するロシア・ウクライナ情勢に関しても、ロシア大使館やスプートニクはそれほど活発に偽情報を発信していないのに対し、(3)の専門家の情報発信に見られるロシア発偽情報は過去2カ月で急増している。

 そもそも、ロシア語を理解し、ロシア発の情報を日本で伝えられる人は、日本のメディアでは「ロシア専門家」として重宝されがちであるが、問題はその専門家がしばしばロシア政権が拡散する偽情報を検証せずに日本社会に伝えてしまうことにある。しかも、その情報の真偽検証ができる人が日本にはまだ少ないために、ロシア発偽情報がそのまま日本の読者に伝わり、その結果、ロシア政権が望む対日世論操作が実現する余地が生じてしまっているのだ。


以上で平野氏の玉稿についての紹介を終えると同時に、拙稿「ウクライナ情勢」で紹介した佐藤優氏の記事についての小生の評価を取り下げたい。そして、間違った情報を読者に伝えてしまったこと、心よりお詫びする次第である。

ところで、平野氏は「スプートニク」を紹介していたが、そのスプートニクに以下のような興味深い記事が掲載された。
史上最大のKGB機密漏洩資料「ミトロヒン文書」の中身とは

現在、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』(江崎道朗監修・山内智恵子著 ワニブックス)という書籍を小生は通読中で、読みながら思うところが多々あった。よって、このあたりについては次稿で述べたいと思う。

22020701.jpg

なを、上掲書を通読したというTOMOKOさんのコメント、実に優れていた。ちなみに、赤線の〝独裁者〟とはプーチンのことだ。

22020702.jpg

老い
22020601.jpg

秩父山地の入口に位置するわが街、今朝は寒いと思っていたら-6℃・・・。それでも、昨日は仕事(翻訳)を終え、同時に確定申告の作成も一段落したので、久しぶりにのんびりできる一日となりそうだ。よって、三日ほどかかる仕事が明後日入るが、それまでにブログ記事を一~二本ほど書いておこうと思い、書き始めたのが今日のテーマ「老い」である。

なぜ、「老い」をテーマに選んだのかというと、俳優の水谷豊のインタビュー記事を読んだからだ。
「水谷豊」独占80分 松田優作との思い出、「相棒」の舞台裏、体力維持と老いを語る

記事の表題から推測できると思うが、水谷も今年は古希を迎える。小生は水谷と同い年だし、小生の中学生時代の悪友は友人の伝で水谷に会い、喫茶店で色々と語り合っている。そのあたりは、拙稿「座敷わらしとの〝再会〟」にも書いた。

さて、「老い」について言及した動画を何本か観たが、個人的に特に良かったと思ったのは以下の二本だった。

■キケロ

【名著】老年について|キケロ 後悔なく、美しく、老いていく

この動画で印象に残ったシーンが二つある。一つは、「知性の鍛錬が人生後半のカギを握る」というキケロの言葉だ。十代の頃に日本を飛び出して以降、紆余曲折はあったものの、自分なりに知性の鍛錬に励んできたつもりでいたが、老年期を迎えた今、それが漸く果実となって実を結んだように感じるのである。だから、今でも日々、新しい学びを重ねていこうとする自分を嬉しく思う。

22020602.jpg

また、キケロは「人生をもう一度やり直したいとは思わない」と語っているが、小生も全く同じ考えだ。拙稿「お節介爺さんと婆さん」でも、小生は以下のように書いている。

ここで、ふと思った。「45年前に戻してやる」と、もし自分も神様に言われたとしたら、果たして自分は45年前に戻ることを望むだろうかと…。

少し考えてみた。当時は目一杯人生を謳歌していたこともあると思うが、いまさら若い頃に戻りたいという気持ちはゼロであるのに気づかされた次第である。


今でもその気持ちに変わりはなく、このまま静かに老いていき、最後にこの世とおさらばできれば言うことはない。

22020603.jpg

■世阿弥
続いて、老いについての動画をもう一本を紹介しておこう。


【人生100年時代の必読書】風姿花伝|世阿弥 大丈夫。あなたは一生輝ける… ~室町時代より伝わる秘奥義の伝授~

21020802.jpg

この動画の「秘する花」の解説で、世阿弥のことを「能楽師でもあり、勝負師でもあった」とする解説を耳にした時、脳裏に浮かんだのが楠木正成であった。過去の拙稿(たとえば、「武士の時代 11」等)にも書いたことだが、楠木正成と世阿弥は血縁関係にあったのだし、血は争えぬものよとつくづく思った。

22020604.jpg

【ルーツ】
NHKの「ファミリーヒストリー」は、NHKでは数少ないお気に入りの番組の一つだ。そのファミリーヒストリーで先週、中村雅俊が登場していたので見てみた、中村も古希を過ぎたこともあり、自分のルーツが気になっていたようだ。

以下の動画も、やは自分のルーツ探しという内容の動画である。わずか五歳の時に里子としてアメリカに渡った女の子、66年が経ち、再び日本の土を踏んだ・・・。71歳になっていた。だからこそ、胸に迫りくる動画だったのかもしれない。

何故に、人は己のルーツを探そうとするのか・・・。それは、上掲のキケロの動画の最後で、魂の不滅を信じていたキケロの言葉が紹介され、最愛の娘を亡くしたキケロ、その我が娘と死後に再会できる、すなわち魂の不滅(輪廻転生)を固く信じていた様子が伝わってきたが、このあたりに、老年期を迎えた人たちが、自分のルーツを追い求めて止まぬ理由の一つがあるのかもしれない。


【感動】生き別れた母探し66年ぶり来日 最後に待っていたものは Setting foot on Japanese soil after 66years, in search of her mother.