前稿でお約束したとおり、今回から四英傑を取り上げていく。そのトップバッターは、やはり信長だ。その信長をわずか数行で、端的に評していたのが今東光である。
■織田信長

信長を戦さ上手の謙信や信玄と同列に見ては駄目です。ありゃ天才ですからね。何といっても日本近世史を開いた天才です。彼の存在なくしては日本の近世はありません。その代わり尋常な男ではないんだ。スターリンもヒットラーも同じです。尋常な男には出来っこないことをやる男なんです。 『毒舌日本史』p.270
今和尚は信長が尋常な男ではなかった証に、以下のようなエピソードを語っている。
北陸の一向宗は富樫政親を攻め滅ぼすと宗教王国を作りました。これは日本で最初にして且つ最後の宗教王国ですが、ともかく北陸地方は数年間、一向宗によって支配された。そんな目障りなものを信長が放っておく筈がありません。これまた徹底的にやっつけた。長島でも徹底的こりゃ全滅ですものな。老若男女を問わない。一向宗徒は赤ん坊も殺した。信長の痛快な遺り口は徹底の一言に尽きます。 『毒舌日本史』p.342
この和尚の言葉で思い出したのが、拙稿「マキアヴェリの周辺」で紹介した以下の行だ。
会田 身ぶるいしたでしょう、恐怖と楽しさが入り混じっている。あのころは命があったら拾いものだという気がありますからね。チェリーニが言っているように、ちょっと散歩に行って、けんかして七人殺してきましたというような世界なんですから(笑)、われわれには想像できない世界ですよ。 開高 マイホーム時代にはなかなかわからないが、乱世になるとよくわかる。 会田 だからマキアヴェリのわかる人はマイホームでなしに…。 開高 治にいて乱を求むる人ですね。 会田 矛盾だらけの人間ですよ。
所詮、平和ボケしている今の日本とは、時代背景というものが、全く異なっていることがお分かりいただけたと思う。
さて、信長を取り上げた動画の中から、これはと思ったものを以下に紹介しよう。
教科書には書かれていない織田信長と楽市楽座の真実|小名木善行
この動画のタイトルには「楽市楽座」が使われているが、この楽市楽座という経済政策を思いついた信長、流石としか言い様がない。続く天下人の秀吉や家康も、経済政策の重要性を十分に知り抜いていたし、天下統一後は国内はもとより、海外との交易にも手を伸ばしていたことは、『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』からも、秀吉や家康の交易観が伝わってくる。なを、同書の大凡の内容については、以下の記事を参照にされるとよい。
 GHQが戦後の日本人に封印したフィリピンの歴史~~奈良静馬『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』
上掲書についての記事を書いたのは、歴史逍遥『しばやんの日々』というブログのオーナーであるが、そのオーナーが以下のように記しているのに注目されたい。
今から六年ほど前に奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』という本を「国立国会図書館デジタルコレクション」で見つけて読んだときに、倭寇や豊臣秀吉に対する見方が変わってしまった。この本には、戦後の歴史叙述ではまず語られることのない史実が満載で、しかもスペインの公文書で裏付けが取られているのである。
同書を読了した小生も全く以て同感だし、小生の秀吉観が変わった。小生の秀吉観については、次稿の豊臣秀吉で取り上げたい。
ところで、上掲の動画で小生が、楽市楽座以上に注目したのが弾正台である。小名木氏も動画(4:05~)で弾正台の解説を行っており、弾正台はどのような役目だったのか、天皇にとっての弾正台は、どのような意味を持っていたのかについては、実際に動画で確認していただきたい。そして、信長は正式に弾正忠に叙任された、数少ない戦国武将の一人だったことに、ここは注目するべきである。以下の記事を参照。 戦国時代、武将たちが名乗った「弾正」は京都洛中の風紀委員だった?
ところで、小生は拙稿「日本精神とGHQ焚書」に、以下のように書いた。
織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康という、近世日本の礎を築いた四傑に共通する〝日本精神〟について、新稿で語っていくつもりだ。 日本精神とGHQ焚書
つまり、『皇室と日本精神』(辻善之助 大日本出版)を例に挙げるまでもなく、四傑に共通する日本精神とは「皇室」、すなわち國體を指していることは言うまでもない。信長については上掲動画の一部を切り抜いた、以下の写真からもお分かりのように、天皇の大御宝(おほみたから)である民を護るべく、天皇直属の機関として國體(天皇)に忠誠を誓い、國體のために身を粉にして時代を駆け抜けた人物の一人が、織田信長だったというわけだ。

また、小生は「武士の時代 16」で一霊四魂を取り上げたが、信長の場合は「直感力すなわち先見の明があった信長は奇魂」、つまり、奇魂が最も強く顕れていた人物であると書いた。こうした視点で近世日本の祖である信長の人物を、一度は見直してみるだけの価値はあると思う。
それから、信長の特長である「先見の明」で思い出したのが今和尚の以下の言葉だ。
同盟というのは信義をもって結ぶのが本義で、功利で結ぶものではありません。
・・・中略・・・
その意味では信長が律義な三河者の家康を同盟者として択んだことは、これまた先見の明あるものというべきですね。その点では上杉も武田も北条も当てになりません。 『毒舌日本史』p.297
続いて、信長についての小名木氏の動画で、注目したもう一本の動画は、本能寺の変についてのものだ。
本能寺の変の真実 織田信長を暗殺した真の黒幕|小名木善行
光秀=天海説をとっている小名木氏なので、当然ながら信長は本能寺で死んでいないと語るのだが、関心のある読者は直に動画で確認していただきたい。
それにしても、本能寺の変の後も信長が生き長らえていたとしたら、文字通り信長は「お隠れ」になったということになる。
落合莞爾や飯山一郎といった先達は、孝明天皇は暗殺されたのではなく、「お隠れ」になったと主張しており、小生もその通りだと思っている。 鬼塚英昭の天皇観
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