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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
コロナ回顧録
一段落した午後、仕事部屋から離れて茶の間のテレビを点け、国会中継を少しだけ見ることが多いのだが、与党野党問わず、ほとんどがコロナ対策の質疑応答に始終している。

また、昨日(2月16日)の夕方は調達担当の河野太郎行革相による、新型コロナウイルスのワクチン接種についての記者会見を一部見たが、大分ワクチン確保に苦労しているようで、医療関係者の4万人は一応予定通りに行えるものの、4月1日以降に予定していた高齢者(65歳以上の3600万人)への接種は、ワクチン確保が難しいためスケジュール通りに接種ができるかどうかは分からないようだ。一般人に至っては、具体的な接種開始時期すらも決まっていないようで、苦渋の色を浮かべる河野大臣が印象的だった。
ワクチン提供、時期示せず 自治体に募る不安

目を転じてテレビのワイドショーを見れば、相も変わらずコロナ騒動で大騒ぎ・・・。

小生にとって心の中では既にコロナ禍は終わっており、その小生の考えを代弁してくれているのが、武田邦彦氏による以下の動画である。


いよいよワクチンを打たなければいけない時・・・正しい判断をするためのデータと事実を見て決めてください

武田氏によれば、コロナは既に過ぎ去った昔の話ということになり、「コロナ回顧録」という表現を武田氏は用いていた。自分も正にその通りだと思ったので、本稿のタイトルに採用させていただいた次第だ。

ともあれ、武田氏の上掲の動画を一通り見ていただければ、小生が思っていること、書きたかったことを全て述べておられるので、小生としては特に付け加えることはない。

それよりも、今の小生が心配しているのはコロナよりも日本経済だ。この上は、一刻でも早く緊急事態宣言を解除すべきだ思う。また、小生はワクチンを接種するつもりは毛頭無い。

ここで、現時点におけるトランプの動向だが、道友である野崎晃市博士の新記事に注目していただきたい。
トランプ復活の法的根拠

掲示板「放知技」でもsuyapさん(>>124)や堺のおっさん(>>125)も、「大統領過渡期強化法」について投稿しており、3月20日にトランプが大統領に返り咲くといった、ネットニュースや動画を小生は思い出した。

これと並行して以下の動画を眺めれば、朧気に見えてくるものがあるはずだ。


各国で不思議なドミノ現象 何が起きているか


【アメリカ】トランプ氏弾劾裁判無罪とかなり焦るバイデン陣営

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共同体意識
武田邦彦氏の新動画タイトル、「この動画は何度も見てください※ 大変重要なお話です」に惹きつけられ、何事?と思って見てみた。


この動画は何度も見てください※ 大変重要なお話です。【武田邦彦】

上掲の動画で武田氏が何を語っているのかというと、日本の石器時代(4万年~1万5000万年前)の2万5000年間、平均寿命が30~35歳ていどだった当時の人たちは、今の水洗トイレといった便利なものがあったわけではないが、それでも彼らは幸な日々を送っていたということである(10:33~)。つまり、自分は皆と生活しているのであって、決して独りで生きているわけではない。そして、皆の喜びが自分の喜び、皆の幸福が自分の幸福、他人の子どもは自分の子どもといった具合に、現代よりも共同体意識が深く根付いていた時代だったと武田氏は指摘しているわけである。

だから、ほぼ同時期に見た マドモアゼル・愛氏の動画に、武田氏の動画と共通するものを見たのである。


血縁を超えていく生き方、意識の違いの時代

武田氏は石器時代、マドモアゼル・愛氏は現代を語っているという違いがあり、石器時代は日々顔を接する血縁集団、現代はSNSに代表されるバーチャル、つまり無血縁集団という違いもあるにせよ、〝共同体意識〟という点では一致している。加えて、「今後、無血縁集団の共同体という、新しい時代が到来する」と、マドモアゼル・愛氏が語っていたのが印象的だった。だから、同氏の話を念頭に置きつつ、トランプ革命の今後を見守っていきたいと心から思った次第である。

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これがデニソワ人だ DNAから骨格を再現、初

ところで、武田氏の動画を見た後、何故かデニソワ人についてブログ記事にしたことを思い出した(「北満州と日本列島 02」)。

そこで、何気なくウィキペディアの「日本列島の旧石器時代」項にアクセスしてみたところ、以下の記述に出会ったのである。

現生人類(ホモ・サピエンス)は7~6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。日本列島に現生人類が現れるのは4~3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1a2a (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。

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崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)


関連して見たのが以下の動画である。


現生人類と共存していた?ネアンデルタール人とデニソワ人の新たな発見

「新たな発見」という言葉に惹かれ、上掲の動画を一通り見てみた。そして今までの定説を覆すような〝新発見〟について知ったのは収穫だっだ。

たとえば、現代人類が脱アフリカを成し遂げたのは、5~6万年前というのが今までの定説だったが、それより遙るか以前に現代人類は脱アフリカを成し遂げてしていたという、新証拠が幾つか発見されたというから驚きだ。

また、現代人類の場合、ネアンデルタール人のDNAが、1~4%混入しているというのは周知の事実であるが(アフリカに留まった現代人類を除く)、アジア人の場合はさらにデニソワ人のDNAも混入しているのだという。中でも日本人の場合、ネアンデルタール人やデニソワ人のTLR様受容体(遺伝子)を持っている、人たちの割合が世界で最も高く、51%にもなるというのだから腰を抜かしたものである。

ここで、ふとTLR様受容体と武漢ウイルスの間で、何等かの関連性があるのではと気になったので、関連しそうな動画をチェックしてみた。


新型コロナで新発見!ネアンデルタール人の遺伝子で重症化!だから日本人は重症化しにくい?

う~ん、どうかな・・・。ここはやはり、ウイルス専門家である上述の崎谷氏の新著に当たるべきだろう。

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武士の時代 11
今回は楠木正成について言及していくが、その前に拙稿「武士の時代 10」で、「大塔政略」、「伏見宮」、「堀川政略」といった言葉がいきなり飛び出し、落合史観に不案内の読者には、何が何のことやらサッパリ分からなかったかもしれない。詳しくは落合莞爾さんの著した『明治維新の極秘計画』、そして『南北朝こそ日本の機密』に目を通してもらう他はないが、概略だけでも知りたいという読者は、藤井厳喜氏がアマゾンに投稿した、カスタマーデビューに目を通すといいだろう。
解明された南北朝史の本質:現皇室は南朝正統の嫡流

■今東光と落合莞爾の楠木正成観
最初に、今東光和尚の楠木正成観からいこう。和尚の楠木正成観を最も的確に示していたのが、『毒舌日本史』の以下の行だ。ズバリ、和尚は楠木正成をゲリラの元祖としている。

文藝春秋編集部 チェ・ゲバラですな。

今東光 ゲバラなんかに感服してるんだから日本の大学生なんて甘っちょろいもんさ。ちゃんと日本には楠木正成てえゲリラの親方が在るんだ。ゲバラの最後は民衆の支持を喪ったからです。ゲリラ戦の要項は民衆の支持を取りつけることです。中共の八路軍てえゲリラが成功したのは民衆の支持があったからです。正成は河内ばかりではなく近畿を走り廻って民心を摑んでいたから眇たる河内兵の一隊だけで天下の大軍と拮抗することが出来たんです。ゲリラ教程は楠木流軍学を学べばわかる。尤もゲリラ戦術を勉強してぶち殺されるのも悪くねえが。
 前にも出ましたが当時の「悪」は強いのを意味して悪いというんじゃない。悪源太(義平)とか悪七兵衛(景清)という使い方でも解るように、この悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です。だから武士だか山賊だかわかりません。

『毒舌日本史』p.216


小生も今東光和尚の楠木正成=ゲリラの親方説に同感だ。太平の世にすっかり慣れきった、立派な鎧甲で身を固めた北条軍の大将が、籠城している正成の河内軍を前に、「吾こそは桓武天皇後裔・・・」だのと長々と名乗りあげていると、頭上に糞尿をまき散らされてピカピカの鎧甲が糞まみれになったり、大岩を落とされて大けがをしたり時には死に至ったりと、さんざんな目に遭わされて戦意喪失、多くの北条軍の兵士が逃げ惑ったという。

ここで、少し横道にそれるが、正成の「民衆を味方に引きつける」という戦法、今のトランプを彷彿とさせるではないか。掲示板「放知技」にも書いたが(>>73)、民衆を味方にすることは先手必勝だと、心から思う。

今和尚の上掲の発言、「悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です」にも関連することだが、DSぺったりの一人として、たとえば「トランプは人権問題に無関心だった」と、大嘘をついた池上彰のような輩がいるが、DSに対抗する主流派の親分トランプが耳にしたら、どう思っただろうか・・・。

次に落合莞爾さんの楠木正成観だが、『南北朝こそ日本の機密』第十四章「南北朝偽史を禊祓(みそぎはら)う重要性」の冒頭の小節、「後南朝に対する感傷 地家(じげ)氏・大室寅之祐は大塔宮の子孫」に書かれている、以下の楠木正成評を紹介するに留めておこう。

大塔宮に協力を惜しまず、よく似た運命を辿った楠木正成にも、むろん同じ感情が湧きます。親王と正成が余りにいたわしく思えた私は、以来湊川神社に参ったことはなく、鎌倉宮に近寄ったことも、いまだにありません。可哀そう過ぎて見たくないのです。


お二方の楠木正成観を較べるに、落合さんの場合は「可哀そう」と感傷的になっているのに対して、今和尚の場合は「ゲリラの親方」と剛毅な正成評であり、小生は和尚の正成評の方が気に入っている。

■出でよ、令和の悪党
ここで、和尚は「悪」について語っているのに注目していただきたい。実は、今の世の中ほど楠木正成のような、「悪」が求められている時代はないのだ。平成22年(2010年)7月22日、まほろば会で故山浦嘉久さんは以下のように語った。

これから迎えようとする大転換期(乱世)は、婆娑羅が頭角を現す時代であり、平成版の楠木正成のような「悪党」の出現が望まれる。


正に・・・。

婆娑羅南北朝の動乱期の美意識や価値観を端的にあらわす流行語で,華美な服装で飾りたてた伊達(だて)な風体や,勝手気ままな遠慮のないふるまいなどをいう。語源はサンスクリット語の vajra(金剛・金剛石)の音訳バザラにあるとされる。近江(おうみ)の大名佐々木高氏(道誉)とその一族のような熱狂的〈ばさら〉愛好の武家も続出した。
百科事典マイペディア電子辞書版


■和田家の正体
小生は拙稿「武士の時代 10」で、以下のように書いた。

志布志の戦争で北朝に敗れた南朝が下甑島に逃れ、同島の和田家に囲われつつ、南朝系の血筋を細々と繋いできたのであり、その子孫が後の大室寅之祐ということになる。


南朝の繋累を囲ったという、下甑島の和田家の正体は何者かと、読者は訝ったことだろう。実は、この和田家は楠木正成の直系なのである。このあたりは、拙稿「青州で思ふ(6)」でも紹介した、飯山さんによる掲示板「放知技」への投稿の一部を参照されたい。

下甑島の和田家は、楠木正成の弟、正季系(近畿系)ではなく、楠木正成(大楠公)の嫡男、正行(まさつら、小楠公)の直系を自認しているようだが、伝説!というのが通説。
しかし、下甑島(しもこしきじま)の和田家は、楠家の直系の子孫であることを(一切公言せずも)自認しており、今に至るも徹底して後醍醐天皇側。
300年近い北朝の天下では、南朝は逆賊。その逆賊の謗り(そしり)を耐えぬいてきた! という強い「誇り」を持っている。
600年前、北朝側が南朝側を「根絶やし」にすべく、南九州は志布志まで追討してきた「証拠」(石の板碑)を見ると、下甑島の和田家こそが楠木家の本流・直系であるとの「自認」が正しい! と、私は思っています。


飯山さんも仰せのように、下甑島の和田家は楠木正成の直系と思って差し支えないだろう。こうした視座で改めて眺めると、下甑島に逃れた南朝系の子孫から、後の明治天皇(大室寅之祐)までの流れ、「薩摩ワンワールド(英国)」と「島津家」の存在、それらが複雑に絡んで現皇室にまで繋がっている裏史は、飯山史観でしか解くことはできないはずだ。

斯様に、下甑島には実に多くの謎が秘められているだけでなく、日本史の秘密を解くキーが隠されている可能性すらある。実現には至らなかったものの、一時は志布志市で勉強会をやろうという話も出たほどで、その辺りの事情は以下のPDFファイルに詳しい。

1月18日(水)、下甑島(しもこしきじま)で楠木正成家の墓守りを代々務める和田家の総代が、グルンパ運動家の飯山一郎氏に電話、「元日本郵便副会長の稲村公望先生をお呼びし、古代から中世にかけての日本の歴史について、語り合う勉強会を今春あたり志布志市で開催して欲しい」という内容だったという(具体的な日時および場所は未定)。さらに総代は電話口で、「菊の御紋を家紋とする和田家の秘話を勉強会で披露する。それにより、南北朝の争いの謎、天皇家の金塊の謎等も全て明らかにする」と飯山氏に語った…
http://www.nextftp.com/tamailab/etc/study session in 2017.pdf


蛇足ながら、上掲のPDFファイルの最終行には、実に興味深いリンクが三本張られているので、この機会にアクセスしていただければと思う。

■楠木正成と世阿弥
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楠木正成と観阿弥・世阿弥は血縁関係にあったと、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.210~211)で述べている。

伊賀の上野に上島家と名乗る旧家があるんです。その上島家に河内国の玉櫛荘に楠木入道正遠の女が嫁に行っている。これで想像がつくように表向きは両家とも地頭の下司職ぐらいの家柄同士というところ。裏へ廻れば堂々たる悪党です。この正遠がどうやら正成の父親に当たるようです。

・・・中略・・・

この女(正成妹)が上島家に嫁いで清次という子を産んでいる。この清次が後の観阿弥すなわち観世流祖になった。だから観阿弥は楠木正成の甥です。この観阿弥の子こそ能の大成者となった世阿弥であります。


このあたりについては、最近ではネットでも知られつつあるようで、一例として上掲の家系図を載せた「観阿弥・世阿弥は楠木正成の血族」がある。

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そーみなさん、いつも投稿ありがとうございます。

太平記は黒須氏か今和尚のいずれかを読めば十分かと思います。和尚の東光太平記は確か全六巻でした。

和尚に纏わるエビソートには色々とありますが、一昨日お会いした栗原茂氏との語らいの中で、和尚は歌舞伎役者のパトロンの末裔ということを初めて知りました。そこから話が発展して、世阿弥のパトロンであった佐々木道誉にまで話が及んでいます。黒須紀一郎氏の『婆娑羅 太平記』にも、佐々木道誉が準主役の形で活躍しますのでご期待ください。

世阿弥と云えば、恥ずかしながら『風姿花伝』を未だ一度も目を通したことがないことに、今気が付きました。読みたいけど、当面は読む時間がなさそうだな…。でも、子ども達には是非に読んで欲しいので、源氏物語の現代語訳を最近出した林望氏の『風姿花伝』を手に入れ、読ませようと思います。世阿弥の『風姿花伝』は、日本の誇る最高の芸術の書であると、大勢の識者から直接間接聞き及んでいます。

投稿: サムライ | 2010年4月 8日 (木) 午前 08時07分

『真贋大江山系霊媒衆』


次回は、足利尊氏について言及する予定である。

【追記 1】黒須紀一郎
旧ブログで取り上げた黒須紀の作品。

『覇王不比等』
『役小角』


現ブログで取り上げた黒須紀一郎の作品。

『天保蘇民伝』
『真言立川流』


【追記 2】皇居前広場の正成銅像
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過日、ある読者から以下のような質問が拙ブログに寄せられた。

皇居の一角の公園に皇居を向いた楠正成公の銅像が、建てられたのも誰かが意図しての事なのでしょうか?


それに対して、小生は以下のように回答している。

当時(現在も)は北朝と信じられていた皇室の公園に、何故に南朝の楠木正成の銅像が建立されたのか? このあたりは明治政府の富国強兵策と深く関与してきます。つまり、当時の政府が狙っていた民意の高揚(統一)です。


ところで、上掲の写真は皇居前広場にある楠木正成像だが、如何にも楠木正成は立派な武将という印象を受けるのではないだろうか。ところが、実際の正成はそうではなかったようだ。そのあたりは、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.208)で以下のように語っている。

宮城前広場に建っている高村光雲作の正成さんは大将軍の姿で本物とは大違い。ありゃ足利尊氏将軍にさも似たりで。本物の正成さんは大して風采もあがらねえ、河内のおッさんやね。


【追記 3】今東光×奈良本辰也対談
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今東光と奈良本辰也による、実に興味深い対談がネットで公開されているので、歴史に関心のある読者に一読をお勧めしたい。

今東光×奈良本辰也対談 1
今東光×奈良本辰也対談 2
今東光×奈良本辰也対談 3
今東光×奈良本辰也対談 4
今東光×奈良本辰也対談 5
今東光×奈良本辰也対談 6
今東光×奈良本辰也対談 7


【追記 4】文観
落合さんの『南北朝こそ日本の機密』で個人的に収穫があったのは、文観の人物について深く知ることができたことだ。そのあたりは、拙稿「真言立川流と今東光 2」に書いている。

文観については、後醍醐天皇と楠木正成の橋渡しを行った人物、程度にしか小生は思っていなかったのだが、同書のp.94にある以下の記述に久方ぶりに接し、明治維新時の薩長に都合の悪い存在だったことを思い出した次第である。

文観の実跡を調べると明治維新後の政界を支配した薩長政体にとって、極めて都合の悪いことが出てくる恐れがあったことです。
『南北朝こそ日本の機密』p.94


こうなると、「大塔宮の偽装弑逆を企画したのはおそらく文観」(p.187)と、断言する落合さんの言葉が不気味に響いてくるから不思議だ。

武士の時代 10
昔から天台宗の古僧による後醍醐天皇への評価は暗愚、一方で護良(もりなが)親王への評価は英明と、はっきりと分かれていたことは、拙稿「武士の時代 08」に既述した。

落合莞爾さんも、小学生四年時の担当だった吉田耕先生、さらには中学生の時に後南朝研究に没頭していた叔父から、天台宗と同様の後醍醐天皇評と護良親王評を聞いたと、『南北朝こそ日本の機密』の第十四章「南北朝偽史を禊祓(みそぎはら)う重要性」、「後南朝への感傷」節で述べている。つまり、後醍醐天皇が暗愚と思われているのは、「後醍醐天皇の建武中興の失敗の最大の原因は、護良親王と楠木正成の二人を喪ったからだ」と、今和尚が語っているように(『毒舌日本史』p.205)、やはり落合さんの担任や叔父も同様なことを語っていたことが、落合さんの『南北朝こそ日本の機密』に書かれており、小生も天台宗の古僧、そして落合さんの担任や叔父に同意するものである。

その落合さん、担任や叔父から耳にした護良親王評から、さらに一歩踏み込んだ護良親王についての考察を、『南北朝こそ日本の機密』第Ⅲ部『秘策「大塔政略」』の第八章「南北朝解消の秘策」で展開している。つまり、捕えられて鎌倉送りとなった護良親王、脱牢に成功して生き長らえ、大塔政略を実現したと落合さんは書いているのだ。

なを、『南北朝こそ日本の機密』の目次はアマゾンには載っていないが、幸い以下のサイトで同書の目次を詳細に載せている。そして、目次を眺めるだけでも同書の大凡の内容が掴めるので、実に有り難いサイトだと小生は思う。
『南北朝こそ日本の機密』目次

さて、「やっぱり護良親王は生きていた!」と、落合さんは長年主張しているわけだが、果たして真偽のほどはどうなのか・・・。

実は『南北朝こそ日本の機密』が出版される前、小生は落合さんから同書の草稿を電子ファイルで送っていただいたことがあり、中丸祐昌氏の著した『南北朝異聞』について落合さんが以下のように評していたことから、小生も護良親王生存説を信じるようになり、そのあたりは拙稿「南北朝異聞」にも述べた。以下、左稿でも引用した落合さんの『南北朝異聞』評である。

その内容(『南北朝異聞』)を十分信ずべきものと判断する私は、その著の存在をここに紹介し、以て大塔宮生存説の一証とさせていただきます
『南北朝こそ日本の機密』p.184

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上掲の拙稿を公開した当時は尤もな話だと、小生も護良親王(大塔宮)生存説を信じたものの、その後において調査を重ねていくうち、幾つか腑に落ちない点が目に付くようになった。特に、飯山さんの〝下甑島説〟が決定打となり、小生は拙稿「薩摩ワンワールドと皇室」で以下のように書いた。

さて、薩摩ワンワールドと皇室について、最近の飯山さんの投稿は飛び飛びなので、独断と偏見を恐れず以下のように纏めてみた。

(1)第一ステージ:九州を舞台に、大化の改新に先行して蘇我氏(仏教派)と物部氏(神教派)が戦った。
(2)第二ステージ:同じく九州を舞台に南北朝の時代、南朝と北朝が志布志で激しく戦い、南朝が敗北、南朝の生き残りは下甑島(しもこしきじま)へ逃亡した。
(3)第三ステージ:江戸中期、下甑島に逃亡していた南朝側の子孫が、薩摩に聳える金峯山の麓に移住、準備を整えた上で長州の熊毛郡・田布施へと向かった。


ここで(2)の南北朝時代に焦点を当てるとすれば、学校で習った南北朝説から、『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房)の落合説に至るまで、さまざまな南北朝説に亀さんは接してきた。『南北朝こそ日本の機密』は落合秘史の核であり、個人的に落合秘史の中でも一番好きな作品なのだが、それでも、『南北朝こそ日本の機密』に書かれている内容が、南北朝秘史の決定打とは未だに思えないのだ。

ところがここに来て、「南朝と北朝が志布志で激しく戦った」という、「え?」と思うような新説を飯山さんが発表した。なかなか面白い説なので、今後は時間をかけて吟味してみたいと思う。ともあれ、南北朝を含めた「日本の機密」の発掘という、亀さんの残りの人生の暇潰しのテーマを、お陰様で見つけることができたようだ。


一方、明治天皇の正体は大室寅之祐であるとする点で、落合さんも飯山さんも一致しており、小生も20年以上前に鹿島曻の『裏切られた三人の天皇』に接し、「明治天皇=大室寅之祐」説として、旧ブログに載せたこともあることから、お二方同様に明治天皇=大室寅之祐説を信じている。

明治天皇(1)
明治天皇(2)

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ともあれ、飯山史観に従えば、大室寅之祐のルーツは同じ南朝系は南朝系でも、志布志の戦争で北朝に敗れた南朝が下甑島に逃れ、同島の和田家に囲われつつ、南朝系の血筋を細々と繋いできたのであり、その子孫が後の大室寅之祐ということになる。小生は飯山史観を基底においている(信じている)こともあって、さる筋(栗原茂さん)や落合莞爾さんの説く、大室寅之祐のルーツは護良親王とする説よりも、和田家に囲われていた南朝系の子孫こそが大室寅之祐だとする飯山説の方を信じる。

その一方で、冒頭で紹介した『南北朝こそ日本の機密』の目次を、改めてじっくり眺めるに、第Ⅳ部「伏見殿の真相」の真偽を見極める意味で、一度は時間を掛けて伏見宮について検証する必要があると感じているのも確かだ。何故なら、堀川政略を落合さんに伝えたさる筋(栗原茂さん)から、実に多様な視座から伏見宮について直接聞き及んでおり、伏見宮について一度整理する必要性を感じているからだ。

次稿では、今東光和尚や落合莞爾さんの楠木正成観を取り上げたい。

【追記】
『南北朝こそ日本の機密』のカスタマーデビューを、小生がアマゾンに投稿したことは、拙稿「武士の時代 09」にも書いたが、実は天童竺丸さんや藤井厳喜氏もカスタマーデビューを書いているので、以下に紹介しておこう。

[カスタマーデビュー 1]
國體の謎に迫って神国日本を顕彰し、読む者の常識を打ち砕く驚愕の書
世界戦略情報みち編集人天童竺丸


[カスタマーデビュー 2]
解明された南北朝史の本質:現皇室は南朝正統の嫡流
藤井厳喜


武士の時代 09
今回より南北朝時代について筆を進めていく。最初に、南北朝という時代のイメージを大雑把に掴んでいただく意味で、百科事典「マイペディア」(電子版)の解説を引用しておこう。

南北朝時代
1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。以前は政治史的時代区分として南朝と北朝とに分裂した1336年から1392年の両朝合一までをいった。建武新政は武士階級を失望させ,1335年足利尊氏は京都を占拠,持明院統の豊仁(ゆたひと)親王(光明(こうみょう)天皇)を擁立。後醍醐天皇は吉野に移った。1336年から京都の北朝は建武の年号を襲用,吉野の南朝は延元と改元,以後両朝は別々の年号を設けた。現実には南朝と足利政権との対立であった。1337年新田義貞ら北陸勢力の壊滅,1343年北畠親房指揮下の常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北。その後は幕府内の足利直義と高師直(こうのもろなお)との勢力争いを発端として,20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。足利義満が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝の後亀山天皇が京都に帰還して足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい,内乱のなかで山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し,荘園制を基盤とする貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。


室町時代という時代区分の初期に、南北朝時代が組み込まれているのがお分かりいただけるだろう。

実は、落合莞爾史観と飯山一郎史観の深奥がよく分かる時代こそが、南北朝時代なのだ。だから、1333年に室町時代、すなわち南北朝時代に突入してから60年後の1392年、時の三代将軍であった足利義満が、南北朝動乱に終止符を打ったあたりまでを、定説に従って南北朝時代とし、これを数回に分けて述べさせていただきたいと思う。

■落合莞爾の南北朝観
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小生は前稿「武士の時代 08」で、「次稿より落合史観を縦糸に、飯山史観を横糸にして、南北朝という一枚の織物を完成させていく予定」と書いた。何故なら、落合莞爾さんは『南北朝こそ日本の機密』を著しているだけでなく、後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)の血筋を引いてるからだ(同書p.274)。

ちなみに、小生はアマゾンに「サムライ」という旧ハンドル名で、「落合莞爾氏の熱い思い」というタイトルの書評を書いたことがある。

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加えて、数年前に小生は和歌山市に居を構える落合邸「狸庵」で草鞋を脱ぎ、数日間ほど泊めて戴いたこともある。その時は栗原茂さん、天童竺丸さんも前後して狸庵で草鞋を脱いでいたのだが、彼らから耳にした南北朝に関する秘話は膨大な量になった。中には、公の場であるブログ記事に出来ない内容の秘話も実に多いのだが、これから数回にわたり支障の無い範囲で、そうした秘話もさり気なく織り交ぜて書いていきたいと思っている。

■飯山一郎の南北朝観
一方、飯山一郎さんの南北朝観につい述べるにあたり、最初に取り上げなければならないのが肆部合の石碑だ。

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志布志に南北朝の秘密が隠されていた!

読者は上掲の記事「志布志に南北朝の秘密が隠されていた!」で、以下の飯山さんの記述に目が釘つげになったことだろう。

私は、じつは、この2ヶ月間、この『肆部合の石碑』という文章にハマりにハマって、パラノイアみたいになってしまい、もう何百回読んだことだろう?


〝何百回読んだ〟とは、如何にも飯山さんらしい物の言いだ(笑)。このように、白髪三千丈的な物の言いは、山東省青洲の飯山邸でも幾度か耳にしているし、てげてげHPや放知技に目を通したことのある読者なら先刻承知のはずだ。

それはともかく、『肆部合の石碑』についてだが、実は小生も二年前にサンフラワー号で志布志市を訪問、同石碑を目の当たりにしている。同石碑の前で、吉野を拠点としていた南朝が命からがら九州へ逃れたものの、足利尊氏の下知を受けた北朝が志布志まで押し寄せ、再び戦火を交えた頃にタイムスリップしたような感覚に陥ったものだ。

なを、その後の経過については飯山史観の独占場となる(他の南北朝に関する史料や論文には一切出てこない)。

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長目の浜(上甑島)

ここで、飯山さんの南北朝観を敷衍するとすれば、滅亡の瀬戸際まで追い詰められた南朝の繋累は、東シナ海の下甑島に逃れ、同島で息を潜めつつ子孫を繋いできた。その南朝の繋累を匿まっていたのが和田家であり、今でも皇室とは深い繋がりがある。繋がりがあると云うよりは、現皇室の〝金庫番〟を仰せつかっていると書いた方が正しいだろう。

ともあれ、今の時代においても鹿児島という地で見え隠れする英国の影、島津家の正体、西郷隆盛大久保利通らの行動等々、実に鹿児島は歴史の秘話で満ちた地なのだが、このあたりは小生が飯山さんから聞き及んだ範囲で、折に触れて記事にしていく所存である。そのため、次稿以降は南北朝という時代を中心に、ブログ記事のテーマが彼方此方に飛ぶかもしれないが、そのあたりは予めご承知おき願いたい。