前稿「武士の時代 07」でお約束したように、本稿より本格的に南北朝時代について筆を進めたい。
最初に、武士の時代という中にあって、南北朝時代はどのような時代だったのか、ここで再確認しておこう。
 日本史年表
上掲図は「日本紙年表」に掲載されている、「日本史年代早見表」だが、大雑把すぎるので、ここはウィキペディアの年表も、一部抜粋の形で以下に掲示しておこう。御参考までに、飯山史観の「武士の時代」シリーズの範囲が一目で分かるよう、700年間に及んだ武士の時代を赤枠で囲んでおいた。

ここで、ウィキペディアが鎌倉時代の末期を、「建武の新政」としているのに注目していただきたい。そして、続く「南北朝時代」は室町時代に入れているのが分かる。
では、建武の新政とは、どのような時代だったのか? 最初に、マイペディア(電子版)の解説を見てみよう。
建武新政 1333年―1336年の後醍醐天皇による公家一統政治。正中の変・元弘の乱を経て,護良(もりよし)親王や楠木正成らの活躍で鎌倉幕府を倒し,天皇独裁の官僚国家の樹立を企図,摂政・関白の廃止,雑訴決断所以下の部局の新設,国司・守護併設などの施策を行った。しかし古代の延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)を理想とする政策は武士階級の反発を招き,後醍醐天皇の信任を得ていた新田義貞も足利尊氏の武力には力及ばず短時日のうちについえた。
要するに、後醍醐天皇による建武の新政は三日天下ならぬ、三年天下で終わったということだ。なを、マイペディアは「護良(もりよし)親王」と記しているが、落合莞爾さんによれば、「護良(もりなが)親王」という読みが正しいということで(「護良親王と淵辺義博」参照)、小生も落合さんの説に従うことにする。御参考までに、後述する今東光著『毒舌日本史』も正しく、「もりなが」とルビを振っていたが(p.201)、流石は和尚だと思った。
さて、上掲のマイペディアに登場する人物に、南北朝の主要人物が名を連ねているのが分かる。後醍醐天皇を筆頭に、子の護良親王、楠木正成、新田義貞、足利尊氏らである。また、その他に後醍醐天皇と楠木正成の間を仲介した文観も重要人物の一人だ。文観については、「真言立川流と今東光 2」と題する拙稿で既述済みである。
ともあれ、次稿より落合史観を縦糸に、飯山史観を横糸にして、南北朝という一枚の織物を完成させていく予定だが、どのような織物が完成するのか、今から楽しみだ。

さて、過去に多くの歴史学者が、建武新政についての書籍や論文を著してきた。そして、歴史学者によって建武新政の見方・考え方は様々だろうが、「公家一統を計った後醍醐帝による、三年間という短期間の統治」、といった表現で建武新政の時代を要約できよう。だから、建武新政に関する諸説については、直接ネット等で確認していただくとして、本稿ではそうした〝通史〟からは窺い知ることのできない、天台宗から見た後醍醐帝観について、以下に簡単に紹介しておきたい。その場合、やはり今東光和尚の著した『毒舌日本史』(文春文庫)の一小節、「阿呆らしい建武中興」(p.198~223)が最も優れていると思うので、同節を叩き台として引用させていただく。
なを、久しぶりに同小節読み返してみたところ、他の小節と比べて数多くの赤線や青線を引いた跡があった。多分、それだけ立ち止まったり、考えさせられたりした、行の多かった小節だったのだろう。よって、改めて読み直した上で、個人的に引いた青線や赤線の行の中から、幾つかの行を引用しつつ、引用毎に小生の【コメント】を添えてみた。
天台宗では古来、学匠は後醍醐帝を決して英明な天子とは言わないんだそうです。寧ろ、暗愚な天子として嫌っています。 『毒舌日本史』p.199 【コメント】次稿から開始する南北朝時代で詳述するが、戦前の大日本帝国軍によるスローガン、「忠君愛国」を具現化している人物として、後醍醐天皇の下臣であった楠木正成がおり、その正成は戦中にあって軍神として崇められていた。だから、楠木正成は無論のこと、後醍醐天皇についても悪く言うこと、戦中は絶対にタブーであったはずだが、そうした時代にあっても、天台宗では自分たちの後醍醐天皇観を曲げなかったと云う。だから、外部に漏れた場合、即不敬罪の廉で逮捕され、重罪に処せられていたことだろう。
僕も仏縁あって天台宗の僧侶となった限り、このような一大事(後醍醐帝は暗愚説)は後世の史家のために書き残す義務を痛感したので仏天の冥罰を怖れることなく書いたのです。 『毒舌日本史』p.200 【コメント】和尚が天台宗の大阿闍梨から、後醍醐帝=暗愚について口伝されたのは戦後の話であり、不敬罪といったことを怖れる必要もなかった時代のことである。それでも、門外不出だったはずの後醍醐帝=暗愚説について、『毒舌日本史』に書き残した和尚の男気、小生は高く評価したい。
如何に大塔宮(護良親王)が優れていたかという例から見ますと、御在山の時から殿ノ法印、光林坊玄尊、赤松則祐などという候人が居たことでもわかりますな。 『毒舌日本史』p.202 【コメント】護良親王が如何に優れた親王であったか、ということを物語る和尚の話である。ちなみに、天台宗で後醍醐帝は暗愚であると口伝で伝えられてきたのは、護良親王と楠木正成を帝の過失で、死なせてしまったことによる。また、これこそが、後醍醐帝が足利尊氏に敗れた最大の要因であった。
ただ、護良親王の周囲にいた僧侶らには、宮廷という場における複雑怪奇なやりとり、裏切りや陰謀が日常茶飯事だった政治の世界は、彼らにとって想像を絶する世界だっただろうから、後醍醐帝を暗愚と思ってしまったのも無理はない。
その他、小節「あほらしい建武新政」で今東光和尚は、楠木正成と足利尊氏についても多くを語っているのだが、長くなりそうなので次稿以降、この二人の人物を取り上げた時、和尚の言葉を引用したいと思う。
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