前稿「貴族の時代 07」は貴族シリーズの最終回だったわけだが、同シリーズの最後に小生は以下のように書いた。
次稿では武士の誕生に筆を進める予定だか、堺のおっさんに紹介してもらった、『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎)などを参考資料にする予定だ。以下は、堺のおっさんの放知技への投稿である。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/991/

堺のおっさんが紹介の『武士の起源を解きあかす』、この本は武士の起源について追究した本であり、アマゾンは同書の「内容(「BOOK」データベースより)」で、以下のように記している。
武士はいつ、どこで、生まれたのか?七世紀ものあいだ日本を統治してきた彼らのはじまりについては、実ははっきりとした答えが出ていない。かつて教科書で教えられた「地方の富裕な農民が成長し、土地を自衛するために一族で武装し、武士となった」という説はでたらめで、都の武官から生まれたという説は確証がなく、学界は「諸説ある」とお茶を濁す。この日本史における長年の疑問を解消するために、古代と中世をまたにかけ、血統・都鄙・思想に着目し、武士の誕生の秘密を明らかにする。
冒頭にある、「七世紀ものあいだ日本を統治してきた彼らのはじまりについては、実ははっきりとした答えが出ていない」という言葉に注目していただきたい。このように、歴史学者の間でも武士の起源については、意見がまちまちというのが現状で、今後の研究に期待したいところだ。
次に、武士とは何者だったのかと思索を巡らせていたところ、マイペディア(電子版)が「武家」という項目で、以下のように武士について解説していたのに目が留まった。
本来的には武士の家筋をさし,武門と同義。一般的には公家に対する言葉で,鎌倉幕府成立後の幕府・将軍家・御家人を含めた武士一般の総称。武士は平安中期,地方豪族や国司の武装化によって勃興(ぼっこう)し,地方の有力農民層を組織して各地に武士団を形成した。保元・平治の乱で中央政界に進出,鎌倉幕府を樹立してより明治維新に至るまで,政権をその手中に掌握した。
マイペディアの解説も分からないでもないが、さらに時代を遡り、シンプルに武士について定義するとすれば、「敵が襲来してきた時、一族(集団)を護る役目を負った一団」とでも定義できよう。尤も、縄文最盛期は隣同士の争いは少なかったものの、やがて古墳時代に突入するあたりから、大量に渡来人がユーラシア大陸から日本列島に押し寄せ、列島各地に豪族が誕生するに伴い、豪族同士が激しく争うようになったことに思いを致すべきで、このあたりから武士という専門職の誕生に至ったのではと、小生は漠然と考えている。そうした代表的な軍団の一つが、堺のおっさんが下掲の投稿で言及していた隼人族で、この隼人族が武士の起源であった可能性が高い。
ともあれ、武士の起源についての研究は歴史学者に任せるとして、古墳時代以降の日本列島の権力構造を考えるにあたり、以下の堺のおっさんの言葉は重要だ。
日本における、国体と政体の二重構造の起源のヒントも。
政体が国体から派生し、武士に昇華していった過程と読めば納得も行きます。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17178824/724/
これは、『武士の起源を解きあかす』についての堺のおっさんの読後感だが、国体と政体という二重構造から武士が誕生したという、堺のおっさんの指摘は重い。
では、何故に日本列島に国体と政体の二重構造が誕生したのか? このあたりについては、堺のおっさんが上掲の投稿で「亀卜と易経の違い」について言及しているのだが、「国体と政体の二重構造の起源」は亀卜、すなわちツランだ。つまり、亀卜の源流こそがツランなのであり、日本列島に侵入あるいは逃避してきた諸豪族は、亀卜を基底に置いたツランを出自とする、豪族が中心だったことを暗示している。そして、中国本土の場合は亀卜国家の殷王朝から、易経国家の周王朝へと変遷していった。すなわち、堺のおっさんの言葉で謂うところの西洋型の覇権思想が、周王朝以降の中国における思想的な根幹となったわけであり、これが拙稿「米中衝突と香港」の「■大東亜戦争時、白人側に立った中国」という流れに結びつくのである。
中国は大東亜戦争当時(そして今でも)、白人側に付いた国だったからだ。だから、現在では親日の振りをしているが、その腹は反日であることは今も昔も変わりはない。その点、中国の属国である韓国も同様だ。
なを、亀卜国家(殷王朝)のその後だが、そのあたりについては拙稿「天武天皇 02」に掲示した以下の流れを再確認していただきたい。
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→日本
無論、上掲の流れから外れて、中国各地の山奥に逃避した亀卜思想を主体とする民族も多かったのであり、その一例が拙稿「天頂に生きる」で紹介した彝族だ。
他にも堺のおっさんは、上掲の投稿で実に重要なことを書いている。
そうなると…
中国の文明は本質的には西欧のそれと同じものと言うことになります。
覇権を求める思考の根源です。
けっして東洋的ではない。
そうすると、世界の覇権を800年周期で
東洋と西洋で交代してきたという歴史観にも修正が必要になります。
つまり、現在の米中覇権争いは
東洋と西洋の文明的衝突なんかではなく、
アジアの西欧的国家とアメリカと言う西洋文明の最終形態の間で起こっている
極めて西洋的な覇権争いであるということです。
したがって、どちらに転ぼうが文明的な転換は起こらない。
では、真の「文明的な転換」が起こる可能性があるのかという点になると、その可能性を探るに亀卜の継承国である日本に求める他はない。そのあたりは、世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長、あるいは栗本慎一郎も述べている他、小生も武田邦彦氏の動画を引用しつつ、拙稿「貴族の時代 04」で人類解放という名の文明の大転換について述べた。
 「なぜいま、世界史なのか?」
ともあれ、日本列島にツランをルーツとする権力の二重構造が誕生、その後は藤原道長の時代に貴族時代の最盛期を迎えたものの、やがて武士の時代に移行、それが明治維新まで続いたということになる。
ここで、改めて飯山史観の外圧説を振り返り、最新の拙稿「退陣後の政局」で示した外圧説の一部を再転載しておこう。
第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.
第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.
今までの飯山史観シリーズでは、第4回目の百済の侵入までを述べてきたわけだが、次はいよいよ日本列島で起きた第5回目の外圧、すなわちアテルイ族について筆を進めていこう。
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