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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
天武天皇 16
前稿「天武天皇 15」で、乙巳の変について言及すると小生は書いた。何故か?

最初に、小生の所有する『マイペディア』という電子百科事典は、乙巳の変について以下のように解説している。

乙巳の変
645年(大化1年)中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが,蘇我大臣(おおおみ)家を滅ぼして新政権を樹立した政変。645年が干支(かんし)の〈乙巳〉にあたるため,その名がある。なお政変から新政権樹立に至るまでの一連の政治変革を〈大化改新〉と呼ぶが,この呼称は近代に入ってのものである。


ここで、思い出していただきたいのは中大兄皇子、すなわち後の天智天皇とされる人物で、小生は前稿で以下のように書いている。

聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかった…


小生が天智天皇は実存の人物ではなかったかと、何故に思っているのという点については、前稿に書いたので確認していただくとして、多分、乙巳の変について最も核心に迫った日本の識者は、天童竺丸さんと安西正鷹さんだと小生は思っている。その意味で、天童さんがウェブで公開している記事の紹介と同時に、小生が独断と偏見で各々の記事にコメントを追記してみた。

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ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 1

蘇我入鹿を惨殺した宮廷の現場にいたが事情を知らされていなかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が自家に逃げ帰り語った「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉だ。「鞍作臣」とは入鹿だが、「韓人」とは誰か。それは明らかに、入鹿殺害の張本人の中大兄皇子である。では、なぜ彼は「韓人」と呼ばれたのか。


上掲の文章からも明らかなように、天童編集長も中大兄皇子(天智天皇)を、実存の人物と見ていることが分かる。このあたり、天武天皇を架空の人物とする故飯山(一郎)さん、そして小生の見解と異なる点である。それはともかく、天智天皇のモデルはいたのであり、飯山さんが晩年、熱心に取り組んでいた『天皇系図の分析について』の場合、p.913の第22章の第1節「平安・日本書紀での天智天皇とは「百済王子と新羅王子」との合成人間」と述べている。小生は違うように思うのだが、そのあたりについては飯山史観の筆を進めていく間に調査し、判明したことを書いていくこととしたい。

ところで、問題は「韓人」だ。何故に、中大兄皇子は「韓人」と日本書紀に書かれているのか…。問題の「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」と書かれている行は、皇極天皇の巻(日本書紀)なのだが、この「韓人」の解釈を巡ってネット界隈では今でも、百家争鳴の呈を成していることもあり、最終的な結論は暫く先に延ばすことにしたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2

書紀割注にある、「韓政」(からひとのまつりごと)と呼ぶにもっとも相応しいのは、中大兄皇子すなわち天智天皇による改新政治であった。国を失った百済を救済するために大軍を催して遠征し白村江の戦いで大敗を喫したのである。日本書紀の筆は蘇我政権にこと寄せて、中大兄=天智天皇の弊政に筆誅を加えたのだと考えられる。


その根拠として、天童編集長は渡辺豊和氏の著した、『扶桑国王蘇我一族の真実』を引用している。

蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)


渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 3

いわば自らの出自ともいうべき北方ツラン的な要素を歴史から消し去った転換点こそ、大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期にある、と私は思う。そして、その最大の問題点が、蘇我氏の痕跡をわが歴史から抹殺したことにあることを教えてくれたのが、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』であった。

 渡辺豊和は蘇我氏とはトルコ系騎馬民族の「高車(こうしや)」ではなかろうかとの説を提案している。


「大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期」と天童さんは書いているが、再び飯山史観に基づけば、これも架空の「混乱期」と言える。そのあたりは、やはり『天皇系図の分析について』も第6章「「大化の改新」は架空の物語」(p.211)、あるいは第8章「「壬申の乱は架空の物語」で詳述している。

それはともかく、ここで蘇我氏が登場してきた。渡辺豊和氏は、「蘇我氏とはトルコ系騎馬民族」としているようだ。一方、『天皇系図の分析について』の藤井輝久氏は、第18章「蘇我氏と物部氏の対立の真相」で、「蘇我氏=金官国」(p.772)と明記している。ここで言う金官国とは、藤井氏にによれば九州にあった倭国を指していることが分かる(p.51)。このあたり、渡辺史観と藤井史観とでは異なるが、精査が必要と思うので、結論は先送りにさせていただく。今のところ、小生は渡辺史観を支持するものである。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 4

『梁書』に登場する当時の日本にあったとされる国名は、「倭国」「文身国」「大漢国」「扶桑国」の四つである。


天武天皇の御代以前の日本列島は、各地の豪族による群雄割拠の時代が続いていた。そして、『梁書』が四つの国が日本にあったとする記述は実に貴重である。また、東北を拠点としていた扶桑国は、今東光和尚の何の本だったかは忘れたが、東北地方の豪族は良馬を産出していたという記述を思い出すのだし、馬と言えばツランを連想せずにはいられない。その意味で、扶桑国のルーツはツランであろうと、今の小生は思っている。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5

大和朝廷の成立以前のそうした地域勢力をどう捉えるかは、それぞれ見解が分かれる所だろうが、渡辺豊和は『梁書』に拠って、古代の日本には、「倭」「文身国」「大漢国」「扶桑国」と呼ばれる四つの国があったとする説に注目をしている。「倭」とは九州勢力、「文身国」は出雲、「大漢国」は河内(大和も含むか?)、「扶桑国」は計算上は北海道渡島半島付近となるが、東北地方全域に及ぶ勢力であったろうと渡辺は考える。


扶桑国の勢力が、東北地方に及んでいたという渡辺氏に小生は同意する。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6
コメント略。

ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン
コメント略。

ここで改めて思うことは、晩年の飯山さんが熱心に取り組んでいた、藤井氏の『天皇系図の分析について』、小生も飯山さん同様、腰を据えて取り組む、すなわち批判的読書に徹しなければと一瞬思ったものだが、そうすると飯山史観の完成が益々遅れてしまう。よって、飯山史観、天童史観、鹿島史観、栗本史観について、小生はある程度なら把握しているので、鹿島史観をベースにした藤井氏の『天皇系図の分析について』は参考程度に留め、飯山史観の完成に向けて筆を進めていきたいと思う。

次稿では藤原氏を取り上げる予定である。

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天武天皇 15
天武天皇については、過去14回にわたって執筆してきた。よって、今回からは天武朝が誕生した経緯を振り返ってみたいと思うが、その前に、改めて天武天皇についての御浚いをしておきたい。

最初に、過去の14本の天武天皇に関する記事で、小生が伝えたかった天武天皇像は以下のとおりである。

1.日本史の始まり天武朝
これは、天武天皇以前の日本列島には「歴史」というものが無かった、という意味になる。換言すれば、真の日本の歴史の始まり、それは天武天皇の御代からということだ。

7世紀までの日本列島には、歴史も言語もなかったのです!
日本の歴史=『日本書紀』をつくったように、日本語をつくったのも百済なのです。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/2/


2.済州島人だった天武天皇
当時の済州島は百済の領地の一つで、そこに御座されていたのが百済王子の一人、天武天皇であった。その後、天武天皇が済州島から命からがら九州へ逃れたのも、大帝国唐に命を狙われていたためだ。なを、天武天皇が百済人であったことは、拙稿「天武天皇 02」~「天武天皇 11」で既述した。

詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。
(飯山一郎訳)天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に帰ってよろしい)と言った.
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!


3.『日本書紀』編纂の狙い
このあたりについては、以下の飯山さんの投稿を参照のこと。

「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


ここに、百済の貴人であった天武天皇が済州島から九州へ逃れた背景が示されている。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14758876/751/

赤色の下線に注目していただきたい。何故に「讖緯説」と「天智」が〝秘鍵〟なのか…。そのあたりを十分に理解しておかないことには、天武天皇が日本書紀の編纂を命じた本当の目的も分からなくなる。その意味で、以下の飯山さんの遺稿、日本書紀に隠された「讖緯説」を正しく理解する上で必読と云えよう。
日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題

もう一つの秘鍵「天智」だが、以下の飯山さんの記述に注目していただきたい。

「天智天皇」も「壬申の乱」も,百済や新羅や伽耶の歴史書のコピーだった!

ま,この「説」が↑↑正解でしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16057898/936/


どういうことか…?

これは、聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかったということだ。

壬申の乱は,日本列島内での権力闘争ではありません.←これが「飯山史観」です.
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16216140/370/


では、天智天皇が架空の人物だったとすると、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしたというクーデーター、すなわち、乙巳の変とは何だったのかということになる。よって、次稿では乙巳の変について少し言及してみたい。

天武天皇 14
本日は3月11日、生涯忘れることのできぬ、あの東北大震災が発生した日だ。よって、毎年行っていることだが、本年も午後2時46分に一分間の黙祷を捧げたい。

さて、「飯山史観」という新カテゴリを設けたのは2018年9月19日、ほぼ一年半前となる。その間、60本ちょうどの飯山史観カテゴリの記事を書いてきたことになるが、この飯山史観の完成までに、今のところ計150本ほどの記事数になる見込みであり、あと90本ほどの記事を書き終えた段階で、漸く飯山史観の完結ということになりそうだ。だから、現時点ではマラソンの折り返し点にすら達していないことになる。かつ、ここ暫くは仕事等で多忙だったこともあり、記事をアップするペースも大分落ちてきた…。これではいけないということで、そろそろ飯山史観の執筆にエンジンをかけることにした。

そこで、飯山史観シリーズの執筆勘を取り戻す意味で、「天武天皇 01」以降をサーッと読み返してみた。

最初に、「天武天皇 01」を読み返してみて、『扶桑国王蘇我一族の真実』という本からの引用に改めて注目した。何となれば、天武天皇の御代から現在に至るまでの我が国のかたちを俯瞰する上で、改めて吟味する必要がありそうな引用だったからだ。

大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)という“一神教派” が天下を取り、それが壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)という“多神教派”の天下となった。そして公になっていないが三度目の乱が起こって再び藤原氏による体制=“一神教派”の天下に戻り、それが今日に至っても続いている。


著者である渡辺氏の「一神教派」という記述には思わず苦笑したが、それはともかく、この引用を久しぶりに再読しながら、故飯山(一郎)さんの朋友であり、古代史を巡っての好敵手でもあった小川秀之氏が、放知技に投稿した藤原家についての記述を思い出した。

狡猾な人々を多くだした藤原氏ももとはソグド人を祖にもっていたのかもしれない。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/475/


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NHKの番組「アイアンロード」。鉄の発祥の地を現在のトルコにしているが、明らかな間違い。鉄を含む、人類文明発祥の地はシベリアである。

この小川氏の投稿に、実に興味深い記述がある。それは、人の身体的特徴に関する記述で、例えば始皇帝の父親が碧眼だったということから、始皇帝は漢人ではないといった小川氏の推測に小生は同意するものである。そんな折、小生が仕事で多忙を極めていた1月13日、NHKが「アイアンロード ~知られざる古代文明の道~」と題する、実に興味深い歴史番組を放送した。先月末まで続いた仕事が一段落した昨日、漸く同番組を鑑賞したのだが、最も強烈な印象を小生に植え付けたのが「金髪のミイラ」であった。

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神計らいか、今年の1月15日に発行された世界戦略情報誌『みち』の「巻頭言」でも、同番組を取り上げていた。そして、巻頭言を著した天童竺丸さんも2005年にアルタイ山脈で発見されたという、スキタイ王族の金髪のミイラに注目したようだ。ご参考までに、同記事を本稿の最後に転載しておくので、関心のある読者に目を通していただけたら幸いだ。ともあれ、小生が注目したのは同記事の以下の結語である。

大量に鉄を生産して強大な覇権を建てたのがヒッタイト、スキタイ、そして突厥だった。彼らはいずれも、古代ミヌシンスク文明の影響下にあり、いわばツランの末裔たちだった。


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王家の谷に点在するクルガン(古墳)群

ツラン民族を顕わす特徴の一つが遊牧民であることは、今までの飯山史観、その他の拙稿で多くを書いてきたが、同番組で改めて鉄と馬の結びつきに思いを致した次第である。つまり、鉄の発見によって初めて、人類は馬を自由自在に操り、長距離を移動できるようになったという同番組の解説を耳にした時、小生は思わず膝を打った。

続く「天武天皇 02」~「天武天皇 11」では、人類文明発祥の地シベリアに誕生したツランから、百済に至るまでの大雑把な流れを示した。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


百済人であった天武天皇の遠祖も、遡れば最終的にツランに行き着くということに改めて注目していただきたい。

天武天皇 12」では、以降の天武天皇シリーズで取り上げたいテーマを羅列したが、その後の様々な思索の積み重ねにより、追加したり取り止めたりするテーマが多く出た。そのあたりは、以降の拙稿でご確認いただきたい。

最新の天武天皇シリーズ「天武天皇 13」では、天武天皇は済州島の貴人であったことを実証した。そして同稿で日本書紀の正体について書く約束をしていたが、同記事で紹介した飯山さんの日本書紀に関する投稿を改めて再読するに、小生が書きたかったこと、すなわち日本書紀の正体をズバリ書いてあったので、拙稿では割愛させていただく。

また、以下の飯山さんの投稿も参照のこと。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/5/

加えて、拙ブログでも飯山さんの日本書紀について、多角的に紹介している。

天武天皇を巡る裏史
安曇族と宗像族


まだ、(飯山史観を執筆する)エンジンが本調子ではないので、もう暫くは気の向くまま天武天皇シリーズについて筆を進めさせていただこう。

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放浪世代
昨年の晩秋以降、一月末と二月末締め切りの大量の仕事二本が立て続けに入り、大童の数ヶ月だったのだが、それも漸く一段落した今、放知技の読者に約束していた、天武天皇シリーズの続きに筆を進めたいと思うが、その前に掲示板「放知技」で強く印象に残った、堺のおっさんの投稿について一言感想を述べておきたい。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17003576/418/

赤色の下線で示した「テレワーク」という言葉に注目していただきたい。仕事(翻訳)で使用することの多い、日経の「CD-ROM 日経経済・ビジネス用語辞典」(絶版)は、ビジネス関連の翻訳の仕事を数多く手掛ける小生にとって、実に重宝な電子辞書となっている。その日経の電子辞書、「テレワーク」を以下のように定義している。

テレワーク 〔経営用語辞典〕
tele-work

 Eメールやインターネットなどの急速な普及によって,就業者は事業所などの特定の場所で働かなくても済むようになった。事業所とは別の場所(tele),たとえば自宅で十分仕事ができるようになった。このため,通勤困難な高齢者や障害者,家事と仕事の両立に悩む女性などにとってメリットが大きいため,この種の就業者が急激に増加している。しかし,発注企業と就労者との間で報酬金額,支払い時期などの基本的契約条件が示されずにトラブルの原因となることもあるため,労働省がガイドラインの作成に取りかかっている。


ウィキペディアの「インターネットの歴史」によれば、パソコン通信の時代からインターネットの時代に変わりつつあった1990年代半ば以降、「インターネットは文化や商業に大きな影響を与えた」とある。

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アシストの代表取締役会長ビル・トッテン氏の企業HPから拝借

小生がサラリーマン生活から足を洗い、いずれは個人貿易を開業するつもりで、当面の生活費を稼ぐべく、翻訳者としてのフリーランス生活に入ったのが2000年の4月だった。サラリーマンとして長年勤めていた会社を辞めたのが1998年9月30日、翌年の4月から一年間、浜松町にあった翻訳学校に一年間かけて通っている。だから、同校を修了した2000年3月末、独立開業の世界に足を踏み入れる準備が整ったということになる。そして初受注の翻訳の仕事は、忘れもしない同年6月であった。さらに翌年、翻訳者仲間のサークルが中心となって、Forbes誌の記事翻訳を請け負うことになり、当時は翻訳者として駆け出しだった小生も、翻訳チームの一員に加えてもらったのである。
亀さんが手がけた海外誌の記事翻訳

爾来、20年が経過した。その後のインターネットの急激な発展により、今ではノートバソコン一台あれば、地球の裏側でも仕事ができることを、一昨年の2018年の夏、地球の裏側のアルゼンチンの友人宅で身をもって体験した。

映画「男はつらいよ」の寅さんは、トランクを片手に日本各地を飛び回っていたが、小生もノートパソコンを片手に、二年後には世界を再び放浪する計画を立てている。計画と書けば聞こえは良いが、特に行先を決めているわけではなく、雲が東に流れて行けば東に行き、北に流れて行けば北へ向かうという、十代の頃に体験した、三年間に及ぶ世界放浪の旅の再開である。現在は、下の息子が四年制の専門学校に通っているので、彼の学資等を稼ぐため今すぐには放浪の旅を実践するわけにはいかないが、彼が卒業した二年後には開始するつもりだ。

二年後と謂えば69歳…。日本人男性の場合、健康寿命は72.14歳だというから、それが小生にも当てはまるのなら、三年間ほどしか健康でいられる時間がないということになる。むろん、先のことは分からない。しかし、健康である限り、半年は日本(春・秋)、残り半年は海外(夏・冬)で生活するつもりだ。旅費などはネット環境が整っている処なら、滞在費や旅行資金くらいは現地で生活しながら稼げる。

そして、小生の密かな願いは、旅の途中で息を引き取ることだ。カミさんや子供たちには、「もし、海外で息を引き取ったら、面倒くさいとは思うが現地に赴いて荼毘に付し、菩提寺に納骨してくれ」と依頼済みである。

【追記1】
フリーランスと言っても、テレワークだけで可能な翻訳といった仕事もあれば、喫茶店のマスターといった、テレワークとは無縁の仕事もある。とあもれ、フリーランスと言えば聞こえはいいが、決して楽な仕事ではないということ、この機会に強調しておきたい。

よって、現役のサラリーマンで、早期退職を夢見ている、殊に三十代から四十代の人たちに忠告。フリーランスの世界は甘いものではないということを、肝に銘じていただきたく、以下の記事を紹介しておこう。
「早期退職してよかった?」脱サラした60歳カフェ店主の哀しい回答

小生のような何の取柄もない者でも、20年に及ぶフリーランサーとしての経験の積み重ねがあるからこそ、ノートパソコン片手に世界を放浪できるのである。

【追記2】
東洋経済が興味深い記事を公開しており、特に印象に残ったのが、藤原新也氏の言葉だ。

『印度放浪』を書いた俺などは放浪世代だけど、たった1人で捨て身で旅するような若者が今はいない。


藤原氏は小生同様に若いころ(1960~1970年代)に世界を旅した、同じ放浪世代同士なのだが、その藤原氏の言葉、同じ放浪世代として大いに頷けるものがある。

しかし、現実には世の中を見渡せば世界を放浪している若者もいるのだ。例えば、小林希さんという旅行作家だ。かつての放浪世代として、実に嬉しい限りでR。
仕事で迷ったら、迷わずひとり旅に出よう!