前稿「天武天皇 15」で、乙巳の変について言及すると小生は書いた。何故か?
最初に、小生の所有する『マイペディア』という電子百科事典は、乙巳の変について以下のように解説している。
乙巳の変 645年(大化1年)中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが,蘇我大臣(おおおみ)家を滅ぼして新政権を樹立した政変。645年が干支(かんし)の〈乙巳〉にあたるため,その名がある。なお政変から新政権樹立に至るまでの一連の政治変革を〈大化改新〉と呼ぶが,この呼称は近代に入ってのものである。
ここで、思い出していただきたいのは中大兄皇子、すなわち後の天智天皇とされる人物で、小生は前稿で以下のように書いている。
聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかった…
小生が天智天皇は実存の人物ではなかったかと、何故に思っているのという点については、前稿に書いたので確認していただくとして、多分、乙巳の変について最も核心に迫った日本の識者は、天童竺丸さんと安西正鷹さんだと小生は思っている。その意味で、天童さんがウェブで公開している記事の紹介と同時に、小生が独断と偏見で各々の記事にコメントを追記してみた。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 1
蘇我入鹿を惨殺した宮廷の現場にいたが事情を知らされていなかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が自家に逃げ帰り語った「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉だ。「鞍作臣」とは入鹿だが、「韓人」とは誰か。それは明らかに、入鹿殺害の張本人の中大兄皇子である。では、なぜ彼は「韓人」と呼ばれたのか。
上掲の文章からも明らかなように、天童編集長も中大兄皇子(天智天皇)を、実存の人物と見ていることが分かる。このあたり、天武天皇を架空の人物とする故飯山(一郎)さん、そして小生の見解と異なる点である。それはともかく、天智天皇のモデルはいたのであり、飯山さんが晩年、熱心に取り組んでいた『天皇系図の分析について』の場合、p.913の第22章の第1節「平安・日本書紀での天智天皇とは「百済王子と新羅王子」との合成人間」と述べている。小生は違うように思うのだが、そのあたりについては飯山史観の筆を進めていく間に調査し、判明したことを書いていくこととしたい。
ところで、問題は「韓人」だ。何故に、中大兄皇子は「韓人」と日本書紀に書かれているのか…。問題の「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」と書かれている行は、皇極天皇の巻(日本書紀)なのだが、この「韓人」の解釈を巡ってネット界隈では今でも、百家争鳴の呈を成していることもあり、最終的な結論は暫く先に延ばすことにしたい。
ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2
書紀割注にある、「韓政」(からひとのまつりごと)と呼ぶにもっとも相応しいのは、中大兄皇子すなわち天智天皇による改新政治であった。国を失った百済を救済するために大軍を催して遠征し白村江の戦いで大敗を喫したのである。日本書紀の筆は蘇我政権にこと寄せて、中大兄=天智天皇の弊政に筆誅を加えたのだと考えられる。
その根拠として、天童編集長は渡辺豊和氏の著した、『扶桑国王蘇我一族の真実』を引用している。
蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)
渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。
ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 3
いわば自らの出自ともいうべき北方ツラン的な要素を歴史から消し去った転換点こそ、大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期にある、と私は思う。そして、その最大の問題点が、蘇我氏の痕跡をわが歴史から抹殺したことにあることを教えてくれたのが、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』であった。
渡辺豊和は蘇我氏とはトルコ系騎馬民族の「高車(こうしや)」ではなかろうかとの説を提案している。
「大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期」と天童さんは書いているが、再び飯山史観に基づけば、これも架空の「混乱期」と言える。そのあたりは、やはり『天皇系図の分析について』も第6章「「大化の改新」は架空の物語」(p.211)、あるいは第8章「「壬申の乱は架空の物語」で詳述している。
それはともかく、ここで蘇我氏が登場してきた。渡辺豊和氏は、「蘇我氏とはトルコ系騎馬民族」としているようだ。一方、『天皇系図の分析について』の藤井輝久氏は、第18章「蘇我氏と物部氏の対立の真相」で、「蘇我氏=金官国」(p.772)と明記している。ここで言う金官国とは、藤井氏にによれば九州にあった倭国を指していることが分かる(p.51)。このあたり、渡辺史観と藤井史観とでは異なるが、精査が必要と思うので、結論は先送りにさせていただく。今のところ、小生は渡辺史観を支持するものである。
ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 4
『梁書』に登場する当時の日本にあったとされる国名は、「倭国」「文身国」「大漢国」「扶桑国」の四つである。
天武天皇の御代以前の日本列島は、各地の豪族による群雄割拠の時代が続いていた。そして、『梁書』が四つの国が日本にあったとする記述は実に貴重である。また、東北を拠点としていた扶桑国は、今東光和尚の何の本だったかは忘れたが、東北地方の豪族は良馬を産出していたという記述を思い出すのだし、馬と言えばツランを連想せずにはいられない。その意味で、扶桑国のルーツはツランであろうと、今の小生は思っている。
ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5
大和朝廷の成立以前のそうした地域勢力をどう捉えるかは、それぞれ見解が分かれる所だろうが、渡辺豊和は『梁書』に拠って、古代の日本には、「倭」「文身国」「大漢国」「扶桑国」と呼ばれる四つの国があったとする説に注目をしている。「倭」とは九州勢力、「文身国」は出雲、「大漢国」は河内(大和も含むか?)、「扶桑国」は計算上は北海道渡島半島付近となるが、東北地方全域に及ぶ勢力であったろうと渡辺は考える。
扶桑国の勢力が、東北地方に及んでいたという渡辺氏に小生は同意する。
ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6 コメント略。
ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン コメント略。
ここで改めて思うことは、晩年の飯山さんが熱心に取り組んでいた、藤井氏の『天皇系図の分析について』、小生も飯山さん同様、腰を据えて取り組む、すなわち批判的読書に徹しなければと一瞬思ったものだが、そうすると飯山史観の完成が益々遅れてしまう。よって、飯山史観、天童史観、鹿島史観、栗本史観について、小生はある程度なら把握しているので、鹿島史観をベースにした藤井氏の『天皇系図の分析について』は参考程度に留め、飯山史観の完成に向けて筆を進めていきたいと思う。
次稿では藤原氏を取り上げる予定である。

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