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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
日本で活躍している外人タレントの一人に、サヘル・ローズさんというイラン人女性がいる。小生、彼女については以前から注目しており、彼女に関する記事も過去に数本書いてきた。たとえば…

施設で育った私
素顔のイラン


そのサヘルさんが、最近立て続けに二本の番組に登場していたのだが、両番組とも実に優れた内容であった。

砂浜に咲く薔薇(ばら)のように
イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦

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どのような番組だったのかは、実際に観ていただくとして、今回は井筒俊彦に焦点を当てたい。何故か? それは、はぐらめいさんが自身のブログで、幾度か井筒俊彦について取り上げていたからだ。最近も井筒俊彦について、以下のような記事をアップしておられた。

100分de名著「善の研究 西田幾多郎」

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特に印象に残ったのが、はぐらめいさんの以下の記述である。

若松英輔氏が三島由紀夫に惹かれることはない。井筒俊彦にしても、西田幾多郎にしても、「自己を垂直的に深める」ことが第一義であった。三島はといえば、ひたすら「知識の海」を泳いでいたように見えてしまう。


「自己を垂直的に深める」という言葉から、咄嗟に脳裏に浮かんだのが、小生が18歳の時に体験した座禅である。これは新入社員研修の一環として、禅宗のとある古刹で他の新入社員50名ほどと一緒に、同寺の宿坊で草鞋を脱いだ時のことである。それから半世紀の時間が経過、その間は一度も禅寺に足を運んだことはないが、考えようによっては、毎朝座禅を組んでいると云えなくもない。何故なら、毎朝実践しているハタヨガ、ハタヨガは身体のストレッチと世間では思われているが、実はヨガの始めと終わりのポーズは、ある意味、座禅と共通するものがあるのだ。

ともあれ、座禅とは無の境地、すなわち大悟徹底を目指す修行なのだが、井筒俊彦も子供時代、父親から厳しく座禅の修行をやらされていた。それが、後の「自己を垂直的に深める」という、井筒俊彦の生き様に繋がったと云えよう。

ところで、上掲の「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」を観つつ、己の人生を集大成する上で、井筒俊彦の哲学を採り入れることができるのではと、ふと思った。以下、己の人生を振り返るにあたり、是非に振り返ってみたい幾つかのテーマである。

■言語
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小生が十代の頃だったと思うが、『20カ国語ペラペラ』(種田輝豊 実業之日本社)という本を入手、熱心に読んだ在りし日のことを思い出す。しかし、井筒俊彦の場合は20ヶ国語どころの話ではない。なんと、30ヶ国語以上をマスターしたのだという。

小生の場合、第一外国語は英語だが、それでも大した英語力には達しなかった上、肝心な母語である日本語ですら、未だに心もとない有様である。まさに、日暮れて道遠しとは、このことだ。

■宗教
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井筒俊彦は、ギリシャや中東を含めた、様々な東洋の宗教や哲学に共通する構造を見出し、上次元の東洋哲学という一つのものにようと試みた

宗教は、その人が信条としているもの、その信条が生き様に反映されているものだ。どの宗教が、その人にとって心の宗教になるのかと云えば、やはり生まれ育った土地、そして母親の子守歌を聞きながら身につけた母語で決定する。たとえば、上掲の「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」に登場する、以下のシーンが如実にそのあたりを物語っているのだ。サヘルさんは8歳の時に来日しているのだが、この年齢は既に母語が確定した年齢だ。そのあたりは、以下のシーンを見て一瞬で分かったものである。

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テヘランの街を見下ろす丘に腰を下ろしていたところ、どこからともなく聞こえてくるコーランに涙するサヘルさん

しかし、天童竺丸さんから一神教の正体について伝授された身として、東洋のみならず、さらには世界の統一という井筒俊彦の思想が、一神教をも飲み込むものだろうかと、ふと思った。このあたりについては、これから思索を重ねていくことで、今までに見たことのない光景が見えてくるのかもしれない…。

■人類
井筒俊彦は、東洋の諸哲学と西洋の諸哲学との間に横たわる、垣根を乗り越えようと試みていた。以下の写真は、当時一流の世界の哲学者が議論を戦わせているシーンである。

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毎年スイスのマッジョーレ湖で開かれていた、神秘主義の国際学術シンポジウムであるエラノス会議において、熱い議論を戦わせる世界各国の哲学者たち。井筒俊彦も数年(1967年~1982年)にわたり参加していた

ここで、未だに世界で紛争が絶えないのは、一神教徒が中心のDS(Deep State)の存在が大きいと小生は思っている。

それでも、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)を信仰する人たち、一方で多神教を信仰する人たちとの間には垣根はないと、直観的に思うのである。東洋の様々な宗教・哲学・思想だけに限定すれば、各々が共通してくるところは深層意識、すなわち心の一番深いところのはずで、そこに至って初めて得られる境地があるのではないだろうか。そして、それは禅の道にも繋がる。

ともあれ、サヘルさんのインタビューで、中沢新一が語っているように、「最終的にヒューマニズムを目指す」というのが、小生が余生において常に念頭に置きたいものなのだし、今生の世で目指していきたいものだ。

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中沢新一

■無

以上、西田幾多郎や井筒俊彦といった先達の教えを受けつつ、今後は一層真剣に無の境地を目指したいと、改めて思った小生であるが、これは集団で行うものに非ず、独りでやるものであるのは言うまでもない。そのあたりが分かっていないのが、飯山陽女史だ。


つくづく、言葉は怖いものだと思った。飯山陽女史の『「誰にも認識できないものをオレだけが知っている」的研究』という言葉、同女史が西田幾多郎や井筒俊彦の云う無の世界に、無知であることを赤裸々に示す言葉になっているだけではなく、この二人の知の巨人には到底及ばぬ器であることが一目瞭然となっている。

ともあれ、はぐらめいさんに紹介していただいた、『100分de名著「善の研究 西田幾多郎」』にあった、若松英輔氏の書いた小節『「無心」の世界』(p.55~)、西田の「知意未分以前の統一」、あるいは鈴木大拙の「無心(霊性的直覚)」の域まで達するよう、今後は修行を積み、究極的には自他の「分別」が無くなるという境地に、あの世に行くまで到達したいものだと、心から思った。

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鎌倉にある井筒俊彦の自宅で、写真に手を合わせるサヘルさん

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遺影の横に供えられている皿に認められた「無」は、井筒俊彦自身の筆

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自宅近くの井筒の墓で手を合わせるサヘルさん

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座禅を組むサヘルさん

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井筒俊彦の遺言1

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井筒俊彦の遺言2

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井筒俊彦の遺言3

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井筒俊彦その人を理解する上で不可欠の書


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天武天皇 13
前稿「天武天皇 12」をアップしたのが9月18日、それから二ヶ月以上もの間が空いてしまった。今年の9月は例年よりも酷暑の日が多かったこともあり、日によってはエアコンのスイッチを入れて仕事をしていたのを、つい昨日のことのように思い出す。ところが、ここ数日の深夜から朝方にかけては石油ストーブを点けて仕事という具合に、秋の気配を感じないまま一気に夏から冬に突入していたという、何とも不思議な感覚に陥っている今日この頃だ。そうなったのも、仕事(翻訳)で多忙を極めていた為だったのだが、この状態が来年の一月末まで続くwww

そんな折、ふと目に留まったのがJINMOさんの以下のツイート…


JINMOさんのアメリカ人の親友が、自らボーイング787を操縦してアメリカ本土(デンバー)から東京へ飛行、JINMOさんの演奏を聴いた後、わずか20時間ていど日本に滞在しただけで、蜻蛉(とんぼ)返りで本土に戻っていったというのだが、実に痛快な話というか、スケールの大きな話ではないか。小生は飛行機の操縦はできないが、せめて正月休みくらいはノンビリと、近場の温泉にでも足を延ばしてみるかな…。どうせなら、飛行機に乗って韓国や香港といった近場にでも…、と頭に浮かんだのだが、昨今の政情から今というタイミングで行くのも何なので、台北の郊外にある北投温泉あたりがE-かも…

さて、天武天皇シリーズの続きに筆を進めるとしょう。前稿の「天武天皇 12」で、「天武天皇は百済人」について書くと約束していたが、その前に、前稿で紹介した飯山一郎さんの「外圧と占領」以外に、もう一つの日本列島史、すなわち「国家の出発点」という飯山さんの別の視座を、この機会に紹介しておきたいと思う。飯山さんが国家の出発点について書いていたのは、「政治を語るための前提条件について」シリーズ第6弾で、残りのシリーズ5本のリンク先も併せて紹介してあり、現在本スレの主テーマとなっている政治・経済について、飯山さんの政治観を改めて確認しておく意味で、同シリーズを再読してみるとよいだろう。以下、飯山さんが遺してくれた、もう一つの日本列島史観だ。

「日本」という国家の出発点は,歴史的には,五つある.

 1.天武天皇の「日本建国」による脱唐国支配国家

 2.藤原(不比等)氏による貴族支配型律令国家

 3.徳川家康による武家支配型・幕藩体制国家

 4.明治政府による脱植民地型海外進出国家

 5.敗戦後の米国による占領・属国支配型国家
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/370/


「2」で、藤原不比等が登場している。天武天皇シリーズを終えたのち、南北朝時代まで一気に筆を進めようと思っていたが、やはり、当時、そして今日に至っても皇室に深く食い込んでいる、藤原氏について少しは書かねばなるまいと思った。しかし、藤原氏に深入りしすぎると、なかなか飯山史観の完成に至らないので、当時の藤原氏については簡単に触れるに留めるつもりだ。

ともあれ、話を天武天皇に戻す。当時の時代背景で注目していただきたいのは、「脱唐国支配国家」という飯山さんの言葉だ。脱唐国支配国家とは、どういうことか? 実は、ここに天武天皇が済州島から日本列島に渡来した秘密が隠されている。ここで、当時の唐と朝鮮半島諸国との関係、殊に百済との関係は、どのようなものだったのかについては、飯山さんによる放知技への投稿が参考になるので、以下に一部を引用しておこう。

7世紀中葉。白村江の戦いで“大唐帝国”に大惨敗を屈した百済国は、“大唐帝国”の殲滅(せんめつ)作戦から逃れるために、慌ただしく九州に逃げ込んできた。
しかし、「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令情報は、はるか九州にも伝わってくる…。
そのため、北九州に上陸した百済国の王族・貴族は、“大唐帝国”の追討殲滅作戦に恐れおののきながら、南九州までの逃避行を決行する。
南九州は大隅半島の志布志近辺まで這々の体(ほうほうのてい)で辿り着いた百済国の王子・大海人皇子は、大急ぎで天武天皇と名乗り、大慌てで「正史」の編纂を命じた。そのときに初めて「日本」という国名が、苦し紛れの状態の中で発明された…。これが7世紀末の「日本」でした。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


上掲の飯山さんの投稿が、日本史の秘密を解き明かす上で貴重なものとなっているのは、日本書紀の成り立ち、すなわち天武天皇が唐を騙すために編纂したものであることが一目瞭然となっているからだ。

ここで、百済王族の王子の一人であった天武天皇(大海人皇子)の場合、半島経由で北九州へというルートではなく、済州島(耽羅国)経由であった点に注目されたい。つまり、天武天皇は済州島から直接、南九州は鹿児島へ命からがら逃げてきのだが、この済州島が日本と百済を繋ぐ重要拠点であったことは、飯山さんが以下のHP記事で明確に述べている。
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!

この飯山さんの済州島説に対して異を唱えているのが、飯山さんの朋友である小川秀之氏だ。

僕は百済の後継国や日本の建国は辛酉年の661年や初代の天皇は天武天皇ということをはっきり認識するにいたったのは飯山一郎氏の論の影響による。
僕と飯山一郎氏の見解の相違は飯山一郎氏は天武天皇は百済の出自と考えているのだが、僕は天武天皇は高句麗の出自だと考えているぐらいのものであろう。
百済は高句麗より分離し南下したのは最近までは朝鮮半島と思っていたのだが、最近ではそうではなく遼東、遼西へと南下しやがて山東にまで南下し山東半島から対岸の今の京城あたりに渡ったのではないかと思うようになった。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/336/


それに対して、飯山さんは以下のように回答している。

天武天皇と済州島との関係には只ならぬものがあります.
たとえば,
天武天皇二年(673年)8月25日 に次のような記事があります.
 「詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。」 
    ↓  ↓  ↓
 「天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.
  よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に
  帰ってよろしい)と言った」.

その済州島は古名を「耽羅」といい,百済の属国!でした.
「耽羅」という言葉自体が,百済の属国という意味です.

『日本書紀』では,耽羅と日本の交流は日が浅く,耽羅国が日本国に初めて
入朝したのは,661年のことでした.

それが,673年の記事では,天武天皇が耽羅の使人に対して「祝い事などの
儀礼以外は呼び寄せない」と言っておられる.

このウラの意味は↑天武天皇と耽羅との「付合い」が「祝い事」以外の面でも,
深い同盟関係にあった,ということでしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/340/


そうした若干の違い(と云っても、この違いは途方もなく大きいのだが…)が、飯山さんと小川氏の間にあるにせよ、ここで言及しておかなければならないのが、晩年の飯山さんが熱心に毎日少しずつ読み進めていたという、『天皇系図の分析について』(藤井輝久 今日の話題社)という本だ。

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小生も同書を入手し、幾つかの章に目を通してみたが、途中で妙に懐かしい気分になったものである。この不思議な感覚、何なのだろうと思っているうち、目を通した同書の「おわりに」(p.1110~)で、「鹿島曻」の名前が目に飛び込んできた…。ここに至って、漸く〝妙に懐かしい〟と思った訳が分かったものである。

二十年前の小生は、鹿島曻が著した本を十冊前後入手し、そのほとんどに目を通している。大変刺激に満ちた本であったが、なかでも目が釘付けになったのは、日本書紀の正体を述べた行であった。つまり、日本書紀は、「百済の歴史書のコピー」であると、鹿島は喝破していたのだ。これは、どういうことか…? と長年頭から離れなかったのだが、飯山一郎さんの日本書紀に関する投稿を目にして、漸く納得のいく「全体像」が見えてきたというわけだ。次稿では、そのあたりの簡単な解説を試みたい。