■北魏 ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

五胡の一つ鮮卑の拓跋氏が386年に建国し、太武帝の時、439年に華北を統一した。道教を保護し、一時廃仏を行ったが、後に仏教保護に転じた。孝文帝の時、漢化政策をとり洛陽に遷都、その後衰え534年に東西に分裂した。 「世界史の窓」北魏
今から三年前、中国の青州にあった飯山邸で小生は、飯山一郎さんから四日間にわたり中国と朝鮮にまつわる歴史秘話をお聞きしている。当然ながら、北魏も話題に上ったのだが、このあたりは少しだけ拙ブログにも書いた。
上記サイトの表題「古代日本がモデルとした北魏の都」にもあるように、北魏(386~534年)こそが日中秘史を解くキーワードであることが、飯山さんの話からよく理解できた。ちなみに北魏は南北朝時代、遊牧騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国であり、前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた国である(南燕や西燕も鮮卑族が建てた国で、鮮卑族はユーラシア大陸の放牧の民、すなわち我らが同胞ツランである)。 青州で思ふ(3)
小生は遊牧民゛(ツラン)について書いているが、ここで拙稿「天武天皇 02」を思い出していただきたい。
脱アフリカ組のホモサピエンスの一部が、コーカサス山脈を越えてシベリアに進出しているが、この集団が後にツラン(太古シベリアの諸民族を総称)となった。そのツランを構成する民族は大きく分けて三つあり、モンゴル民族、トルコ(テュルク)民族、そしてツングース民族だ。
ウィキペディアの「鮮卑の言語系統」には、以下のように書いてある。
古くは テュルク系であるとする説[20]があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっている[21]。
民族の出自を見極める一つの方法は言語なのだが、言語という観点でみる限り、鮮卑の出自はモンゴル系で落ち着くのかもしれない。それだけ、言語というものは民族の物の見方・考え方を、根底で規定するものがあるからだ。それはともかく、鮮卑の出自がモンゴル系であろうとテュルク系であろうと、同じツランであることに変わりはない。
ご参考までに、モンゴル語、テュルク語、ツングース語の上位言語は、「アルタイ諸語」ということになるが、ウィキペディアが示す以下の言語図は、ツラン民族の分布と重なっているのに注目されたい。
 The branches of the Altaic language family?


ここで、栗本慎一郎の下図を見ていただきたい。北魏は鮮卑の出とあり、小生も上掲の拙稿で「北魏は南北朝時代、遊牧騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国」と書いている。もう一点、下図から分かることは、日本に直接的な影響を及ぼしたのはツングース語族の民族、すなわち高句麗、扶余、百済であるという点だ。
 『栗本慎一郎の全世界史』p.198
ともあれ、ツングース民族ではない、モンゴル民族あるいはデュルク民族の流れを汲む北魏とは、どのような影響を間接的に日本に及ぼした民族だったのかについては、飯山さんのHP記事や放知技への投稿で分かる。
最初に飯山さんのHPから、北魏について言及した主な記事を引用しておこう。
「漢民族の滅亡」後、最初に統一中華帝国を再興した『北魏』の本家筋であるからだ。 そして、『北魏』の首都は、『平城』。 ◆2011/01/19(水) 金王朝の “深い深い謎” -55-
漢民族が絶滅し、三国時代も終わった、その後…、 『北魏』が河北一帯を統一、一大帝国をつくり、「漢文化=中華文化」を再興する! ということは…、 「漢文化=中華文化」をつくったのは、漢民族ではない鮮卑族だった! ということ。 ◆2011/01/21(金) 金王朝の “深い深い謎” -57-
 ◆2011/01/29(土) 金王朝の “深い深い謎” -63-
北魏馮太后は、天皇家の先祖だった!
掲示板「放知技」でも、飯山さんの北魏に関する投稿がある。
だから、結論を言います。 これ↓を読むと、 http://grnba.com/iiyama/more3.html#TG0417 「せんとくん」のルーツは、扶余(鹿)。扶余は百済。 百済の隣は北魏。北魏は中華文化のルーツ。 (中華文化とは、異民族を漢化=感化する文化。) その北魏の首都は「平城」。 「平城」は日中両国のルーツ。“格”は日本が上。 これは、とどのつまり…、 日中両国の「歴史的、精神的な皇帝」は、「天皇」! ということになり、このことを胡錦濤は認識しています。 認識しているから、主席就任の前後に天皇に挨拶した。 (認識しているということは、認めている、ということ。) 天皇が、「平城」という言葉を発されると、その意味は、 日中両国にとって、非常に恐ろしいことになるのです。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/12990511/3/

きょうも、北魏の最盛期をつくった馮太后が天皇家の先祖筋で あることをズバリ指摘しました。
馮太后は、遼寧省の柳城を首都とした北燕の王族の出身で、 北燕の王族は北魏と高句麗に追われ百済に逃げ込みました。 その百済が北燕の馬具などを日本に持ち込んできて、それが 大阪羽曳野市の応神天皇陵の誉田八幡社に現存しています。
北燕の王族の埋葬品と、応神天皇陵の埋葬品が全く同じ形! 以前、私は、このことを↓ココ↓で説明しました。 http://grnba.com/iiyama/html/16kodaisi.html#RyoNei
ま、誉田八幡社に現存している馬具は、ツラン型騎馬民族の モノなんですが…。この件は、あとで書きます。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13007953/2/
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