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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
金正恩の肚 02
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前稿「金正恩の肚」で飯山(一郎)さんが著した、『横田めぐみさんと金正恩』の出版を巡っての不思議な動きを書いたが、もう一冊紹介しなければならない本がある。それは、佐藤守氏の著した『金正日は日本人だった』である。佐藤氏はUFOの存在を信じているといった具合に、亀さん的にはついていけないところがあるものの、少なくとも『金正日は日本人だった』は、内容的に本物であると確信している。

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その証として、金正恩の出自について言及した動画の削除といった動きだけではなく、前稿で紹介した「国母・横田めぐみの登場」を記事にした山浦喜久氏、数年後に自身の横田めぐみ説を否定するようになったことからして、金正恩の出自を巡る闇の深さを窺い知ることができるからだ。ちなみに、山浦氏が最後に『月刊日本』(2018年四月号)に寄稿したのは、「神は死なない」と題する記事、以下に引用しておこう。

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明らかに、前稿「金正恩の肚」で紹介した、山浦氏本人の記事「国母・横田めぐみの登場」とは、まったく逆の観点で書かれた記事であることが分かる。横田めぐみさんは国母、すなわち金正恩の生親は横田めぐみさんであるとする記事を書いていた山浦氏、6年が経った2018年の『月刊日本』(四月号)では、横田めぐみさんが金正恩の母親である〝という言説がまことしやかに囁かれている〟と、まるで他人事のような書き方である。

その山浦氏が佐藤守氏と行った特別講演会、「金正日は日本人だった」の動画も今では削除されており、肝心な『金正日は日本人だった』も絶版で入手不能だ。

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こうした圧力は誰がかけたのか? そのあたりについては、最後まで金正恩の生母が横田めぐみと確信していた、飯山さんの放知技への投稿を読めば大凡推測できよう。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16439363/165/

ところで、今朝からテレビの全チャンネルを回しているのだが、本日、世界で最も注目すべき米朝首脳会談を特集で取り上げている局はゼロ…。そこで、以下に亀さんなりに思うところをサーッと書いておこう。

■同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わすと…
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人は同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わすことで、初めて腹を割って語り合えるという体験をした読者は少なくないはずだ。これは、我々のような一般人には窺い知ることのできぬ政治の世界でも同様であり、やはり直接相手国の指導者に会い、働きかけることで、初めて国際政治というものが動き出すのである。8ヶ月前にシンガポールで行われた第一回目の米朝首脳会談、それはトランプと金正恩の顔合わせという側面が強かったのだが、今回の第二回目は最重要課題である「終戦宣言」への第一歩となるはずだ。しかし、一気に事が運ぶわけではない。そのあたりは、今朝の読売新聞の記事に目を通せば納得できよう。

 Q 終戦宣言だけで戦争は終わるのか。

 A 朝鮮戦争を正式に終わらせるためには、米軍主体の国連と北朝鮮、中国の間で1953年7月に結んだ「休戦協定」を「平和協定」に替える必要がある。しかし、そのためには、韓国と北朝鮮を隔てる軍事境界線や非武装地帯、在韓米軍の扱いなど協議する項目が多く、膨大な時間がかかる。

 そこで、休戦協定から平和協定に至る途中段階の政治的な宣言としてこのアイデアが生まれた。韓国と北朝鮮の敵対関係の解消を確認し、次の段階につなげる意味合いがあるとされる。


■戦争か経済か
昨日の拙稿「金正恩の肚」を書いた後、道友の堺のおっさんが貴重な投稿を「放知技」で行っていた。特に、以下の結語は頭の片隅に置いておくべきで、流石は堺のおっさんだと、つくづく感心した次第である。

現段階では、俗にいうDSとトランプの路線に違いはない。


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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16675542/71/

飯山さんも過去に同様のことを、幾度か書いている。例えば…

なお,NY株式市場の暴騰は,トランプ大統領が受諾した「米朝首脳会談」によって,世界が戦争と戦争経済からやっと脱却できるであろうことに,大なる希望をもったからである.
かくして2018年…
世界は(特にアジアは)新たなステージにワープすることになる!

◆平成30/03/10(土)2  ニューヨーク株式市場,見事に復活


今後も引き続き「放知技」に注目していただきたい。

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金正恩の肚
今夜、ベトナムのハノイにおいて第二回米朝首脳会談が行われる。

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上掲は、ウィキペディアの「悪の枢軸」という項目に掲載されているイラストだが、「闇の国家」あるいは「影の国家」と日本語に訳出されているDS(The Deep State)に対して、プーチン・習近平・トランプ・安倍晋三・金正恩を代表とする国家指導者が対峙しているという構図が、今の世界であるということを念頭に置けば、さまざまなメッセージが読み取れよう。

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ここで、掲示板「放知技」にアクセスすると、上掲の画面が最初に目に飛び込む。これは故飯山(一郎)さんの最後のメッセージとなったのだが、赤線を引いた「今後も金正恩は世界をリードする」という文句に注目していただきたい。そう、今後の世界の動向を考察するにあたり、金正恩に「目が離せない. 深い考察と議論が必要」なのだ。

その「深い考察」を行うには、「飯山史観」を全体的に把握していることが必要で、そのあたりをズバリ指摘しているのが、堺のおっさんの投稿である。

朝鮮にとって、自立とは歴史的悲願。それも、2000年に及ぶ悲願。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16675542/69/


また、以下の堺のおっさんの発言にも注目したい。

北朝鮮の強みとは…

①地政学的な強み。特に旧瀋陽軍区との関係強化で南北朝鮮の統一は

朝鮮自立の客観条件を保証する。

②豊富な地下資源がこれからの国家戦略として巨大な武器となる。

宇宙開発にも不可欠な資源も豊富である。

③自立路線の金正恩が親中路線の金正男派を排除して戦略のぶれがなくなった。

④ロシアのプーチン、アメリカのトランプ、この二人にとっても自立した

統一朝鮮は対中国戦略上もカギとなる政治局面の鮮明化。

こうした中で北主導の南北統一が進められようとしている。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16675542/68/


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こうした歴史の大きな流れを把握するには、『飯山一郎最終講義』の通読が必須となるが、同時に『横田めぐみさんと金正恩』にも目を通しておきたいものだ。

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『横田めぐみさんと金正恩』の出版を巡っては、複雑な背景があったのだが、そのあたりの一端を示す記事が『月刊日本』(2012年3月号)に書かれているので、当時の記事のコピーを本稿の最後に掲載しておこう。

また、「金王朝の “深い深い謎”」と題して、旧ブログにも同書について取り上げたことがある。久しぶりに、「月刊日本 山浦嘉久氏 日朝関係を語る 1旧宗主国としての自覚」、あるいは「特別講演会 金正日は日本人だった 7 山浦嘉久3 何故?何故?の発想」の動画を見てみようと思ってアクセスしたところ、すでに削除されていた。このあたりに、深い闇を垣間見る。

ともあれ、飯山さんの遺言「今後も金正恩は世界をリードする」、頭の片隅に置いたうえで、今日と明日の米朝首脳会談に注目していこう。

【補遺】
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洞察歯観のすすめ(36)
昨年の12月11日、歯科&音楽ウォッチャーさんの「洞察歯観のすすめ(35)をアップして以来、便りが無かったので御母堂の介護に加えて、信州の大雪かきで忙しい毎日なんだろうなと思っていたが、やはり…。ともあれ、久しぶりの便りが届き、ホッとしたというのが正直なところだ。

今回はインフルエンザが中心テーマだ。亀さんの場合、昨年の年末に久方ぶりに風邪を引いた。4年振りだった…。昔からバカは風邪を引かないというが、亀さんはバカなので風邪を引かないのではと、我が事ながら心配になってきたんだが、ようやく人並みに風邪を引いてハッピーでR(爆)。

年末に風邪を引いた時、お世話になったのが、かんだい・ネットショップの杏仁飴。初めて口にしたが美味かったし、お陰様で風邪も直ぐに治った。

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ご参考までに、飯山(一郎)さんも「インフルエンザ対策・秘策!」という専用ページを設けているので、今回のウォッチャーさんの寄稿と併読することで、もう少しで終わる冬を乗り越えていける象、皆の衆!!

年明けから、家庭の事情と雪の事情により、長らく山里に籠もっておりました。
毎年のことではありますが・・・雪とのお付き合いが大変です。
降れば雪かき。降れば雪かき・・・の毎日。雪かきをすれども、すれども、止むことなく、何時になったら打ち留めになることやら。
「空と私の間には、今日も冷たい雪が降る」・・・そんな歌を口ずさみながら、庭先に降り積もった雪と毎日格闘しておりました。

さて、こちらも、毎年のことではありますが、インフルエンザです。
山里にあっても、インフルエンザ狂想曲は、大ヒットしております。
つい先週のことですが、久しぶりに、趣味仲間(ジャズブルースなど、音楽好きな連中)と、昼食・宴会をしました。私を含めて6人集まり、話題はあれやこれやと音楽に関することが中心だったのですが、それ以外にも色々な話題が飛び交いました。そのひとつに、インフルエンザ対策・・・どうすれば良いか。ワクチンは、本当に必要なのか?という話が出てきましたので、母里啓子(著)「インフルエンザ・ワクチンは、打たないで」を紹介してみました。

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インフルエンザ予防というところで、下記の内容を、みんなで、ざっとまわし読みしました。(母里啓子氏の著書は、ここで一度取り上げたことがありました)
***インフルエンザの予防というと、うがい マスク 手洗い
と思い浮かぶ人が多いことでしょう。じつは、このどれもお薦めしたいほどの効果はないのが、本当のところです。
まず、うがい。ウイルスは喉や鼻の粘膜にくっついて、あっという間に細胞に入り込んでしまいます。細胞に入ったものを水で洗い流すのは無理です。
それならば、とマスクをして歩いたところで、ウイルスの粒子はマスクの繊維のすきまなど通り抜けてしまいます。手洗いも、大腸菌なら手を丁寧に洗えば、きれいに落ちます。けれど、インフルエンザ・ウイルスは、喉や鼻に入った瞬間に感染してしまうわけですから、帰宅して手を洗ったところで、あまり意味は無いでしょう。***

では、インフルエンザの予防はどうしたら良いのか・・・

***流行時期に人混みに出ないことです。感染自体を防ぐ方法は、それ以外何もないのです。普通に社会生活を送っているならば、インフルエンザ・ウイルスに感染することはまず避けられないと思ったほうがいいでしょう。けれど、感染しても、身体に免疫力があれば症状を出さずにやり過ごすことが出来るのです。***

そのような免疫力はどうやったら備えることができるのか。

***まず、適度に身体を動かし、規則正しい生活をして、美味しい物を食べ、よく眠る。ということに尽きます。当たり前のようですが、これが基本ですし、それが疎かになっているのが現代人です。そして、インフルエンザ・ウイルスそのものに対する免疫力をつけたければ、何よりも、実際にインフルエンザ・ウイルスに感染して、体内に抗体を作っておくことです。***
インフルエンザの最強の予防法は、インフルエンザにかかることなのです。

***お子さんがいる方は、冬になれば、かぜをひかないように、インフルエンザにかからないようにと気をつかうことでしょう。でも、子どもがかぜをひくのは当たり前です。インフルエンザにかかるのも当たり前です。沢山の軽い病気をしながら、子どもは免疫力を体に蓄え、成長していくのです。かぜもひかず、インフルエンザにもかからずに成長しようとするのは、不可能なことです。インフルエンザに感染したとしても、ふだんから、外で元気に遊び回っているような子どもであれば、4,5日で回復するでしょう。そして、インフルエンザ・ウイルスへの抗体を確実の体内に作っていくのです。
子どもがインフルエンザにかかってしまうと、薄着をさせたからかしらとか、寝冷えをさせたからなのでは、と自分を責めてしまうお母さんもいるでしょう。けれど、インフルエンザはウイルスが原因です。インフルエンザ・ウイルスに感染することは、どうしたって防ぎようがないのですから、お子さんが、インフルエンザにかかってしまっても、たくさんのお友達と元気に遊び回っていたからこそで、当たり前のことだと思ったほうがいいでしょう。
ただし、まだ体力も無い赤ちゃんのうちは、インフルエンザの流行シーズンに繁華街など人の多いところへ連れて行くことは極力控えるべきでしょう。
受験生は絶対にインフルエンザにかかるのは避けたいでしょうから、予防は切実な問題です。そこにつけこんで、最近、受験生にインフルエンザ・ワクチンを奨める声が大きくなっています。当然ながら、インフルエンザ・ワクチンを打ったからといって、インフルエンザにかからずにすむわけがありません。受験までに身体を強くしておくしかないのです。***

インフルエンザを予防する、これといった手だてはなく、免疫力を強くしていくのが唯一の方法。

***ウイルス病は、熱を下げてはいけません。これは基本です。
インフルエンザにかかれば、高熱が出やすいものです。熱が上がれば誰だってつらいし、乳幼児なら親は心配でたまりません。でも、ウイルス病というものは、熱を下げてはいけません。これは、ウイルスによる病気になったときの基本的な心得です。***

では、なぜ熱を下げてはいけないのか。

***ウイルスは高熱になると活動が出来なくなるからです。つまり、熱が上がるのは、体がウイルスをやっつけている状態なのです。熱が上がれば、ウイルスの増殖は止まるのです。ウイルスが最も増えやすい温度は、37度くらい。39度ぐらいまで上がると、ウイルスが増えることが出来なくなります。ですから、39度ぐらいまでの体温だったら、さげないほうがいいのです。

子どもが高熱でうなされていたら、親は「かわいそうに。何とかして熱を下げてやりたい」と思うものです。高熱が続くことを心配して、つい、解熱剤で熱を下げてやろうとしがちです。でも、発熱は体の防御反応なのだということを思い出してください。とくに熱の上がり始めは無理に熱を下げてはいけません。***

解熱剤を使うと治りが遅くなり、脳症の原因にもなります。

***解熱剤を使うと、一時的に熱は下がっても、治りが遅くなる傾向があります。乳幼児の場合、解熱剤は特に危険です。脳症を引き起こす可能性があるからです。
人間の体は、ウイルスの感染すると、まず熱を上げウイルスの活動を抑え込もうとします。その時、白血球や細胞もウイルスをやっつけるためのさまざまな反応を始めます。この時、サイトカインという、物質が活躍します。体のさまざまな組織に、行うべき役割を振り分け、それぞれの組織と連絡を取るのです。熱が出ると、このサイトカインが働いて、ウイルスをやっつけるための体全体の反応をうまくコントロールしていきます。ところが、何らかの理由でこのサイトカインが過剰に働き、反応が強くなりすぎる場合に脳症になることが多いのです。なぜ、サイトカインが正常に働かなくなるのかは、わかっていません。
解熱剤の「非ステロイド抗炎症剤」系の薬品の関与は、ほぼ確実ですが、まだ、わからないことが多いのです。ただ、体の自然な反応で熱を下げようとしているのに、解熱剤でその熱を下げようとするのは、非常に危険だということは明らかでしょう。
現在は、インフルエンザや水ぼうそうなど、ウイルスの病気にかかった子どもには、非ステロイド抗炎症剤系の解熱剤は使われなくなっています。しかし、処方されたクスリは一応確かめたほうがいいでしょう。市販の薬などを安易に飲ませるのはもってのほかです。***

宴会参加者の中で、母里啓子氏の名前を知っていて、著書を手に取ったことがあるという人が、一名おりました。また、
「インフルエンザの最強の予防法は、インフルエンザにかかること・・・か。これは、まったく思いもしなかったことだ」
と、深くため息をつく、太めなおっさんが、二人ほど!
インフルエンザ絡みで、母里氏のほかに、野口晴哉(著)「風邪の効用」 生田 哲(著)「ビタミンCの大量摂取が風邪を防ぎ、がんに効く」
二冊を併せて紹介してみました。「風邪の効用」は、以前、亀山さんがブログで取り上げておりました一冊です。

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音楽好きな、おじさん&おばさんたちの、気にしていないようで、実はすご~く・・・気になっていることに、「顔のたるみ!がある」
そのようなお題が出てきました。
年齢を重ねるごとに、顔のたるみが出てくる。
「なんて言うか、締まりがなくなるというか、ゆるくなってくる感じ・・・」
と表現した参加者もおりましたが、なんでも、肌のコラーゲン組織を支えているエラスチンというものがあり、それが傷ついたり、少なくなったりすることが大きな原因ということらしいのですが、ここはやはり、口元が気になります。口の周りの筋肉の衰えが原因のひとつではないでしょうか。
さて、では、どうしたらよいか・・・。大枚はたいて、高級エステへでも行きますか?
いやいや、お金をかけることなく、毎日、気楽に出来る方法があります。
それは、簡単なことです。「よく噛んで噛んで、食事する」・・・ということです。よく噛んで食事をすることによって、顔の筋肉を鍛える。これなら、お金もかからないし、食事をしながら楽しく無理なく出来ます。聞くところによると、顔の筋肉はとても薄いので、強い刺激を与えると、かえってマイナス効果となるようです。エステや、美顔器などを使用し続けると、顔のデザインが(カフカの小説ではありませんが)いつの間にやら、変身?してしまうかも知れません!!
エステや、美顔マシンに頼るより、よく噛んで食事をし、就寝前に豆乳ヨーグルトでフェイス・パックする。これが、健康美顔への早道・・・ということではないでしょうか。

ーー追記ーー

子どもの頃は、雪が降り始めると嬉しいものでした。一面銀世界となったところで、楽しみはスキー。スキーといっても子どもの頃のことですから、頻繁にスキー場へ行って滑ることは出来ません。子どもたちが滑るゲレンデは、道路でした。家から一歩外へ出たら、そこは、もう立派な庭先スキー場。道路上で、バスや車の合間を縫うようにして・・・結構スリルを味わいながら、楽しんだものでした。
そして、もうひとつ・・・
雪の形も色々とあるようですが、綿菓子をちぎったような、少々大きめな雪が、ゆっくりと天から舞い降りてくることがあります。この綿菓子のような雪・・・地面に着地するその瞬間、音がします。「ザッ」と、きこえるもの。「サッ」と、きこえるものと、二種類の音があります。少しずつ綿菓子が積み重なっていくなか、道路上にうつぶせになり(といいますか、腕立て伏せのスタイル)で、着地する、二種類の音を、ききわけて楽しむ・・・この、一瞬の音(おん)をとらえることが、子ども時代、最高に贅沢な音楽鑑賞でした。不思議なもので、数十年の時が過ぎた今でも、子どもの頃に夜遅く体験した音が心の奥底に残っております。
さてさて、今夜は、正月に知人から貰った、ちょっと高い、信州ワインを飲みつつ、北原ミレイの歌う、「石狩挽歌」を聴いております。
時たま、大音量で聴きたくなる一曲です!



北原ミレイ 「石狩挽歌」

古墳時代 06
人類誕生から見取り図(新天皇以降)に至るまでの流れを、どのように編集していくかという、飯山史観の編集方針がほぼ固まってきたことは、前稿「古墳時代 05」にも少し書いたが、これからいよいよ古墳時代に本腰を入れて取り組んでいく。差し当たり、人類誕生から応神天皇の御代に突入するあたりまでを、一枚のPDFファイルに纏めるという作業を進めつつ、並行して青州・大阪・〝志布志〟で受けた飯山さんの講義を核に、てげてげHPと掲示板「放知技」から、これはと思う飯山さんの投稿(ピース片)を探しつつ、一日でも早く飯山史観の古墳時代編(ジグソーパズル)を完成させていきたいと思う。

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昨日、さっそく放知技の検索フィールドを活用して、古墳時代について言及した、飯山さんの投稿全てに目を通してみた。この検索フィールドは、一つのキーワードを巡って、どのような投稿が過去に行われたのかを確認する上で、極めて便利なツールだ。ちなみに、昨日検索してみたのは以下のキーワードであった。

応神天皇
武内宿禰
神功皇后
八幡宮
古墳
豪族
北燕


検索フィールドを使うと、一ページあたり30件の投稿が表示されるのだが、検索前に抱いていた漠然としたイメージでは、「応神天皇」という言葉を含む投稿だけでも、おそらく数百件はヒットするだろうし、大変な作業になりそうだなと勝手に想像していたのだが、実際に検索してみたところ、「応神天皇」をキーワードにしても三ページのみ、投稿数にして70件程度であった。意外と少ないというのが第一印象だったし、他のキーワードにしても一ページで収まるものもあったのには拍子抜けした。

それはともかく、最初に飯山さんの投稿だけを中心に、古墳時代の史料に使えそうな投稿を、一つ一つコピーしつつ、それを終えた後は、気になった他の投稿者の文章にもサーッと目を通してみた。そして分かったことは、飯山さんを除く他の投稿者で、キラリと光る投稿を行っていたのは、今のところ二人の投稿者ということだった。一人は堺のおっさん、もう一人は小ボンボンさんである。堺のおっさんと言えば、国際情勢や日本の政治に関する投稿が多いというイメージが強いのだが、意外と古代史に関するテーマも数多く投稿しており、飯山さんの投稿同様、熟読すべしと思った次第である。

そして、もう一人キラリと光る投稿を行っていたのが小ボンボンさんだ。投稿数こそ少なかったものの、他の投稿者には無い、思わず考えさせられる独特の視点の投稿だと分かるのだし、これからの飯山史観の編集に小ボンボンさんの投稿も欠かせそうにない。

一方、読むに値しない投稿も数多くあった。そうした人たちの投稿はすべて、投稿者名をチラッと確認しただけで、後は読まずにスルーするか、読み飛ばした。

また、てげてげHPに載っている、古代史に関する飯山さんの記事のピックアップを試みたが、すべて過去の拙「飯山史観」カテゴリで取り上げたものばかりであった。よって、これに加えて、「飯山一郎の古代史」を参照にすれば、ほぼ完璧だろうと今のところ思っている。ともあれ、飯山史観の古墳時代という「料理」を作る前に、昨日集めた記事や投稿という「食材」から、どのような「料理」ができるのか、今から楽しみだ。このあたりの進捗具合については、作業日誌風に都度、拙ブログに書き連ねていきたい。

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大野和士×原田マハ
NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」、気にいっている番組の一つということもあって大方は録画しているが、如何せん普段は仕事に追われていて、せっかく録画してあるのに殆ど未だに鑑賞していない有様だ。幸いにして、先週末あたりから仕事も一段落したこともあり、せめて最近録画した分だけでもと見始めたのだが…。

先週土曜日(2月16日)に放送された「大野和士×原田マハ」、思わず身を乗り出したほどであった。と言うのも、対談者の一人である原田マハ女史が元学芸員だったからで、実は亀さんの従姪夫婦も二人揃って学芸員だ。だから、学芸員とはどのような仕事をするのか、日頃から興味を持っていたのだし、それが同番組を見始めるきっかけとなった。そして、原田女史が「学芸員」とは「プロデューサーのようなもの」と語るのを聞くに及んで、なるほどと思った。

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学芸員から作家に転身した原田女史、数多ある彼女の作品の中で、代表作ともいえるが『楽園のカンヴァス』という作品のようで、天才画家のルソーとピカソの二人を登場させている。

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対話が進み、やがて「言葉」についての話題に移ったのだが、その中で原田女史は以下のように語った。

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つまり、読者が頭にイメージできるような文章を、原田女史は常に心がけているのだという。その言葉を耳にして、我が意を得たりの思いだった。何故なら、亀さんも旧ブログを含め、いろいろとブログ記事を書いてきたのは、最初の頃は日本語力を向上させるという目的があった。だから、読者に自分の文章をビジュアルに頭の中で描いてもらえるだろうかと、考えながら推敲するのを常としてきたのである。ただ、未だに己れの文章力は未熟だと思うし、そのため画像ファイルというビジュアルの力を借りているわけだ。こうした方法で漫画チックなブログを15年近く書いてきた。ホームページ時代も含めれば、1998年にホームページ「日本脱藩のすすめ」を開設して以来、かれこれ20年以上にわたってネットにあれこれ書いてきたことになる。そうした地道なことを続けてきたこともあり、最近は漸く人様に読んでもらえるような文章になってきたかなと思う。尤も、ここ数年は己れの日本語力を磨く為というよりは、次に続く若い世代のために〝遺言〟として遺しておきたい、という気持ちの方が強い。

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原田女史には、なかなか書く踏ん切りがつかなかった画家が一人いた。その画家とは、あのゴッホ…。それでも、漸くにして女史はゴッホの晩年の作品「星月夜」を叩き台に、『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)という作品を世に出している。また、日本人画商の林忠正が登場しているということで、機会があれば手に取って読んでみたい本だ。

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次に指揮者である大野和士氏だが、2018年9月1日に新国立劇場の芸術監督(オペラ部門)に就任している。その大野氏がタクトを振る練習光景を新国立劇場で見た原田女史、流石は言葉のプロであるだけに、言葉にまつわる鋭い質問を大野氏に投げた。

演奏の仕方などについて大野氏が、オーケストラ楽団員に言葉で色々と伝える前と後では、明らかに異質の演奏になっていることに、原田女史は気づいたのだ。そこで、原田女史は大野氏に問うた。「楽団員に伝えた言葉、これは予め練りに練って考えてきたものなのか、それとも、インスピレーションで脳裏に浮かんだ言葉が口をついて出てきたものなのか?」と。それに対して大野は以下のように答えた。

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つまり、譜面に集中し、作者の心を掴もうと悩みに悩み、そして一心不乱にタクトを振る…。すると、作者の心、魂が大野氏に乗り移ったような体験をするのだという。その上で大野氏は、「(私は楽団員に)このように演奏して欲しい」と、一本の目に見えぬ糸のようなものが頭に浮かび、それが自然に言葉になって口をついて出てくるのだと語る。この大野氏の「糸」という言葉の持つ意味については、大野氏と原田女史の間で交わされた、ベートーヴェンから始まってタクトを振る練習に至るまでのシーンで語られている。

もう一つ、思わず身を乗り出した大野氏の言葉があった。それは、大野氏がクロアチア紛争中も、タクトを振り続けていたという話だ。また、紛争の間、大野氏と楽団員は一度も定期演奏会を休まなかったという。

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さらに感動したのは、紛争という大変な時期であったにも拘わらず、平和時よりも却って大勢の人たちが演奏場に駆け付けたという実話だ。この大野氏の言葉を耳にした時、咄嗟に脳裏に浮かんだのがフルトヴェングラーだった。そのあたりについては、旧ブログでも紹介した宇野功芳氏と中野雄氏の言葉を、ここでも再掲しておきたい。

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シューベルト《グレイト》ベルリン・フィル 1942年

・おそらく彼(フルトヴェングラー)の数多いレコードの中で最も、燃え切り、自己の内面を赤裸々にさらけ出したのは、ベートーヴェンの《第五》とこのシューベルトの《グレイト》であろう。(宇野功芳)

・(第二次大戦という状況下における)指揮者(フルトヴェングラー)と楽団員の明日なき思いが聴く者の胸を抉る。(中野雄)

クラシックのすすめ


さて、オペラ部門の芸術監督に就任した大野氏、本邦初の日本語によるオペラ、『紫苑物語』をプロデュース、先々月の1月31日に上演の運びに至っている。その『紫苑物語』、BSプレミアム「プレミアムシアター」で3月25日に放送されるとのこと。これは是非に録画し、鑑賞したい。何故なら、大野氏の作品は、日本のオペラに「革命」を起こすという予感がするからだ。

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【追記】
音楽は心をつなぐ


釜ヶ崎
NHKの「新日本風土記」という番組、民俗学に関心のある身として毎回放送を楽しみにしている。しかし、時には社会の底辺を描いた番組も放送されることもあり、しかも内容的に実に興味深い。たとえば、「東京の夏」という番組を新日本風土記で放送したことがあるが、その中でテキヤが登場するシーンがあった。このあたりは拙稿「プロポーズを受けたら、二つ返事でOK…」で簡単に取り上げたことがあるが、今回の「釜ヶ崎」も実に良かった。

大阪市西成区にある通称・釜ヶ崎は、日本の経済成長を支えてきた労働者の街だ。その日暮らしをする人々、彼らを支える街の人たち……。冬の釜ヶ崎の今と、人情を見つめる。

釜ヶ崎の朝は日の出前から始まる。仕事をあっせんする手配師と呼ばれる人々と、その日の仕事を求める人たちとの交渉の様子を紹介。現場は? 賃金は? 50年以上続いてきた光景だ。いま街では高齢や体の不調で働けない人たちが多くなっている。そんな彼らを癒す憩いの場とは? 

また、人々の人生が詰まった貸しロッカーの中身も取材。その中に入っていたものとは? 厳冬の季節になると毎年路上で亡くなる人も。そうさせないために夜の街で行われている大人たちや子供たちの取り組みも紹介する。


西が釜ヶ崎なら、東の〝釜ヶ崎〟が山谷だ。そして、山谷という言葉に接すると、岡林信康の「山谷ブルース」を思い出さずにはいられない。



「人は山谷を 悪くいう だけど俺たち いなくなりゃ ビルもビルも 道路もできゃしねぇ」と歌う、岡林の言葉が胸に突き刺さる。「釜ヶ崎」でも以下のシーンが…。

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また、以下のシーンも強く印象に残った。

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釜ヶ崎ガイドツアー

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中年男性(53歳)が入社式に着ていく服を探していたところ、、100円のジャケットをゲット

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釜ヶ崎で生まれ育つ子供たちが、路上生活者に食べ物を配る…

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二人の武士 02
二人の武士(もののふ)」と題する拙稿を半年ほど前にアップし、「この二人の武士による、今後の活躍に期待したい」という結語を亀さんは書いた。「この二人の武士」とは、世界戦略情報誌『みち』の安西正鷹さんと、ブログ『文殊菩薩』の野崎晃市博士を指す。

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今月二月に行われたまほろば会で配布されたという、安西ファイルの主テーマは英国の経済誌『The Economist』についてであり、亀さんは冒頭の記述に注目した。

イギリスの政治経済誌『エコノミスト(The Economist)』の特集号『世界はこうなる』に関して、『エコノミスト』の特徴を詳しく見ていくとともに、同誌がなぜ世界寡頭権力のプロパガンダの道具なのかについて、歴史を遡りつつ、この雑誌を編集・発行した者たちの狙いを暴くことを通じて解明していく。


詳細は数か月後に『みち』に掲載されると思うので、そちらを参照していただくとして、安西さんは同ファイルでThe Economist誌は、「世界寡頭権力のプロパガンダ用メディア」と明確に述べている。やはり三十代の頃に同誌を数年購読してきた身として、安西さんの主張に全く以て同感だ。

ところで、この「世界寡頭権力」と対峙するトランプについて、野崎博士が「トランプがファーウェイ禁止に反対」という最新記事を書いているが、以下の結語は印象的だ。

トランプの真の敵は中国ファーウェイではなく、税金不払いや情報収集が問題とされてきたアップルやGoogle


まさに…。安西さんの謂う「世界寡頭権力」の一角を占めているのが、野崎博士の言及する「アップルやGoogle」に他ならず、同様な視座から亀さんも以下のような記事を書いている。

こうした海底ケーブルの上陸地点は非常に重大な意味を持ち、(漏洩された米外交文書によれば)アメリカ合衆国国土安全保障省はこれらを重要な国家インフラと位置づけている。インターネットが通信を牽引する新しい世界にあって、大西洋東端の英国はその中核的な位置を占めている。世界のインターネットトラフィックの25%が英領土をケーブルで通る。接続先は米国、ヨーロッパ、アフリカなど。残るトラフィックの大部分は米国を発着地点としている。したがって、地球上で急増するデータフローのほとんどは、英米がそのホスト役を担っていることになる。

両国の諜報機関はここぞとばかりに、これらの海底ケーブルを盗聴しようと考えた。過去の歴史を考えれば、それは不思議でも何でもない。技術の変遷にともない、両国は無線通信を傍受し、続いてマイクロ波ビーム、そして衛星回線を傍受してきた。最新の光ファイバーシステムで大量にやりとりされるインターネットデータや通話データに手をつけようとするのは、理の当然である。

『スノーデンファイル』p.156
サバイバル - 通信篇その1


今から15年ほど前、亀さんは『エシュロンと情報戦争』(鍛冶俊樹 文春新書)という本を読み、電子メールや電話が傍受されていることを知った。だから、プーチンやメルケルではないが、〝敵〟に聞かれていることを前提に今まで携帯電話を使ったり、パソコンでメールを使ったりしてきた。どうしても漏らしたくない情報は、昔やっていた方法に戻った。たとえば、ネットに接続されていないタイプライターやワープロで文章を作成したり(郵送してはいけない)、コタツを囲んで語り合うといった方法だ(盗聴に注意のこと)。
サバイバル - 通信篇その2


ともあれ、今年もお二人の言論活動に注目していこうではないか。

【追伸】
最近の掲示板「放知技」で活発に交わされている、mespesadoさんとConganasさんとの間のやり取り、アベノミクスの実態や財政政策の正体に関心のある読者にとって、必読のスレとなっている。たとえば…

金融政策が失敗し、財政政策も失敗しているのでアベノミクスは失敗と考えてさしつかえないと思います。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16675542/41/


このConganasさんの投稿だけではピンと来ないと思うので、スレッド「新時代を冷徹に読み解くおっさんたちの激論スレー37-」全体に目を通して欲しいと思う。

知覧と特攻隊
先月、サンフラワー号で志布志に向かっていた時の話である。酒を酌み交わしつつ、話が盛り上がっていた時、堺のおっさんが急に、「知覧へ行こう」と切り出してきた。そして、亀さんも「行こう!」と、即座に応えている。

亀さんにとって、知覧と言えば特攻隊である。知覧と特攻隊について知るようになったのは、十年以上前で、『ビッグコミックオリジナル』に連載中だった、「あんどーなつ」を見て以来だ。

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『あんどーなつ』第6巻 p.68~69

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『あんどーなつ』第6巻 p.86~87

本記事を書くため、久しぶりに同漫画をパラパラと捲ってみたところ、主人公である安藤奈津と一緒に知覧の地を訪れた、老人の心の呟きが胸に突き刺さった。それは、赤線で示した「いまの日本は、平和です」という行で、過日の皇太子殿下のお言葉を髣髴とさせるものがある(下線は亀さん)。

陛下がおっしゃっているように、平成が戦争のない時代として終わろうとしているわけですが、戦後長く続いてきた平和な日本の社会において、この国の未来を担う若い人たちが、夢を大切にしながら自分の能力を発揮できる環境が整ってきたことの証(あかし)であると思います。私も、これまでいろいろな場で若い方々と御一緒する機会を大切にし、その熱意や息吹を感じて心強く思ってまいりましたが、これからも若い世代の活躍を願いつつ、見守っていきたいと思っております。
https://www.sankei.com/life/news/190223/lif1902230005-n6.html

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特攻隊を描いた映画は数多くあれど、「紙屋悦子の青春」より優れた特攻隊の映画はないように、個人的には思う。それは、当時の時代背景だけではなく、若くして散った青年らの心のうちを、余すところなく描いている映画だったからだ。

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それにしても、当時の特攻隊隊員は十代から二十代前半だったと聞く。彼らの年齢に達した二人の息子を持つ身として、当時の親の気持ちが痛いほど分かった…

収穫の多かった今回の志布志への旅で、知覧特攻平和会館行きが実現できなかったのは残念だったが、飯山史観の最終編集段階で同地を再訪し、今度こそは同会館を訪れてみよう。



古墳時代 05
本シリーズでは既に4本の記事を残しているが、記事の核となっているのは飯山(一郎)さんから直接受けた講義であり、2016年10月3日から6日にかけて中国の青州で第一回目の講義を受け、続く2018年3月3日~4日に第二回目を大阪で受けている。そして、『飯山一郎最終講義』(飯山一郎・野崎晃市共著 銀河書籍)への寄稿「飯山史観を後世に遺す」にも書いたことだが、本来であれば第三回目、すなわち飯山さんが全部で三回あるよと仰せだった講義の最終回を、今年あたり志布志で受けるはずであった。

亀さんには、青州、そして今回の大阪と、私の古代史観を伝えてきたが、これで終わりではありません。もう一回会う必要があります。そうすれば、亀さんに伝えたい私の古代史講座は完結します。だから、今度は志布志市でお会いしましょう!!!!!
『飯山一郎最終講義』p.147


しかし、2018年7月20日に飯山さんが逝去、最終講義は幻の講義になったと、当初は思っていた。ところが、野崎晃市博士が飯山さんが逝去した当日受けた最終講義こそ、飯山さんが亀さんにも受けてほしいと思っておられた最終講義であったことが、今年の1月下旬に志布志市を初訪問したことで追認できたのである。その意味で、飯山さんによる最終講義を志布志で〝受けることができたのは、多忙であったのにも拘わらず、案内していただいた在志布志の同志のお蔭であり、ここに心から感謝の意を表したい。本当にありがとう。

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当初の飯山史観の編集方針として、応神天皇、天武天皇、そして南北朝を中心に、飯山さんが遺してくれた膨大な飯山HP(てげてげHP)の記事や、掲示板「放知技」の飯山さんの投稿を、一つずつ丹念にチェックしていく作業を進めることで、飯山史観という巨大なジグソーパズルを完成させるつもりでいたのだが、応神天皇、天武天皇、そして南北朝だけではなく、南北朝から現代に至るまで、否、新天皇の御代になって以降の日本についての見通しも書かねばと、先月の志布志訪問で痛切した次第である。何故なら、「飯山史観を後世に遺す」ことで、5月1日以降がどのような時代になるのか、そして我々はどのように生きていけばよいのかという見取り図を示すことで、初めて「飯山史観を後世に遺す」という作業が完成すると思うに至ったからである。

新天皇となるべき御仁には,畏れ多いことながら,「バサラ(婆娑羅)」をお許しになる“徳”の深さが垣間見える.

来るべき新時代は,旧時代とは一味(ひとあじ)違った躍動感あふれる「ダイナミック・ニッポン」といった様相を呈するはずである.

◆平成30/02/18(日)  「匠(たくみ)」の熟練された神ワザは…


ここで注目すべきは、誕生日会見における皇太子殿下のお言葉である。

この国の未来を担う若い人たちが、夢を大切にしながら自分の能力を発揮できる環境が整ってきたことの証であると思います。

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ともあれ、当面手掛けていかなければならないのは応神天皇だ。膨大な飯山HPの記事や放知技の投稿から、ジグソーパズルの一部となる「応神天皇」関連のピースを一つずつ探していき、これはと思うピースをはめていく作業に、これから本格的に着手していきたい。無論、その間も本業(翻訳)に追われていない限り、拙ブログに飯山史観や他のテーマを、今まで通り書き連ねていく所存である。

ちなみに、この古墳時代シリーズだけでも、書きたいテーマが以下のようにある。

・外圧と占領
・応神天皇の出自
・墳丘墓(クルガン)と古墳
・武士の誕生
・志布志ハブ港
・唐仁古墳群
・原田古墳
・横瀬古墳
・ツランの影響
・太陽信仰と聖方位
・熊襲と隼人
・知覧 


まだまだ書きたい古墳時代のテーマが続々と出てきそうだが、その都度、作業日誌として記事にしていくつもりだ。

神の正体
過日の放知技で旧ブログ記事「生命の設計図」を紹介したが、久しぶりに世界戦略情報誌『みち』の天童編集長の玉稿を再読し、改めて神とは何かという長年の疑問に思索を巡らせた次第である。その天童編集長の玉稿だが、神の正体について考える上で重要な足掛かりになると判断したので、本稿の最後に再掲しておいた。

亀さんが神とは何かについて思索を巡らすことを始めたのは、自殺をしようかとまで思い詰めた二十代前半だったと思う。

筆者は二十代のはじめ、人生に行き詰まって自殺を考えていた一時がありました。そんなおり、ニューヨークの日本レストランで一緒に働いていた友人の地元、群馬県沼田市の実家に数日泊めてもらい、その間に友人に尾瀬ヶ原を案内してもらったことがあります。季節は5月連休直前だったと記憶しています。車で大清水に到着した時は未だ辺りが真っ暗闇でした。車から降りて徒歩で尾瀬ヶ原に近づくにつれて、周囲も明るくなり始めたものの、依然としてあたりは濃霧に包まれて何も見えませんでした。やがて、嘘のように霧が晴れると、目の前には雄大な尾瀬ヶ原の大自然が忽然と姿を現したのです。その時、まさに人智を超越した「ある存在」を感じ取りました。
『真贋大江山系霊媒衆』

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雪雫 早春の尾瀬ヶ原


爾来、神とは何かについての自問自答が始まったのである。神についての思索の変遷については別の機会に譲るとして、ここでは天童編集長の記事「生命の設計図」について、思うところを簡単に書いておこう。

渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者(亀さん注 栗原茂)の見解でもなく、悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報であり、言葉を換えて言えば、その情報こそが神なのである。


上掲の記述を久しぶりに目にして、改めて二十代前半の尾瀬ヶ原での体験が、「悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した」第一歩になったのだと分かる。尤も、当時は「神=情報」だとは思いもよらなかったし、上掲の天童稿を読んだ時もピンと来なかったというのが正直なところだ。その後も幾度か思索を重ねてきたが、未だに情報=神ということに納得ができないでいる自分がいる。このあたり、天童編集長も以下のように書いていた。

「本義の時間と空間に刻まれる情報が神の正体である」と言われても、難解すぎてすぐには理解できない。ここに使われている「情報」という言葉からして、われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいるようである。


天童編集長の言葉にあるように、栗原さんの謂う「情報」が、「われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいる」ことだけは確かのようだ。そしてつくづく思ったことは、栗原さんの謂う「情報」、これは頭で理解しようとしても土台無理な話のようで、やはり身体全体で識るか感じ取るしかないのだろう。

また、天童稿には以下のような記述もある。

渡辺格七三歳と出会うのは同年秋、場所は藤井尚治六八歳が瞑想を行なう所で、およそ二時間の坐禅の後に約二時間の鼎談が続いた。


天童稿に登場する藤井尚治博士については、拙ブログでも幾たびか取り上げているので、藤井先生の人となりについては割愛するが、瞑想・座禅という言葉から脳裏に浮かんだのは、NHK番組「こころの時代」の「唯識に生きる」シリーズ(全六回)であった。一応録画してあるので、近くじっくりと観るつもりである。

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しかし、天童稿を読み進めていくうち、栗原さんの謂う「神=情報」の「情報」に一歩近づく手段の一つが、言霊を識ることではないかと思った。そう思うに至ったのは、天童稿の以下の記述にある。

 栗原さんの日ごろの教えは、言霊の考えこそが現代科学を乗り越える鍵であるというものだが、日本語の一音一音に意味があることにやっと気づいた私としては、言霊について一知半解の言辞を連ねることは差し控えて、後日に期すというほかない。


この行を読み、日本語に関する以下の天童稿や、書架に眠る数冊の言霊に関する書籍を再読するべきだなと痛切した次第である。
北満州と日本列島 04 日本語の源流
ハンガリーと日本 「膠着語」「孤立語」「屈折語」、それぞれの違いについて
乳酸菌と漫画 日本語特有の擬声語(西洋で云うオノマトペとは異なる)

ところで、天童稿にある「悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報」という行を読むに及んで、思い出したのが過日の放知技で紹介したJinmoさんの言葉だ。

藤原氏のこの断言を耳にした時、電撃的直感で、「岩戸」という言葉の持つ言霊が、播州の生石神社の御神体天乃浮石と連結し、氏の言葉に布置(Konstellation)されたものを見出していた私だった。神々を再臨させ、神々による現実的な霊的関与によってこの地上の秩序回復を求める儀式を斎行すべき場所が曙光に照らし出されたかの様な思いに駆られたのだ。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/430/

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さらに、昨日届いた『みち』の「寄絃乃儀」で、今年の五月一日にJinmoさんが挙行する、「地上の秩序回復を求める儀式の斎行」について、生石(おうしこ)神社の東久祠宮司が以下のように断言したとある。

宮司として断言いたします。その時、必ずや神がここに降り立ちます。


宮司の断言に対して、Jinmoさんは以下のように書いているのだ。

東久祠宮司の予言は必ずや成就する。


生石神社に神が降り立つのを体験できるのであれば、これは己れの人生にとって最初にして最後のチャンスになるのでは、という予感がしてきた。そこで、同神社の儀式の斎行に臨席できるかどうかを確認するため、天童編集長に幾度か電話したが、話し中のため通じない。多分、15日に発行された『みち』に同封されていた、Jinmoさんの「声明文」についての問い合わせが殺到しているのだろう。そこでメールを先ほど送信したのだが、何等かの回答があったら、次稿あたりでJinmoさんの「声明文」について紹介しよう。

巻頭言 栗原茂「生命の設計図、それが神である」 天童竺丸
●分子生物学者の渡辺格さんが「生命の設計図は遺伝子の構造の中にない」と言われたことについて本欄で少しく考えを記したところ、同志の栗原茂さんから「渡辺格さんと直接会って話をした」と教えられた。聞き捨てならぬことである。

 それについて、ぜひとも栗原さんにじっくり話を聞きたいものだと願っていた矢先、何と栗原さん自ら渡辺さんとの話を踏まえ「生命の設計図はどこからくるか」という問題について一大論文を書き上げ贈って下さった。

 それはA4判用紙に一行四一文字、一枚四〇行の体裁で書かれ、全体では前文を含めると一六頁になる。ざっと計算しただけでも、原稿用紙にすれば六〇枚以上にも及ぶ、大へんな労作である。それも、先の巻頭言を読まれてからほとんど時間の経たない内に届けて下さった。一気に書き上げられたもの思われる。

 おそらくは拙文の隔靴掻痒的な稚拙さとズバリ的に迫れない逡巡とを見るに見かね、自ら筆を執って結論を下されたものと推察する。

 栗原茂さんが「生命の設計図はどこからくるか」という問題に対し下した結論は、「それは神からくる」というものだった。

●栗原茂さんが渡辺さんに直接会ったのは今を去ること一八年前の平成元年のことだった。ちょうど昭和天皇が崩御されて年号が平成に改まった年の秋であった。実はそのとき、もう一人の碩学がいて、話は三人の鼎談の形式で行なわれたという。その辺りの消息について、栗原さんから戴いた文章から引用させてもらう。(原文は句読点を限りなく省略した難解な文章であるため、読者の便宜を考えて句読点を付加し、一部の語句を改変したことをお断りしておく)

 渡辺格七三歳と出会うのは同年秋、場所は藤井尚治六八歳が瞑想を行なう所で、およそ二時間の坐禅の後に約二時間の鼎談が続いた。議題は宇宙生命の本質について。相互の意見交換を行なうことで空間を埋めたが、刻まれる時間は、世俗が支配される交流回路とは異なって、天空を透過する直流回路のごとく無駄なく働いた。

 ここに登場する「藤井尚治六八歳」とは、銀座内科診療所院長として永く著名であった。同時に、早くにハンス・セリエ博士のストレス学説に注目し日本におけるその研究と紹介に貴重な業績を残した人物でもある。

 懇切にも栗原さんがわざわざ持ってきて貸して下さった藤井さんの著書二冊のうちの一冊、『脱魂のすすめ』(一九八三年、東明社刊)の奥付にある「著者略歴」には次のように記されている。

藤井尚治(なおはる) 医師、法博
大正一〇年東京生まれ。
昭和一七年東京大学医学部卒、同精神科入局。
昭和一八年軍医として応召。
昭和二二年復員後セリエ博士に共鳴、杉靖三郎氏らとともにストレス研究に従事。
昭和三〇年銀座内科医院長。
昭和四六年財団法人ストレス研究会理事長

 そして藤井尚治さんは平成九年四月一九日、折しも数え年七六歳の誕生日に亡くなられた。

『還元主義を超えて』(一九六九年)でニュー・エイジ運動の旗頭となったハンガリーに生まれた亡命ユダヤ人、アーサー・ケストラーが来日したとき銀座内科に藤井さんを訪ねてきて歓談を尽したというエピソードは、藤原肇・藤井尚治『間脳幻想』(東興書院、一九九八年刊)で読んだことがある。直接お会いしたことはないので、同書に纏められた対談および「あとがき」から得た印象だけに頼っていえば、まさしく機略縦横、天衣無縫を地で行くような天才肌の人である。

 藤井尚治さんについて、栗原さんはこう書いている。

 藤井はノーベル賞ノミネートの評議を求められる立場にあるため、デルブリュックを含め訪日学派の目的を本人に聞くまでもなく知り得ており、決して自らの立場を明かさない。当然渡辺も、藤井が何者かは表面上のことしか知り得ない。

 その藤井尚治と渡辺格と栗原茂とが交わした鼎談がいかなるものであったか。栗原さんはただ「刻まれる時間は、世俗が支配される交流回路とは異なって、天空を透過する直流回路のごとく無駄なく働いた」と素っ気なく伝えるのみである。

●栗原さんから渡辺格と話したという話を最初に教えられたとき、渡辺さんが「生命の設計図は天空から来る」という意味のことを語った、と聞いたと思って、先に「遺伝子の構造の中に生命の設計図はないと断言された渡辺さんは、ではどこから生命の設計図は来るのか、ちゃんと話をされていた。それだけは言える」と書いたのは、どうやら私の早とちりによる勘違いだったようである。

 というのも、栗原さんが次のように書いて教えているからである。

 参考に値しない現代ジャーナリズム主義から報道される情報は、渡辺に限らず発信が誰であれ、すべて意の制御が利かない情と知の先行だと知るべきである。

 筆者の知る渡辺は、現代学術に多くの矛盾を指摘しうる能力を備えていたが、学派という無理からぬ生き方もあり、相当の悩みを抱えストレスに苦しんでいた。それが生命の儚さに通じる死霊の研究とも共感するのだろうが、神の正体が本義の時間と空間に刻まれる情報とは気づかずに、鬼籍に入ることとはなった。(合掌)

 つまり、栗原茂さんの考えによれば、傍線を施した所にあるように、神とは「本義の時間と空間に刻まれる情報」であり、後に詳しく紹介するように、「その神から生命の設計図は来る」と言えるのだが、渡辺格さんはそれに気づいていなかった、と手厳しい判断を下していることになる。

 実証を旨とする分子生物学者として、渡辺さんが神を持ちださなかったのは一種の学者的良心だったともいえようが、現代科学の矛盾と限界に気づいたからには百尺竿頭をさらに一歩進めて、現代科学を乗り越える地平に立つべきであった、というのが渡辺さんと鼎談を交わした栗原さんの思いであるようだ。

 だから、栗原さんは次のように批判する。

 渡辺が「遺伝子の構造の中に生命の設計図はない」と断言しうる根拠は、分光のスペクトルを観測する法に卓越したからで、フィンランドに行って電子立国を手助けした窪田規(くぼたただし)も同じであって、色の観測法に優れた者なら等しく知るところであり、あえていうなら、物理化学の基本なのである。

 ただし、理を学ぶ術の分野に生きる学派は、言霊を批判あるいは懐疑的に捉えて成り立つ職能集団であるゆえに、核心を突くことができない。もっぱら科(とが)を学ぶ術の制度により、細分化された学派が競い争うことから、総論賛成・各論反対という無責任な態度に終始するのみである。

 したがって、渡辺が「遺伝子の構造の中に生命の設計図はない」と断言はできても、「では生命の設計図はどこから来るか」という問題に答えを出せないのは仕方ない。

 生命の設計図について鼎談の中で出現した回答は、渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者の見解でもなく、悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報であり、言葉を換えて言えば、その情報こそが神なのである。

 文章の表面的な字面だけに拘るなら、これは見神の体験を語っているように受けとれるかも知れない。もしそうであるなら、神を見るという神秘体験を経験したことのない者には、想像するだにできない無縁な話ということになるだろう。

 だが、奇しき縁あって日ごろ親しく薫陶をいただいている私には、これが単なる神秘体験を語ったものではないことが分かる。神秘体験だけならば、言葉になりえないもので、あえて言葉にするにしても、こういう文章でなくもっと象徴的にしか語れないはずだ。栗原さんはそうではない。神秘体験は確かにあったのだろう。だが、それを開かれた言葉に表現すべく、栗原さんが壮大な努力を重ねてきたことを、私は知っている。

 ここで注目すべき個所は二つ、傍線を引いた部分である。ただ最初の言霊云々の部分は、栗原さんが言霊理論に刮目してメンデレーエフの元素周期表を読み替え、その足らざるを補うという難業を完遂したことを知らなければ、ほとんど意味をなすまい。

 栗原さんの日ごろの教えは、言霊の考えこそが現代科学を乗り越える鍵であるというものだが、日本語の一音一音に意味があることにやっと気づいた私としては、言霊について一知半解の言辞を連ねることは差し控えて、後日に期すというほかない。

 ただし、後段の傍線部については、私にも言えることがある。不思議にも、栗原さんに会うと、何も言葉を交わさなくてもビンビンと響いてくるものがある。私の中の何かが共振して止まない感じなのだ。共振し合うのかどうか、それは分からない。栗原さんの方の反応が審らかでないからである。

 そのかすかな手がかりを頼りに言うのだが、ここで栗原さんは、「生命の設計図がどこから来るか」という問いそのもの、問いの立て方自体が間違いだと言っているように思われる。

 生命の設計図がどこから来るのかと尋ねることはどこまでも原因を求めていく一種の還元論に陥ることである、との洞察が栗原さんにあるのだと考えられる。

 だから「その情報こそが神である」という言葉が出てくるのだ。そして、前の引用個所(傍線部分)で、神の正体を「本義の時間と空間に刻まれる情報」だと言っているのとも符合する。

 生命の設計図がどこから来るのかという問いに即していえば、生命の設計図はどこからも来ない、生命の設計図そのものが神なのだから……というのが、栗原さんの感得ではなかろうか。 

 そしてそれは、「渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者の見解でもない」と言っていることにも連動している。個人が立てた学説とか見解ではないとすれば、その場にいた者に感得された何かであろうと推測するしかない。

 ただ、生命の設計図がどこから来るかと問うことを止め、設計図そのものが宇宙を形づくる「情報」の一環だと捉えることは、大逆転の発想だと言わなければならない。

 だが、「本義の時間と空間に刻まれる情報が神の正体である」と言われても、難解すぎてすぐには理解できない。ここに使われている「情報」という言葉からして、われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいるようである。

 それは栗原さん自身もよく分かっている。だからこそ、わざわざ原稿用紙六〇枚以上にも垂んとするメモを届けて下さったのである。

●本論に入る前の注意書きとの意味で表裏二頁の「前文」を書いて下さったと思われるが、その前文の部分に普通の論文なら結論部に来るような洞察が満ちている。

 すなわち、設計図は元より実証なくして描けるものではない。生命とは混沌から発するものであるが、その混沌もまた自らを制御しうるエネルギーをすべて備えているのである。

 例えば、銀河系から誕生している太陽系に限定してみても、悠久の時間と空間がなければ生まれ出るわけもなく、時空に刻まれる情報(実証)なくして、設計図など描きようがないのである。

 さらに、地球生命についてみても、陽光が水を生み出す空間の距離関係から、水に相応しい生命の禊祓を通じて悠久の時間を刻む細胞一個ずつに遺伝情報が刻まれる。

 ただし、遺伝子は太陽と地球と月、つまり混沌が整備に向かう過程の情報を所有しなくても生きられるという特徴をもつ。なぜなら、遺伝子とは染色体一部の生命であり、地球本体に対応する大気圏がなければ、生きていける根拠がなく、また水の星を補佐し補完する月の働きなくして生きていける根拠がなく、禊祓なくして染色体は生まれないからである。

 難解な文章であると白状しなければならない。よくよく注意して、前後を睨みながら読まなければ、意味が通らない。

 たとえば、ここに言われている混沌は「自らを制御するエネルギーをすべて備えている」とあるが、もしそうであるなら、混沌とは秩序と同義であることになる。われわれの通常の言語では、混沌と秩序は正反対の意味をもつ対立語なのだが……。

 能う限り栗原さんの意図に則しつつ真意を推し量ることで、何とか前後の脈絡をつなげていくしかない。

 群盲象を評すの愚に陥ることを覚悟でいうのだが、太陽系の誕生からして悠久の時空に刻まれる情報がなければ実現しなかった、というのが栗原さんの言いたいことであろうか。

 さらにいえば、太陽系のみならず、銀河系の誕生そのものも、この悠久の時空に刻まれた情報がなければ誕生しなかったと言えるのではないか。

 だが、「水に相応しい生命の禊祓を通じて悠久の時間を刻む細胞一個ずつに遺伝情報が刻まれる」とは、にわかには理解の及ばない表現である。

「水に相応しい生命の禊祓」とは何か。「悠久の時間を刻む細胞」とは何か。通常の常識ではとても歯が立たないと諦めたくなる気持ちにも駆られる。

 だが、ここには大事な何かがある。どうしても分からなければ、栗原さんを捕まえて、一語一句について意味を尋ねることも、幸いなことにできないわけではない。

 それに、ただ私のためにこれほどの労を惜しまれなかった志に応えるためにも、この難解な文章に立ち向かい、誤解を恐れずに私なりの理解を通さなければならない。栗原さんが下さったこの一文は、これまでのささやかな営みの次なる第一歩に必ず繋がるという確信があるからである。


歌舞伎と遊女
歌舞伎の元祖は、お国(出雲阿国)という遊女であった。以下は、ウィキペディアの「歌舞伎」の項に載る、お国の画像だ。

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遊女については拙ブログでも、「峰不二子と遊女」をアップしたことがあり、その中で、網野善彦の著した『異形の王権』を取り上げている。実は、飯山(一郎)さんも「てげてげHP」で同書を紹介しており、中でも注目すべきは以下の記述だ。

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『異形の王権』(網野善彦著)に登場する魑魅魍魎とした「異形の者達」が社会変革を主導した後醍醐天皇の御代.

あの躍動的な時代が…,おそらく,新天皇の御代に,またもや復興してくる予感が,ワシにはある.

新天皇となるべき御仁には,畏れ多いことながら,「バサラ(婆娑羅)」をお許しになる“徳”の深さが垣間見える.

来るべき新時代は,旧時代とは一味(ひとあじ)違った躍動感あふれる「ダイナミック・ニッポン」といった様相を呈するはずである.


◆平成30/02/18(日)  「匠(たくみ)」の熟練された神ワザは…


神計らいで、数週間前に肆部合の石碑を訪れた。飯山さんの言う婆娑羅の時代が到来するかどうかについては、掲示板「放知技」の本スレの常連さん、すなわち堺のおっさん、mespesadoさん、Conganasさん、ままりんさん、そして猿都瑠さんの投稿を熟読すれば、自ずと世界が大きく変わりつつある兆候が読み取れるだろうし、その意味で、実に面白い時代に生まれたものよと、天に感謝したい気持ちで一杯になる。

さて、ウィキペディアの「歌舞伎」の項に戻り、歌舞伎の元祖お国が遊女だったかどうかはともかく、『異形の王権』に注目すべき記述がある。

鎌倉期までは「公民」に所属するものとして、また神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。

……中略……

遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。

『異形の王権』p.241


何故に「遊女もまた、ここに聖から賤に転落した」のか、このあたりを深堀すると、南北朝以降の時代背景と重なるであろう、新天皇の御代が朧気ながらも見えてくる。

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長々と遊女について書いてきたが、もう一つの主テーマである歌舞伎、最近放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」で、六代目・中村勘九郎が登場していたので注目した。「ファミリーヒストリー」は、拙ブログでも幾度か取り上げているが、今回の内容も実に良かった。それにしても、毎回同番組を見るたびに思うのは、父から子へ、そして子から孫へと受け継がれていくDNAである。

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それから、六代目・尾上菊五郎の人物に惚れた。菊五郎は妾の子として生を享け、早くに父を亡くし、大変な苦労を重ねた歌舞伎役者だったが、それだけに、同じように早くに歌舞伎役者の父を亡くした、子供たちの後ろ盾となって支援したという生き様は、人として実に偉いと思った次第である。

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また、中村勘九郎の父であった十八代目 中村 勘三郎が、平成中村座を命を削って立ち上げたことを知るに及んで、今度公演があったら一度足を運んでみたいと思った。

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中村勘九郎の二人の息子の初舞台

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中村勘九郎本人の初舞台

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息子の初舞台を心配そうに見守る父の十八代目 中村 勘三郎

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十八代目 中村 勘三郎の初舞台と父の十七代目 中村勘三郎

半世紀ほど前、『歌舞伎の見方』(石田一良 講談社現代新書)という本を入手したものの、積読のままなのだ。平成中村座に行くことが決まったら、予め目を通したいと思う。

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歌とシャーマン 2
拙稿「歌とシャーマン」で取り上げた「歌とシャーマン」(福寛美 南方新社)は、志布志からの帰りの船の中で読了、続いて『怨歌の誕生』(五木寛之 双葉文庫)は、数日前にお江戸両国亭に行った時の車中で半分ほど読み終え、帰宅後に残りを仕事の合間に一気に読了した。ちなみに、お江戸両国亭で高座を務めた落語家とのご苦労さん会でも、亀さんはポケットから通読中の『怨歌の誕生』を取り出し、藤圭子について少し話をしている。

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亀さんが『歌とシャーマン』という本に深い関心を寄せたのは、上掲の拙稿「歌とシャーマン」で紹介した飯山(一郎)さんの言葉、「天皇家と日本民族の根底にあるシャーマニズムの本質にせまる「音楽論」でもある」にもあるように、日本の本質=シャーマニズムを歌という観点から抉り出してみせた本だったからだ。

拙稿「歌とシャーマン」を書いた時点では、同書を未だ入手していなかったのだが、読了した今、簡単な同書の読後感を以下に書いておこう。

■瞽女
ウィキペディアによれば、「瞽女(ごぜ)」とは「日本の女性の盲人芸能者」とある。表層的には確かにそれで間違いはないのだが、そこには「霊性」の視点が欠けている。ウィキペディアはさらに続けて、瞽女とは「三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人」と追記しているのだが、『歌とシャーマン』の著者である福女史の場合、瞽女について以下のように書き表している。

瞽女の歌にはこのように霊力が認められていました。それと同時に瞽女は人気の高い芸能者でもありました。通俗的な歌でありながら非日常的な霊力を発揮する歌、という瞽女の歌のあり方に思いを致す時、藤圭子の歌の哀調、凄み、そして人の魂をゆさぶる激しさを著者は想起します。
『歌とシャーマン』p.53


ここで、五木寛之も魂をゆさぶられた一人だったことを書いておこう。ちなみに、下掲で「私」(五木)が言及しているLPレコードは藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」で、どうやら、「私」である五木の弟が置き忘れたものだったようだ。その弟のLPレコードを偶然手にした五木は、軽い気持ちでプレーヤーにかけた…

そんなわけで、私は深夜、どうしようもない行きづまった気分のままそのLPレコードを聞くまで、藤圭子という歌手に興味もなかったし、特別な印象もなかったと言っていい。ところが、その晩、不思議なことが起こったのだ。私がかけたレコードは、これまでに聞いたどんな流行歌にも似ておらず、その歌い手の声は私の耳ではなく体の奥のほうにまで、深くつき刺さってくるような感じをあたえたのだった。
『怨歌の誕生』p.237~238


五木の云う、「その歌い手の声は私の耳ではなく体の奥のほうにまで、深くつき刺さってくるような感じ」の正体は何か…。すでに『歌とシャーマン』に目を通し、瞽女の歌の本質を知った読者であれば、その正体が分かっていることだろう。

なお、上掲の五木の文章は、「怨歌の誕生」という短編小説の一節であり、同題名の書『怨歌の誕生』には「怨歌の誕生」のほか、三本の短編が一緒におさめられている。

五木が短編小説「怨歌の誕生」を発表したのは1970年8月とある。五木は1932年9月30日生まれだから、五木38歳の時の作品だ。それから49年近い歳月が流れているが、もし、五木が福寛美の『歌とシャーマン』を今読んだとしたら、どのように感じるだろうかと、ふと思った。それは、拙稿「一日一生」にも書いたことだが、半世紀が経った今日の五木は、「見えない世界」へ大きく軸足を移したであろうと、容易に想像できるからだ。五木よりも20歳下の亀さんですら、四十代後半に突入したあたりから、徐々に「見えない世界」へ軸足が移るという体験をしているだけに、なおさら五木の読後感に関心がある。

生まれたばかりの赤ん坊は、見えない世界の感覚で、この世を生きています。それが歳を経るごとに、見える世界の部分が多くなり、もう見えない世界の記憶などまったく忘れてしまう。

それが人生の後半になると、いままで影を潜めていた見えない世界とのかかわりがふたたびはじまり、自分の中の、見える世界と、見えない世界との割合が逆転してくる。そして、軸足が徐々に見えない世界に移っていくのではないでしょうか。

『百歳人生を生きるヒント』p.207~208


■霊力
福女史は「おわりに」で、重要なことを書いている。

霊力はシャーマンでなければ見ることも感じることもできず、捉えがたいものではありますが、この世界に確かに存在しています。また、歌声も霊性や聖性を持つことがあります。歌声は本来、歌い手と聞き手が対面状態にある一時のもので、その状況から離れたら印象だけしか残らず、定義もしににく捉えがたいものです。その捉えがたいもの同士が相似しているのは、シャーマンの力と歌い手の歌の力がよく似ているからだと思います。
『歌とシャーマン』p.120


明らかに、福女史は「見えない世界」を知っている。

■巫女
再びウィキペディアをひも解くと、「巫女」とは「日本の神に仕える女性」という定義が目に飛び込んでくるのだが、果たして、それだけだろうか…。誤解を恐れずに敢えて書けば、瞽女と巫女はコインの裏表のような関係にあり、本質は一だと云えないだろうか…。つまり、瞽女が「歌姫」とすれば、巫女は「舞姫」なのであり、両者とも霊性を有している、といった点で共通しているのだ。

この霊性というか霊能は、血を通じて身内に伝わっていくものであり、そのあたりについて福女史は以下のように書き表した。

母娘二代に天才の遺伝子があると天才が生まれるという遺伝子説があるが、現代の歌姫宇多田ヒカルはまさに天才の母・藤圭子の血と天才の祖母・竹山澄子のDNAを受け継いだのだ。
『歌とシャーマン』p.57~58


亀さんの母も霊性の鋭い持ち主だったが、三人兄弟で母の霊性を受け継いだのは真ん中の弟であり、残念ながら亀さんには霊性はない。しかしながら、母と弟という霊性を受け継いだ者の存在を知るだけに、霊性というものの存在を信じている。

それから、五木がレコード会社で働いたことがあるという行を読んだ時、渡辺正次郎氏の顔が浮かんだものである。その渡辺氏も発売前の数あるレコードの中から、ヒットするであろうレコードを確実に言い当てていたあたり、霊性というよりは霊感の鋭い持ち主であることが分かるのだ。その渡辺氏は自著『芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き』で、藤圭子の自殺を巡って自論を展開しているが、ほぼ真実と思って差し支えないだろう。

以下、拙稿「高麗郷を歩く」でも紹介した藤圭子に関するページを再掲しておく。

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英語かたりの会
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今年古希を迎える人生の先輩が、ナント高座を務めることになったということで、両国の「お江戸両国亭」に行ってきた。

英語で落語…? そんなことが可能なのかと思いつつ、二時間半にわたって英語による落語を聞いてきたのだが、実に楽しい一時を過ごすことが出来た。受付でもらったパンプレットには、友人について以下のような紹介が書いてあった。

市川忠雄
劇作家、演出家の森田等主宰の「演劇娯楽部十人十色」のメンバー。銀座博品館劇場での朗読劇「マクベス」にて初舞台。英語落語家の鹿鳴家英楽氏と英語パフォーマンス「ワーズ オブ シェイクスピア」で共演、また現在は、日本の民話、小泉八雲作品、詩などの語りパフォーマンスを毎月各種イベント、学校などで精力的に行っている。




その後、先輩と一緒に落語家との打ち上げ会に参加させてもらい、大いに語り合ってきた。英会話学校の講師を務めているというアメリカ人もいたので、遠慮なく日本語で語りかけた。彼のガールフレンド(奥さん?)も隣に座っていたので、日本語で話しかけてみたのだが、やけに日本語が上手い…www。そこで、「失礼ですが国籍はどこですか?」と尋ねてみたところ、ナント生粋の日本人だという。彼女を含め、安倍昭恵さん似の市川さんの知人や、「めし田」さんというスタンダップコメディアンらと、楽しい語らいの一時を過ごした。殊に、隣に座っていた「めし田」さんの話は実に興味深く、めし田さんが舞台で話題に持ち出していたAI、思うところがあったので、いずれ記事にしてみたいと思っている。

最後に、打ち上げ会で小生の話に耳を傾けてくれた皆さん、小生が言及していたテーマの詳細は、以下の拙稿が参照になると思うので、時間のある時に一読していただければ幸い…。

●日本が奴隷国家から半奴隷国家になった運命の日
ワクワクする新時代
運命の週末

●先月、志布志を訪問して古墳群を巡ってきた背景
飯山史観

●明智光秀は天海…?
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/469-472/
信長の正体

市川さん、そしてめし田さん、これからも頑張れ、ファイト~ォ!

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志布志の旅 04
志布志滞在二日目、宿泊したホテルをチェックアウト後、志布志市埋蔵文化財センターを訪問、特に印象に残ったのが原田地下式横穴墓から出土したという、軽石製組合石棺の実物であった。しばし石棺の前で時を忘れて立ち尽くしたほどで、当時の古人の心のうちに思いを馳せた次第である。

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その後、志布志市の山奥にある「かごしま ことば塾」を訪問、橋口満塾長のお話を半日にわたってお聞きした。橋口塾長は昭和22年の現曽於市大隅町生まれと、故飯山さんの一歳下だったが、亀さんから見れば人生の先輩である。その橋口塾長が多くを語り聞かせてくれた応接間に、ズラーッと並ぶ大量の日本全土の方言関連の書籍や資料に圧倒されたのだし、橋口塾長自身、鹿児島弁に関する多くの書籍を執筆しておられることを知った。中でも代表作は『鹿児島方言大辞典』(上下巻)だろう。橋口塾長が蒐集した鹿児島方言は、民俗に関するものが中心のようで、南方熊楠や柳田國男の民俗に関心を寄せる身として、橋口塾長のそうした着眼点に舌を巻いたのだし、民俗学的な視座から橋口塾長の語る話は実に興味深いものがあった。

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なかでも、驚愕したのが外域(とじょう)制度である。一般に鹿児島弁というと一つの方言程度の認識しかないのだが、人口に武士の占める割合の多かった薩摩では武士の麓(ふもと)集落ごとに102ヶ所ほどの外域に分け、かつ各々の外域ごとに方言が異なっていたのだと謂う。だから、他藩がスパイに一外域の方言を習得させて薩摩に送り込んだとしても、口から出る方言で忽ち余所者であることが簡単に見破られてしまっただろうし、そこに薩摩の動向を他藩がなかなか掴めなかった最大の要因があったことを今回知った次第である。なかでも、亀さんが長年にわたり注目してきた「加治木」という麓集落、今でも地名として残っているが、そこには西郷隆盛蘇生の家が今でも大切に保存されている。

同時に、加治木は島津家と深い関係があった。そのあたりは以下の史料に目を通していただくとして、皇統奉公衆と交流のあるさる筋から加治木について数年前、長時間にわたって話をきいており、島津家は無論のこと、西郷隆盛とも深い縁のある加治木とは何だったのかということで、さる筋の話を聞いた後に自分なりに調べたのだが、仕事に追われていたこともあって、その後は調査を中断していた。しかし、今回の橋口塾長の話を聞くに及んで、改めて島津家についての調査を再開したいと思う自分がいる。その意味で、もしかしたら飯山史観完成後の暇潰しの候補の一つになるかもしれない。
系図(島津氏<加治木島津家>)

橋口塾長のお話を聞きながら残念に思ったのは、鹿児島弁が消えつつあるという事実だ。橋口塾長の語るところによれば、鹿児島弁を話して理解できるのは、橋口塾長の世代が最後となりそうで、塾長の御子息や孫は標準語しか話せなくなっているという。50年近く前に知己になった友人が大阪や福島にいるが、古い大阪の友人は今でも関西弁丸出しだし、福島の友人の場合、小生の前では標準語で話してくれるものの、彼の祖母は福島弁そのままで、友人の祖母と話をするときは、都度友人に通訳をしてもらったことを昨日のことのように覚えている。だから、方言はそう簡単には消えてなくならないと今の今まで思っていたのだが、どうも鹿児島の場合は事情が異なるようであり、他所とは異なる土地のようだ。このあたりの真因は上掲の外域制度と麓集落にあると、亀さんは橋口塾長の話から思ったのだが、同塾長に再会することがあれば、じっくりとこのあたりについて塾長の意見を聞いてみたいと思う。ご参考までに、関西弁すらも、いずれ消えてなくなると、橋口塾長が語っておられたのを付言しておこう。そして、数百年単位で見れば、確かに橋口塾長の主張は正しかろう。

ともあれ、薩摩、すなわち島津家は文字通りの海洋国家であった。中国や琉球はもとより、多分英国とも交流が深かったはずだ。薩摩藩は下甑島へ渡航という名目で有望な藩士を一旦下甑に送り、そこから若い藩士を英国に留学させているが、そうした留学生の中から、たとえば森有礼といった人物が後に誕生している。ともあれ、海洋国と島津家、明治維新を解くキーワードの一つになりそうだ。

横道に逸れるが、絵画とは云え、西郷隆盛の風貌は南方系を髣髴とさせるに充分だ。もしかしたら、宮古島で発掘されたという縄文人がルーツかもしれないが、このあたりは近く調べてみたいと思う。

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(11)南方からやって来た縄文人

橋口塾長の話に時の経つのも忘れ、話も終盤に差し掛かって陽が傾きかけた頃、今回のミニ志布志一郎会の参加者の一人が、角田忠信博士の『日本人の脳』に絡めた質問を橋口塾長に問うた。これは面白くなるぞと思ったのだが、帰りのサンフラワー号の出航に間に合わなくなるおそれがあったので、時間切れとなったのは残念だった。再び橋口塾長に再会するようなことがあれば、塾長が大好きだという焼酎を酌み交わしつつ、以下の拙稿を紹介して意見を拝聴したり、さらには「下甑島」や「北朝鮮」について語り合ってみたいと心から思った。
北満州と日本列島 04 日本語の源流
ハンガリーと日本 「膠着語」「孤立語」「屈折語」、それぞれの違いについて
乳酸菌と漫画 日本語特有の擬声語(西洋で云うオノマトペとは異なる)


それから、橋口塾長が小生に問いかけた質問、「雪がしんしんと降る」のしんしんは、英語でどのように訳すのか、今でも亀さんは悩んでいる。山岸勝榮先生の「歌詞に見る美しい日本語―英語翻訳ができない1つの理由」と題する記事を再読しつつ、やはり「しんしん」の英訳は無理だなと、改めて思ったものである。

山岸先生の上掲の記事の他、以下の記事でも「雪がしんしんと降る」について言及しているので、関心のある読者は目を通すと良いかもしれない。
角田忠信『日本人の脳』(大修館書店)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

以上、今回を以て「志布志の旅」シリーズを終えることにしたい。そして、本シリーズに目を通してくれた読者に対しては、心から感謝の意を表したい。ありがとう。

志布志の旅 03
志布志滞在二日目について筆を進める前に、野崎晃市博士がブログ【文殊菩薩】に書き連ねた「飯山一郎先生の最終講義」シリーズで、亀さん的に付言したい箇所が3ヶ所ある。

ルーツ

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。

飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。

飯山一郎先生の最終講義(2)


かつて、亀さんは自分のルーツを少しだが調査したことがある。そして、現在想定している亀さん家のルーツは二つだ。一つは綾部市で、拙ブログにも少しだが書いた。
遠祖を求めて

実は、もう一つ想定しているルーツがある。それは、現在は入院中の実母が元気なころに語ってくれた話が基になるのだが、ナント! 亀さん家のルーツは鹿児島だったと母は言うのだ。母の話によれば、亀さんの父方のご先祖様が参勤交代で、鹿児島から江戸に来たのだが、どういう経緯かは分からないものの、そのまま江戸に住みついたのだという。念のため父の戸籍抄本を確認したことがあるが、出生が東京府北豊島郡日暮里とある。父は大正12年生だが、その5年前までは武蔵国豊島郡日暮里村であった。現在でも荒川区日暮里という地名として残っており、日暮里から薩摩島津家下屋敷跡や、薩摩藩三田藩邸跡までの直線距離は6kmと近い…。飯山史観の編集を終えたら、今度は冥土までの暇潰しにルーツ探しをしてみようかと、ふと思った。

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■明治維新

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩大慈寺は薩摩藩と海外との密貿易の関係を示す証拠であり、また明治維新の思想的源流の一つとしても重要な文化財であるようだ。
飯山一郎先生の最終講義(4)


現在進めている飯山史観の編集は、応神天皇の御代から南北朝あたりまでを主体に纏めるつもりでいたが、今回の志布志訪問で、改めて島津家について思うところがあり、明治維新で中枢的な役割を果たした藩の一つが島津家であったことを思えば、南北朝から明治維新に至るまでの流れを、島津家を中心に纏めてみようかと思うようになった。すなわち、島津家を深く追求することが、飯山史観の完成に欠かせないと思ったのである。その意味で、これが今回の志布志訪問の最大の収穫の一つだったのかもしれない。ともあれ、島津家について何処まで掘り下げるべきか、今後の検討が必要のようだ。

■安西ファイル

飯山先生が議論の教科書として読んでほしいと取り出されたのが、世界戦略情報雑誌『みち』の安西正鷹氏のトランプに関する論考だった。
飯山一郎先生の最終講義(7)


野崎博士の上掲の記事を安西さんに私信で伝えたところ、以下のような回答をもらっている。

いやぁ~、それにしても驚きました!飯山さんの最終講義をYou Tubeで観ましたが、
テキストとしてそのまま使っていたのですね。一部を引用したり軽く紹介している程
度だと思っていたので、本当にビックリです。もはや飯山さんの講義では採り上げら
れないにしても、飯山さんの同志の皆様が引き続き目にするかもしれないと思うと、
これはますます高い質の内容にしなければと、身の引き締まる思いになりました。


これからの安西ファイル、ますます目が離せなくなった。その安西さん、安西ファイルと飯山一郎さんの関りを安西ファイルに書いたのだという。近く『みち』に発表されると思うが、その一部を掲示板「放知技」に転載しておいたので、関心のある読者に一読してもらえたらと思う。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16639517/6/

志布志の旅 02
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大久保酒造で旨い焼酎を御馳走になった一同は、車で目の前にある横瀬古墳へと向かった。飯山さんの最終講義のビデオの冒頭で、横瀬古墳の頂上に立つ飯山さんについて野崎晃市博士は、「古墳を遠くに眺める飯山先生の姿は何か神々しくもあり、まるで古代からタイムスリップしてきた仙人のよう」と表現していたが、正に…。

上掲の仙人発言は昨日紹介した野崎博士のブログ記事、「飯山一郎先生の最終講義」シリーズの初回に書いてあるのだが、ビデオを幾度か繰り返し眺めながら、過日の亀さんの志布志の旅は、まさに野崎博士一行が飯山さんの最終講義を聴いた日に巡った、志布志の地を追認するものだったと今にして思う。

目を転じて、野崎博士らが飯山さんから文字通りの最終講義を受けている様子が、同ビデオに遺ったわけだが、ビデオを通じて最も重要な飯山さんのメッセージがあった。それが以下である。

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加えて、掲示板「放知技」の本スレで、亀さんは飯山史観について以下のように書いた。

過日、志布志を初めて訪れ、横瀬古墳や唐仁古墳群を目の当たりにして、シベリアの地に誕生した墳丘墓(クルガン)の流れを、これらの古墳群が確実に引き継いでいることを肌で感じ取ることができたし、遠祖が遺してくれた古墳群を目の当たりにして故郷に戻ったような気持ちになり、感無量でした。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/964/


応神天皇の御代(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日 - 西暦270年~310年)から天武天皇の御代(在位:天武天皇2年2月27日~朱鳥元年9月9日 - 西暦673年3月20日~686年10月1日)の間に、横瀬古墳(推定築造時期 5世紀中葉-後半 - 西暦440年~490年)や、唐仁大塚古墳(推定築造時期 4世紀末 - 西暦370年~390年)が築造されたのだし、南北朝時代に建立された肆部合の石碑の場合は、「暦應四年十月廿六日西念」(暦應四年は1341年)と石碑に刻まれている。

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■唐仁大塚古墳
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ここで、『唐仁古墳群シンポジウム』と題する貴重な史料を、亀さんは絶食青年から一部頂戴している。これは同古墳群の調査結果をまとめた貴重な史料となっており、東串良町教育委員会の大﨑彩女史が纏めた「唐仁古墳群の調査について」の他、琉球大学法文学部・池田榮史教授の「唐仁古墳群の魅力」、宮崎大学・柳澤一男名誉教授の「古墳時代とはどのような時代か」、鹿児島大学総合研究博物館・橋本達也教授の「唐仁大塚古墳・唐仁古墳群と鹿児島の古墳研究」と、計40ページの小冊だが、中身は濃い。ただ、同史料の通読にあたっては注意すべき点があり、殊に飯山さんの以下の記事を念頭に置くべきだ。

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http://grnba.jp/more106.html#aa11191

上掲の記事以外に、唐仁古墳群で注意すべきは拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介した飯山HP記事があり、唐仁古墳群の真相に迫るうえで貴重な記事となっている。
断定:「日本国」は大隅半島で建国された!
日本建国の秘密は大隅半島にある!

■島津家
初日はグルンパ諸施設、古墳群の他、ビデオにも映る大慈寺、密貿易屋敷、即身院跡を訪問しているが、共通のキーワードは島津家である。島津家の背後に浮かぶ英国の影を忘れてはならないし、謎の多い一族と云えよう。この島津家については、機会があれば取り上げていきたい。何故なら、南北朝以降の鹿児島の歴史を解くキーワードこそが、「島津家」に他ならないからだ。

秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。
深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。

青州で思ふ(6)


その他に大慈寺ついてだが、大隅半島に仏教を伝えたのは、朝鮮半島からの王仁(わに)博士と世間一般では思っているようだが、この仏教伝来もいずれ見直さなければならない時期が到来するだろう。

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次稿では、志布志での二日目について書こう。


志布志の旅 01
先月(1月21日~24日)、四日間かけて志布志市を初訪問してきた。本来なら、帰宅直後に訪問の思い出を記事にしてアップすべきところ、年明け早々からスタートしていた大量の仕事に追われていたこともあって、執筆が今頃になってしまった。

ともあれ、思うところが実に多かった旅だったこともあり、今回は数回にわけて徒然なるままに書き連ねていくことにしたい。よって、本シリーズを終えてから、再び「古墳時代」シリーズに戻りたいと思う。

飯山一郎さんや稲村公望さんはサンフラワー号で大阪・志布志間を往復しているが、小生も今回初めてサンフラワー号に乗って志布志に向かった。出港が夕方の17:55p.m.ということもあり、昼過ぎに大阪駅で猿都瑠さんと待ち合わせ、大阪名物のうどんに舌鼓を打ってからサンフラワー号に向かう。そこで堺のYさんと堺のおっさんと合流して一緒に乗船した。広いロビーの一角では酒を酌み交わしつつ、盛り上がっている四人組のおっさんたちがいたのだが、その集団こそ何を隠そう我々おっさんたちであった。一服するため時々席を離れたが、50m離れた喫煙室の入口(下の写真の真ん中にある白い扉横)あたりからも、残り三人の大きな話し声が耳に飛び込んでくるほどだった。話の内容が〝高尚〟な内容だったら、胸を張って一服したんだが…。

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翌朝、無事に志布志港に到着、さっそく飯山邸へと向かう。意外と港から近かった。てげてげHPでも見覚えのある飯山さんが住んでいた家に入ると、客間の片隅に飾ってあった仏壇と飯山さんの遺影が目に飛び込んできた。そして、「嗚呼、やはり亡くなられたんだな」と改めて思った。手を合わせつつ、心の内で飯山さんと話をした後、今回のミニ一郎会に参加したという三名のメンバーのほか、絶食青年も到着、しばし歓談した後、車に分乗して志布志探索に出かけた。ここでは、初日の出来事を簡単に書いておこう。

初日はグルンパ関連施設と古墳群を主に訪れた。最初に訪れた施設は延命草を使って乳酸菌の餌を製造する施設で、出迎えてくれたのは「華奴 紫馬ラベル」のタイチー君の父君Hさんであった。施設の説明が一通り終わった後、隣接の延命草の畑を案内していただいたのだが、印象的だったのが以下の写真に見る防風林だった。畑には乳酸菌を散布しているのだが、それが右の防風林にまで流れたことから、同じ時期に植えた防風林なのに、乳酸菌が流入しなかった左側と流入した右側とでは、木々の成長が全く違っているのが一目瞭然である。改めて、乳酸間の威力を目の当たりにした思いだった。

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その後、ゴミから土壌を製造する施設や、クリーンセンターを案内してもらった。土壌工場では他では見られない土壌のきめ細やかさが印象的だったし、クリーンセンターでは綺麗に仕分けされたゴミの山が目に焼き付いた。改めて、志布志の人たちの意識の高さに思い致した次第であった。もし、そうした志布志の人たちの協力がなかりせば、工場から悪臭が漂い、今頃は周囲の住民からの猛反発を食らっていたことだろう。

その後、焼酎好きなら一度は呑んだことがあるであろう、華奴の大久保酒造に立ち寄る。工場内の製造工程を案内してもらった後、出来立ての焼酎を呑ませてくれた案内係の人には心から感謝したいし、実に旨かった! よほど旨かったのだろう、帰り道、呑みすぎて車中で眠っていた者も出るほどだったwww

その後は以下の写真にあるように、大久保酒造の工場入口から見える横瀬古墳を訪れた後、さらに唐仁古墳群や肆部合の石碑などを案内してもらったのだが、そのあたりについては次稿に回したい。

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野崎晃一博士の「飯山一郎先生の最終講義」シリーズ】
飯山一郎先生の最終講義
飯山一郎先生の最終講義(2)
飯山一郎先生の最終講義(3)
飯山一郎先生の最終講義(4)
飯山一郎先生の最終講義(5)
飯山一郎先生の最終講義(6)
飯山一郎先生の最終講義(7)


一日一生
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先月21日に秩父山地の麓を発ち、22日から23日にかけての二日間、志布志を訪問してきた。そのあたりの詳細な報告は「古墳時代」シリーズで書くとして、今回は帰路の池袋で手した五木寛之の著、『百歳人生を生きるヒント』の読後感を簡単に書いておこう。

帰りに西武池袋線の池袋駅構内にある書店に寄り、五木寛之の『百歳人生
を生きるヒント』を入手しました。確か、飯山さんがHPに取り上げていた五木
の本は、これだったと朧気ながら記憶していたので、迷わず手にしました。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/803/


帰宅後、故飯山一郎さんのHPを確認したのだが、五木の本は五木の本でも、上掲の『百歳人生を生きるヒント』ではなくて、『孤独のすすめ』であった。そこで、改めて飯山さんが五木について言及した箇所を以下に再掲しておこう。

まず考えられるのは,人には「何がなんでも生きていたい」という本能,“生存欲”があるからだが…

笑われるのを承知で言えば,私は「この世界がどう変わっていくのか,見ていたい」だけなのです.
日本だけでなく,アジアが,世界全体が,この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい.知りたい.そのために長生きがしたいと思う.


上の青い字の文章は,五木寛之著『孤独のすすめ』からの抜粋ですが…,ワシも全く同じ気持ちです.

しかし,老いも若きも,基本はヘルシ~であること!これっきゃない.
身体だけでなく,心も,考え方も,行動も,ヘルシ~であること!
グズグズネチネチ 何事にも文句をタレるよ~なシトは不健康だ.
明るくて元気なこと.くよくよ心配しないこと.カネに拘らないこと.
あと,スケベであること.多読であること.しょっちゅう旅に出ること.
こんな人生を↑目指しましょう.
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五木の「この世界がどう変わっていくのか,見ていたい」という言葉に対して、飯山さんは「ワシも全く同じ気持ちです」と書いているが、それだけに突然のこの世との別れ、さぞかし心遺りだったに違いない。

その五木の『百歳人生を生きるヒント』を通読して、今回思ったことは以下の二つの言葉である。

■一日一生

私は一日一生という言葉や、明日のことを思い煩うな、という言葉に勇気づけられます。

ともかく、何があっても、今日一日を生き延びればいいんだ。明日は明日が勝手にどうにかしてくれるのだから……ここには何かを手放したような開放感が感じられます。

長い老後のために、いくら蓄えておけばいいのか、思い煩うこともしない。

『百歳人生を生きるヒント』p.180


雑誌系のネット記事の見出しを読むだけでも、「老後破産」、「老後に必要なお金」、「人生100年時代の健康法」といった類の文字が躍っている。しかし、老後のことをアレコレ心配しても、どうなるものでもなく、掲示板「放知技」にたびたび登場する、「グズグズネチネチ 何事にも文句をタレるよ~なシトは不健康」な輩に陥るだけだ。その意味で、「身体だけでなく,心も,考え方も,行動も,ヘルシ~であること!」と主張する飯山さんの言葉、この機会に改めて噛み締めておきたいものだ。

■見えない世界

生まれたばかりの赤ん坊は、見えない世界の感覚で、この世を生きています。それが歳を経るごとに、見える世界の部分が多くなり、もう見えない世界の記憶などまったく忘れてしまう。

それが人生の後半になると、いままで影を潜めていた見えない世界とのかかわりがふたたびはじまり、自分の中の、見える世界と、見えない世界との割合が逆転してくる。そして、軸足が徐々に見えない世界に移っていくのではないでしょうか。

『百歳人生を生きるヒント』p.207~208


読者が五十代に突入前の年代であればピンと来ないかもしれないが、人生も後半に差し掛かると、あれこれ見えない世界について考えることが多くなるのだし、今後は時折「見えない世界」について書きたいと思っている。

ともあれ、ここ一ヶ月ほどは仕事に追われ、ブログ更新どころではなかったのだが、漸く一段落した今、再びエンジンをかけて記事を更新していきたいと思っている。