FC2ブログ
プロフィール

亀さん

Author:亀さん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

kamesan

人生は冥土までの暇潰し

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
神の正体
過日の放知技で旧ブログ記事「生命の設計図」を紹介したが、久しぶりに世界戦略情報誌『みち』の天童編集長の玉稿を再読し、改めて神とは何かという長年の疑問に思索を巡らせた次第である。その天童編集長の玉稿だが、神の正体について考える上で重要な足掛かりになると判断したので、本稿の最後に再掲しておいた。

亀さんが神とは何かについて思索を巡らすことを始めたのは、自殺をしようかとまで思い詰めた二十代前半だったと思う。

筆者は二十代のはじめ、人生に行き詰まって自殺を考えていた一時がありました。そんなおり、ニューヨークの日本レストランで一緒に働いていた友人の地元、群馬県沼田市の実家に数日泊めてもらい、その間に友人に尾瀬ヶ原を案内してもらったことがあります。季節は5月連休直前だったと記憶しています。車で大清水に到着した時は未だ辺りが真っ暗闇でした。車から降りて徒歩で尾瀬ヶ原に近づくにつれて、周囲も明るくなり始めたものの、依然としてあたりは濃霧に包まれて何も見えませんでした。やがて、嘘のように霧が晴れると、目の前には雄大な尾瀬ヶ原の大自然が忽然と姿を現したのです。その時、まさに人智を超越した「ある存在」を感じ取りました。
『真贋大江山系霊媒衆』

19021802.jpg
雪雫 早春の尾瀬ヶ原


爾来、神とは何かについての自問自答が始まったのである。神についての思索の変遷については別の機会に譲るとして、ここでは天童編集長の記事「生命の設計図」について、思うところを簡単に書いておこう。

渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者(亀さん注 栗原茂)の見解でもなく、悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報であり、言葉を換えて言えば、その情報こそが神なのである。


上掲の記述を久しぶりに目にして、改めて二十代前半の尾瀬ヶ原での体験が、「悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した」第一歩になったのだと分かる。尤も、当時は「神=情報」だとは思いもよらなかったし、上掲の天童稿を読んだ時もピンと来なかったというのが正直なところだ。その後も幾度か思索を重ねてきたが、未だに情報=神ということに納得ができないでいる自分がいる。このあたり、天童編集長も以下のように書いていた。

「本義の時間と空間に刻まれる情報が神の正体である」と言われても、難解すぎてすぐには理解できない。ここに使われている「情報」という言葉からして、われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいるようである。


天童編集長の言葉にあるように、栗原さんの謂う「情報」が、「われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいる」ことだけは確かのようだ。そしてつくづく思ったことは、栗原さんの謂う「情報」、これは頭で理解しようとしても土台無理な話のようで、やはり身体全体で識るか感じ取るしかないのだろう。

また、天童稿には以下のような記述もある。

渡辺格七三歳と出会うのは同年秋、場所は藤井尚治六八歳が瞑想を行なう所で、およそ二時間の坐禅の後に約二時間の鼎談が続いた。


天童稿に登場する藤井尚治博士については、拙ブログでも幾たびか取り上げているので、藤井先生の人となりについては割愛するが、瞑想・座禅という言葉から脳裏に浮かんだのは、NHK番組「こころの時代」の「唯識に生きる」シリーズ(全六回)であった。一応録画してあるので、近くじっくりと観るつもりである。

19021803.jpg

しかし、天童稿を読み進めていくうち、栗原さんの謂う「神=情報」の「情報」に一歩近づく手段の一つが、言霊を識ることではないかと思った。そう思うに至ったのは、天童稿の以下の記述にある。

 栗原さんの日ごろの教えは、言霊の考えこそが現代科学を乗り越える鍵であるというものだが、日本語の一音一音に意味があることにやっと気づいた私としては、言霊について一知半解の言辞を連ねることは差し控えて、後日に期すというほかない。


この行を読み、日本語に関する以下の天童稿や、書架に眠る数冊の言霊に関する書籍を再読するべきだなと痛切した次第である。
北満州と日本列島 04 日本語の源流
ハンガリーと日本 「膠着語」「孤立語」「屈折語」、それぞれの違いについて
乳酸菌と漫画 日本語特有の擬声語(西洋で云うオノマトペとは異なる)

ところで、天童稿にある「悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報」という行を読むに及んで、思い出したのが過日の放知技で紹介したJinmoさんの言葉だ。

藤原氏のこの断言を耳にした時、電撃的直感で、「岩戸」という言葉の持つ言霊が、播州の生石神社の御神体天乃浮石と連結し、氏の言葉に布置(Konstellation)されたものを見出していた私だった。神々を再臨させ、神々による現実的な霊的関与によってこの地上の秩序回復を求める儀式を斎行すべき場所が曙光に照らし出されたかの様な思いに駆られたのだ。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/430/

19021801.jpg


さらに、昨日届いた『みち』の「寄絃乃儀」で、今年の五月一日にJinmoさんが挙行する、「地上の秩序回復を求める儀式の斎行」について、生石(おうしこ)神社の東久祠宮司が以下のように断言したとある。

宮司として断言いたします。その時、必ずや神がここに降り立ちます。


宮司の断言に対して、Jinmoさんは以下のように書いているのだ。

東久祠宮司の予言は必ずや成就する。


生石神社に神が降り立つのを体験できるのであれば、これは己れの人生にとって最初にして最後のチャンスになるのでは、という予感がしてきた。そこで、同神社の儀式の斎行に臨席できるかどうかを確認するため、天童編集長に幾度か電話したが、話し中のため通じない。多分、15日に発行された『みち』に同封されていた、Jinmoさんの「声明文」についての問い合わせが殺到しているのだろう。そこでメールを先ほど送信したのだが、何等かの回答があったら、次稿あたりでJinmoさんの「声明文」について紹介しよう。

巻頭言 栗原茂「生命の設計図、それが神である」 天童竺丸
●分子生物学者の渡辺格さんが「生命の設計図は遺伝子の構造の中にない」と言われたことについて本欄で少しく考えを記したところ、同志の栗原茂さんから「渡辺格さんと直接会って話をした」と教えられた。聞き捨てならぬことである。

 それについて、ぜひとも栗原さんにじっくり話を聞きたいものだと願っていた矢先、何と栗原さん自ら渡辺さんとの話を踏まえ「生命の設計図はどこからくるか」という問題について一大論文を書き上げ贈って下さった。

 それはA4判用紙に一行四一文字、一枚四〇行の体裁で書かれ、全体では前文を含めると一六頁になる。ざっと計算しただけでも、原稿用紙にすれば六〇枚以上にも及ぶ、大へんな労作である。それも、先の巻頭言を読まれてからほとんど時間の経たない内に届けて下さった。一気に書き上げられたもの思われる。

 おそらくは拙文の隔靴掻痒的な稚拙さとズバリ的に迫れない逡巡とを見るに見かね、自ら筆を執って結論を下されたものと推察する。

 栗原茂さんが「生命の設計図はどこからくるか」という問題に対し下した結論は、「それは神からくる」というものだった。

●栗原茂さんが渡辺さんに直接会ったのは今を去ること一八年前の平成元年のことだった。ちょうど昭和天皇が崩御されて年号が平成に改まった年の秋であった。実はそのとき、もう一人の碩学がいて、話は三人の鼎談の形式で行なわれたという。その辺りの消息について、栗原さんから戴いた文章から引用させてもらう。(原文は句読点を限りなく省略した難解な文章であるため、読者の便宜を考えて句読点を付加し、一部の語句を改変したことをお断りしておく)

 渡辺格七三歳と出会うのは同年秋、場所は藤井尚治六八歳が瞑想を行なう所で、およそ二時間の坐禅の後に約二時間の鼎談が続いた。議題は宇宙生命の本質について。相互の意見交換を行なうことで空間を埋めたが、刻まれる時間は、世俗が支配される交流回路とは異なって、天空を透過する直流回路のごとく無駄なく働いた。

 ここに登場する「藤井尚治六八歳」とは、銀座内科診療所院長として永く著名であった。同時に、早くにハンス・セリエ博士のストレス学説に注目し日本におけるその研究と紹介に貴重な業績を残した人物でもある。

 懇切にも栗原さんがわざわざ持ってきて貸して下さった藤井さんの著書二冊のうちの一冊、『脱魂のすすめ』(一九八三年、東明社刊)の奥付にある「著者略歴」には次のように記されている。

藤井尚治(なおはる) 医師、法博
大正一〇年東京生まれ。
昭和一七年東京大学医学部卒、同精神科入局。
昭和一八年軍医として応召。
昭和二二年復員後セリエ博士に共鳴、杉靖三郎氏らとともにストレス研究に従事。
昭和三〇年銀座内科医院長。
昭和四六年財団法人ストレス研究会理事長

 そして藤井尚治さんは平成九年四月一九日、折しも数え年七六歳の誕生日に亡くなられた。

『還元主義を超えて』(一九六九年)でニュー・エイジ運動の旗頭となったハンガリーに生まれた亡命ユダヤ人、アーサー・ケストラーが来日したとき銀座内科に藤井さんを訪ねてきて歓談を尽したというエピソードは、藤原肇・藤井尚治『間脳幻想』(東興書院、一九九八年刊)で読んだことがある。直接お会いしたことはないので、同書に纏められた対談および「あとがき」から得た印象だけに頼っていえば、まさしく機略縦横、天衣無縫を地で行くような天才肌の人である。

 藤井尚治さんについて、栗原さんはこう書いている。

 藤井はノーベル賞ノミネートの評議を求められる立場にあるため、デルブリュックを含め訪日学派の目的を本人に聞くまでもなく知り得ており、決して自らの立場を明かさない。当然渡辺も、藤井が何者かは表面上のことしか知り得ない。

 その藤井尚治と渡辺格と栗原茂とが交わした鼎談がいかなるものであったか。栗原さんはただ「刻まれる時間は、世俗が支配される交流回路とは異なって、天空を透過する直流回路のごとく無駄なく働いた」と素っ気なく伝えるのみである。

●栗原さんから渡辺格と話したという話を最初に教えられたとき、渡辺さんが「生命の設計図は天空から来る」という意味のことを語った、と聞いたと思って、先に「遺伝子の構造の中に生命の設計図はないと断言された渡辺さんは、ではどこから生命の設計図は来るのか、ちゃんと話をされていた。それだけは言える」と書いたのは、どうやら私の早とちりによる勘違いだったようである。

 というのも、栗原さんが次のように書いて教えているからである。

 参考に値しない現代ジャーナリズム主義から報道される情報は、渡辺に限らず発信が誰であれ、すべて意の制御が利かない情と知の先行だと知るべきである。

 筆者の知る渡辺は、現代学術に多くの矛盾を指摘しうる能力を備えていたが、学派という無理からぬ生き方もあり、相当の悩みを抱えストレスに苦しんでいた。それが生命の儚さに通じる死霊の研究とも共感するのだろうが、神の正体が本義の時間と空間に刻まれる情報とは気づかずに、鬼籍に入ることとはなった。(合掌)

 つまり、栗原茂さんの考えによれば、傍線を施した所にあるように、神とは「本義の時間と空間に刻まれる情報」であり、後に詳しく紹介するように、「その神から生命の設計図は来る」と言えるのだが、渡辺格さんはそれに気づいていなかった、と手厳しい判断を下していることになる。

 実証を旨とする分子生物学者として、渡辺さんが神を持ちださなかったのは一種の学者的良心だったともいえようが、現代科学の矛盾と限界に気づいたからには百尺竿頭をさらに一歩進めて、現代科学を乗り越える地平に立つべきであった、というのが渡辺さんと鼎談を交わした栗原さんの思いであるようだ。

 だから、栗原さんは次のように批判する。

 渡辺が「遺伝子の構造の中に生命の設計図はない」と断言しうる根拠は、分光のスペクトルを観測する法に卓越したからで、フィンランドに行って電子立国を手助けした窪田規(くぼたただし)も同じであって、色の観測法に優れた者なら等しく知るところであり、あえていうなら、物理化学の基本なのである。

 ただし、理を学ぶ術の分野に生きる学派は、言霊を批判あるいは懐疑的に捉えて成り立つ職能集団であるゆえに、核心を突くことができない。もっぱら科(とが)を学ぶ術の制度により、細分化された学派が競い争うことから、総論賛成・各論反対という無責任な態度に終始するのみである。

 したがって、渡辺が「遺伝子の構造の中に生命の設計図はない」と断言はできても、「では生命の設計図はどこから来るか」という問題に答えを出せないのは仕方ない。

 生命の設計図について鼎談の中で出現した回答は、渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者の見解でもなく、悠久の時間を刻む空間の中に身を浸した者のみに運ばれてくる情報であり、言葉を換えて言えば、その情報こそが神なのである。

 文章の表面的な字面だけに拘るなら、これは見神の体験を語っているように受けとれるかも知れない。もしそうであるなら、神を見るという神秘体験を経験したことのない者には、想像するだにできない無縁な話ということになるだろう。

 だが、奇しき縁あって日ごろ親しく薫陶をいただいている私には、これが単なる神秘体験を語ったものではないことが分かる。神秘体験だけならば、言葉になりえないもので、あえて言葉にするにしても、こういう文章でなくもっと象徴的にしか語れないはずだ。栗原さんはそうではない。神秘体験は確かにあったのだろう。だが、それを開かれた言葉に表現すべく、栗原さんが壮大な努力を重ねてきたことを、私は知っている。

 ここで注目すべき個所は二つ、傍線を引いた部分である。ただ最初の言霊云々の部分は、栗原さんが言霊理論に刮目してメンデレーエフの元素周期表を読み替え、その足らざるを補うという難業を完遂したことを知らなければ、ほとんど意味をなすまい。

 栗原さんの日ごろの教えは、言霊の考えこそが現代科学を乗り越える鍵であるというものだが、日本語の一音一音に意味があることにやっと気づいた私としては、言霊について一知半解の言辞を連ねることは差し控えて、後日に期すというほかない。

 ただし、後段の傍線部については、私にも言えることがある。不思議にも、栗原さんに会うと、何も言葉を交わさなくてもビンビンと響いてくるものがある。私の中の何かが共振して止まない感じなのだ。共振し合うのかどうか、それは分からない。栗原さんの方の反応が審らかでないからである。

 そのかすかな手がかりを頼りに言うのだが、ここで栗原さんは、「生命の設計図がどこから来るか」という問いそのもの、問いの立て方自体が間違いだと言っているように思われる。

 生命の設計図がどこから来るのかと尋ねることはどこまでも原因を求めていく一種の還元論に陥ることである、との洞察が栗原さんにあるのだと考えられる。

 だから「その情報こそが神である」という言葉が出てくるのだ。そして、前の引用個所(傍線部分)で、神の正体を「本義の時間と空間に刻まれる情報」だと言っているのとも符合する。

 生命の設計図がどこから来るのかという問いに即していえば、生命の設計図はどこからも来ない、生命の設計図そのものが神なのだから……というのが、栗原さんの感得ではなかろうか。 

 そしてそれは、「渡辺の所見でもなければ、藤井や筆者の見解でもない」と言っていることにも連動している。個人が立てた学説とか見解ではないとすれば、その場にいた者に感得された何かであろうと推測するしかない。

 ただ、生命の設計図がどこから来るかと問うことを止め、設計図そのものが宇宙を形づくる「情報」の一環だと捉えることは、大逆転の発想だと言わなければならない。

 だが、「本義の時間と空間に刻まれる情報が神の正体である」と言われても、難解すぎてすぐには理解できない。ここに使われている「情報」という言葉からして、われわれが普段使っている内容とは違う意味を孕んでいるようである。

 それは栗原さん自身もよく分かっている。だからこそ、わざわざ原稿用紙六〇枚以上にも垂んとするメモを届けて下さったのである。

●本論に入る前の注意書きとの意味で表裏二頁の「前文」を書いて下さったと思われるが、その前文の部分に普通の論文なら結論部に来るような洞察が満ちている。

 すなわち、設計図は元より実証なくして描けるものではない。生命とは混沌から発するものであるが、その混沌もまた自らを制御しうるエネルギーをすべて備えているのである。

 例えば、銀河系から誕生している太陽系に限定してみても、悠久の時間と空間がなければ生まれ出るわけもなく、時空に刻まれる情報(実証)なくして、設計図など描きようがないのである。

 さらに、地球生命についてみても、陽光が水を生み出す空間の距離関係から、水に相応しい生命の禊祓を通じて悠久の時間を刻む細胞一個ずつに遺伝情報が刻まれる。

 ただし、遺伝子は太陽と地球と月、つまり混沌が整備に向かう過程の情報を所有しなくても生きられるという特徴をもつ。なぜなら、遺伝子とは染色体一部の生命であり、地球本体に対応する大気圏がなければ、生きていける根拠がなく、また水の星を補佐し補完する月の働きなくして生きていける根拠がなく、禊祓なくして染色体は生まれないからである。

 難解な文章であると白状しなければならない。よくよく注意して、前後を睨みながら読まなければ、意味が通らない。

 たとえば、ここに言われている混沌は「自らを制御するエネルギーをすべて備えている」とあるが、もしそうであるなら、混沌とは秩序と同義であることになる。われわれの通常の言語では、混沌と秩序は正反対の意味をもつ対立語なのだが……。

 能う限り栗原さんの意図に則しつつ真意を推し量ることで、何とか前後の脈絡をつなげていくしかない。

 群盲象を評すの愚に陥ることを覚悟でいうのだが、太陽系の誕生からして悠久の時空に刻まれる情報がなければ実現しなかった、というのが栗原さんの言いたいことであろうか。

 さらにいえば、太陽系のみならず、銀河系の誕生そのものも、この悠久の時空に刻まれた情報がなければ誕生しなかったと言えるのではないか。

 だが、「水に相応しい生命の禊祓を通じて悠久の時間を刻む細胞一個ずつに遺伝情報が刻まれる」とは、にわかには理解の及ばない表現である。

「水に相応しい生命の禊祓」とは何か。「悠久の時間を刻む細胞」とは何か。通常の常識ではとても歯が立たないと諦めたくなる気持ちにも駆られる。

 だが、ここには大事な何かがある。どうしても分からなければ、栗原さんを捕まえて、一語一句について意味を尋ねることも、幸いなことにできないわけではない。

 それに、ただ私のためにこれほどの労を惜しまれなかった志に応えるためにも、この難解な文章に立ち向かい、誤解を恐れずに私なりの理解を通さなければならない。栗原さんが下さったこの一文は、これまでのささやかな営みの次なる第一歩に必ず繋がるという確信があるからである。


スポンサーサイト
歌舞伎と遊女
歌舞伎の元祖は、お国(出雲阿国)という遊女であった。以下は、ウィキペディアの「歌舞伎」の項に載る、お国の画像だ。

19021700.jpg

遊女については拙ブログでも、「峰不二子と遊女」をアップしたことがあり、その中で、網野善彦の著した『異形の王権』を取り上げている。実は、飯山(一郎)さんも「てげてげHP」で同書を紹介しており、中でも注目すべきは以下の記述だ。

19021710.jpg

『異形の王権』(網野善彦著)に登場する魑魅魍魎とした「異形の者達」が社会変革を主導した後醍醐天皇の御代.

あの躍動的な時代が…,おそらく,新天皇の御代に,またもや復興してくる予感が,ワシにはある.

新天皇となるべき御仁には,畏れ多いことながら,「バサラ(婆娑羅)」をお許しになる“徳”の深さが垣間見える.

来るべき新時代は,旧時代とは一味(ひとあじ)違った躍動感あふれる「ダイナミック・ニッポン」といった様相を呈するはずである.


◆平成30/02/18(日)  「匠(たくみ)」の熟練された神ワザは…


神計らいで、数週間前に肆部合の石碑を訪れた。飯山さんの言う婆娑羅の時代が到来するかどうかについては、掲示板「放知技」の本スレの常連さん、すなわち堺のおっさん、mespesadoさん、Conganasさん、ままりんさん、そして猿都瑠さんの投稿を熟読すれば、自ずと世界が大きく変わりつつある兆候が読み取れるだろうし、その意味で、実に面白い時代に生まれたものよと、天に感謝したい気持ちで一杯になる。

さて、ウィキペディアの「歌舞伎」の項に戻り、歌舞伎の元祖お国が遊女だったかどうかはともかく、『異形の王権』に注目すべき記述がある。

鎌倉期までは「公民」に所属するものとして、また神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。

……中略……

遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。

『異形の王権』p.241


何故に「遊女もまた、ここに聖から賤に転落した」のか、このあたりを深堀すると、南北朝以降の時代背景と重なるであろう、新天皇の御代が朧気ながらも見えてくる。

19021702.jpg

長々と遊女について書いてきたが、もう一つの主テーマである歌舞伎、最近放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」で、六代目・中村勘九郎が登場していたので注目した。「ファミリーヒストリー」は、拙ブログでも幾度か取り上げているが、今回の内容も実に良かった。それにしても、毎回同番組を見るたびに思うのは、父から子へ、そして子から孫へと受け継がれていくDNAである。

19021704.jpg

それから、六代目・尾上菊五郎の人物に惚れた。菊五郎は妾の子として生を享け、早くに父を亡くし、大変な苦労を重ねた歌舞伎役者だったが、それだけに、同じように早くに歌舞伎役者の父を亡くした、子供たちの後ろ盾となって支援したという生き様は、人として実に偉いと思った次第である。

19021703.jpg

また、中村勘九郎の父であった十八代目 中村 勘三郎が、平成中村座を命を削って立ち上げたことを知るに及んで、今度公演があったら一度足を運んでみたいと思った。

19021705.jpg

19021706.jpg
中村勘九郎の二人の息子の初舞台

19021707.jpg
中村勘九郎本人の初舞台

19021708.jpg
息子の初舞台を心配そうに見守る父の十八代目 中村 勘三郎

19021709.jpg
十八代目 中村 勘三郎の初舞台と父の十七代目 中村勘三郎

半世紀ほど前、『歌舞伎の見方』(石田一良 講談社現代新書)という本を入手したものの、積読のままなのだ。平成中村座に行くことが決まったら、予め目を通したいと思う。

19021701.jpg

歌とシャーマン 2
拙稿「歌とシャーマン」で取り上げた「歌とシャーマン」(福寛美 南方新社)は、志布志からの帰りの船の中で読了、続いて『怨歌の誕生』(五木寛之 双葉文庫)は、数日前にお江戸両国亭に行った時の車中で半分ほど読み終え、帰宅後に残りを仕事の合間に一気に読了した。ちなみに、お江戸両国亭で高座を務めた落語家とのご苦労さん会でも、亀さんはポケットから通読中の『怨歌の誕生』を取り出し、藤圭子について少し話をしている。

18122601.jpg  18122603.jpg

亀さんが『歌とシャーマン』という本に深い関心を寄せたのは、上掲の拙稿「歌とシャーマン」で紹介した飯山(一郎)さんの言葉、「天皇家と日本民族の根底にあるシャーマニズムの本質にせまる「音楽論」でもある」にもあるように、日本の本質=シャーマニズムを歌という観点から抉り出してみせた本だったからだ。

拙稿「歌とシャーマン」を書いた時点では、同書を未だ入手していなかったのだが、読了した今、簡単な同書の読後感を以下に書いておこう。

■瞽女
ウィキペディアによれば、「瞽女(ごぜ)」とは「日本の女性の盲人芸能者」とある。表層的には確かにそれで間違いはないのだが、そこには「霊性」の視点が欠けている。ウィキペディアはさらに続けて、瞽女とは「三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人」と追記しているのだが、『歌とシャーマン』の著者である福女史の場合、瞽女について以下のように書き表している。

瞽女の歌にはこのように霊力が認められていました。それと同時に瞽女は人気の高い芸能者でもありました。通俗的な歌でありながら非日常的な霊力を発揮する歌、という瞽女の歌のあり方に思いを致す時、藤圭子の歌の哀調、凄み、そして人の魂をゆさぶる激しさを著者は想起します。
『歌とシャーマン』p.53


ここで、五木寛之も魂をゆさぶられた一人だったことを書いておこう。ちなみに、下掲で「私」(五木)が言及しているLPレコードは藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」で、どうやら、「私」である五木の弟が置き忘れたものだったようだ。その弟のLPレコードを偶然手にした五木は、軽い気持ちでプレーヤーにかけた…

そんなわけで、私は深夜、どうしようもない行きづまった気分のままそのLPレコードを聞くまで、藤圭子という歌手に興味もなかったし、特別な印象もなかったと言っていい。ところが、その晩、不思議なことが起こったのだ。私がかけたレコードは、これまでに聞いたどんな流行歌にも似ておらず、その歌い手の声は私の耳ではなく体の奥のほうにまで、深くつき刺さってくるような感じをあたえたのだった。
『怨歌の誕生』p.237~238


五木の云う、「その歌い手の声は私の耳ではなく体の奥のほうにまで、深くつき刺さってくるような感じ」の正体は何か…。すでに『歌とシャーマン』に目を通し、瞽女の歌の本質を知った読者であれば、その正体が分かっていることだろう。

なお、上掲の五木の文章は、「怨歌の誕生」という短編小説の一節であり、同題名の書『怨歌の誕生』には「怨歌の誕生」のほか、三本の短編が一緒におさめられている。

五木が短編小説「怨歌の誕生」を発表したのは1970年8月とある。五木は1932年9月30日生まれだから、五木38歳の時の作品だ。それから49年近い歳月が流れているが、もし、五木が福寛美の『歌とシャーマン』を今読んだとしたら、どのように感じるだろうかと、ふと思った。それは、拙稿「一日一生」にも書いたことだが、半世紀が経った今日の五木は、「見えない世界」へ大きく軸足を移したであろうと、容易に想像できるからだ。五木よりも20歳下の亀さんですら、四十代後半に突入したあたりから、徐々に「見えない世界」へ軸足が移るという体験をしているだけに、なおさら五木の読後感に関心がある。

生まれたばかりの赤ん坊は、見えない世界の感覚で、この世を生きています。それが歳を経るごとに、見える世界の部分が多くなり、もう見えない世界の記憶などまったく忘れてしまう。

それが人生の後半になると、いままで影を潜めていた見えない世界とのかかわりがふたたびはじまり、自分の中の、見える世界と、見えない世界との割合が逆転してくる。そして、軸足が徐々に見えない世界に移っていくのではないでしょうか。

『百歳人生を生きるヒント』p.207~208


■霊力
福女史は「おわりに」で、重要なことを書いている。

霊力はシャーマンでなければ見ることも感じることもできず、捉えがたいものではありますが、この世界に確かに存在しています。また、歌声も霊性や聖性を持つことがあります。歌声は本来、歌い手と聞き手が対面状態にある一時のもので、その状況から離れたら印象だけしか残らず、定義もしににく捉えがたいものです。その捉えがたいもの同士が相似しているのは、シャーマンの力と歌い手の歌の力がよく似ているからだと思います。
『歌とシャーマン』p.120


明らかに、福女史は「見えない世界」を知っている。

■巫女
再びウィキペディアをひも解くと、「巫女」とは「日本の神に仕える女性」という定義が目に飛び込んでくるのだが、果たして、それだけだろうか…。誤解を恐れずに敢えて書けば、瞽女と巫女はコインの裏表のような関係にあり、本質は一だと云えないだろうか…。つまり、瞽女が「歌姫」とすれば、巫女は「舞姫」なのであり、両者とも霊性を有している、といった点で共通しているのだ。

この霊性というか霊能は、血を通じて身内に伝わっていくものであり、そのあたりについて福女史は以下のように書き表した。

母娘二代に天才の遺伝子があると天才が生まれるという遺伝子説があるが、現代の歌姫宇多田ヒカルはまさに天才の母・藤圭子の血と天才の祖母・竹山澄子のDNAを受け継いだのだ。
『歌とシャーマン』p.57~58


亀さんの母も霊性の鋭い持ち主だったが、三人兄弟で母の霊性を受け継いだのは真ん中の弟であり、残念ながら亀さんには霊性はない。しかしながら、母と弟という霊性を受け継いだ者の存在を知るだけに、霊性というものの存在を信じている。

それから、五木がレコード会社で働いたことがあるという行を読んだ時、渡辺正次郎氏の顔が浮かんだものである。その渡辺氏も発売前の数あるレコードの中から、ヒットするであろうレコードを確実に言い当てていたあたり、霊性というよりは霊感の鋭い持ち主であることが分かるのだ。その渡辺氏は自著『芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き』で、藤圭子の自殺を巡って自論を展開しているが、ほぼ真実と思って差し支えないだろう。

以下、拙稿「高麗郷を歩く」でも紹介した藤圭子に関するページを再掲しておく。

18122503.jpg



英語かたりの会
19021402.jpg

今年古希を迎える人生の先輩が、ナント高座を務めることになったということで、両国の「お江戸両国亭」に行ってきた。

英語で落語…? そんなことが可能なのかと思いつつ、二時間半にわたって英語による落語を聞いてきたのだが、実に楽しい一時を過ごすことが出来た。受付でもらったパンプレットには、友人について以下のような紹介が書いてあった。

市川忠雄
劇作家、演出家の森田等主宰の「演劇娯楽部十人十色」のメンバー。銀座博品館劇場での朗読劇「マクベス」にて初舞台。英語落語家の鹿鳴家英楽氏と英語パフォーマンス「ワーズ オブ シェイクスピア」で共演、また現在は、日本の民話、小泉八雲作品、詩などの語りパフォーマンスを毎月各種イベント、学校などで精力的に行っている。




その後、先輩と一緒に落語家との打ち上げ会に参加させてもらい、大いに語り合ってきた。英会話学校の講師を務めているというアメリカ人もいたので、遠慮なく日本語で語りかけた。彼のガールフレンド(奥さん?)も隣に座っていたので、日本語で話しかけてみたのだが、やけに日本語が上手い…www。そこで、「失礼ですが国籍はどこですか?」と尋ねてみたところ、ナント生粋の日本人だという。彼女を含め、安倍昭恵さん似の市川さんの知人や、「めし田」さんというスタンダップコメディアンらと、楽しい語らいの一時を過ごした。殊に、隣に座っていた「めし田」さんの話は実に興味深く、めし田さんが舞台で話題に持ち出していたAI、思うところがあったので、いずれ記事にしてみたいと思っている。

最後に、打ち上げ会で小生の話に耳を傾けてくれた皆さん、小生が言及していたテーマの詳細は、以下の拙稿が参照になると思うので、時間のある時に一読していただければ幸い…。

●日本が奴隷国家から半奴隷国家になった運命の日
ワクワクする新時代
運命の週末

●先月、志布志を訪問して古墳群を巡ってきた背景
飯山史観

●明智光秀は天海…?
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/469-472/
信長の正体

市川さん、そしてめし田さん、これからも頑張れ、ファイト~ォ!

19021401.jpg

志布志の旅 04
志布志滞在二日目、宿泊したホテルをチェックアウト後、志布志市埋蔵文化財センターを訪問、特に印象に残ったのが原田地下式横穴墓から出土したという、軽石製組合石棺の実物であった。しばし石棺の前で時を忘れて立ち尽くしたほどで、当時の古人の心のうちに思いを馳せた次第である。

19021302.jpg

その後、志布志市の山奥にある「かごしま ことば塾」を訪問、橋口満塾長のお話を半日にわたってお聞きした。橋口塾長は昭和22年の現曽於市大隅町生まれと、故飯山さんの一歳下だったが、亀さんから見れば人生の先輩である。その橋口塾長が多くを語り聞かせてくれた応接間に、ズラーッと並ぶ大量の日本全土の方言関連の書籍や資料に圧倒されたのだし、橋口塾長自身、鹿児島弁に関する多くの書籍を執筆しておられることを知った。中でも代表作は『鹿児島方言大辞典』(上下巻)だろう。橋口塾長が蒐集した鹿児島方言は、民俗に関するものが中心のようで、南方熊楠や柳田國男の民俗に関心を寄せる身として、橋口塾長のそうした着眼点に舌を巻いたのだし、民俗学的な視座から橋口塾長の語る話は実に興味深いものがあった。

19021301.jpeg

なかでも、驚愕したのが外域(とじょう)制度である。一般に鹿児島弁というと一つの方言程度の認識しかないのだが、人口に武士の占める割合の多かった薩摩では武士の麓(ふもと)集落ごとに102ヶ所ほどの外域に分け、かつ各々の外域ごとに方言が異なっていたのだと謂う。だから、他藩がスパイに一外域の方言を習得させて薩摩に送り込んだとしても、口から出る方言で忽ち余所者であることが簡単に見破られてしまっただろうし、そこに薩摩の動向を他藩がなかなか掴めなかった最大の要因があったことを今回知った次第である。なかでも、亀さんが長年にわたり注目してきた「加治木」という麓集落、今でも地名として残っているが、そこには西郷隆盛蘇生の家が今でも大切に保存されている。

同時に、加治木は島津家と深い関係があった。そのあたりは以下の史料に目を通していただくとして、皇統奉公衆と交流のあるさる筋から加治木について数年前、長時間にわたって話をきいており、島津家は無論のこと、西郷隆盛とも深い縁のある加治木とは何だったのかということで、さる筋の話を聞いた後に自分なりに調べたのだが、仕事に追われていたこともあって、その後は調査を中断していた。しかし、今回の橋口塾長の話を聞くに及んで、改めて島津家についての調査を再開したいと思う自分がいる。その意味で、もしかしたら飯山史観完成後の暇潰しの候補の一つになるかもしれない。
系図(島津氏<加治木島津家>)

橋口塾長のお話を聞きながら残念に思ったのは、鹿児島弁が消えつつあるという事実だ。橋口塾長の語るところによれば、鹿児島弁を話して理解できるのは、橋口塾長の世代が最後となりそうで、塾長の御子息や孫は標準語しか話せなくなっているという。50年近く前に知己になった友人が大阪や福島にいるが、古い大阪の友人は今でも関西弁丸出しだし、福島の友人の場合、小生の前では標準語で話してくれるものの、彼の祖母は福島弁そのままで、友人の祖母と話をするときは、都度友人に通訳をしてもらったことを昨日のことのように覚えている。だから、方言はそう簡単には消えてなくならないと今の今まで思っていたのだが、どうも鹿児島の場合は事情が異なるようであり、他所とは異なる土地のようだ。このあたりの真因は上掲の外域制度と麓集落にあると、亀さんは橋口塾長の話から思ったのだが、同塾長に再会することがあれば、じっくりとこのあたりについて塾長の意見を聞いてみたいと思う。ご参考までに、関西弁すらも、いずれ消えてなくなると、橋口塾長が語っておられたのを付言しておこう。そして、数百年単位で見れば、確かに橋口塾長の主張は正しかろう。

ともあれ、薩摩、すなわち島津家は文字通りの海洋国家であった。中国や琉球はもとより、多分英国とも交流が深かったはずだ。薩摩藩は下甑島へ渡航という名目で有望な藩士を一旦下甑に送り、そこから若い藩士を英国に留学させているが、そうした留学生の中から、たとえば森有礼といった人物が後に誕生している。ともあれ、海洋国と島津家、明治維新を解くキーワードの一つになりそうだ。

横道に逸れるが、絵画とは云え、西郷隆盛の風貌は南方系を髣髴とさせるに充分だ。もしかしたら、宮古島で発掘されたという縄文人がルーツかもしれないが、このあたりは近く調べてみたいと思う。

19021303.jpg 19021304.jpg
(11)南方からやって来た縄文人

橋口塾長の話に時の経つのも忘れ、話も終盤に差し掛かって陽が傾きかけた頃、今回のミニ志布志一郎会の参加者の一人が、角田忠信博士の『日本人の脳』に絡めた質問を橋口塾長に問うた。これは面白くなるぞと思ったのだが、帰りのサンフラワー号の出航に間に合わなくなるおそれがあったので、時間切れとなったのは残念だった。再び橋口塾長に再会するようなことがあれば、塾長が大好きだという焼酎を酌み交わしつつ、以下の拙稿を紹介して意見を拝聴したり、さらには「下甑島」や「北朝鮮」について語り合ってみたいと心から思った。
北満州と日本列島 04 日本語の源流
ハンガリーと日本 「膠着語」「孤立語」「屈折語」、それぞれの違いについて
乳酸菌と漫画 日本語特有の擬声語(西洋で云うオノマトペとは異なる)


それから、橋口塾長が小生に問いかけた質問、「雪がしんしんと降る」のしんしんは、英語でどのように訳すのか、今でも亀さんは悩んでいる。山岸勝榮先生の「歌詞に見る美しい日本語―英語翻訳ができない1つの理由」と題する記事を再読しつつ、やはり「しんしん」の英訳は無理だなと、改めて思ったものである。

山岸先生の上掲の記事の他、以下の記事でも「雪がしんしんと降る」について言及しているので、関心のある読者は目を通すと良いかもしれない。
角田忠信『日本人の脳』(大修館書店)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

以上、今回を以て「志布志の旅」シリーズを終えることにしたい。そして、本シリーズに目を通してくれた読者に対しては、心から感謝の意を表したい。ありがとう。

志布志の旅 03
志布志滞在二日目について筆を進める前に、野崎晃市博士がブログ【文殊菩薩】に書き連ねた「飯山一郎先生の最終講義」シリーズで、亀さん的に付言したい箇所が3ヶ所ある。

ルーツ

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。

飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。

飯山一郎先生の最終講義(2)


かつて、亀さんは自分のルーツを少しだが調査したことがある。そして、現在想定している亀さん家のルーツは二つだ。一つは綾部市で、拙ブログにも少しだが書いた。
遠祖を求めて

実は、もう一つ想定しているルーツがある。それは、現在は入院中の実母が元気なころに語ってくれた話が基になるのだが、ナント! 亀さん家のルーツは鹿児島だったと母は言うのだ。母の話によれば、亀さんの父方のご先祖様が参勤交代で、鹿児島から江戸に来たのだが、どういう経緯かは分からないものの、そのまま江戸に住みついたのだという。念のため父の戸籍抄本を確認したことがあるが、出生が東京府北豊島郡日暮里とある。父は大正12年生だが、その5年前までは武蔵国豊島郡日暮里村であった。現在でも荒川区日暮里という地名として残っており、日暮里から薩摩島津家下屋敷跡や、薩摩藩三田藩邸跡までの直線距離は6kmと近い…。飯山史観の編集を終えたら、今度は冥土までの暇潰しにルーツ探しをしてみようかと、ふと思った。

19021201.jpg

■明治維新

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩大慈寺は薩摩藩と海外との密貿易の関係を示す証拠であり、また明治維新の思想的源流の一つとしても重要な文化財であるようだ。
飯山一郎先生の最終講義(4)


現在進めている飯山史観の編集は、応神天皇の御代から南北朝あたりまでを主体に纏めるつもりでいたが、今回の志布志訪問で、改めて島津家について思うところがあり、明治維新で中枢的な役割を果たした藩の一つが島津家であったことを思えば、南北朝から明治維新に至るまでの流れを、島津家を中心に纏めてみようかと思うようになった。すなわち、島津家を深く追求することが、飯山史観の完成に欠かせないと思ったのである。その意味で、これが今回の志布志訪問の最大の収穫の一つだったのかもしれない。ともあれ、島津家について何処まで掘り下げるべきか、今後の検討が必要のようだ。

■安西ファイル

飯山先生が議論の教科書として読んでほしいと取り出されたのが、世界戦略情報雑誌『みち』の安西正鷹氏のトランプに関する論考だった。
飯山一郎先生の最終講義(7)


野崎博士の上掲の記事を安西さんに私信で伝えたところ、以下のような回答をもらっている。

いやぁ~、それにしても驚きました!飯山さんの最終講義をYou Tubeで観ましたが、
テキストとしてそのまま使っていたのですね。一部を引用したり軽く紹介している程
度だと思っていたので、本当にビックリです。もはや飯山さんの講義では採り上げら
れないにしても、飯山さんの同志の皆様が引き続き目にするかもしれないと思うと、
これはますます高い質の内容にしなければと、身の引き締まる思いになりました。


これからの安西ファイル、ますます目が離せなくなった。その安西さん、安西ファイルと飯山一郎さんの関りを安西ファイルに書いたのだという。近く『みち』に発表されると思うが、その一部を掲示板「放知技」に転載しておいたので、関心のある読者に一読してもらえたらと思う。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16639517/6/

志布志の旅 02
19021001.jpg

大久保酒造で旨い焼酎を御馳走になった一同は、車で目の前にある横瀬古墳へと向かった。飯山さんの最終講義のビデオの冒頭で、横瀬古墳の頂上に立つ飯山さんについて野崎晃市博士は、「古墳を遠くに眺める飯山先生の姿は何か神々しくもあり、まるで古代からタイムスリップしてきた仙人のよう」と表現していたが、正に…。

上掲の仙人発言は昨日紹介した野崎博士のブログ記事、「飯山一郎先生の最終講義」シリーズの初回に書いてあるのだが、ビデオを幾度か繰り返し眺めながら、過日の亀さんの志布志の旅は、まさに野崎博士一行が飯山さんの最終講義を聴いた日に巡った、志布志の地を追認するものだったと今にして思う。

目を転じて、野崎博士らが飯山さんから文字通りの最終講義を受けている様子が、同ビデオに遺ったわけだが、ビデオを通じて最も重要な飯山さんのメッセージがあった。それが以下である。

19021002.jpg

19021003.jpg

加えて、掲示板「放知技」の本スレで、亀さんは飯山史観について以下のように書いた。

過日、志布志を初めて訪れ、横瀬古墳や唐仁古墳群を目の当たりにして、シベリアの地に誕生した墳丘墓(クルガン)の流れを、これらの古墳群が確実に引き継いでいることを肌で感じ取ることができたし、遠祖が遺してくれた古墳群を目の当たりにして故郷に戻ったような気持ちになり、感無量でした。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/964/


応神天皇の御代(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日 - 西暦270年~310年)から天武天皇の御代(在位:天武天皇2年2月27日~朱鳥元年9月9日 - 西暦673年3月20日~686年10月1日)の間に、横瀬古墳(推定築造時期 5世紀中葉-後半 - 西暦440年~490年)や、唐仁大塚古墳(推定築造時期 4世紀末 - 西暦370年~390年)が築造されたのだし、南北朝時代に建立された肆部合の石碑の場合は、「暦應四年十月廿六日西念」(暦應四年は1341年)と石碑に刻まれている。

19021007.jpg

19021008.jpg

■唐仁大塚古墳
19021009.jpg

19021010.jpg

19021011.jpg

19021012.jpg

19021013.jpg

19021014.jpg

ここで、『唐仁古墳群シンポジウム』と題する貴重な史料を、亀さんは絶食青年から一部頂戴している。これは同古墳群の調査結果をまとめた貴重な史料となっており、東串良町教育委員会の大﨑彩女史が纏めた「唐仁古墳群の調査について」の他、琉球大学法文学部・池田榮史教授の「唐仁古墳群の魅力」、宮崎大学・柳澤一男名誉教授の「古墳時代とはどのような時代か」、鹿児島大学総合研究博物館・橋本達也教授の「唐仁大塚古墳・唐仁古墳群と鹿児島の古墳研究」と、計40ページの小冊だが、中身は濃い。ただ、同史料の通読にあたっては注意すべき点があり、殊に飯山さんの以下の記事を念頭に置くべきだ。

19021015.jpg
http://grnba.jp/more106.html#aa11191

上掲の記事以外に、唐仁古墳群で注意すべきは拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介した飯山HP記事があり、唐仁古墳群の真相に迫るうえで貴重な記事となっている。
断定:「日本国」は大隅半島で建国された!
日本建国の秘密は大隅半島にある!

■島津家
初日はグルンパ諸施設、古墳群の他、ビデオにも映る大慈寺、密貿易屋敷、即身院跡を訪問しているが、共通のキーワードは島津家である。島津家の背後に浮かぶ英国の影を忘れてはならないし、謎の多い一族と云えよう。この島津家については、機会があれば取り上げていきたい。何故なら、南北朝以降の鹿児島の歴史を解くキーワードこそが、「島津家」に他ならないからだ。

秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。
深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。

青州で思ふ(6)


その他に大慈寺ついてだが、大隅半島に仏教を伝えたのは、朝鮮半島からの王仁(わに)博士と世間一般では思っているようだが、この仏教伝来もいずれ見直さなければならない時期が到来するだろう。

19021005.jpg

19021006.jpg

次稿では、志布志での二日目について書こう。


志布志の旅 01
先月(1月21日~24日)、四日間かけて志布志市を初訪問してきた。本来なら、帰宅直後に訪問の思い出を記事にしてアップすべきところ、年明け早々からスタートしていた大量の仕事に追われていたこともあって、執筆が今頃になってしまった。

ともあれ、思うところが実に多かった旅だったこともあり、今回は数回にわけて徒然なるままに書き連ねていくことにしたい。よって、本シリーズを終えてから、再び「古墳時代」シリーズに戻りたいと思う。

飯山一郎さんや稲村公望さんはサンフラワー号で大阪・志布志間を往復しているが、小生も今回初めてサンフラワー号に乗って志布志に向かった。出港が夕方の17:55p.m.ということもあり、昼過ぎに大阪駅で猿都瑠さんと待ち合わせ、大阪名物のうどんに舌鼓を打ってからサンフラワー号に向かう。そこで堺のYさんと堺のおっさんと合流して一緒に乗船した。広いロビーの一角では酒を酌み交わしつつ、盛り上がっている四人組のおっさんたちがいたのだが、その集団こそ何を隠そう我々おっさんたちであった。一服するため時々席を離れたが、50m離れた喫煙室の入口(下の写真の真ん中にある白い扉横)あたりからも、残り三人の大きな話し声が耳に飛び込んでくるほどだった。話の内容が〝高尚〟な内容だったら、胸を張って一服したんだが…。

19020901.jpg

翌朝、無事に志布志港に到着、さっそく飯山邸へと向かう。意外と港から近かった。てげてげHPでも見覚えのある飯山さんが住んでいた家に入ると、客間の片隅に飾ってあった仏壇と飯山さんの遺影が目に飛び込んできた。そして、「嗚呼、やはり亡くなられたんだな」と改めて思った。手を合わせつつ、心の内で飯山さんと話をした後、今回のミニ一郎会に参加したという三名のメンバーのほか、絶食青年も到着、しばし歓談した後、車に分乗して志布志探索に出かけた。ここでは、初日の出来事を簡単に書いておこう。

初日はグルンパ関連施設と古墳群を主に訪れた。最初に訪れた施設は延命草を使って乳酸菌の餌を製造する施設で、出迎えてくれたのは「華奴 紫馬ラベル」のタイチー君の父君Hさんであった。施設の説明が一通り終わった後、隣接の延命草の畑を案内していただいたのだが、印象的だったのが以下の写真に見る防風林だった。畑には乳酸菌を散布しているのだが、それが右の防風林にまで流れたことから、同じ時期に植えた防風林なのに、乳酸菌が流入しなかった左側と流入した右側とでは、木々の成長が全く違っているのが一目瞭然である。改めて、乳酸間の威力を目の当たりにした思いだった。

19020902.jpg

その後、ゴミから土壌を製造する施設や、クリーンセンターを案内してもらった。土壌工場では他では見られない土壌のきめ細やかさが印象的だったし、クリーンセンターでは綺麗に仕分けされたゴミの山が目に焼き付いた。改めて、志布志の人たちの意識の高さに思い致した次第であった。もし、そうした志布志の人たちの協力がなかりせば、工場から悪臭が漂い、今頃は周囲の住民からの猛反発を食らっていたことだろう。

その後、焼酎好きなら一度は呑んだことがあるであろう、華奴の大久保酒造に立ち寄る。工場内の製造工程を案内してもらった後、出来立ての焼酎を呑ませてくれた案内係の人には心から感謝したいし、実に旨かった! よほど旨かったのだろう、帰り道、呑みすぎて車中で眠っていた者も出るほどだったwww

その後は以下の写真にあるように、大久保酒造の工場入口から見える横瀬古墳を訪れた後、さらに唐仁古墳群や肆部合の石碑などを案内してもらったのだが、そのあたりについては次稿に回したい。

19020903.jpg

野崎晃一博士の「飯山一郎先生の最終講義」シリーズ】
飯山一郎先生の最終講義
飯山一郎先生の最終講義(2)
飯山一郎先生の最終講義(3)
飯山一郎先生の最終講義(4)
飯山一郎先生の最終講義(5)
飯山一郎先生の最終講義(6)
飯山一郎先生の最終講義(7)


一日一生
19020801.jpg

先月21日に秩父山地の麓を発ち、22日から23日にかけての二日間、志布志を訪問してきた。そのあたりの詳細な報告は「古墳時代」シリーズで書くとして、今回は帰路の池袋で手した五木寛之の著、『百歳人生を生きるヒント』の読後感を簡単に書いておこう。

帰りに西武池袋線の池袋駅構内にある書店に寄り、五木寛之の『百歳人生
を生きるヒント』を入手しました。確か、飯山さんがHPに取り上げていた五木
の本は、これだったと朧気ながら記憶していたので、迷わず手にしました。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/803/


帰宅後、故飯山一郎さんのHPを確認したのだが、五木の本は五木の本でも、上掲の『百歳人生を生きるヒント』ではなくて、『孤独のすすめ』であった。そこで、改めて飯山さんが五木について言及した箇所を以下に再掲しておこう。

まず考えられるのは,人には「何がなんでも生きていたい」という本能,“生存欲”があるからだが…

笑われるのを承知で言えば,私は「この世界がどう変わっていくのか,見ていたい」だけなのです.
日本だけでなく,アジアが,世界全体が,この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい.知りたい.そのために長生きがしたいと思う.


上の青い字の文章は,五木寛之著『孤独のすすめ』からの抜粋ですが…,ワシも全く同じ気持ちです.

しかし,老いも若きも,基本はヘルシ~であること!これっきゃない.
身体だけでなく,心も,考え方も,行動も,ヘルシ~であること!
グズグズネチネチ 何事にも文句をタレるよ~なシトは不健康だ.
明るくて元気なこと.くよくよ心配しないこと.カネに拘らないこと.
あと,スケベであること.多読であること.しょっちゅう旅に出ること.
こんな人生を↑目指しましょう.
http://grnba.jp/more108.html#ai01171


五木の「この世界がどう変わっていくのか,見ていたい」という言葉に対して、飯山さんは「ワシも全く同じ気持ちです」と書いているが、それだけに突然のこの世との別れ、さぞかし心遺りだったに違いない。

その五木の『百歳人生を生きるヒント』を通読して、今回思ったことは以下の二つの言葉である。

■一日一生

私は一日一生という言葉や、明日のことを思い煩うな、という言葉に勇気づけられます。

ともかく、何があっても、今日一日を生き延びればいいんだ。明日は明日が勝手にどうにかしてくれるのだから……ここには何かを手放したような開放感が感じられます。

長い老後のために、いくら蓄えておけばいいのか、思い煩うこともしない。

『百歳人生を生きるヒント』p.180


雑誌系のネット記事の見出しを読むだけでも、「老後破産」、「老後に必要なお金」、「人生100年時代の健康法」といった類の文字が躍っている。しかし、老後のことをアレコレ心配しても、どうなるものでもなく、掲示板「放知技」にたびたび登場する、「グズグズネチネチ 何事にも文句をタレるよ~なシトは不健康」な輩に陥るだけだ。その意味で、「身体だけでなく,心も,考え方も,行動も,ヘルシ~であること!」と主張する飯山さんの言葉、この機会に改めて噛み締めておきたいものだ。

■見えない世界

生まれたばかりの赤ん坊は、見えない世界の感覚で、この世を生きています。それが歳を経るごとに、見える世界の部分が多くなり、もう見えない世界の記憶などまったく忘れてしまう。

それが人生の後半になると、いままで影を潜めていた見えない世界とのかかわりがふたたびはじまり、自分の中の、見える世界と、見えない世界との割合が逆転してくる。そして、軸足が徐々に見えない世界に移っていくのではないでしょうか。

『百歳人生を生きるヒント』p.207~208


読者が五十代に突入前の年代であればピンと来ないかもしれないが、人生も後半に差し掛かると、あれこれ見えない世界について考えることが多くなるのだし、今後は時折「見えない世界」について書きたいと思っている。

ともあれ、ここ一ヶ月ほどは仕事に追われ、ブログ更新どころではなかったのだが、漸く一段落した今、再びエンジンをかけて記事を更新していきたいと思っている。