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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
古墳時代 04
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前稿「古墳時代 03」で大隅半島を取り上げると亀さんは書いた。その大隅半島だが、掲示板「放知技」で飯山さんと交わしたやり取りが未だに頭から離れないでいる。ご参考までに、そのやりとりを以下に示しておこう。

19010301.jpg
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16237327/746-747/

一昨年(2017年)10月に行われた衆議院議員総選挙をめぐって、放知技で飯山さんと堺のおっさんが、選挙予測を立てていたのは未だに記憶に新しい。中でも、亀さんが気になっていたのが鹿児島3区であった、同区では小里泰弘氏と野間健氏(元『月刊日本』編集員)の闘いになったのだが、数年前までの亀さんだったら間違いなく野間氏を応援していたと思う。しかし、前回の総選挙があった時点では、小里氏の当選を心から願った。そのあたりの亀さんの心境の変化は、拙稿「孤高たれ」にも書いたので割愛する。

ともあれ、上掲の飯山さんの投稿を読み、小里氏の当選は間違いないだろうと一安心したものだが、もう一つ、上掲の放知技の投稿で気になった飯山さんの記述(赤下線)があった。

風土・慣習が違い,言葉(方言)が違うので,話が通じない!


鹿児島湾を挟んだ形の薩摩半島と大隅半島は、地図を眺める限り距離的に随分と近い。それなのに、「風土・習慣・方言が違っている」とする飯山さんの記述を読み、何故だろうという疑問が頭から離れなかったのだ。そのあたりを確認しようと思い、15年前以上に入手した『隼人の古代史』(中村明蔵 平凡社新書)を、久しぶりに紐解いてみたところ、冒頭に以下のような記述があった。

 地図を広げて、南九州の一帯を見ると、三方を海に囲まれているようすが、すぐにわかる。東に太平洋、西に東シナ海、南にはその両大海の接線上の海面に薩南諸島・沖縄諸島などの、いわゆる南西諸島の島々が点々と浮かんでいる。それら島々の先に台湾島がひかえている。

 いましばらくは南九州本土に視点をあてると、南からえぐるように入江状の鹿児島湾が北に入り込んでいる。その鹿児島湾の東側が大隅半島、西側が薩摩半島である。南海に二本足で立ったような両半島の姿からは、それほどの違いはなさそうであるが、それぞれにかなりの地域的性格の差異が見出される。歴史的背景を主として両半島がどのような差異を見せてきたかは、おいおい語ることにしたい。

 つぎには、それぞれの半島の北につながる地域、両隣接地域は南九州のなかではやや内陸的な要素ももっている。といっても、海とのつながりも直接・間接に見出され、多様な側面をもつ地域である。いずれにしても、南九州は海との関係を無視しては語れない地域の集合体である。

 その南九州には山も多い。山々に囲まれてわずかな平地が点在する、といったほうがわかりやすいであろう。その山の多くは火山とその噴出物が形成したものである。火山が各所に散在し、数万年前から現在にいたるまで、そのなかのいくつかが活動をつづけているのも南九州の特色である。

『隼人の古代史』p.12~14

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「歴史的背景を主として両半島がどのような差異を見せてきたかは、おいおい語ることにしたい」と中村氏は書いているわけだが、残念ながら15年前の亀さんは、同書を四分の一ほどしか読了していない。よって、仕事の合間に最初から読み直している最中であり、通読した後に思うところがあれば記事にするかもしれない。ともあれ、同書は中村氏の集大成ともいうべき本(以下を参照)であるだけに、この機会に一気に通読しておくつもりだ。

小冊子ではあるが、これまでの研究を集約して、おこがましいことではあるが、その精髄ともいえる内容になるように書き下ろした。簡素に集約しつつも、これまでの拙書には収載できなかった、ごく最近の研究成果やその動向を盛り込むことにも努めた。その点では二十一世紀初頭までのハヤト研究の集約でもある。
『隼人の古代史』p.255~256


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ところで、亀さんが飯能スレで鯨肉について書くのは、以下の飯山さんと堺のおっさんとの間で交わされたやり取りが頭に残っていたからだ。

天皇家と下甑島産の鯨肉の関係は濃厚どころか,「捕鯨」は天皇家の支配下にあった!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/845-846/


このあたりの背景は、拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介済である。

応神天皇は仲哀天皇の子?
巨大な前方後円墳の原型は?
やはり応神天皇は…


ここで、「応神天皇は仲哀天皇の子?」をクリックすると、以下の記述に目が留まるはずだ。

もっと不思議なことは…
天皇の軍が熊襲軍に敗れ,天皇が陣中で亡くなられた以降…
熊襲に関する記録が,日本書紀の記述から全く消えてしまうのだ.

熊襲と同じように朝廷を悩ませた「蝦夷(えみし,えぞ)」は,後世まで歴史の記録に残っている.

ところが,3世紀から5世紀にかけて,あれほど強大な勢力を誇示して朝廷に叛乱し続けた『熊襲(クマソ)』だけが,仲哀天皇の崩御(戦死)以降,その名が消えてしまったのか?!

この謎のなかにこそ,じつは,日本国建国と天皇家の秘密が隠されているのだが…,その謎解きを書くことは,簡単には出来ない.


熊襲を隼人と呼ぶようになった背景が、朧気ながらもお分かりいただけたものと思う。ともあれ、今月は志布志を訪問し、昼は古墳を巡り、夜は同志と酒を酌み交わしながら、熊襲であった応神天皇の御代を中心に、多角的かつ徹底的に語り合ってきたいと思う。

【追伸】
昨夕、2月1日が締め切りの大量の仕事(翻訳)が2本入ったことと、今月下旬に志布志と大阪を一週間ほどかけて回る予定とが重なり、以降の拙ブログの更新が滞りがちになる見込みだ。そのあたり、予めご承知おき願いたい。亀さん拝
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古墳時代 03
前稿「古墳時代 02」を執筆してから早くも10日以上が過ぎたが、今月は志布志を訪問して古墳群を見学することもあり、いつまでも御屠蘇気分でいるわけにはいかない。よって、今日あたりから南九州の古墳群についての執筆を進めることにしよう。

さて、「古墳時代 02」ではシベリアの地で誕生したクルガン(墳丘墓)について書き、本稿では「ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった」について書くつもりでいたが、やはり最初は九州が誕生したあたりから筆を進めたいと思い直した。

その九州を含めた日本列島が、どのように誕生したのかについては、すでに拙ブログの「奇跡の日本列島」で書いているが、簡単に振り返れば、ユーラシア大陸の一部だった日本列島が、3000万年前あたりから徐々に大陸から引き千切れていき、やがて大陸から完全に日本列島が引き離された…。以下は、完全に引き離された日本列島の状態を示すイラストだ(1500万年前)。

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そして1400万年前頃、地球規模の大噴火が今の九州あたりで発生、その後冷えて地下で固まった軽い花崗岩によって、土地が隆起したことで西日本に山脈が形成された。

300万年前頃、今度はフィリピンプレートが大陸プレートに衝突、それが引き金となって太平洋プレートも日本列島に向かって西進したため、東日本一帯にも山脈が形成された。

100万年前、大陸プレートの移動によって日本列島は一つになったのだが、その頃の様子を示したのが以下のイラストだ。当時は、未だ本州・九州・四国が陸続きだったことが分かる。

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長い年月が流れ、10万年ほど前に九州に旧人が渡ってきたはずだが、旧人については割愛し、新人から筆を進めよう。

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拙稿「北満州と日本列島」シリーズで紹介した、「日本人はどこから来たのか」の「(11)南方からやって来た縄文人」にあるように、縄文文化は北日本で花開いたものと、長い間にわたり我々は思い込んでいた。しかし、ナント1990年代後半、南九州でも驚くべき縄文遺跡が続々と発見されたのである。

そうした縄文の遺産を基盤に、開花したのが九州王朝というわけだが、「日本人はどこから来たのか」の作者は九州の縄文人の場合、スンダランドにルーツを持つ人々だと考えているようだ。確かに地理的な位置からして、南九州にスンダランドから流入してきた可能性は高いのだが、同時に朝鮮半島から対馬を経由して渡ってきたツラン、あるいは北日本から流れてきたツランの可能性も否定できないだろう。何故なら、古墳、すなわちクルガンを誕生させたのは、ツランだったのだから…。

やがて九州に古代文化が誕生、後の九州王国となった。この九州王国だが、古田武彦の説が有名だ。掲示板「放知技」の常連さんの一人、明石原人さんも熱烈な古田史観の支持者の一人であり、以下のように述べている。

日本国の前の王権=王朝が九州にあった
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15885120/786/


それに対して、飯山さんも以下のように肯定した。

私は、古田の言うとおり、「九州王朝」は実在したと思います。

そのひとつが、「阿蘇山」の近辺に存在し、『隋書』に書かれた『俀国』。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15523279/932/


蛇足ながら、上記の「阿蘇山」噴石を巡っての、飯山さんと堺のおっさんのやりとりが興味深い。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16457818/934-935/

さて、古田史観によれば邪馬台国は九州にあったとのことだが、その古田の九州説を、完膚なきまで叩きのめしたホームページ(HP)が存在する。実際に内容を読むに説得力があり、相当インテリジェンスな人物が執筆したHPだということが分かるのだし、亀さんも同HPの主張について全面的に賛同する。ちなみに、このホームページを紹介してくれたのはmespesadoさんで、上掲のHPはmespesadoさんの投稿の中で紹介されており、関心のある読者は一度アクセスしてみるといいだろう。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/7/

次稿では、大隅半島について筆を進めよう。

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恭賀新年
平成最後の元日の朝を迎えた。昨年は、飯山一郎さんとの今生の別れ、半世紀ぶりのアルゼンチンとウルグアイ再訪等、実に印象に残る一年となった。今年は、新年早々に志布志を訪問、日本史の原点たる古墳群めぐりを手始めに、飯山史観の完成に向けた一年としたい。

昨年同様、本年も大勢の読者の皆様方との交流を願うと同時に、皆様方にとって幸多き一年となるよう心よりお祈り申し上げる。

平成三十一年元旦



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