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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
ゆく年くる年
本日のオンライン記事をチェックしていたところ、食生活ジャーナリストである大久保朱夏女史の記事が目に留まった。
まだ「おせち」食べる?気になる正月の風物詩

『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』(岩村暢子 中央公論新社)という本を取り上げた大久保女史、時の経過とともに変わりゆくおせち料理を取り上げており、興味深く読んだ。

ところで、目を引いたのは以下の行だった。

同書の編集を担当した主婦の友社の中島由佳子さんは、「小さな子どもがいる30代女性を意識して制作したが、おせち作りは男性が意外とハマるかもしれないとも思っている。男性は女性に比べて相対的に段取り上手で、ハレの料理が好き。一家の大黒柱がおせちを作る家庭が増えていく可能性があるのではないか」と話す。


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「おせち料理は男が作るもの」と、今は長期入院している母から、子供時代に幾度も聞かされていたのを思い出した。よしゃ~、今回の正月には間に合わないが、その次の正月にでも、おせち料理に挑戦してみるか…

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大久保女史の記事を読み進めていくうち、少しずつ昭和三十年代の記憶が蘇ってきたところで、今度は山岸勝榮先生のブログ記事にアクセスしてみた。
家族が一年で一番忙しかった日、12月30日

昭和三十年代初めあたりまでだったと記憶しているが、亀さん家では自宅で餅を突いていた。しかし、いつの間にか近所の米屋から半畳ほどの大きさの餅を数枚買ってくるようになり、現住所に引っ越してからは餅突き機を使うようになった。今でも、暖かい冬日の差し込んだ部屋で、母が突きあがった餅を切っていた情景が目に浮ぶ。家あるいは米屋さんの突き立ての餅の方が、スーパーで買うパック入りの餅よりも、はるかに美味かったものだ。

山岸先生の記事で、特に印象に残ったのが以下の行だった。

戦後の誰もが貧しかった時代、家族が揃って「歳取り」が出来ることは本当に幸せなことだった。


亀さんが子どもの頃は、大みそかには一家全員が集まり、年越しそばを食べながら、紅白歌合戦、続いてゆく年くる年を見るのが恒例だった。残念ながら、昭和三十年代のNHKのゆく年くる年の動画は見つからなかったが、代わりに以下があった。


行く年来る年 1959~1960

1960年の正月といえば、亀さんが小学校一年生の時なんだが、なんか100年前の動画を見ているような気がして、とても自分が生きていた時代の動画とは思えなかったwww 続いて、以下は紅白歌合戦で、やはり亀さん9歳の時のものでR。


紅白歌合戦 昭和38年

この紅白歌合戦、残念ながら全く記憶に残っていない…

さて、今日は仕事部屋の大掃除と庭仕事だwww

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スピノザとサルトル
掲示板「放知技」で、サルトル…、ではなくて猿都瑠さんが実にE-こと書いている。

放知技と言うのは、自分がこう考えているから、あの人の発言はこうだと結論付ける場では無い場所。

ありとあらゆる情報を出来るだけ集めて、あの人の発言の真意はどうなんだろう考える場所。

その情報が考察に重要だと思う書き込み、一つの真意に向かって行くと言うこと。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/623/


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この投稿で思い出したのが、先日放送された「100分で名著」の「エチカ」編だ。その第4回の「真理」で出た、國分功一郎教授の発言が実に良い↓

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國分教授の謂う「幸せに至る道は物事を認識していくことをベースとしている」とは、どういうことか? こういうことだ…↓

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つまり…↓

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ところで、どさくさに紛れて「ま~」という輩が以下のような投稿をしていた。ま~、この輩は上品な言葉を使えば「荒らし」、亀さんの言葉でいけば「蛆虫」つうワケだ(爆) 次回は「ま~」ではなくて、「バカぁ~」というハンドル名での再登場を期待したい(嗤)

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/607/

ところで 飯山さんの史観についてだが、「ま~」とやら、飯山さんの史観についての何が「日本史のウソ」つうことになるんだい。ココの読者にもわかるように、説明してくんない?

ま~、無理か、お前のドタマでは…。精神年齢が12歳だもんな(爆)

宮中祭祀
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即位の礼にて

堺のおっさんが亀さんのブログ記事「歌とシャーマン」を引用しつつ、掲示板「放知技」に質問の形で投稿していたので、亀さんはシャーマニズムと絡めた回答を行っている。その後の見直しで表現の拙い箇所や誤入力の他、追記したい情報も出たので、再編集の上、以下に再掲する。

情報不足なのですが、

それは小生も同じです。早い話が、雲上人の世界で起きていることは、正直言って小生もあまり良く分かっていません。ただ、皇室ジャーナリストといった人たちとの交流、あるいは皇統奉公衆と接触のある人との交流も多少はあることから、小生の場合は一般よりも少しだけ知っているというだけのことにすぎないのです。無論、そうした皇室情報を提供してくれる人たちも玉石混交であり、どの人物が玉あるいは石かという判断は、最終的に自分自身で下さなければならないという作業が伴いますが…。

その玉の部類に属する一人が飯山さんでした。その飯山さん、小生同様に皇統奉公衆の存在を確信していましたし、同時に、雲上人の世界は良く分からないとも仰せでしたが、そうした誠実な回答であったが故に、人として信頼するに足りると小生は判断したのだし、今でも天国にいる飯山さんと〝交流〟を続けているわけです。

ともあれ、雲上人の世界をより正確に見通すためには、皇室に関する独自の情報ルートを、自身で開拓していく努力を怠ることなく続け、その上で栗本慎一郎の謂う全世界史を学び(これが飯山史観を編集する決意をした理由の一つであり、編集を通じて今まで己にとって朧気だった歴史というものを、再構築する上で役立っている)、皇統について出来る限り自身で掘り下げていく姿勢が肝要と思うに至っています。

今日現在の皇統についての小生の見識ですが、これを富士山の登山に喩えれば、ようやく三~四合目あたりに到達したのかなというのが、正直な実感です。そして、今現在感じていることは、如何にあの世に旅立つ日まで皇統の追求に努めたとしても、絶対に頂上に到達することはないだろうと、雲に隠れた頂上を見上げつつ、思う今日この頃です。それでも、頂上を目指して、今日も歩き続ける自分がいます…


それゆえ、國體としての皇室の役割を国民は

歴史観と共に捉えなおす時期が来たのではないでしょうか。


御意。

表層的には、GHQに押し付けられた〝象徴〟としての天皇像、小泉信三の教えを起点に象徴とは何か、象徴としてどうあるべきかについて、今上陛下は模索され続けて今日に至り、それが震災地での両陛下の言動に顕れていると、世間では捉えているようです。また、在位三十年をかけて陛下は漸くにして、戦後の日本が背負っていた戦争という〝重石〟を取り除かれたことから、来年五月に新天皇になられる皇太子殿下は、戦争という重石を背負うことなく、新天皇としての任務を全うできるだろう、といった論調の記事も目にすることがあります。

しかし、皇統という世界の深層に一歩足でも踏み入れると、そんな表層的な観察では想像も及ばぬ世界が広がっている、つまり、皇統の世界とは世間一般で思われているような底の浅いものではないということが、否が応でも肌で感じ取れるようになります。そうした我々の想像が及ばぬ皇統という世界が、過去にあり、現在もあり、未来においてもあるでしょう。だから…


シャーマンとしての天皇にしかなしえない祈りを通した権威。

それは日本国民として、あまりにも贅沢な希望なのだろうか。


贅沢な希望どころか、「シャーマンとしての天皇にしかなしえない祈りを通した権威」が、未来永劫に続くと思って良いでしょう。そのあたり、先週久しぶりに顔を出したまほろば会で、Jinmoさんや天童さんの言葉の端端から読み取れました。斯様に読み取れたのも、やはりシャーマンについて日頃から追及してきた成果が、少しは出てきたのかなと愚考する次第です。

ともあれ、シャーマンの世界を知るには、安西正鷹さんの〝来るべき新しい文明の精神哲学〟とも謂うべき、量子力学を齧るのも一つの道であり、それ以外にも多々手はあります。小生の場合、読書による日頃のシャーマニズムの追求と並行して、過日Jinmoさんが小生に語ってくれた天乃浮石における斎行、来年の五月は無理かもしれませんが、今後は十一月に毎年行われるということなので、いずれ一度は出席してみたいと思っています。

斎行日程は二〇一九年五月一日と決定した。平成から新たなる時代へと移る御代がわりの、その日である。第二の岩戸開きとしての意義に於いて、この日程以上に必然を感じさせるものは有り得ない。


最後に、ご参考までに以下は高橋とみよ女史の言葉です。

天皇陛下としての本来のお仕事は祭祀に始まり祭祀に尽きると言っても過言ではないのです。
「君を守る 私が護る」高橋とみよの政治ブログ



亀さん@人生は冥土までの暇潰し


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【追記】
掲示板「放知技」でmespesadoさんの投稿を読んだので、上掲の高橋とみよ女史の記事を紹介しておこう。
安倍総理ほど海保の重要性を知っている政治家はいない!

海上の道 02
前稿「海上の道」の続編を書かせていただく。テーマーは、西太平洋に浮かぶヤップ島で長年生活している、suyapさんのコメント『海を渡った「縄文人」』についてだ。suyapさんは日本生まれ育ちの生粋の日本人で、過日(11月25日)の「故飯山一郎氏を送る会」にも、遠路はるばるヤップ島から駆けつけてきてくれた、正真正銘の大和撫子である。

最初に、suyapさんが住んでいるヤップ島は、どこにあるのかを確認しておこう。以下の地図は、冒険家の高野孝子女史のサイトからお借りしたものだ。

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さて、拙ブログに寄せられたsuyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』は以下の通りだ。

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suyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』の投稿があった当日、亀さんは久方ぶりに世界戦略情報誌『みち』のまほろば会に出席、続いて翌日は高麗郷を散策している。その報告記事を書くため、suyapさんへの回答記事を書くのが今日になってしまったのだが、それはともかく、まほろば会のあった当日にsuyapさんの投稿があったことは、正に神計らいであった。何故なら、上掲のsuyapさんの投稿を読んでから、まほろば会に出席し、高麗郷を散策したことにより、ある重要なことについて気づかされたからである。それは、シャーマニズムの本質に迫る上で欠かせない一つに読書があるが、加えて、もう一つ欠かせないもの、それこそが体験だということを思い知らされたのだ。つまり、読書と体験は両輪の関係にあるということ。それに関連して、亀さんは掲示板「放知技」に以下のような引用を行っている。

ともあれ、シャーマンの世界を知るには、安西正鷹さんの謂う、〝来るべき新しい文明の精神哲学〟とも謂うべき、量子力学を齧るのも一つの道であり、それ以外にも多々手はあります。小生の場合、日頃のシャーマニズムの追求と並行して、過日Jinmoさんが小生に語ってくれた、天乃浮石に向けた斎行に一度参加してみたいと思っています。次回は来年の五月一日に兵庫県で行われるので、足を運んでみようかと思案中です。

斎行日程は二〇一九年五月一日と決定した。平成から新たなる時代へと移る御代がわりの、その日である。第二の岩戸開きとしての意義に於いて、この日程以上に必然を感じさせるものは有り得ない。


つまり、亀さんは「シャーマニズムの追求」の一環として、シャーマニズムに関する書籍や、Jinmoさんが『みち』に連載中の「寄絃乃儀」を熟読してきたが、単に目で追うだけでは駄目なのであり、やはり身体でシャーマニズムというものを体験しないことには、本当のこと、すなわちシャーマニズムの本質を極めることができないということを痛切したのである。だかこそ、suyapさんの以下の記述に目が釘付けになった(下線は亀さん)。

海の道を考える(想像する)にあたっては、まず海・航海・自然を体験的に「知る」ことから始まるのではないのでしょうか?そして、何千年、何万年を経ていても、人間の生活はそんなに変わるものではありませんから、現存する航海術は、やはり大きなヒントになると思います。


もう一つ、suyapさんの以下の記述…

飯山先生は「大洋を渡る船は全長6~7メートルのカイ付きの丸木船だった」と書いておられますが、発掘で出てきた櫂付の小船は、近海を海岸線づたいに移動するものでしょう。いくらか履修と季節風の助けがあったとはいえ、数十キロ以上ときに何百キロも離れた地点を移動するには、帆走しか考えられません。それに、遠洋航海はそんな気楽なもんではないです。乗船者は誰も「命がけ」は覚悟の上、しかし不安はおくびにも出さず、あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます


suyapさんの「あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます」という行を読んだ瞬間、suyapさんは、本人が意識しているかどうかはともかく、紛う方なき巫女であると思った。過ぐる日の大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」、宿泊先のホテルでチェックインする際、隣から声をかけてくれた女性がいたが、最初は誰だが分からなかった。しかし、その後三次会のショットバーで、小生の隣に座った件の女性が自分はsuyapであると自己紹介してくれた時、第一印象は普通の女性と違うなというものであった。その後になってsuyapさんが巫女であると確信するに至り、何故に他の女性と違うと思った理由が分かったのである。

ともあれ、日本は関東圏の山奥(秩父山地)に住居を構える亀さんは、海というものをあまり知らないのだな、ということを改めてsuyapさんから思い知らされる形となった。

さて、舞台を古墳が誕生した南九州について筆を進める前に、放知技に投稿した上掲の亀さんの投稿、読み返してみて追記しておきたい箇所や入力ミスがあったので、次稿にて訂正したい。

【読書とは…】
若いころ、そして今も人生の羅針盤にしている、今東光語録の中から読書に関する和尚の発言を、『極道辻説法』シリーズ本からピックアップしてみた。上掲の記事に「読書と体験は両輪の輪」と亀さんは書いたが、そのあたりを納得してもらうため、殊に若い読者に何らかのヒントがなればと思い、以下に今東光語録を幾つか引用してみた。

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☆☆ 経験か読書か
 よく世間じゃ読書の大切さを説くが、本当のところ、経験と読書とどっちが人間にとって大事なのか?
(福島県いわき市平 18歳 乙)

それはバカな話で、鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのかというのと同じでな。経験して読書し、読書して経験する、という交互作用によって本というものは生きてくるし、経験というものも役に立ってくるもんでね。経験だって読書だって同じように大切だ。何をとぼけたことぬかしてやがる。てめえ、本なんざ読んだことねえんだろう、こん畜生め! だからそんな質問するんだ。
『続 極道辻説法』p.234


☆☆ 本はどう耽むべきか
 本を読むことによって、感受性・思考力・洞察力を養い、そこから何かを自分の血肉となすには、どのように本を読んだら良いのか? 和尚の思うところをお聴きしたい。
(埼玉県熊谷市筑波 浪人 20歳 匿名希望)

 そんな目的で本を読むんだったら読まんほうがいいね。本を読んで栄養になると思ったら大間違いだ。

 オレが本を読め、本を読めとすすめるのは、それを栄養にするためじゃないんだ。本を読めばいかに世の中にバカが多いかということがわかるからでね。本を読んでいても常に自主的に物を考えるんでないと逆効果になるんだ。本読んで、その本に負けて、その著者の考えに捉われたらもうおしまいだよ。いつでも〝自分″というものがこれを読んで、「オレはこの説に反対である」という意識忘れたら駄目だ。それがなかったら、読書なんてなんの役にも立たん。

 ただやみくもに活字を信用しちゃったら、洞察力も糞もありやあしねえじゃないか。そんなつもりだったら本なんか読むな、こん畜生め!

『続 極道辻説法』p.210


☆☆ 碩学になるには
 私は仏教を専攻している二十歳の学生ですが、和尚のような碩学になるには、どのような心構えで学問を修めれはよいのか? またどのような勉強方法が有効か? をお聞きしたい。  
 (尼崎市 虚無居士)

 人の勉強法を聞いて、「おかげでよくできるようになりました」なんて言う奴があったら、バカだよ、そいつは。

 オレは乱読一点ばりだったね。女郎買いにいっても、どうせ銭がないんだからフラれることの方が多いんだ。女郎はどうしても本部屋を占領している金のある奴の方へサービスよくする。オレなんて、ものの数じゃない。

オレは女郎買いに行く時にも懐ろに本を人れてった。いかなる時でも本が懐ろに入っている。ケンカしてデンと突きがきても本で受けているようなもんで、これはもう重宝なもんだった。だから、女郎屋行っても、女郎がくるまで本読んでたからちっとも退屈しなかったな。外にでかける時は、たとえどんな時でも必ず机にある本を持っていく。文学の本、哲学の本、政治の本、経済の本、なんでもとにかく読みたいものは片っ端から乱読だったよ。碩学だかどうだか知らないけど、うんと本読むということがやっぱり非常に大切なんだな。

 オスカー・ワイルドは、オックスフォード大学じゃ、いつでも一番新刊書を読んでいるんで有名だった。教授も新刊書に関する知識だけは彼に追いつかなかったというんだ。それほど、いつでも時代の先端を歩いていた。もう古典なんかさわらねえ。シェークスピアなんてどうでもいいんだ。シェークスピアのようなものはシェークスピアが書きゃあいいって調子でよ。これも文学者としてのひとつの生き方だな。勉強法としてもひとつの方法ではある。

 とにかく、どういう勉強法とか、どうしたら碩学になれるなんてこと、いくらそこで考えてたってわかりゃしねえよ。そんなこと考えているくらいなら、ゆっくりとマスかいて、頭さっぱりしてから勉強した方がいいぜ。え、お兄ちゃん。

『極道辻説法』p.21~22


歌とシャーマン
一年半ぶりに顔を出した土曜日のまほろば会、そして平成最後の天皇誕生日の飯能忘年会と、二日続いた集いに共通していたテーマは音楽であった。ここで、飯山一郎さんは二年前の年末に、以下のようなHP記事を書いている。
志布志の『くにみ書店』で買った本

たとえば、同記事には次のようなことが書いてある。

『細胞分裂の驚異の仕組み』という特集記事は,生命現象の謎に迫っていて,1個の受精卵が数十兆個にまで分裂を繰り返す仕組みこそが「生命」なんだ!ということが良く分かる.


この飯山さんの言葉を理解するには、やはり三木成夫博士や西原克成博士の本を読んでいなければ理解不能だろう。その点、東北は青森から関東のチベット(飯能市)まで足を運んでくれた、両博士の本を数冊読破したという高橋さん、両博士の本を理解している様子がわかり、まだ若いのに大したものだと舌を巻いた次第である。以下は拙稿「松岡正剛×コムアイ」にも載せた図だが、「生命」の本質を炙り出した図なので、本稿にも再掲しておこう。

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さて、今日の本題は生命観ではなく、シャーマニズムである。ちなみに、今回の本題に選んだ「歌とシャーマン」は、上掲のHP記事にある、飯山さんが熟読したという本の題名だ。その飯山さん、以下のような書評を書いている。

『歌とシャーマン』は,天皇家と日本民族の根底にあるシャーマニズムの本質にせまる「音楽論」でもある.この本はワシの年末年始の熟読本だ.


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書評にあるように、天皇家と日本民族の根底にあるものこそ、シャーマニズムであると飯山さんは喝破している。このシャーマニズム、実は恐山とも関係してくるのであり、その恐山について書いたJinmoさんに、恐山の続きを書いてくれと先週の土曜日、直接本人に亀さんは頼んだ。

そのJinmoさん、「天乃浮石」なる三部作を、最近の『みち』で発表した。ご参考までに、本稿の最後に第一部を転載しておくが、冒頭は以下のような書き出しで始まっている(下線は亀さん)。

●神々を招来する「寄絃乃儀」を天乃浮石に向けて斎行させて頂きたい旨、生石神社の宮司様、禰宜様に御願い申し上げたのは二〇一七年五月一八日。この時代に於いて第二の岩戸開きとでも言うべき、神々の招還儀式の必要を感じ、その舞台としては天乃浮石こそが最も相応しいと確信していた私は、天鈿女達が執り行なわれたという本来的な、つまりは形骸化する前の霊的実効力を有した神事・寄絃乃儀の復活を熱望していた。

その意義については心中確たるものが在ったが、斎行に当たっての諸事企画に於いては漠として具体性を欠いているにも拘らず、ものの二分で御快諾を頂戴し、のみならず、「宮司として断言いたします。その時、必ずや神は此処に降り立ちます。そして私はその時、この生命尽きようとも本懐これに過ぐるもの在りません」との非常なる断言さえ頂戴した。幸甚至極である。


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多分、未だに物質中心の現代科学に染まっている人たちは、上掲の文章、殊に亀さんが引いた下線の箇所を嘲笑するかもしれない。ところが、今朝、掲示板「放知技」で堺のおっさんが以下のような重要なことを書いた(下線は亀さん)。

國体と政体の明確な分離を意図しているからだ。

大嘗祭の費用の問題が本質ではなく、日本国家の本質に関わるからだ。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/570/


この堺のおっさんの重要なメッセージを理解するには、國体とは何か、政体とは何かについて理解している必要がある。政体に関しては、少なくとも放知技の読者であれば、飯山さんのマキャベリズムに基づく安倍晋三像を、個人として多少の差はあれ、世間一般よりもかなり正確に把握していると思う。

一方、國体の場合はどうか? これは、日本の本質、すなわち皇室が分かっていないことには、何も分かるまい。その本質とは正に飯山さんが仰せのシャーマニズムなのだが、皇室とシャーマニズムの深い関係については、過去の拙稿で幾度か書いてきたので割愛するとして、Jinmoさんの「天乃浮石」の第三部に以下のような記述があるのに注目されたい(下線は亀さん)

そして、これは宮司様、禰宜様と実行委員会の一部の者にしか知らされていなかったのだが……天乃浮石を取り囲む方形トーラス空間には斎行の間中、実は四人の巫女が祈り舞っていた。この様子は方形トーラス空間に行き来できる私以外には誰の目にも触れず、また如何なる映像記録にも残されていない。この四人の巫女は神仕組みとしか言いようの無い巡り合わせで、この夜、此処に集められた者で、その名はそれぞれ、ハルカ、ハルナ、ハルエ、ハルヨという。本名である。文明地政学協会の山浦嘉久氏は徹底して「たまたま」とか「偶然に」という言葉を嫌う。私も同様だ。ケをハレへと転じる神事に於いて、これほど相応しい音「ハル」を持つ巫女が四人、この夜、天乃浮石を取り囲んだ。超越的な何者かの意思による取り計らいであるとしか思えない。また四人の名から共通する「ハル」を取り除いたものは、「カ、ナ、エ、ヨ」となる。……「叶えよ」、布置(Konstellation)されたメッセージがそこにある。


上記の下線を引いた行について少し敷衍しておこう。拙稿「ミヌシンスク文明 02」で紹介した、安西正鷹さんの以下の記述を思い出していただきたい。

・これは空疎な精神論ではない。物質世界と精神世界に跨る半霊半物質的な、新しいジャンルの科学理論に基づく考えである。すなわち、来るべき新しい文明の精神哲学ともいうべき量子力学に基づく真理なのだ。
仮想通貨からお金と経済のあり方を再考する(後編)


続けて、亀さんは以下のように書いた。

量子力学の台頭で従来の科学が崩壊しつつあり、次の文明原理に人類は進みつつあるのだが、それは、精神世界の古代人から、物質世界の現代人を経て、精神世界と物質世界が融合した世界へ向かう過渡期にあるとも言い換えることができ、量子力学をきっかけに世界の精神構造が変わりつつあることを、安西さんは述べている。


これが、山浦さんの言う「第二の天の岩戸開き」に繋がるのである。そのあたりは、上掲のJinmoさんの文章からも窺い知ることができよう。そして、我々の周囲に起きたこと、起きていること、起きることは、すべて、「たまたま」ではなく、「神計らい」なのである。

そのJinmoさん、音楽を通じて「第二の天の岩戸開き」を世の中に伝えようとしている。飯能忘年会でも音楽通が二人(ウォッチャーさん、ちゃきさん)も集結、実に興味深いというか、奥深い音楽論に展開した。そして、上掲の『歌とシャーマン』、二年前に既に同書に目を通していたウォッチャーさんは、貪るように2016年12月30日付の飯山さんのHP記事を読んだのだという。そして、数年前に飛び降り自殺をした藤圭子についての話となったわけである。亀さんは未だに『歌とシャーマン』を読んでいないので、早速注文、届き次第読み、思うところがあったら読後感を書きたいと思っている。それまでに、やはり藤圭子を取り上げた、五木寛之の『怨歌の誕生』(双葉文庫)に取り敢えず目を通しておくとしよう。

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2013年8月、歌手・藤圭子が命を絶った。「これは『演歌』でも『艶歌』でもなく、間違いなく『怨歌』だ」と評した五木寛之が、藤圭子の真実をもとに書いた「怨歌の誕生」ほか、関係の深い「艶歌」「涙の河をふり返れ」「われはうたえど」の3篇を収録した中編集。


Jinmoさんの恐山や天乃浮石といった短シリーズ以外にも、連載中の「寄絃乃儀」で書きたいことが多々あるのだが、そろそろ飯山史観に戻ることにしよう。したがって、次稿ではsuyapさんのコメント『海を渡った「縄文人」』を中心に、筆を進めていく予定である。

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高麗郷を歩く
平成最後の天皇誕生日(12月23日)の午前10:00、JR高麗川駅に放知技御一行様が集結、高麗神社→巾着田→高麗古民家→飯能観光案内所→西武池袋線飯能駅と、10km弱の散策を楽しんだ。飯能駅に到着したのは午後15:15、その後は17:30過ぎあたりまで、飯能銀座通りの静かな喫茶店で雑談、18:00少し前、予約してあった中華料理店・王記に向かって飛ぶように直行。途中で歯科&音楽ウォッチャーさんも加わり、22:00あたりまで同料理店で粘った。その間、大いに語り合い、食べ、呑んだ後、東京に帰る三人(mespesadoさん、歯科&音楽ウォッチャーさん、ちゃきさん)を飯能駅で見送った後、荒ら屋に戻り、猿都瑠さんと高橋さんの三人で二次会を挙行、結局、床に就いたのは午前3:00…。少し仮眠をとり、二人が帰った後、渡辺正次郎の『芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き』から、藤圭子について言及したページをコピー、さらに世界戦略情報誌『みち』に連載中のJinmoさんの「寄絃之儀」をコピーし、ウォッチャーさんにメールで送った。すると直ぐ、「確かに受信しました」というウォッチャーさんのメールが届いた。ウォッチャーさんから承諾は得ていないものの、忘年会についての感想メールだったので、個人情報を一部割愛した上で、以下に勝手に転載させていただく(笑)。

亀さんに忘年会にお誘いいただき、mespesadoさん、猿都瑠さん、高橋さん、そして、紅一点!ちゃきさん。皆さんと一年ぶりに再会できました。皆さんの元気な声を耳にしながら飲むビールはとても美味しいものでした。

放知技で活躍するmesさん、猿都瑠さんの眼(聴)力の鋭さと、情報収集分析(咀嚼)力が止めどなくバージョンアップしているように思われます。この先どこまで行くのやら・・・ついて行くのが大変です!

ちゃきさん。なかなかの音楽通(ツゥー)とみました。もしかしたら凄いミュージシャンかも・・・知れません。私などは、ツゥーどころか、まだまだ、スリーの手前ぐらいなので、お手柔らかにとお伝えください。

寡黙にして収集能力抜群、加えて感受性豊かな高橋さん。一度、高橋竹山さんの郷里を訪ねたいと思っております。ご一緒して頂けたなら幸いです。来年は・・・何とか実現させたいです。

飯山史観を遺す と話しておられた亀さん。私たちが長年教えられ、すり込まれてきた多くの歴史は、贋作!ここに風穴を開けるのは亀さんしかおりません。

正月は、幸(さち)=酒・・・飲み過ぎ注意ですね。そう言いつつも、幸をもう一杯、もう一杯となりそうですが・・・・。

ウォッチャー拝


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『芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き』

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「寄絃之儀」

ウォッチャーさん、是非、一緒に高橋さんの郷里を訪ねませう。それも、東北一郎会の日程に合わせて行ければ言うことなし! 加計呂麻島さん、はぐらめいさん、ヨロシク!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16563101/48-51/

また、高橋さんの案内で恐山にも行きたいし…
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/287/

さらには、「みちのくの名将 安倍一族鎮魂碑」も訪れたいし、
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/202/

加えて、大谷さんにも再会し、ウォッチャーさんと高橋さんを引き合わせたい…
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/59/

と言うわけで、ウォッチャーさん、是非、二泊から三泊ていどの東北行を、来年は実現させませう。

ここまでのところ、夜の忘年会の話ばかりになってしまったが、昼間の高麗郷の散策も、道案内人(猿都瑠さん)のおかげで、実に印象深いものになった。

ここで、高麗神社を参拝したあたりに時計の針を戻そう。

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高麗神社に関しては、拙稿「高麗神社と皇室」にも書いた通り、過日の天皇陛下からの御下問に、どのように高麗宮司が解答したのか訊こうと思い、同じく神官を務める高麗宮司の御子息に話しかけてみたところ、生憎出かけていたので確認はできなかった…。しかし、三か月前の9月17日に建立したという行幸啓記念碑に、天皇皇后両陛下が午後二時七分から高麗宮司と「御懇談」、そして二時五十四分に「御発」とあったので、両陛下が高麗宮司を含め、大勢の関係者らと御懇談されたことが分かるのだし、また、「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか」等の御下問を、陛下から宮司が受けたのも間違いないだろうし、御進講と異なって、宮司の解答は当たり障りのないものだったことが容易に想像できたのは収穫であった。

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行幸啓記念碑

ここで御進講だが、同テーマについては拙ブログでも数本の記事で取り上げたことがあり、時と場合によっては、進講を担当する識者は厳しい局面に立たされることもある。たとえば、亀さんは昭和天皇と御進講について、拙稿「舎人家紋講座19」で以下のようなエピソードを紹介している。

神格天皇(昭和天皇)は「雑草という名の植物は存在しない」と仰せられ、御進講する識者を諭したエピソードが知られる。


また、南方熊楠の御進講についても取り上げたこともあった。
南方熊楠の世界(1)

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高麗神社から徒歩で30分ほどかけて巾着田に到着、周囲の散策を楽しんだ後、高麗郷の古民家を訪れた。年配のガイド(♂)さんに敷地内を案内していただく。途中、埼玉県下では七番目の大きさというタブノキの説明を受けた。日本で五指に入るタブノキ研究家・稲村公望さんも、すでに同古民家を訪れたことだろう。

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同古民家で一番驚いたのは、何の変哲もない屋敷の玄関で鳴き龍を体験したことだ。亀さん自身も手を叩いてみたが、確かに鳴き龍であった。その時は感動したし、同時に日光東照宮の天上に描かれている、龍を咄嗟に思い出したものである。

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ガイドさんにお礼を述べた後、徒歩で飯能に向かう。途中で飯能観光案内所に立ち寄り、放知技御一行様と休憩。その後、さらに徒歩で飯能駅に向かい、メインイベントの忘年会が始まる午後18:00時近くまで、落ち着いて静かな喫茶店で一時を過ごした。なかには一人だけ、18:00からの忘年会が待ちきれない者がいて。「早く件の中華料理店に行って呑も!」と、何度も言っくる五月蠅いおっさんには、おそらく残りの参加者全員が閉口したのではないだろうかwww

ともあれ、今回で最後の飯能忘年会、各々が時の流れも忘れ、18:00前~22時過ぎまで同料理店に居座った次第である。時折、実に密度の濃い情報が飛び交ったが、残念ながらブログに書くわけにはいかないので割愛させていただく。

【陛下のお言葉】
放知技の常連さんの一人、この世は焼肉定食さんが、以下のYouTubeを知らせてくれた。多謝!





また、上掲の渡辺正次郎氏も以下の記事を書いていた。
鬼神・正次郎の目に涙!!感動して…天皇陛下の慈愛あふるるお言葉!!

お久!
昨日(12月22日)、久しぶりに世界戦略情報誌『みち』、まほろば会に顔を出してきた。以下は放知技にも投稿した昨日の報告でR

昨日の世界戦略情報誌『みち』のまほろば会、大いに盛り上がりました。

一番嬉しかったのは、一年半振りに顔を出したのにも拘わらず、皆さん、小生のことを覚えていてくれたこと。

二番目に嬉しかったのは、現在『みち』に連載中の「寄絃之儀」の執筆者である、Jinmoご夫妻と、Jinmoさんの音楽活動の日米橋渡しとして、日英翻訳の仕事をされているマリアさんの御三人にお会いできたこと。Jinmoさん、お話ししましたように、今後はJinmoさんの音楽活動などを書かせていただきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/JINMO

また、小生の翻訳に関する記事は以下のとおりです。最初に、旧ブログから…
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat3631693/index.html

そして、新ブログ「人生は冥土までの暇潰し」にアップした、主な翻訳関連の記事は以下のとおりです。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1624.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1495.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1399.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1329.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-649.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-453.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-380.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-183.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-99.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-9.html


三番目に嬉しかったのは、安西さんの講話が一年半前と比べ、格段に向上したこと。特に、昨日のサッカーについての講話、これは大変良かったです。

四番目に嬉しかったのは、暖かくて美味しい、山形のふりかけご飯を直会で御馳走になったこと。

そして、最後に嬉しかったのはメスさん、猿都瑠さん、高橋さんが一緒に参加してくれたこと。ちゃきさん、昨夜のハプニングは今日の高麗川駅でお会いした時、道中でお話します。

でわ、高麗神社と巾着田の散策に行ってまいります。



亀さん@人生は冥土までの暇潰し

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16074479/406/


海上の道
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ユーラシア大陸に誕生した諸民族(ツラン)を中心に、今日まで様々な観点から筆を進めてきた。そして、常に念頭に置いていたのが、遊牧の民であるツランが利用していた草原の道である。一方、大海にも〝道〟がある。すなわち、〝海上の道〟だ。横道に逸れるものの、今回は海上の道について、思うところを少し書いておきたい。

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最初に、先月行われた故飯山一郎氏を送る会で、亀さんの上のスライドを見た参加者の一人から、「(亀さんの描いた)日本列島からアメリカ大陸への航海ルートは如何なものか」という指摘のメールが届いた。それは、「海の民は航海にあたり決してリスクを冒さない」、そして「海の民は海流や風に逆らわず、むしろ、それを利用して航海する」という旨のメールであり、それを一読し、なるほどもっともな指摘と思い、その貴重な指摘をしてくれた読者に対して、亀さんはコメントで感謝の意を示している。それにしても持つべきは道友であり、有難い指摘であった。

さて、リスクを冒すことなく、かつ自然の力(海流・風)に逆らわず、寧ろ、それらを利用する形で、どのように縄文人は太平洋を渡ったのか、今のところ以下の図が示す点線のルートだとは思うが、このあたりは今後の宿題としたい。

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それはともかく、日本海はおろか、太平洋も自在に航海していた縄文人がいたことは確かである。その彼らが生きた縄文時代とは、一体全体どのような時代だったのかと、いろいろと想像を巡らせていた時、過去にも紹介したことのある飯山論文を思い出した。
”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!
文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと

国境もなかった縄文時代の人たちを、〝脱藩人〟と言うのも何だが、拙稿「南方熊楠の世界(4)」で述べた、脱藩人の心を持っていた人たちこそ縄文人だったと云えよう。

ついでに、上に示す飯山論文で思い出したのが「歴史」、そして「無文字社会」である。以下の飯山さんの投稿を思い出していただきたい。

日本の歴史は天武天皇から始まりました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14186314/917/


歴史とは文字があって初めて歴史となるわけで、その意味で、天武天皇以前の日本列島には、歴史はなかったとする飯山さんの主張は正しい。一方、太古の昔から文字のあった中国は、鮮卑だのといった文字を、文字を持たなかった遊牧民族にあててきたわけであり、加えて自分たちの視点で見た歴史を文字にして残した。これら中国古書に書かれた〝歴史〟を、我々は学校で〝史実〟として学んできたということになるのだが、そろそろ、文字を持たなかったユーラシア大陸の諸民族(ツラン)や縄文人について、見直す時期に来ていると言えそうだ。

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古墳時代 02
掲示板「放知技」で、亀さんが最も注目している投稿者の一人に、愚山人さんという常連さんがいる。その愚山人さんが昨日、以下のような投稿を行っており、思わず唸った。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/34/

亀さんが唸ったのは、愚山人さんの「談合」という言葉である。この談合という言葉だが、実は日本文化の本質そのものをズバリ指した言葉なのだ。そう思っているのは、なにも愚山人さんや亀さんだけではない。世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長も同じなのである。『みち』のホームページには紹介されていないが、最近まで天童さんが『みち』に連載していた、「文明の原郷ツラン」シリーズの第14回、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」に、以下のような記述がある(括弧は亀さん)。

私(天童)はかねてより日本文明の本質的特徴が「談合」にあると考えている


上掲の天童さんの記述は、『ゆがめられた地球文明の歴史』(栗本慎一郎著)のp.78~80の行に対する、書評の中に登場しているのだが、続けて天童さんは以下のように書いた。

談合の結果として出来る統治形態が、すなわち「連合」である。大和朝廷は既存勢力を打ち破った後にできたものではない。既存勢力の談合によって、ある一つの系統を支え従うこととした結果、成立したのである。

それはもう一つの政治形態と比較してみれば、差は歴然となる。つまり、殲滅戦争による支配である。シュメールもまた、都市国家同士の連合によって大帝国を築いていた。シュメールがその連合という統治形態を始めたのであろうか。記録や文書などの物としての証拠はない。だが、先行するミヌシンスク文明の末裔たちが挙ってこの統治システムを踏襲していることに鑑みれば、シュメールはこの統治の智慧を先行のミヌシンスク文明から学んだとと言っても無理はなかろう。


以上までを述べた後、天童さんはシリーズの第14回の本題である、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」という主テーマに移り、自説を展開しているわけなのだが、ご参考までに、第14回を本稿の最後に掲載しておくので、関心のある読者は目を通していただきたい。

さて、ここで思い出していただきたいのは、前稿「古墳時代 01」に書いた、亀さんの古墳をめぐる長年の疑問である。

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


シベリアの大地に出現した諸民族(ツラン)から、後に日本に点在する古墳の原型となった墳丘墓(クルガン)が、何故にシベリアの大地、すなわちツランの地で誕生したのか? それは、膠着語系というツラン共通の言語にあったのか、あるいは、ツラン共通のシャーマニズムや死生観といった宗教にあったのだろうか…。

そのあたりを解く鍵として、同じく天童さんのシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」に注目してみた。

●巨大墳丘墓(クルガン)に関して、少なくとも何らかの発掘調査が行なわれた数例について挙げたにすぎないが、現在ウクライナ紛争やイスラム過激派テロなどによって騒然としている当該地域の世情が安定すれば、今後も史上ユニークなこの埋葬形式の発見・発掘が数多く行なわれ、その全貌が明らかになる日がやがて訪れるかも知れない。

だが、現在はまだ年代的にも紀元前四〇〇〇年から紀元前三〇〇まで相当な長期にわたり、しかも断続的な発掘例しかなく、出土地域もバラバラというありさまである。

クルガンとはいったい何だったのか、どういう人々が築造したのか、そこにそういう意味が込められていたのか等々、その実態に関して今は確たることは言えない状態である。

この特徴的な墳丘墓に関して一般にはほとんど知られておらず、歴史事典などには触れられているが、クルガンをテーマとする専著は日本にも外国にもまだないようである。

しかし、前方後円墳を各地に有するわれわれは、巨大墳丘墓がそこに葬られる権力者ただ一人のためだけではなかったことを知っている。稲村公望はかつて本誌に連載中の「黒潮文明論」において、わが国の古墳が沼沢地の水田開発や洪水防止のための河岸修築により堆積した残土を利用し工事監督責任者の徳を讃える記念碑として築造されたのではないかという見解を披露したことがある。けだし、心して聞くべき卓見である。

というのも、秦始皇帝が遺した巨大地下墳墓は絶大な権力を掌握した始皇帝という権力者一人のための墓であり、ほとんど生前そのままの有様を実物大の兵士や馬で再現しようという権力者の執念のすさまじさには圧倒されるが、そこには一片の祈りも祭りも存在しなかったことを感じてしまうからである。

大陸と日本列島における墳墓についての、この彼我の違いは何なのだろうか。わが国でも豊かな副葬品を伴う古墳を狙った盗掘は確かにあった。だが、たとえ恨み骨髄に達する敵に対しても、その墓を暴き骨に鞭打って辱めるような報復手段は、わが国では一般的な賛同を決して得ることはない。わが列島においては死者を冒涜することは人してあるまじき行為だと考えられているからである。

そういう目を以てクルガンを見ると、そこには秦始皇帝陵にあるような絶対権力者のすさまじい執念というよりは、稲村公望の卓見が教えるような、共同体の祈りの如きものを感じることができる。

ただし、繰り返すが、クルガンに関しては、いまだ確たることは何も言えない状況に変わりはない。


このシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」も、本稿の最後に転載しておいたので関心のある読者は一読願いたい。ともあれ、日本の古墳の原型となったクルガンの発掘調査は、ようやく緒に就いたばかりであり、今の段階では、確定的なことは言えないということが上掲の文章でわかる。だが、クルガンがツランの地で誕生したという史実は、極めて重要な意味合いを持つ。

母語はその人の思考形式、言動を根底から支配していると、亀さんは日ごろから考えているのだが、上の稲村公望さんと天童竺丸さんの言に従えば、ツランのクルガンと、秦始皇帝の地下墳墓との決定的な分水嶺は、膠着語族(ツラン)と孤立語族(秦王朝)にあると言えないだろうか。斯様に、母語というものは、人の思考形式を決定的に左右するものなのだ。ここで、フンボルトが提起した言語形態学だが、世界の言語を、孤立語・膠着語・屈折語の三つに分類している。では、何故に孤立語、膠着語、屈折語なのか、何故に言語によって人の物の見方・考え方が変わってくるのか、といったテーマは興味深いものがあるものの、本稿のテーマと外れるので今回は割愛する。

ともあれ、上掲の天童論文で明らかなように、膠着語系民族と孤立語系民族との間では、墓地や埋葬一つとっても違いが生じてくるものなのだ。このあたり、膠着語系の一人である亀さんは、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」で以下のように書いた。

NHKの「縄文1万年の美と祈り」という番組を見ていた時、縄文人の死生観「再生」のシーンに目が釘付けとなったことを告白しておきたい。つまり、再生のシーンに深く共鳴する自分がいたのであり、朧気ながらも自分に縄文人の血が流れていると、直感的に悟ったのである。


さらに、別稿「縄文の息吹」で亀さんは、英国のストーンヘンジと日本の大湯環状列石を紹介しているが、これは、日本に古墳が出現する前に縄文人が持っていた、自然観(太陽信仰)を示すものであり、栗本氏も以下のように書いている。

古墳時代が始まった後のこと、そこにさらに太陽信仰やシリウス信仰を基礎とし、やがては仏教の弥勤信仰に繋がる「聖方位」(正面の方位を真北から西に二〇度傾ける)が意識的に持ち込まれることになった。縄文時代から日本列島にあった太陽観測のネットワークは冬至夏至時の日の出日没地点から諸般の方位をとるものだった(第四章参照)が、それがこの新たにシリウスの位置を軸にした方位のベースとなったのだ。

 この聖方位は北のシルクロードから北日本へ入り、そこから日本全国へ伝播した。聖方位は中央アジアやモンゴル高原に今もたくさん遺跡において見出されるが、そこが聖方位の起源の地だというわけではない。北シルクロードの要衝セミレチアのソグド人都市(居住地)はほとんど聖方位をもって建設された(第四章参照)し、セミレチアから南へ下がった砂漠地帯のオアシス都市サマルカンドほかにも意識的な聖方位が見出される。

太陽信仰あるいはシリウス信仰あるいは星展信仰あるいは「天」の観念とともに遠くはペルシアを起源とするが、あるいはもっと時代も西へも遠く遡ってバビロニアやコーカサスを起源とすると考えるほうが妥当だ。なぜなら意識的な聖方位がペルセポリスだけでなれく、バビロンやコーカサスにも見出されるからである注6。蘇我氏は重要な都市や建物や宗教施設の配置においてそれにこだわり、聖方位は飛鳥京建設を含む蘇我氏の活動の象徴となったのである。

飛鳥とペルセポリスが繋がるという指摘はこれまでもいくつかあった注7。これを私は、飛鳥はペルセポリスだけでなく(もちろんサマルカンドは言うまでもなく)バビロニアやコーカサスと繋がったものだと考える。

かくして三世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。

注6 聖方位論は『シリウスの都 飛鳥」において詳しく展開した。
注7 たとえば井本英一『古代日本人とイラン』学生社、東京、一九八〇年、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』岩波書店、東京、一九八〇年ほか多数。特に、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』新人物往来社、二〇〇五年。

『シルクロードの経済人類学』p.1;9~20


ともあれ、ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった、ということになる。

次稿では、日本の古墳文化の起点となった、南九州の古墳群に目を向けてみることにしよう。

【追補】
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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」1/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」2/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」3/3

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」1/2

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」2/2


あなた
ちょうど三ヶ月前の9月20日、夕食をとっていた時に「シェイクスピア」という言葉が耳に飛び込んできた。急いでテレビ画面に目を移すと、そこには翻訳家の松岡和子の姿があった。日本人でシェイクスピアを数多く翻訳し、シェイクスピア全集を出している文士として、坪内逍遥、小田島雄志、福田恆存といった、そうそうたる人物を挙げることができるが、そうした中の一人に松岡がいる。

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テレビ番組を追っていくうちに、これはブログ記事に書かねばと思ったほど、松岡の翻訳が他の文士とは違うことがわかった。だが、当時は仕事に追われていたこともあって、松岡についての記事の下書きを終えた段階でストップ、いつの間にか三ヶ月が過ぎていた。しかし、最近になって時間的な余裕ができたので、何かブログ記事をアップしようと思い、過去にためておいた一連の下書きの記事に目を通していた時、目に留まったのが件のテレビ番組だった。

ところで、何故に亀さんは松岡についての記事をアップしたいと思ったのか…、それは、亀さん自身が一介の翻訳者として見た、翻訳家としての松岡と、他の文士との違いに目に留まったからだ。すなわち、今までシェイクスピア全集の翻訳本を出した文士と異なり、松岡の場合、シェイクスピア戯曲を肚で翻訳している…。これは、どういうことか?

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それは、松岡のシェイクスピア翻訳本の多くがシェイクスピア戯曲の舞台という場と直に結びついているということだ。殊に、故蜷川幸雄のシェイクスピア戯曲を手掛けた松岡の作品群は、亀さんに強烈な印象をもたらしたのだし、改めて翻訳とは何かについて、深く考えさせられたのである。

そのあたりについて、強く思い致したのは以下の記事で、デズデモーナ役として『オセロー』に出演した、蒼井優の何気ない一言であった。その蒼井の質問に対して、シェイクスピア作品に登場する人物像や男女関係の含意を、松岡が当初の訳出と正反対に変えたという行、今でも脳裏から離れないでいる。それは、「あなた」という言葉だ。

蒼井は松岡に、『オセロー』の稽古場で以下のように尋ねた。

「デズデモーナはオセローを「あなた」、続けて「あなた」って呼びかけてますけど、この「あなた」は全部同じですか?
蒼井優の質問で気づいた。没後400年、シェイクスピアはやっぱり凄い


この蒼井の質問に、松岡がどう反応したか、以下にそのまま引用しておこう。

蒼井の質問は的を射ていた。松岡がその場で原文を確かめてみると、たしかに彼女の指摘した箇所の「あなた」だけほかと違っていたのだ。

くだんの場面で最初にデズデモーナがオセローに言う「ご気分はいかが、あなた」は、原文では「How is't with you, my lord?」で、「あなた」は「my lord」に相当する。my lord は、高貴な身分の夫婦間で妻が夫を呼ぶときに使われる言葉で、現代日本の家庭で妻が夫を「あなた」と呼ぶのと感覚的には同じらしい。これをデズデモーナは劇中で何度もオセローへの呼びかけに使っている。

これに対して、オセローに「お前はどうだ、デズデモーナ」と訊き返されたデズデモーナのセリフ「元気よ、あなた」は、原文では「Well, my good lord.」で、myとlordのあいだに「good」が入る。これはより丁寧というか、むしろ慇懃ともいえる言い方だという。そしてこのデズデモーナのセリフは、その前にオセローが言った「元気ですよ、奥様(Well, my good lady.)」と対になっている。ようするに馬鹿丁寧とも他人行儀ともいえる夫の言葉に、妻も他人行儀で返したのだ。ただし、同じ他人行儀な物言いでも、それを口にする夫婦の内実はそれぞれまるで違う、と松岡は次のように説明する。

《つまり、ここではもう、オセローは妻とキャシオーの仲を疑っていて、内心穏やかではない。だから「ご気分はいかが、あなた」と聞かれたときに、これは心底からの馬鹿丁寧で、あるいは穏やかでない内心を隠そうとしてわざと馬鹿丁寧に my good lady と言った。(中略)それにたいしてデズデモーナが my good lord と他人行儀な呼びかけをするとき、これは心底ではない。キャシオーとの仲は清廉潔白だし、そもそも夫がそんなことを疑っていることすら、彼女は知らない。ですから、デズデモーナの他人行儀は一種のお茶目なギャグのようなものなんです。夫がふだん使わない言い方をした。それを「あ、ふざけてるんだ」と思って、そこで自分もふざけて、とっさに my good lord と返してみせたわけです》


本当に、翻訳は奥深い…

古墳時代 01
「北満州と日本列島」シリーズを終え、「古墳時代」シリーズを本格的にスタートする前に、前稿「北満州と日本列島 05」で取り上げた、飯山(一郎)さんの「外圧と占領」という視座で、簡単に飯山史観の御浚をしておこう。

■第1回目 - 旧人から新人へ
日本列島の「外圧と占領」が過去に8回半あったとする投稿を、飯山一郎さんが掲示板「放知技」に投じた。その第1回目だが、飯山さんは以下のように書いている。

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.


亀さん流に書くとすれば、以下のようになる。

第1回目は,紀元前10万年以上前、日本列島に来て定着した旧人のテニソン人などに代わって、4万年前あたりから新人の狩猟型縄文人が日本列島に徐々に流れてきて定着、やがて、狩猟型縄文人が大勢を占めるようになったのが紀元前1万2千年前頃であり、その時期を以て縄文時代の始まりとする。


縄文時代の始まりだが、飯山さんは「紀元前1万5千年前頃」、亀さんは「紀元前1万2千年前頃」という、ちょっとした違いがあるにせよ、このあたりについては今後の発掘調査に待ちたい。また、飯山さんは「ロポックル小人族や石器文化人」、亀さんは「旧人のテニソン人など」といった違いもあり、このあたりも今後の発掘調査を待つことにし、現段階では保留にしておこう。

ただ、ウィキペディアの「縄文土器」の項目にあるように、縄文土器の出現が約1万6000年前であることから、飯山さんの言う紀元前1万5千年前頃は、まだまだ狩猟型縄文人が主流派だったと、亀さんは思っている。

それはともかく、拙稿「北満州と日本列島 02」で亀さんは、縄文人の遠祖にあたる現生人類が、「4万年前頃に舟に乗った新人が日本列島に到達し始めた」という説を紹介しており、10万年以上前から日本列島に住み始めていた旧人と、4万年前から住み始めた新人の縄文人は、日本列島が峻険な山国であったということもあって、しばらくは大きな争いもなく共存していたのだろうと想像している。しかし、1万2000年前あたりから、日本列島のあちこちを移動していた狩猟型の縄文人、すなわち石器型縄文人が大勢を占めるようになり、次第に旧人は追い詰められ、やがて新人が日本列島の主となって縄文時代が始まった、と亀さんは思う。

そして、4万年前に日本列島に流れてきた狩猟型縄文人の中から、約1万6000年に土器が発明された、あるいは土器を携えて土器型縄文人が日本列島に流れてきたのだろう。そして、その土器こそが、移動型から定住型の縄文人になったきっかけである。やがて、土器の普及に伴い、第2回目の「外圧と占領」に突入した、ということになる。

ここで、何故に土器が定住のきっかけになったと亀さんは思うのか…。それは、土器が縄文人の定住を促したからである。このあたりについての論証が、世界戦略情報誌『みち』にある。それが以下の記事で、縄文人が移動型(狩猟型)から、定住型(土器型)に推移した経緯を知る上で、必読の記事だ。
定住革命の先駆者となった日本 2

■第2回目 - 土器から稲作へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.


やはり、ここでも亀さん流に第2回目を書いてみよう。

日本列島の新人、すなわち縄文人が石器型(狩猟型)から、土器型(定住型)の文化に変わっていった。そして、土器を手にすることにより定住する縄文人が増えていったのである。やがて、水田稲作を知る縄文人が紀元前5千年頃から、日本列島に流入、時の経過とともに日本列島は稲作型縄文人が、狩猟型縄文人に取って代わるようになり、そうした時代が古墳時代に突入するあたりまで続いた。


つまり、1万2000年前に土器が誕生して広まり、やがて5000年前に稲作を知る縄文人が日本列島に流入するようになり、土器型縄文人の代わりに稲作型縄文人が主流を占めるようになったのが3000年前(紀元前10世紀)、ということになるのではないだろうか。そのあたりから古墳時代に突入するまでの時代を、「弥生時代」と世の中では定めているようだが、実は、基本的に弥生時代というのは名ばかりで、本質は縄文時代と大差がなかった、すなわち弥生時代イコール縄文時代だったのである。

これは、どういうことか?

このあたりを理解するには、世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長の論文が必読となる。なかでも、「定住革命の先駆者となった日本 2」に重要な解が隠されている。すなわち…

定住するとは、家を造ってその中に住みつづけることであり、移動生活には不便な重い土器を作って使用することも定住の生活だからこそ可能になる。 世界でもっとも古いといわれる縄文土器の画期的意味について安田喜憲氏はこう力説している。

 僕は、土器というのは森の産物だと考えています。温帯の森の資源利用のなかから生まれたものです。土器を作るには、まず軟らかい土がないと駄目で、それには森林土壌が最適なのです。焼くためには燃料の木が要る。こねるためには水が要ります。森にはそのすべてが揃っている。……

 土器を作り出したことは、非常に革命的なことです。違う種類のものを一緒に煮て、違う味を出せるわけです。海からハマグリを、山からは木の実や山菜を取ってきてごった煮にすれば、まったく違う味が出る。それから煮沸しますから殺菌にもなる。煮ることで普通は食べられないものも柔らかくして食べられる。ですから、土器を作るということは、「食糧革命」でもあったわけです。(『環境と文明の世界史』五一~五二頁)


繰り返しになるが、土器の普及が縄文人をして定住を促し、稲作が広まったことで、定住が本格的になったということだ。これが、定説となっている「紀元前10世紀に弥生時代が始まった」につながるのである。このあたりの検証は、世界戦略情報誌『みち』の天童編集長が書いた論文、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の記述を思い出していただきたい。

集団的労働システム運営の域にまで達していた縄文農耕の成熟を意図的に無視し「野蛮な狩猟採集経済段階」と決めつけた上で、渡来人による水田稲作の開始と弥生生活革命、それによる人口爆発などを描いて見せたNHKの『日本人はるかな旅』が、考古的・歴史的事実を歪曲する児戯にも等しい欺瞞であった。


つまり、われわれが教科書やNHKの番組(「日本人 はるかな旅」)を通じて、知り得た弥生時代のイメージは、大凡以下のようなものではないだろうか。

水田稲作が大量の渡来人によって日本列島にもちこまれて生活に一大革命が起こり、それが弥生時代という新時代の始まりとなった。


だが、これは全くの出鱈目であることは、前稿「北満州と日本列島 05」ですでに述べた。

要するに、基本的に弥生時代という時代は、そのまま縄文時代を引き継いだ時代だったであり、定説の「縄文時代→弥生時代→古墳時代」という図式は間違いで、本当は弥生時代を飛ばした「縄文時代→古墳時代」という図式が正しかったのである。このあたりについて実証している論文こそ、天童論文の一つである「渡来人は列島に埋没同化して姿を消した」だ。

 すなわち、紛れもなく朝鮮半島由来の土器を使用した人々が住んでいた痕跡が北部九州には存在する。しかし、それは独立した「渡来人集落」ではなく、すでに存在していた弥生式土器を使用する人々の集落の中に渡来人がいた、という程度の規模であった。しかも、長期間存在したとされる土生タイプも「一〇〇年後にはこの土器技法も弥生土器文化の中に埋没、土器もろとも同化され、姿を消した」(片岡宏司)のだった。これが「大規模な渡来」の本当の実態だったのである。


さて、石器型現生人類から土器型現生人類を主流としていた縄文時代、それに続く第二の縄文時代である〝弥生時代〟が、ついに終わりを告げる時が来た。

■第3回目 - 稲作から古墳へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


飯山さんの第3回目の記述に、亀さんも概ね同意である。

ところで、ここで頭から離れない従来の疑問を思い出した。それは…

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


というものである。これについては次稿以降で展開していこう。時代を少し遡るかもしれないが、再びユーラシア大陸に視点を移すことになる。

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     『シルクロードの経済人類学』

【追伸】
放知技の小ボンボンさんが、以下のような投稿を行った。

稲の発祥は日本!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/467/


ソー言えば、上記の飯山さんの私見を、直接本人から聞いたような、いないようなwww

そして、小ボンボンさんの投稿を読んで咄嗟に思い出したのが、栗原茂さんの以下の記述であった。

過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。
◆舎人家紋講座24


危険な毒花
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現在、横浜市発展記念館にて、常盤とよ子の写真展が開催されている。常盤は御年88歳の写真家であり、終戦直後の横浜、殊に、パンパンとして懸命に生き抜いた女たちの作品群を残し、戦後の日本に強烈なインパクトをもたらした。

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パンパンについては、亀さんも書籍、テレビ、雑誌などで目にしていたこともあり、改めて、食うために身を売ってきた女たちに思いを致した。ちなみに、以下は今月24日まで開催されている写真展のPDF資料である。

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また、パンパンをテーマとした映画も多い。しかし、やはり最初に取り上げるべきは、溝口健二監督が撮り、田中絹代が主演した「夜の女たち」(1948年5月26日公開)だろう。その後、自らメガホンを握った田中絹代は、「恋文」(1953年12月13日公開)、「女ばかりの夜」(1961年9月5日公開)といった、パンパン映画を撮っているが、そこに、大女優・田中絹代の目に映った、戦後の日本が炙り出されている。

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視点を変えて、敗戦直後の日本を主テーマとした映画の中で、いの一番に亀さんが推すのは、やはり高倉健主演の映画「三代目襲名」であり、同映画については、拙稿で取り上げた。

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高麗神社と皇室
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高麗神社

平成最後となる来週の天皇誕生日(12月23日)、放知技の数名の道友と一緒に高麗神社を訪問して参拝するが、訪問に先立ち、予習の意味で本稿をアップさせていただく。

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右端は高麗宮司

昨年の9月20~21日、天皇皇后両陛下が埼玉県を御訪問、高麗神社に御親拝され(天皇家と高麗神社)、かつ渋沢栄一記念館を御視察されている。渋沢栄一と言えば、近代日本の礎を築いた人物であると同時に、徳川慶喜公の信任が大変厚い人物であった。そのあたりは、落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』、「第七章  慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。

一方、両陛下の高麗神社ご訪問を巡ってAERAが、「朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、ちょっとした騒ぎが起きた」などと書いていたが、そんなことよりも亀さんが注目したのは、「境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」という高麗文康宮司の発言、そして高麗宮司に陛下が御下問されたという以下のお言葉である。高麗宮司とは過去に幾度か会っているが、どのように宮司が陛下に回答したのか、次回訊いてみたいと思っている。

陛下 :高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか。


それから、以下は2016年4月23日に撮影された写真、「高麗神社に建立された石碑の除幕式に臨席された高円宮妃久子さま」である。

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ちなみに、来年は天皇になられる皇太子殿下も昭和51年、同神社を参拝されている。また、同神社には大勢の政治家も参拝しており、そのうちの六名が後の総理大臣に就任した。さらに、あの川島芳子も同神社を訪れているのだ(川島芳子 生死の謎)。

ここで、読者は思うことだろう、「高麗神社とは一体、どういう神社なのか?」と。このあたりの謎を解くヒントは、上に示した高麗宮司への陛下からの御下問にある。拙稿「まぼろしの古都」を一読いただきたい。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。

天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。

 もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。


天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。


上記に栗本慎一郎氏の名前が出てくるが、『栗本慎一郎の全世界史』p.198にある以下の図をご覧いただきたい。この図については、亀さん的に幾つか納得のいかない点がある。たとえば、「北魏」。栗本氏の図からは、北魏と日本の〝深い〟交流について示されていないが、亀さんが「青州で思ふ(3)」に書いたように、「奈良の平城京は北魏の平壌がモデル」であったことを思えば、何故にこのあたりを栗本氏は言及しなかったのか、腑に落ちないのである。このあたりは、いずれじっくりと確認していきたいと思う。

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北満州と日本列島 05
■弥生時代(前4世紀(前10世紀) - 後3世紀中頃)
弥生時代に関しては、ウィキペディアの解説を引き合いに出し、その上で正しい解答を示す形をとりたい。つまり、今回も前稿の縄文時代同様、世界戦略情報誌『みち』を基に、正しい解答を示すことにしよう。

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さて、現在のウィキペディアの「弥生時代」の項目をみるに、定説通りに弥生時代の始まりを前4世紀としているものの、続いて括弧付きで弥生時代の始まりを(前10世紀)としている。ところが、そのウィキペディアの弥生時代についての解説文の冒頭は、いきなり以下のような文章で始まっている(青下線)…。

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。


冒頭で、「紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称」(青下線)と書き、続く段落で「弥生時代は紀元前10世紀に始まる」(赤下線)と書いているが、弥生時代が始まったとされる前4世紀は何所にいったのかwww

それはともかく、並行してウィキペディアが書いている、「採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の「弥生」時代である」は、まったくの的外れである。このあたりは、ネットでいろいろと書かれているので、本稿では割愛したい。それでも尚、疑問に思う読者は以下の一連の論文に目を通すといいだろう。いずれも世界戦略情報誌『みち』に載った、天童(竺丸)編集長の論文だ。

紀元前一〇世紀水田稲作開始 ←稲作は縄文時代
渡来人先進文化将来説の荒唐無稽
渡来人は日本列島に埋没同化して姿を消した
縄文農耕の成熟と弥生水田稲作
中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」


特に、上掲の一連の論文で注目すべきは、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の文章だ。

 縄文時代を狩猟採集に基づく野蛮な時代、弥生時代を水田稲作開始による革新的時代と捉える単純な図式では、わが文明の骨肉に触れることはとてもできないのだ。縄文・弥生以来連綿として一貫するもの、それこそが日本文明の精髄であり、わが皇室祭祀の中核にある。


止めとして、最終稿の「中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」にある、以下の文章を引用しておこう。

 この副題にあるように、従来久しく教科書的常識とされてきた「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」とする歴史観に真っ向から挑戦するのが著者中島一憲氏の全編を貫く基本姿勢である。それは縄文時代を狩猟採集段階の未開社会とみなす大勢の常識に疑問を持ち、具に検証した事実を踏まえて、「縄文時代とは成熟した文明社会であった」という独自の洞察に支えられているのである。


われわれが学校で習ってきたはずの、「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」は、まったくの嘘っぱちであったことが分かるだろう。

これにて、弥生時代については切り上げ、いよいよ次稿からは飯山史観の要諦である、古墳時代に筆を進めることになるが、その前に、次稿では改めて飯山史観を、「日本列島に流入した人たち」という角度から俯瞰してみることにしたい。ちなみに、以下は飯山さんの放知技への投稿である。

小生,『飯山一郎の“真説・明治維新”』を書きます.

先ず…,序論として「日本歴史原論」.日本の歴史は,外圧と占領により大変化します.
その「外圧と占領」は,今までに7回半ありました.

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.

第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.

第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,坂本竜馬,高杉晋作らの「尊王派」や「倒幕派」を扇動して,幕藩体制の徳川国を倒し,西欧文化万歳!の明治新国家を建国させ,英国による間接支配が始まる.

ただし,高杉晋作は上海から帰国後,西欧列強の「カラー革命」を見抜いていたが…,明治維新の前年,29才で死去.
この高杉晋作の「無念と残念」を,安倍晋三は熟知している.

第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国となる.

第8回目は,現在進行中だが,日本は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16155707/828/


北満州と日本列島 04
■縄文時代(前12000年頃~前4世紀)
ウィキペディアによれば、縄文時代は紀元前12000年頃から紀元前4世紀までとある。しかし、これは明かな間違いで、実は紀元前10世紀ほど前から、すでに弥生時代は始まっていたのである。このあたりについては、次稿の「■弥生時代」で述べるとして、縄文時代が始まったとされる紀元前12000年といえば、すでにシベリアの大地に民族(ツラン)が誕生していたはずで、縄文時代以降に日本列島に渡ってきたのは、シベリアや朝鮮半島からの諸民族、すなわちツランと、南方からの黒潮の民だったと思って差し支えないだろう。

さて、紀元前12000年頃から始まったとされる縄文時代、どのような時代だったのかということだが、実は縄文時代について的確に述べた記事が存在する。それは、世界戦略情報誌『みち』に載った天童(竺丸)編集長の以下の記事である。同記事を読めば、縄文時代とはどのような時代だったのか、手に取るように分かるだけではなく、この日本列島で生を享けたことに、心の奥底で喜びを感じるはずだ。
定住革命の先駆者となった日本 1
定住革命の先駆者となった日本 2

殊に、「定住革命の先駆者となった日本 1」の以下の記述に注目していただきたい。

この日本列島が、世界に例のない聖地だったからである、と。だからこそ、他に例がないほどに恵まれた環境が形成されたのだ。そうでも考えなければ、この恵まれすぎたわが列島の豊かさは説明できない。


この引用だけではピンと来ないかもしれないので、拙稿「乳酸菌と日本人」からも引用しておこう。亀さんは以下のように書いた。

日本列島という地は人類の至宝なのだ。



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われわれの住む日本列島とは、どのような列島なのかについて、さらに知りたいと思った読者は、この機会に『環境と文明の世界史』に目を通していただければと思う。

それから、「定住革命の先駆者となった日本 1」にあった以下の記述…

三内丸山は世界に先駆けた定住革命以来すでに一万年もの長い時間をかけてじっくりと用意されたもの


その通りなのだが、われわれは縄文時代というと、三内丸山を例に挙げるまでもなく、どうも北日本を連想しがちである。しかし、実は南日本でも定住革命が静かに進行していたのだ。そのあたりの詳細は前拙稿で引用した「(11)南方からやって来た縄文人」に目を通していただきたい。 以下の記述に目が留まるはずだ。

日本列島の北方からやってきた人、南方からやってきた人がそれぞれ日本の各地に暮らし、縄文人は均質などではない…

このように、縄文人の興した定住革命は何も北日本に限らず、南日本を含む日本列島全体にわたって起きたのである。


それから、拙稿「北満州と日本列島 03」で、亀さんは栗本慎一郎氏のDNA観を紹介し、必ずしもDNA分析は万能ではないと書いているが、念のため、以下に再掲しておこう。

最近の考古学や歴史学は、染色体やDNAを盲信しすぎてはいないだろうか。再掲になるが、亀さんは拙稿「北満州と日本列島 02」で、栗本慎一郎氏のDNA観を以下のように紹介している。

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


「染色体やDNAを盲信しすぎ」という亀さんの記述は、読者に誤解を与えかねない書き方だったと反省している。そこで、次ように言い換えてみよう。つまり、時と場合によっては、DNA分析は目から鱗の事実を浮き彫りにしてくれる、と。その好例として、以下の記事を紹介しておきたい。
Y染色体DNA系統O3の跳梁跋扈を阻止せよ

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ともあれ、亀さんの言いたかったことは、DNA分析結果を基に書かれた諸記事を目にしたら、牽強付会に過ぎないかどうか、じっくりと見極めることが大切であるということなのである。

最後に、日本語の原型ができたのは、縄文時代だったと亀さんは確信しているが、そのあたりについて的確に述べた天童さんの記事、「わが産土は吉備である」(『みち』平成30年9月1日号)があるので、少々長くなるものの、重要なので以下に引用しておこう。

●もともと日本には単一民族が住んでいたのでもなく、単一言語が話されていたのでもない。有史以来の日本列島には系統を異にするいくつかの民族が地域ごとに纏まって住んでいた。言葉もそれぞれに異なっていた。

ところが縄文時代一万二〇〇〇年の間に、何度も大災害に見舞われることにより、かつまた列島全体および沖縄諸島はもちろんのこと黄海を囲む朝鮮半島南部から山東半島までをも網羅する広範な交易ネットワークに結ばれることにより次第に一体化を強めていき、今からほぼ七〇〇〇年前の縄文中期には日本語の核となる「日本語祖語」が形成されてきた。

その日本語祖語は北方言語と南方言語が渾然一体化を遂げた奇跡の言語であった。構文(シンタックス)は言葉そのものを活用・屈折させニュアンスを表現する印欧語系統の屈折語ではなく、助辞を補うことによって言葉と言葉の関係を明確にするという膠着語の系統を引き、北方ツングース語と密接な関係にある。そして語彙には南島祖語(原始アウストロネシア語)に系統を曳く夥しい言葉があって、濃やかな感情表現には接頭辞強調による段階変化(例えば、あか、まっか、まっかっか)をそのまま採用している。

乱暴に言えば、北方からマンモスを追って日本列島にやって来た狩人たちが気候変動によって大型動物が絶滅して食うに困っていたところを、黒潮に乗って台湾からアリョーシャン列島まで自在に行き来していた生活力旺盛な黒潮の民に助けられ、一緒に仲良く暮らすことになった。……まぁー大雑把にはこんな具合だったのではなかろうか。

異なる言語が一つになるなどということは世界の言語に例がなく、まさに奇跡としか言いようがない。例えば、「~する」という言葉。この言葉は何にでもくっついて、その言葉を動詞化する。読書+する、工作+する、睡眠+する、などの言葉に違和感を感じる人はもはやあるまい。ところが、映画+する、ポケモン+する、などはまだ多少変な感じが伴うが、意味が通じないわけではない。たとえ外国語であっても、「~する」はお構いなしにくっついて、日本語化してしまう。プレー+する、サポート+する……。

何でも受け容れて自家薬篭中のものにする、こんなに包容力に富んだ自由闊達の、滅茶苦茶な言語は世界中にも日本語の外にはない。もちろんそれは、一朝一夕に成し遂げられた奇跡ではない。系統の異なる言葉と言葉を相通じるようにするという創意と工夫が途方もない時間を掛けて不断に行なわれた結果である。それを促したのが、否応なしに襲ってくる自然の大災害だった。

時には、鬼界カルデラ大噴火により九州および西日本の人々が絶滅するような危機に見舞われることもあった。そして、生き残るための対立や抗争があったかも知れない。それとは反対に、生き残った者たちの間で、助け合い協働せざるを得ない状況が生まれたかも知れない。

いずれにせよ、日本列島においては、時として大災害に見舞われることはあるものの、四季折々に齎される豊かな自然の恵み……山の幸と海の幸とが、大量殺戮による異民族絶滅を伴う略奪経済から人々を免れさせてくれたのである。

安定した四季の恵みは列島の各地で定住生活を可能にして、三内丸山で栗を栽培していたように、やがて食糧の管理栽培をも手がけるようになると、より大きな政治単位を目指してムラからクニへ統合の動きが加速される。紀元前一〇〇〇年ころの縄文晩期には陸稲が集団管理栽培されていたし、やがて九州北部と備前平野においては水稲栽培へと発展する。

朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説は、半島在日勢力に加担する学者やNHKなどがいくら垂れ流しに必死になっても、もはや事実の前に破綻してしまった。


次稿では弥生時代について筆を進めるが、これは上の記事の最後にある、「朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説」を中心テーマに取り上げる予定だ。

【グリコのおまけ】
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『環境と文明の世界史』p.6


パワフル爺さん
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へっぴりごしさんは、精力的に大量のブログ記事を、連日のようにアップしている、超パワフルなGIII(爺)さんである。アップしているのは、世界や日本の政治や経済といった記事が主なのだが、時には身近な記事もある。たとえば、最近の記事で目が留まったのが以下の記事…
繰り下げ受給PR=「ねんきん定期便」見直し-厚労省

へっぴりごしさんは、以下のようなコメントを残している。

余程「健康に自信」があり、65歳過ぎても「生活できる年収」を確保出来なければ、申請しない・・・鴨ネ。

65歳以上で70歳まで、「職に着ける人」はどのくらいいるのでしょうか?


65歳の誕生日を迎える直前、「死生観を持とう」という記事を亀さんはアップしているが、その中で以下のように書いた。

年金の支給開始は70歳からでE-


これは、へっぴりごしさんの言葉を借りれば、「健康に自信」がまぁあり、「生活できる年収」を70歳までソコソコ確保できると判断したからだ。亀さんは20年近く英日翻訳で生計を立てており、事故に出遭ったり、病気にでもならない限り、70歳まで現役を続けていく自信はある。尤も、流石に五十代の頃のように、睡眠時間を除く一日16時間仕事に没頭するという集中力はなくなったものの、「語彙力」は少しずつだが、伸びているのではと何となく思っていたんだが、最近、それを証明してくれる記事に出会った。それが以下の記事だ。
「能力のピーク」が40代以降に来る人の思考法

同記事には、以下のようなイラストが掲載されている。

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イラストを見ると、「語彙力」のピークは67歳とある。だから亀さんの場合、これから「語彙力」ピークを迎えるということらしい。この語彙力を磨く上で亀さんが必ず目を通しているのが、「山岸勝榮の日英語サロン」というブログだ。山岸先生は大学の元教授だが、定年後の今でも、毎日精力的にブログ記事を書き続けておられ、そのバイタリティーには頭が下がる思いだ。そして、先生のブログ読み続けることでブラシュアップできるのは、何も英語だけではない。 ナント! 日本語もブラシュアップできるのでR。

語彙力? 俺(私)はブログをやっているわけでもねぇし、関係ネーなどと言わないでいただきたい。過日の拙稿「スピーチは自己啓発の原点」で紹介した、『話す力が身につく本』という本にも書いてあることだが、相手に理解してもらえるように話すには、相手に自分の思いや考えが確実に伝わる文章力が必要だ。つまり、話す・書くという能力は両輪の関係にある。

最後に、拙稿「死生観を持とう」にも書いた以下の真実、この機会に改めて噛み締めてみようではないか。

・人は必ず死ぬ
・人生は一回しかない
・人は何時死ぬか分からない


洞察歯観のすすめ(35)
冬の里からの便りが、歯科&音楽ウォッチャーさんから届いた。

今回は安田純平氏のことが取り上げられていて、興味深く読んだが、同氏の歯の状態から〝監禁状態〟を推測するあたり、流石はウォッチャーさんだと思った。

ニュース映像を見る限り「普通に元気ジャン!!」という様子でした。解放後から、なめらかに良く動いてました・・・下顎が!声が出ることが不思議でなりませんでしたが。声にかすれ一つ無く、発音もスムーズ。過酷な環境下で、電動歯ブラシでも使っていたのでしょうか?口元わずかに見られる歯の様子も問題なさそうで”汚れ”が確認出来ない。


亀さんも掲示板「放知技」で安田氏のことを書いている。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/122/

師走に入ったが、ウォッチャーの言うSTEPHEN PETRUNAK の「INFANT HOLY」を初めて聴いた。クリスマスか…、今夏訪れたアルゼンチン、今頃は庭のプールで真夏のクリスマスを迎えていることだろう。

秋も深まり・・・とは言え、もう師走ではありますが、紅葉を楽しもうと山歩きした帰り道、ショッピングモールへ立ち寄り、イートコーナーで100円コーヒーを飲みながら一休みしていたところ、近くのテーブルに、ミニスカ女子高生6人グループがやってきまして、ハンバーガー、ポテトチップ。たこ焼きに、ピザ。ジャンク・グルメをテーブル一杯に広げ、賑々しく女子会が始まりました。これは喧しくなりそうだ・・・早々に引き上げるかと思った瞬間、ポテトを口に放り込んだ茶髪ロングヘアーの女の子が、
「マジ やばいよ 私!今日のテスト全然出来なかったよ・・・」
と、雄叫びを上げ、それをゴングに、テーブル上で、ジャンクフード飛び散るバトルロイヤルが繰り広げられることに・・・。
飛び交いますね・・・「ウソ~!」「マジ!」 「やばいじゃん!」
この三つの言葉。ミニスカ女子高生たちには、とても重要な、スリーコード(三つの和音)で、会話を進めるには欠かせないもの。このスリーコードを丸っきり外してしまうと、コミュニケーション・ブレイクダウンになります。とは言え、ミニスカ女子高生や、ヤング・ジェネレーション(ちょっと、オールド・ファッションな表現でしょうか)だけでは無く、われらおっさん世代も意外と使っております。このスリーコード!結構な感染力です。効果的なワクチンは、今のところ無く、治療不可!といったところでしょうか。
つい先日も耳にしました。
「おい、やばいぜ!カルロス・ゴーンがしょっ引かれたらしい・・・」
「うそっ・・・えっ、マジかよ!」
スーツ姿の50代半ばとみられるおっさん二人の会話です。(日産ゴーンの報道を耳にしたとき、何となく思い出したのが、マツダのロータリーエンジン・・・)
この「やばい」・・・は意外なことに、川端康成が仕掛け人だったそうな・・・
***もともと隠語だった「やばい」を小説で使ったのが川端康成。浅草で生きる不良少年少女を描いた「浅草紅団」(1930年)で、
「私と歩くのはやばい(危ない)からお止しなさい」
とカッコ付きで使われていた。***
「恥ずかしくない おとなの語彙集が 身につく本」・・・というタイトルの本に、小ネタとして紹介されております。

さて、ミニスカ女子会もスリーコードの会話で盛り上がり、話題がテレビワイドショーへと変わり、あの帰国ジャーナリストのことを取り上げ・・・
「私だったら絶対むり。でも、よく帰ってこられたよねぇ~」
長らく過酷な環境下で捕らわれの身となっていたジャーナリストが無事解放され日本に帰国したというニュースが大きく取り上げられましたが、ミニスカ女子の一人は、私ならそのような状況下では耐えられず、とうてい生き延びて帰ることは出来そうもないわ・・・ということを、スリーコードを巧みに織り込んで話したわけですが、ところが、その次に口を開いたクレオパトラ・カットのミニスカ女子が、意外なことを・・・
「えっ!あの人ってさぁ-、普通に元気ジャン!!」
聞いていて、思わず「ナイス・プレイ!」と声をかけたくなりました・・・まさにその通り。解放されてから飛行機で移動し帰国。そして記者会見。ニュース映像を見る限り「普通に元気ジャン!!」という様子でした。解放後から、なめらかに良く動いてました・・・下顎が!声が出ることが不思議でなりませんでしたが。声にかすれ一つ無く、発音もスムーズ。過酷な環境下で、電動歯ブラシでも使っていたのでしょうか?口元わずかに見られる歯の様子も問題なさそうで”汚れ”が確認出来ない。
このジャーナリストの話題も、”東西南北から集められた「ニュースでショー」の一つなのでしょうが、映像には奥さんが登場し、両親が登場し、そしてジャーナリスト本人と、三つの音の組み合わせで作られて作品でした。
ちょっと、余談ですが・・・帰国ジャーナリストのニュース映像を見たときに、ふと心に浮かび上がってきたのが、タレントの川口浩。と言っても、川口浩本人では無く、
「行け 行け 川口浩!どんと行け!」
という歌詞を歌ったシンガーの嘉門達夫。
ジャーナリスト無事帰還のニュースの謎解きは意外や意外にも・・・嘉門達夫が歌う、「行け行け川口浩!」に、あるのかも知れません??

さてさて、意外なことは身近でもありました・・・

今年、幼なじみのK君が仕事リタイヤ。
「仕事から解放されて、気分も落ち着いてきたので遊びに来ないか」
と誘いがあり、少々遠出をして会いに行ってきました。K君とは4~5歳の頃からの付き合いなので、もうO十年になりますが、子どもの頃彼とは家も近く、学校からの帰り道、二人でよくスーダラ節を歌ったものです。年末になると思い出しますが、小学校時代、大掃除の時にぞうきんを振り回しながらスーダラ節を二人で歌い騒いでいたところを担任教師(当時、三十代後半の女教師)に見つかり、こっぴどく叱られたものでした。
「こら!そこの二人。何をしてる。ふざけてないで、ちゃんとしなさい。それに、いま歌っていた歌はなんですか。あなたたちが歌うような歌ではありません」
この叱りかたは昭和の味すね。
また、幼い頃といえば、冬の寒いなかでも青っぱなシャツの袖にこすりつけてはチャンバラごっこをしたものでした。K君とは沢山の想い出がありますが、なんとも可笑しかったのは彼はコーヒー牛乳が苦手で飲めない。よく、「おまえ、コーヒー牛乳
飲めないのかよ~」とからかったものでした。そのK君は高校生になるとスモーキン・ブギ
が愛聴盤となり、学生生活も目覚めの一服で始まる「スモーキン・ブギ」ライフを満喫しておりました。その後、意外なことに勉強することに目覚め、技術屋になり、長年技術畑で仕事をこなし、今年退職。
今でも、スモーキン・ブギが愛聴盤かと聞いたところ・・・これが意外や意外、クラシック音楽愛好家に大変身しておりました。
驚いたことに、ミケランジェリのピアノに酔い、ヒラリー(ヒラリー・ハーン)のヴァイオリンに胸躍らせると言うから、魂消てしまいます!
そこで、K君へのお土産は、CDを数枚選んで持って行きました。一部紹介します。

先ずは、チャイコの一番(チャイコフスキー ピアノ協奏曲 )ピアノは、ゲザ・アンダ。
ピアニストは、鍵盤に指を走らせるだけでは無く、足先もピアノ演奏をしています。足下にあるペダル。ペダル演奏の達人がゲザ・アンダ!
ゲザ・アンダは、K君ではありませんが、朝から晩までスモーキンブギなヘビースモーカーだったようです。ただ残念なのは、フルトベングラーから、「ピアノの吟遊詩人」と賞賛されたピアニストでありながら、五十代半ばで亡くなったことです。

次に、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」
カレル・アンチェル指揮 。オケは、チェコ・フィルハーモニー。
シンフォニエッタのメロディーを聴くと、エマーソン・レイク&パーマーを思い浮かべたりしますが、指揮者のカレル・アンチェルは、あの・・・野生の王国指揮者、ヘルマン・シェルヘンの愛弟子。

三枚目 ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ 「第5番 春」「第9番 クロイツェル」
アルテール・グリュミオー ヴァイオリン。
クララ・ハスキル ピアノ。
クロイツェルは元々、ヴァイオリニストであるブリッジタワーのために書かれた作品で、初演はベートーベンとブリッジタワーで行われたものの、練習時間があまりなかったのか、両者の意思疎通がうまくいかなかったのか・・・ブリッジタワーは、ほぼ初見でステージに立ち、思うような演奏が出来なかったようです。ベートーベンとはウマが合わなかったのかも知れません。また、二人は、ある女性をめぐって仲違いをしたことがあったらしい・・・と、今で言えば美味しいワイドショーネタですが、お互いに、
「あんた あの娘の 何なのさ」
とばかり張り合ったのでしょうか?
その後、ベートーベンは、ルドルフ・クロイツェルに、「この曲、あんたに捧げるぜ」と贈ったところが、受け取ったクロイツェル、「マジかよぉ・・・」とは言わなかったでしょうが、「なにゆえ、私に??」
一度として演奏したことが無かったとのこと。
ピアニストのクララ・ハスキル。冥土へ行くまで・・・いや、冥土へ行っても聴き続けたいと思うピアニストです。クララ・ハスキルをいえば、ディヌ・リパッティも同じですが・・・。
クロイツェル・ソナタといえば、アルトゥール・ルービンシュタインとヤッシャ・ハイフェッツがタッグを組み、ステージに登場したことがありました。クラシック音楽界の超スーパースター。夢の共演といったところでしょう。
コンサート当日。先ずは、ルービンシュタインが登場。不思議なことにヴァイオリンを手にして。続いてハイフェッツがステージ上に現れたかと思ったらピアノの前に・・・。聴衆は驚きを口にする間もなく、イントロが始まり、なんと全三楽章を華麗なるプレイで披露。会場は拍手鳴り止まぬスタンディング・オベーション!聴衆のなかには、
「てやンでぇ-ベラボーめ。こんなものは、インチキじゃーねーか」
と、けちを付けるものもいたようですが、演奏後、ステージ上で二人は、
「コンサートのポスターをよーく見ましたか・・・クロイツェル・ソナタ。ハイフェッツ。ルービンシュタイン。としか記してありません。ポスターのどこに楽器の指定が書いてありましたか。そんなことはどこにも書いちゃーいねーぜ!」
書いちゃーいねーぜ!・・・遠山の金さんのような啖呵を切ることはしなかったでしょうが、ゴールデン・コンビのコンサート。聴いてみたかったですね。今となっては、タイムマシンにお願いするより他に手はなさそうですが・・・。

ーー番外編ーー
幼なじみのK君へのお土産として、CDの他に聴診器をひとつ用意しました。さて、どう使用するか・・・これは、この世界にたった一つしかない壮大なシンフォニーを鑑賞してもらうためもの・・・つまりは、自身の体内に響き渡る音を聴くためのものです。普段、色々な音楽に接していながらも、自分の音(おん)は、意外や意外にも聴いたことはなく知らない。K君には、
「検診などで、お金を払ってまで、お医者に聴かせてやることはない・・・自分が聴いて楽しめ」
そう言って渡しましたが、これを切っ掛けに、退職したおっさんが、よからぬ趣味?に走るのではないかと一抹の不安・・・無きにしも非ず!

聴診器をヘッドフォン代わりにして聴くシンフォニーは、意外なる世界(宇宙の旅)へと誘ってくれるかも知れません。

ーー追記ーー

ミニスカ女子会バトルロイヤルを楽しんだ後、モール内で暫くウインドウ・ショッピングしていると、「ホワイト・クリスマス」が流れてきました。ビング・クロスビーの甘ったるい歌声を聴いていると、砂糖てんこ盛りのシフォンケーキが目に浮かんできましたが、クリスマス定番の「ホワイト・クリスマス」は、アーヴィング・バーリンの作品。バーリンは、シベリア生まれのユダヤ人。アメリカの代表的クリスマス・ソングは、ロシアから愛を込めて贈られた一曲だったのかも・・・知れません!

そこで今宵は、クリスマスソング。

STEPHEN PETRUNAK のアルバム 「INFANT HOLY」 から、「SILENT NIGHT」

このアルバム、いまから十数年前のこと、ある中古レコード屋で見つけ買い求めた一枚ですが・・・以来、我が家の定番・師走アルバムとなってます。一年の疲れと汚れを洗い流してくれる、程よい甘さで口あたり(耳あたり)のよい美味しい音のデザートです。先ずは一曲、試食を・・・。
(国内盤アルバムは、どうやら発売されていないようです)




北満州と日本列島 03
前稿「北満州と日本列島 02」で旧石器時代を取り上げたので、今回は縄文時代を中心に筆を進めるつもりでいたが、ここ数日にわたり加筆したいテーマが出てきたので、前稿に引き続き旧石器時代について言及させていただきたい。

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Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート

最初に、上掲の図は前稿で紹介した「日本人はどこから来たのか」、「(8)日本に到達した現生人類」に掲載されている図である。

しかし、サーッと眺めただけでも、何だかなぁという箇所が随分と目についたのだし、なかでも明らかに間違っていると思った箇所に、緑色や赤色の丸印を入れておいた。

最初に緑色の丸印。矢印を確認するに、アフリカを出た現生人類がアラビア半島の南端を経由して、今のイランに到着、そこを起点にして、ヨーロッパに向かった現生人類がコーカソイド(白人人種)に、シベリアに向かった現生人類がモンゴロイド(蒙古人種)に、オーストラリアに向かった現生人類がオーストラロイド(オーストラリア原住民)になったということを、たぶん上の図は言いたいのだろう。たとえば、赤丸印Bの矢印、すなわちシベリアに向かった現生人類は、後にモンゴル人種になったという具合にである。

ちなみに、上の図はY染色体分析に基づいて推定されたものだが、DNA分析に基づいた推定も、ウィキペディアの「モンゴロイド」に記載されている。

近年のDNA分析によれば、モンゴロイドはアフリカからアラビア半島を経由した出アフリカ集団のうち、イラン付近からアルタイ山脈周辺へ北ルートで移住した人々が、周囲の自然環境により他の「人種」との交流を絶たれ、その結果独自の遺伝的変異及び環境適応を経た結果誕生した「人種」であるとされる。その原初の居住地は、ヒマラヤ山脈及びアラカン山脈よりも東及び北側である。


ウィキペディアも出アフリカはアラビア半島経由としているが、そうではなくてシナイ半島経由だという説(現生人類の出アフリカ経路、「北ルート」が有力か)もあり、亀さんは大阪の〝公演〟ではシナイ半島経由(下図)を採っている。このあたりについては、今後の研究成果を待ちたい。

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それにしても、現生人類がアフリカを出たのはシナイ半島経由、あるいはアラビア半島経由のいずれだったにせよ(あるいは両方)、最近の考古学や歴史学は、染色体やDNAを盲信しすぎてはいないだろうか。再掲になるが、亀さんは拙稿「北満州と日本列島 02」で、栗本慎一郎氏のDNA観を以下のように紹介している。

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


これは、染色体やゲノムについても同様なことが言えるはずだ。

ところで、「Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート」の図に書き加えた赤丸印A、ヨーロッパに向かったのがモンゴロイド(茶色の矢印)としているが、コーカサス人種の原郷がシベリアのコーカサス地方なので、矢印は桃色(コーカサス人種)になるはずである。このあたりの根拠として、やはり栗本氏の主張を引用しておこう。

ゲルマン人は10万年ほど前、コーカサス地方において突然変異により集団的に白子化した遊牧民であるから、当然、他民族より色は白く日照に対して弱かったはずである。白人たちが自らをコーカサス人種と呼ぶのは人類学が発達する前からのことだ。ということは民族の「記憶」があったからであろう。
『栗本慎一郎の全世界史』p.99~100


また、以下のようなことも栗本氏は書いている。

紀元前のチュルク人は、その一部だったキルギス人も含めてコーカソイド(コーカサス人種)であった可能性が高い。言語も今は死滅してしまったインド・ヨーロッパ系統の言語がいくつもあったはずだが、その代表たるトカラ語を含めて基本がすべて未解明である。

シベリアからは南に外れた楼蘭で見つかったミイラ(楼蘭の美女)は明らかにコーカサス人種の特徴を持つし、楼蘭の本名クロライナも印欧語によるものと考えられている。だが楼蘭はほぼ間違いなくキォンヌ帝国の一角(構成の一王国)にあったものである。

『栗本慎一郎の全世界史』p.66


ここで、栗本氏は〝印欧語〟と書いているが、印欧語あるいは印欧語族という言葉には注意が必要だ。天童竺丸さんが「ツラン魂は健在なり 2」で、以下のような卓見を展開している。

いわゆる「アーリア人=印欧語族」なるものも、学問的な成果というより、一五世紀より世界的植民地支配に乗り出した西欧の勢力、とくに英国の東インド会社を拠点にした寡頭勢力がその世界支配の理論的正統性を固めるために編み出した思想謀略(イデオロギー)なのである。

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続いて赤丸印Cについてだが、日本列島に流入した現生人類は、朝鮮半島経由のみとしか、図からは読み取れない。しかし、「日本人はどこから来たのか」の「(10)北方からやって来た縄文人」に掲示されている真上の図からも分かるように、亀さんも同様に日本列島に渡ってきた人々の集団は、主に三ルートあったと思う。また、「(13)大陸から渡ってきた人々」の冒頭でも以下のように述べており、基本的に亀さんも同意見だ。

・大陸から渡ってきたルート ①旧石器時代にシベリア経由で到達した②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した③弥生時代に同じく華北・朝鮮半島経由で到達した④南方から沖縄経由で到達した。


当然、旧石器時代に華北・朝鮮半島経由のルートで、日本列島に渡ってきた現生人類もいたことは十分にあり得ることだし、しかも三つのルートのなかでは最も楽なルートだったはずだ。なを、東シナ海というルートの可能性は、ほぼゼロだ。第一、最澄や空海の時代ですら、多くの船が難破して結局中国大陸に到着できずに海の藻屑となっており、その点から東シナ海の航海はほぼ不可能だったと思う。

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それから、「「日本人はどこから来たのか」の「(11)南方からやって来た縄文人」では、スンダランドについて取り上げているが、亀さんも拙稿「沖ノ島と宗像大社」で取り上げたことがあり、一読いただければと思う。

次に冒頭の図に示した赤丸印Dと赤丸印Eだが、ベーリング海峡を通ってインディアンが北アメリカに渡り、やがて南アメリカに広がったと図から読み取れるのだが、大阪の〝公演〟で示した図で亀さんはベーリング海峡に×印を入れており、また「(13)大陸から渡ってきた人々」にも以下のような記載が見られる。

アメリカに到達したモンゴロイドはなぜか寒冷地に適した新モンゴロイドに変容しておらず、旧来の古モンゴロイドと見られています。


それから、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」では飯山一郎さんの論文を紹介、縄文人が太平洋を横断した論拠を示した。

”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!
文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと


止めとして、ウィルスの観点でベーリング海峡説を否定した、論文や記事を以下に紹介しておこう。

ウィルスから日本人の起源を探る
謎の国々は実在したか?(7) ~ ウイルスと寄生虫は語る


特に、後者の以下の記述は興味深い。

普通の解釈であれば、「南米先住民は、古代に東アジアからベーリング海を経て、北アメリカへ行き、そこからさらに南下したきたのだ。」となります。

しかし、もしそうであるなら、なぜ中米のカリブ海沿岸やパナマの人たち、また同じ南米先住民でも、なぜ、太平洋側であるアンデス地域だけ集中し、他のカリブ海沿岸、アマゾン熱帯雨林、パタゴニアなどの先住民は感染していないのか、不自然です。


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以上、現時点において通説とされている学説には、問題点や間違いが多いのである。そうした現状に対して、栗本氏は自著『栗本慎一郎の全世界史』で、固定概念に囚われている人たち、特に歴史学者らを罵倒しているのだが、それに比べれば、まだまだ亀さんなんか心優しい方だワイ。

本当に疑問に思うなら、そして必要なら自分で調べたまえ。調べもせずにただ疑問に思うような人はただ読むのをやめなさい。そういう人はこの本を読む資格も、歴史の真実を語る資格もないのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.212


次稿では、いよいよ縄文時代に筆を進めよう。

響堂雪乃のメッセージ
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2~3日前、NHKのBS世界のドキュメンタリーで、「プーチンの復讐(前編)」を再放送していたので、途中からだったが見てみた。ちなみに、同番組はネットでも公開されており、どのような内容の番組か知りたいのであれば、以下にアクセスしてみるといいだろう。
https://www.dailymotion.com/video/x6gf0ub

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同番組は典型的なネオコン寄りのプロバガンダ番組だったので、一緒に見ていた下の息子には、いつものように同番組のプロバガンダぶりを亀さんは解説している。仕事部屋に戻り、念のため同番組のホームページを確認したところ、この番組を見たという、三名の人が上掲のコメントを寄せていた。二名の投稿は「こんなものかな」と思ったていどだったが、ちゃんママさんという人のコメントを読み、分かっている人もいるのだなと、心強く思った次第である。そして、ふと脳裏に浮かんだのが、響堂雪乃氏の『ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ』(白馬社)だった。

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この本は、著者である響堂氏から送呈していただいた本で、亀さんは拙稿「滅びゆくニホン」で以下のような書評を書いた。

一読して、日本の十代あるいは二十代の若者には是非読んで欲しい本だと思ったし、同書を手にするかどうかで、その人の人生が大きく左右されるだろうと、直感的に思ったほどである。


飯山一郎さんが逝去してからというもの、最近の放知技は面白くない、という声もチラホラ聞こえてくるのだが、なぁに、堺のおっさんやmespesadoさんがいるのだし、亀さんはまったく心配していない。

しかし、一方で亀さんが最近の放知技で気になっているのは、上掲の「ちゃんママ」さんのように、ネオコンの存在に気づいている投稿者が多いものの、「ネオコンよ、早く消えてくれぇ~~」、といった、単なる淡い期待の投稿が大方を占めていることだ。「ネオコンに対して、具体的にどうすればいいか?」、「どう生きていけばいいの?」といった、若者の真摯な疑問に対して、真正面から受け止めている投稿は、残念ながらゼロ、あるいはゼロに近い。

よって、若者には響堂氏の『ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ』を手に入れるか、すでに同書が手許にあるのなら、この機会に再読することを強く勧めたい。その上で、「僕は(私は)このように生きていきたい」といった投稿を、亀さんは若い読者に期待している。

その響堂氏の本で、未だに脳裏から離れないのは以下の行である。

支配寄港である多国籍企業に反逆して革命を起こすことなど不可能だ …
『植民地化する日本、帝国化する世界』p.15
EU離脱を採った英国


それに対して、亀さんは以下のようなことを上掲の拙稿に書いた。

とまれ、響堂氏の主張「支配寄港である多国籍企業に反逆して革命を起こすことなど不可能だ 」が、今後も続くのであれば、中露連合と雖もアメリカ(多国籍企業)に対する防波堤どころか、いずれ叩きのめされるということになるのだが、そのあたりの結論は意外に早く我々は知ることができるのかもしれない。


残念ながら、未だにネオコンはしぶとく生き残っている。トランプvs.ネオコン、安倍晋三vs.財務省、ロシアvs.米軍・NATO(ウクライナの艦艇拿捕など)といった具合に、今でも殺すか殺されるかという鬩ぎ合いが続いるのである。

鉄人を悼む
小学校高学年の時、母方の叔父に後楽園に連れて行ってもらったことがある。初めてのプロ野球観戦ということで朝から大興奮の亀さん、夕方出かけるというのに昼前から叔父宅に押しかけ、「早く行こう!」と叔父を困らせたものだった。そして、夢にまで見た後楽園で、王貞治が二本のホームランをかっ飛ばすのを目の当たりにして、またまた大興奮…。

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東京オリンピックがあった1964年当時の亀さんは小学校六年生だったが、当時は「巨人・大鵬・卵焼き」の時代で、プロ野球と言えば巨人のことを指し、亀さんも近所の悪ガキと暗くなるまで草野球をやっていたものだ。そして、近所の悪ガキはもちろんのこと、学校のクラスメートも男の子は全員と言っていいほど、巨人ファンだった。だから、思春期を迎えたころも亀さんは、相も変わらず巨人ファンだったのだが、それがいつの間にか中日ファンになっていた。

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その最大の理由は、中日に落合博満がいたからだったと、今にして思う。落合は一匹狼的な生き様を貫いた(今でも)男だが、やはり世界を三年間放浪したことで、一匹狼的な生き様を身につけた亀さんなので、落合のオレ流の生き様が重なったのだろう。その落合は選手(1987~1993年)として、また監督(2004~2011年)として、中日と最も関係が深かっし、また、落合の本(『なんと言われようとオレ流さ』)も読んだことがある。

しかし、いつの間にか落合への関心が薄れ、ふと気が付くと日本ハムと広島のファン、というよりは両球団に関心を持つようになった自分がいた。それは、両球団に共通する、「新人を大事に育てる」という球団方針に惹かれたからである。

つまり、若いころの亀さんは周囲が巨人ファンだからというだけの理由で、巨人ファンになっていたのだが、十代の頃に日本を飛び出して三年間世界を放浪したことで、落合のオレ流の生き様が身についたのだし、それが落合というオレ流の野球選手を知るに至って、次第に落合の生き様と自分の生き様を重ねるようになったというわけだが、さらに時を経るにつれて、亀さん自身はオレ流の生き様が影を潜め、次の日本を背負う若者に目が向くようになっていた。それが、拙ブログに「若者への遺言」というカテゴリを設けた理由だったし、飯山史観を後世に残すため編集を進めている最大の理由である。

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この日本ハムと広島カープの〝育てる〟という球団方針だが、日本ハムの場合はダルビッシュ有や大谷翔平といった、今やメジャーリーグを代表する選手を輩出しているし、広島カープの場合も黒田博樹や前田健太といったサムライを育て、メジャーリーグに送っている。

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その広島カープの鉄人と言えば、今年亡くなった衣笠祥雄を思い出すのだが、最近、NHKの「アナザーストーリーズ」が、衣笠の特集をやるというので見てみた。同番組を見終えて改めて思ったことは、衣笠のように、選手として一流だけではなく、人間としても一流に衣笠を育てあげた広島球団の凄さである。同番組で特に胸が熱くなったシーンは、敗戦間もない1949年に球団を設立した当時、スポンサーもついていなかった広島カーブに、地元の人たちが球団の為に寄付しているシーンだ。むろん、広島の人たちのカープ愛は今でも不変だ。

もう一つ、同番組でつくづく思ったことは、若いころの人生の先輩との出会いの大切さということである。衣笠の場合、入団四年目に監督・コーチ陣の総入れ替えがあったのだが、監督に根本陸夫、守備・走塁コーチに広岡達朗、打撃コーチに関根潤三と、後に名伯楽となる三人が一度に広島に来たことで、衣笠という若者を大きく変えたことを知った。ここに、若いころに出会う人によって、その人の一生が決まるということに、改めて思いを致した次第である。その意味で、若者には積極的に、できるだけ多くの人生の先輩に出会って欲しいと心から願う。

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根本監督が若い衣笠に問うた言葉

北満州と日本列島 02
前稿「北満州と日本列島 01」では、「遼河文明」というテーマを取り上げたが、今回はもう一つのテーマである、「日本列島に流れ込んできた人々」について取り上げてみよう。

ここで、人々、すなわち現生人類が最初に日本列島に来て定住した、4~3万年前から古墳時代に入るあたりまでは、数万年というタイムスパンがあるので、取り敢えずは以下の年代区分に沿って筆を進めたい。

・旧石器時代
・縄文時代
・弥生時代


なを、古墳時代以降も日本列島への人の流入が続いていたことに変わりはない。ただ、古墳時代の応神天皇(在位期間270年1月1日 - 312年2月15日)と、飛鳥時代の天武天皇(在位期間673年3月20日 - 686年10月1日)の御代は、飯山史観の要諦でもあることから、当時の日本列島への人の流入も含め、多岐にわたって筆を進めるつもりなので、古墳時代以降における人の日本列島への流入は割愛する。

■旧石器時代(~紀元前12000年頃)
日本列島に渡ってきた現生人類が定住するようになったのは、4~3万年前と亀さんは前稿で書いたが、ウィキペディアによれば、岩手県遠野市宮守町の金取遺跡で9〜8万年前の人の足跡の他、石器が発掘されたとある。どうやら、最初に〝人々〟が日本列島にやって来たのは、さらに時間を遡る必要があるようだ。だが、これらの〝人々〟は本当に現生人類だったのだろうか?

ここで、「日本人はどこから来たのか」 という、面白そうなサイトを発見した。そして、亀さんが注目したのは同サイトの(9)旧石器時代の日本にあった、以下の結語である。

私個人的には様々な状況をあわせると、ホモ・エレクトスなどの「原人」はアジアに拡散したが、日本列島にまでは到達できなかった。しかし11万年前よりも以前のかなり古い時代からデニソワ人などの「旧人」は日本に到達していて、生活の痕跡を残した。さらに4万年前頃にはもう舟に乗った現生人類、「新人」が海を渡って日本列島に到達し始めたのだろうと考えています。


同サイトは、「人類が地球外からやってきた」、あるいはシッチン説といった、腰が引けるような記事が目に付くものの、なるほどと思わせる記事も多く、上掲の結語に限っては、ほぼ正しいと亀さんは思う。また、現生人類がアフリカを出たのが10万年前、そして日本列島に到達したのが4万年前という点でも一致している。今後の発掘調査でより正確な時期が判明するとは思うが、大筋は変わらないだろう。

ところで、上記ページにあった指摘で見逃せない記述が幾つかあったので、主なものを以下に列記しておこう。

近年の研究で氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り、大陸と日本列島(北海道は除く)は陸続きにならなかったことが判明した。
【亀さん】数年前になるが、NHKスペシャルで「日本人 はるかな旅」というシリーズを放送していたことがある。中でも、シベリアからマンモスハンターが、陸続きの北海道まで進出してきたシーンが今でも記憶に残っている。では、彼らは北海道から本州へはどのように渡ったのか…、あるいは本州に渡ることはできなかったのか…、このあたりについては、いずれ解明されることを期待したい。

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舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島で産出されたとみられる黒曜石が、関東地方の後期旧石器時代3万8千年前の遺跡で発見されています。このことから日本人の祖先はこの頃既に意図的な航海が可能だった、つまり舟に乗って日本列島にやってくることが可能だった。
【亀さん】おそらくは丸木舟を使用していたのではないだろうか。これは、人類進化学者の海部陽介氏が現在進めている、「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」を通じて、個人的に思ったことである。
【完結編】国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」

2008年になってロシア・モンゴル・中国の国境に近いデニソワ洞窟で人骨のかけらや歯が見つかります。2010年DNAの解析によりこれは未知の人類の化石と判明します。
【亀さん】興味深い記述だと思うし、これなら金取遺跡で発見されたという、9~8万年前の足跡も辻褄が合う。参考までに、上掲のサイトにあったイラストと、亀さんが「日本人のDNA」で取り上げたイラストを以下に並べておこう。

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(9)旧石器時代の日本

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日本人のDNA


ここで注意しなければならないのは、日本の考古学者だ。以下のウェブ記事を参照されたい。
『神の手』に罪は無かった(1)

上掲の記事を書いたのは、あの『神々の指紋』を和訳した大地舜氏で、「現代文明の発祥は6000年前のメソポタミアの古代シュメールだと私たちは信じている」と書いているあたりで、亀さん的にはもうアウトなのだが、そのあたりには目を瞑るとして、考古学者に限らず、他の日本の学会や会社といった組織の硬直化は、しばしば見受けられるパターンである。それにしても、旧石器考古学の学者らを滅多斬りしているあたり、実に小気味よいし、日本の考古学者の実態は大体において大地氏の言う通りなのだろう。

しかし、ここで改めて栗本慎一郎氏の主張を紹介しないわけにはいかない。それは、「DNA」と「石器」についてだ。最初にDNAから…

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


確かに、栗本氏が主張しているようにDNAは万能ではない。第一、現生人類が民族に分かれるようになってから、まだ数万年という僅かな時間しか経っていないことを思えば、今後もDNAが引き合いに出されていたら注意するべきだろう。

次に石器。前稿で文明と文化についての栗本氏の定義を引用したが、その中に重要な指摘がある(下線)。

われわれが文明と呼んでいるのは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられるものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

その総合や統合、時には統治のあり方は文明の性格の重要な要素であって、われわれはしばしば建物や美術・工芸にばかり目が行きがちになることを抑えねばならない

『栗本慎一郎の全世界史』p.20


つまり、あまりにも石器だの土器だのといったモノだけに拘っていると、文明や文化の大筋、あるいは本質と言い換えてもよいと思うが、見逃す恐れがある。このあたり、栗本氏の謂う「生命論」を常に頭の片隅に置いておきたいものだ。
栗本慎一郎の生命論

以上の二点を念頭に、今後の発掘調査に注目していきたいと思う。なを、日本列島に現生人類が渡ってきた4~3万年前だが、この年代は、シベリアの現生人類が多くの民族に分かれてツランが誕生する前であり、したがって最初に日本列島にやってきた人たちも、民族に分かれる前の人たちだろう。

蛇足ながら、大阪での〝公演〟でも発表したように、シベリアから日本列島に渡ってきた現生人類に前後して、南方から日本列島に渡ってきた現生人類もいたことを忘れるべきではないと思う。

次稿では「北満州と日本列島 03」として、縄文時代の人の流入について取り上げる予定だ。

【補足】
現在の世界人口は76億人だが、数万年前は一握りの人類しかいなかったし、もう少しで滅亡という危機にも人類は直面した。

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今日世界人口70億人 生き残る人類と死ぬ人類に分かれていく

滅亡の淵に立たされた人類については、以下のサイトが参考になる。
人類は7万年前に絶滅寸前の状態に追い込まれれていた

おっさんの秘みつ
今日は、堺のおっさんの重要なヒ・ミ・ツを書く。

過日、大阪で行われた「故飯山一郎氏を送る会」で、堺のおっさんが司会を務めたわけだが、前日の堺のおっさんは風邪気味で、とても声を出せるような状態ではなかった…。

そこで、堺のおっさんがとった方法が凄い。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16563101/37/

ナント、蜂蜜で危機を乗り越えたのだとwww。実わここ数年、亀さんも蜂蜜を愛用している。三日前も「志布志の秘みつ」つうホンモノの蜂蜜を、かんだい・ネットショップに注文したばかりだ。

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志布志の秘みつ

蜂蜜と言えば、五月に飯能市で開催されたツーデーマーチの前の晩、出世外人さんが拙宅に泊まってくれたんだが、コーヒーに蜂蜜を入れると美味い象…、と冗談で言ったら、本当に、蜂蜜を入れてゴクリゴクリと飲んでいた… ∑q|゚Д゚|pワオォ!!

ところがである、後にネットで確認したところ、ナント! コーヒーに蜂蜜を入れて飲むのが、今日ではトレンディなんだとwww
はちみつとコーヒーの相性は意外に合う!

それにしても、コーヒーはブラックで飲むのが、大人の飲み方とばかり思っていた亀さんなので、コーヒーに蜂蜜なんて豚でもないと、今までは思っていたんだが、これからわ考えを改めなければならないようだワイ。

ここで、「みつばちの大地」と題する記事を、数年前に書いたのを思い出した…



ところで、堺のおっさんは投稿に、「おっさんの若さの秘密」と書いているんだが、風邪を直すのと若さの秘密とは、関係ないと思うんだが…

【グリコのおまけ】
ロシア人がどんな病気も蜂蜜で直す訳

北満州と日本列島 01
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北満州と日本列島

アフリカ大陸で誕生した人類がユーラシア大陸に進出し、人類初の文明(ミヌシンスク文明)がシベリアの地で誕生したという、ラフスケッチを前稿(ミヌシンスク文明 02 )で一応描き終えたので、今回から視点を移して、東アジア、すなわち北満州(上図右上の桃色部位)と日本列島に焦点を当ててみたい。

北満州と日本列島についてだが、亀さんが思索を巡らせたテーマは主に二つあった。

一つは、満州の一部である北満州(外満州)の地で誕生した、〝遼河文明〟についてである。この〝遼河文明〟は〝黄河文明〟および〝長江文明〟と並び立つ、中国の〝三大文明〟の一つとして世間では捉えているようだ。その〝遼河文明〟はウラル系民族が興したものであり、その後にツングース系民族が北満州に進出してウラル系民族にとって代わり、さらにその一部が日本列島に渡航したということになる。換言すれば、ツングース系民族こそが我々日本人の祖先というわけだ。

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文明の出発点、南シベリア(『栗本慎一郎の全世界史』p.76)

さて、上掲の「文明の出発点、南シベリア」を見ていただきたい。栗本氏は人類初の文明をミヌシンスク文明としているのだが、このミヌシンスク文明は前稿の天童竺丸さんの論文「ミヌシンスク文明再論」にもある通り、時間を遡っても紀元前3500年のアファナシェポ文明(紀前3500~2000年)がせいぜいである。一方、〝遼河文明〟が誕生したのは、ナント、紀元前6200年前に遡る。

ここで、上掲の「文明の出発点、南シベリア」に描いた、紫色の円で囲んだ箇所に注目すれば、北満州から南シベリアへと矢印が向かっている(逆ではない)のにお気づきと思う。つまり、栗本氏は明らかに、北満州で誕生した諸文化の方が古いことを知っているのである。それなのに、栗本氏は〝遼河文明〟を最古の〝文明〟と呼んでいない…。何故だろうか?

これは、栗本氏の考える文明と文化の定義にある。少々長文になるものの、以下を一読されたい。

われわれが文明と呼んでいるのは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられるものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

その総合や統合、時には統治のあり方は文明の性格の重要な要素であって、われわれはしばしば建物や美術・工芸にばかり目が行きがちになることを抑えねばならない。宗教と交易のあり方は普通、非常に密接なものであって、そのことは王や皇帝の統治の基本にも大きくかかわるものである。私たちはこの前提(宗教と交易のありかたを重視する)を持ちながら、はじめてローマ文明であるとか中国文明、エジプト文明、メソポタミア文明というものを考えることが出来る。だから、交易を考える経済人類学者は歴史の記述に強い関心を持ってきたのだ。

文明とは時間的にも地域的にもある程度の限定があるのだ。たとえば、ローマ文明の概念や成果の中に中世や近代のイタリア文化は含めない。もちろん、現代イタリアにローマ文明の影響があるのは当然だがそれは別問題だ。

また、日本文明という言葉が使われないのは、文明と言うには日本文化の根付く地域が狭すぎるし、日本文化がある一定の期間にだけ特別の性格を持ったということが認められないからである。つまり、地域的にはまとまりが小さすぎ、かつ時間的にまとまりがなさすぎるから文明とは言わない。

一方、文化のほうは、むしろ広がりよりもまとまりや深まりを持つもので、かつ時間的には文明よりも長く、時には永遠に続くものだ。日本文化という場合、あきらかにそうであろう。その場合、もちろん、重要な要素は変化変容することもあるが、いくつかの重要な要素は不変であることが多い。だから、日本文化は世界的にも顕著な根強いものとして存在するのだ。

『ゆがめられた地球文明の歴史』p.20~21


つまり、〝遼河文明〟は文明として、栗本氏の定義に当てはまらないということなのだ。そのあたりを理解するキーワードは、下線で示した「経済人類学」である。

ここで、〝遼河文明〟の中で誕生した諸文化を整理した、サイトがあるので以下に紹介しておこう。同サイトは中国文明、すなわち〝黄河文明〟、〝長江文明〟、〝遼河文明〟で誕生した諸文化を紹介しているサイトなのだが、同ページを下にスクロールしていけば、四分の三あたりに〝遼河文明〟で発生した諸文化の解説に行き着く。
東アジアの古代史

同サイトも、〝遼河文明〟だの、倭国=日本だのと書いているwww。それはともかく、少なくとも亀さんが確認した限り、栗本氏のように経済人類学に立脚した視座で、文明と文化を捉えているサイトに今までに出会ったことがない。この経済人類学については、栗本氏の経済人類学関連の書籍、あるいは栗本氏が私淑していたカール・ポランニーの一連の著作、例えば『経済と文明』あたりがヒントになるが、本稿では割愛する。

次に、北満州と日本列島について、亀さんが思索を巡らせたもう一つのテーマは、日本列島に関するもので、4~3万年前に確実に存在していた日本列島の旧石器時代の人々、そして1万6千年前に縄文時代に突入し、弥生時代を経て古墳時代に入るあたりまで、日本列島に流れ込んできた人々についてである。このあたりは、長くなりそうなので次稿以降に回したい。

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アムール川

スピーチは自己啓発の原点
息子の通っている専門学校が二ヶ月ほどかけて、校舎をリフォームするということで、二ヶ月にも及ぶ冬休みに入った息子と、久しぶりに街に繰り出して行きつけの中華料理店へ直行、酒を酌み交わしながら学校の様子について息子の話に耳を傾ける一方、亀さんも大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」の様子や、来年は志布志とアムール川行きを考えているといったことを話した。息子の通っている専門学校は、就職率100%を謳い文句にしているだけに、バイトをする時間もないほど勉強に厳しい学校であることは、日々の息子の様子からしてわかる。国税庁に勤める弟にも支障のない範囲で教えてもらったが、数多ある専門学校の中でも、かなり評判が高い学校のようだ。

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その息子に大阪での亀さんの〝公演〟について話をしていた時、亀さんが強調したのはスピーチのすすめであった。なぜ、スピーチのすすめなのか? そのあたりの具体的な理由を知る上で若い読者に推薦したいのが、『話す力が身につく本』(高嶌幸広 PHP文庫)という本だ。この本は、書店に並んでいる一般のハウツー本と異なり、スピーチをすることで得られるものは何かについて、具体的に述べている珍しい本なのである。著者の高嶌氏自身も、同書の「プロローグ」で以下のように書いている。

話す力をつけることによって、潜在能力を開発しようとする本はあまりなかったはずです。
『話す力が身につく本』p.5


ちなみに、同書の大雑把な内容については、以下の書評が参考になると思うので、関心のある読者はアクセスしてみて欲しい。
「話す力」は自己啓発の原点

なを、スピーチ力を身につけるための通常のハウツー本だが、亀さんは過去に読んだ記憶はなく、ネット記事で十分だと思っている。よって、スピーチのノウハウを知りたいという若い読者に対しては、以下の記事を紹介しておくに止めたい。
聞き手を「前のめり」にさせるスピーチ・プレゼン・講演に必要なこと ~準備編~

さて、亀さんが大勢の人を前に、初めてスピーチをしたのは、確か二十代後半か三十代前半の頃だったと思う。そして、一番人が多かったのが、約千名の高校生を前にスピーチをした時だった。それから、今回大阪で行った講演は初めてプロジェクタを使って行ったが、改めてスライドのメリットを知ったのは収穫であった。尤も、亀さんはハイカラな機械は苦手で、プロジェクタにパソコンを繋げ、スライドの切替を操作する時も、すべてmespesadoさんに負んぶに抱っこ…(爆)

再び高嶌氏の『話す力が身につく本』に戻す。同書に書かれているスピーチを行うことによって得られるメリットを、昨夕の亀さんは息子に噛んで含めるように話したのだが、息子に限らず多くの若者に対しては、今後スピーチを行う機会があったら、買ってでも引き受けるべしとアドバイスしておこう。参考までに、以下はスピーチを体験することによって得られるメリットである。

1.自分の考えや思いを相手に明確に伝えることができる
2.話を聞いてあげることで相手から好意をもたれる
3.物事の核心を素早くつかむことができる
4.見違えるほど決断力がアップする
5.驚くほど頭の回転が速くなる
6.人間に対する強い興味がわいてくる
7.人の心の動きが手に取るように見えてくる
8.自信が生まれ積極性が出てくる
9.自分をさらけ出すことの大切さがわかる
10.自分自身のことがよくわかるようになる


健闘を祈る!
ミヌシンスク文明 02
前稿「ミヌシンスク文明 01」において、〝文明発祥の地はシベリア〟と述べたが、それを踏まえて本稿を続けよう。『栗本慎一郎の全世界史』の第三章、「人類文化の起源地・ユーラシア」には、前稿では触れなかった他の重要なポイントが、実はもう一つ書かれている。それは、同章の『■「移動」と「金属」が根本特徴』で言及している、である。

 要するに、われわれが重要視すべきことは二つ、移動と金属だ。

 この二つが南シベリア文明の根本特徴として存在じていた。

 南シベリアの草原と雪の中における文明は、船や馬や馬車での移動と金属の積極利用の姿勢を人類史に持ち込むものだったのである。

『栗本慎一郎の全世界史』p.79~80


ここで、栗本氏の謂う「金属」とは鉄を指しているのだが、今回はこの鉄について少し言及しておきたい。なぜなら、前稿「ミヌシンスク文明 01」で言及した以下の記述と深く関連してくるからだ。

茅葺
シャーマニズム


最初に、世界戦略情報誌『みち』(平成27年4月15日)に掲載された、天童竺丸さんの「古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった」を、本稿の【補足1】に転載したので目を通していただきたい。特に、赤線を引いた二ヶ所は重要である。最初の赤線「神事を以て鉄の生成を神に乞い願った」は、鉄とシャーマニズムの深い結びつきを示すのだし、次の赤線『「葦刈製鉄」と「稲作農耕」という両者が渾然合体したのがわが日本』は、鉄を生成する葦原、すなわち葦刈製鉄について言及しているからだ。

斯様に、葦と鉄との結びつきは我々が想像する以上に深かった。豊葦原瑞穂国という言葉は祖国日本を指しているが、亀さんは瑞穂は稲穂であることは分かっていたものの、何故に豊〝葦〟原なのか今まで気になっていた。それが、「古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった」を読み、漸く腑に落ちたという次第である。そして、栗本氏も鉄に注目していたことは、『■「移動」と「金属」が根本特徴』と題した小節からも窺い知ることができるのだ。

一方、鉄ひいてはそれ以上に重要である卜(うらない)の対象が、戦略あるいは外交であり、国家の命運を左右する判断を下さねばならぬ時であった。そして、その卜が今日の日本にも引き継がれていることを思い出すべきで、そのあたりは飯山一郎さんも以下の記事で述べている。
平成天皇ご即位の際にも亀卜が行われた…

古代人は現代人よりも遥かに深く、自然というものを身を以て知っていた。そうした古代の人々が自然から受け取る情報のアンテナは、現代人のそれよりも格段に鋭く優れていたのだ。そうした自然の情報を受信する古代人のアンテナは、日々自然と接していくなかで磨き上げたアンテナだったとも言える。一方で、現代に生きる我々のそれはひどく錆びついている。それは、科学が「科(とが)の学問」であることを考えれば、我々のアンテナが錆びついてしまったのも無理もないと言えよう。

世界戦略情報誌『みち』の執筆者と読者を対象に、池袋で毎月一回行われている「まほろば会」、現在は安西正鷹さんが中心となって講話を進めているが、毎回まほろば会の後に安西ファイルを送ってくれるのは大変有難い。その安西さんが先月行われたまほろば会で、配布したという安西ファイルを数日前に送ってくれた。テーマは「仮想通貨からお金と経済のあり方を再考する(後編)」で、仮想通貨リップルについて鋭く切り込んだ、実に優れた論文だったので、思わず目を見張ったものである。この貴重な論文はいずれ『みち』に掲載されると思うので詳細は割愛するが、実は論文の結末に、リップルの考察以上に重要な〝安西メッセージ〟が書かれていたので、以下に引用しておこう(下線は亀さん)。


・これは空疎な精神論ではない。物質世界と精神世界に跨る半霊半物質的な、新しいジャンルの科学理論に基づく考えである。すなわち、来るべき新しい文明の精神哲学ともいうべき量子力学に基づく真理なのだ。

仮想通貨からお金と経済のあり方を再考する(後編)


量子力学の台頭で従来の科学が崩壊しつつあり、次の文明原理に人類は進みつつあるのだが、それは、精神世界の古代人から、物質世界の現代人を経て、精神世界と物質世界が融合した世界へ向かう過渡期にあるとも言い換えることができ、量子力学をきっかけに世界の精神構造が変わりつつあることを、安西さんは述べている。ともあれ、古代人の持っていたアンテナ、自然に対する観察眼が如何に凄かったか、そのあたりについては以下の記事からも容易に想像できよう。
古代の「科学」


記事にもあるように、4~5万年前の我々の祖先が持っていたと思われる、研ぎ澄まされた自然観察眼、それから得るインスピレーションとは、どのようなものだったのか、一度は思索を巡らせてみる必要がありそうだ。それが、シベリアの大地に生きた、そして今でも生きているツランの心に迫る、第一歩だ。

なを、別号の同誌で取り上げていた、土師氏についての言及も重要である。たとえば、平成27年8月1日号の『みち』に掲載された、「土師氏・土師部による古墳築造と国作り」(平成27年07月01日)と題する記事には、以下のような記述がある。

土師氏・土師部が陶工・鉄工集団であると同時に、巫覡・巫女を輩出するシャーマン集団だった


その土師氏については、実に興味深い記事が多いのだが、まだ公開されていないのは残念である。

みち426号(平成27年05月15日) 大和は一大製鉄地帯だった
みち425号(平成27年05月01日) 土師氏は製鉄神兵頭の部民だった
みち424号(平成27年04月15日) 古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった
みち423号(平成27年04月01日) 葦刈製鉄はホントにあったのか?
みち422号(平成27年03月15日) 「鈴生」と地名「三碓」の語源

…中略…
みち431号(平成27年08月01日) 土師氏・土師部による古墳築造と国作り
みち430号(平成27年07月15日) 鍛治師とシャーマンと陶工とは血の兄弟だった
みち429号(平成27年07月01日) 土師氏とは渡りの陶工鉄工集団だった

巻頭言


加えて、飯山史観を編集している身として目を引いたのが、8月1日号の表題にある〝古墳築造〟であり、前方後円墳について今の日本で定説となっている大和発生説の他、定説に異を唱える加古樹一氏の説を同記事では紹介している。そしてわかることは、加古氏は古墳築墓はニギハヤヒ系の土師集団と考えていたということだ。だが、前後して飯山一郎さんが。古墳の原型は九州にありという、南九州古墳誕生説を発表しており、このあたりは応神天皇の御代を編集するにあたって、改めて見直し作業を行う予定である。

ともあれ、ミヌシンスク文明について書きたいことは他にも多々あるものの、先(飯山史観の編集)を急ぐため、ミヌシンスク文明についてはこのあたりで切り上げ、次稿では北満州と日本列島について筆を進めていく予定である。

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ゲルマン人も出自はシベリアの遊牧民族!

【補足1】
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古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった
世界戦略情報誌『みち』(平成27年4月15号)

【補足2】
一口にミヌシンスク文明と言っても、それは三期あるいは五期に分けられると、平成28年10月1日号の世界戦略情報誌『みち』で天童竺丸編集長が述べている。ご参考までに、該当の記事を以下にアップしておこう。

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