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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
応神天皇の秘密(2)

実に衝撃的な内容であった。
応神天皇の秘密(1)


今回より「応神天皇の秘密」に筆を進めていくことになるが、その前準備として二本の小節を書いておきたい。一本は、我々が学校の教科書で習ってきた日本史。これを、一度突き放す形で見直して欲しいと思い、本稿「■日本史の〝常識〟を乗り越える」を書いた。そして、もう一本は次稿で取り上げる予定の「■応神天皇の生きた時代」で、応神天皇の御代とは、どのような時代だったのかについて振り返ってみたいと思う。何故なら、そうしないことには、何故に飯山史観が〝衝撃的〟なのか、てんで分からなくなるからである。

■日本史の〝常識〟を乗り越える
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初代の神武天皇から綿々と続いてきた皇統、現在の今上陛下は初代神武天皇から数えて第125代目の天皇であられる。神武天皇以降、2678年もの時間が経過、読者の頭の中では、天皇家について分からないことが幾つもあるのではないだろうか。たとえば、手許にある『天皇家の謎』の目次に目を通すに、以下のようなことが天皇家にまつわる謎とされているようだ。

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念のため、久しぶりに同書をサーッと斜め読みしてみたが、無知蒙昧という他はない。たとえば「謎の四世紀をめぐって」(p.52)という小節だが、五世紀前半の応神天皇とも関連してくることもあり、少々長くなるものの、以下に同小節の全文を引用しておこう。

謎の四世紀をめぐって
抜け落ちた大和朝廷成立と倭の五王

史書に記されない空白の時代
まだ日本に文字が入っていなかった時代の出来事を知るには、周辺の国、なかでも中国の史書に頼るしかない。

実際、日本列島の出来事と思われる記述は、西暦五十七年ごろの『漢書地理史』にはやくも登場している。また、有名な邪馬台国と卑弥呼について書かれているのも中国の『魏志倭人伝』だ。

ところが、ある時期から中国の史書に、日本の記述が見られなくなる。およそ百年、西暦四世紀から五世紀にかけての出来事が、まるでわからなくなってしまうのだ。

古代のことだ。百年くらい、どうということはないと思われるかもしれない。

だが、この百年は、日本という国にとって、きわめて重要な百年なのだ。

というのも、それ以前の中国の史書は「倭」という国について記述している。それは、女王卑弥呼の「邪馬台国」に連なる国だ。

ところが百年後、再び中国の史書に登場するのは、いわゆる「倭の五王」と呼ばれる大王たちで、彼らはいずれも「大和朝廷しの「天皇」に相当する人物なのである。

この百年は、大和朝廷成立の経緯が詰めこまれた、きわめて重要な年代だった。にもかかわらず、なんの記録も残されていない。ゆえにそれを「謎の四世紀」と呼ぶのである。

謎の百年の間になにが起こつたのか?

大和朝廷成立にかかわる百年が抜けているということは、この日本という国の起こりが抜けているということに等しい。

つまりわれわれは、もっとも重要な「国の始まり」の歴史がわかっていないのだ。

ちなみに「倭の五王」とは、『宋書』や『梁書』に登場する「賛(讃)、珍、済、興、武」五人の王のことをいう。この五王がどの天皇にあたるかについては諸説あるが、最後の「武」を雄略天皇にあてることはほぼ一致している。そして「興」が安康天皇、「済」が允恭天皇ということも問題はない。意見が分かれるのは賛と珍で、それぞれを履中・反正天皇にあてる説もあれば、応神・仁徳天皇にあてる説もある。

が、いずれにせよそれは十五代から二十一代という天皇の時代であり、それ以前の初代神武天皇から応神天皇までの時代がそのまま謎の四世紀、ということになるわけだ。

四世紀、列島で何が起こっていたのか?

邪馬台国論争にしても、もとはといえばここに原因がある。邪馬台国は畿内にあり、そのまま大和朝廷になったのか? あるいは九州の邪馬台国が東征したのか? 邪馬台国が九州の地方勢力で終わり、大和朝廷は別にどこかで発生した可能性もある。騎馬民族による日本征服説にしても、やはりこの謎の四世紀の出来事なのである。

辛亥銘鉄剣と雄略天皇
ところで、日本にも数少ないながら、この時代の史料が残されていた。

一九七八年のことだ。埼玉県行田市の埼玉古墳群稲荷山古墳から出土した鉄剣に、百十五字からなる金象嵌の銘文が刻まれていることがわかったのだ。

衝撃的だったのはそこに「私は獲加多支鹵大王に仕え、天下を治めるのを補佐してきました。そこで辛亥年七月に、これまでの功績を剣に刻んで記念とします」(意訳)と書かれていたことだった。というのも、「辛亥年」は四七一年と推定されるので、文中の「獲加多支鹵大王」は、「オホハツセワカタケル」――雄略天皇ということになるからである。

雄略天皇は、中国の史書に「倭王武」として登場する人物だ。つまり、この天皇が実在し、しかも当時、勢力を北関東にまで及ぼしていた、という証明になるわけである。

一方、この「辛亥年」を六十年後の五三一年とする説もある。この場合は、「ワカタケル」は欽明天皇ということになる。

この違いは大きく、もしも「ワカタケル」が雄略天皇なら、謎の四世紀からわずか百年で東国に勢力を伸ばしていたことになる。その場合、畿内勢力はかなり早い段階から成熟していた――邪馬台国は畿内にあった――ことの傍証になるというわけだ。はたして、どちらが正しいのだろうか。

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どうだろうか? もし、読者が上記の小節を読んで、何等疑問を感じなかったのであれば、以降の拙記事に目を通す前に、『卑弥呼の正体』(山形明郷 三五館)を熟読していただきたいと思う。

ちなみに、『天皇の謎』を著したのは歴史雑学探究倶楽部という所のようだが、雑学の名が示すとおり実に雑な内容、出鱈目のオンパレードである。上の小節「謎の四世紀をめぐって」に目を通しただけでも、卑弥呼が日本列島に居たと思い込んでいる、倭が日本列島にあったと頭から信じ切っているといった具合で、目も当てられないとはこのことだと思った。もし、歴史雑学探究倶楽部のように、倭が日本列島にあったと思い込んでいる読者がいたとしたら、上に紹介した『卑弥呼の正体』の第九章、「倭はどこだったのか」の熟読をお勧めする。

ともあれ、『天皇家の謎』では日本の四世紀は謎であると主張しているのだが、とんでもないことである。そのあたりは、次稿以降において敷衍していくとして、「応神天皇の秘密」シリーズを開始する理由の一つが、この機会に、従来の教科書的な日本史を乗り越えて欲しいからだ。

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応神天皇の秘密(1)
大阪府羽曳野市に位置する応神天皇陵、飯山一郎さんや堺市の同志と一緒に訪れたのは、前日は紀伊田辺に泊まり(「南方熊楠の世界(1)」参照)、翌朝の特急に乗って堺市に到着した3月3日(土)だった。そして翌日に跨がること2日間、応神天皇を中心テーマとした、興味深い歴史の講義を飯山さんから受けたのだが、実に衝撃的な内容であった。だから、一刻も早く放知技の読者に報告したかったのだが、その直前に訪れた紀伊田辺でも多くの出来事を体験したこともあり、最初に南方熊楠シリーズを書いたのと、仕事(翻訳)の納期に連日のように追われていたのとで、なかなか「応神天皇の秘密」シリーズに筆が進まなかった。しかし、昨日今日に至って漸く仕事が一段落、応神天皇シリーズに取り組むことができるようになった次第だ。

さて、本シリーズでは幾本かの記事を書く予定だが、初回の今回は両日とった行動のあらましを述べておこう。

■3月3日(土)
飯山さん一行は志布志と堺を結ぶフェリー「さんふらわあ」で、前日の3月2日18:30に志布志を発ち、翌日3月3日午前8時50分に大阪に到着、その足で宿泊先のホテルに直行している。だから、到着したばかりの飯山さん一行が、ホテルのロビーで寛いでいた時、亀さんも同ホテルに到着した形だ。そして挨拶もそこそこに、早速、飯山さんによる応神天皇を中心とした、飯山史観の講義がスタートしたのだが、その日に飛び出した飯山史観については次稿以降に書く。

その後、堺市役所の展望台に向かい、眼下に仁徳天皇陵を眺めつつ、再び飯山さんの講義が続いた。本来は同展望台で昼食会のはずが、参加者からの質問が相次いだため、「一日一食の猛者ばかりなのだから、昼飯くらい抜いても大丈夫だろう」という飯山さんの鶴の一声で、同展望台での昼食は急遽中止、急ぎ車に分乗して応神天皇陵へと向かった。(後で聞いた話だが、参加者の一人「舎弟のもっちゃん」は一日三食主義だったようで、大変な思いをしたらしい…笑)

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百舌鳥古墳群をめぐって活発な議論が交わされた

到着後、最初に応神天皇の御霊に二礼二拍一礼した後、神主さん親子の説明を受け、続いて宮内庁管轄の応神天皇陵に案内していただき、ほぼ全員が生まれて初めて、応神天皇陵の一部を目の当たりにした。なかでも猿都瑠さんの場合、実に思うところ大だったようだ。

その後は全員で堺市に戻り、夕食会。最初は話者の中心が飯山さんだったのだが、次第に堺市役所の展望台で合流したYさんが話のリードを握るようになった。やがて、話(酒?)の勢いで全員でYさん宅に押しかることになり、そこで二次会と相成る。その後はホテルに戻り、堺のおっさんの部屋で飯山さんをはじめ皆さんが集合、深夜まで話が続いたというが、亀さんは紀伊田辺での疲れが溜まっていた上、珍しく当日は酔ったこともあって、残念ながら顔を出していない。

■3月4日(日)
翌日の3月4日、ホテルのロビーに再び集合。飯山さんによる講義が暫く続いた後、堺のおっさんから今後の乳酸菌事業の詳しい説明があった。その後は再び車に分乗して、大阪は難波へと向かた。今思い出すに、活気に満ちあふれた難波を肌で感じるという、滅多にない機会となった。

昼食に鯨料理専門店「徳家」で、美味しい鯨料理に舌鼓を打ちつつ、さらに楽しい会話が弾んだ。ふと腕時計を見ると、もう夕方の5時半、皆さんへの別れの挨拶もそこそこに、急ぎ新大阪駅の新幹線のホームへ向かってダッシュ、辛うじて終電数本前の電車で関東のチベット、飯能に戻ることができた。

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次稿より、いよいよ飯山さんが堺市で語ってくれた、応神天皇の秘密に迫る話に筆を進めることにしよう。

南方熊楠の世界(4)
■エコロジーと乳酸菌
今回をもって南方熊楠シリーズの最終回とするが、この機会に鶴見和子の著した『南方熊楠』の最終節を紹介しておこう。

iv 自然の循環の法則をとりいれた新しい技術の開拓をめざす
南方植物研究所は実現しなかった。しかし、南方が、栽培した藻から寒天を作り、寒天によってバクテリアを培養し、バクテリアによって空中の窒素を分離するというアイディアは、自然然循環の法則を、人間がとりいれて、技術化するという考えである。これは、自然を人間が、人工の法則によって支配するという原理にもとづく機械文明の技術観と異る。自然支配の技術観が、公害を生み出し、自然環境を破壊することによって、人間そのものを崩壊させている今日の地球上の状況対して南方の自然と共生するという考えは、未来を先取りしていたということができる。

南方熊楠を、近代日本の独創的な思想家として、わたしは評価する。この本は、その発端を示しただけである。読者のとりひとりが、南方の原典を読み、そこに流れる思想の水脈を掘りあてていただきたい。今、日本で起こっている、そして地球上で起こっている、人間の問題を解き放つ水路を開くために、尽きせぬ泉がそこにあるとわたしは考える。

p.241


最終節で注目していただきたいのは、「今、日本で起こっている、そして地球上で起こっている、人間の問題を解き放つ水路を開くために、尽きせぬ泉がそこにある」という結語だ。何故なら、この鶴見の結語は、今や大きく時代が動こうとしている現在と、多くの点で重なってくるからだ。そのあたりは、掲示板「放知技」でも話題になった、「第52回国家公務員合同初任研修開講式」での安倍総理の訓示に耳を傾ければ、肌で感じることができるはずだ。

加えて、「南方の自然と共生するという考えは、未来を先取りしていた」という鶴見の記述、この南方のエコロジー観こそ、鶴見の『南方熊楠』を貫いている南方思想なのだが、この南方思想を具現化した一例が、飯山一郎さんが提唱している乳酸菌である。乳酸菌については、飯山さんのHPの読者であれば説明は不要と思うが、乳酸菌が近未来に大きくブレークすることを予感させる記事を、野崎晃市博士の『文殊菩薩』から一本だけ紹介しておこう。
大連の食品加工業者と会合

また、3月4日の堺市での会合でも、飯山さんと堺のおっさんから、乳酸菌を主体とした今後の事業展開についての貴重な話を伺っている。

このように、乳酸菌一つとっても無限のフロンティアが目の前に広がっているのだが、乳酸菌やAIだけに限らず、新時代を切り拓いていく上でキーとなるのが人材である。前稿「南方熊楠の世界(3)」で、現代日本人のタイプを亀さんは以下のように分けた。

国粋派
コスモポリタン派
脱藩派


同稿では脱藩派について少し触れただけであり、また国粋派とコスモポリタン派に至っては解説すら行っていないので、この機会に今までの亀さんの歩みと重ね合わせる形で、上記三タイプの人間型について敷衍しておこう。

■コスモポリタン派
「南方熊楠の世界(3)」にも書いたとおり、亀さんの脱藩人としての修行は、十代という多感な時期に日本を飛び立った日、1972年3月23日に始まった。その後、多感な時期を三年近くにわたり海外で過ごしたことで、「己れを生み育んでくれた祖国を思う一方で、相手の国籍や肌の色に拘ることなく、お互いに同じ人間として自然に接することができる」という、脱藩人としての土台が辛うじて完成したのである。

ここで、三省堂の大辞林(電子版)は「コスモポリタン」について、どう定義しているのか確認しておこう。

一つの国や民族にとらわれず、全世界を自国として考え、生活する人。世界市民。国際人。


一見、脱藩派の定義かと勘違いしそうな定義である。それはともかく、そもそも大辞林が定義するような「全世界を自国として考え、生活する」人間が、本当に存在するのだろうか…。大辞林の「コスモポリタン」の定義、言葉の響きこそ心地よいものの、実は根無し草と紙一重、否、はっきり言ってしまえば根無し草そのものを指しているに過ぎない。

このあたりをもう少し具体的に、言葉の観点から考察してみよう。亀さんが私淑していた故國弘正雄の話を、拙稿「和僑」に書いたことがある。

ここで、人の思考行動形式を支配している根源的なもの、それはその人の母語であると亀さんは思っている。そのあたりを教えてくれたのが、同時通訳の泰斗・故國弘正雄であった。國弘先生の資料が見つからないので朧気な記憶で書くが、「人の生涯の母語は小学校2~3年生ころまでに決まり、その年齢を過ぎると後はどんなに努力してもバイリンガルには成るのかせいぜいで、一部の天才を除き、絶対にバイカルチャーには成れない」というものである。これは亀さんの体験からもその通りだと思う。英語と日本語のバイリンガル、時には数ヶ国語を自由に操る知人友人には数多く出会ったものの、未だにバイカルチャーの人間と出会ったことはない。


「人の思考行動形式を支配している根源的なもの」こそが母語なのであり、別の表現を使うとすれば、子守歌を聞きながら自然に身につけた言葉こそ、母語と云えるのである。こうした視点を持つ身として、「一つの国や民族にとらわれない」だの、「全世界を自国として考え、生活する」だのといったのは、単なる根無し草の戯れ言にしか映らないのである。

かつて、亀さんは道友の葛巻岳さんと一緒に、「脱藩道場」を立ち上げたことがあり、この「脱藩」という看板名は、藤原肇氏の著した『日本脱藩のすすめ』から来ている。因みに、『日本脱藩のすすめ』は以下で読むことができる。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/library/dappan/dappan.html

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このページは、亀さんが『日本脱藩のすすめ』をOCRで読み取って電子データにしたものだ。この作業を行ったのは20年前のことで、当時の亀さんは「国粋主義者vs.コスモポリタン」という構図しか頭に無かったのだが、同書のお陰で、第三の「脱藩人」という概念を獲得できたことは、今思うに大きかった。

しかし、当時の亀さんはコスモポリタンと脱藩人の区別が余り明確ではなかったのも本当だ。たとえば、あのジョージ・ソロス。当時の亀さんは、ソロスと言えば超金持ちの投資家ていどにしか思っていなかったのである。だから、小人数での会合で藤原氏が、「ジョージ・ソロスからメールで返信をもらった」と、自慢げに携帯でソロスの私信を見せてくれた時は、「あの有名なソロスから…、大したものだ!」と、大変感心した己れを今でも覚えている…。

■国粋派
その藤原氏と喧嘩別れをした頃、藤原氏を通じて付き合いの始まった栗原茂さんに、『みち』の編集人・天童竺丸さんに引き合わせてもらったという次第である。同編集室に集う人たちは、コスモポリタンとは対極的な立場の人たちで、己れを生み育んでくれた祖国をこよなく愛する、国粋主義傾向の強い人たちであった。ここで再び三省堂の大辞林を紐解けば、国粋派すなわち「国粋主義」について以下のように定義している。

自国民および自国の文化・伝統を他国より優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方。


『みち』の編集室で月に一回行われる「まほろば会」には、月刊日本の関係者も参加しており、それが縁で同誌の定期購読を始めている。当時の同誌はまさに、国粋主義を地で行く雑誌だったし、自分の知らなかった祖国日本の姿について、実に多くを学んだものである。

しかし、時間の経過とともに『月刊日本』と『みち』の限界が見えるようになってきたのも確かだ。たとえば『月刊日本』、既に拙ブログでも記事にしたとおり、今や同誌は完全なネオコン誌に転向した雑誌である。一方、『月刊日本』の関係者が参加する『みち』の場合はどうか? 今のところあからさまなネオコン路線に染まっていないし、個人的に同誌の校正のお手伝いもしている上、人間的に温かい人たちが多いことから、当面はお付き合いを続けさせていただくつもりだが、コスモポリタン派vs.国粋派というモノサシで分けるとすれば、明らかに『みち』も国粋主義的な傾向の強い雑誌であることは確かである。

たとえば、一昨年の秋に中国の青州市を訪問、帰国して久方ぶりにまほろば会に顔を出した時、常連の一人に、「あっ、支那の臭いがする」と声高に言われた時は、ただただ苦笑するしかなかった。『みち』の執筆者も一部を除き、全員が中国ではなく支那と言ったり書いたりしているのだが、これは表現(言論)の自由であり、亀さんは全く気にもしていない。ただ、拙稿「青州で思ふ(7)」にも書いた、毛允明社長や張苓明氏の人物を目の当たりにしている身として、中国人が嫌がっている支那という言葉を口にすることは、今後もないだろう。仮にお二人の前で支那という言葉を口にすれば、それまでに築いてきた良好な関係は、一瞬にして水泡に帰す。

■脱藩派
以上から、現代日本人、殊に新時代の日本を背負う、若い日本人の理想像は脱藩人である。だから、一人でも多くの若い日本人の脱藩人を輩出させることに、残り少ない冥途までの人生を懸けたいと、心から思う今日この頃である。

南方熊楠の世界(3)
■南方熊楠と柳田國男
鶴見和子の『南方熊楠』に目を通して、気づいたことがある。それは、南方熊楠と対比する形で、柳田國男を引き合いに出していることだ。そして、鶴見は柳田よりも、南方の生き様に惹かれているのが分かるのである。そのあたりを如実に物語っている、鶴見の記述を幾つか引用しておこう。

しかし、神社合祀反対をめぐる二人(南方熊楠と柳田國男)の往復書簡は、この二人の相違をしだいに大きくさせ、「いきさつ」がなくても、疎遠になったかもしれないと私には思われる。

第一に、「地域」または「地方」に対する双方の感覚の差である。

南方は、定住者の立場から、地域を見た。柳田は、農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た。南方は、地方にいて地方から中央を見、柳田は中央にいて中央から地方を見たともいえる。

第二に、南方は、世界の、そして地球の一部としての、地域(エコロジーの単位)を考えたのに対して、柳田は、日本国の一部としての地域(政治的単位)を考えた。

第三に神社合祀反対運動において、南方が、地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていったのに対して、柳田は正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した。

第四に、南方が、外国の学者へも傲をとばして、国外の世論を結集しようとしたのに対して、柳田は、そのような行為は国辱を外にさらすものだと激しく反対した。南方は、今日のことばでいえば、国をこえた民際交流を射程に入れていたのである。柳田はこのことに関して、日本国家の外に出ることができなかった。

第五に、柳田は「常民」を造語し、それをかれの民俗学の中心においた(鶴見、『漂泊と定住と』、88~90ぺージ。色川、『柳田国男』、34~39ぺージ参照)。

南方は集合名詞として人々をとらえなかった。あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた。
p.156~157


谷川健一は、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかったことである。……南方の学問の魅力は、知識を統制したり制限したりしないことである。そこには全エネルギーの躍動と奔騰がみられる。すなわち、床の上にばらまかれた燠のような彼の知識をとおして、人間とは何かという質問に私たちは直参し得る。その問いは泰西模倣の学に甘んじなかった柳田がついに答えなかったものであり、南方は不十分ながら答えているのである。
p.197


南方は、一方で多系的発展をみとめた点で、当時西欧で支配的であった進歩史観を超えており、他方で近代社会の基層に、原始、古代心性が存在することの普遍性を喝破したことにおいて、柳田を超える。
p.201


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殊に、上に挙げた二番目の記述、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかった」という行を目にして、アッと思った。

つまり、柳田は「日本人とは何かという問いに終始」していたという、谷川健一の柳田評を何故に鶴見が敢えて取り上げたのかと、あれこれ考える自分を忽然意識した時、はっと驚いたのである。南方も鶴見も、十代から二十代の前半にかけ、一年以上の長期にわたる海外生活を体験しているではないか…。

南方や鶴見同様、亀さんも十代の頃に日本を飛び出し、三年近くにわたる海外放浪を体験しているが、そうした多感な十代から二十代前半にかけ、我が身を日本の外に置いて初めて身につくもの、所謂〝(国際)感覚〟とでも云うべきものがあり、その〝感覚〟が身についている者でなければ、到底理解し得ないものだと気づいたのである。

この〝感覚〟というもの、言葉で表現するのは難しいのだが、「人類皆兄弟」という〝感覚〟とでも云えようか…。これは、ほとんど日本列島を離れたことがない人たち、あるいは長期の海外生活を体験したとしても、中年以降に体験してる人たちには、恐らくは頭では理解できるにしても、到底肚では理解し得ない類いの〝感覚〟だとしか言いようがない。

今にして思えば、亀さんが相手の国籍や肌の色に拘ることなく、同じ人間として付き合うことに何等違和感が無い理由も頷けるのだ。だから、「長期の海外生活の後、あなたの人生の方向性というものが、大きく決定づけられたのではありませんか?」と、紀伊田辺にある南方熊楠邸の庭で暫し語り合った、南方熊楠の血縁者だという婦人に指摘された時、ハッとしたのだった。そして、多感な時期に長期の海外生活を体験した者にしか身につけようのない、ある種の〝感覚〟の正体を、朧気ながらも掴めたような気がしたのだ。だからこそ、表層的(頭)にではなく心の奥底(肚)で、南方熊楠の生き様に共鳴し、その南方について書く鶴見にも共鳴できたのだと、今にして思う。

かつて亀さんは、現代日本人を三通りに分類してみたことがある。

国粋派
コスモポリタン派
脱藩派


亀さん自身は三番目の脱藩派に最も近いと思っているし、「バイカルチャーという性向を持ち、己れを生み育んでくれた祖国を思う一方で、相手の国籍や肌の色に拘ることなく、お互いに同じ人間として自然に接することができる」真の脱藩派人間を目指し、生涯を終えたいと思った。

【グリコのおまけ】
今夏、アルゼンチンに一ヶ月滞在するが、親友のホルヘから漸くメールが届いた。どうやら、仕事で隣国のチリに出かけていたようだ。メールには以下のようなことが書いてあった。

… my mother, Isolina is now 91 years old, she is fine and will be so happy to see you again.

…中略…

So happy to see you again!!!!


1972年、ホルヘの自宅に亀さんは泊めていただき、二年後の1974年にホルヘが亀さん宅をご両親を連れて訪問している。残念ながら、当時の亀さんはサンフランシスコに居たので、その場に居合わせることはできなかったのだが…。

ともあれ、「So happy to see you again!!!!」にはグッと来た、有り難うな、ホルヘ…。現地では大いに酒を酌み交わそうぜ。

以下の拙稿に載せた写真に、ホルヘの御母堂Isolinaが写っている。これは1972年の写真だから、あれから46年もの月日が流れたわけだ。まさに、光陰矢の如し…。
思い出のアルゼンチン 2