前稿「思い出のアルゼンチン 2」では、ブエノスアイレスの思い出を書いたが、今回はマル・デル・プラタの友人宅に一週間ほど滞在した時の思い出や、一路西に向かって南米のアルプス、バリローチェまでヒッチハイクした時の思い出を少しだけ書いておこう。

マル・デル・プラタは、ブエノスアイレスの南西390kmにある、人口が50万人を超える都市だ。そして、ここでも友人の両親が経営する牧場で一泊させてもらっている。最も強く印象に残ったのは、花を栽培している日本人一家と会った時で、「寅さんのことば 4」に亀さんは以下のように書いた。
首都ブエノスアイレスを南下した処にある港町、マル・デル・プラタの友人宅を訪問した時、日本人一家が花を栽培しているということで、その友人と一緒に訪問したことがある。その日本人一家はビニールハウスの一角に住んでいた。床板は無く、土がむき出しだった。40歳は過ぎたと思われる初老の農夫に、「長年日本に帰っていないとのことですが、帰りたいとは思わないのですか?」と、何気なく尋ねたところ、帰ってきた言葉が、「帰りたいけど、金が無い」だった。会話が途切れ、しばらく気まずい沈黙が流れたのを今でも覚えている。
その後も南米各国に根を張った大勢の日系人に会っており、『蒼茫』を著した石川達三と会っている人生の先輩、玉井禮一朗さんもブラジルに長年住んでいた体験を持つ。そのあたりは「見捨てられる自主避難者」でも少し触れた。
戦前、国の棄民政策により大勢の日本人家族が地球の裏側の南米に移住したが、彼らが現地で大変な苦労を重ねたことは周知の事実である。そうした日本人の一人に石川達三がいた。帰国後、石川は体験記を『蒼茫』として発表、後に同作品で第一回芥川賞を受賞している。
 石川達三(左)と玉井禮一郎(右)
ちなみに、南米日系人に関する他の記事として、「移民の国に咲いた花」や「海を渡った移民たち」といった記事も書いているので、関心のある読者に一読してもらえたら幸いだ。
さて、マル・デル・プラタを発って、一路アンデス山脈の麓バリローチェを目指したが、その道中でも実に多くの出会いがあった。なかでも印象に残るのは、ある田舎町でティントレリア(tintoreria 洗濯屋)を営む、日本人の移住者の店に一泊させてもらった時で、美味しい夕食をご馳走になりながら、多くを語り合った。店主は印象として亀さんよりも15~20歳上、三十代後半から四十代前半の年齢だったと思う。突然現れた無銭旅行者の亀さんに嫌な顔一つせず、温かくもてなしてくれたのである。人柄だろうか、店主の語る言葉の端々に、謙虚さ、道徳心の高さを感じた。
ここまで書いて、「青州へ赴く(9)」で紹介した『StarPeople』秋号の記事を思い出した。
日本人の道徳哲学は世界一!
さて、〝新日本国〟の国民になるには、心構えが必要です。その心構えとは「大胆細心」。大胆で柔軟な発想と、細やかな心づかいが絶対に必要であるということです。〝新日本国〟の国民には、キビキビと働き、話し、人には明るく礼儀正しく接することが求められます。優しい心と思いやり溢れる心が大切だということです。また、少食粗食など禁欲的で勤勉な生活を楽しく過ごす前向き思考も求められます。リーダーの指示には素直に従い、不平不満を口や顔に出さないことも肝に命じなければなりません。以上は、日本人の特長でもあり、そのまま「新日本人の条件」にもなります。郷に行ったら郷に従い、中国人の生活文化を深く理解しようとする氣持ちを忘れず、好き嫌いを言わず、まずはどんな食べ物でも食べてみる度胸も必要です。その度胸がない日本人が多いのですが、ヤルっきゃない! なぜなら、大切な日本の子どもたちに〝日本〟を引き継いでもらうためなのですから。 『StarPeople』秋号 p.79
記事に、「キビキビと働き、話し、人には明るく礼儀正しく接することが求められます。優しい心と思いやり溢れる心が大切」とあるが、まさにあの洗濯屋(クリーニング店)の店主を彷彿させるものがある。残念なことに、店主の写真は一枚も残っていないのだが、亀さんの記憶ではフランク永井の若い頃によく似ていた。ともあれ、いろいろな人たちとの出会いを楽しみつつ、どうにかこうにかバリローチェに辿り着いたのである。
 フランク永井
バリローチェで数泊した後、アルゼンチンとチリの間を南北に走るアンデス山脈を、バスと船で数日かけて越えているが、そのあたりは「今東光とアルゼンチン」に書いたので割愛したい。
 マル・デル・プラタでお世話になった一家(左)・一家の経営する牧場で(右)
 ヒッチハイクの途中で遭遇した牛の群れとガウチョ(左)・車に乗せてもらった運転手の家族
 バリローチェでスキーを楽しむ亀さん(?)・新婚旅行中の夫婦と(右)
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