半年前に「日本の最高機密」と題する記事をアップ、当時は未だ〝健在〟だったリテラや新井信介氏の記事を紹介しているが、それから半年しが経っていないというのに、リテラや新井信介氏の劣化ぶりは目を覆うものがある…。亀さんは同記事の中で以下のように書いた。
最後に今後のナリオだが、日本の人口激減が本当であったことを思い知らされる日を迎え、国中がパニックになるか(国家の崩壊)、(知人友人がバタバタと逝き)気がついたら周囲に誰も居なくなったという日を迎えるか(国家の臨終)、いずれかと思うべし。
今までは後者の国家の臨終、すなわち〝静かな死〟を日本は迎えようとしている気配が濃厚であった。ところが、その後になって状況が変化したのである。すなわち、飯山一郎さんのHP記事「安倍首相が4月27にモスクワ訪問! 」にもあるように、日本の運命を左右しかねないフクイチ問題、ここに至って一条の光を見いだせるようになったのだ。
さて、ここで少し横道に逸れるが、掲示板「放知技」の常連の一人である、疲れ人さんの投稿に注目されたい。
 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16090538/24/
このシンクロニシティで思い出したのが、故宍戸幸輔さんである。翁の事務所や自宅には幾度かお邪魔しており、多くを語り合っているが、ニューサイエンス、すなわち精神世界がテーマになったことが多く、そうした話題の一つがシンクロニシティであった。そうした流れの中、翁にシンクロニシティの本を薦められ、亀さんは購入している。

同書の内容だが、何分にも15年も前に目を通した本であり、どのようなことが書かれてあったのか、記憶が曖昧になっていたので、アマゾンのカスタマーレビューに目を通し、漸く思い出すことができた。そして、翁とシンクロニシティについて語り合った時は、以下のアマゾンのカスタマーレビューにもあるように、テレパシーといった超心理学や心霊現象などについて、多くを語り合っていたのも同時に思い出したのである。

ここで、アマゾンのカスタマーレビューにある「他者との人生の一致」、これは疲れ人さんが仰せの「集団発狂のシンクロニシティ」と、何処かで通じるものがありそうだ。だが、今回はシンクロニシティについてあまり深入りはせずに、このあたりで止めておく。
さて、冒頭でリテラや新井信介氏が劣化したと書いたが、リテラの場合、拙稿「変わったのは…」でも書いた通り、今も昔も基本的には何も変わっていない点を指摘しておこう。同記事にも書いたとおり、大きく変わったのは亀さんの方なのだ。同様に、掲示板「放知技」の飯山一郎さんをはじめ、多くの常連さんの安倍晋三像も劇的に変わったのである。
副島隆彦、植草一秀、ネットゲリラ、カレイドスコープ、山崎行太郎といった〝識者〟らは、飯山さんに接するという機会に恵まれることもなかったので、大転換期という時代の本流に取り残されてしまったのは仕方がない。しかし、飯山さんとスカイプで何度も語り合ったという新井氏の場合、どうして自身の安倍晋三観が変わらないのか…。折角、誰も気づかなかった安倍晋三像を、飯山さんが明示してくれたというのに …。ここで脳裏に浮かんだのは、マキャベリのヴィルトゥとフォルトゥナである。これらを強いて日本語に訳すとすれば、力量(ヴィルトゥ)、そして運(フォルトゥナ)あたりになるのでないだろうか。新井氏の場合、飯山さんの知遇を得るという運(フォルトゥナ)には恵まれていたが、今までの安倍晋三像から抜け出せなかったのも、新井氏がルサンチマンという状態にあったこと、放射能の影響が多少出てきたということ以外に、マキャベリが言うところの〝力量〟に欠けていたため、飯山さんが示す安倍晋三の人物への理解が至らなかったのだ、ということが容易に想像できるのである。
ヴィルトゥとフォルトゥナ さて、共和国の官僚であったマキアヴェリにとって、原理的には正しいソデリーニ政権がなぜ挫折し崩壊したかという問題がある。この解決として、彼は政治制度そのものよりも、それの背後にある精神に問趣があるという結論に達した。そしてこの考えを提示するために、有名なヴィルトゥという語彙を使用した。彼の二つの著書のなかで、このことばは多面的な性格をそなえていて、いちがいに統一した訳語では表現できない。某本的には、ラテン語のVirtusのイタリア語化であり、人間に大事業を達成せしめるような、人間の根本的な性格を示すものである。ことばをかえれば、すべての人間行動がそこから起こる力とか活力をさす。したがってマキアヴュリにとって、政治的な成功の裏づけは、その理論の正しさ、知恵の使い方などによるのではなく、集中された意志力、内からわきあがる「理屈をこえた」洞察にあるということになる。すなわち、それまで共利国の限界のなかで模索していた彼が、その活路として、一種の非合理な(といっても悪い意味ではなく)、そして精神主義的なものへ移っていくのである。 ヴィルトゥは政治指導にはなくてはならぬものだった。軍隊の長であろうと、国家の責任者であろうと、ヴィルトゥを必要とした。しかし、彼によれば、ヴィルトゥは個人も集団もともにもちうるものなのである。 しかし、彼にとっては、この精神主義は万能ではない、人間の行為は自然の循環、すなわち運命にしたがわねばならない(『政略論」第二巻第1章』。人間の行為は、その瞬間における情勢に一貫してしばりつけられていることは、マキアヴェリももちろん認めていた.当時の考えでは、人間にある行動を起こさせるように導く力(マキアヴェリはこれを「必要」と表現する)は、あくまでも人問の意志の外にある、どちらかといえば人間に敵対する力として把握していた。つまり運命の前にはどうにもならない、人間がいかにヴィルトゥを発揮しても、どうにもならないというあきらめであった。しかし、彼のなかには、彼の積極的な傾向からする、一種の確信がみられる。どのようなネチェシタがあろうとも、最後の結果は、それに対する人間の対応のしかたにあるのだと考える。彼によれば、完全に絶望的とみなされる情勢はまれにしかない。たいていのばあいは、環境を自分に都合よく変える可能性は人間にある。自然が人間に与えている能力を活用するかぎり、人間は外部の圧力に直面しても希望がある。 このように、事態をコントロールする可能性を人間がそなえているという考え方は、ヴィルトゥとフォルトゥナに関するマキアヴェリ特有の考え方を示すこととなる(『君主論」第25章参照』。マキアヴェリは、ヴィルトゥとフォルトゥナには一種のつりあいがあるのだと考えたのである。 マキアヴェリ以前の人々はフォルトゥナは気まぐれで彼女のお気に入りの人々にのみほほえみかけるものだと考えていた。しかし、マキアヴェリの独創的なこれらの考え方は、以前からの一般の見解を修正した。彼によれば、事態をコントロールする機会は、短い瞬間においてのみ人閲に与えられている。つまり、好ましい情勢をつかみとることこそヴィルトゥなのである。このように好ましい情勢にヴィルトゥを一致させるという考えは、マキアヴェリの政治思想のうちのもっとも菟命的た姿を示すものなのである。この相対主義は、『君主論』の全巻を通じてひろがっていくことになる。ここにおいてヴィルトゥは、観察と選択と果断によって構成されることとなった。 以上のようなヴィルトゥを主体とする政治の理念は、旧来の原理のなかでは解決しえなくなったイタリアの、現状の打開に苦しんだマキアヴュリが、その苦悩の結果たどりついた一種のユートピアであった。 貴族化してゆきづまっていた旧来の商人世界の打算から、新しい国際環境のなかにひきずり出されたイタリアに、マキアヴェリの思索は集中された。彼の思想の意味は、旧来の打算から一歩ぬけ出ようとした努力のなかにこそ見いだされるのである。そしてこのことから、『君主論』と『政略論』の目的としていた点を知ることができると思う。
『世界の名著』(中央公論社)の第16巻『マキアヴェリ』p.38~40
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