最近の飯山一郎さんの掲示板「放知技」で爽やかな印象を残したのは、「今は浦島の玉手箱スレ」と題するスレッドを立ち上げた今は浦島氏だ。今は浦島氏は同スレッドのNo.12の発言で明確に落合史観を否定しており、その今は浦島氏と飯山一郎さんとの間で交わされた、天皇についてのやり取りは大変見応えのある内容であった。多分、それが以下の飯山さんの投稿に結びついたのではないか…。 ◆2015/09/08(火) 「日本」という国名の由来を簡明に明かす!
飯山さんとの一連のやり取りを終えた今は浦島氏は、以下No.15の投稿を行っているが、文は人なりとあるように、今は浦島氏の人物の大きさが良く分かる優れた投稿である。
15:今は浦島:
2015/09/09 (Wed) 07:09:12 host:*.bbexcite.jp 飯山さんの屈折した心情に理解。 こうした方にお目にかかったのは、初めてです。 良い勉強をさせて頂きました。 人間、寄り添って見ないと解らないものです。
さて、飯山さんと今は浦島氏の一連のやりとりに目を通した後、落合莞爾さんに連絡を取り、飯山さんの2015/09/08(火)の記事と、新井信介氏の以下の記事を、それぞれWordに纏め、送信した上で落合さんの感想をお願いした。 不比等は、ヘブライ(新旧聖書)も、史記・淮南子などの漢文史書も、縄文も知っていた。
そして届いた落合さんの不比等観が以下である。再来週の9月20日(日)、都内で行われる講演会の資料の一部とのことであり、ご本人の承諾を得た上で公開する。今回の落合さんの講演会は時間的な制限から、南北朝から堀川政略の成立あたりまが主体になるものとばかり思っていたのだが、ナントさらに時代を遡って不比等に纏わる国の肇まりにも及ぶことを知り、驚いた次第である。ともあれ、以下は「岸和田ワンワールド」について言及した玉稿であり、本邦初公開となる。
藤原鎌足・不比等・橘氏・北家の背景 539年に始まる欽明王朝は大陸的な律令国家運営のための人材を、大陸に在住するワンワールド(国際秘密勢力連合)の参謀から探すことになります。そこで選ばれたのが中臣鎌足と藤原不比等です。基本的には、明治維新のために小栗忠順・桂小五郎・伊達宗光を(親の代から)欧州大塔宮家から入れたのと同じことです。
幕末では欧州大塔宮家から人材を入れましたが、欽明王朝では、ウバイド・シュメル時代に東西に分岐したワンワールドの大陸騎馬勢力から入れたのは、日本の海人王朝が騎馬系勢力に対抗するためで、海人系大王を天孫系に交替させたのです。
任那に進出して立てた城市国家の任那城(ミマキ)で、扶余系?族中にいたウバイド天孫を父系、安曇海人を母系とする任那天孫族を創設し、その王子イニエをヤマトに招聘して十代崇神とし、入れ替わりに九代開化の弟のヒコフトオシのマコトが満洲羅津にわたり、扶余系狛族から騎馬術を学んで八幡騎兵隊を養成し、狛族中にいたウバイド天孫を父系とし、海人王統を母系とする八幡天孫族を創設します。
崇神王朝で不祥事が生じたため天孫皇統を更新することとなり、八幡天孫を迎えるために仲哀・神功のコンビが活躍し、仲哀が偽装死して羅津に渡り、入れ替わりに八幡天孫ホムダワケを神宮皇后が迎えて帰朝します。
応神が招いた半島在住の秦氏(融通王)が百済120県の技能民を移民させ、応神が持参金として持ち込んだ満洲砂金をファンドとした応神王朝のもとで日本列島経済は高度成長しますが、やがてワンワールドから文化・経済・政治など各方面での国際化を催促され、そのために大伴金村が武烈天皇を操縦し、継体天皇を創って、満洲羅津から招いた八幡天孫の欽明王朝に橋渡しします。
欽明王朝を支えた蘇我氏は、ヒコフトオシのマコトすなわち羅津八幡の子孫で、フトオシ⇒タケシウチの宿禰⇒葛城襲津彦⇒蘇我石川麻呂⇒韓子⇒高麗⇒稲目⇒馬子と直系相続した羅津八幡の同族で、一部が羅津でフトオシ子孫に仕えて満洲蘇我氏となり、ヤマト蘇我氏との連絡に当ります。
ヤマト蘇我氏では、任那天孫の母から生まれたため、その名も蘇我韓子が、新羅征伐に出征した際、僚将紀大磐との八百長芝居で偽装死して羅津にわたり、羅津八幡系あるいは八幡天孫の娘に産ませたため、その名も蘇我高麗が帰国子女となり、高麗⇒稲目⇒馬子となり、欽明王朝を支える役回りになります。
以上を理解せぬ断片的な憶測を重ねるばかりの日本史を、ここらで、聖徳太子の創られた正史の軌道に戻さねばなりません。以下は、鎌足・不比等・橘氏および藤原北家についての正史を箇条書きで述べます。ちなみに全体の主体は「國體天皇」です。
(1)藤原不比等の来源は未詳ですが、ローマがアレキサンドリア図書館を破壊した際、奪った図書を用いて歴史研究を行なった勢力に不比等が属することは、その盛んに用いた「古代エジプト的偽史技術=家系接合」から推測されるようです。その背景はワンワールド(国際秘密勢力連合)であることは間違いありません。
(2)古代エジプト史学を心得たものが漢字文化圏に入り、漢学(史書・律令)の知識を蓄えて、律令制導入の日本の政体を担うために有能外人を招聘したことは、間違いありません(まあゴーンのようなものか)。
(3)誰にせよ、政体を担わせるためには外戚資格を与えねばならず、縄文系に限られる外戚資格の筆頭は春日小野氏ですから、春日小野氏を橘氏にシフトさせます。具体的には敏達天皇(在位572~585)と春日老女子との間の難波皇子(560頃出生)から始まる敏達系皇統を創り、のちの皇別橘氏の準備をします。難波皇子から栗隈王(母未詳)がうまれ、栗隈王から美努王(母未詳)が生まれ、県犬養三千代との間の葛城王・佐為王が皇別橘氏の家祖となります。
(4)614年生まれの中臣鎌足は五六歳頃に斑鳩に住み、法隆寺の夢殿で聖徳太子にしばしば拝謁しています(四天王寺の「未然本紀」による)
(5)不比等が鎌足の子として659年に生まれ、田辺史大隅に養われ、史(不比等と改称)と名乗ります。母や養親の姓を名乗るのが慣習です。
(6)県犬養三千代の工作で、紀州海人の女宮子が賀茂氏を称して不比等の養女となり、697年に文武天皇夫人となり701年に産んだただ一人の男子首皇子が聖武天皇になります。697年ころに牟婁女王を生んだ三千代は、美努王と生別して藤原不比等の後妻になり、701年に光明皇后を生みます。
(7)光明皇后は実は和泉国茅渟県の海人族県犬養氏の娘で、聖武天皇の母宮子姫の正体も同様な海人タチバナ族で、この縁組は海人系の血を濃くするためのセットです。
(8)元明天皇が、708年に藤原不比等の妻の県犬養三千代(個人)に神別橘氏を賜姓し、橘宿禰とします。
(9)不比等の次男房前の正室の牟婁女王は714年から生んだ永手・真楯・御楯が藤原北家となり、真楯の子だけが最終的に残り五摂家以下の律令官職を独占します。すなわち藤原北家は不比等と三千代の藤橘合弁家系なのです。
(10)三千代薨去三年後の736年に、葛城王・佐為王が橘姓を継ぐことを許されて橘諸兄・橘佐為となり皇別橘氏が生まれます。以上
落合さんの上記の玉稿を読み、一点だけ腑に落ちない点があったので、亀さんはズバリ問い合わせてみた。
「不比等は個人名ではなく、複数の人たち、即ち組織名のようなものだ」と、京都皇統の一人が仰せになったことがあります。だから、落合さんや新井(信介)氏が、不比等を個人名と捉えているのが今一理解できませんでした。もし、このあたりの落合さんの見解を講演会の日にお聞かせ戴ければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。
すると、間髪を入れず以下のような回答が届いた。(原文のまま)
行政・作史集団としての存在が「田辺史フヒト」に入って頭となった国際的人材の個 人名が不比等フヒト
なお、田辺氏は紀州熊野の田辺氏がミマキに進出した帰国子女
う~ん、深い…。9月20日に行われる落合さんの講演会、これは面黒いものになりそうだ…。
最後に、飯山さんが2015/09/08(火)の記事で述べている、遣唐使を巡る話について落合さんは反対のようである。ご本人から書いても構わないということで、以下にそのまま書こう。
聖徳太子が隋に対等の礼を以て接したのは、騎馬系の任那天孫・八幡天孫を皇統にし たからである」との私見を飯山説にぶつけてくれて善いよ。
飯山さんと今は浦島氏のやりとりを叩き台に、落合さんに色々と問い合わせたが、やはりポイントの一つが『日本書紀』であると思うに至ったので、一昔前になるが旧ブログに書いた『日本書紀』についての記事を読み直してみた。しかし、自分でもかなり勘違いしている行が多々あり、恥ずかしい。
『日本書紀』 『聖徳太子と日本人』 『覇王不比等』 『役小角』
  
今日行われる新井信介氏の「聖徳太子・タルドゥの研究発表会」、大変興味深いのだが仕事の締め切りが間に合わなくなるので断念せざるを得ない。新井氏がキルギスに移住する前に、一度挨拶を交わすことができればと願っている。
それから、9月20日に行われる落合さんの講演会、亀さんも出席するので拙ブログの読者は遠慮なく声をかけて欲しい。主催者に聞いても良いが、渥美清に似た男(寅さんのような格好ではないが…)を捜した方が早いカモ…(爆)。まだ、多少は席に余裕があるとのことで、希望者は以下の記事を参照に申し込んで欲しい。 本邦初! 落合莞爾講演会
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