
前々稿「プロへの分かれ道」をアップした後、急ぎ残りの『わたしの渡世日記』(下巻)に目を通した。幸い、仕事の締め切りに余裕があったので、時間をかけて読むことができた。
読了後、同書に惹かれたワケをよくよく考えてみたところ、以下のような理由が頭に浮かんだ。
■一人の女優の赤裸々な自伝 『わたしの渡世日記』は、まさに女優・高峰秀子が赤裸々な己れの人生を、自らの筆で綴った自伝であり、内容的に素晴らしいの一言に尽きる。このあたりは、以下の沢木耕太郎の解説を読めば納得いただけよう。
私は高峰秀子の『わたしの渡世日記』を読んでみた。読んで、驚いた。そこに思いかげないほど豊かな世界が存在しているからだ。 ……中略…… 『わたしの渡世日記』の高峰秀子は、日本の女優では例を見ない素直さで、自ら辿ってきた道筋を述べていた。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.388~
■日本映画の黄金期を彷彿 映画「キネマの天地」にも描かれている日本映画の黄金期が、高峰秀子という女優の目を通して見事に再現されている。『わたしの渡世日記』を読む前と読んだ後では、日本映画、殊に黄金期に制作された日本映画に対する見方が、大きく異なってくるはずだ。
■彼我の映画観の違い 映画をプロパガンダとして捉える見方もあるが、一方で映画は民衆の心を知る上で大きな手がかりにもなり得るものだ。このあたりを高峰秀子は以下のように述べた。
アメリカ旅行で私がいちばんショックを受け、羨ましく感じたのは、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク、どこへ行っても、日本映画見本市の映写会場やレセプション会場に、かならず政治家や市長が顔をみせていたことだった。彼らは言った。 「政治をつかさどる私たちにとって、映画は大切な勉強の資料です。なぜなら、映画はよきにつけ悪しきにつけ、その時代を反映する鏡のようなものだからです」と。 その言葉を聞きながら、私は日本の政治家といわれる人々の顔をあれこれと思い出していた。女優という仕事の関係上、私はトップクラスといわれる政治家と対談や座談会などで同席することが少なくない。そんなときの彼らの開口一番のセリフはいつも決まっていて、 「どうも……私は映画には縁がありませんのでねェ……」 そして、その表情の奥にいつも「たかが映画なんか」という薄笑いが浮かぶのを私は見逃さなかった。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.184
■日本民族が生き延びるヒント 今回『わたしの渡世日記』を通読して初めて知ったのだが、高峰秀子は27歳の時に女優の仕事を一時中断し、単身で半年に及ぶパリ生活を体験している。十代の頃に三年間世界放浪の旅を体験した亀さんは、「世界を自分の目で見て、足で回ってみたい」という強い思いから日本を飛び出したわけだが、高峰秀子の場合は5歳の時から一家の〝大黒柱〟として高峰家を支えるため、22年間無我夢中で女優としての仕事を続けてきた。それがある日突然、何もかも捨てて単身パリに渡ったのだった。フランス語も禄に喋れず、馴れない海外生活で相当苦労したと思うが、五十路に入った二十数年後は懐かしい思い出として当時を振り返る高峰秀子、ある意味でフランスでの体験が彼女の心の洗濯となり、帰国してから五十路に突入する二十数年を、再びガムシャラに頑張れたのだと思う。
本小節の主題を「■日本民族が生き延びるヒント」としているが、フクイチのために西日本あるいは近隣諸国へ移住することになった場合の問題とも関連するからだ。しかし、長くなりそうなので別稿で改めて書くことにしたい。
さて、以下は『わたしの渡世日記』(下巻)から特に感銘を受けた数行である。
喜劇役者はよく、ちょっと足りない人間やオッチョコチョイを演じるけれど、喜劇はお涙頂戴の母ものやメロドラマの何層倍もむずかしい。頭で割り出した緻密な演技力が伴わなくては人の心の奥底から笑いをしぼり出すことはできない。アホウがアホウそのままのドタバタ喜劇を演じるならいざ知らず、例えば優れた喜劇俳優である森繁久弥、藤山寛美、渥美清らの演技には、常にピリピリするような神経がゆき届いている。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.130~
→亀さんが寅さんこと渥美清を高く評価する所以が、ここに書いてある…。
人間になるには、俳優になるには、「ものの心」を「人間の心」を知る努力をする以外にはない、と思う。もっと簡単に言うならば「人の痛さが分かる人間」とでもいおうか。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.132
→この行を読み、思わず唸った。高峰秀子は本物だと分かるからだ。現代も本物の映画監督や俳優が数少なからずおり、たとえば「男はつらいよ」の山田洋次監督もそんな一人だ。同監督の優れた新聞記事が、数週間前に東京新聞に掲載されているので、本稿の最後に記事を転載しておこう。落語家の笑福亭鶴瓶も、勇気ある発言を最近行うようになった。 ついに鶴瓶が安保法制と安倍政権にNOを突きつけた!「お前なにをしとんねん!」「変な解釈絶対したらあかん」
一方で、人の心の痛みを分かっていない代表がホリエモンだ(爆)。 今度は障がい者差別? ホリエモンは「冷淡な新自由主義者」ではなくたんに頭が悪いだけなのかもしれない
画家に限ったことではなく、何の仕事にも当てはまることかもしれないが、人間が、生きるために、真剣に、仕事に立ち向かう、ということは、自分自身の生命を、少しずつ、なしくずしに売り渡してゆくということではないかしら? 私は梅ゴジ(亀さん注:梅原龍三郎)の作品を観るたびに彼自身の生命そのものをみるような気がしてならない。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.237
→仕事への取り組み方・その1
・男をみるのは、その仕事ぶりをみるのがなにより確かである。仕事中の男の顔は正直で、ことに撮影現場のような多忙なところでは、長所も短所も無意識のうちにさらけ出される。私から見た川頭義郎と松山善三は、どちらも甲乙をつけがたい優秀な演出助手であり、どちらも美男子であり、二人は親友だ。 『わたしの渡世日記』(下巻)p.320
→仕事への取り組み方・その2


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