安西(正鷹)さんによる「6.シオニズムとキリスト教原理主義者たち」は、大雑把に以下のような内容である。
●米国内で強まるユダヤ批判 ●週末を待望する人々 ●「ラプチャー」(空中提挙)の罠 ●二元論がもたらすストコーマ
以上の諸点について解説した後、安西さんは「6.シオニズムとキリスト教原理主義者たち」について、以下のように結論づけている。
・現代文明では、不幸な歴史をあえて熱望する精神異常者、特に一神教の原理主義者や教条主義者たちが秘密結社を組織して、古来から政治や経済を動かしてきた。そしていまなお隠然たる力を持っている。ユダヤ教のシオニストや、キリスト教の原理主義者や福音派は過激で大胆な方法で預言を実現させようとする。一方、彼らに反対する穏健派勢力は過激派の思想を否定しているように見えて、実は預言を成就させるという目標は一致している。彼らは世界寡頭権力の双頭戦略のコマに1過ぎず、同じ穴のムジナである。
こうした〝敵〟の手をプーチンは知り抜いているからこそ、ウクライナという火薬庫をきっかけに世界規模の核戦争を目論む、ユダ金の番頭であるジョージ・ソロスや戦争屋のネオコンの挑発に、おいそれと乗らずに踏ん張っているのだ。しかし、一方で実質的な福島原発の〝管理者〟であるイスラエルによって首根っこをつかまれ、毎日大量の放射性物質を垂れ流しているのにも拘わらず、、「アンダーコントロール」だと嘘を言い、何の対策を高ぜずに国民を被曝に晒している安倍晋三のような情けない存在もある。
ここで、安西さんは「古来から政治や経済を動かしてきたのは秘密結社」だと主張している。尤も、これは何も一神教の原理主義者や教条主義者たちだけの専売特許ではなく、お隣の中国でも同様なのだ。
最近、『みち』誌の「巻頭言」で天童(竺丸)さんが、『古代製鉄物語 「葦原中津国(あしはらなかつくに)」の謎を著した浅井壮一郎氏を紹介していた。どうやら同書は土師氏の正体に迫る上で、極めて重要な資料であることが「巻頭言」から窺い知れるのであり、、機会があれば『みち』編集部で同書を借りて読んでみよう。
その浅井壮一郎氏についてネットで検索してみたところ、上記以外にも数冊の著書を著しているのを知り、面白そうだと思ったので、『悪徳の世界史〈1〉フィリピン華僑ビジネス不道徳講座 (悪徳の世界史』、および『悪徳の世界史〈2〉宗教の悪徳 宗教ビジネス不道徳講座 (悪徳の世界史』を取り寄せ、読み進めているところだ。そして、最初に手にした『悪徳の世界史〈1〉フィリピン華僑ビジネス不道徳講座 (悪徳の世界史』では、中国の秘密結社を取り上げており、特に「中国史を操る秘密結社・幇の存在」(p.151~)と題する小節は大変興味深い。無論、中国ばかりではなく一神教圏の秘密結社、すなわち薔薇十字団、フリーメースンなども取り上げていた。よって、同書の小節「中国史を操る秘密結社・幇の存在」から、秘密結社に関する記述を一部引用しておこう。

歴史の裏には秘密結社の蠢きがある。これは中国だけのことではない。中世イスラム世界には「イスマーイール・ハシシーン派」という暗殺教団があった。これに対抗した十字軍側にも「テンプルその他の騎士団」が生まれた。さらに「フリーメーソン」は有名である。フイリピン独立連動の志士の多くはフリーメーソンだった。
秘密結社は、その構成員に「たとえ法律に違反しても内部の規範を優先する」ことを要求する。何としても守るべき禁止事項は、「結社の秘密の暴露と裏切り」である。裏切りは絶対に許されない。確実に死の制裁がまっている。一方、掟さえ守れば、たとえ殺人を犯そうと結社は可能な限り保護してくれる。蒋介石は幾多の重罪を犯しながら逮捕されたことはなかった。ここに秘密結社の恐ろしさがある。(p.157~)
こうした西洋や中国の秘密結社についての詳細は同書に譲るとして、本稿では、『悪徳の世界史〈1〉フィリピン華僑ビジネス不道徳講座 (悪徳の世界史』から特に印象に残った、「敢闘精神」と「戦闘意欲」の対比ついて取り上げたい。同書に以下のような記述がある。
「戦闘意欲なき国民は滅亡し、敢闘精神なき国民は堕落する」(p.142)
「敢闘精神」と「戦闘意欲」の解説は、同書の小節「戦闘意識と敢闘精神」(p.143)に目を通していただくとして、戦闘意識と敢闘精神について分かりやすく解説した行を以下に引用しておこう。
前者は全く報酬のない完全な自己犠牲であり、国家、民族、同胞を救うための捨身であり、そのために死を超越する勇気である。一方後者は、自分の野望・欲望の実現へ命をかける勇気であり、富への飽くなき執念であった。同じ勇気・戦意でも、前者は「敢闘精神」と呼ぶにふさわしく、後者は「戦闘意欲」と呼ぶべきであろうか。
(中略)
結論から言えば、人間の歴史は「敢闘精神」と「戦闘意欲」との葛藤ではなかったかということである。後者の勇気のヤリスギを、前者の勇気が歯止めをかけてきた。
だが、人間の歴史を常に起動させてきたもの、「歴史の原動力」は前者よりも後者、戦闘意欲の方だった。「女と富」への飽くなき執念だった。そして常に不道徳だった。(p.124)
以下は、西洋の秘密結社を絡めた、「敢闘精神」と「戦闘意欲」についての記述である。
S氏は人間の営み・歴史における「戦意」に着目し、改めて歴史をレビユーし、その働きを検証しようとした。その過程において、「戦意」の作用というものが「戦闘意欲」と「敢闘精神」という二つの相反するベクトルヘ仕分けされ、「その葛藤のなかで歴史を見る」という歴史観に至った。それによれば、「歴史の原動力は,戦闘意欲であり、その反作用が敢闘精神」ということになる。だが、この二つの戦意は固定的なものではなく、変異し、始末の悪いことに互いに入れ替わることすらある。
命を賭して迫害と戦い続けたキリスト教徒も、公認され、ローマ国教に昇りつめると、組織体制の整備に遇進する。体制の整備とは、経済基盤の確立である。.だが、経済基盤が安定し富裕化が進むと、キリスト教徒といえども堕落する。ローマ教皇すら、カネに目が眩み、女に狂う。それは本来、宗教がもつべき「敢闘精神」の「戦闘意欲」への転化であった。
この堕落に敢然と立ち向かった人々がいる。「宗教改革」である。最初に立ち止まったのがクリュニー修道院であった。堕落した教団・教会に反攻する修道士達の良心と熱意が大きな改革運動となり、ローマ教皇庁をも飲み込み、その浄化に成功する。
かくして登場した改革派のローマ教皇がグレゴリウス七世であった。彼は敢然として宗教利権を食い物にしてきた世俗権力、及びそれに繋がる聖職者勢力と戦う。
当時最大の宗教利権は、膨大な各地の教会資産の管理権であり、その管理者としての聖職者の地位だった。この「聖職者の叙任権」は、神聖ローマ皇帝を中心とした世俗権力の手に握られており、グレゴリウスはこの腐敗の温床である利権を打破すべく、叙任権の回復奪還を目指して戦った。この叙任権回復闘争の象徴が「カノッサの屈辱」事件であった。
やがてローマ教皇側が勝利すると、キリスト教徒の精神は再び最高に高揚した。そしてこの高揚した精神が殉教精神という敢闘精神に転化し、十字軍を生んだ。
この十字軍を利用した者達がいた。事実、この十字軍参加者のなかには世俗権力の二男坊・三男坊が多かった。彼等は、聖職者という実入りのよい安定した就職先を失ったからであった。十字軍は就職運動でもあった。
さらに、この十字軍を食い物にした人々がいた。彼らも「できない悪いことはない」という人々だった。ジェノバ、ヴェネチア等、北イタリアの海洋商業都市国家の人々である。彼等はキリスト教徒でありながら敬虔なキリスト教徒を食い物にした。
救援を求めて最初に十字軍派遣を要請したキリスト教国、ビザンチン帝国を滅ぼし、その財宝をゴッソリ略奪したのは、ヴェネチアと彼等に操られた十字軍そのものだった。
本来、殉教精神とでも言うべき十字軍が、これほどまでに露骨に戦闘意欲に変わるのだ。宗教と言えども戦闘意欲と敢闘精神の葛藤なのだ。
この海洋商業国家の商業至上主義とでも言うべき冷徹な合理生義と、「何でもあり」の戦闘意欲を学び、引き継いだのがポルトガルであり、スペインであった。一方、改革派の敢闘精神も生き延びる。これはカルビン、ルター等によって引き継がれた。
いずれにせよ、歴史を左右するのは人間の「戦意」であり、勇気なのだ。とすれば新大陸、そしてフィリピンの悲劇は、商業至上主義を学んだスペインの横暴もさることながら、現地民族の武器の優劣以前のこの戦闘意欲・敢闘精神の劣後にも責任があったのではなかろうか。(p.134~)
ここで、核戦争をも辞さないというネオコン、そのネオコンの忠実な僕として原発に固執する安倍政権らと対峙している一握りのブロガー、すなわち、〝全く報酬のない完全な自己犠牲であり、国家、民族、同胞を救うための捨身であり、そのために死を超越する勇気〟の持ち主こそ、飯山一郎さんや新井信介氏といった人たちなのである。
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