
過日、拙稿「公明党の平和主義」を今年(2014年)の6月24日に書いた折り、亀さんは佐藤優氏の創価学会観を批判した。その後、朝日新書より『創価学会と平和主義』が刊行されたことを知り、取り寄せてみた。昨夕、同書の「目次」にサーッと目を通し、本文を飛ばし、じっくりと「あとがき」を読んでみたところ、以下の行に目が止まった。
創価学会に対する好き嫌いといった感情をひとまず脇に置いて、現実に存在する創価学会を等身大で見て欲しいのである。(p.204)
二十代の頃、両親が学会員で自身も学会員という友人を和歌山に訪ねたことがある。その当時の亀さんは、特に学会に対して色メガネで見ていなかったと思うし、色メガネをかけるようになったのは後々のことである。ともあれ、『創価学会と平和主義』を読むなら、久しぶりに色メガネを外すようだな…。
私はプロテスタントのキリスト教徒である。日本のプロテスタント最大教派である日本基督教団に席を置いている。同志社大学神学部と大学院神学研究科でプロテスタント神学を専攻した。神学部一回生のクリスマス礼拝で洗礼を受けた19歳ときから、私のキリスト教信仰が揺らいだことは一度もない。(p.204)
1年半ほどサンフランシスコで生活をしていた時、ハウスボーイとしてアメリカ人の家に住んでいたのだが、平日は大学に通う傍ら、日曜日はサンデースクールと言って、アメリカ人の友人の通うプロテスタント派教会の日曜学校に欠かさず通ったものである。当初は英語力を高めるつもりで通ったのだが、次第に大勢の同年代の友人ができ、彼らの真摯な信仰心接するようになった。特に忘れられないのは、彼我の信仰心の違いである。当時の亀さんは20歳だったが、人間を超越した神という存在を全く信じていなかった。しかし、同年代の友人のアメリカ人は、心の奥底から神の存在を信じていたのである。だから、洗礼を受けたという佐藤優氏は、神というものをどのように捉えているのか、知りたくなった。
戦争が勃発するときには、資本の利益、将軍や政治家が出世欲、ナショナリズムが例外なく機能している。これらの転倒した、禍をもたらす宗教からどのように解放されるかが、21世紀のわれわれが直面する重要な課題と思う。(p.207)
正にその通りだ。この行を読み、『創価学会と平和主義』の本文を読むことに決めた。それから、過日亡くなった菅原文太の戦争観も近く記事にしたいと思っている。
蛇足だが、亀さんは本文を読む前に、「まえがき」、「目次」、そして「あとがき」に目を通した上で、本文を読むかどうかを決めている。「まえがき」では著者が何を訴えたいのかがわかるし、その訴えたいことをどのような流れで書いているかが、「目次」を見ればわかる。そして、著者の結論あるいは最も言いたいことが、「あとがき」に書いてあるのが普通だ。
最後に、同書の「あとがき」で最も感銘を受けたのは以下の行である。
本書を上梓するにあたって、「創価学会について書くと、余計な敵を作ることになるので、止めた方がいい。職業作家としてマイナスになる」という忠告を数人の友人から受けた。しかし、敵を作ることよりも、真実を書かないことによって戦争への道を加速することの方を私は恐れる。(p.208)
まさに、亀さんも同じ思いで日々、駄文を書き連ねているのだ。他にも20冊近く読みかけの本があるため、『創価学会と平和主義』をいつ読み終えることができるかわからないが、読み終えたらA4用紙一枚に質問事項をまとめ、アンチ学会派として知られている玉井禮一郎さんの意見を直接聞いてみるつもりである。以下は亀さんが作った玉井さんのHPだ。 たまいらぼ
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