
■高倉健と任侠道 かつて、日本の役者が普通に暴力団と交流していた時代があった。今月の10日に逝去した高倉健もそうした例に漏れず、特に山口組の田岡一雄三代目組長との交友関係が実に深かったようで、田岡は高倉と江利チエミの結婚式に列席しているほどだ。そのあたりを簡素に述べているのが、以下のLITERAというサイトの記事である。 高倉健と山口組のディープな関係 健さんが田岡組長に奨学金提供を直談判!
そんな健さんも、次第に暴力団と距離を置くようになったと同記事は述べており、以下は同記事にあった、あるベテラン芸能ジャーナリストの発言だ。
「健さんの本質は読書や映画が好きなインテリで、もともとヤクザのような単純な『男の世界』にはあまりなじまないところがあった。任侠映画のスターということで、暴力団関係者との交友が増えていくことにも負担を感じていたんじゃないでしょうか。しかも、当時、東映のヤクザ映画が任侠シリーズから実録シリーズに移行して、ますます暴力団との関係が濃密になってきた。それに耐えられなくなって、独立へとさらに拍車がかかったような気がする。実際、80年代くらいからは、引退した信頼できる人をのぞいて、ほとんどの暴力団関係者とは縁をきっているはずです」
本当に健さんが「暴力団関係者との交友が増えていくことにも負担を感じていた」ため、暴力団関係者との縁を切ったのかどうか、本当のところは健さん聞くしかない。ただ、少なくとも上記の芸能ジャーナリストは、暴力団と任侠道との違いを明瞭に意識していないように思えるのだ。ここで云う任侠道については、2010年に発売された『月刊日本』8月号に詳しく、幸いにしてネットでも記事を読むことができる。 〝 特集 蘇れ!任侠道 〟 「任侠こそ日本自立の最後の砦」
上記サイトに転載されている月刊日本誌の編集部の「任侠-日本の共同体の原風景」を読み、任侠道というものについて納得いただけた読者は、以下の「なべおさみと任侠道」に目を通してもらえたら幸いだ。

■なべおさみと任侠道 なべおさみと云うと、大勢いる日本の役者の一人くらいにしか、思っていない読者が多いのではないだろうか。ところがどっこい、なべおさみは任侠道を実に深く理解している役者なのだ。なべおさみが最近著した『やくざと芸能と』(なべおさみ著 イースト・プレス 2014年5月10日刊)を読むと、そのあたりが実によく分かる。
・人脈の凄さ なべおさみが交わってきた人物は実に多彩であり、特に深い交流を持った人物だけに絞っただけでも、任侠界の花形敬と安藤昇、文学界の平林たい子と野坂昭如、歌謡界の水原弘、芸能界の渡辺晋(渡辺プロ)、森繁久弥、勝新太郎、石原裕次郎、美空ひばり、加賀まりこ、大原麗子、ビートたけし、経済界では盛田昭夫(ソニー)、松園尚巳(ヤクルト)、小針暦二(福島交通)、政界では安倍晋太郎と鈴木宗男いう具合だ。また、なべおさみにとって生涯忘れ得ぬ〝奇遇〟を述べた行があり、やや長文なるので本稿の最後に転載しておこう。
・独特のモノサシ 亀さんはフルベッキ写真など薬籠中の物にしたモノサシを数本手に入れており、その他にブログ友からモノサシを教えてもらったり(たとえば、今村光臣さんの「養生法」)、書籍からも色々なモノサシを知識として得たりしてきた(たとえば、過日の拙稿「地形・気象」というモノサシ)。なべおさみの場合も、独自のモノサシを〝ある人物〟から貰っている。
「一つ、本物。二つ、偽物。三つ……これは見分け難い物でね。似て非なる物と書いて似非物と言うんだ」
物にも人にも必ずこの三つがあるから、これを見分けられる人間に君はなりなさいと教えて下さった。そのためには、たくさんの本物に会う事だ、美術館や展覧会、博物館や本などを、出来る限り観なさいねと仰った。 『やくざと芸能と』p.46
このある人物とは白州次郎のことで、なべおさみ14歳の時の出逢いである。白州から教わったモノサシを、なべおさみは今でも忠実に実践しているようで、そのあたりは以下の行からも窺えるのだ。
以来、私は全ての物・人に対して、この説を当てはめて見ている。
本物か、偽物か、似非物かを。
影響は大だった。これは、私に一生の全ての尺度として植え付いた。以降、私の出会った人も、この考えでじっくり見て来たのだから。
やくざも、この三つに当てはめて見つめている。私が今、名前を出している人々は、それぞれ、その道の本物として私は見て来た。後になって、あの人は偽物だった等ということは断じて無い。 『やくざと芸能と』p.47
・付き人を通して得た人脈 なべおさみは水原弘や森繁久弥などの付き人を経験しているが、その修行期間中に大勢の芸能人の素顔を見てきている。亀さんが『やくざと芸能と』に目を通して、特に印象に残ったのが勝新太郎だ。詳しくは『やくざと芸能と』に譲るが、幸い、今週の水曜日に放送されるテレビ東京の「武田鉄矢の昭和は輝いていた」で、「希代の名優・勝新太郎」が放送される。多分、勝新太郎の光の部分を取り上げると思うが、勝新太郎の影の部分について知りたい読者は、『やくざと芸能と』を一読されるとよい。

・選挙参謀として暗躍 なべおさみが真骨頂を発揮したのは、選挙参謀として暗躍した時だ。小泉純一郎をトップ当選させたのがなべおさみなら、中川一郎の秘書だった鈴木宗男を見事に初当選させたのもなべおさみだ(1983年12月の衆議院議員選挙)。鈴木宗男の場合、当選ラインまで六千票足りなかった。そこで、なべおさみはある手を打ったのだった。その手とは、創価学会票の囲い込みであった。その時になべおさみが使った人脈が、小針暦二と池田大作だったのである。なべおさみから相談を受けた小針は池田に電話を入れているが、以下はその時の会話内容である。
「小針です。今、サンフランシスコに電話入れといたんだけど、帯広から鈴木宗男ってのが出てんだが、六千票足りないらしいんだね。それでね先生、先生の暗黙の了解ってのが欲しいって、なべおさみって役者が今、俺んとこに来てんだよ。先生、野郎っこの作戦は、米三俵、蜜柑三十箱、先生の方から頂いたって事で飾りたいって……いゃ、それはこっちで揃えるから、一つこの話、納得しておいて……あっ、それはありがとうございます。ん、では……」
池田大作先生のお墨付きが出た。 『やくざと芸能と』p.255
・ユダヤ渡来説 なべおさみは、『やくざと芸能と』の第三章「本物のやくざを教えよう」で、ユダヤ渡来説唱えている。
イスラエルの民は、中国や朝鮮を経過し、その地の文化文明を吸収しながら、それを日本に持ち込んで住みつきました。 『やくざと芸能と』p.174
これは、巷でよく耳にする典型的な日ユ同祖論の一つであり、広く人口に膾炙している説だ。しかし、世界戦略情報誌『みち』の発行人・藤原源太郎さんに、栗本慎一郎氏の遊牧民に関する一連の著作を紹介していただき、さらには同誌の編集人・天童竺丸さんからツランの存在を教えていただき、加えて同誌の執筆者の一人・稲村公望さんから黒潮文明を教えていただいた身として、なべおさみの日ユ同祖論には賛同しかねる。もし、なべおさみが本稿を目にするようなことがあれば、栗本慎一郎氏の一連の著作、そして『みち』の一読を勧めたい。
最後になったが、冒頭で約束した通り、なべおさみにとって生涯忘れ得ぬ〝奇遇〟を述べた小節を、以下に転載しておこう。それにしても、皇居に出入りできるように取り計らってくれた人物の名を出さなかったあたり、流石である。
皇居にて 私みたいな者でも、天は不思議な暁光を下さいまして、ある時から皇居に出入りする機会を得ました。
約束がありますから公的に書けない部分は申しませんが、一般的に出入りの出来ない場所を見せて頂けました。私の言う嘘部の民としての渡辺党の歴史の中で、そうした特権に恵まれたのは、私が初めてではなかろうかと考えました。
ある時、桜を見に皇居内を歩いていた時です。警護の皇宮警察官が近寄って、小声で「今少しで両陛下が車でお通りになります。テニスに参りますので」と教えてくれました。私が度々出入りしていて、両陛下の身近に仕える方が一緒にいるという事もあっての好意でした。
私達は足を止め、写真など撮っている風情で、車を待ちました。すると、ゆっくり車が来るのが見えました。コースはかなり遠くを走りゆくと思われたその時、急にハンドルを切って私どもが一列に並ぶ目の前で停ったのです。
ゆっくりゆっくり、窓が開きました。美智子皇后ではありませんか。なんと窓を手回しで開けたのです。今時、手回しの車に乗られているのです。
ゆったりと一同に目を流し、私を見て目を留めました。その瞬間、私を何者かと認めた光が走ったのです。両陛下はテレビが大好きだとお聞きしておりました。同じ時代を生きてきた者だけが知る黙示を、私は電気が走る如く受け止めました。
「何をなさっていらっしゃるの?」
そう仰いました。私の側に立つお方にです。
「桜を案内しております」
天皇陛下も身を乗り出すように私達を見ました。全員が固くなって礼を致しました。
「桜は奥のも御案内してね」
皇后が側近の私の友人に仰って下さり、普通では参拝出来ない場所へ行く事が出来たのです。
「お健やかにお過ごし下さいます様に!」
私はそれだけ申し上げるのがやっとでした。
「ありがとう!」
お二人が同時に仰いました。そして、ホンダの古い古い小型車は動き出しました。天皇陛下の運転するマニュアル車が遠ざかりました。
頭を下げて見送りながら、涙が湧佗の如く流れました。見ると、妻も娘も涙です。
その日のゲストは山口組三代目の娘・田岡由伎さんでしたが、「何でこんなに涙が出るの!私達日本人なのよね!」と言いながら泣いていました。
天皇皇后両陛下のお許しを得て、案内されたのは、皇居内の二ヶ所だけに咲く「御衣黄」という桜の木です。何と、この桜の花は、「緑色」なのです。一本は「賢所」というところに咲きます。「かしこどころ」とも呼ばれる、宮中三殿の一つです。
もう一本は、私達も入れては頂けないところにあります。毎年五月初句、皇后様は生物研究所内の蚕室で、蚕の卵のついた紙きれを櫟の枝につける「山つけ」を、また、中旬には艀った蚕の幼虫に桑の葉を与える「給桑」をなさいます。
これは歴代の皇后に受け継がれているお仕事です。古からの蚕で、今の蚕とは違って非常に小さなものです。この絹で、古文書の修復や、古くから伝わる装束も繕われているのです。ですから、皇后様の蚕は、日本古来の伝統を今も守っている貴重な文化なのです。
そこは高い板塀で囲まれていました。板塀の内側の畑には、桑が植えられているのです。そこから伸びて外へ枝を伸ばしていた桜が、御衣黄でした。
養蚕は「機織り」と言うぐらいですから、秦氏のもたらしたハイテクです。この枝が、皇室内に伝承として残り、存続している事実を考えると、私は日本の国の中にある一本の糸を強く見つめてしまいます。日本史の中で八世紀は文明開化、産業革命の一大起点です。平安京を創造した秦氏の気は、今の世にもこうして発見出来るのです。
また、秦氏のハイテク、農耕の業は、この場所内にございました。歴代天皇は、この桑畑の下方にある水田で、春はお田植え、秋は稲刈りをなさいます。私は垣根越しに垣間見ながら、思わず祖先に感謝しました。私は秦氏の下に生きた嘘部の民の末裔ですから。
はっきり申し上げますが、日本におけるやくざの誰一人とっても、天皇を敬わない者はありません。
身がやくざなため、天皇に接見出来る機会など絶対ないと言えます。しかし、天皇の行幸に難事が起きないのは何故でしょう。
太古の昔から、こうした天皇の外出時には嘘部の民はもとより、各地の裏社会に生きる人々は陰ながら手を組み、警固の輪を張り巡らせて護り抜く努力を惜しまなかったからです。天皇・皇后両陛下はそれを御存知なのです。
私どもには知らされぬ事ですが、天皇は皇居内の賢所にて、深夜の二時十五分に、古式に則る祷りを行っているそうです。その祈願の中には、表に出ない民の幸せや安穏を慮る文言があると言われています。国家と国民の安寧を願って、連綿と続いている天皇としての職務だと聞きますが、これを週の内の定められた日々、密かに続けておられるのです。大変な事です。
午前二時十五分には意味があると、私は気が付きました。それは丑三つ時と言われた時間です。神が降臨する時間がこの時間だと言われています。陛下も、この時間に祷りを行っているのですから、奥が深い事と思えます。
私が心の底から田岡由伎さんを、皇居内にお連れしたかったのには訳があります。
それは遠い若き日、父上の田岡一雄さんにお世話になった一つの返礼を、娘さんにしたかったからです。
由伎さんは娘として、山口組三代目としての父親を見て来ました。どんなに三代目が天皇を崇めていたのかをも、見つめて育ったのです。
私は万感を籠めて、由伎さんをお連れしたのでした。
そして、天は予期せぬ天恵を与えて下さったのです。私達だけのために、目の前に、天皇・皇后両陛下を拝ませて下さったのです。
私は、三代目もきっとこれを見ていると思いながら泣きました。由伎さんの背中には、御両親と共に何万の人々が見守っており、共に頭を垂れ、そして涙していたと思っております。
春の陽の光の中で、私達はしばらく泣いていました。嬉しい涙でした。 『やくざと芸能と』p.236~240

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