 『武家の女はまつげを濡らさない』
この本は、一昨日の拙記事「八重の桜散る」で紹介した、ブログ「サムライ女のたわごと」の石川真理子さんの著書である。同書を読んでみようと思うきっかけとなったのが、コメントに書かれていた石川さんの以下の記述である(傍線亀さん)。
会津藩を語るためには(もちろん当時の日本を語るためにも)武士道という日本の精神に対する理解が必要不可欠なのですが、この部分が脚本からすっかり抜け落ちてしまい、無理な演出や陳腐なストーリー展開が見受けられます。ほんとうにじくじたる思いです。 「サムライ女のたわごと」
そこで取り寄せてみた『武家の女はまつげを濡らさない』であるが、渋沢栄一翁の編纂した『徳川慶喜公伝』に共通する、日本人として誇りを持て、心の奥底から喜びが沸いてくるような本であった。以下、同書に大量に引いた傍線の一部を列記しておこう。それにより,同書の大凡の輪郭が掴めるのではないだろうか。なお、特に同書に接して欲しいと思ったのは、日本の将来を背負う若い人たちであった。
日新館童子訓の教えには「人にはそれぞれ自分にふさわしい生き方があります。(それを全うすることが)忠孝の道なのです」とあります。自分にふさわしい技術を身につけ、自分にふさわしい生き方をすることは、他者のためでもあり、世に良い影響を及ぼすことになるのです。 p.55
八重は猛攻撃の最中にあっても風雅な歌を詠むことのできる容保に、真の勇気とはどういうものかを教えられました。猪突猛進するのではなく、何があろうとも心から平安に保ちながら冷静沈着に事に当たることこそ、真の勇気の流れなのです。 p.61
あきらめたら最後、そんな固い決意があったのか、その後の八重は諦めるということはありませんでした。人は生きている限り、常に何かと戦っています。まして八重には「逆賊の汚名をそそぐまでは」という確固たる意地がありました。 p.102
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉の通り、八重は困っている人や弱っている人を放っておくのは人の道に反するという信念の持ち主でした。 p.107
なぜ彼らは死んだ、自分は生き残ったのか。生死を分けたのは何だったのか考えずにはいられません。 八重の脳裏に「運命」という言葉が浮かびました。 残酷ではありますが、生きるか死ぬかは、最終的には人の運命によるのです。死んでいった兵士がいる一方で、死を望んでいたにもかかわらず命を拾った自分がいる。そこは定められた運命による結果でした。 歩きながら八重は、自分の運命が生きることにあるということを悟りました。 p.133
八重が茶の湯に没頭したのは、自分と向き合い、心の奥底まで目をそらさずに見つめるためでした。会津で闘ったことも、最愛の夫襄を早くに失ったことも、必要なことだったにちがいない。それが何を意味しているのか、自分の人生とは何だったのか。 答えを掴むためには、いわゆる禅の境地に至る必要があったのです。 p.160
昭和三(1928)年は八重にとって忘れがたい年となりました。 戊辰戦争からちょうど60年、同じ戊辰の年にあたるこの年に、松平容保の孫娘にあたる勢津子が秩父宮家に嫁がれたのです。秩父宮勢津子妃ご成婚は、皇族・五摂家以外から初めての皇室入興とあって、世の中を驚かせるニュースとなりました。 ……中略…… 萬歳、萬歳、萬々歳 おどろくほどストレートな表現です。心情を表す言葉が、ほかには見あたらなかったのでしょう。抑えるようにも抑えられない爆発的な喜びが、力強い筆跡からも伝わってきます。 p.165
戊辰戦争では敵であった岩倉具視や木戸孝允の人間性に触れた時は、もはや敵味方などという認識は持つべきではないと思ったようです。八重は「岩倉さんは、私のような者にもごく丁寧にお話しなすってくださいました」と、ずいぶん心を和らげています。 名だたる要人の中で、八重が最も心を惹かれたのは勝海舟でした。 ……中略…… 日新館童子訓には「さまざまな分野のすぐれた人たちと交際することがすなわち生きる勉強となるのです」とあります。 p.183
「人生わずか五十年…この短い人生の中で、死すべき時に死ぬ勇気を持たず、言うべきときに言う勇気を持たず、ただわが身大事で卑怯未練にだらだらと生きるのは、たとい体は生きていても名前はすでに死に…」(日新館童子訓) p.195
襄と八重にとって「人を育てる」ということは「未来を育てる」ことでした。さらに言えば「よりよい未来の日本をつくる」ために、教育があったのです。 p.231
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