過日アップした「プーチンと柔道」の続きである。今回は、プーチンの柔道の師であったラフリン氏のインタビューだ。プーチンの動きから目が離せぬ今日、多くの示唆に富む記事と云えよう。

少年時代のプーチン 文/インタビュー・小林和男
プーチン大統領(当時)は「もし柔道と出会っていなかったらどうなっていたかわからない」と言う。それでは、街で喧嘩ばかりしていたウラジミール少年を立ち直らせ、結果として大統領をつくった柔道のセンセイとはいったいどんな人物なのだろう。大統領とのインタビューを終えてから次に会わなければならないのはこの人物だと考えたのだった。
そのセンセイはアナトーリー・ラフリンさんといい、サンクトペテルブルクの道場で少年少女たちに指導しているほか、ロシア女子ナショナルチ「ムのコーチもしている。プーチン大統領と共著者であるワシーリー・シェスタコフ氏を通して連絡を取り合ったが、お互いのスケジュールが合わずインタビューはなかなか実現しなかった。二〇〇四年一〇月初めにラフリンさんがモスクワ近郊でロシア女子チームの合宿をすることがわかり、私がモスクワに飛んでようやく話を聞くことができた。
モスクワから北西へ車で一時間半、林に囲まれた草原の中に合宿所はあった。ソビエト時代、スポーツは国威発揚の道具として奨励優遇され、スポーツ施設には国の金がふんだんに使われた。素質のある若者たちが全国から集められ、スポーツエリートとして教育された。
ところがソビエトが崩壊して国家アマチュアの養成の仕組みはなくなり、施設も民営化されオリンピック施設が力ジノに変わってしまったという例もないではない。しかし、ラフリンさんが合宿をしていた施設は民営化され、一部は旅行者のための保養施設となったものの、スポーツ選手養成のための施設としての機能はしっかりと守られていた。
インタビューは粗末なベッドに机が一つの合宿所のコーチの部屋で行われた。
■ アナトーリー・ラフリン先生インタビュー[二〇〇四年一〇月五日]
小林:ようやくお会いできました。今日の狙いはプーチン大統領と柔道の関係について伺うことです。ラフリンさんは、どうして柔道を始められたのですか。
ラフリン:私はもともとロシアの伝統的な格闘技であるサンボをやっていました。初めて柔道について知ったのは友人からです。彼は一九六四年の東京オリンピックにソビエトの柔道選手として参加した人物です。
彼とは子供の頃からの仲間で、もとは私と同じくサンボをやっていましたが、柔道に転向し、その後何回もソビエトチャンピオンになり、ヨーロッパ選手権でもロシア代表になり、オリンピック種目になった東京大会に派遣されたというわけです。
戦後、私はもうサンボのコーチの資格も持っていましたが、彼から柔道の手ほどきを受けて気に入りました。柔道は動きがおもしろく、何よりもサンボが力ずくの傾向が強いのに対して、柔道は技の余地が大きいのに惹かれました。
それから私はソビエトのいろいろな柔道大会に参加するようになりました。一九七二年にはソビエト柔道連盟が公式に結成されました。それまでは連盟はサンボと一緒で、その中でサンボをやる者もいたし柔道に主力を置く者もいたのです。連盟が独立してからアンドレーエフ監督のもとにソビエトの柔道が本格的になりました。
小林:日本人の柔道家から教わったのではないのですか。
ラブリン:日本人からは習っていません。柔道のことについてはその心得などについて習い、講道館についても聞いていたので、その頃から講道館には一度行ってみたいと夢を持っていましたが、当時は外国に行くことなど本当に夢でした。講道館を訪れることができたのはソビエトがなくなって、一九九四年になってからです。
小林:プーチンさんとは、どういう出会いだったのでしょう。
ラフリン:その頃サンクトペテルブルクのクラブで教えていたのですが、一九六五年に彼が入門したいと私のところに来ました。その頃は一二歳以下の者や年をとりすぎた者は断わっていたのですが、プーチンは一三歳で、面接の結果仲間と共に入門し、稽古を始めました。私はそのとき二七歳でした。
小林:ブーチン大統領は「その頃不良で、通りで喧嘩ばかりしていた。ラフリン先生に会って変わった」と言っていますが。
ラフリン:コバヤシさんもおわかりだと思いますが、大戦後しばらくの世の中では、若者は多かれ少なかれ不良のようなものでした。不良というのは何も強盗をしたり、殺人事件のような大きな犯罪を起こすということではなく、家で少し荒れたり、仲間同士で喧嘩したり、女の子をからかったりする連中ということです。
小林:プーチンさんはどの程度の悪だったのでしょう。
ラフリン:正直に言って、道場ではそんなに不良だとはわかりませんでした。道場では厳格な規律がありましたから。喧嘩をする者がいなかったわけではありませんが、その連中には道場のマットの上で力を見せろといつも言っていました。他のところで争うな、道場で力を見せれば判定をしてやるとね。
通りでのことは見えませんでした。しかし稽古を続けるうちに彼に自信がつき、自分の力を明らかに確信するようになりました。そのことは彼の目つきが変わってきたことではっきりわかりました。内面の力が生まれる過渡期だったと思います。
小林:プーチン少年は他の少年たちと比べて特に強い印象を与えましたか。
ラフリン:五、六〇人の子供たちの中で始めは特段に目立つことはありませんでした。顔つきも体つきも、育ちの背景も違いますが、道場に入ると皆同じようなものですから。道場以外のところでヴァロージャ(ウラジミール)は目立って勇敢でした。サッカーなどをやっているとき小柄な者は大きい者を恐れるのが普通ですが、ヴァロージャはそんなことは少しも見せず、果敢にボールを取りに行きました。この点は際立っていました。
クラブ(道場)で激しい稽古をしながらレニングラード国立大学の法学部に合格してからは、特に目立ってきました。合格の後も稽古を続けていましたが、それ以来仲間の指導者のようになりました。何しろ法学部の学生だからみんなからいろいろな相談に来る。ヴァロージャは仲間の話を聞き助言をしていたようです。
小林:教え子が国の最高指導者になるなどと思いましたか。
ラフリン:日本でもアメリ力でも、自分の教え子が将来首相や大統領になるなんて予想はできないでしょう(笑)。
小林:柔道の激しい訓練を続けている者が、最高学府の、しかも一番難しい法学部のようなところに入ったのは意外だったのではないですか。
ラフリン:いや、そんなことはありません。私はスポーツが強いだけの者を育てることには興味はありません。コーチはスポーツのコーチにとどまらず、教育者でなければならないというのが私の考えです。スポーツに秀でるとともに、人格的にも社会的な活動でも有益な人物を育てるのが役目です。スポーツの技術を向上させ、健康な身体を作り、正直で勤勉で、何よりも困難に直面することを恐れない人物を養成することが、コーチとしての私の役目だと心得てきました。だから、ある意味では宗教的な精神が道場にはあります。まず人間を養成し、スポーツはその後についてきます。まあヴァロージャの場合はそれがある意味で成功したということかも知れません。
小林:ラフリンさんのそういう信念はどこから生まれたのですか。
ラフリン:両親や社会の影響でしょうか。子供は一定の年齢に達するまでは親や社会に対する信頼は強い。しかしその年齢を過ぎると周囲を批判的な目で見るようになる。そして旗を持って街頭に出てわめく者、武器を取る者といろいろ出てきます。そのときに私は社会に役に立つ方向に若者を仕向けるよう努めてきました。柔道の技だけではなく、社会の良き一員になれと教えました。一言で言えば、他の人たちとどう接したらよいのかということです。
小林:プーチン大統領は、もし若いときにあなたに会っていなかったらどんな人生になっていたかわからないと言っています。
ラフリン:私にはわかりませんが、大統領がそう言っているのなら大変嬉しいことです。彼にとって私と会ったことが喜びだというなら、私も彼に出会えたことが嬉しい。
小林:プーチン大統領はあなたをたいへん高く評価していて、あなたが柔道の先生や教育者でなくても、どんな分野に携わっていたとしても、大きな業績を上げる人だと言っています。
ラフリン:私も他の仕事についていたらと考えることがあります。しかし私はこの仕事が大好きです。柔道を教え、人を教えること以外にほかのポストを想像することはできません。でも、スポーツにすごく秀でていても頭が空っぽである者には興味がありません(笑)。スポーツにも優れ頭も聡明であれば興味が湧きます。
チームは強くなければなりません。チームの中で一番強い者が人間としては満足できないこともあります。そのとき私はもちろんコーチとして一緒に働きますが、その人物の悪い行動が少しでも少なくなるように影響を与えるというのが私のプリンシブルです。
小林:どうやって影響を与えるのですか。
ラフリン:行動で示すことも言葉で教えることもあります。みんな私の行動を注視しています。私が人をだましたり、喧嘩をしたりすれば門下生の私に対する態度はまったく別のものになったでしょう。彼らの話に耳を傾け、彼らを欺かず、彼らを助けるようにしました。
小林:世界中で今、若者の行動が問題になっています。プーチン大統領はあなたの教育者としての仕事のいい成果の現れということができますか。
ラフリン:大統領として評価するのには時間が必要です。大統領が下した決定について今いろいろ言うことはできます。しかし、それが本当に正しかったのか正しくなかったのか判断できるのは後世のことだと思います。人間の資質としては、以前も今も高いところにあると思います。それは、彼が人々のことを心配していることからわかります。だが…(沈黙)。
小林:何でしよう。
ラフリン:いや、人間としては高い資質を持っていることは間違いありません。ロシアではみんなが台所でいろいろな論議をします。政治も経済も暮らしも、あらゆることを腹蔵なく話すのが台所です。だから台所には一番知恵があります。でも、クレムリンに入るとそうはいきません。大統領は自分で難問について決断をしなければなりません。とてもつらい立場だと思います。決定したことについては議論の余地があるものもあるのは当然です。
大統領について嬉しいのは、われわれの模範になる人物だということです。それはなにも人々を率い、演説し行動をする人ということではなく、彼自身が普通の健康な人のモデルになるということです。でっぷりと太りパイプをくゆらせ、どっかりとソファに体を沈めてまるで別世界の人物のような政治家もかつてはいましたが、スポーツをやり健康でわれわれ普通の市民の模範になるという意味なのです。その姿を見れば国民は大統領が自分の側にいて働いてくれていると感じるものでしょう。私もスポーツを通じて若者たちに貢献できるのを嬉しく思っています。
小林:プーチン氏は若者たちにもっとスポーツを楽しむよう、ことあるごとに勧めていますね。若者たちは変わってきていますか。
ラフリン:スポーツを奨励するだけではなく具体的にスポーツ支援の措置をとっています。若者が変わってきたかって? ロシアの若者たちにいろいろ問題があることを指していると思いますが、それについてこの間おもしろいものを読みました。大人、ことに年配者が若者の行動や考え方を批判するのは、ローマ帝国の時代でも古代ギリシャでもまったく同じだということです。若者はだらしがないという言い方は、中世でも現在でも変わりません。大人は古今東西常に若者への不満を口にして生きてきました。しかし、その若者が大統領になり学者になり良い仕事をする。私も若者への不満は持っています。しかしきっと彼らは立ち直るでしょう。
小林:いつも楽観的に見ているということですね。
ラフリン:そのとおり。大人の責任は若者に助言を与えることです。その意味で私は、日本の子供に対する厳しい朕をすばらしいと思います。
小林:それは変わってきていますよ。
ラフリン:講道館で見たことですが、小さな少年少女が親に連れられてやって来て自由な雰囲気で稽古していました。それがもう少し年長になるとコーチが厳しくなり、もっと年長になると竹の棒を持った先生が非常に厳しく指導していました。つまり、年を重ねるごとに責任が大きくなるということを教え込んでいました。この教育の仕方はとても気に入りました。つまり、責任を教え込むということなのです。
小林:柔道に戻りますが、ラフリンさんはプーチン大統領の柔道をどう評価しますか。大統領は危機に直面したときどう対処したらいいかを柔道から学んだと言っていました。
ラフリン:彼の性質ですが、彼はどんなことにもまじめに取り組む。柔道についても同様です。みんなが柔道の哲学性について言いますが、柔道に限らず、バレーボールにもテコンドーにもそれぞれの考え方があります。哲学というのは世界のいろいろな地域で、独自の歴史と環境、伝統と宗教などあらゆるものを受け継いででき上がるものです。
だから柔道の哲学といっても、ロシアと日本で同じということはあり得ません。プーチン大統領の柔道がどんなものか言うことは難しいですが、彼が子供の頃どういう柔道を学んだかといえば、正直で弱い者に思いやりをという教えです。
日本に行ったときのお土産に柔道の形をやっている小さな人形を買ってきて、誕生日にプレゼントしてこんな話をしました。「ヴァロージャ、この闘っている人形には哲学がある。二人は敵ではなく競争相手だ。いずれもが勝ちたいと思っているが殺そうとしているのではない。勝負が決まれば別れる。彼らが見せるのはどちらが技術的に勝っているかということで、争うことではない。われわれの生活も同じようなものだ。だれがより良い車を作り、航空機を製造するかという競争で、人の命をかけて戦うべきではない。この人形は闘ってはいるが、争ってはいない」。彼が習った柔道というのはそういう考え方の柔道です。
小林:プーチン大統領はあなたから「柔道は礼で、相手に対する敬意だ」と教わった、始めは何のことかわからなかったが、練習するうちに意味がわかってきて、もう通りで喧嘩をして力を示す必要はない、畳の上で練習の成果を見せれば力を示すことができると考えるようになったと言っています。
ラフリン:柔道は内面で人の自信を作り出します。彼が柔道を始めて数年で行動が目に見えて変わったことは前に話したとおりです。
小林:ブーチン氏は今でもできる限り練習をしたいと話していました。
ラフリン:モスクワにはサンクトペテルブルクの柔道仲間が、大統領と一緒に稽古するために行っています。柔道だけではなく、水泳や乗馬をやっていて、冬にはスキーにも出かける。彼は山スキーが大好きだから。
小林:誕生日以外にプーチン氏と会いますか。
ラフリン:大統領といつでも会えるということを見せびらかすために会う必要はありません。大統領も私も自分の仕事で忙しい。必要なときには彼から声がかかります。実際にはよく会います。競技会には顔を出すし、大統領が設立に尽力してくれた「ヤワラ・ニワ」のクラブにも時々やって来ます。だから大統領のところに出かけなくても彼には会えます。このクラブで私も指導していますが、男女ともにヨーロッパ選手権で勝った選手がいるいい道場です。
小林:プーチン氏が仲間二人と柔道の本を書きました。あなたが書くことを勧めたのですか。
ラフリン:この本に限らず柔道の本は、このスポーツとその精神を広めるのにとても有益です。出版が多ければ多いほど柔道を知る者が多くなり、その中から実際に柔道をやる者が出てくるでしょう。この柔道本そのものについて言えば、たいへんいい入門書です。柔道の歴史や精神から技の紹介もあって、柔道の人気を高める役割をしています。選手を引き連れて外国での競技会に行くと、ロシアは大統領が柔道を支援していると羨ましがられます。そして、柔道だけではなくスポーツ全体の振興に貢献しています。
小林:柔道人口は増えているのですか。
ラフリン:間違いなく増えています。具体的な数字はありませんが、昇段証明書の発行数が格段に増えていることで柔道人口の増加がわかります。大統領が柔道をやることで地方の行政府も柔道に注意を払うようになっています。世界的に見ても柔道への関心は高まっています。アテネ・オリンピックの開会式で柔道選手が旗手を務めた国は一五ヵ国にも上りました。オリンピックは世界選手権と違って、単にスポーツの競技会というだけではなく、多分に政治的な催しです。そこで柔道がこれだけ注目されたのはすばらしいことです。ロシア大統領のいい影響もあったと感じています。
小林:日本の柔道をどう評価していますか。
ラフリン:柔道を始めた国として素晴らしい成果を上げていると思います。しかし日本がいつでも勝つということでは柔道の進歩はないでしょう。アーサー・ヘイリーの小説に『エアポート』というおもしろいのがありますが、その中に「飛行機は離陸したとたんにもう古いモデルになっている」という下りがあります。常に前へ前へと技術の進歩、開発が進んでいるということです。柔道についても同じで、日本も頂点を極め、そこから落ちてまた遣い上がるという体験をしています。これはどんなスポーツにも共通します。そこで学校が重要になります。学校があれば、頂点にいるときも不調のときもその原因を分析し、次の進歩につなげることができます。
日本の柔道は最上だと思います。学ぶ組織を持っているために常に向上のシステムができていると思います。韓国の柔道は急速に進歩していますが、日本のやり方を徹底的に学びました。ロシアもフランスも強いが、私は、フランスの柔道はおもしろいが好きではありません。なぜなら、フランスの柔道は勝つための柔道で、立つ位置も姿勢も奇襲攻撃的で気まぐれで予想がつかない。日本の選手は堂々と形を踏まえて勇敢に闘おうとします。日本の柔道はより男性的です。国民性ですね。
われわれはこんな言い方をします。「ルールには勝ったがスポーツには負けた」とね。いい柔道家を育てるには良い柔道の指導者が必要です。その点で日本の柔道は伝統を継承していて貴重です。それを失わないでほしい。それが世界の柔道にいい刺激になり、進歩の促進に必ず役立ちます。
小林:ロシアは柔道を育てるためにどんな措置をとっているのでしょうか。
ラフリン:私はロシア女子チームの監督も務めていて責任がありますが、まずロシアの柔道の教育のシステムを作らなければなりません。第一に指導者を養成することです。指導者を養成するシステムがないために、ロシアで柔道を教える者は野生の草のように、たまたま出てきたものです。これを組織的にしなければなりません。
二〇年も前に浜田初幸さんが教えに来たことがありました。そのとき八○キロ級のチャ ンピオンだったマルーキンとデモンストレーションをやりました。もう結構な年でしたが何をしなければならないか、とても勉強になりました。今、山下さんを始め日本の柔道家との関係を強めて交流を多くするよう努めています。筑波大の中村良三さんも私たちのチームを招いてくれています。いずれもロシアの柔道の発展に役立っています。だが、まずやらなければならないのは柔道の学校を作ることです。私も関わって今やっているところです。
小林:財政的な支援はあるのですか。
ラフリン:正直に言うともっと欲しい(笑)。大統領が柔道をやるからといっても、すぐに金が出てくるわけではありません。大金持ちはさまざまです。大統領に対してある者は皮肉に構え、ある者は冷笑し、ある者は不満を言う。しかし、その中に心から大統領に賛同している者もいて、そういう人たちが資金的な支援をしてくれています。
小林:プーチン氏の前には問題がいっぱいあります。大統領に助言することはありますか。
ラフリン:助言はしません。会ったときの私の仕事は、彼がほっとして心が休まる時間を作ってあげることです。大統領は途方もなく難しい職務です。私たちと会ったとき彼は休養を求めています。あれこれの問題を議論するためではないでしょう。一仕事終わって次の問題に取りかかる前の気分転換か、問題を解決する途中の一瞬の骨休めかも知れません。彼が好きな柔道を理由に、一瞬でも仕事から離れることができる、それが会う意味です。
大統領が質問をすれば応えることもありますが、話の中身は普通のなんでもないことです。中には大統領に会ったらこれこれのことを伝え、こんなことをお願いしてくれなどと言う人もいますが、それは私の役目ではありません。
小林:お話を伺って、どうしてプーチン少年がラフリンさんから大きな影響を受けたのか納得ができました。ありがとうございました。
ラフリン:大統領は一九六五年、一三歳のときに道場にやって来ました。以来一緒に柔道をやった仲間と今も変わらず同じように付き合っています。喧嘩をした相手、闘った相手と四〇年近くも変わらない友情が続いているというのは、ヴァロージャの人柄をよく物語っていると思います。
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語尾を独特に延ばして上げるラフリン先生の誰は、バルト三国の一つラトビアの友人だった映画監督の話し方と同じだった。おそらくラフリン先生はこの地方の出身だろうと思いながら話を聞いた。
とにかく飾らない人だ。この人のそばで暮らしていたら、知らず知らず身の処し方について影響を受けるだろうと思わせるような人だ。一人の素行の定まらない少年に影響を与えたラフリン先生はもちろん偉大だが、話を聞きながら、ラフリン先生の徳に触れ、それを感じ取る感性を持った少年も大したものだと思う。教育は双方向である。
ラフリン先生はロシアで大統領を作った人としてつとに有名だ。だから会う前には多分大統領の先生であったことを、多少なりとも自慢するだろうと予測していた。しかし結果はまったく違っていた。インタビューでおわかりのように、自慢話ができるように仕向けても、結局私の思惑は外れた。
自分が模範となることで影響を与えるという、教育者の原点をしっかりと身に付けた方と思い知った。
インタビューの中でラフリン先生が一回言いよどんだところがある。大統領の評価を尋ねたとき、言葉を発しかけて沈黙した。その沈黙はかなり長く続いた。私はこの部分はインタビューの直前に起こった北オセチアの学校占拠事件のことであったと推測する。
二〇〇四年九月一日の入学式の日、コーカサス山脈の麓の地方、北オセチアのベスランでチェチェンのテロリストが入学式に集まった児童と父母一〇〇〇人近くを体育館に閉じ込めた事件である。テロリストは三日間にわたって児童たちに水も与えず脅し続けた。
プーチン政権はテロリストとの交渉を拒否し、丸三日経った昼に武装部隊を突入させた。世界のテレビが中継する中で撃ち合いと爆発音が響き、裸の子供たちが裸足で逃げ出して来た。しかし多くは逃げ出すことができず、三〇〇人以LLもの児童と父母が犠牲になった。
テロリストに対するこの対応はロシアで論議を巻き起こしたが、多くは子供の命を救えなかったプーチン大統領への批判となった。
不良少年プーチンを変えた教育者であるラフリン先生は、この事件の処理について何か言いたいことがあったのではないかというのが、沈黙についての私の推測である。
この事件は教育の重みについて考えさせる出来事だった。裸で逃げ出して来た子供たちが真っ先に掴んだのはペットボトルの水だった。いかに非道な扱いを受けていたかがこの事でわかったが、私が驚いたのは、逃げ出して来た子供たちが、いきなりマイクを突き出され質問を浴びせかけられたのに対して、冷静に理路整然と答えたことだ。犯人たちの言動、体育館の中の様子を、まだ銃声が響いている中で、日本の中学生に当たる子供たちが話しているのだ。私はこの子供たちの態度に始めは驚き次に納得した。それはこの地域の子供への教育の仕方を知っていたからだ。
北オセチアは日本の四国ほどの広さだが、氷河をいただく五〇〇〇メートル級のコー力サス山脈の麓の貧しい地域だ。この地方で育ち、今世界的に名前が知れわたっているのが指揮者のワレーリー・ゲルギエフだ。ソビエト崩壊の直前にサンクトペテルブルクの芸術の殿堂「マリインスキー劇場」の芸術監督になり、がたがたになりかけていたロシアのオペラ.バレエ・音楽の伝統を見事に守り抜いた。危機に強い男だ。
彼の危機を乗り切ったやり方に感動し、八年前に彼のドキュメンタリーを作ったとき、彼は子供の頃の遊び場だった深い谷川の奥に私を案内し、てんなことを言った。
「私はこんなところで育った。山の天気は急変する。突然嵐になり、谷川は溢れ、何もかも押し流す。そんなときうろたえてはいられない。とっさに判断し行動しなければ生き残ることはできない。僕の性格はこの故郷の自然で養われたのだ」
銃声の聞こえる中で冷静にテレビのマイクに向かって話す北オセチアの子供たちを見て、彼らはゲルギエフと同じ育ち方をしているのだろうと納得した。少なくとものほほんと育ってはいない。
優れた教育者であるラフリン先生が、悲劇的な事件の処理を指揮したかつての教え子に何を言おうとしたのか。自然が人の性格を作るといってもひどく時間のかかることだろうし、柔道を教えることによって人間を作るというのも気の長い話だ。ラフリン先生の気持 むちはわからないが、時間をかけて聞いてみたい話だ。 『プーチンと柔道の心』p.217~
 プーチンの柔道の師・ラフリン先生
 プーチンと山下泰裕
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