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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
人生は〝運〟だ
亀さんが毎週楽しみにしているのが、日経系ウェブに載る「乗り移り人生相談」というコラムだ。中でも、3日前にアップされた213号、「人生を決めるのは運と縁とセンスだ」という記事には深い共鳴を覚えた。同コラムで島地勝彦氏は以下のように語っている。

世の中には努力や勤勉ではどうしようもないことがいくらでもある。ある日、ただ道を歩いているだけで、上から落ちてきた植木鉢が頭を直撃し、あの世に行ってしまうかもしれない。それは努力で防げるものじゃない。その一方で、信じられないような幸運に恵まれる人間というのもいる。上官のちょっとした気まぐれでアッツ島への派遣が取りやめになって玉砕を免れ、電車に飛び込むも全身打撲で一命を取りとめ、運転していた車が踏切内で電車に衝突するも奇跡的に生き残り、今では90歳を越えてなお女をヒーヒー言わせている俺の師匠など、まさに強運のカタマリだ。


なかでも、「運だけが人生を決める」と心底信じていたのが、今東光同様に亀さんが敬愛するシバレンこと柴田錬三郎だった。

シバレンさんも強運に恵まれて生き残った人であり、運だけが人生を決めるという考えだった。何しろ戦争中、南方に派遣される途中、乗っていた船が攻撃を受けてバシー海峡に投げ出され、7時間にわたって漂流するという経験をしているからね。

 ようやく救助にやってきた日本の船も敵襲が怖いから、海に浮かぶ日本兵を金魚すくいのように、あっちでチョロ、こっちでチョロと掬ってそそくさと帰っていく。そこで助かるか助からないかを決めるのは、精神力でも生への執着心でもない。仲間が次々と「お母さん」と叫んで海に沈んでいく中、シバレンさんは何も考えず虚無になったと言っていた。そのシバレンさんが助かったのは単に運が良かったからとしか言いようがない。それだけの経験をすれば人生を決めるのは運であると考えるのは当然だろう。


亀さんも己れの人生を振り返ってみるに、幾度かあわやという場面に遭遇しているのに気付く。3年近く世界を放浪していた時を例に挙げれば、アメリカの深南部を旅してライフル銃を手にした老人に遭遇したり、よせばいいのにニューヨークのハーレムをブラブラして危険な体験をしたり、ヨセミテで山頂から真っ逆さまに落下しそうになったりといった体験をしている。なかでも、今思い出してもゾッとするのがニカラグアだ。

亀さんはマヤ文明ティカルの遺跡を訪れるため、パナマから飛行機でニカラグアの首都マナグアに飛んだ。到着した日はマナグアに一泊、翌朝はバスでマヤ遺跡で有名なティカルを目指して発ったのだが、その数日後の1972年12月23日、マナグアで巨大地震が発生、街の90%が崩壊、19,120人が亡くなったというニュースを、ニューヨークで実家からの手紙で知った。亀さんが19,120人の中に入っているのではと、たいそう心配していたという。

ところで、亀さんが高校生の時は二輪免許は自由に取れたし、オートバイを乗り回していたクラスメートも多かった。そのうちの一人は卒業寸前、バイクで踏切を渡ろうとしたところを電車に撥ねられ即死している。また、別の同窓生も国道299でオードバイを飛ばしすぎて転倒、やはり即死している。

思い出せば、亀さんも交通事故であわやという場面が幾度かあった。

小学校三年生の時、狭い路地から左右を確認せずに急に自転車で飛び出したため、目の前で大型ダンプカーが急ブレーキを掛け、ギリギリで停まってくれたことがある。運転手が顔を出して、拳を振り回して「馬鹿野郎」と叫んでいたのを思い出す。

高校生だった冬のある時、仲間と奥多摩へツーリングに行った時のことだ。その帰り道、トンネル内で氷に乗ってしまい転倒、直ぐ後ろを走っていた車が転倒したバイクの上に乗っかかるような形で急停車した。運良く、亀さんは反対車線に投げ出されたため助かった。尤も、もし反対車線から車が来ていたらアウトだったのだが…。

地元の悪友とサイパンに遊びに行った時もそうだった。連中とレンタカーで島内を観光した時のことだった。車が一台しか走れない道幅の狭い道路を亀さんが運転していたんだが、両側が背丈2メートルを超えるサトウキビ畑だったため、前方しか見えない…。そんな道をドライブしていた時だ。急に左右が開けたと思ったら、再び左右がサトウキビの〝壁〟の道に戻った…。

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何が起きたかと言うと、前しか見えない道だったため、まさか広い道が交差しているとは夢にも思わず、アクセルを踏んだまま広い道を横断してしまったわけだ。もし、広い方の道を車が通過していたら、大事故になっていたところだった…。

手許に、東明社の吉田寅二社長からいただいた『運命の研究』(武市雄図馬著)という本がある。今までに幾度か紐解いたことがある本なのだが、未だに最後まで読み通したことはない。何時の日か、同書を最初のページから紐解きつつ、運命について熟考してみたいと思う亀さんであった。

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寅さんのことば 78

俺か? 恋をしていたのよ。


第15作「寅次郎相合い傘」からだ。昨夕の記事で佐藤利明氏は、「おなじみの役者さんを見つける楽しみもまた、映画の味わい方の一つだと思います」と述べ、谷よしのと大杉侃二郎の二人の役者を紹介していた。しかし、亀さんには二人の顔が思い浮かばない、というより初めて耳にする役者名だ…^^; 谷よしのは旅館の女中を演じていることが多いとのこと、今度注意して見てみよう。大杉侃二郎は「寅次郎合い傘」でラーメンの親父として出演しているとあるから、今度同作品を見るときに顔がわかる…。

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ところで、昨日は第10作の「寅次郎夢枕」を見た。途中までは初めて見る映画だとばかり思っていたんだが、米倉斉加年演じるインテリの岡倉金之助が寅さんに「何か歌え!」と強制され、突然「きよしこの夜」を歌い出すシーンを見て、咄嗟に遠い昔見たことのあるシーンだと気付いた。確認してみたところ、同作品は1972年12月29日公開とある。その頃の亀さんは半年に及ぶ中南米放浪の旅を終え、ニューヨークに到着、必死に仕事を探していた時期なので、同作品を映画館で見ていないことだけは確かだ。だから、多分テレビで放送されたものを見たのだと思う。

このように、作品が上映された年月日を知り、その頃の亀さんは何処で何をしていたのかなと、昔を思い浮かべながら「男はつらいよ」シリーズを見るのも、ささやかな楽しみの一つなのだ。

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寅さんのことば 77

そこが渡世人のつれえところよ。


これは各作品で寅さんが呟くことの多いことばだ。このことばで最近印象に残るのは、第6作「純情篇」のラストシーンだ。昨夕の東京新聞の記事で佐藤利明氏も指摘していたように、生琉里の柴又を旅発つ寅さんの胸の内を一番良く知るのも、やはり妹のさくらなのだということが、あのラストシーンを見ているとわかる。血は水より濃しというわけだ。

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昨夜あたりから、漸く寅さんのDVDを見る時間ができた。その時に読んだDVDマガジンに、「男はつらいよ」で色んなマドンナが登場するが、本当のマドンナは妹のさくらだという行を読み、なるほどと思った。

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寅さんのことば 76

俺の言うことなんか、気にすんなよ。きっと、幸せになれるから、な。


第23作「翔んでる寅次郎」からのことばだ。佐藤利明氏の記事によれば、一組の男女の恋物語で、男は邦男(布施明)、女はひとみ(桃井かおり)が演じている。しかし、恋愛の話でありながら、同時にお互いの幸せを願うという、「男はつらいよ」が多くの人たちに愛される、〝いつもの〟パターンも織り込まれている作品のようだ。

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この作品も是非見てみたいが、今月は連日のように仕事の締め切りに追われているので、なかなか「男はつらいよ」を見ることができない(笑)。今朝もヨーロッパの会社に現地時間で、9月26日朝9時提出の仕事があり、日本時間でいうと今日の午後6時だ。今朝はいつもより早く起きて、これからラストスパートをかけるつもりだ。夕方の6時までは16時間あるので、まぁ何とかなるだろぉ…。このあたりが、フリーランスの辛えところよ。

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寅さんのことば 75

ああ、どうしてこうも一週間が長いかねぇ。


第14作「寅次郎子守唄」からだという。資金繰りに追われているタコ社長にとっての一週間は、アッという間に過ぎ去る。一方、「暇なら腐るほど持っている。無えのは金だけだい」と言う寅さんの場合、一週間というものが長くてしょうがない…。そのあたりの違いを見事にビジュアル化してみせたのが、第14作「寅次郎子守唄」だということを、佐藤利明氏の記事で知った。

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今の亀さんは仕事を持っており、しかもフリーランスなので、まさに一週間は矢のように過ぎ去っていく。しかし、十代のころに世界を放浪していた時は、時間が止まっているような錯覚に陥ったことがしばしばあったなぁ…。

ともあれ、このままではアッという間に人生が終わってしまいそうだ。だから、〝人間本来〟の時間感覚を取り戻すため、機会を見て世界各地の知人友人を再訪したいと思っている。特に、南米にはもう一度行ってみたいね。ちなみに、敬愛する今東光和尚も南米大陸に魅せられた一人だった。
今東光とゼスイット

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雨ニモマケズ
東日本大震災前のことだが、『英語で読み解く賢治の世界』という本を購入したことがある。サーッと目を通して、高校生だった上の息子にも一読を勧めた本だ。同書の詳しい解説が、「GetUpEnglish」という日本語の個人ブログに載っているので、関心のある読者は一読して欲しい。今でも、1日に1回は必ず訪れている、亀さんお気に入りのブログだ。

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そんな折り、先週の土曜日(9月21日)の東京新聞夕刊に、素晴らしい記事が載った。冒頭の「賢治の詩を英訳」という見出しを見て、『英語で読み解く賢治の世界』を著したロジャー・パルパース氏だと直ぐにわかった。

亀さんは翻訳を仕事としており、英語を日本語に訳すという英日翻訳が主なのだが、己れの日本語を磨く上で様々なヒントをもたらしてくれたのが、『英語で読み解く賢治の世界』だった。

二十代の頃、秩父山地麓の自宅から賢治の生まれ故郷花巻へ、一日かけてオートバイで訪問したことがある。民宿に到着したその日、夕食後に泥のように眠ってしまったほどハードな旅だった。その賢治の詩を英訳したパルパース氏を、どうして東京新聞が今になって取り上げたのだろうかと思いつつ、記事を読み進めたところ以下の行が目にとまった。

何のための経済発展なのか。本当の幸せとは何か。そういうことを考えた時、答えを持っているのは、宮澤賢治です。自分は自分だけではなく、自分はあなたでもある。そういう考え方、単なる思いやりとか、感情移入ではない、あなたの哀しみは私の哀しみ、あなたの喜びは私の喜びなのです。そう考えれば、誰でも、近くにいる人のためにできることがたくさんある。


経済至上主義の安倍(晋三)ちゃんや、経団連の米倉(弘昌)の爺さんに読ませたい記事だ(爆)。それにしても、「あなたの哀しみは私の哀しみ、あなたの喜びは私の喜び」という考え方は、まさにフーテンの寅さんそのものではないか…。

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証言 陸軍中野学校 11
昨日、『証言 陸軍中野学校』(バジリコ)の筆者である斎藤充功さんと、都内で数ヶ月ぶりに再会した。その足で、世界戦略情報誌『みち』の執筆者や読者が集う、「まほろば会」の会場へ案内し、『みち』の執筆者である藤原源太郎さん、天童竺丸さん、安西正鷹さんらに紹介する。残念ながら、他の執筆者の落合莞爾さん、栗原茂さん、稲村公望さん、黄不動さん、中村みつぞうさんらは私用があったり、遠方であるといったこともあって、斎藤さんを紹介することができなかったのは残念である。

ところで、斎藤さんと源太郎さんとの間で交わされた、北鮮関連の情報交換は非常に興味深いものがあった。斎藤さんが著した『証言 陸軍中野学校』の「証言6 北朝鮮が受け継いだ中野学校のDNA」は、お二人以外の参加者からも貴重な情報が飛び出している。殊に、安西正鷹さんが陸軍中野学校に強い関心を抱いていることを初めて知り、流石は北朝鮮・韓国の情報通だと思った次第である。なお、拙ブログでも「証言6 北朝鮮が受け継いだ中野学校のDNA」について書いているので、関心のある読者は一読いただければ幸いだ。
証言 陸軍中野学校 2

北鮮絡みで7年後の東京オリンピックも話題に出た。北鮮の〝川砂〟もオリンピック関係の話題の一つで、今後は7年後のオリンピックに向けて、一種の建設ブームが沸き起こると思われるが、必要となるのが川砂だ。しかし、今の日本には十分な川砂は最早無い。中国本土にはあるが、彼の地も建設ラッシュなので自国内で消費されてしまい、日本に回す余裕はない。そこで目を付けたのが北鮮の川砂である。これは、単なる建設材料の取引だけに留まらず、それをきっかけに日本と北鮮との新たな交流が始まることが期待できよう。

また、東京オリンピックと関連して、〝東京マンハッタン計画〟(注:世間で言われている丸の内再開発計画とは全く別のものである。まほろば会のメーリングリストにて後日詳報)という驚愕の話も源太郎さんの口から飛び出し、斎藤さんをはじめとする、その場にいた全員が熱心に耳を傾けていた。

ともあれ、斎藤さんには「まほろば会」を大分気に入っていただけた様子、次回から陸軍中野学校についての貴重な情報に接するのが楽しみになった。

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寅さんのことば 74

一生懸命勉強して、立派な弁護士となり、そこにいる人を必ず幸せにしてくださいよ


第15作の「寅次郎夢枕」からだという。今回の佐藤利明氏の記事の中に、「渥美清さんは子供の頃、世界航路の船乗り、つまりマドロスに憧れていたそうです。寅さんの見た夢は、渥美さんの抱いた夢でもあったのです」という行を読み、咄嗟に今東光和尚のことを思い出した。

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和尚の父親が世界中を航海した船長だったこともあり、和尚も船に乗って海外に行きたいという夢を持っていた。そして、もう少しで実現というところで、母親に猛反対されて中止に追い込まれたと、『極道辻説法』で述べていた。

その今東光が参議院選挙に立候補し、当選したのが1968年だったが、その選挙参謀を知人の栗原茂さんが務めた。その栗原さんは、中学校を出たか出ないかの16歳前後の頃、外国の貨物船に乗り込んでアフリカ大陸にわたり、大暴れしたという武勇伝の持ち主だ。テキ屋にはテキ屋同士にしかわからない〝臭い〟というものがあるのと同様に、旅人には旅人同士にしかわからない〝臭い〟というものがあり、同じく十代の頃に世界を放浪した亀さんなので、栗原さんの言っていることは本当だと肚でわかる。

寅さんは船酔いするタイプのようで、「旅と女と寅次郎」に小型船で佐渡島に渡る時、船酔いしているシーンが登場する。亀さんの場合、南米はエクアドルから、船で三日間かけてガラパゴスに向かったことがあるが、全く平気だった。

ともあれ、第15作の「寅次郎夢枕」に登場するというマドロス姿の寅さん、いつか見てみたいなぁ…。

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寅さんのことば 73

東京でもって迷子になったらな、葛飾の、柴又の、とらやってダンゴ屋を尋ねて行きな。


第7作「奮闘篇」からだ。この榊原るみがマドンナとして登場する第7作こそ、亀さんが十代の頃に厳島で見た初めての「男はつらいよ」だった。その意味で、最も思い出に残る作品のはずなのだが、残念ながらン十年前に一度見たっきりなので、数ヶ月前に〝久しぶり〟にDVDで見たときは、初めて見る映画のような気がしてならなかったし、今でも厳島で見たのは第7作だったのかなぁ…と考えてしまうのだ。時期的にも厳島で見たのは第7作で間違いないのだが…。ホント、自分の頭の悪さ、記憶力の無さが嫌になる(爆)。

さて、佐藤利明氏のことばを借りれば、寅さんは「心優しき人です。困っている人がいたら、黙ってはいられません。とにかく行動の人です」なのだ。そのあたりは冒頭の寅さんのことばにも如実に顕れている。最近、「旅と女と寅次郎」を見たんだが、京はるみ(都はるみ)と別れる時、寅さんは同じようなことばをかけていた。それに対して京はるみは、「うん、きっとそうする」と答えて寅さんと別れたのだった。その後、京はるみが突然柴又の「とらや」に現れ、てんやわんやの大騒ぎになったのだが…。

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ところで、講談社から『寅さんDVDマガジン』というのが出ている。「昭和の柴又商店街」というサイトで、全50巻まとめて販売しているのを知ったので、この機会に「男はつらいよ」を全巻見てみようと思い、今月初旬に発注したところ昨日届いた。今日あたりからゆっくり全巻鑑賞したいと思っていたが、タイミング悪く再び大量の仕事(翻訳)が入ってしまい、当面はお預けだ(泣)。目の前に綺麗なお姉さんがいても我慢できるけど、「男はつらいよ」は我慢できそうにねえなぁ…、ホント、男はつらいよなぁ…(爆)。

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プーチンと柔道
少年時代に柔の道に入ったプーチンは、下手な日本人以上に武道の心を知っている。ある意味、柔道こそプーチンの原点であると言っても過言ではないということが、以下のプーチンのインタビュー記事でわかると思う。出典は『プーチンと柔道の心』(朝日新聞出版)で、残念ながら同書は絶版である。なお、インタビュアはNHKの元モスクワ支局長だった小林和男氏。

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プーチン大統領インタビュー[2003年5月26日]

小林:大統領、こうしてノヴォアガリョーヴァのお宅でお目にかかることができてたいへん光栄です。こちらにお伺いするのはこれが初めてです。実は、今回のインタビューの目的は大統領と柔道との関わりについて伺うことです。柔道と人生について、率直なところをお聞かせいただければと思います。

まず、大統領と柔道との出会いについてお伺いしたいのですが、それはどのようなものだったのでしょうか。大統領はどのような少年時代を過ごされていたのでしょうか。

プーチン:よろしいでしょう。別に隠すようなことではありませんから(笑)。私が最初に取り組んだのはサンボという競技でした。これはソビエトで作られたスポーツです。

ハルランピエフという有名な選手がいて、ソビエトのいろいろな民族の格闘技から要素を取り入れて、サンボというスポーツを作り上げたのです。ちなみに、このサンボという言葉は「武器を用いない自衛手段」というロシア語の略語です。

小林:それは空手のようなものですね。

プーチン:いや、違います。ソビエトの各民族の格闘技からいろいろな技を取り入れて組み合わせたものです。柔道と同じような服装ですが。サンボは今も盛んに行われていて、ヨーロッパ選手権や世界選手権も開催されています。

私が始めたのは一九六六年か六七年頃でした。そして、それから二、三年経って、私がサンボを習っていたグループは全員、柔道に移ることになりました。ソビエトでも積極的に柔道を普及させようという動きがあったからです。六四年から柔道がオリンピック種目になっていたためです。

小林:なるほど。オリンピック対策ですね。

プーチン:そうなんです。そして、私がいたグループは全員、柔道に移りました。それはコーチが決めたことで、私が選んだわけではありません。ただ、そのことで後悔したことは一度もありません。そして柔道が大好きになりました。それ以来、ほとんどずっと柔道を続けてきました。

小林:一緒に柔道をしていた人たちは何人ぐらいいたのですか。

プーチン:そうですねえ。三〇人ぐらいだったと思います。

小林:ここでぜひお伺いしたいことがあります。最初の稽古では何を習われましたか。

プーチン:真っ先に規律が大切だということでした。規律、そしてコーチから教えてもらうことに創造的に取り組むということです。いつも言われたことは、どういう状況でどういう動きをするのか、試合をどういうふうに組み立てるのか、自分で考えるということです。そして、もちろん熱心に練習することです。

小林:どんなスポーツも同じですね。

プーチン:もちろんです。どんなスポーツでも同じことです。ただ、柔道を始めたときに思ったことは、サンボの個々の要素とよく似たところがあるということでした。いろいろな技、投げ技などはほとんど同じでした。違うところがあるとすれば、柔道着とサンボ着がちょっと違うというところでしょうか。サンボ着は体にかなり密着する感じで、ベルトもしっかりと着用します。サンボ着にはベルトを通すところがついています。

柔道着にはそういうのはありませんよね。柔道着はかなりゆったりとした感じで、帯も固定されていません。これは些細なことのように思えますが、投げ技のかけ方がずいぶん違ってきます。
それから、ルールも違います。例えば、サンボでは足への関節技が認められています。膝の欄節やアキレス腱も認められています。柔道では足への関節技は禁止されています。その代わり、柔道には締め技が認められています。これはサンボでは禁じられています。

小林:柔道を習った目的は、世界チャンピオンを目指すことだったのですか。

プーチン:そんな、たいしたことではありませんでした。目標は柔道の力を借りることでした。かなり単純なものです。私は子供の頃不良だったのです。日本の皆さんにわかっていただけるかどうかわかりませんが、ほとんどの時間を外で遊んで過ごしました。つまり、他の子供たちと一緒に、通りでよたっていたということです。ですから、私は「通りで育った」と言ってもいいでしょう。両親は私をまともにしようと、接する時間をなるべくたくさん取ろうとしていました。そのために母は仕事を辞めたくらいです。「通り」には独自の厳しい掟がありました。

特にあのくらいの年齢だと、何か揉め事が起きたときには、数学の方程式が解けるかどうかで勝ち負けを決めるようなことにはなりません。芸術や文学の知識も役には立ちません。たいていは、掴み合いの喧嘩です。はっきり言えば。そして、強いものが正しい、ということになるのです。強い人が頼られるのです。

その頃の私の周りの世界でいい顔をするために、私はいろいろな方法で体を鍛えようとしました。小柄でしたから。ボクシングをしてみたり、レスリングをしてみたり、そうやっていくうち柔道に辿り着いたわけです。ただ、柔道に辿り着いて、私は変わりました。考え方だとか、人生観、他の人との接し方も変わりました。そういうふうに、スポーツ、特に柔道は私の人生の中で大きな役割を果たしたのです。センセイが良かったのです。

小林:柔道の稽古はとても厳しいものがあると思いますが。どうやってその厳しさに耐えられたのでしょう。

プーチン:かなり真剣にやらないといけませんね。最初の段階ではそもそもの動機が強くなることで、自分たちの世界の中でいい地位を得ることでしたから。ただ、そのあとは、そういうことは人生の中で大切なことではないということがわかってきました。

コーチのセンセイや柔道のルール、スポーツクラブの中の人間関係というものから影響を受けて、人生や他の人、周りの世界、友人たちに対する考え方も変わってきました。

試合にも勝てるようになってきて、自分を表現し、自分の存在を確認するための手段が、これまでとは変わってきました。自分の力を見せるために通りで喧嘩をする必要はなくなりました。柔道で、畳の上で自分を鍛えればいいのです。そこにはルールというものがあります。「通り」にはルールはありません。柔道の世界には厳格なルールがあり、自分の力を見せようと思ったら、それはルールの枠の中でやらなければなりません。

そういったこと、それから、スポーツ界のいろいろな精神というものが私にも徐々に影響を及ぼしていったのです。

小林:ということは、柔道が一人の少年を大きく変えたと?

プーチン:柔道だけではありませんが、柔道がかなり大きかったということです。柔道と出会っていなかったらどうなっていたかわからない。それは確かですね。

私の両親は最初、柔道には反対だったんです。

小林:どうしてですか。

プーチン:通りでやっている喧嘩の延長のようなものだと思っていたからでしょう。悪仲間のグループの喧嘩で勝つために柔道をするんだと思ったのでしょう。でも柔道を始めてから私が徐々にいい方向に変わっていくのが両親にもわかったと思います。コーチのセンセイもうちに来て両親にいろいろと話をしてくれました。そうしているうちに、柔道に対する両親の考え方も変わってきました。最初は反対していたのに、反対しなくなっただけではなくて応援してくれるようになりました。私が試合に勝つようになると、とても喜んでくれました。

小林:初めて試合で勝ったときのことは覚えていますか。

プーチン:いや、覚えていません。ただ、中にははっきりと覚えている試合もあります。それは地区の大会とか、クラブの試合で、特にレベルの高い試合ではなかったのですが、勝ったときのことは今でも覚えています。とても苦労しましたから。そういう試合のことは今でも覚えています。そのときの相手には感謝しています。それは、相手も正々堂々と全力で戦ってくれたからです。

小林:最初のコーチの先生は今も活躍していますか。

プーチン:はい。ときどきお目にかかることがあります。今でも指導を続けられています。子供たちを相手に、男の子や女の子に柔道を教えています。今は女子も柔道をやっていますから。とても元気な方で、今も指導を続けられています。そういう意味で、私は運がよかったと思います。センセイはとても熱心な方でしたから。

小林:熱心というのは、つまり……。

プーチン:つまり柔道に人生を捧げている方ということです。柔道と子供たちにです。

とても才能のある方で、お話もおもしろく、もし他の分野の仕事をされていたとしても、やはり優れた業績を残されていたと思います。でも、実際には子供たちの指導に全人生を捧げているのです。そして、柔道に。

小林:真の教育者だということですね。

プーチン:そのとおりです。

小林:広い意昧で。

プーチン:まったくそのとおりです。

小林:柔道では相手の力を利用しますが、最初、どう思われましたか。

プーチン:そのことはすぐにはわかりませんでした。相手の力を利用して自分が勝つことができるというのはすぐには理解できません。鍛錬をしていくうちにわかってくるものです。自分の技能が磨かれて、自分の蓄えがかなり多くなって、そのとき初めて理解できるのです。自分の力、自分の知識、自分の能力だけではなく、相手を知っていれば、その知識を利用して自分の勝ちにつなげることができるのです。それがわかるようになるのは、自分の技能が伸びてからのことです。柔道の選手ならばよくわかることだと思います。

相手の失敗を利用するだけではなくて、相手が何をどうしようとしているのか、どういう技を持っているのか、どういう得意技があるのか、そういうことをあらかじめ知ったうえで、それを克服するわけです。相手の体重の慣性や相手の技の慣性を利用することもできます。利用しようとする、と言ったほうが正確ですかね。

(ここでお茶が出る)

小林:それは緑茶ですか。

プーチン:緑茶ですよ。

小林:お好きですか。

プーチン:ええ。日本や中国からも輸入しています。これは中国産かもしれない。

小林:ところで、柔道のない人生というものは考えられますか。

プーチン:今では考えられませんね。

小林:もし、柔道の先生との出会いがなかったら、どういう人生になっていたと思いますか。

プーチン:わかりません。まったくの仮定の話になってしまいますから。ただ、私の人生は完全に別のものになっていたと思います。たぶん。

小林:ロシアにはいろいろな格闘技があるそうですが、柔道との違いで一番大きい点は何でしょうか。

プーチン:基本的には格闘技はどれも好きです。それぞれの伝統がありますレスリングのグレコローマンスタイルにしても、フリースタイルにしても、サンボにしてもそうです。サンボもおもしろい競技で、そのうちにオリンピック種目になるかもしれませんよ。

ロシァ国内のいろいろな民族には独自の格闘技の豊かな文化があります。コーカサスの多くの民族にとっては格闘技は儀式のようなものです。タタルスタンも格闘技などさまざまなスポーツが盛んなところです。現地のお祭りに行ったことがありますが、広場で大勢の人たちが試合を見ていました。格闘技はスポーツの中でも特に人気があるということです。

小林:柔道を一緒にやっていた人たちとの交流は今も続いていますか。

プーチン:中には柔道をやめてしまって交流もなくなった人もいますが、指導者になった人も大勢います。今でも子供や大人の指導をしている人もいます。滅多に会わない人もいるし、かなりよく会う人もいます。

三年ほど前、柔道をしている友人がサンクトペテルブルクに柔道クラブを作るというのでお手伝いしたことがあります。「ヤワラ・ニワ」というクラブです。ここを通じて私たちがつながっているという面もあります。そこの選手の人たちと会うこともあります。このクラブの選手の大半はロシア代表に入っています。

小林:確か、大統領は一九七六年にレニンクラードで初めて優勝されましたが。その後はどういう目標を立てたのでしょう。ソ連選手権優勝とかオリンピック出場とか。

プーチン:その当時はもう、そういう大きな目標を立てることはできませんでした。すでに保安機関の将校になっていたからです。畔年前から保安機関の仕事をしていて、練習のための時間を確保することができないことはわかっていました。もう、それまでのように柔道のために使える時間はなかったのです。

小林:柔道をやめてしまおうと思ったことはありませんか。

プーチン:まあ、そういうこともありました。柔道をやめなければならないときが来ると思ったこともありました。ただ、ペテルブルクの市役所で働いていたとき、日本の総領事の方から、一〇日間日本を訪問しないかとお誘いを受けたことがありました。まったく意外な話だったので、どうしてペテルブルクの私が日本を訪問するのかと尋ねてみました。当時、私は副市長でした。

小林:サプチャクさんが市長だったときですね。

プーチン:そうです。総領事の方がまた実に率直に話をされる方で、その話では、いろんな国からパートナーを招待する計画があって、たまたま空きがあるのでロシアからも何人か来ていただきたい。そこであなたを招待したい、ということでした。その話を聞いて、悪い話ではないな、と思いました。

ペテルブルクと大阪が姉妹都市になっていることもあり、私は一〇日間、日本を訪問することにしました。そこで、日本ではどういうところに行くのか、と尋ねてみたところ、視察旅行なのでどこでも希望に応じるということでした。いい話ではありませんか。私は大阪、東京、京都を選びました。東京では講道館を見たいと希望を出しました。そこで私にとって意外だった、というよりも、驚いたことがあります。私は上の方の席から稽古の様子を見学しただけなのですが……。

小林:自分でも稽古したい、と思われたんですね。

プーチン:いや、そのときはそうは思いませんでした。講道館の稽古がどういうものか見てみたかっただけです。私は上の方の席におとなしく座って、稽古を見ていました。

若い人、まだ子供の人たちが稽古をしていました。すると、そこにかなり年配の方が二人現れたのです。どのくらいの年齢だったのかはわかりませんが、私には七〇歳以上に見えました。そして、丁寧に慎重にではありますが、三〇分ほど畳の上で稽古をしました。お互いを丁寧に投げることも何度かありました。びっくりしました。まったく予想外でした。本当に印象深い光景で、柔道は一生続けていくことができるし、続けなければならないと思いました。

小林:講道館では、ご自分でも技を披露されましたよね。

プーチン:いや、そのときは何もしていません。見学だけして帰ってきました。二〇〇〇年に大統領として日本を公式訪問したときに、森首相と一緒にもう一度訪れました。

小林:そのときに巴投げを披露されましたよね。

フーチン:ええ、やってくれと言われたものですから。

小林:日本の柔道家の人たちはあの巴投げを見てびっくりしたようです。稽古を続けていなければできない技だということです。ということは、ずっと稽古を続けていらしたということですね。

プーチン:まあ、専門的というほどではありませんが、以前はかなりやっていましたから。全国大会のときにはほとんど毎日稽古していましたし、合宿では一日に二回稽古がありました。それで技が体に染み込んだんだと思います。今では毎日どころか、毎週稽古するのも難しいくらいです。

実はここのトレーニングルームにも畳の練習場があります。後から案内しましょう。

さっき、昔の柔道仲間のことを質問されましたが、昔の仲間がときどき遊びに来て、一緒に稽古することもあります。それから、「ヤワラ・ニワ」の現役の選手がここに来ることもあります。中にはロシア代表の選手もいます。そういう感じで、ときどきは畳の上に立っています。

小林:沖縄訪問のときには形を披露されました。そのとき中学生から背負い投げをされました。ロシアの人たちの中にはテレビでそのシーンを見て、大統領が子供に投げられたのは屈辱的だと言う人もいましたが、大統領は何も弁明も説明もしませんでした。なぜですか。

プーチン:情報は徐々に自然な形で伝えなければならないということもありますが、説明が不要なこともあります。あのときの日本の中学生との柔道の稽古については、日本の皆さんにはわかっていただけると思います。畳の上では、というよりもスポーツの場では、上下関係というものはありません。誰もが平等です。それに畳の上では、お互いに平等だというだけではなく、お互いに敬意を払わなければなりません。そして、相手に対する敬意を表す一番の方法は、相手が得意なことをする機会を与えるということなのです。

小林:礼とはいったい何なのでしょうか。

プーチン:礼とは、伝統に対する敬意でもあると思います。柔道は世界的なスポーツになりましたが、それは勇敢なスポーツだからというだけではなくて、何世紀もの伝統を守っているからでもあると思います。日本文化の伝統です。それが柔道の大きな魅力だと私は思います。今の世界はグローバル化の中で国や人の交流が進み、それぞれの利益だけではなく、お互いに対する利益も絡み合っています。そういう状況下では文化的な伝統という要素が大切になってくると思います。そういう意味で、礼とは伝統と柔道に対する敬意だと思います。同時に、相手に対する敬意でもあります。

小林:敬意ですね。大統領のメソセージには「尊敬される国家」という言葉が使われていますね。

プーチン:年頭教書ですね。

小林:性格ということについてお伺いしたいのですが、大統領はいつも冷静だという印象があります。

プーチン:できる限りそうするよう努めているつもりです。

小林:そのような信条には柔道の影響もあるのでしょうか。`

フーチン:ありますね、もちろん。私の性格は、どちらかといえば短気なほうで、すぐに頭に血が上ってしまうほうです。でも、それが常に好ましい行動ではないことが柔道などを通じてわかりました。それよりも大事なことは自分の気持ちを抑えて、素早い反応、素早い対応をすることで、その方が効果的です。そうして、初めて最高の結果を出すことができます。

小林:大統領は危機的な状況で断固たる措置をとるという特徴をお持ちだと思いますが、ご自分でもそう思われますか。

プーチン:いろいろ危機的な出来事もありましたが、これまでのところうまくいっていると思います。

小林:それも柔道とある程度関係しているということですか。

プーチン:そうですね。もちろん、柔道の影響だけというわけではありませんけれども。ロシアにはかつてスボーロフという優れた軍人がいました。この人の言葉に、「攻撃は最大の防御である」というものがあります。柔道でも同じことです。

小林:大統領は「柔道は単なるスポーツではなく、哲学だ」とおっしゃったことがありますが、「哲学」とはどういう意昧ですか。

プーチン:それは考え方、周囲の世界のとらえ方、そして人との関係、相手との関係です。これまでにも何度か申し上げましたが、柔道は相手への敬意を養います。柔道は勝つために相手の力を利用することを教えてくれますが、同時にルールを守ることも教えています。そして、柔道は伝統とも結びついています。伝統は柔道というスポーツの一部なのです。これがすべてではありませんが、そうしたことが選手の世界観の根底にあると思います。そういう意味で、柔道は単なるスポーツではなく、哲学でもあると私は思うのです。

小林:つまり、柔道を世界的な視野で受け止めておられるということですね。

プーチン:柔道は日本の豊かな文化が産み出したものの一つだと思います。日本文化は独自の方法で世界中の多くの人々の心に届いています。その意味で、日本の文化が人類全体の財産であるのと同じように、その文化の一部である柔道も全世界、特にスポーツ界の財産だと思います。

小林:柔道を通じて日本をよく理解できた、と。

プーチン:そうです。伝統という話をしましたが、柔道を始めたときには日本に対する関心も湧いてきました。服装という基本的なところから始まって、「礼」とか「引き分け」とか、柔道で使われる日本語の言葉にも興味を覚えました。そういう言葉がどういう意味で、どういう背景があるのか、どういうルールなのかも知りたくなりました。そうしているうちに、日本から来られた柔道の専門家とお会いする機会も出てきて、日本についての見方や知識はさらに広がりました。まあ、少しずつですけれども、日本に対する興味が自然に生まれてきたということです。

小林:とてもいいお言葉を伺うことができたと思います。大統領の影響力はとても大きいものがありますが、ロシアにおける柔道の将来はいかがでしょうか。

プーチン:柔道にはこれからも盛んになってほしいと思います。きっとそうなると思います。嬉しいことに私の二人の娘たちも柔道を習っています。ロシアだけではなく、世界の多くの国で柔道は人気があります。ロシアにおける柔道の力を示す一例として、ヨーロッパ柔道協会でロシア語が公用語になっていることをお知らせしたい。

小林:えっ、本当ですか。

プーチン:本当ですよ。これはどういうことかというと、柔道は日本民族の文化の一部であると同時に、どんどん国際化が進んでいるということです。これはとてもいいことだと私は思います。こういうグローバル化は人類全体に素晴らしい成果をもたらすと思います。

小林:大統領、柔道への思いを嬉しく伺うことができました。あちらの報道官がもう時間だと言っています。

プーチン:いやもう少し。これから私の道場を案内しましょう。



ソファーにかけてのインタビューはここで終わった。一緒にと促されて公邸の外に出ると日差しがまだ強かったが、松と白樺、菩提樹の大木に囲まれた広大な庭には小鳥の声が響き、心地よかった。

木立の中を二人で共通の趣味のスキーなどについて話しながら二〇〇メートルほど行くと、そこに真新しい煉瓦の建物が現れた。それが道場だと言う。促されて中に入るとまず目に入ったのが見事な等身大のブロンズの座像だ。柔道を知らない私にもこれが嘉納治五郎だとわかる。どうして嘉納治五郎の像がここにあるのか不思議がる私に、プーチン大統領はルシコフ・モスクワ市長が大統領の誕生日のお祝いに贈ってくれたものだと説明した。ルシコフ市長は二〇〇〇年の大統領選挙でプーチン大統領と争った人物だ。大統領の誕生日に、大統領が大好きな柔道の大先達の像を贈ったことで、政治的な力関係がはっきりとわかった。

作者はグルジア出身で世界的な彫刻家のツェレテーリだという。彼の作品はモスクワでもニューヨークの国連本部でも日本のロシア大使館の大ホールでも見られるが、作品は途方もなく大きいものが多く、私の趣味には合わない。しかし嘉納治五郎のブロンズは彼の他の作品と違って品性が感じられた好作品だ。

座像の横が道場への入り口になっている。大統領に促されて道場に入り、私は恥をさらした。プーチン大統領は入り口でぴしっと立ち、礼をしてから入ったのだ。私が柔道をたしなまず、柔道についての知識もないことがすっかり暴露されてしまった。日本の柔道家の皆さんに申し訳ないことをしたと思う。慌ただしく日本を出発して行ったインタビューだったが、柔道の基本精神についてはきちんと知識を得てから臨むべきだった。悔やまれたが時すでに遅し。しかしプーチン大統領は私の非礼を不快に思うそぶりも見せず、道場の案内をしてくれた。

道場は五〇畳ほどもあろうか。畳ではなくブルーのマットになっていて、正面に書と嘉納治五郎の写真が掲げられている。壁に掲げられた書は一字だが読めない。大統領の説明では嘉納治五郎の手になるものだという。一緒に入ったのは、私の他はロシア人のカメラマンだけだ。ロシア人は書などに興味も示さず、残念ながら写真にも収めていない。

書の意味はわからなかったが、私は本当に嬉しかった。日本人がロシアの現職の大統領にこのように敬意を持たれているのだから。そのことを私は大統領に伝えてお礼を言った。心から。しかし感謝の後、一つ質問を加えた。

「大統領が日本人の柔道家に対してこのような敬意を払って下さっていることを知り本当に嬉しいです。そこで伺いたいのですが、大統領は、今お付き合いのある日本の政治家をどう考えておられますか」

これを聞いて大統領が笑い出した。

「君、私はそういう手にはひっかからないんだよ!」

私も大笑いをした。当たり前だ。責任ある一国の大統領が無責任な論評などするはずもない。でも気持ちは通じあって大笑いになった。カメラマンがその笑いを見事に記録してくれた。

時間はどんどん経ってゆく。後ろに控えたグローモフ報道官がしきりに時計を気にして、早く切り上げるよう促した。しかし大統領はそれを制し、カメラマンも報道官も入れずに私を更衣室に案内した。衣装棚を開けると、そこには白と紺の柔道着と一緒にサンボ着もかかっていた。更衣室の隣は温水プールになっている。熱帯植物の鉢が飾られ、窓の向こうにはうっそうとした林が広がっている。

「柔道の鍛錬をできるだけしたいと思っているのだが、なかなか思うに任せない。しかし毎日一〇〇〇メートルは泳ぐようにしている」

そう話す大統領に私はインタビューの記念品として講道館で買ってきた柔道着を渡した。

報道官はますます私たちを急かす。それもそのはずだった。私の後には中国の胡錦濤総書記が初めてのロシア公式訪問でプーチン大統領と会談する予定になっていたのだ。中国との首脳会談の時間を押してまで柔道の話を続けるプーチン大統領の柔道への思いは、インタビューの中で「柔道と出会っていなかったらどうなっていたかわからない」という言葉からもじんわりと伝わってくる。


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プーチン大統領と小林和男氏

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嘉納治五郎のブロンズ像を前に

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和やかな雰囲気のプーチン大統領と小林氏
寅さんのことば 72

自分の家で絶えずお芋を食してるからといって、世間の人みんなが芋を食っていると思ったら、あなた間違いですよ。


第18作「寅次郎純情詩集」からだ。おばちゃんの「お芋の煮っ転がし」から物語が展開する、第18作のマドンナは京マチ子演ずる柳生綾だ。そして、娘の雅子を檀ふみが演じているのだという。

物語は展開し、おばちゃんの「お芋の煮っ転がし」をもう一度食べたいという、余命いくばくもない綾のため、寅さんが袋一杯の芋を買ってきて、それをおばちゃんの代わりにさくらが、泣きたい気持ちを抑えながら料理するシーンがある。

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人それぞれにお袋あるいはおばちゃんの味があるもんだなぁ…。

それから、今回の佐藤利明氏の記事に、寅さんか綾と娘の雅子との食事をして帰る時、寅さんは次のように言ったとある。

親子に送られて表に出る。降るような星空だよ。


千昌夫の「星影のワルツ」を思い出した。

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今東光と寅さん
仕事の合間にネットサーフィンして、色々と面白い寅さんのブログに出会った。「寅さんとわたし」というブログも、そうした一つだ。面白い記事が多く、特に目を引いたのが「現代日本は深刻な〝寅さん離れ〟にある」という記事だった。記事によれば、二十代の若者に「男はつらいよ」を見たことがあるかと聞くと、「10人に聞いてやっと1人見つかる程度」なのだという。一方、六十代に聞くと、ほぼ全員が「男はつらいよ」を見たことがあると答えるとのことだ。亀さんも十代の頃、広島は安芸の宮島を訪れた時、時間が余ったので映画館に入って見たのが、「男はつらいよ」第7作(1971年4月28日公開)の「奮闘篇」だった。そのあたりは、拙ブログ「寅さんのことば 2」にも書いた。

こうした若者の寅さん離れを見てブログ「寅さんとわたし」の作者は、「現代日本における若者の「寅さん離れ」は深刻な状況にあるといわざるを得ません」と嘆く。わかるなぁ、その気持ち。亀さんの場合、人生で最も大きな影響を受けたのが今東光和尚なんだが、最近数名の四十代の人たちに、「今東光和尚を知っているか」と聞いてみたところ、和尚のことを「知っている」と答えた者は一人もいない。『月刊日本』の山浦(嘉久)さんが天才と呼ぶ、鹿屋(愚拙)さんすら知らないというのだから、他の四十代は推して知るべしなんだろう。

しかし、寅さんに関しては食わず嫌いに過ぎないのではないか。道友の馬之介さんも掲示板「みち」の「コーヒーブレイク」というスレッドのNo.168で、以下のように書いている。

借りてくるビデオがなかった時に、寅さんを借りて帰って観ていると、ドラマ好きの4番目の子どもが面白がったので、続けて何本か観ました。私はリリーと寅さんのやり取りが好きです。


確か、馬之介さんの下のお子さんは高三だったと思うが、拙宅の高三の倅も寅さんのような、昭和の臭いがプンプンするドラマが好きなようだ。そのあたりは、「鳶が鷹を生んだぁ~♪」という形で記事にした。

ところで、落合(莞爾)さんの秘史シリーズには文観が度々登場するのだが、それだけ日本史の秘密を解くカギを握る人物ということなのだ。文観と今東光については拙記事「真言立川流と今東光 2」にも書いたが、その後落合さんの秘史シリーズで色々と思うところがあったので、近く「落合秘史」シリーズで述べたいと思う。

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寅さんのことば 71

おまえは社長だろ。社長は上流階級だよ。


第11作「寅次郎忘れな草」からだ。同作が上映されたのは1973年で、当時は国民の九割が自分は中流階級だと思っていたと佐藤利明氏が書いているとおり、まさに「一億総中流」kの時代だった。

ところで、当時の中流階級のシンボルだった、車、カラーTV、クーラーは無く、持ち物といえばトランクだけという寅さんはどうか? 以下は博とさくらの答えだ。

博:財産なんか持っていない人の中にこそ、本当に立派な人がいる。

さくら:(トランクにはカラーTVといったものが入っていないけど)その代わり、誰にもない素晴らしいもの持っているもんね。つまり愛よ。人を愛する気持ち…


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昨日届いた倍賞千恵子著『お兄ちゃん』(廣済出版社)を読んだ。倍賞千恵子が寅さんこと渥美清との交流について述べた本なのだが、読み通して温もりある本だった。以下は、二人の関係がどのようなものだったかを示す、素晴らしいことばだと思う。

『男はつらいよ』で、妹思いのお兄ちゃんと、お兄ちゃん思いの妹を演じあい、そのうち『寅さん』と現実との区別がつかなくなってしまって、いつだってお兄ちゃんだと思い、いづたって妹と思ってくれて、ずっとずっとそのままでいられると信じていたのに。
『お兄ちゃん』p.236


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証言 陸軍中野学校 10
『証言 陸軍中野学校』の「証言13 自決し損なった十九歳の下士官」を読む。証言を行ったのは陸軍中野学校出の大原茂嘉であった。昭和20年8月25日、大原を可愛がってくれた士官学校出の中隊長に、「貴様、俺と一緒に自決してくれ」と言われた。大原は躊躇せずに、「ハイ、わかりました」と応えたという。その時の大原は19歳。しかし、いざ自決という寸前、大原を探していた部下が、「馬鹿なことをするな」と怒鳴りながら、後ろから大原を羽交い締めにした。そして、大原は一命を取り留めたのだった。しかし、隣にいた中隊長は見事に果てたという。

ここで思い出すのが、NHKの大河ドラマ「八重の桜」である。燃え墜ちる会津城下を見下ろしつつ、飯盛山で露と消えた白虎隊の若武者…。拙ブログにも記事を書いた。
ならぬことは ならぬのです

ビッグコミック誌9月25日号の『兵馬の旗』(かわぐちかいじ)に載った、以下のイラストは胸を打つ。

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落合秘史 4
栗本慎一郎の著した『パンツを脱いだサル』の続きとして、「ソ連とユダヤ人」あたりを書こうと思っていた矢先、リチャードコシミズ(輿水正)氏のブログ記事で、「ソ連の最初の政府のメンバーの80%はユダヤ人だった」と、プーチンがマスコミに語っていたのを知った。以下はその新聞記事である(英語)。

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Putin: First Soviet government was mostly Jewish

無論、プーチンが語ったのはそこまでであり、〝アメリカとソ連の冷戦構造もユダヤの捏造〟であったとする、コシミズ氏の主張する〝陰謀論〟までも語ったわけではない。そのあたりに関心のある読者は、コシミズ氏の記事そのものか、コシミズ説を裏付けている『パンツを脱いだサル』を一読いただきたい。
プーチン閣下:「ソ連の最初の政府のメンバーの80%はユダヤ人だった。」

ともあれ、プーチンのことを〝プーチン殿下〟と呼ぶコシミズ氏をはじめ、「世相を斬る あいば達也」といった優れた時評を書いているブログでも、「プーチン大統領こそノーベル平和賞にふさわしい そんな言説が生まれる21世紀」という記事を出ているほどだ。『プーチン 最後の聖戦』(北野幸伯著 集英社インターナショナル) といった優れたプーチン本も出ている。

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このように、プーチンに関する記事が目立つようになった今日この頃であるが、プーチンと〝ツラン〟とを結び付けて書いた記事は皆無に近い。唯一の例外は、飯山一郎翁の「ロシア人と日本人の先祖は同じ…鴨」という記事だろう。無論、飯山翁はプーチンの出自がツランであると、明確に書いてるわけではないのだが…。

ここで、〝ツラン〟という耳慣れぬ言葉が登場したが、ツランについては旧ブログでも簡単に紹介しているので、関心のある読者は一読いただければと思う。
ツランという絆

先を急ぐ。今回はツランと絡めて、プーチンが尊敬しているという嘉納治五郎を取り上げたい。ご存じのように、嘉納治五郎は講道館柔道の設立者であり、プーチンが敬愛してやまない柔道の父である。その嘉納治五郎とは何者だったのか、ツランに詳しいさる筋から仕入れた情報を以下に列記しておこう。

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・嘉納治五郎は現代の役小角である。空気投げの三船久蔵はシャーマン。
・「かのう」はツランの流れであることを意味しており、日本に流れ着いた「かのう」の末裔が嘉納治五郎。


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もし、本当に嘉納治五郎の出自がツランであったとすれば、ツランの生琉里ロシアで生まれ育ったプーチンが、嘉納治五郎を敬愛する理由もなんとなく理解できるではないか。

ここでシベリアと言うと、黒龍会の内田良平を思い出さずにはいられない。なぜなら、黒龍会がツランと結びつくと、あるジャーナリストが語ってくれたことがあるからだ。つまり、内田良平は単身でシベリアを横断、シベリアの地図を作成したというのだが、あの広大なシベリアの地図を作成するのは、到底一人では不可能である。これは、地図作成に〝協力者〟がいたことを示すものだ。その〝協力者〟こそが皇統奉公衆なのだが、皇統奉公衆については落合秘史の最新刊、『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』を参照されたい。

とまれ、草原の道の民(ツラン)の末裔である内田良平はアメリカに送られ、カウボーイの修行を積み、その後は満州に送り込まれた。そうした内田を裏で支えていたのは誰(組織)か…。件のジャーナリストは、〝英国〟だろうと語る。そして、奇しくも、世界戦略情報誌『みち』の藤原源太郎さんが語っていた、「アンドルー王子が今秋来日するが、英国王室と日本の皇室の連合が目的である可能性が高い」という発言と、奇妙にも一致するのである。このあたりは、以下の拙記事を参照のこと。
安倍ちゃん、なんとスーパーマン

日本の〝空気〟
過日、オリンピックの開催地が東京に決まったというニュースに接し、亀さんは直ちに以下のような記事を書いた。
東京に決定…

記事を書いた後、どのTV局もお祝いード一色になっているのに気づき、日本に新たな〝空気〟が誕生したことを知った。そして、同時に思い出したのが、山本七平の著した名著『空気の研究』であった。
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この日本独自の〝空気〟というものは恐ろしいものであり、小室直樹博士も自著『昭和天皇の悲劇』(光文社)で以下のように述べている。

空気(ニューマ)が一変すれば、何人も、これに抗することなど出来っこない。(p.102)


恐らくは、拙記事「東京に決定…」を読み、離れていった読者も少なくないと思うが、それはそれで仕方のないことだ。ともあれ、今回誕生した〝空気〟が、日本を再び誤った方向に導くことのないよう切に祈る。

以下は、今朝の東京新聞

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もう一本、斎藤貴男氏の記事をアップしておこう。

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寅さんのことば 70

勉強したやつは、自分の頭でキチンと筋道をたてて、はて、こういう時はどうしたらいいかなと、考えることができるんだ。


第40作「寅次郎サラダ記念日」で、「人間は何のために生きているのかな?」と、満男に問われた時の寅さんの答えだ。

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また、寅さんはこのようにも言っている。

人間、長い間、生きていりゃいろんなことにぶつかるだろう。な、そんな時に俺みてえに勉強していないやつは、この振ったサイコロの目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがない。


これで思い出したのが第6話「純情編」で、タコ社長の会社を辞め、独立しようかと悩んでいた博が寅さんに吐いたことば、「人生は賭けだよ。ねぇ、兄さん」である。そのことばに思わず、「そうよ、人生は賭けよ! 博、お前、いいこと言うじゃないか」と寅さん…。そこからてんやわんやの物語が始まるのだが、その顛末は以下に少しだけ書いた。
タコタコ揚がれ

「勉強したやつは、自分の頭でキチンと筋道をたてて…」か、頭痛えなあ…(爆)。

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寅さんのことば 69

人の運命などというものは誰にもわからない。そこに人生の悩みがあります。


寅さんは父親と芸者・お菊(ミヤコ蝶々)との間に生まれた子だ。親子仲はあまり良くなかったようで、第44作「寅次郎の告白」では生みの母親のことを、「一生恨んでやろうと思った」と告白している。一方で、「あんなババアでも、一人の女性として見てやんなきゃいけねえ」と優しさ見せる寅さん…。

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この記事を目にして思い出したのが、今東光和尚と母親との関係である。和尚は実母が亡くなったら、「花火を打ち上げて祝ってやる」と公言していたほど母親との仲が悪かった。一方で、母親は和漢洋を能くしたインテリ女性であったと語る和尚でもあった。このあたり、昨夕の佐藤利明氏の記事にもあった、母親に対する「複雑な思いは、寅さんの易断でも分からない人生の不思議であります」に結びつく。

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寅さんのことば 68

長旅をしてきた人は、優しく迎えてやらなきゃなぁ。


第12作「私の寅さん」からだ。さくら一家が旅行に出かける前の日、久方ぶりに戻ってきた寅さんが留守番をすることになったのだが、自分では旅先から葉書の一枚も寄越さないのに、いざ自分が逆の立場に立つと、旅先のさくら一家が心配で心配でならない…。

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1972年3月23日、亀さんも十代の頃に日本を飛び出したんだが、当時はハワイに行ってきたというだけで、町の講演会にお声がかかる時代だった。そんな時代だったもんだから、友人も含め一家親戚中が羽田まで見送りに来てくれた。しかし、その時の亀さんは未知の世界に旅発つということで、これから行くヨーロッパのことで頭は一杯だった…。

しかし、ン十年後、京都の大学に進学することになった息子を駅まで見送りに行った時、初めて見送る立場の人たちの気持ちが分かった亀さんであった。

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寅さんのことば 67

よぉ、備後屋、相変わらずバカか?


このことばは、寅さんが柴又に帰ってきたとき、参道を歩く備後屋に必ずかけることばだとのこと。その備後屋の初代を務めたのが佐山俊二だった。

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1984年に佐山俊二亡き後、二代目を露木幸次という役者ではない小道具係の人が務めた。以下は、フリーアナの渡辺智子のブログからで、隣のおっちゃんが露木幸次だ。渡辺アナのブログには、渥美清と露木の交流も書いてあった。

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http://yaplog.jp/ruke_512/archive/628

「男はつらいよ」は、本当に大勢の人たちの支えがあったのだなと、よく分かる記事である。

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寅さんのことば 66

おばちゃん、俺はこの鉛筆を見るとな、お袋のことを思いだしてしょうがねえんだ。


靴メーカーの営業マンとして就職した満男を中心に展開する、第47作「拝啓 車寅次郎様」からだという。このことばは、仕事が面白くないと不平不満をこぼす満男に対して、寅さんが授けた営業の極意だ。

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「男はつらいよ」を見ていると、必ずと言っていいほどテキ屋・寅さんのシーンが出てくる。そうだった、テキ屋も営業もモノを売るという点では一致している。亀さんも色んな営業の世界を渡り歩いてきただけに、今回の佐藤利明氏の記事を読み、テキ屋としての寅さんに一層の親しみを感じるようになったよ。

一部上場企業の海外営業部から、軽トラでの野菜の行商に至るまで、色んな営業をやってきているし、実際に先輩の営業マンを相手に、目の前に置かれた品物(それこそ、ラーメンからミサイルまで…)を、本気で先輩に売りつける訓練を亀さんは受けている。まぁ、本当に買おうとしてくれた先輩は一人もいなかったところを見ると、寅さんの方が亀さんより遙かに〝仕事ができる〟ちゅうことじゃねえか(苦笑)。

営業マンを対象にした教材として、「男はつらいよ」シリーズはサイコーかもしれないなぁ…。全国の営業マン(ウーマンも)諸君、第47作「拝啓 車寅次郎様」を是非見たまえ!(爆)

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池上彰のシリア観
時事解説者としてテレビで引っ張りだこの池上彰氏であるが、亀さんは同氏の報道番組をまともに見たことがない。そこで、池上彰氏の人物を確認する意味で、昨夜20時、テレビ東京の「池上彰の緊急報道スペシャル 中東情勢緊迫化」を見てみた。

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で、見終わった感想はと言えば、なるほど池上氏というのは物知りで、豊富な知識を披露してくれるものの、如何せん本質を見抜く力はゼロに近いということがよく分かった。同番組は日経系という限界があったにせよ、番組で語っていた以上のことを池上氏か見抜いているとは到底思えなかった。

シリア情勢を見抜く最大のポイントが、今のアメリカを真っ二つに分裂している〝内戦〟である(池上氏はアメリカ国内の〝内戦〟について、一切言及していなかった)。〝内戦〟について亀さんに5年前に教えてくれたのが、世界戦略情報誌『みち』の藤原源太郎さんだ。源太郎さんは民族派ジャーナリストとして、同誌に貴重な情報を提供している。
深層潮流

殊に、以下はアメリカの〝内戦〟について言及した記事である。
深刻な米国社会分裂への一考察

その源太郎さんと同様のアメリカ観を持つ人物に飯山(一郎)さんがいる。以下の記事は飯山さんのアメリカ観を良く表している記事だ。
いま、アメリカは「内乱」で国内が分裂状態

アメリカの〝内戦〟とは、要するに戦争派vs.平和派の対立であり、それがシリア内戦にも色濃く反映されているというわけだ。戦争派にイスラエル、アメリカ(ネオコン)、フランス、アルカイダが一派を成し、一方で平和派の筆頭にロシアのプーチン、そして〝同志〟のオバマがいる。

その飯山さんのプーチン観とオバマ観であるが、他のブロガーを確認してみた限り、プーチンについては飯山説を支持している人たちが多いものの、オバマについては意見が分かれているのが面白いところだ。たとえば、「陽光堂主人の読書日記」というブログでは、以下のようなオバマ観を披露している。

日経の記者も中々苦労して書いています。アサド政権が化学兵器を使用したと断定しているのですから、オバマはさっさと軍事介入すればよいのに、今回は議会の判断を仰ぐそうですから笑えます。後で自分だけ恥をかかないように、責任回避しようとしているのです。
http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-entry-1075.html


このあたりのオバマ観の違いについては、今月あたり源太郎さんに会うので、源太郎さんのオバマ観をじっくり聞いてみたいと思う。
東京に決定…
2020年のオリンピック開催地に、東京が選ばれたという今朝のニュースに接し、暗澹たる気持ちになった。「(福島原発の)状況は統御されています」と語る安倍首相の話は、真っ赤な嘘であることが明白なのに、それでも東京に投票したIOC委員の見識を疑う。

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昨日の夕方、BSジャパンで「〝池上彰×宮本隆治〟懐かしの名曲でつづる昭和の大ニュース」を見た。二時間半にも及ぶ番組であり、これだけの長い番組を始めから終わりまで見た記憶は、映画を除き十年ぶりかもしれない。

同番組では、昭和39年に開催された東京オリンピックも取り上げていた。当時は未だオリンピック精神が輝きを失っていなかったこともあり、日本中がオリンピックで沸いたのを覚えている。あれは確か開会式だったと思うが、小学校に一台しかなかったテレビの前に児童全員が集合、開会式を食い入るように見ていた在りし日を思い出す。

しかし、その後はオリンピック精神も廃れ、1984年のロサンゼルスオリンピックあたりから商用主義、金まみれのオリンピックに成り下がったのだが、2020年の東京オリンピックは、それに加えて放射能まみれのオリンピックとして歴史に名を残しそうだ。
寅さんのことば 65

銭さえあれば、私は今すぐにでも土産を買い込んで故郷へ帰りたいのでございます。


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第4作「新・男はつらいよ」からだ。佐藤利明氏は、高倉健の任侠映画、渡哲也のニューアクション映画同様、アウトローになりきれない渥美清の「男はつらいよ」も、カウンターカルチャーの一つだったと捉えているようだ。その伝で行けば、六十年代に青春を送った亀さんの場合、根っからの反体制派であると言える。尤も、当時は西洋かぶれだったんだが、今は日本の素晴らしが分かる年齢になったという違いはある。

それにしても、六十年代末から七十年代にかけては、カウンターカルチャーに代表されるように、まだまだ体制に反発するだけのエネルギーが日本にはあった。しかし、今では当時の勢いが失せ、毎日の生活で精一杯という人が多く、将来が不安なのだろう貯蓄に走る若者も多い。

未来に希望を見いだせない今日の日本。それでも、東日本大震災を境に、目覚めた人たちが出てきたのは一つの救いだ。「男はつらいよ」シリーズが見直されているのも、そのあたりに理由がありそうだ。

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放射能隠し
一昨日、何気なくテレビを見ていたところ、JOC会長の竹田恒和氏が映っていた。何やら喋っていたので耳を傾けてみたのだが、福島原発の放射能汚染水垂れ流しの事実を知る者として、耳を疑うような竹田氏の発言であった。発言内容の詳細は以下の日刊ゲンダイの記事を読んでいただくとして、今まで皇室に詳しい複数のジャーナリストから聞いていた、竹田恒和氏の人間性を巡る噂は本当であると確信した次第である。

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亀さんは『明治憲法の真実』という本を最近読んで甚く感動しただけに、竹田恒和氏が明治帝の曾孫というのが不思議でならない。

憲法の条文原案をつくったのは伊藤(博文)や井上(毅)でしたでしょうが、それをこのようなさらに一段高い次元に引き上げたのが、この天皇のご存在であったというべきでしょう。天皇には政府方も反政府方もありません。そのそれぞれの尊重すべきよきところを採用されながら、その意見の異なる両者を、より高い次元で一つに統合されていかれるのが天皇のお役割であったのです。まさにそのような天皇がおられたればこそでき上がった憲法が、この明治憲法というべきで、まさに欽定憲法なのでした。
『明治憲法の真実』p.165


世界中の識者が、福島原発の放射能汚染水垂れ流しに心を痛めている中で、竹田恒和氏のあのような発言はなかろう。日本の恥だ。

今、太平洋はどうなっているのか、以下のブログ記事を一読願いたい。
カリフォルニア沖の魚は1年以上前から放射能汚染されている
寅さんのことば 64

俺なんかどっちかっていうと静かな女がいいね。俺こうみえてもね、おしゃべりなんだよ。


第37作の「幸福の青い鳥」からだ。

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大勢のマドンナに恋をした寅さん、その寅さん好みの「マドンナは誰か」と、佐藤利明氏が考えを巡らせたところ、第32作「口笛を吹く寅次郎」で寅さんが出会った、備前高梁の蓮台寺の娘・朋子を演じた、竹下景子ではないかという結論に達したそうだ。そのあたりの詳しいことは、最後の佐藤利明氏の記事に目を通していただくとして、亀さんもなるほどなと思ったよ。竹下景子とは同世代で親近感を持っていたし、二年ほど前にNHKの「ファミリーヒストリー」に竹下景子が登場していたんだが、彼女の父親を描いた素晴らしいドキュメンタリー番組だった。同番組を見逃した読者は、以下を参照されたい。
http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/59518/index.html

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寅さんのことば 63

ちょいとだけ、いい男ぶらしてくれよ。


第45作「寅次郎の青春」からだ。マドンナには蝶子(風吹ジュン)という、変わらぬ日常に満ち足りぬものを感じていた女性が登場する。佐藤利明氏の記事を読みながら、昨夕のNHKのクローズアップ現代に登場していた向田邦子を思い出した。向田はある意味、自由奔放な人生を送ったと言っても良く、遺された作品には家族をテーマにしたものが多い。亀さんは第45作は見ていないので何とも言えないが、もしかしたら蝶子の求めていた答えが、向田作品の中にあるのかもしれない。

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ところで、甥の満男は吉岡秀隆という子役が演じているが、一般の社会人になっているとばかりに亀さんは思っていた。ところが、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で茶川竜之介を演じていたのが、吉岡秀隆だと最近の記事か何かで知った。全く気が付かなかった(笑)

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寅さんのことば 62

いい女だなぁ。この女を俺は大事にしてぇ、そう思うだろ。それが愛ってもんじにゃないか。


佐藤利明氏の記事によれば、第36作「柴又より愛をこめて」からだそうだ。本当に寅さんは、女性に対する気配りが細かい、ちゅうか惚れやすい渡世人だなぁ…(笑)。第36作に登場し、やはり寅さんに恋の悩みの相談に乗ってもらったという、タコ社長の娘のあけみ(美保純)のことばではないか、ホント、「どうして寅さんに、お嫁さん来ないんだろう?」と亀さんも思う…。

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亀さんも「いい女だなぁ」と思った女性は今までに何人も居る(笑)。今日は沢山ある亀さんの思い出の中から、一つ…。

亀さんが高校生の時は文通というのが流行っていたんだ。流行の尻馬に乗りやすい亀さんだったので、最初は日本の同じ女子高校生の幾人かと文通を始めた。ちなみに、亀さんの行っていた高校は男子校で、無粋な野郎ばかりだったもんで面白くも何ともない…。だから、文化祭の時は他校の女子高校生が大勢来校するもんで、どの野郎も目の色が違っていたなぁ…(爆)。

やがて、海外文通にも関心が向くようになった亀さん、初めての文通相手がスウェーデン人の同い年の女の子だった。写真も数葉送ってもらっているけど、、う~ん、実に可愛い娘だった。「お人形さんみたい」という形容がピッタシの女の子だったよ。だから、一所懸命に下手な英語で手紙をせっせと書いたものさ…、あれが亀さんが英語のライティングが上達したきっかけだったし、今日の仕事(翻訳)に生きているんだから、人生何が幸いするか分かんねぇもんだ。

その後、十代後半に日本を飛び出し、モスクワ経由でコペンハーゲンに飛んだんだ。直ぐに彼女に会いに行かずに、最初は英語の通じるロンドンに行き、そこでバイトして旅行資金を稼いだら、数ヶ月ヨーロッパを回る途中でストックホルムに寄り、彼女に会うつもりでいた。

ところが、ロンドンでは英会話学校に通いながら、イタリア系のレストランで皿洗いのバイトをしていたんだが、そこは中南米を中心に世界各国の若者が大勢居た。その中に亀さんよりも2歳年上の綺麗なアルゼンチンのお姉さんがいて、亀さんはそのお姉さんが好きになったんだ。忙しい昼の時間帯がすぎると、堂々と店のテーブルに座り、彼女と楽しいお喋りを延々と続けたもんだよ。そんなもんで、お姉さんの国・アルゼンチンに行ってみたいという気持ちが強くなり、ロンドンからブラジルのリオに飛んだというわけさ…。中南米を一周したら、アメリカで稼ぎ、再びヨーロッパに舞い戻ってスウェーデンの女の子に会うつもりでいたんだが、結局アメリカ生活が長くなりすぎ(2年)、ヨーロッパは断念した。

件のスウェーデンの女の子なんだが、当時の彼女の手紙が残っているはずなので、仕事で暇になったら探し出し、ン十年ぶりに手紙を送ってみようかと思っている。ちなみに、アルゼンチンのお姉さんとは今でも交流が続いており、彼女はカトリックなもんだから、下の娘のゴッドファーザー(義父のようなもん)に亀さんを指名してくれたんだ。2~3年後の話になるが、上の息子が大学を終えて社会に出たら、お姉さんやその子供たちに会いに行きたいと思っている。互いに連絡が取れるようだったら、スウェーデンの〝元〟女の子とも会ってみたいと思っているんだが…。

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明治憲法の真実
『教育勅語の真実』を読んだ勢いで、同じ伊藤哲夫氏の筆による『明治憲法の真実』を取り寄せてみた。同書を読み進めていくうちに、伊藤氏が『徳川慶喜公伝』に目を通していることを示す行(p.37)を目にし、思わず背筋を伸ばした次第である。『徳川慶喜公伝』を巡るエピソードについては、以前に拙記事にも書いたことがあるので、関心がある読者に目を通してもらえたら幸いだ。
松平容保、京都守護職拝命

最近、憲法改正を巡っての議論が喧しい。しかし、こうした時だからこそ、〝明治憲法の真実〟を知っておく必要があるのではないだろうか。殊に、昭和五年以降に生まれた日本人は、戦後のGHQ教育の影響をモロに受けているだけに、亀さんを含めた殆どの人たちが、明治憲法に対して悪いイメージを抱き、そのくせ実際の明治憲法の成り立ちや、その精神に無知であるというのが本当のところだ。

ここで、伊藤氏の発言を引用しておく。

憲法を英語でいえばコンスティチューション、つまり国家の構造、国家の成り立ちという意味になります。その意味で、明治憲法はあくまでそのような「近代日本国家の成り立ちにかかわるもの」ということができるでしょう。

翻って、現在の日本国憲法はどうでしょう。

結論からいいますと、私は現在の日本国憲法は本当の憲法ではないのではないか、と考えています。もちろんこの憲法には評価すべき点も一部あることは事実です。しかし、この憲法はむしろ先の戦争でわが国を敗北させたアメリカが、この日本という国を二度と「脅威」にならない国にする、つまりその力を削ぎ、弱体化することを目的として日本に強要したもの、というのが本質だと思うのです。

『明治憲法の真実』p.186


同感である。この機会に同書に目を通してもらい、憲法の本質を考える足がかりとしてもらえたら幸いだ。本ブログのルーツが今東光であるが故、近く今東光の〝憲法論〟も公開していきたい。

【追記】
『明治憲法の真実』のp.31に水戸学が登場する。これは水戸光圀の正体と深く関連する話であるが、関心のある読者は落合秘史シリーズの一冊、『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』の一読をお勧めする。

【追記】2
『明治憲法の真実』のp.116も重要なメッセージが含まれているので、以下に転載しておこう。

『古事記』『日本書紀』を研究することは非常に大切なことである。この国に生まれたあらゆる人間が学ぶべきことであるといってもいいだろう。洋の東西を問わず、憲法や政治百般について、その基礎を自らの国の歴史の典籍にとらない国はない。その国の歴史、それを記した古典、慣例にこそ、その国の憲法、並びに政治の源である。そこを押さえねば憲法は考えることができないし、政治もまたできはしない。


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寅さんのことば 61

私は性格的に、何でもしゃべりやすい方ですから。


第20作「寅次郎頑張れ!」からだ。とらやの二階に下宿していた良助(中村雅俊)が、とらやの近くにある食堂の看板娘・幸子(大竹しのぶ)に恋をする。そのキューピッド役を買って出たのが我らが寅さんだった。そして、映画の後半は舞台が長崎・平戸島に移り、マドンナが登場。良助の姉の藤子(藤村志保)に寅さんが一目惚れ、そして寅さんの恋の顛末はいつもの通りのパターンになるわけだが、毎回同じパターンの繰り返しなのに、「男はつらいよ」シリーズの人気が衰えなかったのは凄いと思う。

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記事の中に「相手の悩みに“うんうん”と耳を傾け、気持ちが沈んでいたら、面白い話をして、相手の気持ちを明るくさせてくれる寅さん」とあるが、最近見た第31作「旅と女と寅次郎」でも、失恋して気持ちの沈んでいた〝訳あり〟の女と意気投合、佐渡島に渡り民宿で酒を酌み交わすシーンがあるが、そこにも相手の気持ちを思う寅さんの優しさが滲み出ていた。やがて、酒を酌み交わしていた相手が、誰あろうあの有名な演歌歌手・京はるみ(都はるみ)だと寅さんは知るのだが…。

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亀さんも十代の頃に友人と二人で東北を旅し、民宿に泊まったことがある。老夫婦が経営する民宿だったんだが、やはり上の映画のシーンにあるような居間の炬燵を囲みながら、その老夫婦と楽しく語り明かした在りし日を思い出す。

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