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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
寅さんのことば 59

レントゲンだって、あれ、ニッコリ笑って写した方がいいと思うの。だって明るく撮れるもの。そのほうが。


第32作「口笛を吹く寅次郎」からだ。健康診断でレントゲンを撮られた時、ニッコリと笑った寅さんに対して、「レントゲンを撮る時には、笑う必要はない」と医者。それに対して寅さんが返したことばが上記だ。そこから佐藤利明氏の記事は、昔の写真には様々な思い出が込められていたという話になる。

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亀さんも、1972年に中南米を放浪した時にカメラを持って行ったんだが、使用するフィルムをカラーにするか白黒にするかで、日本を発つ前に大分悩んだ。今のようにデジカメや携帯で気軽に写真が撮れる時代と違って、当時のカラーフィルムは貴重品で、一般庶民にとっては途方もなく高価なモンだった。結局は清水の舞台から飛び降りるつもりでカラーフィルムにしたのだが、今では良かったと思っている。

今日の写真と言えばデジタルが主流で、その場で撮影した写真を確認できるし、しかも一枚の記憶メディア(現在はフラッシュメモリが主流)に大量の写真を撮れるようになった。しかし、昔はフィルムを使用していたし、撮影後の現像も街の写真屋さんに頼むのが一般的だった。

その街の写真屋さんだか、ちょっとした思い出がある。1970年代の後半だったと記憶しているが、独りでインドネシアはバリ島に遊びに行った時、同島のクタビーチを訪れたことがある。そこには、一糸纏わぬ姿の若者がビーチで甲羅干しをしていた。亀さんは好みの綺麗なニュージーランドの女の子に語りかけ、1時間近くもアレコレ語り合ったんだが、その様子をインドネシアの友人が写真に撮ってくれた。

そこまでは良かったんだが、当時は趣味で写真を現像していた一部の人たちを除き、亀さんのような素人は街の写真屋さんに頼むしかない。そこで懇意の写真屋さんに頼んだのだが、写真が出来上がった日に取りに行くと、写真屋の親父が「すけべぇな兄ちゃんだなぁ…」と言いたげな顔をしていたのには困った…(爆)

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寅さんのことば 58

こと色恋の道にかけては、俺の前ではおまえはくちばしの黄色いヒヨコも同然だよ。


第35作「寅次郎恋愛塾」からという。う~ん、流石の亀さんも、色恋の道では寅さんに負けるなぁ…。そして、相手のことを思う寅さんの気持ちはホンモノだ。

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この第35作は1985年の作品というから、昭和60年か…。先帝(昭和天皇)も間違いなくご覧になったことと思う。上の写真だが、今では懐かしいビデオの表紙で、当時は未だDVDが登場していなかったし、やっと光ディスク(CD)が商品化された時期だった。あの時の亀さんは半導体関連のベンチャー企業に勤めていて、社長と一緒にCDのパイオニアを目指そうと、頑張っていた一時期だった。残念ながら商品化には至らなかったが、今では懐かしい思い出だ。

佐藤利明氏のおかげで、それぞれの「男はつらいよ」シリーズの良さが大分分かってきたこともあり、今では通しで全作品を観たいと思うようになった。現在本業(翻訳)で大量の仕事を抱えているが、一ヶ月ほど経って現在の修羅場から抜け出せたら、早速第1作から見始めよう…、と思う亀さんであった。

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日本と韓国の関係は「敵対」以外存在しないのか
行政調査新聞から、韓国関連の最新記事がアップされた。今回は、日本の大手マスコミが報道しなかった、最近の韓国情勢を余すところなく伝えている。

特に、最後の行にあった以下の発言について、どれだけの人たちが真摯に受け止めてくれるだろうか…。

韓国が「日本解体」を求めている以上、こちらも国家の存亡を懸けた大勝負に出る覚悟が必要だ。そのためにも、まずは、中途半端で曖昧なマスコミと官僚を排除しなければならない。自陣を固めない限り勝利はないものと考えよう。


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http://www.gyouseinews.com/pdf/2013082901.pdf

寅さんのことば 57

そりゃこっちが惚れてる分、むこうもこっちに惚れてくれりゃ、世の中失恋なんて、なくなっちゃうからな。


第29作「寅次郎あじさいの恋」からだ。登場するマドンナのかがりは、いしだあゆみが演じていることが分かる。かがりと寅さんの間で恋物語が展開しそうな感じだ。

また、片岡仁左衛門演ずる人間国宝の陶芸家・加納作次郎のことばも深い。陶芸と言えば、落合(莞爾)さん所有の奉天古陶磁について、機会があれば筆を進めてみたいと思う。
紀州文化振興会

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寅さんのことば 56

うかつにもこの年になって初めて気が付いたが、今までにどれだけおまえ達の犠牲の上に生きてきたか。


第28作「寅次郎紙風船」からだ。テキ屋仲間のカラスの常三郎(小沢昭一)を見舞いに行ったところ、「オレが死んだらくさ、あいつを女房にしてやってくれんと」と寅さんは頼まれる。あいつとは、常三郎の最愛の女性、光枝(音無美紀子)だった…。
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映画「男はつらいよ 寅次郎紙風船」から

「男はつらいよ」シリーズは、単なる娯楽映画の域を超えて、「生と死」といった人生の永遠のテーマが展開されている。そして、今回の佐藤利明氏の解説を読みながら頭に浮かんだ言葉が、「無頼」ということばであった。

主に昭和という時代を生きてきた亀さんにとって、無頼といえばやはり、坂口安吾、今東光、柴田錬三郎を思い出す。だから、坂口安吾の書いた作品が亀さんは好きだ。旧ブログでも安吾の作品を紹介しているので、無頼の生き様について知りたい読者に、目を通していただければと思う。本ブログ名「人生は冥土までの暇潰し」も、無頼という生き様と深く繋がっているのである。
勝海舟

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寅さんのことば 55

拾ったら、礼をするのは決まりだい。


このことばが登場する第19作「寅次郎と殿様」は、伊予大洲が舞台である。当地を訪れた寅さん、なけなしの五百円札を落としてしまうのだが、ある老人がそれを拾って寅さんに返してくれた。お礼にとラムネを奢ろうとする寅さんに対して、「いやいや、左様な高価なものを」と老人は固辞するのだが、結局は寅さんにご馳走になった。その後、老人が返礼ということで寅さんを大きな屋敷に連れて行き、〝粗餐〟を馳走する…。なんとその老人、伊予大洲の殿様の末裔だったのだ。その殿様を演じたのが、あの鞍馬天狗の嵐寛寿郎である。

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亀さんも韓国を下関からフェリーで訪れた二十代の時、殿様ではないが日本の総理大臣某と刎頸の交わりを結んだという政商Aの右腕のK氏と、偶然にも釜山で政商Aの所有するホテルで出会ったことがある。そのあたりの詳細は旧ブログに書いているので参照されたい。
『阿片王 満州の夜と霧』

K氏と数日間にわたって豪遊し、そろそろ帰国しようと思っていたら台風が上陸、そのためフェリーで下関に帰れなくなった。そんな亀さんに対して、政商Aが大株主であった日航のチケットを、K氏がプレゼントしてくれたのである。数日間も只でホテルに泊めてもらったり、豪華な食事を奢ってもらったりした上、帰りのチケットまで無料でいただいては申し訳ない、何かお礼がしたいと言う亀さんに対して、K氏は以下のように言ってくれた。


もし、信州あたりで再会したら、蕎麦の一杯でも奢ってくれたら、それでいい。


しかし、未だに約束を果たせないでいる亀さんであった。

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落合秘史 3
世の中にフルベッキ写真という不思議な写真が存在する。

人によって、その集合写真には、西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、坂本竜馬、横井小楠、大村益次郎、果ては明治天皇すらも写っていると主張する人たちもいる。たとえば、『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』を著した鬼塚英昭氏である。

一方、写真に写るのは明治天皇ではないと、明確に否定している人たちもいる。拙ブログの「中野学校」に登場する斎藤充功氏もその一人であり、『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』という好著も出しておられる。その斎藤氏と亀さんの共通の知人が、元慶応大学の高橋信一准教授であり、やはり明治天皇説を否定しておられる。その高橋先生と亀さんは、かなりのボリュームではあるものの、旧ブログにフルベッキ関連の史料および写真も公開しているので、関心のある読者は目を通していただければと思う。
舎人学校・フルベッキ
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「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック

このフルベッキ写真が『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』(p.276)で取り上げられており、断定はしていないものの落合(莞爾)さんは以下の人物が写っていると考えているようだ。
岩倉具定
岩倉具経
宇田栗園
折田彦一
原保太郎

高橋先生が作成したフルベッキ写真を以下に示すが、最後の原保太郎を除いて、落合さんの主張する人物が全員写っていることが確認できる。

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定説では、フルベッキ写真は致遠館の学生の集合写真となっており、亀さんも今まではそのように考えてきた。しかし、今回の落合さんの新著に接し、フルベッキ写真は東山道鎮撫軍の関係者の集合写真だという、落合説を検討する必要性を強く感じている。

尤も、落合さんの東山道鎮撫軍説を受け容れるには、落合さんの主張する〝堀川政略〟および〝小栗忠正の米国亡命〟について、頭ではなく〝〟で理解しないことには、到底受け容れ難いはずだ。よって、今後も機会があるたびに落合説について解説していこう。

いずれにせよ、落合説に関心を持った読者は、落合秘史シリーズの四冊に取り組んでいただければ幸いである。

証言 陸軍中野学校 9
『証言 陸軍中野学校』の「証言4 中野学校の教科書」を読む。当時は課程修了時に教材資料を全て回収していたので、今までは幻とされていた中野学校の教材資料であるが、その教材資料を保管していた人物がいた。著者の斎藤充功氏に教材資料を見せてくれたのは、陸軍中野学校八丙の卒業生・斎藤津平氏である。同氏から斎藤充功氏が見せてもらった教材資料は9点で、表題は以下の通りとある(積み上げると、10cmの高さ)。

『国体学』
『謀略』
『宣伝』
『諜報』
『偵諜』
『人に対する薬物致死量訓』
『伝染病と灸法』
『重慶政権ノ政治』
『経済動向観察』

同資料に目を通した斎藤充功氏の評価は、〝現代の情報戦にも通じる謀略の本質を衝いていて、当時の中野学校が「見えない戦争(Unseen War)」についていかに実践向きに教育したのか、この教材は教えてくれる〟というものであった。情報戦争について詳しく知りたい読者は、佐藤優らのインテリジェンス関連の書籍に当たると良いだろう。

余談ながら、課外授業として忍術もあったという。忍術で思い出すのが、吉宗公のお庭番、あるいは東京皇室の皇統奉公衆である。そのあたりは、落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』に、簡単な説明文が載っているので以下に引用しておく。

 皇統奉公衆には真贋の二種類があり、「真」はアマテルを拝する大峰山系修験で、「贋」はスサノヲを拝する大江山系霊媒衆だそうです。

 皇統奉公衆とは、室町時代に出来た伏見殿配下の各種の特殊技能集団で、高等忍者ですが、その一部は、室町時代からオランダを拠点として海外活動していて、毎年数人の奉公衆がライデン大学に派遣されて西洋学術を学んでいたようです。奉公衆の活動分野は西欧のみならず、当時全く無主の原野であったシベリアで砂金や貴重鉱物の採取をしており、日本に莫大な砂金を招来したと仄聞しています。

『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』p.102


そして、中野学校の課外授業で忍術を教えていたというのが、あの藤田西湖であったと言う。亀さんは同氏の著した『最後の忍者どろんろん』(新風舎文庫)を数年前に読んだことがあり、文章を通じてとはいえ、初めて忍者の世界を〝見て〟驚愕の連続だったのを今でも覚えている。残念ながら絶版だが、古本として未だ入手出来るようなので、関心のある読者は入手されるとよい。

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         『最後の忍者どろんろん』


■ 追伸
斎藤充功氏が入手したという資料の中に、「軍事極秘」と印が押された公文書がある。斎藤充功氏より掲載を応諾して戴いたので、以下に画像をアップする。

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戦前、日本の陸海軍には軍機保護法が制定されていた。情報の重要度に応じ「軍機」、「軍機密」、「極秘」、「秘」、「部外秘」の五ランクに分けて軍事関連の情報を取り扱っていた。

筆者が中野関連で目にした公文書の中に、「軍事極秘」と印が押されたものがある。昭和一四年(一九三九年)八月九日の日付、件名は『後方勤務要員養成所乙種長期第一期学生教育終了ノ件報告』と記され、起案者は陸軍中野学校の前身『後方勤務要員養成所』所長秋草俊中佐。宛先は陸軍大臣板垣征四郎となっている。

この報告書は、同年七月一七日に九段の牛ヶ淵にあった愛国婦人会本部の宿舎を借り受けて開所した養成所に入校した第一期学生たちの教育内容を陸軍大臣に報告したもので、極めて貴重な公文書といえる。おそらく、陸軍省の資料綴りの中に保存されていたものだろうが、戦後まで所持していた人物の名はわかっりていない。この貴重な資料を提供してくれたのは、筆者が一〇年来追い続けている中野学校卒業生の一人で、神戸に住み今年九二歳になる「五丙」出身の五島晃(本人の希望で仮名とした)であった。

『証言 陸軍中野学校』p.63


落合秘史 2
前回の「落合秘史 1」では〝しらす〟について書いたが、『古事記』を偽書と思っている読者、あるいは伊藤哲夫著『教育勅語の真実』(致知出版社)等に未だ目を通していない読者の場合、いきなり〝しらす〟と書いたところで、何のことか分かっていただけないと思う。よって、落合秘史のである〝しらす〟を理解してもらう意味で、もう少し『教育勅語の真実』から引用させていただこう。

漢学・洋学から国学へ 「うしはく」と「しらす」

こうした猛烈な国史古典研究の結果、井上はあることを突き止めます。それは『古事記』にある「しらす(しろしめす)」という言葉に込められた重要な意味でした。

これにはもちろん、きっかけがありました。『古事記』の中に出てくる大国主神の国譲りの一節に、たまたま井上の眼が向いたのです。

このエピソードは、高天が原の支配者であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けたタケミカヅチノカミ(建御雷神・鹿島神宮の御祭神)が、出雲を治めていたオオクニヌシノカミ(大国主神)に「この葦原中国は本来、アマテラスオオミカミの御子が『しらす』ところの国であるから、この国を譲るように」と国譲りの交渉をするお話です。

その中の一説に、「大国主神が『うしはける』この地」と、「天照大神の御子が本来ならば『しらす」国である」という二つの謎の言葉が出てきます。そこで、井上はこの「うしはく」という言葉と「しらす」という言葉はどう違うのだろうか、という疑問を抱き、それを調べてみることにしたのです。

すると、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、「治める」という意昧で「しらす」という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは「うしはく」という言葉が同様な意味で、使い分けられていることがわかったのです。二つの言葉は明確に違う使われ方をしていました。

では、この「うしはく」と「しらす」は、どこが違うのか?

井上は『言霊』という彼が書き残した文章の中で、こう説明しています。

「うしはく」というのは西洋で.「支配する」という意味で使われている言葉と同じである。すなわち、日本では豪族が私物化した土地を、権力をもって支配するというような場合にこれが使われている。

それに対し「しらす」の意昧は、同じ治めるという意昧でもまったく違う。「しらす」は「知る」を語源にしており、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように、わが心に写し取って、それと自己を同一化し自ら無にしようとされるという意味である。

『教育勅語の真実』p.77


そして、次小節の「天皇治世の要〝しらす〟の思想」(p.79)へと続き、冒頭で井上毅は以下のように結論づける。

〝しらす〟の理念こそが国体の根本である。


この〝しらす〟を理解すれば、落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』の根底に流れているものも、やはり〝しらす〟であることに気づくのである。

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落合秘史 1
漸く、落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』を読み終えた。当初、読み終えたらアマゾンのカスタマーレビューに読後感を書くつもりでいたが、実際に読了して色々と思うところがあり、最初に拙ブログで数回「落合秘史」について執筆してから、カスタマーレビューへの投稿を纏めたいと思う。

それにしても、今回も驚愕の情報で満載の『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』だったが、一言で同書の読後感について述べるとすれば、〝しらす〟であろう。この言葉は、井上毅が教育勅語の起稿にあたり、徹底的に国史を追求して突き止めて悟った、日本の心なのだ。そして、この〝しらす〟とは何かを教えてくるのが、以下の天皇皇后両陛下のお写真なのである。

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井上毅の〝しらす〟観について明瞭に解説している本に、伊藤哲夫著『教育勅語の真実』(致知出版社)がある。同書の「天皇治世の要〝しらす〟の思想」という小節から一部引用しておこう。

 外国では国家成立あるいは憲法成立は、君民の約束といった形、あるいは国家契約といった形で成り立っているかもしれないが、日本ではなによりも無私の心で神々の心、民の心を知ろうとされ、それに自らを合わせようとされる天皇の「徳」によって国家は始まっている。これは非常に重要なことであって、日本国家学は日本固有のものであり、決してドイツなど西洋模倣の国家学ではないというのです。
『教育勅語の真実』p81


落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』に流れているものも、やはり〝しらす〟の精神であることは間違いない。

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寅さんのことば 54

おまえと俺が兄弟だったのは昔のことだった。今はおまえは堅気の商人だぞ。


第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」からだ。第1作では寅さんと旅を続ける若者の登(秋野大作)、第33作では寅さんのように放浪癖のある風子(中原理恵)がそれぞれ登場したんだが、若者の将来を思う寅さんは堅気の世界に戻れと諭す。そうしないことには、さくらが言ったように、「こんな暮らしを続けていたら、そのうちきっと後悔するわよ」、といった人生になりかねないからだ。

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亀さんも海外の放浪生活3年、国内の放浪生活1年半(そのうち、1年は住み込みで新聞配達をしながら専門学校に通学)、計4年半で放浪生活にピリオドを打ち、足を洗って堅気の世界に入った(本田技研に入社)。国内の放浪生活については、ブログ友の奥武蔵の山人さんのブログにも少し書いたので以下に転載しておこう。

谷川岳か、懐かしいなぁ…。
二十代前半の頃、ニューヨークで知り合った日本人の板前さんの実家が沼田市にあり、当時定職についてなかった(無職)小生は沼田を訪れ、数ヶ月ほどずうずうしく板さんの家にやっかいになったことがあります。軽トラに野菜を積んで藤原ダム方面に野菜を売りにいったり、藤原ダム付近に住んでいた自然保護運動家の家にお世話になったり、自然保護の展示館の建設を手伝ったりしていました。沼田でオールナイトの映画を見た後、早朝尾瀬沼に板さんの軽トラで行き、尾瀬の大自然の懐に抱かれたこともあります。そんな或日、谷川岳が目の前に聳える喫茶店で、板さんと美味いコーヒーを飲んだ記憶があります.今回の記事を読み、当時、いつか谷川岳に登ってみたいと、漠然と考えたことを思い出しました。もっとも、あれから大分月日が流れてしまいましたが…。

野菜の行商の手伝いをしていた時、何処かのお客さんの家で休んでいたら、アントニオ猪木vs.モハメッドアリの試合が流れていたのを覚えているから、沼田に居たのは1976年ということになります。一昔どころか、大昔の話になりました。


URL | 亀さん #FlJCcfGk
2013/08/22 12:16 | edit


若い時に1年ていどの空白の期間を体験するのは大変良い事で、人生に幅ができてくる。と言っても、いつまでもそのような生活を続けていては駄目で、いつかは堅気の世界に戻らないといけないんだ。亀さんの場合、堅気の世界に戻るのに5年近くも費やしているが、これは恥以外のなにものでもない。ところが、上には上がいるもんで、中高年になっても堅気の生活に戻れない昔の仲間が多い…。

結論として、放浪生活をするのなら、せいぜい20代前半までだね。寅さんは別だけどな(笑)。あれ? いつの間にか、寅さんのように説教調になっちまったい(爆)。

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寅さんのことば 53

インテリというのは自分で考え過ぎますからね。そのうちオレは何を考えていただろうって、分かんなくなってくるんです。


第3作「フーテンの寅」からだ。寅さんのインテリ論で思い出したのが、過日NHKのBSプレミアムシネマで放送された、「男はつらいよ」の第22作「噂の寅次郎」である。木曽福島でバスに乗ると、ナント博の父・諏訪飈一郎(志村喬)が後席に座っていた…。

最後の晩に泊まった旅館で、なにやら書き物をしている飈一郎。その机の上に何か難しそうな本が置いてある…。

飈一郎: これは面白い本なんだよ。『今昔物語』と言ってね…
寅次郎: コンニャクの作り方なんか書いてあるの? おかしな本だねぇ。


諏訪飈一郎を演じた志村喬のことばの端端に、人生の先輩としての重みが窺える。機会があれば見て欲しい作品だ。

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以下は、ウィキペディアに書いてあった諏訪飈一郎役の志村喬について。

志村喬(第1作、第8作、第22作)
博の父で元北海道大学名誉教授。大学ではインド古代哲学の教鞭を執っていた。物静であるが、博の人生選択に強く容喙して反発を受け、家出を招く。博とさくらの結婚式で久しぶりに親子対面し、和解を果たす。第8作では妻を亡くし葬儀が営まれる中で研究一筋だった自身の過去を振り返って、家族の大切さ、人生のはかなさを放浪暮らしの寅次郎に説く。22作出演後、演じる志村喬が死去と共に設定上でも死去。32作目には三回忌の法要が行われる。

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寅さんのことば 52

寂しさなんてのはな、歩いているうちに風が吹き飛ばしてくれらぁ。


このことばは第44作「寅次郎の告白」というんだが、この四十何番台という文字を目にすると、寅さんの晩年期の作品と言うことで、何か寂しさを感じるなぁ…。

それはともかく、「寂しさなんてのはな、歩いているうちに風が吹き飛ばしてくれらぁ」という寅さんのことば、気に入った! ホント、寂しさとの付き合い方をズバリ表現していることばだと思う。いつか、この台詞を使わせてもらおうと思っている。

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寅さんのことば 51

いいかい、恋なんてそんな生易しいもんじゃないぞ。


第10作「寅次郎夢枕」からのことばだという。その第10作が封切りされたのは、1972年12月29日とある。だから、当時小学校三年生の佐藤利明氏が、〝仕事納め〟の父親と銀座松竹で待ち合わせ、第10作を見たというのも頷けるんだ。そして、その頃から佐藤氏は「男はつらいよ」の熱烈なファンだったことを知った。根っからの寅さんファンなんだな…、佐藤利明氏の連載記事をきっかけに、亀さんもそうなったんだけどさ…。

1972年の年末と言えば、亀さんは半年ほどかけて中南米を放浪、そのため所持金が底を尽きかけ、日本に帰る飛行機代すら無くなっていた頃だ。だから、慌ててメキシコシティからニューヨーク行きの飛行機に飛び乗り、何とかニューヨーク空港の税関を突破して、日本人の無銭旅行者が巣喰っていると言われていた、マンハッタンはバンコホテルという所に潜り込み、仕事を探して帰国する資金を稼ごうと思っていたんだ。

だから、飛行機がニューヨークに着き、税関の係員に入国目的を拙い英語で伝えたんだが、万一仕事が目的で入国すると知れたら、即入国を拒否されるのが目に見えていたから、もう必死だった。幸い(?)、亀さんの思いが伝わったのかどうかは知らないが、最後には係員が3ヶ月の入国ビザをポンと押してくれた時、心の中で思わず〝万歳!〟と叫んだもんだよ。

そしてバンコーホテルに無事に着き、その日から職探しが始まったのだが、所得金も確か2~3万円しか残っていなかったもんだから、一日でも早く仕事にありつけないことには、帰国はおろか、ニューヨークで路上生活者しなければならなくなる。だから、亀さんの生涯の中で、あの時ほど必死に生きたことは無かったと思う。その後の続きはドラマチックな展開になるんだが、別の機会に書こう。

大分前置きが長くなったが、「いいかい、恋なんてそんな生易しいもんじゃないぞ」ということば、寅さんだからこそ説得力がある(爆笑)。亀さんも中学二年の時に初恋を体験して以来、色んな女の子に惚れたもんだよ。アメリカには結局2年ほど住んだのだが、ヤンキー娘やヒスパニック系の女の子など、色んな女の子と恋に陥った亀さんなんだが、このあたりの話も別の機会にしよう。

昨夜、NHKのBSプレミアムシネマで「男はつらいよ」を放送するというので、録画しておいた。本日夕方が締め切りの仕事を完成させたら、ビールを飲みながら見るのが今から楽しみだ。どうか、今夕だけは別の急ぎの仕事が入らないでくれと、切に祈る寅さん…、じゃなかった亀さんであった。

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寅さんのことば 50

俺はおめえ、リリーの夢を見ていたのよ。


これは、沖縄を舞台にした第25作「寅次郎ハイビスカスの花」からだ。寅さんが所帯を持つ〝相手〟として、さくらや佐藤利明氏らファンもリリーに期待していたようだ。そのリリーを演じた浅丘ルリ子が「男はつらいよ」に出演していた作品を、確か1本見た記憶があるのだが、どれだったかは今は思い出せない。それほど浅丘は数多くの「男はつらいよ」に出演しているのだ。過日見たNHKの「邦画を彩った女優たち」の倍賞千恵子編でも浅丘ルリ子が登場していたが、浅丘ルリ子が語る「男はつらいよ」についての話は、機会があれば是非耳を傾けて欲しいと思った。

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証言 陸軍中野学校 8
『証言 陸軍中野学校』の「証言1 戦犯になった一期生」を読む。この証言を行ったのは、陸軍中野学校の一期生であった牧沢義夫である。以下は牧沢氏の証言。

中野学校で受けた教育は、私の人生にとって決して無駄ではなかったと思っています。あの時代、日本人は「天皇や国家に忠義を尽くせ」というとが至誠とされていましたが、中野の教育で学生に求められていたものは国体イデオロギーよりも「個としての資質」を求められていました。資質とは「生き延びる諜報員は優秀である」ということなのです。それが、中野学校の基本であったと、私は理解しています。(『証言 陸軍中野学校』p.30)


この行を読み、小野田寛郎少尉のことを思い出した。小野田少尉のことは、「証言 陸軍中野学校 4」を参照してもらうとして、ここで改めて佐藤守氏の言葉を繰り返しておきたい。

国家存立のためには、情報戦とそれに対処する秘密組織が不可欠です。同盟国・米国のCIAはじめ、世界各国はその組織を有効に活用して、過酷な国際戦略を生き抜いています。それが国益であり、勝ち取ることが自国民保護のために必須だからです。残念なのは、戦後の日本政府だけがその意識が全く欠落しており、悲しいことに肝心な情報を同盟国に頼っている有様です。その姿勢は、まさに大東亜戦争で植民地から解放したアジア諸国に代わって、自らが「米国の植民地」に甘んじているように私には見えるのです。(『大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した』p.211)


諜報員=〝草〟については、シリーズにすれば数十本ほどに展開できそうだが、本業(翻訳)に追われるため当面は着手できそうにない。しかし、数年の後には開始するつもりで、少しずつ資料を集めたり、関係者の話に耳を傾けたりしているところだ。

話は変わるが、『証言 陸軍中野学校』の「証言1 戦犯になった一期生」で、亀さんの体験と重なる箇所があった。これは牧沢氏が南米で活動していた時の話である。


日米開戦後は日本を支持してくれて、ビーバ・ハポン(日本万歳)、グリンゴ(南米人が悪意を込めて呼ぶアメリカ人の蔑称)をやっつけてくれて有り難うなどと、現地の人たちに大いに感謝されたものです。
(『証言 陸軍中野学校』p.23)


亀さんは十代の頃、半年かけて中南米大陸を放浪しているんだが、アルゼンチンのパンパス(大草原)を突っ走るバスに乗っていた時、隣に居合わせたのが亀さんと同じ年代のアルゼンチン人の若者だった。すぐにお互いに打ち解け、スペイン語でアルゼンチンのことや日本のことを語り合ったのだが、話がアメリカに及ぶと急にその若者の顔が曇り、「俺はグリンゴ(アメ公)が嫌いだ」と憮然とした顔つきで言い放ったので、亀さんは言葉が続かなかった…。

その南米は、今でもアメリカに搾取され続けている。だから、南米諸国は反米意識が強いのだが、それが顕れたのが過日のスノーデン事件だった。ベネズエラ、ニカラグア、ボリビアが亡命受け入れを表明したのを思い出していただきたい。

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あんこ椿は恋の花
昨日は午前3時から夕方の5時頃まで、急ぎの仕事に取り組んでいた。その後、酒を飲みながら取り寄せた「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」のDVDを観たのだが、心温まる映画だったよ。旅先で都はるみ演じる京はるみという、売れっ子の演歌歌手と知り合った寅さん、別れた後も彼女のことが頭から離れない。そんなある日、突然京はるみが柴又の「とらや」を訪れたのだ。そのため、近所中がてんやわんやの大騒ぎに…。以下は、「とらや」の縁側で京はるみが歌う、「あんこ椿は恋の花」に聞き入る面々だ。

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う~ん、今日は都はるみのCDを聞きながら仕事をやろうかな(笑)。それにしても、落合(莞爾)さんの『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』(成甲書房)が読み終えていないので、なかなか読後感を書けなくて焦る。また、「陸軍中野学校」シリーズや「パンツを脱いだサル」シリーズなど、書きたいテーマは沢山あるのだが、当面は直面している数本の仕事に集中しなければならない。一段落したら急ぎアップしたい。


http://www.youtube.com/watch?v=iLn735YUBxE
寅さんのことば 49

惜しまれて、引き留められるうちが花ってことよ。


第2作「続・男はつらいよ」のことばで、寅さんが妹さくらにかけたことばだ。この第2作に寅さんの恩師だった散歩先生(東野英治郎)が登場、寅さんとの間で心温まる会話が繰り広げられるという設定だ。

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亀さんには恩師と呼べる先生が、小学校時代に一人、高校時代に一人いる。

最初に小学校の時のS先生なんだが、亀さんは勉強が全くダメだったが、何故か絵だけは得意だった。だから、唯一ともいえる長所に目を付けた5年生の時の担任のS先生が、もう担当しているわけでもない6年生の亀さんを、卒業間際に教室に黙って呼んでくれ、絵の具一式を呉れたのさ。尤も、先生の期待に応えることもなく、美術の道には進まずに世界を3年間ブラブラしてしまったけどね。

もう一人の高校時代の恩師は、3年間亀さんの担任だったK先生だ。K先生は性善説を根っから信じていた先生で、人間としての器が大きな先生だった。今でも隣の狭山市に住んでおられ、元気に毎日を過ごされているという。K先生は放任主義で生徒達の進路についてとやかくは言わなかったが、亀さんのような生き方には呆れ返っていたことと思う。それでも帰国後、お会いするたびにニコニコと亀さんに接してくれるのは、やはり先生の器が大きいっていうことだ。

恩師が会ってくれるうちが花っていうことなんだろうな。

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収容所から来た遺書
昨日、フジテレビの「アンビリバボー」を観た。以下に番組の解説があるので、一読いただけたらと思う。

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収容所から来た遺書

確認したところ、『収容所から来た遺書』(辺見じゅん 文春文庫)として、本になっていることも知った。入手次第、読後感をアップしたいと思う。

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          『収容所から来た遺書』


また、「ダモイ」というタイトルで、劇化されていることも知った。

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ダモイ



寅さんのことば 48

私はずっと車寅次郎としてこの地球に止まりたいのですが、そうはいきません。


このことばは、第21作「わが道をゆく」からだという。どうやら、寅さんはUFOに乗って地球にやって来た宇宙人だったようだ! 寅さんの生まれ故郷という第3惑星に、一度寅さんのUFOに便乗して行ってみたかったなぁ…。

ふと天空に目を移すと、そこには夏の天の川が…

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亀さんは今までに、天文学や宇宙論と名の付く本を片っ端から読んできた。旧ブログにも宇宙を取り上げたことがあるほどだ。だから、寅さん=宇宙人説は大変気に入った…、ちゅうより本当だと思っているんだ(爆)。
間違いだらけの宇宙論

それにしても、寅さんは今頃どの辺の惑星で生活しているのかな…?

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シベリア抑留
今日の午後19時57分、フジテレビの「奇跡体験! アンビリバボー」で、山本顕一先生の御尊父・山本幡男のドキュメンタリーが放送される。

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番組について知ったのは、今日の山本先生のツイートからだった。



山本先生が瀬島龍三と二度会ったことがあるとは初耳だ。今後、瀬島龍三について色々と問い合わせすることができればと思っている。以下は、今日放送される「奇跡体験! アンビリバボー」から。

2013年8月15日 19:57〜20:54
68年前の8月15日、太平洋戦争は終結した。しかし、この日をきっかけに新たな地獄の日々を送ることになった65万人の日本人がいた。彼らはソ連の捕虜となり、シベリアの極寒の地で、ろくに食べ物も与えられず、強制労働の末、多くが命を落としていった…。山本モジミさんの夫、幡男さんもその1人だった。冬になると気温はマイナス30℃にも及ぶ極寒の地に幡男さんは抑留されていた。抑留開始から5年が経った時、幡男さんはある場所に移送される…。そこには戦犯としていわれなき罪を着させられ20年以上の強制労働を課せられ、帰国の望みを絶たれた者ばかりが集められていた。絶望が支配する日々、しかし仲間で作った手製の本に幡男さんが書いた“シベリアの青い空”と題された随筆には、夢が溢れていた。そんな仲間に希望を与える存在だった幡男さんだが、45歳の時、咽頭癌を患い、帰国の夢かなわず亡くなった。残されたのは、15ページにわたって記された家族へ向けた遺書…。
日本にいる妻・モジミさんら家族のもとに幡男さんの死亡通知が届いたのは戦後9年が経過した1954年。幡男さんがどのような最期を迎えたかも分からないまま2年以上が経ったある日、1人の男性が“不思議な遺書”を届けに来た…。その遺書の筆跡は幡男さんのものではない。どんな方法で、この遺書はモジミさんのもとに届けられたのか?そこには、仲間たちの命がけの作戦が隠されていた…。


寅さんのことば 47

お前今、なんでも欲しいものやるって言ったら、何が欲しい?


佐藤利明氏によれば、このことばは第26作「寅次郎かもめ歌」からだという。このことばは、さくら夫婦にとって初めての一軒家を訪れた寅さんが、さくらに言ったことばのようだ。その寅さんのことばに対してさくらは、「やっぱりお金かな」とごく自然に答えたところ、寅さんは借金をしてまでかき集めた金を、ご祝儀としてさくらに渡すというストーリーのようだ。

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そのさくらを演じる倍賞千恵子さんの特集を数日前に見た。「寅さんのことば 46」で登場する太地喜和子を取り上げた、NHKの「邦画を彩った女優たち」シリーズに倍賞さんも登場していたんだが、女優・倍賞千恵子の素顔を見ることができる貴重な番組だったと思う。

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教育勅語の真実
伊藤哲夫著『教育勅語の真実』を読む。心洗われる思いをするとともに、改めて井上毅の人物に、一歩迫ることができたように思う。

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ここで、井上毅について手許のマイペディアから引用しておきたい。

井上毅(いのうえこわし)1844‐1895
明治の政治家。熊本藩士出身。藩校時習館,大学南校に学び1871年司法省に入省。岩倉具視,伊藤博文らに用いられ,法制官僚として大日本帝国憲法皇室典範教育勅語等の起草に参画した。1890年枢密顧問官,1893年伊藤博文内閣の文相等を歴任。


最初に、亀さんが井上毅に接近したきっかけは、中川八洋著『皇統断絶』(ビジネス社)であった。皇室情報に詳しい栗原茂さんから、皇室典範について多角的な話を聞いていたのだが、一度己れなりの皇室典範観を立体的に構築しておこうと思っていた矢先、『皇統断絶』に出会ったわけである。

それから数年が経過した今月の11日、定期購読しているメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(第3998号)で、『明治憲法の真実』(伊藤哲夫 到知出版社)の書評に目を通し、伊藤哲夫氏が『教育勅語の真実』(致知出版社)も著していることを知った。アマゾンで同書の目次を確認、中でも注目したのが井上毅と横井小楠の対立を述べた小節、「●重鎮・横井小楠の開国論を批判」であった。亀さんは旧ブログで横井小楠について取り上げているだけに、井上毅と横井小楠との間で、どのような議論が行われたのか、強い関心を抱いたのである。
『横井小楠』(1)
『横井小楠』(2)

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          『教育勅語の真実』


本が到着し、半日をかけて熟読した。そして、横井小楠と井上毅の間で起きた討論よりも重要な発見をしたのだが、それを述べる前に、『明治憲法の真実』(到知出版社)についての宮崎正弘氏の書評を以下に引用しよう.なぜなら、亀さんは同書に未だ目を通していないが、今回通読した『教育勅語の真実』と根底で通じるところがあるからだ。

前作の『教育勅語の真実』もしっかりした歴史考証を重ねての労作だったが、本書を通じて、明治人らがいかに愛国精神に燃え、基本の精神には尊皇のこころがあり、五箇条のご誓文の基礎の上に、イギリスとプロシアから学びつつも、しかも外国人顧問の法律的専門意見を聞きながらも、古事記以来の伝統を重んじた条文となった。 
苦労に苦労を重ねてやっと制定に漕ぎ着けたこと。条文を逐一討議する参議の会議に、なんと明治天皇が皆出席されていたという歴史的事実も評者(宮崎)は、本書とを通じて初めて知ったことだった。
明治憲法には日本の魂がこめられたのだ。
 さらに条文の検討の過程に政変がからみ、板垣、大隈らが介入し、自由党、改進党を懐柔するために条文案の取引があり、これほどの波瀾万丈のドラマが背後に展開されていたことも知るよしもなかった。
 憲法論議を前に、本書は必読文献のひとつとなるだろう。


同感である。今の仕事を片付けた来週にでも、『明治憲法の真実』に目を通してみよう。

さて、亀さんが横井小楠との議論以上に重要だと思った小節とは、『教育勅語の真実』のp.77にあった、「漢学・洋学から国学へ 〝うしはく〟と〝しらす〟」である。冒頭の一部を引用しておこう。

こうした猛烈な国史古典研究の結果、井上(毅)はあることを突き止めます。それは『古事記』にある「しらす(しろしめす)」という言葉に込められた重要な意味でした。


亀さんは旧ブログで古事記について色々な角度で書いているので、このあたりの重要なテーマは別の機会に拙ブログで述べたいと思っている。
寅さんのことば 46

おう、ぼたん、いずれそのうち所帯を持とうな。


第17作「寅次郎夕焼け小焼け」に登場する、芸者のぼたんに寅さんがかけたことばだ。そのぼたんは甘いも辛いもかみ分けた、鯔背(いなせ)な芸者として登場しており、そのぼたん役を太地喜和子が演じたという佐藤利明氏の文章を読み、目が釘付けになった。

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というのも、一昨日観た道友のDVDの中に、NHKの「邦画を彩った女優たち」シリーズがあったからだ。登場したのは若尾文子、倍賞千恵子、大原麗子、寺島しのぶ、田中好子、そして太地喜和子であった。なかでも、最も強い印象を受けたのが太地喜和子という女優だった。だから、「寅次郎夕焼け小焼け」に太地がぼたんとして登場しているのを知り、機会があれば是非第17作を見てみたいと思った。太地のような生き様を貫き通した女に、亀さんは惹かれる。

ちなみに、「邦画を彩った女優・太地喜和子」については、以下のブログでも取り上げているので、関心のある読者は一読してみて欲しい。

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断調亭落丁の日記

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寅さんのことば 45
昨日の東京新聞に載った寅さんのことばは、第23作「翔んでる寅次郎」からだった。

そう、心で歌え、心で。


邦男(布施明)が結婚式で妻のひとみ(桃井かおり)に、「止まり木」という歌を捧げたのだが、その時に寅さんが邦男にかけた言葉が、「そう、心で歌え、心で。みんなも笑うなよ」だった。

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亀さんの歌う歌は音痴を通り越して、〝落語〟の域に達しているんだが、そのため色々と思い出がある。今日は二つばかり書いておこう。

本田技研の狭山工場に勤務していた頃、ちょうどオハイオ州に工場を立ち上げたばかりだったので、現地から来日する幹部候補の研修生たちを相手に、通訳・翻訳から休日のアテンドまで亀さんが引き受けたことが多くあった。ある時期も研修生を1ヶ月近く世話をし、いよいよ明日は帰国という時、近くのレストランでお偉いさんも含め職場関係者が全員集合し、その3名の研修生のために送別会を開いたことがある。日本語が全く分からない彼等のため、亀さんが奮発してビートルズの「イエスタデイ」を歌い始めたところ、偉いさんに囲まれて神妙な顔つきだった3人のアメリカ人が、ナント腹を抱えて笑い出したんだ。それからは全員が打ち解けてな、楽しい一時を過ごせたよ。

もう一つ。サンケン電気という電子部品メーカー時代の話なんだが、東京営業所から本社に異動になった時、当時の部長、課長、新しい職場の仲間達が歓迎会を開いてくれたことがある。その時、亀さんは数曲歌ったんだが、後日◎部長が、「亀はふさげていると思ったが、あれで真面目に歌ったのか」と、呆れたように言っていたよと、直属の上司だったN課長が教えてくれたことがある。

こうした〝武勇伝〟はまだまだ沢山あるんだが、キリがないのでこの辺にしておこう。

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祖父はなぜ、アメリカに帰ったのか
今年の2月頃、NHKで放送されていた「ファミリーヒストリー」という番組を紹介したことがある。

亀さんの場合は途中で番組の存在を知ったため、当初放送された「ファミリーヒストリー」で、見逃している番組が多いのだが、その中の一本に昨日出会った。「浅野忠信~祖父はなぜ、アメリカに帰ったのか」という番組だ。


「アンコール 浅野忠信~祖父はなぜ、アメリカに帰ったのか」 2012.10... 投稿者 Nrev2

亀さんが浅野に初めて注目したのは、映画「剱岳 点の記」であった。爾来、浅野に注目してきたこともあり、浅野が登場する「ファミリーヒストリー」を見逃しているのが、今まで心に引っ掛かっていたのだが、昨日、初めて同番組を観ることができた。そして、感動した。明日、迎え火を焚く家々も多いと思うが、ご先祖様とは何かと考える意味でも、この夏休みの一時を同番組で過ごしてみて欲しいと思う。また、ご先祖様だけではなく家族の絆についても、同番組は考えさせてくれるはずだ。

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校正屋
数日前、海外に住む翻訳者の友人Aさんから電話があり、近く始まる大型翻訳プロジェクトを承ることになったので、亀さんに自分が訳出した和文を校正して欲しいと依頼してきた。今まで何度かAさんの訳文を校正してきた体験から、苦労せずに校正できるレベル(高品質)の訳文であることが分かっていたので、快く引き受けた。

仕事の話や近状報告の話で一段落したあと、互いに最近は校正の仕事が増えているなぁという話になった。そのあたりの理由としてAさんは、翻訳者が原文(英文)を理解していないから、おかしな日本語になり校正しなければならなくなると主張、それに対して亀さんは、「確かに三分の二はそうしたケースがある。でも、残り三分の一のケースの場合、翻訳者が原文をキチンと理解して訳しているのにも拘わらず、普通はあり得ない和文(訳文)を書いてくることも多い。これは学校で習った英文解釈の影響だと思う」とAさんに話した。

ここで拙ブログの話になるんだが、亀さんが毎日のように色んな記事を書き散らしているのは、日本を滅ぼそうとする〝敵〟の正体、〝敵〟の企みなどについて、心ある人たちに伝えていくことで警鐘を打ち鳴らすというのが、ブログを書き続ける最大の理由だが、実はブログを書き続けている理由がもう一つあり、それは仕事のためなのだ。つまり、〝校正屋〟としてお金を頂戴するからには、それなりの読ませる和文が書けないと話にならんのだから、下手なりに文を書き散らしながらも、少しでも文章力の向上を目指しているちゅうわけさ、進歩のほどは文字通り亀の如しだけどさ…。無論、多くをアウトプットする(書く)には、それ相応のインプット(読書)をしなければならないのが前提条件ちゅうわけだ。



飯能のすすめ
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8月10日付け東京新聞より

寅さんのことば 44
今回の寅さんのことばは、第13作「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」からだ。


人間、金があるからって、決して幸せとは言えないよ。

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そうなんだろうけど、やはりおばちゃんの言うように、「(金は)ないよりある人の方が幸せ」じゃないんだろうか。ましてや、高度成長期も終わり、正社員になるのが大変困難になった今日を考えると、なおさらそう思うんだが…。

東京新聞夕刊に、「本音の若者論」と題して林真理子さんと古市憲寿氏の対談が三日連続であったんだが、亀さんや同年代の林さんから見て、息子のような世代の古市君の世代が持つ〝貯蓄志向〟は気にくわないなぁ…(笑)。二十代は貯蓄なんて考えずに海外旅行などに自己投資すべきだと思うんだけどね…。貯蓄するのは三十代に入ってからで十分だと思っている。尤も、「寅さんのことば 12」で登場する島地勝彦氏のように、「75歳になったら貯金を始めようと思う」と言っている人もいるけどね。まぁ、人それぞれだよ。一所懸命に貯蓄したところで、先の大戦が終結した直後に起きたように、タンス貯金がパーになる(紙くずになる)っていうことも考えられるんだ。だから、もしかしたら島地氏のような生き方が正解かも…(笑)。

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証言 陸軍中野学校 7
斎藤充功氏よりメールが届く。拙ブログの「証言 陸軍中野学校」シリーズに目を通し、今後も「証言 陸軍中野学校」を楽しみにしているとあり、過分なるお言葉を頂戴して大変恐縮した次第である。また、斎藤氏自身の自著について、「辛口の批評も遠慮なく書いてください」という姿勢には頭が下がるし、また、拙ブログの「証言 陸軍中野学校」に今後も目を通していき、「間違っていると判断したときは、当方も遠慮なく指摘の部分を資料などを使って反論いたします」とのことで、大変有り難いと思った次第である。

さて、今回の「証言 陸軍中野学校 7」では、斎藤氏の『証言 陸軍中野学校』から少し外れた話を書きたい。

仕事(翻訳)の締め切りに追われていたため、現在は読了できなかった本を急ぎ目を通しているところだが、そうした本の一冊に佐藤守氏が著した『大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した』(青林堂)がある。同書の白眉ともいうべき箇所は、最終章の「結びにかえて・太平洋戦争には負けたが大東亜戦争には勝った」である。この「太平洋戦争には負けたが大東亜戦争には勝った」は、亀さんが日頃書いている〝モノサシ〟に相当するもので、そのモノサシをあてることで、その人の持つ歴史認識の深度を推し量ることができると思っている。

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さらに、陸軍中野学校に関心のある読者は、同書の第8章「仏領インドシナ(ベトナム)における終戦」の第5節「陸軍中野学校出身者達の活躍」から、第10節「残留者達の活動と顕彰」に至る各節は見逃せまい。

たとえば、第8章・第5節「陸軍中野学校出身者達の活躍」の冒頭で、佐藤守氏は以下のように述べている。

国家存立のためには、情報戦とそれに対処する秘密組織が不可欠です。同盟国・米国のCIAはじめ、世界各国はその組織を有効に活用して、過酷な国際戦略を生き抜いています。それが国益であり、勝ち取ることが自国民保護のために必須だからです。残念なのは、戦後の日本政府だけがその意識が全く欠落しており、悲しいことに肝心な情報を同盟国に頼っている有様です。その姿勢は、まさに大東亜戦争で植民地から解放したアジア諸国に代わって、自らが「米国の植民地」に甘んじているように私には見えるのです。
(『大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した』p.211)


同感である。一日でも早く平成版の〝中野学校〟設立を目指していくべきである。

次回は再び「証言 陸軍中野学校」に戻る。