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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
練馬区小学生切りつけ事件の裏
6月28日(金)、東京都練馬区の小学校で小学一年生の児童が襲われた事件があった。幸い、近くにいた交通指導員の広戸勇氏(71歳)が、間髪入れずに犯人に立ち向かっていったことで、3人の児童の命に別状がなかったのは不幸中の幸いであり、広戸氏の勇気に敬意を表したいと思う。以下は、広戸氏を取り上げた東京新聞記事だ(画像をクリックすれば拡大する)。

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それはともかく、同事件に接して亀さんが最初に連想したのは、向精神薬との関連だった。同事件と向精神薬とを結びつけて報道していた大手マスコミは皆無で、2ちゃんねるの一部でウワサ程度に書いているだけだった。しかし、中には容疑者が「精神疾患の通院歴があった」と報道しているマスコミもあった。これは容疑者が精神疾患治療のため、向精神薬を処方されていたことを示すものである。

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1年前の4月12日、京都市祇園で起きた自動車暴走事故の場合も、事故を起こした藤崎晋吾は毎日「抗てんかん薬」を服用していたと、「月刊 精神分析」が書いている。抗てんかん薬の中にはカルバマゼピン等、向精神作用を持つものがあり、祇園での自動車暴走事故は向精神作用が原因だった可能性が高い。

この向精神薬の正体について、ブログ「カレイドスコープ」が、「薬漬けのアメリカ人と、若者の自殺者が増えている日本」と題する記事で物の見事に暴いているので、何等かの薬を服用している読者は是非目を通していただきたい。

また、飯山(一郎)さんも、「凶悪犯罪の真の原因と対策」といった向精神薬の記事を書いており、目を通すといいだろう。
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寅さんのことば 15
数日前、息子が見ていたTV番組で、南野陽子の入浴シーンが出ていたんだが、ナント彼女、毎日1時間以上も風呂に入っているという。実は亀さんも1時間とまではいかないが、やはり25分ほどは湯船につかっている。その時亀さんが声に出しているのが、寅さんのタンカ売のせりふに出てくる「淡路島」なんだ。

つまり、亀さんは毎晩湯船につかりながら古事記を誦習しているんだが、国生みの段に来ると淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)が登場するわけさ。
兵庫・淡路島 信仰集める古事記の舞台 国生み神話の島歩く

それにしても、正倉院に保管されている日本最古の戸籍が葛飾柴又で、しかも刀良(とら)さんや佐久良賣(さくらめ)が載っているつぅのは、驚き桃の木山椒の木だねぇ…。

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パンツを脱いだサル 5
『パンツを脱いだサル』の第一章「ヒトはしかにしてヒトになったのか」では、エレシン・モーガン女史の説くアクア説を中心に述べているのだが、亀さんは全面的に栗本氏が推している、モーガン女史のアクア説を支持しているわけではない。

つまり、本ブログで「パンツを脱いだサル」を書いた折り、亀さんは「人類の進化におけるサバンナ説について疑問に思っていた」と書いたんだか゜、何がきっかけでサバンナ説に疑問を持つに至ったのかすっかり忘れていた。

それが今日、エレイン・モーガン女史が著した『人は海辺で進化した』(どうぶつ社)をネットで調べていた時、「ヒトは海辺で進化したのか」というページを見つけたのだが、筆者の永井俊哉という名前を目にした途端、かつて読んだ永井氏の「ヒトは海辺で進化したのか」がきっかけで、サバンナ説に疑問を持つように至ったのを思い出したという次第だ。

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永井氏も基本的にはモーガン女史同様にアクア説派だが、モーガン女史と大きく異なっているのは、モーガン女史が海辺で人類は進化したと主張しているのに対して、永井氏は淡水湖で人類は進化したと考えている点だ。そのあたりは永井氏の「ヒトは海辺で進化したのか」をじっくり読めば納得いただけよう。

なお、上記のページにも書いてあるが、NHK等が相変わらず主張しているサバンナ説(イースト・サイド・ストーリー)は、完全に否定された説になっていることも書いてあるので、『パンツを脱いだサル』の第一章「ヒトはしかにしてヒトになったのか」を読む前に、永井氏の「ヒトは海辺で進化したのか」を一読すると良いと思う。

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寅さんのことば 14
昨夕の「寅さんのことば」第14話で、筆者の佐藤利明氏が山田洋次監督について、「人間の本質をみつめ、映画作りを続けてきた」と評していた。

亀さんの場合、山田監督の作品は「男はつらいよ」以外に見た記憶が無いので、念のためウィキペディアで調べてみたところ、亀さんがすでに見た映画が数本あったんだ。たとえば、「同胞」(1975年)、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)、そして昨日取り上げた「母べえ」(2008年) と「おとうと」(2010年)等は山田監督の作品だった…^^;

お恥ずかしい限りだ。映画を見たときは山田監督の作品だ分かって見たはずなのに、それを今ではかり忘れているとは、こりゃぁ~亀さんも惚けたんじゃなぃんだろうぉかぁと、我ながら心配になってきた…(苦笑)。

それでも、改めて思い起こせば、どれも心温まる作品だったょ。まさに佐藤氏の言う通り、「人間の本質をみつめた」山田監督らしい作品だったなと、改めて思った次第…。

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寅さんのことば 13
昨夕の「寅さんのことば」に登場したマドンナは、吉永小百合だった。記憶が曖昧だが亀さんの場合、「男はつらいよ」で吉永小百合が登場した作品を1~2本はTVで見たと思う。それにしても、スクリーンで見せる姿は、とても1945年生まれとは思えない。それは、最近の映画にしてもそうだ。近年の映画で亀さんが見たのは「母べえ」、「おとうと」といったところかな。

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以下、全く寅さんと関係のない話で申し訳ないが、同じ映画の話題なので勘弁してもらうとして、「母べえ」で父べえの教え子・山崎徹を演じた浅野忠信、亀さんは後に浅野が主演した『劒岳 点の記』も見たんだが、同映画を見て初めて佐野の役者としての力量が分かった。

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この『劒岳 点の記』だが、同映画は役小角に代表される山岳信仰(修験者)ネットワークの近代版、つまり伊能忠敬をはじめとする,〝測量士ネットワーク〟を暗に描いた映画だったと思う。佐野が演じた柴崎芳太郎が剱岳山頂で、修験者が遺した錫杖の頭と鉄剣を発見したシーンは、、単に実話を描いただけではなくして、別の何かを暗示していたような気がしてならない。

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パンツを脱いだサル 4
栗本慎一郎氏と佐藤優氏は、カザール(俗に言うバザール)で結びつく。旧ブログで『シルクロードの経済人類学』という記事を載せているが、一読してもらえれば栗本慎一郎と草原の道、すなわちロシアとの深い結び付きが分かる。一方で佐藤優氏の場合、かつてロシアに赴任した外交官であった。これから分かるように、栗本氏と佐藤氏は〝ロシア〟で繋がっているのだが、以下の『パンツを脱いだサル』(p.201)に示すように、栗本自由大学という繋がりもあった。

カザールの遺跡はどこにあるか
旧ソ連時代の一時期、ソ連はもともと西欧より上だと言いたかった共産党の為政者は、ソ連圏内にあったカザールの遺跡調査を許した。その記録は一応いまも残っている。しかし、あるときを境にこれは抑圧される。カザールの華やかな首都イティルも、要塞都市サルケル(現ボルゴグラード、旧スターリングラード近辺のチムリャンスク湖内)も水利工事の名を借りて水没させられている。露骨なことだ。ビザンチン帝国の記録に残り、建設についての資料もある大きな要塞の中心が発見できないからとして水没させられた。露骨な政治的調査であるが、文書でも出てきたら大変だということだったろう。政治にあわせることが多い考古学者がよくやるものだ。私は、労働組合のいわゆるアリバイ闘争という語にならって、アリバイ調査と呼んでいる。このアリバイ調査には、私たちはこれから何度も出会うことになるだろう。
ロシアーポーランド問題に生半可の学者の数倍もの密度をもって研究をしていた元モスクワ大学講師(同じく元栗本自由大学講師)の佐藤優氏(元外務省)は、「ロシアの隠れユダヤ人の政治家」の仕業だと私に示唆した。同氏は本業が外交官であって、のちに鈴木宗男事件に連座して外務省を辞めさせられるが、その直接の理由はロシア問題ではなくイスラエル問題だったことを想起するべきだ。
ユダヤ人の多いロシア政治界は、イスラエルと強いコネクションを持っていたのである。カザール帝国の首都は、今日のウクライナでありロシア革命後のソ連であったから当然だろう。


鈴木宗男氏と佐藤優氏の交流を描いた漫画に、『憂国のラスプーチン』があるが、最終巻で佐藤優氏が〝あっさり〟と釈放された背景に、イスラエルの動きがあったことが描かれている。ここで、ロシア政治界の大多数がユダヤ人、具体的にはアシュケナージ系ユダヤ人であることを思い出したい。

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寅さんのことば 12
第43作「寅次郎の休日」で、「金なんかなくたっていいじゃないか、美しい愛さえあれば!」と、寅さんが語ったという。金で思い出したのが、最近読んだ「乗り移り人生相談」だ。当年とって72歳の島地勝彦氏が、「75歳になったら貯金を始めようと思う」で以下のように語っている。

シマジ  俺も貯金はない。「身の丈に合ったカネを稼ぎ、身の丈に合った使い方をするのが幸せだ」なんて偉そうなことを言いながら、明らかに身の丈以上に使っている。年金をすべて女房に渡している以上、自分で稼いだ分は自分で好きなように使っていいと思っていたから、カネはシングルモルトやシガーにカタチを変え、最後には小便とケムリになって東京の海と空に消えていく。正直に告白すると、ちょっとまずいと思っているんだよ。さすがにそろそろ貯金をしなければいけないんじゃないかと時々思うんだ。


まさに、江戸っ子は宵越しの金を持たねぇを地で行っている島地氏なんだが、良いねぇ~、こういう生き様は…(笑)。

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日本を滅ぼしにくるもんを、亀さんは許さねえ!
先週の日曜日、NHKの大河ドラマ「八重の桜」(第25回)を観た。八重の「会津を滅ぼしにくるもんを、わだすは許さねえ!」という言葉に胸を打たれた。ここで、会津を「日本」に置き換え、その日本を滅ばしにくるもんを「」に置き換えて考えてみよう。

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会津を滅ぼしにくるもんを、わだすは許さねえ!
「美雨の部屋へようこそ」より

先週の土曜日に都内で行われた或る会合で、ジャーナリスト某の話に耳を傾けながら、NHKの鳥取放送局による大麻栽培のニュースが、今後の大麻解禁(復活)への第一歩に繋がる可能性を秘めていること、また、当初は子宮頸がんワクチを絶対に止めないと主張していた厚生労働省が、1ヶ月もしないうちに「ワクチンを奨励せず」にと変わったといったあたりに、敵の丈夫な堤に蟻穴が出来つつあることを悟った。

そこへスノーデン事件である。この一連の事件を見事に炙り出したていたのが、『月刊日本』7月号に載った元ウクライナ大使・馬渕睦夫氏による、「アメリカの真の狙いは日本封じ込めだ」(p.32)という記事だ。特に同記事で注目したのは、最終行にあった馬渕氏の言葉である。

TPPから逃れることはできないが、日本人には日本人にしかできない抵抗の仕方がある。それはさまざまな外国からの伝来物を日本風に造り変えてしまう「和」の伝統で、国際金融資本主義の威力が圧倒的でも、「コンマ数秒の株取引で莫大な金を儲けたり失うような経済はおかしい」という日本人の経済倫理観がしっかりとあれば、のみ込まれることはない。(p.36)


「千丈の堤も蟻の穴より崩れる」という諺ではないが、NHK大麻報道、ワクチン、スノーデン事件と、敵の堤にいくつかの蟻の穴が出来つつあるのが分かる。さらに、その蟻穴がもう一つできそうだという知らせが、ブログ友の飄平さんからあった。
スタンフォード大学・西教授・特別インタビュー
スタンフォード大学・西教授・特別インタビュー <必見!>②

また、国際ジャーナリストの飯山(一郎)さんによる、スノーデン事件を巡る分析(インテリジェンス)も見事である。併せてアクセスしてみよう。
◆2013/06/24(月) 世界一の諜報戦のプロ・プーチンが背後で…
◆2013/06/24(月) 2 スノーデン事件:巨大勢力が後ろ盾?
◆2013/06/25(火)  米国はネット警察から盗賊になった!
寅さんのことば 11
「額に汗して働かにゃあ、いけないんだよ」と、寅さんが語ったという第5作の「望郷篇」は、1970年8月上映という作品だ。当時の日本は、亀さんの青春時代と重なり、まさに日の出の勢いという形容がピッタシだった。

それにしても、同作品が上映された半世紀近い43年前、僅か数秒で、何億という金を稼ぐトレーダーが出現しようとは想像もしていなかった。一方で スーザン・ジョージの描く『なぜ世界の半分が飢えるのか』という現実がある。世の中、不条理なコトばっかりだねぇ…。

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寅さんのことば 10
東京新聞の夕刊に連載中の「寅さんのことば」、昨夕の第10話は「生きている喜び」というテーマだった。「男はつらいよ」第39作に登場するテーマなんだが、ナント同作品に登場するマドンナ役が秋吉久美子だった。それで思い出したのが、やはり秋吉久美子が出演していた「異人たちとの夏」(監督・大林宣彦)という映画だ。夏の或日、すでに中年になっていた風間杜夫演じる原田英雄が、都会の隅で既に亡くなっているはずの両親に再会するという、奇想天外な物語なんだが、その母親役を秋吉久美子が演じているんだ。

「男はつらいよ」第39作と「異人たちとの夏」は、「生」と「死」という具合に、全く逆のテーマを扱っているような印象を受けるんだが、どこか根底で相通じているような気がする…。そして、それこそが「家族」なんじゃないかと、亀さんは思うのさ。


http://www.youtube.com/watch?v=MozFUrhGz5s

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パンツを脱いだサル 3
『パンツを脱いだサル』は6章で構成されており、そのうち第5章は「政治陰謀としてのビートルズ」だ。同章の中で注目すべきは栗本(慎一郎)氏が、「(ビートルズ)神話はほとんどのところ情報謀略のプロが全力を挙げて作り上げたものであり、一定の意図を持って作られたものだ」(p.325)と語っている行だろう。亀さんも同章を読みながら、流石は諜報活動に長けた英国だと改めて感心した次第だ。また、同章を通じてビートルズに関して初めて知った〝真実〟も多かった。

そんな折り、先ほど仕事の息抜きにコンビニで買ってきた『ビッグコミックオリジナル』(7月5日号)で、『終戦のエンペラー』という映画が7月27日に封切りされるという広告に目が止まった。

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http://www.emperor-movie.jp/

亀さんの頭を過ぎったのは、なぜ〝今〟というタイミングで、「終戦のエンペラー」という、昭和天皇・マッカーサー会見の映画なのかという点だ。そこで、昭和天皇とマッカーサーをキーワードに、ここ数年間のアメリカの動きを追ってみたところ、沖縄が浮上してきた。

・2007年7月29日 民主党が第21回参議院議員通常選挙で60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党の逆転を果たした。
・2008年7月、 岩波から、『昭和天皇・マッカーサー会見』(豊下楢彦著)が出版された。
・2009年5月 昭和天皇とマッカーサー会見内容を示す外交文書を、アメリカが公開した。
・2009年7月、鳩山由紀夫前首相が「(基地移転は)最低でも県外」と、沖縄で訴えた。


豊下教授の著した『昭和天皇・マッカーサー会見』は、(共産化によって)天皇制が崩壊するのを危惧した昭和天皇が、「防共のためなら、沖縄をアメリカが末永く占領してもらっても構わない」と、マッカーサーに約束したことを述べた本だと、亀さんはジャーナリスト某から聞いている。
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また、2009年5月にアメリカが外交文書を公開した背景には、アメリカが改めて「沖縄は天皇のお墨付きがある」ことを内外に示すためだったとも、そのジャーナリストが教えてくれた。

では、来月27日に公開されるハリウッド映画「終戦のエンペラー」は、どのように位置づけたら良いのか…。このあたりの最終的な判断は、複数のジャーナリストから話を聞いてからの方がよさそうだが、「終戦のエンペラー」の原作となった、『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし』 (岡本嗣郎著 集英社文庫)から、ある程度見えてくるものがある。また、アマゾンに載った同書のカスタマー・レビューも参考になろう。

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フェラーズの日本での活動が、マッカーサーを大統領にするための得点かせぎのためであり、帰国後、第三次世界大戦と原爆の使用を容認する著書Wings for Peaceを出版したことなど、クエーカー教徒らしからぬ言動については一切触れていない。


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『Wings for Peace: A Primer for a New Defense』(Bonner Frank Fellers著)

さらに、映画「終戦のエンペラー」は、密かに進行中の新河豚計画と、もしかしたら何処かで繋がっているかもしれないと亀さんは睨んでいる。このあたりは、複数のジャーナリストに確認していく必要がありそうだ。

新たなる方向
1、ヒトは進化のプロセスにおいて「パンツ」をはくことを選び取った。そして同時にそれなしには生きていけない生命の形をも選び取った。
数百万年浅い海で生きたため、体毛を失い直立して、歩行(走行)速度の大変な退化と高血圧を生む心臓への大きな負担を得た。自由になった上肢を道具使用のために使うことはできるようになったが、木から木へと「腕渡り」をしていたときの腕力(筋力)は失われた。したがって、道具を使えるようになったといっても、かつての仲間であった類人猿と陸上であいまみえたとき(戦闘には)身体的に大変に不利であった。そこで道具と組織行動をもって対抗した。本当のところでは、「対抗」という言葉では済まされないほどの殺戮と襲撃を行なった。

2、それが大規模であり、組織的で効率的であればあるほどヒトは生き残れた。

3、組織的、効率的であるために、「快感」がセットされた。攻撃、戦闘、殺毅の快感である。

4、この快感が、建設、拡大の快感の起源である。

5、攻撃されたのは、仲間の類人猿や他の動物たちであった。しかし、ひょっとしたら仲間のヒトであったかもしれない。

6、ヒトがアフリカ大地溝帯北部で類人猿や他の動物と出会ったのは、ダナキル地塁からの南下遠征の途中(初期)であった。その遠征は、新たに生きる地を見つけねばならぬ行動であったが、ヒトはその時期なりの「救世主」を必要としていた。

7、身体の不能を補う「道具」と言語から始まり、民族、宗教、国家という「制度」はみな、ヒトが生きるための「パンツ」であった。組織、攻撃、拡大、建設を快感とすることも同じである。それを統合するのが、救済思想だった。歴史を動かしてきた最終の力は、生産構造や資本や宗教ではなく、これである。
『パンツを脱いだサル』p.261~


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寅さんのことば 9
「寅さんのことば」第9話は、タコ社長と寅さんという、中小企業というよりは零細企業の親父と、糸の切れた凧のような風来坊との間の友情についてなんだが、考えてみれば亀さんが付き合っていた人たちには、大学の教授、政治家、商人、農民、町工場の経営者、コンサルタント、ジャーナリスト、神主、神父、牧師、僧侶、ラビ、ライター、渡世人…と、実に色々な人たちがいるなぁ。そして、いまだにお付き合いの続いている人たちに共通しているのが、〝任侠心〟があるっちゅうことかな。そして、タコ社長と寅さんの間にも任侠というものを感じるんだ…。

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パンツを脱いだサル 2
『パンツを脱いだサル』(栗本慎一郎著 現代書館)を読了した。人類誕生説(本稿最終行の「◆ 新たなる方向 ◆」参照)以外にも、色々と得ることが多かった本なので、しばらく『パンツを脱いだサル』シリーズの形で同書を取り上げていくことにしたい。なお、初めて『パンツを脱いだサル』を取り上げたのは6月9日だったが、それを第1回とし、今回は第2回目なので「パンツを脱いだサル 2」とした。

最初に、『パンツを脱いだサル』を読み終えてつくづく思ったことは、栗本氏の本を読んだ人たちの読後感は、大雑把に二つのグループに分けられるのではということだった。

一つは栗本氏の著書に対して「トンデモ本」という感想を抱く人たちのグループ、もう一つは(多少の異見はあるにせよ)、基本的に栗本氏の主張を肯定している人たちのグループだ。そして、容易に予想できることだが、最初のグループ属する人たちが大半を占めることだろう。代表的なのが、「読書日記」というブログ主の読後感だ。ブログ主は以下のように栗本氏をこき下ろしている。

 『パンツを脱いだサル』の方は、陰謀論の本ではない、と自分で繰り返し書いてあるにも関わらず、ユ○ヤ陰謀論本以外の何者でもない。さらに前半は、自らを襲った脳梗塞に対する治療法に関する議論が展開されていたり(最近、その手の本を色々出しているみたい)、何とも曰く言い難い。「政治陰謀としてのビートルズ」という章に至っては、ビートルズ人気はユ○ヤ系財閥によるメディア操作の結果だ、という議論が延々と展開されてしまっている。痛い。せめて、嫌いなら、嫌いだ、と素直に書けばいいのに……。
http://tsysoba.txt-nifty.com/booklog/2005/05/post_7c2e.html


要するに「読書日記」氏は、学校で学んだ歴史教科書の枠から脱していない、典型的な読者なのだ。尤も、この書評は2005年の5月15日とあるから、その後に発売された同じ栗本氏の『ゆがめられた地球文明の歴史』や『栗本慎一郎の全世界史』等について、「読書日記」氏の読後感を是非読みたいものだ。

「読書日記」氏よりも少しは増しと思える書評を書いているのが、「日々の雑感」というブログのオーナーだが、この書評も栗本氏に対して「トンデモ」扱いの域を出ていない。「日々の雑感」氏は翻訳されたアーサー・ケストラーの『ユダヤ人とは誰か』を読み、「ユダヤ人の90%を占める東方ユダヤ人アシュケナージは古代パレスチナにいたあのユダヤ人ではなく、それとは縁もゆかりもない中央アジアのトルコ系遊牧民族カザール人(又はハザール人)だった」、というあたりまでは理解しているのに、何故か『パンツを脱いだサル』を〝ユダヤ陰謀説〟として、「読書日記」氏と同じような捉え方で終わっているのは惜しい。尤も、同記事も執筆されたのが2005年4月24日とあるから、「読書日記」氏同様、その後に栗本氏が著した『ゆがめられた地球文明の歴史』や『栗本慎一郎の全世界史』について、「日々の雑感」氏がどう思ったのか感想を聞いてみたいような気がする。

ちなみに、亀さんは栗本氏の著書群を希に見る良書と捉えており、そのあたりを様々な観点から次回以降において書いていこう。

新たなる方向
1、ヒトは進化のプロセスにおいて「パンツ」をはくことを選び取った。そして同時にそれなしには生きていけない生命の形をも選び取った。
数百万年浅い海で生きたため、体毛を失い直立して、歩行(走行)速度の大変な退化と高血圧を生む心臓への大きな負担を得た。自由になった上肢を道具使用のために使うことはできるようになったが、木から木へと「腕渡り」をしていたときの腕力(筋力)は失われた。したがって、道具を使えるようになったといっても、かつての仲間であった類人猿と陸上であいまみえたとき(戦闘には)身体的に大変に不利であった。そこで道具と組織行動をもって対抗した。本当のところでは、「対抗」という言葉では済まされないほどの殺戮と襲撃を行なった。
『パンツを脱いだサル』p.261


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寅さんのことば 8
江戸川の土手で妹のさくらに寅さんは、「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ」と呟いたそうだが、同じようなことを呟いた亀さんの旅の先輩に、Hさんという人がいる。

Hさんとは南米で2回会っている。最初はブラジルのサンパウロで会った。亀さんは安宿を探すため幾軒かの宿を回っていたんだが、偶然ある宿の玄関にいたHさんと出会ったのだ。結局亀さんはさらに安い別の宿に泊まったので、その時のHさんとの出会いは一瞬だった。ところが数ヶ月後、再び同じ南米はボリビアのラパスで再会したんだ。何でもHさんの日本人の友人らしい男が、亀さんが宿泊していた安ホテルに泊まっているというので、てっきりその友人かと思って尋ねてきたのだという。結局、Hさんとはラパスから、チチカカ湖、マチュピチュ、リマまで旅を共にしている。旅は道連れ世は情けというけど、まさに本当だなぁ、

リマと言えば、Hさんと亀さんは素晴らしい〝マドンナ〟との出会いを体験している。亀さん本人が言うのもなんだが、本当に感動的な出会いだった。いずれ別の機会に書かせていただこう。

リマでゆっくりした後、Hさんはイースター島へ、亀さんはガラパゴスへ向かうため別れたのだけど、別れの前日、喫茶店で亀さんはHさんに尋ねた。「Hさん、どうして旅をするのですか」…。するとHさん答えて曰く、「俺は、あの流れる白い雲の後を、追いかけているだけさ…」。まさに寅さんの「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ」を彷彿させる言葉ではないか…。

そういえば、亀さんの旅も足の向くまま気の向くままだった。本当はリマからエクアドルを通過してコロンビアに陸路で行こうと思っていたんだけど、リマでお世話になった沖縄の移住者が経営するホテルにあった、『新潮』だか『文春』だかをパラパラ捲っているうちに、ガラパゴスを取り上げた一ページのコラム記事に目が止まり、何気なくそのコラムを読んでいるうちに、無性にガラパゴスに行きたくなったちゅうわけさ。

「よしゃぁ~、せっかくリマまで来ているんだ、ちょっとガラパゴスまで足を伸ばそう…」

このガラパゴス行きも色々と〝面白い〟トラブルがあったなぁ…。これもいずれブログに書こう。ともあれ、ホント、「あんな雲になりてえんだよ」という寅さんの気持ち、亀さんには良ぉ~く分かるなぁ…。でもまぁ、早く言えば(遅く言っても同じか…)、寅さんも亀さんも糸の切れた凧だったちゅうことだわい(爆)。

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男の器量
昨日の東京新聞(夕刊)の「寅さんのことば」(7)と同じページに、「気遣いで男性の器量知る」という興味深い小コラムが載っていった。男を見分ける上で参考になる記事だと思う。

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生琉里へ旅立つ始まり
「舎人家紋講座」は第26節までを紹介したわけで、いよいよ第27節から本格的な家紋講座の内容となっている。再読してみたところ、第27節の途中までなら個人情報に触れていないので、公開しても差し支えないと判断した。


●生琉里へ旅立つ始まり
これまで記述した鑑識手引(かんしきてびき)と心がまえを身に帯びながら、いよいよ舎人各様の生琉里(ふるさと)へ旅立つ段に踏み込むが、その進め方を模索(もさく)してみると、筆者の家系に関する歴史は誰にも応用できるため、一つのモデルとして、ここに提供するので参考とされたい。その手順は戸籍謄本(こせきとうほん)の取り寄せに始まるが、自らの本籍変遷(ほんせきへんせん)を追究すれば、明治五年の壬申(じんしん)戸籍まで家系を知ることができる。その記載事項を列記のうえ、整備する序章を(じょしょう)踏まえれば、場の歴史に伴う共時性も透けてくるし、最後に氏姓鑑識の本義を活かせば、後世への遺言(ゆいごん)たる貴重な贈り物(おくりもの)と成りえよう。
 まず除籍(じょせき)謄本の取り寄せであるが、自分の本籍を所管(しょかん)する役所へ申請して、その先代の本籍地が異なれば、所管する役所の市民課(戸籍課)へ電話して、取り寄せ方法を教わり申請すれば、前記の通り、明治五年前後の公正証書を入手することができる。問題は原本記載の読み方にあり、その当時の共時性を伴う場の歴史を知らなければ、現地の名称さえ読めず、戸惑うことになるが、日本の自治体は必ず郷土史(きょうどし)を発刊しているため、図書館やインターネットの利用、あるいは郷土史購読(こうどく)などにより、ほとんど不明点の解消は可能と成りえる。以下それら具体例を示すことにする。
 天保(てんぽう)年間は皇紀二四九〇年(西暦一八三〇年)~二五〇四年(一八四四)の年号、仁孝(にんこう)天皇の在位晩期に当たり、次の弘化(こうか)三年二月六日に同天皇は崩御(ほうぎょ)されたが、同日の践祚(せんそ)で孝明(こうめい)天皇の御代(みよ)その即位式(大嘗祭)(だいじょうさい)は同四年九月に挙行され、翌年二月二八日から嘉永(かえい)年間に改まる。以後、年号は安政(あんせい)、万延(まんえん)、文久、(ぶんきゅう)元治(げんじ)、慶応(けいおう)と変わり、明治時代に入ると国民すべて家名(苗字(みょうじ))を登録すべしという制度(壬申(じんしん)戸籍)が施行(しこう)される。つまり皇紀二五三二年(一八七二)の明治五年から、政府は戸籍原本を整えるため、国民の本籍また現住所を記載する法制度を実施いまに至るわけであるが、その間に何度か法令を改めては謄本の扱い方も変えているので、原本請求は直(ただ)ちに実行するよう促し(うなが)ておく。
 さて、栗原茂の(くりはらしげる)戸籍上における家系であるが、まず父…


と、以降ページ数にして80ページ以上にわたって、「舎人家紋講座」の後半部が続いているわけである。「舎人家紋講座」の前半部を読み、己れのルーツに関心を持った読者は、まずは除籍謄本を取り寄せるところから着手していこう。亀さんも支障の無い範囲で、ルーツ探しの経過報告をしていきたい。なお参考までに、本ブログで今までに書いた亀さん家に関する記事は以下のとおりだ。
ご先祖様を求めて
遠祖を求めて
寅さんのことば 7
今日取り上げるのが「寅さんのことば」第回目だからというわけではないが、昨夕、「男はつらいよ」シリーズの第7作「奮闘篇」を見た。1971年の春に安芸の宮島を訪れ、観光ついでにフラリと入った映画館で、「男はつらいよ」を見たのは鮮明に覚えているし、1971年春に公開されたのだから見たのが第7作「奮闘篇」のはずなのに、何故か最初から最後まで全然思い出せない…。初めて見た映画のような気がして仕方ないんだが、まぁ、あれから40年も経っているし、映画の中味をすっかり忘れてしまっても仕方がないか…。

それは兎も角、マドンナ役の榊原るみを見て、あぁ、当時こんな女優さんがいたなぁと思い出したし、また、映画に出てくるちゃぶ台といった小物、今でも家に残っているそれと同じもんなので、一瞬昭和という時代にタイムスリップしたような錯覚に陥った。

それから、ネットで調べてみると、「男はつらいよ 寅さんDVDマガジン」という、DVD付きのムック本が発売されているのを知った。現在手許に木下恵介監督の作品30本ほど、その他50本ほどのDVDを先に見てから、「男はつらいよ」を見ることにしよう…。となると、暫くは「男はつらいよ」は見られないなぁ。

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筆者の佐藤利明氏によれば、平成生まれの女の子たちにとって、ナント寅さんは〝理想の男性〟とか…。そのきっかけとなったのが以下の言葉のようで、フェイスブックで12万人もの人たちが「いいね!」を押したのだという。今のご時世はそれだけドライなのかもしれないなぁ…。

「そのうちこう、なんか気分が柔らかくなってさ、ああもうこの人を幸せにしたいなあと思う。もうこの人のためだったら命なんかいらない。俺死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい」


この寅さんの台詞、昭和という時代なら〝当たり前〟のように受け止められていたんじゃないだろうか。「降る雪や 明治は 遠くなりにけり」ではないけど、まさに昭和は遠くなりにけりだ…。

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寅さんのことば 6
「寅さんのことば」第6話を読み、『月刊日本』(6月号)に載っていた長谷川三千子先生の「個人といふ異様な思想」を思い出した。寅さんの語る、「おまえと俺とは別な人間なんだぞ。早え話がだ、俺が芋食って、おまえの尻からプッと屁が出るか!」と、何処か根底で相通じているような気がしてならない。幸い、一部ではあるが長谷川先生の記事の一部を『月刊日本』が公開しているので、関心のある読者は一読いただければと思う。
http://gekkan-nippon.com/?p=5076

亀三流…、じゃなかった亀さん流の解釈を述べておこう。西洋における人と人との繋がりを甘納豆に喩えるとすれば、日本におけるそれは、ネバネバした納豆に喩えられるんじゃないだろうか。

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◆舎人家紋講座26(最終回)
「◆舎人家紋講座26」は、“●通説平城京の行政機構”と題する、26番目にして最後の小節である。実は、今までに栗原(茂)さんが執筆した「舎人家紋講座」の半分のみを公開したに過ぎず、まだ半分ほど残しているのだが、本シリーズの連載を開始した際にお断りしたように、後半は栗原さんをはじめとする舎人の個人情報を扱っているため、公開は控えさせていただこう。なお、舎人家紋講座を巡る記事は、次回以降から時折書いていくつもりなので、家紋に関心のある読者に目を通してもらえたら幸いだ。

●通説平城京の行政機構
 眼前(がんぜん)の家名と家紋を照らし合わせても、それが自身の生活に影響しなければ、たいした意味もない話がゆえに、ここでは生活に最も影響力を及ぼす存在に焦点を合わせる。幾ら足掻(あが)いても、通常の生活を支える究極の(きゅうきょく)保障(ほしょう)は国籍(こくせき)であり、その国籍に伴う戸籍(こせき)なくして自らの分量を(ぶんりょう)補完(ほかん)するものはない。つまり、現下の社会的構造を知らなければ、明日をも計(はか)れないのが現実であり、その現実は連続性に成り立っており、そこには必ず原型(げんけい)となる過去が存在している。それが歴史の重みであり、現下の社会的構造を探(さぐ)れば、そこに浮き出される通説の律令制は平城京である。
★神祇官(じんぎかん)は、神事(しんじ)・祭礼(さいれい)の際に祝詞(のりと)を唱(とな)えるが、それを文体(ぶんたい)にすると助詞(じょし)・助動詞(じょどうし)を万葉(まんよう)仮名(がな)で小さく記す宣命体に(せんみょうたい)なり、内容は『延喜式(えんぎしき)』の中に朝廷祭祀の祝詞27編(へん)が収録さ(しゅうろく)れ現代に通じている。また神前に供えるものは総称して幣帛(へいはく)というが、その型示しは布帛(ふはく)や神饌(しんせん)など日常生活に伴う教養の成果を奉(ほう)じている。
★布帛(ふはく)・神饌(しんせん)とは、前者が織(お)り込(こ)んだ布(ぬの)また絹(きぬ)の布地(きれじ)のこと。後者は稲、米、酒、鳥獣(ちょうじゅう)、魚介(ぎょかい)、蔬菜(そさい)、塩、水などのことで「みけ」と称した。
★祈年祭(きねんさい)は「としごいのまつり」と称したが、年初に五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈(いの)り、朝廷では旧暦二月四日に米、麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)または稗(ひえ)の豊作と国家の安寧(あんねい)を祈願する政(まつりごと)のことをいう。★月次祭(つきなみさい)は「つきなみのまつり」と称したが、毎年六月と一二月に朝廷と伊勢神宮で行う政のこと、朝廷では、神祇官が畿内三〇四座の神の祝部(はふりべ)に祝詞を宣(の)り、班幣(はんぺい)つまり幣帛を配り、夜には天皇が中和院(ちゅうかいん)の神嘉殿(しんかでん)において、旧穀を(きゅうこく)神と共食す(きょうじき)る神今食(じんこんじき)を行い「かむいまけ」と称した。
★相嘗祭は(そうじょうさい)「あいなめのまつり」と称したが、毎年一一月の卯の日に、その当年(とうねん)の新穀(しんこく)を神に供える政のこと。
★新嘗祭は(しんじょうさい)「にいなめのまつり」と称したが、当年の収穫を感謝する政のこと、朝廷では毎年一一月一三日か二四日の何(いづ)れかに、天皇が新穀を神々に供えて収穫を感謝し、自らも食することで、国家の安寧と民の健勝を念じた。
★大嘗祭は(だいじょうさい)「おほにあへのまつり」と称しており、詳しくは拙著『真贋・大江山系霊媒衆』を参照されたい。

 これらの通説は必ずしも意を尽くしていないが、国家百年の大計という教育制度を司る政治の呼吸であり、その簡潔(かんけつ)きわまる型示しこそが政治の養分(ようぶん)なのだ。それを貪欲(どんよく)な体力増強こそが政治と勘違いし、結果、消化不良のメタボとダイエットを繰り返し、お粗末な政権たらい回しを行うのが太政官の体質を呪縛(じゅばく)している。冒頭(ぼうとう)すでに記しているが、人の生命メカニズムは呼吸と消化にあり、骨格(こっかく)を整えるのは呼吸であり、その骨(ほね)が造血(ぞうけつ)を行い消化機能を促す(うなが)のであり、幾(いく)ら食(た)べても養分を吸収し(きゅうしゅう)なければ意味はない。また食せ(しょく)ずにダイエットを行うなどは論外(ろんがい)である。

★太政官(だじょうかん)は「だいじょうかん」と称したが、前記および、その秘書部門の少納言局、(しょうなごんきょく)その事務・執行部門の左右弁官局(さゆうべんかんきょく)の三つで構成された。後(のち)これに中納言(ちゅうなごん)や参議(さんぎ)が加わるも朝廷自壊により、幕政傘下の辛酸(しんさん)を経(へ)たのち、大政奉還(たいせいほうかん)が起こり、明治維新で復活その亜流(ありゅう)が現在の仕組みに転じている。
★太政大臣は(だいじょうだいじん)、律令官制の最高責任者であるが、常任にあらず、有徳(うとく)の適格者(てきかくしゃ)がいなけば闕(か)(欠)けるも厭(いと)わないとした。
★左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)は、大化改新時に設けられ、令制で整備され太政官の政務を統轄、太政大臣が常置(じょうち)と限らないため、平素は左大臣を政府の最高官職としていた。
★内大臣(ないだいじん)は、中臣鎌足に任じられ、のち久しく置かれていないが、光仁天皇のとき復活し右大臣に次ぐ地位とされた。
★大納言(だいなごん)は、左右の大臣に次ぐ官職であり、天皇に近侍して庶政を議し、天皇への奏上や天皇宣下を担当これ定員四人を配した。
★中納言(ちゅうなごん)は、文武(もんむ)天皇のとき設置され大納言に次ぐ官職とされた。
★参議(さんぎ)は、文武天皇のとき置かれたが、正式な設置は聖武(しょうむ)天皇のときで、大臣・各納言に次ぐ重職で公卿会議に参加した。
★少納言(しょうなごん)は、太政官の秘書部門を管轄し、天皇の印(いん)・太政官の印を保管し、駅鈴(えきれい)の官吏と共に官吏任命や位を(くらい)授(さず)ける事務に働いていた。
★外記(げき)は、少納言管轄下の太政官書記局のこと、詔書、(しょうしょ)論奏(ろんそう)、太政官符(ふ)などの作成を担当その定員は大外記(だいげき)二人、少外記(しょうげき)二人が配置されていた。
★左弁官(さべんかん)(局)・右弁官(うべんかん)(局)は、太政官事務局として、左局は中務以下四省を、右局は兵部以下四省を事務的に統轄その文書を審査した。定員は左右それぞれ大中小弁官一人で配下の書記官に史((さかん)大史(だいし)と少史(しょうし))を置いた。
★公卿(くぎょう)は、太政大臣、左右の大臣、内大臣を公(こう)と称し、大・中納言、参議など階級が三位(さんみ)までの上級貴族を卿と(きょう)称し、両者を併(あわ)せて公卿その別称を上達部(かんだちめ)というが、参議以上は議政官(ぎじょうかん)とか現(見)任公卿(げんにんくぎょう)とも呼ばれた。
★貴族(きぞく)は、律令下の支配階層で階級が五位までを指すが、そのうち階級が三位以上の上級貴族を貴ともいい、中(四位)・下(五位)の下級貴族は通貴ともいわれた。
★八省と(はっしょう)は、太政官の下で働く政務分担機構をいうが、教科書では、中国の尚書省六部を(しょうしょしょうりくぶ)モデルに編成したと教えている。
★中務省は(なかつかさしょう)、天皇側近で臣下の上奏を伝え、その詔勅を起草する最重要の省とされた。
★式部省(しきぶしょう)は、文官の人事に携わり、学校などを司る省とされた。
★治部省(じぶしょう)は、喪葬(みもそう)・陵墓(りょうぼ)、雅楽(ががく)のほか、朝貢な(ちょうこう)どの外交も司る省とされた。
★民部省(みんぶしょう)は、戸籍、租(そ)・調・(ちょう)庸(よう)、田畑(たはた)を司り、国家財政を担う省とされた。租は田租(でんそ)ともいい、田地(でんち)に課(か)す税をいうが、上田一(じょうでん)段の公定収穫量72束(そく)に対し、2束(にそく)2把(にわ)だから3%に相当する。のち束を大きくして50束に対し1束5把とした。租は大部分が各国郡家(かっこくぐんけ)などの正倉に(しょうそう)貯蔵(ちょぞう)されたが、一部は春米と(しょうまい)して中央に送られ、中央官吏の食事を満たした。調は諸国産物のうち朝廷に納めるもの。絹(きぬ)、糸、綿(めん)、鉄、鍬(くわ)、海産物など品目34種が規定され正丁(せいてい)、次丁(じてい)、少丁の(しょうてい)各クラスに課す税で中央政府の主要財源とされた。庸は労働力提供を税に替える意味があり、それぞれ調に換算する方式がとられた。
★兵部省は(ひょうぶしょう)、武官(ぶかん)の人事や軍事を司る省とされた。
★刑部省は(ぎょうぶしょう)、刑罰や良賤の訴えを決する省とされた。
★大蔵省は(おおくらしょう)、出納や度量衡また物価を決する省とされた。
★宮内省(くないしょう)は、宮中の庶務一般を司る省とされた。

 以下これらに詳述を(しょうじゅつ)加える必要あるが、進化論を唱える筋(すじ)の決定的な間違いは、先駆(せんく)の仮定に拘る(こだわ)あまり、自らの発見こそ知性の力と勘違いし、仮定と仮説の置き換えに禍根(かこん)を遺(のこ)す点にある。たかが人独(ひと)りの歴史など知れたもの、流行(はや)り廃(すた)りに便乗す(びんじょう)るだけの仮説に惑(まど)わされ、歴史の根源(こんげん)を見誤(みあやま)る教育は現時の政治が証明している。人は酸素を養分として植物は炭素を養分とするが、それは生命メカニズムの原理原則に係(かか)る問題であり、顕著(けんちょ)な違いは色(いろ)の濃淡(のうたん)に関(かか)わってくる。その濃淡を子細(しさい)に観察のうえ、黒と白の無彩色(むさいしょく)に妙法を(みょうほう)見出(みいだ)したのが神格である。派手(はで)な色調を好(この)む文明と異なり、地味(じみ)な気風(きふう)を信条と(しんじょう)する日本文明の本義は、無彩色の濃淡を究(きわ)め神々を奉ずる豊(ゆた)かさに潜(ひそ)んでいるのだ。
★中宮職は(ちゅうぐうしき)、中務省に属し、太皇太后(たいこうだいごう)、皇太后(こうたいごう)、皇后(こうごう)(中宮)の総称を三后(さんごう)といい、その三后に関する事務を扱う官司((かんのつかさ)役所)をいう。
★主計寮は(しゅけいりょう)、民部省所管の官司をいい、調・庸の納税監査などを職掌と(しょくしょう)し、諸国の財政を管理する仕事が主体となる。なお、寮は(りょう)職(しき)に次ぐ官司の等級一つ。
★主税寮は(しゅぜいりょう)、民部省所管の官司で主計寮と並立し、諸国からの進上帳簿の(しんじょうちょうぼ)監査を行い諸国財政の管理にあたる。
★弾正台は(だんじょうだい)、太政官とは別に設置した役人の監査官(かんさかん)を指すが、嵯峨天皇(さがてんのう)時代に設置された検非違使(けびいし)の出現で実権を失うことになる。
★五衛府(ごえふ)は、内宮(ないくう)の中の警護(けいご)など主な任とする軍事組織であり、諸門守護(しょもんしゅご)と出入の(しゅつにゅう)検閲(けんえつ)を行う衛門府(えもんふ)のほか、小門警衛や(しょうもんけいえい)市中巡検ま(じゅんけん)た追捕(ついぶ)など担(にな)う左衛士府(さえじふ)・右衛士府(うえじふ)、内門(ないもん)また車駕(しゃが)を警衛する左兵衛府(さひょうえふ)・右兵衛府(うひょうえふ)の五つを指したが、のち近衛府(このえふ)が成立すると、左右の近衛府、左右の兵衛府、左右の衛門府の六つとなり、これも検非違使の設置以後は実権を失うことになる。
★左京職(さきょうしき)・右京職(うきょうしき)は、特別地域たる司法警察以下の庶政(しょせい)を司る官職をいい、朱雀大路(すざくおおじ)では左右に分かれて任にあたり、これも検非違使設置後に権限が縮小する。
★坊令(ぼうれい)は、条令ともいわれるが、条は四つの坊に分かれており、京職の下に置かれ、条内各所を司る官職を指した。
★市司(いちのつかさ)は、左右の京職に所属し、市の監督官庁を指すが、東西に設置された。
★摂津職(せっつしき)は、摂津国(せっつこく)の内政を担う官職で各国司(こくし)と変わらないが、聖武(しょうむ)天皇の難波宮(なにわぐう)そして難波津(なにわつ)が置かれたときは、外交上も重要なため京職に準じる職の設置が設けられた。
★太宰府(だざいふ)は、律令政府が九州に設置した出先機関であり、遠の朝廷(とおのみかど)ともいい、九国三島(きゅうこくみしま)の支配と外国使臣の(とつくにのしおみ)接待なども任じられ、その政庁は都府楼(とふろう)と呼ばれ、長官は太宰帥(だざいのそち)、次官は太宰大弐(たざいだいに)と呼ばれた。現在は福岡県太宰府市の史跡公園になっている。
★防人司(さきもりのつかさ)は、五畿七道(ごきしちどう)の一つ西海道(さいかいどう)を守る防人(さきもり)を支配する役所で太宰府に属する。
★畿内(きない)は、天子(てんし)の住む都を(みやこ)京師(けいし)といい、大和(やまと)、山城(やましろ)、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の五ヶ国が畿内で五畿といわれ、畿内の課丁(かてい)(課役(かえき)の負担者)は調が半分また庸は不課(ふか)(負担なし)という優遇措置(ゆうぐうそち)が敷(し)かれた。
★七道(しちどう)は、古代の行政区で東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の各街道を総称し、畿内を除く各国は、この何れかに属して都を起点とする主要幹線道路とされた。
★三関(さんげん)は、都で(みやこ)謀叛(むほん)を企て(くわだ)た者の東国方面(とうごくほうめん)への逃亡(とうぼう)を防止(ぼうし)したり、外敵(がいてき)の都への侵入な(しんにゅう)ど防(ふせ)ぐために設けられた関所(せきしょ)のこと。前記のほか、天皇や上皇の譲位(じょうい)あるいは崩御(ほうぎょ)などある場合には、固関使(こげんし)を遣(つか)わし、三関を警護する固関の儀(ぎ)が行われる。その三つとは東海道の伊勢国(いせのこく)(三重県)鈴鹿関(すずかのせき)、東山道の美濃国(みののこく)(岐阜県)不破関(ふわのせき)、北陸道の越前国((えちぜんのこく)福井県)愛発関(あらちのせき)とされたが、のち愛発関は近江国(おうみのこく)(滋賀県)逢坂関に(おうさかのせき)変えられた。

 大和(やまと)(奈良)平城京に栄えた興福寺(こうふくじ)は、北近江(きたおうみ)(滋賀県)山階寺(やましなてら)(鎌足(かまたり)の寺)が前身で不比等(ふひと)が移し藤原の氏寺(うじでら)とされた。同じ領域の東大寺(とうだいじ)(華厳宗大本山(けごんしゅうだいほんざん))は、総国分寺(そうこくぶんじ)とも称され、広大な荘園を(しょうえん)持つ天下三戒壇(てんかさんかいだん)の一つで知られる。弥生前期~後期の遺跡(いせき)で最大級環濠(かんごう)集落といわれるのは、唐古(からこ)・鍵(かぎ)地区(田原本町(たわらもとちょう))にあり、前期の古墳郡(こふんぐん)では、纏向(まきむく)や箸墓(はしはか)(桜井市)が、また飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)(高市郡明日香村)周辺には、板蓋宮((いたぶきのみや)蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺場所で皇極天(こうぎょく)皇の皇居)、浄御原宮(きよみはらのみや)(天武(てんむ)天皇即位の遷宮(せんぐう)場所)、飛鳥寺(あすかでら)(蘇我馬子(そがのうまこ)建立別称法興寺(ほうこうじ)ともいう)、山田寺(やまだてら)(蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)建立)、高松塚古墳(たかまつづかこふん)などある。他に斑鳩(いかるが)の法隆寺(ほうりゅうじ)、旧藤原京の橿原宮、(かしはらのみや)信貴山(しぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町(へぐりちょう))、女人高野(にょにんこうや)の別称もつ室生寺(むろうじ)(宇陀郡室生村(うだぐんむろうむら))など、まさに大和は国の真秀間(まほらま)(まほろば)これ体認すべし。
★国(こく)・郡(ぐん)・里(り)は、律令下の里は50戸、郡は2~20里、国は数郡で編成しており、国の遷り変わりは激しく起こり、淳和(じゅんな)天皇時代に66国2島に固定するも、郡は約六〇〇に及び里は約四〇〇〇にまで達している。そして、国は大・上・中・下の順で四つに分けられ、郡は大・上・中・下・小の順で五つに分けられた。因みに、大化改新以降から大宝令施行(だいほうりょうしこう)(七〇一)までの地方行政組織は、評((ひょう)こおり)と呼ばれており、各地に派遣された惣領下に旧来の国造が組み込まれ、その従来の支配地「クニ」が分割などされている。大化以前の倭国六県とは、高市(たかち)、葛城(かつらぎ)、十市(といち)、志貴(しき)、山辺(やまのべ)、會布(えのふ)の六つを指し、天皇へ蔬菜など献上奉納する直轄領とされていた。大化元年は東国とともに、人口や田地を調査する遣使(けんし)らが出向いており、のち評が(こおり)郡に改字されるまでは、長官を評督(こおりのかみ)または評造(こおりのみやつこ)といい任は国造などに与えられている。また里(り)も後(のち)に郷(ごう)と改められ里長(さとおさ)は郷長とされている。
★国司(こくし)は、中央政府から派遣される地方官で一国の民政・裁判を司るが、守(かみ)(業務統括の長官(かみ))・介(すけ)(補佐役の次官(すけ))・尉((じょう)官司内の非違検察(ひいけんさつ)と文書審査の判官(じょう))・目((さかん)文書作成を行う主典(さかん))の四等官(しとうかん)に分かれ、任期六年に始まり、のち四年に短縮されている。定員は国の大小で差が生じており、国司以外の四等官は官司((かんのつかさ)役所)ごと違う文字を使い、その制度を四等官制と呼んでいたが、漢字がルビの証でもある。
★神祇官四等官の文字は伯(かみ)・副(すけ)・祐(じょう)・史(さかん)と書き、八省四等官は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、八省下寮(かりょう)の四等官は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、五衛府の四等官は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、太宰府の四等官は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府(ちんじゅふ)の四等官は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)と書いた。
★国府(こくぶ)は、諸国の役所と所在地を指し、国衙(こくが)は国司が政務や儀礼を行う国庁で(こくちょう)役所群、倉庫群、国司の館な(やかた)どからなり、近くに国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、総社(そうじゃ)、国府津(こうづ)など置かれた。
★郡司(ぐんじ)は、国司の下で郡の民政・裁判を司るが、その四等官は大領・(だいりょう)少領・主政(しゅせい)・主張と(しゅちょう)呼ばれ、旧来の国造ら在地豪族が任命され終身官とされた。また郡衙(ぐんが)は郡家(ぐうけ)と呼ばれ、郡司が政務や儀礼を行う郡庁のこと、正倉や館などあり、その下の里長(郷長)は税の取り立てなどを主な職務とした。
★官人(かんじん)は、官吏(かんり)一般を指すが、狭義(きょうぎ)には官位相当をもつ諸司(しょし)の主典(さかん)以上を指し、広義(こうぎ)には諸司の史生(ししょう)(書記)など雑任(ぞうにん)と呼ばれた下級官吏まで含まれる。ただし、天皇の后妃(こうひ)らが住む後宮((こうきゅう)宮中の殿舎)に仕(つか)える女性は、女官(にょかん)という制度のもと区別されている。
★位階(いかい)は、序列を示す等級で諸王・諸臣に与えられ、聖徳太子以来の冠位制は律令時代に30階となり、正一位(しょういちい)から従三位(じゅさんみ)まで6階、正四位上か(しょうよんいのじょう)ら従八位下(じゅはちいのげ)まで20階、大初位上か(だいそいのじょう)ら少初位下まで4階とされており、親王(しんのう)は一品(いっぽん)から四品(よんほん)まで4階の品階(ほんかい)が設けられた。
★蔭位の制(おんいのせい)は、位階五位以上の蔭子(おんし)をいい、同三位以上の孫は蔭孫(おんそん)といい、成人二一歳に達すると、父祖の位階に伴い一定の位に就く制度で上級貴族の独占を生じている。

 上代の五畿は前記の通り、大和(やまと)(奈良県)、山城(やましろ)(京都府)、摂津(せっつ)(兵庫県と大阪府の主要拠点地域)、河内(かわち)(大阪府)、和泉(いずみ)(大阪府)であるが、平城京が平安京(山城)へ遷都(せんと)やむなき状況に至るプロセスには、通説の史観を鵜呑(うの)みにできない問題があり、これ安易(あんい)に見過(みす)ごすがゆえ、現在の歴史教育も歪(ゆが)みを正せないのだ。たとえば、皇紀暦(こうきれき)の成立元年をめぐり、大和説と九州説があり、騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)などに拐か(かどわ)されれば、支那を長男とし、朝鮮を二男(じなん)に準え(なぞら)日本を三男(さんなん)とする、莫迦(ばか)げた作り話を尤も(もっと)らしく考える幻想(げんそう)空間も生じ(しょう)てこよう。文献史家(ぶんけんしか)の粗末(そまつ)に共通するのは、もとより、ロードマップに対する設計に閃き(ひらめ)が欠けており、ほとんど生命のメカニズムに無知であること、アダムとイヴが戯れ(たわむ)るエデンの園(その)に憧れ(あこが)たり、何でも十把一絡げ(じっぱひとから)にしたがる性癖(せいへき)が見られる。氏姓鑑識に家紋との合一性が不可欠な要素とは、そうした罠(わな)を透(す)かす先見性(せんけんせい)の手続きがあり、基礎的条件に見合う必須の閃きを誘(さそ)い出すエネルギーがあるのだ。
★封禄(ほうろく)は、位階に伴う給与のこと。三位以上は位封(いふ)として封戸(ふこ)が、四位と五位には位禄(いろく)として布と綿が、加えて五位以上には位田(いでん)が給さ(きゅう)れた。位田は正一位80町~(ちょう)従五位8町まで段階があり、初めは輸租田(納税義務ある田)であったが、次第に私有化され高位者には大きな収入源となる。食封(じきふ)は皇族、上級貴族、寺社などに封戸(ふこ)一定数が納める、調・庸の全部および租の半分が支給され封主(ふしゅ)と呼ばれていた。改新の詔には、上級官人に食封また下級官人に布帛を与える規定があり、天武朝の改革さらに大宝令で整備され、位封、職封(しきふ)、寺封(じふ)、神封(しんぷ)などの制度が生じた。
★資人(しじん)は、上級貴族の位階・官職に応じて給される供人(ともびと)のこと。また親王と内親王へ給付手当てされるものを帳内といい、この資人・帳内と天皇を警衛するのが大舎人(おおとねり)・内舎人(うどねり)で総称を舎人と称した。
★職田(しきでん)は、官職に応じて与えられる田のこと。大臣・大納言などの高級官僚、太宰府官人、国司・郡司などの地方官に与えられ、大部分は不輸租田だったが、郡司レベルの地方官は輸租田とされている。
★班田収授法は(はんでんしゅうじゅほう)、男女六歳以上に口分田(くぶんでん)を班給す(はんきゅう)る制度のこと。条里制(じょうりせい)では、長さ一町が(いっちょう)60歩(ぶ)で約109メートル、面積一町四方が10段(だん)で三六〇〇歩、長さ一歩は約1.8メートル、同様面積一歩は約3.3平方メートルに換算する。戸籍の作成を造籍(ぞうせき)といい、造籍は六年ごと行う籍年(せきねん)を設け六年一造(ろくねんいちぞう)といい、その造籍に基づき班田も籍年の翌年(班年)に実施、それを六年一班といい、良男二段(一段360歩)とし、良女その三分の二(一段120歩)と定められ班給した。なお口分田は終身使用できる田のこと。条里制は後述する。
★公民(こうみん)とは、正規の課役負担者をいい、戸籍は男女を年齢区分し、一~三歳を緑、(りょく)4~16歳を小、(しょう)17~20歳を少、(しょう)21~60歳を丁(てい)、61~65歳を老(ろう)、66歳以上を耆(き)と分けている。うち丁が正規の課役負担者で男を正丁(せいてい)・女を丁女(ていじょ)といい、これに次ぐのが老と少その呼び名は老丁(ろうてい)が次丁(じてい)、少丁が(しょうてい)中男と(ちゅうなん)称した。課役負担の割合は正丁を1とするとき、次丁は約二分の一、中男は四分の一とされている。
★戸籍(こせき)(住民基本台帳)は、六年一造の規定、戸口の名・続柄・性別・年齢・課不課の別などを記載のうえ、五比(30年)の間、保存された。現存最古の戸籍は正倉院所蔵にある美濃、筑前、豊前、豊後の国の大寶元年(たいほう)(文武天皇)もの、養老五年(ようろうごねん)(元正天皇)(げんしょうてんのう)の下総国戸籍とされる。税徴収の台帳は計帳と(けいちょう)いい、神亀元年(じんきがんねん)(聖武天皇)の近江国志何郡(しがぐん)ものが現存最古といわれ、神亀三年(同)の山背国愛宕郡出雲郷(やましろのくにおたぎぐんいずもごう)ものも知られ、戸籍とあわせ籍帳ともいう。郷戸(ごうこ)は行政組織の最末端に編成された戸籍で班田や課税負担の単位を示す貴重(きちょう)な史料であり、戸主(こしゅ)の親族にかぎらず、異姓(いせい)の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)を戸口(ここう)に含んでおり、房戸(ぼうこ)複数の編成が組まれているからだ。なお郷戸一成員25人程度が普通という。

 山城(京都府)恭仁京(くにきょう)(相楽郡(そうらくぐん))は、聖武(しょうむ)天皇四年間の遷都先(せんとさき)とされるが、事由は藤原広嗣(ひろつぐ)の乱などの政治的不安、次に摂津(大阪府)難波宮(なにわぐう)(中央区法円坂(ほうえんざか)の孝徳(こうとく)天皇の長柄(ながえ)豊碕宮(とよさきぐう)跡地)へ遷(うつ)り、さらに離宮(りきゅう)の紫香楽宮(しがらきのみや)(滋賀県甲賀市)造営それらを経て平城京還幸(かんこう)という足跡が知られる。また山背国乙訓郡(やましろこくおとくにぐん)(向日市(むこうし))長岡京は、桓武(かんむ)天皇遷都(せんと)の地と知られ、和気清麻呂(わけのきよまろ)の献言(けんげん)で平安京(葛野郡宇太村(かどのぐんうだむら))へ遷都したとされる。奈良と大阪の県境に位置する二上山(にじょうざん)は、玻璃質(はりしつ)(ガラス状)安山岩(あんざんがん)(讃岐石(サヌカイト))を多く産出するが、石器石材として最もよく用いられ、名称は讃岐国(さぬきこく)(香川県)白峰山(しらみねやま)が最大の多産地にあるため由来する。河内(大阪府)は二上山のほか、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(羽曳野市(はびきのし))が知られ、古市(ふるいち)古墳群の中心的存在であり、百舌鳥古墳群(もづこふんぐん)(堺市(さかいし))中心の大仙陵に(だいせんりょう)次ぐ規模で応神(おうじん)天皇の大前方後円墳(だいぜんぽうこうえんふん)とされる。なお摂津に食い入る兵庫県の領域は神戸市(こうべし)と伊丹市(いたみし)をいい、源平(げんぺい)騒動(そうどう)の際に平清盛が(たいらのきよもり)別荘地(福原)へ遷都した話が知られる。
★大別二階級(たいべつにかいきゅう)は、律令上の良と(りょう)賤(せん)の階級制をいう。良は位階をもつ貴族と官人、公民ほか品部(ともべ)と雑戸(ざつこ)を指すが、品部・雑戸は実際上が中間に位置しており、賤は陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)で五色(ごしき)の賤ともいわれた。調庸負担(ちょうようふたん)の公民は、班田農民(はんでんのうみん)・白丁(はくてい)・百姓と(ひゃくしょう)も呼ばれるが、諸々(もろもろ)の官司に隷属(れいぞく)し、手工業中心に(しゅこうぎょうちゅうしん)特殊な技芸労務を義務づけられた集団は雑色人(ぞうしきにん)と総称され、律令上は良民でも差別の対象とされ、後(のち)の戸籍解放あるまで差別から免れなかった。陵戸(りょうこ)は天皇家の陵墓を守護。官戸は官司の(かんのつかさ)諸役に駆使(くし)され、官人・良民の罪過者(ざいかもの)などの構成で一家は構えられた。家人は私有の賤でも戸(こ)をなす生活が可能で売買は免れた。公奴婢は官有の奴隷(どれい)で中央官庁の雑役(ざつえき)に使われ戸の形成は許されない。最下位の私奴婢は各氏の私有で経営拠点の宅(やけ)に隷属(れいぞく)し売買され、男は奴、女は婢と呼ばれた。
★条里制(じょうりせい)とは、土地区画制のこと。四方6町は360歩で約654メートルに相当し、南北に一条、二条、……、東西に一里、二里、……、と称し、何条何里と表示した。そのうえ一区画を36等分し坪と呼び、坪の数え方には、千鳥式坪並(ちどりしきつぼなみ)(蛇行式(だこうしき))と平行式坪並(並行式)とが用いられ、一町すなわち約109メートル四方の坪を10等分して一段に分けており、長池型(ながちがた)は一段を6歩×60歩とし、それを横10列に並べるが、半折型(はおりがた)は一段を12歩×30歩とし、それを横5列×2に並べており、現在は長池型が優勢と推定されている。
★租(そ)は、民部省の項に記したが、諸国正倉に貯蔵された官稲(かんとう)中にあり、最も代表的な税を正税と呼ぶも、本来、官稲には田租(でんそ)に由来する大税(たいぜい)と、出挙(すいこ)の本稲(ほんとう)や利稲(りとう)に由来している郡稲(ぐんとう)などの区別が設けられていた。聖武天皇時代の官稲混合で両者一本化され、正税との呼称が生まれ、官稲は、正税、公廨稲(くがいとう)、雑官稲という三本立てになる。
★出挙(すいこ)は、春に稲を貸し付け、秋に回収する利息付き貸与のこと。公私の別があり、正税出挙(公出挙(くすいこ))は元々が貧民救済を目的としたが、次第に強制的な租税化となり、出挙の利稲は国衙運用の重要財源になる。利率は公出挙5割、私出挙(しすいこ)10割程度という。
★義倉(ぎそう)は、凶作に備え毎年粟などを出させ、それを貯蔵した制度のこと。粟の負担額には戸の等級で差がつけられたという。
★調・(ちょう)庸(よう)も前記したが、調は正丁の半額が次丁、その半分が中男に課せられ、庸とともに中央政府へ運ばれ、正規の調に加えて染料など副も徴されたという。庸は正丁に歳役(さいえき)10日分として麻布2丈6尺を出させ、その半分を次丁とし、中男と畿内は免除している。
★歳役(さいえき)(労役)は、養老令に力役(りきやく)負担があり、正丁は年間10日で次丁は半分、中央で働く制度も実際は大部分が庸布を納め、それを政府は両替して土木事業を行ったという。
★雑徭(ぞうよう)は、農民を年間60日限度で労役に使役できる国司の権限。道路、池堤(ちてい)の修築などの公用ほか、国司の私用にも流用したため、のち30日ふたたび60日また30日と変わる。

 碁盤目状(ごばんめじょう)の土地区画制度(古代の都城(みやこのじょう))に条坊制が(じょうぼうせい)あり、内(うち)は東西南北すべて四町すなわち約530メートルごとの大路(おおじ)で区画しており、その一区画を坊(ぼう)といい、左右の京内を(きょうない)何条何坊の形で表示していた。さらに坊は東西南北とも小路(こうじ)三本ごとに16区分され、その区分一つを坪(つぼ)(町)と呼んでいた。左京(さきょう)に東市を(ひがしのいち)、右京(うきょう)に西市を(にしのいち)設(もう)け、市司に(いちのつかさ)よる管理が施(ほど)されたのは平城京も平安京も同じであり、正午に開かれ、日没に閉じられたが、これら以外にも軽市((かるのいち)奈良県橿原市)や海柘榴市(つばいち)(同桜井市)も設けれていた。奈良時代の都は(みやこ)寧楽(なら)と書くこともあり、平安遷都後は田畑に変えられたが、外京付近の大寺院を中心に南都(なんと)の呼称が使われ、中世に門前町が形成され、座(ざ)と呼ぶ商工業も栄(さか)えだすと、筆墨(ひつぼく)ほか奈良晒し(ならさらし)を産(さん)するようになり、江戸時代には幕府直轄領にされている。平城京下の官道(かんどう)は第一等級の大路(おおじ)が山陽道、第二等級の中路(ちゅうろ)が東海道と東山道、第三等級の小路(こうじ)が北陸、山陰、南海、西海の各街道で駅路(えきろ)と伝路(でんろ)に結び付いていた。駅制(えきせい)は都と(みやこ)地方国府を結ぶ駅路約16㎞ごとに駅家(うまや)を置き、駅鈴(えきれい)の保有を許された駅戸(えきこ)が配(はい)され、公的に管理された。
★熟田は(じゅくでん)、耕作できて収穫ある田をいうが、輸租田(ゆそでん)、不輸租田(ふゆそでん)、輸地子田(ゆじしでん)、などの区別があり、輸租田には位田(いでん)、功田(こうでん)、賜田(しでん)、墾田(こんでん)など納税義務ある田のことを指していう。
★位田(いでん)は前記したが、功績者には大中上下の四等級に伴う功田が与えられ、大功田は永久私有で世襲も認められたが世代数に差も生じている。賜田は高位高職者へ恩勅が規定外に降され賜る土地で荘園成立の要因となる。墾田は本来公有であるが、未開地を開墾のうえ得る田地で聖武天皇時代に私有が認められ不輸租田化していく。免税の不輸租田には神社用に充(あ)てる神田(しんでん)、寺院用に充てる寺田(じでん)は寄進や開墾の急増を促すことになる。
★乗田は(じょうでん)、輸地子田また公田(こうでん)ともいい、田地のうち、位田、職田(しきでん)、口分田などに班給し(はんきゅう)た残りの田で乗は余剰(よじょう)の意味をもち、地子(じし)(賃料)をとる賃租(ちんそ)の意味も伴っている。
★賃租(ちんそ)は、乗田や初期荘園(しょきしょうえん)、位田、賜田など期限付きで貸し賃料をとることをいう。期限は原則一年で収穫の五分の一程度といわれ、春の耕作前に支払うのが賃、秋の収穫時まで賃料を待つのが租といわれる。
★初穂儀礼(はつほぎれい)は、収穫後に初めて神前に稲穂(いなほ)(初穂)を供える儀礼のこと。これを租や贄(にえ)の制度を興(おこ)す起源(きげん)とする説が有力とされている。
★贄(にえ)は、天皇が行う儀礼に貢納(こうのう)する食料品一般をいうが、稲穂のほか、魚介や海藻、鳥獣まで自然に対する畏怖、感謝の念を込めている。
★宅地(たくち)とは、令に(りょう)規定された居住用地で私有権の性格が強いために、売買も相続も可能で蔬菜(そさい)や桑(くわ)などを植える園地(そのち)ともされた。
★兵役(へいえき)は、正丁三~四人に一人の割合で兵士となり、各地軍団で交代服役する義務がある制度のことをいう。服役中は武事の訓練ほか、倉庫や関所の守備、犯罪者の追捕や護送に当たり、一部は庸や雑徭(ぞうよう)の免除のため、衛士(えじ)や防人(さきもり)になる者もいたが、食糧・武装は自弁するのが原則とされていた。
★軍団(ぐんだん)は、諸国に設置された兵士の集団をいい、管内の兵士は交代で勤務、地方豪族出身軍毅(ぐんき)が指揮した。桓武(かんむ)天皇時代これら軍団制は陸奥(むつ)、出羽(でわ)、佐渡(さど)、太宰府(だざいふ)の管内辺境地(へんきょうち)を除き廃止、その代わりは健児(こんでい)に引き継がれた。

 以上★印の(ほしじるし)要略は、全国歴史教育研究協議会編『日本史B用語集』改訂版に述べられる記事を整えて、現下の大学受験に要する認識を示したが、この程度の知力しかない信徒が現在進行形の経世済民(けいせいさいみん)を担(にな)うのだから、国土(こくど)が枯(か)れ、水や空気を売買するのも当たり前の世(よ)となる。記紀を教科に組み込まないまま、皇紀暦と日本文明の成り立ちをぼかし、外(と)つ国(くに)の制度を真似(まね)たかのように、似非教育を施せば、宜(むべ)なるかなとも思えるが、まほろばに根ざす大和の神髄はそんな柔(やわ)ではない。政体構造がいかなる様変(さまが)わりを見せようと、万世一系の国体は変わらず、聖地に根ざす潜在力は決して失われない。
 植物に見られる突然変異も人の発想であり、日本史歪曲の(わいきょく)思想もキメラ・マウスと同じ果樹(かじゅ)栽培(さいばい)の繁殖法ゆ(はんしょくほう)えに、単なる千切り取りは自然に駆逐(くちく)される。ここに家紋講座の真価本領があり、個々のコミュニティーが、自ら拠(よ)って立つ生活基盤の形成に励(はげ)めば、時勢(じせい)が勝手に衰え(おとろ)ようと、競わず争わず、必ずオピニオン・リーダーは生まれる。それら理由を以下六行の余白(よはく)に書くよう舎人の宿題とする。

ブラック企業
本稿執筆にあたり、“渡邉正次郎”をグーグルで検索してみたところ、ナント最初に登場したのが渡邉氏本人のブログではなく、ブログ友・飄平さんの「つむじ風」だったのには驚いた(笑)

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さて、その渡邉正次郎氏がワタミ社長の渡邉美樹氏に対して、なんとも強烈な言葉を投げつけているのでご覧いただきたい。
私はブラック企業ヒトラーオーナーの”ワタナベ“です。

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渡邉正次郎氏のことだから、ワタミ社長の渡邉美樹社長に関する情報の信憑性は、極めて高いものと思って差し支えないだろう。まさに、渡邉 vs.渡邉といったところだか、さらにもう一人の〝渡邉〟氏に注目したい。ワタミの記事を書いた「My News Japan」の渡邉正裕氏だ。亀さんには就活を控えている身内がいるだけに、同氏の書籍の数冊を親として目を通しているが、渡邉氏は大企業から金をもらっていない一匹狼的存在であり、それだけに同氏のブラック企業についての情報は信憑性が高い。今後も注目していきたいブラック企業ウォッチャーの一人だ。
みょうがの旅
中村(みつぞう)さんの「みょうがの旅」が公開された。家紋に関心のある読者に一読戴ければ幸いだ。筆者の中村さん、この度の公開ありがとうございました。
http://michi01.com/nakamura/myouga_index.html

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あなたの家紋と家紋ネクタイ★備えあれば憂いなし
ワクチン接種の勧奨せず
昨日(6月14日)、産経新聞のオンライン版で、「子宮頸がんワクチン接種の勧奨せず」と題する記事が掲載された。

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http://sankei.jp.msn.com/life/news/130614/bdy13061421100003-n1.htm

ここで、ワクチンの経過を振り返ってみよう。わずか1ヶ月前の5月16日、厚労省専門部会では「ワクチンは中止しない」と結論づけていた。


http://www.youtube.com/watch?v=l9CwPH36IZ4&feature=player_embedded

それが、わずか1ヶ月で「子宮頸がんワクチンの接種の勧奨せず」と方針を転換した背景に、一体全体何があったのだろうか…。ここで考えられる要因の一つのが、『月刊日本』の存在だ。

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ちなみに、同誌のワクチンに関する記事の一部が以下のページで読める。
安倍総理、即刻ワクチン投与を止めて下さい!  本誌編集部

ともあれ、暗いニュースが続く今日の日本で、数少ない明るいニュースになったことは間違いない。なお、本ブログでは過去にもワクチンに関する記事を2本書いているので、関心のある読者に一読してもらえれば幸いだ。
中学や高校の女の子が危ない…!
大問題となりつつある子宮頸がんワクチン!
寅さんのことば 5
佐藤利明氏の「寅さんのことば」第5話を読み、亀さんは吉川英治の「朝の来ない夜はない」を思い出した。二十代の頃に読んだ何かの本に書いてあった言葉だから、かれこれ30年以上も前にもなる。この格言は、今東光の「絶望するなかれ」にも結びつくと思うし、両名言とも亀さんにとっては座右の銘になっているんだ

それにしても、本ブログは今東光から出発したのだけど(「人生は冥土までの暇つぶし」も、和尚の言葉)、いつの間にか寅さんの事も書くようになった(笑)。まぁ、いいけどね…。

ともあれ、♪人生楽ありゃ苦もあるさ、涙のあとには虹も出る♪というわけで、お互いに人生は冥土までの暇潰しと思って生きていこうゃ…

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◆舎人家紋講座25
「◆舎人家紋講座25」は、“●通説の律令国家成立”と題する25番目の小節である。

●通説の律令国家成立
大化改新(たいかのかいしん)は乙巳(いっし)の変に端を発するが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇(てんじてんのう))と中臣鎌足を(なかとみのかまたり)中心に蘇我氏打倒を果たすと、氏姓制度の弊(へい)を打破(だは)し、唐(とう)の律令制を基(もと)に天皇中心の中央集権国家の建設を目指したという。改新後、鎌足は内臣と(うちつおみ)なるが、その職掌は(しょくしょう)令制にないため、天智天皇の下で重要政務を協議のちの内大臣(ないだいじん)かといい、臨終に際しては、天智天皇から大織冠(たいしょくかん)と藤原の姓を賜るとされる。旧豪族の長老阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が左大臣に、右大臣には蘇我入鹿(そがのいるか)の孫石川麻呂(いしかわまろ)が就くが、異母弟の讒言で自殺に追い込まれる。高向玄理と(たかむこのくろまろ)旻(みん)は渡来の子孫で前者は遣隋(けんずい)留学生のち遣唐使(けんとうし)となり、後者は学僧(がくそう)として隋・唐に留学しており、共に政治顧問となり、唐の諸制度を輸入のち国博士(くにのはかせ)と呼ばれた。改新後、諸国の国学教官は国ごと一人任命され国博士と称する。天智天皇の大友皇子(おおとものみこ)は太政大臣と(だいじょうだいじん)なり、近江(おうみ)に朝廷を肇も(ひらく)大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇(てんむてんのう))と対立し、天皇崩御の翌年、壬申(じんしん)の乱で破れ自殺という。吉野を発つ天武天皇は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位すると、皇族を重用する八色の姓(やくさのかばね)を制定、また新冠位48階を定め、国史の編纂に着手した。これ皇親政治と称している。
★八色の姓(やくさのかばね)とは、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連、(むらじ)稲置(いなぎ)の身分(位)を天皇から賜姓される制度であるが、実際は道師以下の賜姓はないという。
★真人(まひと)は、第26代の継体天皇(けいたいてんのう)から五世以内に入る大王家子孫を指すが、旧姓が(きゅうせい)君(公(きみ))の姓(せい)を称していた者に限られた。
★朝臣(あそみ)は、天皇あるいは皇子の子孫でも、疎遠(そえん)な皇別(こうべつ)と考えられていた臣の姓氏族(せいしぞく)に限り授与された。
★宿禰(すくね)は、神々の子孫とされる神別(しんべつ)から、連の(むらじ)姓氏族に限り授与された。
★忌寸(いみき)は、国造で直の姓氏族にあたるものと、渡来系の有力氏族に授与された。
★道師(みちのし)は、授与の例が見当たらないと不詳(ふしょう)にされている。
 教科書では、天皇、現人神(あらひとがみ)、皇后、皇太子(東宮(とうぐう))、日本などの呼称を正式に使い出す時期とは、天武朝(てんむちょう)と考えられるとしている。また天香具山(あめのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山(やまとさんざん)に囲まれた聖地の造営は、天武朝に始まり、持統天皇(じとうてんのう)が完成させたといい、このころ法相(ほっそう)宗創設の道昭が(どうしょう)初めて火葬(かそう)(七〇〇)されたことにより、のち貴族層に広まり、古墳文化は急速に消滅したともいう。さて律令の律(りつ)は刑法を指しており、令は(りょう)行政法や民法のことを指すが、律令官制は太政官と(だいじょうかん)神祇官(じんぎかん)を最高官庁とする。とはいえ、太政大臣、(だいじょうだいじん)左右大臣や大納言(だいなごん)などの公卿(くぎょう)(議政官(ぎじょうかん))で成る国政審議部門を網羅(もうら)する太政官部門に対して、神祇(じんぎ)官部門は祭祀(さいし)を司るだけの如く同列と見ていない。さらに、大嘗祭は(だいじょうさい)天武・持統朝ころから開始されたと考えられる、という教育現場の実態を鑑み(かんが)れば、如何(いか)に認知症(にんちしょう)の似非(えせ)教育が現下の社会一般に浸透(しんとう)しているかの証左(しょうさ)ともなる。

 皇紀(こうき)二五二八年(明治元年)、開国の思潮(しちょう)に漂流し(ひょうりゅう)たときでさえ、太政官制(だじょうかんせい)は翌年二官(にかん)六省制に改められ、神祇官は教部省((きょうぶしょう)神祇省)→文部省へと移り変わるなか、学校制度は国家百年の大計(たいけい)と位置付けられ、寺社(じしゃ)部門は内務省(ないむしょう)に組み込まれたのだ。これさえ粗末(そまつ)な政策でしかないが、肝心(かんじん)なのは教育が百年の大計ということ、教育現場が自ら国家の原理原則たる歴史を歪(ゆが)めて何とする。似非を見抜けないまま、進学率向上に狂う政策に生じる結果は、現下のサギ社会が証明するところで言うまでもあるまい。現存する皇紀暦(こうきれき)および万世一系(ばんせいいっけい)これ皇統譜(こうとうふ)に遵え(したが)ば、神格天皇は競わず争わず、競い争うのは神格を奉じる偽装(ぎそう)政権の為(な)せるところ、その歴史を究(きわ)めず何で教育といえるのか。もとより人格の内奥(ないおう)では善悪葛藤(ぜんあくかっとう)のダブル・スタンダードが働いており、共時性を伴う場の歴史が乱れるとき善悪葛藤は、第三局も在(あ)ることを察知(さっち)するのが閃き(ひらめ)であり、このとき問題となるのが、普遍(ふへん)の心がけで要諦(ようてい)はひとえに不断(ふだん)の禊祓を(みそぎはらへ)欠(か)かさないことに尽(つ)きるのだ。

決めて断つ
現在、メジャーリーグの名門中の名門、ヤンキースで素晴らしい活躍を見せている黒田博樹投手の著書に、『決めて断つ』(KKベストセラーズ)というのがある。特に光るのは黒田博樹について語る、クレイトン・カーショー、小坂勝仁、生島淳といった各氏の黒田評だ。代表して、生島淳氏の黒田評を以下に引用しておこう。

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証言③ 生島淳(スポーツジャーナリスト・構成者)
今回の本の最後の取材は、フロリダ州のタンパでということになった。
市内の住居を訪ねると、意外な姿で黒田投手は出迎えてくれた。
麦わら帽子をかぶって、釣り竿を手にしていた。家の裏が内湾に面していて、釣りができるのだ。その気取りのない表情を見て、半年間、取材してきた時間を思い返してみた。
これまで日本人に限らず、何人ものメジャーリーガーに話を聞いてきたが、黒田投手のような発想をする選手に出会ったことはなかった。
これほど、堅実な考え方をする選手、いや、人にはなかなかお目にかかれない。
メジャーリーグにまで到達する選手のほとんどははじめから「高い目標」を掲げる場合
が多い。自分の手が届かないようなゴールに向かって自分自身を駆り立てていく。どちらかと言えば、「狩猟系」の発想をする選手が多いのだ。
ところが黒田投手は違った。一歩、一歩、足もとを見ながらキャリアを重ねていく。その結果が、メジャーリーグに辿りついたという「変わり種」なのだ。
まず、高校時代は補欠だったというのが意外である。しかし、大学進学から人生は変わり、一段、一段階段を上がっていった。
メジャーリーグにまで到達する選手というのは、小学校から大学までを通じて、圧倒的な能力の差を見せつけて育ってくる場合がほとんどだ。そうすると、必然的に次の段階を見て、考えてプレーするようになる。一足飛びに成長することを意識するから、足もとよりも未来を見通したくなる。
ところが黒田投手は、高校時代の経験、そして家庭での教育環境のためだろうか、「飛
び級」を意識しない。必ず、足もとを見てから次の段階に進んでいく。そうしたメジャーリーガーは珍しい。どちらかと言えば、足もとを固めながらという意味で、「農耕系」の発想と言っていいだろう。
もうひとつ特徴的なのは、帰属する集団への忠誠心の高さである。
家、チーム、友人。カープ、ドジャース、ヤンキースとユニフォームを着たチームヘの愛着は並々ならぬものがあり、それが彼の投球を通じて伝わってくる。FA全盛の時代、選手が残留することを望んでも、それがかなわないことが多くなっているが、黒田投手の姿勢には「旧き良き時代」の匂いが残っている。
アメリカでは、野球でもビジネスが優先されるとはいっても、ひとつのユニフォームで現役生活をまっとうした選手は大きな尊敬を得る。特にヤンキースの生え抜きの選手たちは、忠誠心や経験といったものがないまぜになって独特の「雰囲気」を醸し出している。
黒田投手の組織へのこだわりは、野球界の「変わらぬ価値」を感じさせてくれる。また、ヤンキースのメンバーの中にいると、ずいぶん昔からヤンキースにいたかのようにも見える。きっと、雰囲気に合っているのだ。
いうならば、どっしりとしている。
自分の身の振り方を決めるときも、どっしりと構えてから決断をする。本物と、そうでないものをしっかりと見極める眼力がある。だから必要以上にアメリカでプレーしていることに対してはしゃぐようなところがないのも、黒田投手の特徴ではないか。
アメリカでプレーする日本人選手は、青い空、緑の芝生に感激し、そこでプレーする喜びを噛みしめる。ドーム球場で慣れてしまった感性が呼び覚まされる気がするという。
しかし、黒田投手からは、あまりそうした言葉は聞かれなかった。恵まれた環境をエンジョイしているのだとは思う。しかしグラウンド、球場はあくまでも仕事場で、環境を意識する余裕がないほど、トレーニングに集中しているのだと思う。
あくまでアメリカは真剣勝負の場なのだ。これほど、勝負の場と割り切っている日本人選手も珍しいと思う。

黒田投手と会っていくうちに、昔の武士とは、黒田投手のような雰囲気だったのではないか、と思うようになった。
寡黙。無駄口は叩かない。
自分が属する集団への忠誠心の高さ。
一緒に働く人間へのリスペクトがあり、喜びと悲しみを共にすることを大切にする。
しかも敗れることへの恐怖から、鍛錬を怠ることはない(それは自らの誇りを守る手段でもある)。

こう書いてくると、武士のイメージそのものなのである。
ただし、頑迷さはなく、柔軟性が優勢なのが黒田投手の特徴である。ヤンキースのスプリングトレーニングに参加しても、自分のやり方にこだわる様子はまったくない。
「ドジャースとヤンキースでは違う部分もありますけど、まずはそのチームのやり方でやってみるのが大切だと思うんです。もし、自分を押し出し過ぎると、向こうも面白い気分にはならないと思うんです。まず、やってみる。当然、合理的な部分があるからこそ、そのトレーニングが続いてきたわけですよね。その狙いを自分なりに考えていく。また、一からスタートですよ」
この柔軟性が、メジャーリーガー黒田博樹を形作ってきた。投げ込みを重視する日本入投手が多い中、ブルペンでの投球を36球に制限する自制力を持つ。技術よりも、コンディショニングを重視したことが、黒田投手の成功を引き寄せた。
「体がキツくて、それしか方法がなかったんですよ」
と黒田投手は話すが、日本人が陥りやすい技術信仰を捨て、体を重視したことは特筆すべき事項であろう。
中4日で、自分の投球のクオリテイを維持するコツというべきか、秘訣をつかんだことは日本人のメジャーリーグ挑戦の歴史において、重要な役割を果たしたと言える。
我々は、黒田博樹という武士を通して、アメリカ野球の神髄を知るチャンスに恵まれたのだ。
しかし黒田投手本人には、そんな意識はないだろう。彼は淡々と中4日の登板をこなすので精一杯だと言うに違いない。
その謙虚さがまた、武士らしい。
正直、彼の投球をあとどれくらい見ることができるのか、まったく想像がつかない。私にできることは、彼の投球をできる限り見届けることだ。
そしてまた、メジャーのマウンドに立つ黒田投手をじっくりと味わうためにも、この本で彼の言葉に触れて欲しい。


その通りで、感動するのは本文中で黒田自身が語っている言葉だ。本当のサムライについて知りたい読者に、『決めて断つ』の一読をお勧めする。

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寅さんのことば 4
「寅さんのことば」(4)は故郷についての話なんだが、咄嗟に思い出したのが室生犀星の詩にあった、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」だった。

また、やはり故郷という言葉で思い出すのがアルゼンチンだ。亀さんは十代の頃に南米大陸を半年かけて放浪したんだが、首都ブエノスアイレスを南下した処にある港町、マル・デル・プラタの友人宅を訪問した時、日本人一家が花を栽培しているということで、その友人と一緒に訪問したことがある。その日本人一家はビニールハウスの一角に住んでいた。床板は無く、土がむき出しだった。40歳は過ぎたと思われる初老の農夫に、「長年日本に帰っていないとのことですが、帰りたいとは思わないのですか?」と、何気なく尋ねたところ、帰ってきた言葉が、「帰りたいけど、金が無い」だった。会話が途切れ、しばらく気まずい沈黙が流れたのを今でも覚えている。

寅さんや亀さんのように、帰ろうと思えば帰れる処がある者は幸せだ。しかし、帰れる処があるのに金がなくて帰国できなかったり、金があってももはや帰る故郷がないという人たちもいるのだ。

だから、道友の一人が40歳になったのを機に、35年間のローンを組んで家を購入したのも、一人娘に帰る処を残してあげたいという親心だと言っていたが、人の親として亀さんもその気持ちがよく分かるなぁ。

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拉致問題解決は不可能か?
行政調査新聞の5月号がアップされた。北鮮関連に関心のある読者は必読だ。

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寅さんのことば 3
「虎さんのことば」(3)を読む限り、「男はつらいよ」の第1作はなかなか感動的な作品のようだ。特に、寅さんが妹のさくらにかけた言葉、「苦労をかけたなぁ、ご苦労さん」、ここに寅さんの妹さくらへの思いが集約されているんだろうなぁ…。

亀さんは時々、世界戦略情報誌『みち』のお手伝いに行くことがあるんだが、『みち』の発送作業が終わった後、必ず皆で見る録画ビデオが、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」か日テレの「笑点」と決まっている(笑)。


つまり、男はつらいよ、鶴瓶、笑点は、それぞれの「笑い」があるという点で一致するんだが、それ以外に「人情」または「任侠」という点でも、一致しているんじゃないかと思っている。

実は、「男はつらいよ」のDVDは1枚も持ってないが、「寅さんのことば」に刺激され、思い出の第7作「奮闘篇」(マドンナは榊原るみ)を注文した(笑)。遠い広島で一度っきりしか、しかもン十年前に見たっきりだ。何処まで思い出すことやら…。

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◆舎人家紋講座24
「◆舎人家紋講座24」は、“●通説の氏姓制度”と題する24番目の小節である。

●通説の氏姓制度
皇紀暦(こうきれき)以前の年代記(ねんだいき)を読む前に要するのは、世界各地の遺跡(いせき)情報を知ること、遺跡発掘(はっくつ)研究が遅(おく)れている支那においては、偽書混淆(ぎしょこんこう)の文明記録を誇(ほこ)るが、皇紀元年頃は春秋戦国時代に当たり、来日の移住も盛んとなり、不飽和状態(ふほうわじょうたい)の日本に飽和をもたらし、大いなる迷惑を及ぼしたことは疑いあるまい。ここでは、支那文献の渉猟に(しょうりょう)迷い込んで飽和状態も透(す)かせない時空は省(はぶ)いて、同じ通説でも氏姓制度を述べる段に歩を進めたい。以下通説は全国歴史教育研究協議会すなわち全国高校で使う教科書を参考とするが、その理由は大学受験の基礎とされるため、日本社会の実相を知るには、似非教育下に巣立つ信徒の位相を知る必要があり、それを改良しなければ、日本の未来に期待は託せないからだ。
 国土統一は西暦四世紀ころ、以後、律令国家(りつりょうこっか)成立までは、大王家(おおきみけ)を中心に諸豪族の連合政権で運営され、これを大和王権(やまとおうけん)また大和朝廷(やまとちょうてい)という。初め王(きみ)と呼ばれた首長は五世紀に及ぶころ大王(おおきみ)と呼ばれるようになり、七世紀後半の天武天皇の頃から天皇の称号が使われ出したという。倭(わ)の五王(ごおう)を記す支那『宋書(そうしょ)』の訳し方では、讃(さん)を仁徳(にんとく)、応神(おうじん)、履中(りちゅう)の歴代天皇の何れかに比定しており、以下同様に珍(ちん)(彌(み))は反正(はんぜい)か仁徳、済(せい)は允恭(いんぎょう)、興(こう)は安康(あんこう)、武(ぶ)は雄略、(ゆうりゃく)の諸天皇に当たるという。氏姓制度は大和政権における政治・社会制度、大王家を中心に中央・地方の豪族を支配下に組み入れるため、政治的身分秩序を設けたという説き方が採られている。それは、氏(うじ)、姓、(かばね)豪族(ごうぞく)、大臣(おおおみ)、大連、(おおむらじ)伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、屯倉(みやけ)、田荘(たどころ)などの地方任官制度とともに、中央を司る朝廷においては、大夫(まえつきみ)、稲置(いなぎ)、部(べ)、奴((やつこ)奴婢(ぬひ))、舎人(とねり)、采女(うねめ)など直轄の(ちょっかつ)下働きを配置したという。以下この職制に関する説き方についてチェックしておきたい。
★氏(うじ)とは、血縁(けつえん)を中心に構成された擬制的(ぎせいてき)同族集団のこと。氏上と(うじのかみ)氏人(うじびと)を主(おも)な構成要因と定め、多くは部民(べのたみ)や奴婢を隷属(れいぞく)させており、氏の名は蘇我(そが)、葛城(かつらぎ)、紀(き)のように居住地名を名乗りとしたり、大伴(おおとも)、物部(もののべ)のように職名を(しょくめい)名乗りとする形式がある。氏の首長を(しゅちょう)氏上と呼び、氏上は(うじのかみ)氏人を統率(とうそつ)し氏神(うじがみ)の祭祀(さいし)を司り、土地や部民を私有するとき、姓が与えられ政治上一定の地位を世襲するようになる。氏上以外の氏一般構成員を氏人といい、氏人(うじびと)は多くの家族に分かれて生活したが、氏や姓を名乗る場合は氏上と同一とする。
★姓と(かばね)は、家柄や地位を示す称号に用いたが、大王家中心の身分序列も示すがゆえ、中央政権を支える豪族には臣(おみ)や連が(むらじ)、地方豪族には君(きみ)や直が(あたえ)、渡来有力の者には忌寸(いみき)や史(ふひと)や村主(すぐり)などの姓が与えられた。臣(おみ)は大王家出自の皇別氏族(こうべつしぞく)の姓として、多くは大和の地名を名乗り、葛城、平群(へぐり)、和邇(わに)、巨勢(こせ)、蘇我の氏が政権に参画(さんかく)し、地方では吉備(きび)、出雲(いずも)の氏(うじ)が特別に臣の姓を称した。連は大王家と祖(そ)が異なる神別氏族(しんべつしぞく)の姓であり、多くは職名を使い大伴、物部、中臣(なかとみ)、忌部(いんべ)の各氏が名乗りとした。君は大王家支流で地方有力の豪族となる小氏(しょうし)で上毛野君(かみつけぬのきみ)や筑紫君(つくしのきみ)が相当する。直は服属の国造に統一的に与えられ、品部(しなべ)や子代(こしろ)や名代(なしろ)が首長となり、首は(おびと)伴造や渡来の子孫など首長に与えられ、史は村主と並んで渡来の文筆奉仕のことを指すが、東漢氏の(やまとのあやうじ)文直(ふみのあたえ)と王仁子孫(わにしそん)の文首(ふみのおびと)は東西史(やまとかわちのふひと)といわれた。村主は渡来子孫のことを指すが韓語で村長を意味する。
★豪族(ごうぞく)とは、ムラやクニの支配者を指すが、土着の地に権勢を持つ一族のこと。
★大臣(おおおみ)とは、臣のうち最有力者となる平群氏や蘇我氏らの地位を指し、政治の中枢を司り政権を左右し得る実力者に与えられた。
★大連と(おおむらじ)は、連のうち最有力者の大伴氏や物部氏などに与えられた地位、大臣と並び政権中枢を占めて政治を司った。
★伴造(とものみやつこ)とは、世襲的職業に任じられ、朝廷に奉仕の官吏団体を伴、伴を率いて朝廷に奉仕する首長を伴造という。
★国造(くにのみやつこ)とは、現在の郡に相当する地域を支配した官吏、多くは地方豪族に任じられていたが、大化改新(たいかのかいしん)後は郡司(ぐんじ)と呼ばれる。
★県主(あがたぬし)とは、朝廷の直轄領で倭国六県(やまとのくにのむつのあがた)ほか、九州北部などの要地(ようち)に設(もう)けた小地域を県といい、それを支配する地方官を県主という。
★屯倉(みやけ)とは、収穫物を納める倉庫(御宅(みやけ))から転じており、広く朝廷の直轄地で、初めは近畿(きんき)の大王家領だったが、五世紀頃から畿外(きがい)の開発地や叛乱後の接収地を編入し、公的な政府直轄領として拡大した。
★田荘(たどころ)とは、大化改新前の豪族私有地であり、部曲(かきべ)によって耕作された。この氏が営む農業拠点は宅(やけ)と呼ばれた。
★大夫と(まえつきみ)は、大臣、大連の下で政務最高の審議・決定にあずかる地位のこと。臣また連の有力者の中から任じられた。
★稲置(いなぎ)とは、国造、県主と並び地方を支配したが、のち姓のようになり、八色(やくさ)の姓のうち最下位に組み込まれる。
★部(べ)とは、大王家や豪族に隷属して生産に従事する労働集団のこと。大王家や朝廷に所属するのが子代・名代、品部であり、豪族所属が部曲と呼ばれ、部の構成員を部民という。★子代(こしろ)・名代(なしろ)とは、大王家その一族の生活資源を貢納(こうのう)する部民をいい、国造の民を割(さ)いて設定されたが、長谷部(はせべ)・春日部(かすかべ)のように后・(きさき)皇子(みこ)らの名を付けたり、舎人部(とねりべ)のように大王近侍の職名も冠したりした。他に穴穂部(あなほべ)や刑部(おさかべ)もいた。
★田部(たべ)とは、屯倉を耕作する部民のこと。地方豪族の私有民や渡来人を集団的に移住させ編成そして朝廷の管理下においた。
★部曲(かきべ)とは、豪族の私有民で大体は自然の村落を単位に編成され、所属する豪族の名から蘇我部あるいは大伴部のように呼ばれた。
★品部とは(しなべ(ともべ))、伴造に従い、それぞれの職能を以(もっ)て奉仕した部のこと。宮廷官的な(きゅうていかんてき)ものには馬飼部(うまかいべ)、犬飼部(いぬかいべ)、鞍作部(くらつくりべ)、史部(ふひとべ)、忌部(いんべ)など、生産に携わ(たずさ)る錦織部(にしこりべ)、鍛冶部(かぬちべ)、韓鍛冶部(からかぬちべ)、玉(たま)造部(つくりべ)、陶(作)部(すえつくりべ)、土師部(はじべ)、弓削部(ゆげべ)、画部(かきべ)などが置かれた。
★奴((やっこ)奴婢(ぬひ))とは、家っ子の意で氏人の家々に隷属し、家内奴隷として使役(しえき)された。
★舎人(とねり)とは、地方豪族の国造や県主などにより、大王家に貢進される雑益奉仕者のこと。★采女(うねめ)とは、舎人と異なり、朝廷に貢進される女性の雑益奉仕者をいう。
 
以上おおまかに通説の氏姓制度を述べたが、これら通説の拠り所(よりどころ)は支那の文献を主体に組み立てられた説であり、その源流とする旧石器文化も外来説に始まるため、以後、記紀編纂(へんさん)に及ぶまでの通説は仮説にすぎないという認識が重大となる。それが証拠に日本列島各地から遺跡が発掘(はっくつ)されるたび、史書(ししょ)の改めは必須(ひっす)となり、その都度(つど)莫大(ばくだい)な税金(ぜいきん)が湯水(ゆみず)の如(ごと)く費消(ひしょう)されている。それも改めるを惜しまずなら許されようが、改めるに徹しきれない前述の歴史教育が現在も進行中なのである。何ゆえ改めるを躊躇す(ちゅうちょ)るのか、それは簡潔(かんけつ)も極(きわ)まる事由であり、歴史の原点たる仮説を改めると、以後の通史一部始終を見直す必要が生じてくるからである。それがゆえ、歴史教育に記紀を採(と)り入れず、採り入れても平然と誤訳を盛んとし、結果の丸呑みこそが教育と嘯く(うそぶ)始末となる。
 本講の義ここに存する。過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。

寅さんのことば 2
昨日、佐藤利明氏の「寅さんのことば」について書いたんだが、その中で「世の若い女性の皆さん、寅さんではないけど、亀さんでよければいつでも歓迎ですぜ」と、せっかく呼びかけたのに、一人も声をかけてくれなかった…。亀よりも寅の方がE-ちゅうわけか… ヽ(;Д;)ノ 

ところで、亀さんの仕事は翻訳なんだが、この仕事は寅さんのように片手にトランク、じゃなかったノートパソコン一台あれば、世界のどこでも仕事ができるっちゅうわけ。そのあたりも以下に書いたんで、関心のある読者は読んで欲しい。
フーテンの亀さん

昨日の東京新聞の夕刊に載った「寅さんのことば」(2)は、「男はつらいよ」の初期の作品について語っていたんだが、それで思い出したのが初めて亀さんが映画館で「男はつらいよ」を見たときだ。場所はナント安芸の宮島! 当時も今も埼玉県人の亀さんが、なんで広島で映画を見たかというと、当時は高校を出て地元の椿本チエインという会社に正規社員として入ったんだが、入社して1ヶ月間ほど本社のある大阪で研修があったわけさ。そこで、週末の休みを利用して安芸の宮島を訪ねたちゅうわけだ。そこで知り合った何処かの会社のあんちゃんと一緒に島内を回ったんだが、時間が余ったので映画でも見ようかということになった。それで「男はつらいよ」を見たわけさ。確か1971年春だったから、見たのは「男はつらいよ」第7作(1971年4月28日公開)の「奮闘篇」で、マドンナは榊原るみだったと思う。このように、寅さんは今でも亀さんの青春の一コマになっているんだ…。

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