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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
天武天皇 10
■扶余
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19081501.jpg

夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。
「ウィキペディア」夫余


最初に、扶余のルーツについて一言。拙稿「天武天皇 03」でも紹介した飯山一郎さんのHP記事、以下に再掲するので目を通していただきたい。

遠い昔.中国東北部 (満州) の広大な平原で…,
モンゴル族系の扶余族は,ツングース族 と混血して 扶余国 を建てた.
扶余国の王子一派は,さらに南下し,渤海沿岸で馬韓国を吸収して 百済国 をつくる.
やがて,百済国の末裔(大海人皇子)は日本国をつくる….(cf. 飯山一郎の古代史).

われわれの先祖は豚を飼う民族だった.


拙稿「天武天皇 02」でも述べたことだが、ツランの主な民族は三民族、すなわち、ツングース族、モンゴル族、テュルク族だ。そして夫余はモンゴル系だったが(別の説もある)、ツングース族と混血したというわけだ。そのあたりについて、栗本慎一郎が興味深い関係図を作成している。

19081502.jpg

上掲図の詳細は『栗本慎一郎の全世界史』の第9章、「アジアの中の日本と中国」(p.194~)を参照していただきたいが、殊に小節「■フーユ、コマと日本とのつながり」(p.197)は、夫余、高句麗、百済を取り上げているだけに注目だ。ただ、栗本は北魏と日本の深い繫がりには言及しておらず、そのあたりは飯山史観を最終的に総編集する際に、補足の形で追記したいと思っている。

それから、扶余から一気に高句麗と百済が出来したのではなく、複雑な過程を経ているのだが、そのあたりの詳細については、『みち』の天童竺丸編集長の巻頭言を参照していただきたい。
高句麗と百済の建国の母を産んだ卦婁部

ともあれ扶余のルーツは上述の通りであるが、金正日・金正恩親子が自身の故地として、愛して止まない馬韓国は夫余によって吸収され、やがて百済が誕生したということになる。

次稿では、天武天皇と深い縁のある百済について筆を進めよう。

【追記1】
小生は拙稿「天武天皇 04」で、以下の飯山さんの記述を紹介している。

『亀卜(きぼく)』は、『馬韓』で、さらに高度に発達し洗練されます。
『扶余』の北方シャーマニズム(ツラン・シャーマニズム)が融合されるからです。

『馬韓』に伝えられた『殷』の『亀卜(きぼく)術』の秘法と、“ツラン・シャーマニズム”
の合体! これが今後の主題となる『ツランの秘儀』であります。

◆2011/03/01(火) 金王朝の “深い深い謎” -90-


ここで馬韓だが、同国は殷の子孫が建国した国だ。そのあたりは、「金王朝の “深い深い謎” -70-」を参照していただくとして、興味深いリツイートを道友のJINMOさんが行っていたので紹介しておこう。


亀卜が明治以降に皇室に導入されたという、八幡書店の新書紹介をリツイートしたJINMOさんに感謝したい。では、明治以前の皇室は、どうだったのかということになるが、殷王朝の流れを汲む皇室であることを思えば、シャーマニズムは古来より綿々と受け継がれてきたはずである。また、亀卜が明治以降に皇室に導入という指摘で、咄嗟に脳裏に浮かんだのが田布施、すなわち大室天皇だった。

【追記2】
野崎晃市博士も、ブログ【文殊菩薩】で“鷹狩”の視座で百済と高句麗の出自は夫余であることを述べている。
鷹狩は扶余から百済経由で日本へ

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天武天皇 09
ふと気がつくと、飯山史観シリーズ、今回の「天武天皇 09」で56本目だ。思えば、「飯山史観の事始め」と題した飯山史観の第1回目をアップしたのが、昨年の9月19日だから、かれこれ一年近く飯山史観シリーズを執筆してきたことになる。実のところ、小生の感覚としては飯山史観の三分の一が、漸く終わったなというのが正直なところで、残りの三分の二の100回分ほど、すなわち飯山史観の完結までには150本ほどの記事数になる見込みだ。加えて、現代、そして未来について特に力を入れて書きたいと思っているので、もしかしたら、200本を超えるかもしれないwww 

飯山史観は過去の歴史を主テーマとしているのに、何故に小生は現代と近未来について力を入れたいと思っているのか、そのあたりの答えは、以下の飯山一郎さんの朋友である、ヤン(梁)さんの言葉の中にある。

歴史の知識を漫然と増やすのではなく、今を知るために歴史を学ぶ!
…という姿勢。これが飯山史観の核にある考え方です。

◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-


そう、「今という時代」は、どのような時代なのかについて正確に把握するために、小生は飯山さんの遺してくれた飯山史観を、一種の解説本のスタイルで書き連ねているというわけで、徹底的に解説していく、所謂、「急がば回れ」というやつだ。

飯山史観をスタートした一年前は、50本ていどで飯山史観を完結できると思っていたんだが、見通しがあまちゃん…、もとい甘ちゃんだった(爆) 愚痴はともかく、早速今回のテーマである「馬韓」に入ろう。

19081201.jpg
独立騒動”で芸能界引退危機の能年玲奈、法廷闘争に向けて勉強中!


■馬韓
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19081202.jpg

三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
「ウィキペディア」三韓



上掲の版図と解説はウィキペディアからの引用だが、これは全くの出鱈目。

19081205.jpg

山形先生も『邪馬台国論争 終結宣言』で、「前三韓」と題した一章を設けているが、飯山一郎さんも同章をベースに、『天皇制誕生前夜のクロニクル』なる記事を執筆、「◆2011/02/25(金) 金王朝の “深い深い謎” -88-」に全文が引用されている。よって、本稿でも以下に全文を引用させていただこう。

『天皇制誕生前夜のクロニクル』 (Ver 2.00)
飯山一郎 
  .

 「いま、北朝鮮は、百済国の前身 “馬韓国” の後継国家のようだ。」
…とヤンさんはポツリと言った。この意味を理解できる日本人は少ないだろう。
“馬韓国” とは、いったい、どんな国家だったのか?
ヤン教授の説明は、鎌倉時代の歴史書 『吾妻鏡』 のように難解だった。
そこで、私、飯山一郎が “てげてげ” (=大雑把) だが 簡単明瞭に説明したい。

古代朝鮮には、馬韓、辰韓、弁韓という国があった。いわゆる 『三韓時代』 である。
この 『三韓』 は、いわば競合関係にあった。対立もしていた。
もし、対立が深まり、戦争前夜のような深刻な事態になると、『辰王』 が仲介に入った。
『辰王』 とは、現在のタイ国の 『プーミポン国王陛下』 のような存在だと思っていい。
タイ国では、正式に 『プーミポンアドゥンラヤデート』 と お呼びしなければならない。
『プーミポンアドゥンラヤデート』 とは 「大地の力・並ぶ事なき至高の権威」 という意味
である。つまり、「最高権力」 ではなく、「最高権威」 である。この点、注意されたい。

三韓時代の 『辰王』 は、必ず 「馬韓国」 の王が即位した。
『辰王』 は世襲制であり、首都は 「月支国」 にあった。
『辰王』 は “鬼道” に優れ、“鬼道” によって三韓を支配下においていた。
この “鬼道” は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム) に近かった。
『殷』の末裔(哀王・準)が馬韓王になった経緯では、“殷の鬼道”も混入しただろう。
『北魏』や『北燕』の鬼道が混入したであろうことも、可能性は非常に高い。
『辰王』 の “鬼道” は、日本の古神道や “卑彌呼の鬼道” に近いと思っていい。
なお、卑彌呼 (の使者) が帯方郡を訪れる際、“馬韓国” は通過地だった。
さて、突然…、
『辰王』 の統べる “馬韓国” に “侵入”してきたのは “扶余国” の残党であった。
“扶余国” は、ツングース族の末裔である。
ツングース族の王も、“鬼道” に優れた “草原のシャーマン”(巫師) であった。
“シャーマン” とは、ツングース語の「šaman、シャマン」から派生してきた言葉だ。
“扶余国のシャーマン” は、“馬韓国の辰王” の地位を奪い、やがて、帯方郡の故地に
新しい国家を立ち上げる。これが 『日本国』 の先祖 『百済国』 である。
したがって…、
『百済国』とは、“馬韓国” のアミニズムを吸収したシャーマニズムの国家なのである。

ここで…、
これまでの物語を大雑把にまとめてみよう。
卑彌呼の邪馬壹国が参内した帯方郡で、殷と、北魏と、北燕と、馬韓と、扶余が合流し、
百済国となり…、
韓半島まで東遷 (東征) し、満州で百済国が滅びると、百済国は日本に渡来してくる…。
百済人の血は、殷、北魏、北燕、馬韓、扶余、倭…、そして卑彌呼のDNAが渾然一体と
なった血脈で、この血流の一貫性こそが、万世一系の神話なのである。

ちなみに “馬韓国” は、帯方郡の南にあった。
現在の平壌は、当時の “馬韓国” の南端部に位置している。
まさしく、“不思議に満ちた地政学” である。

【参考文献】 『三国志魏書』扶余国伝、『三国志魏書』馬韓伝、『後漢書』馬韓伝、『晋書』馬韓伝、『北史』百済伝、
        『唐会要』百済伝、『通典』百濟、『隋書』百済伝、『周書』百済伝、『梁書』百済伝、『宋書』百済伝。


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(邪馬台国論争 終結宣言)p.118

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(邪馬台国論争 終結宣言)p.126

続きは、「◆2011/02/28(月) 金王朝の “深い深い謎” -89-」以降を読めば、朧気ながらも三韓の大凡の全体像が掴めるはずだ。ここで、異論はあると思うが、以下の飯山さんの言葉を思い出していただきたい。

『馬韓』や、『北燕』のような“流星国家”の存在に注目しないかぎり、日本の歴史は
見えてこない。


もう一点、三韓、殊に馬韓は今日の金王朝にとって重要な意味を持つ。以下の記事を参照。記事の内容を素直に理解できれば、今日の北朝鮮(韓国ではない)の立ち位置がわかるはずだ。

『馬韓』は、金正日・正恩父子が愛する遼東半島にあった!
◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-


天武天皇 08
■邪馬台国
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19073102.jpg

邪馬台国という言葉を耳にすると、咄嗟に脳裏に浮かぶのが、山縣明郷先生の『邪馬台国論争 終結宣言』(後に三五館より装い改めて『卑弥呼の正体』として復活)だ。この本によって、小生の東アジア観が根底から覆されただけではなく、故飯山一郎さんを知る切っ掛けともなった。

19073100.jpg

上掲の山形先生の『卑弥呼の正体』の場合、もう一冊の著書である『古代史犯罪』とともに、日本の歴史学会などから未だに無視され続けている。しかし、一握りではあるものの、同書に目を通し、書評を残している在野の歴史愛好家もいるのだ。たとえば、「頑固爺の言いたい放題」というブログであり、同ブログのオーナーである池澤康氏は以下のような書評を書いた。
邪馬台国は朝鮮半島にあった?!

邪馬台国の遼東半島説を打ち出した山形先生に対して、池澤氏は異を唱え、九州説を採っているのがわかる。そして、上掲の記事の中で池澤氏は、以下のように結論づけていた。

端的に言って、山形説は『倭人伝』を捏造と批判してるに等しいが、それにしては列島に関する記述に具体性があり、とても創作物語とは思えない。


池澤氏の「列島」という記述に注目していただきたい。明らかに、九州説をとる池澤氏は、『倭人伝』に出てくる「依山㠀為國邑」(山島に依り国邑を為す)とは、日本列島のことだと思っていることが分かる。

一方、同じ山形先生の本から、池澤氏と真逆の結論に達したのが飯山さんで、放知技の以下の投稿を参照されたい。

  また、『魏志倭人伝』が日本古代の事象を記した歴史書ではないこと
  も証明しきっています。
  したがって、卑弥呼の邪馬台国の所在地も日本列島ではなかったと
  明確に述べています。
  これは、「日本人の歴史観」と「常識」を根底から突き崩す大変な史観
  だと言えましょう。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13652197/824/


止めとして、以下の飯山さんのブログ記事を紹介しておこう。

この2冊(『卑弥呼の正体』・『古代史犯罪』)を眼光紙背! 熟読玩味すれば、
目からウロコどころではない! 脳細胞が入れ替わるような知的衝撃で、あなたは、
歴史観どころか世界観も人生観をも変えざるを得ないショック症状に見舞われる!

◆2011/02/03(木) 金王朝の “深い深い謎” -68-


もう一点追加しておくとすれば、邪馬台国は日本列島(畿内説と九州説)にあったと信じ込んでいるのは、日本の歴史学者だけという事実だ。

邪馬台国と卑弥呼の物語が古代日本の歴史だと思い込んでいるのは、
日本人だけ。

◆2011/02/12(土) 金王朝の “深い深い謎” -75-


次に、以下に示す通り、山形先生の『古代史犯罪』でいうところの、古代史犯罪を犯した過去の日本の歴史学者の流れを汲む人たちは、とてもではないが『古代史犯罪』の書評など怖くてできないはずだ。ともあれ、飯山さんあるいは坂口孝男氏といった山形先生の関係者を除き、骨のある山形本の書評を一度も目にしたことがないのだが、もし知っている読者がおられたら、ご一報いただければ幸いである。

遼東半島の熊岳城にあった『百済建国の始祖尉仇台之碑』を現在の韓国忠清南道
の錦江まで移動し、そこが「百済建国の地」であった! などと偽装する。
この悪質さ! これは完璧な犯罪! です。
こういう犯罪行為を、帝国陸軍と東京帝大は、共同して行っていました。

◆2011/02/03(木) 金王朝の “深い深い謎” -68-


最後に、旧著『邪馬台圀論争 終結宣言』から一部を抜粋、併せて邪馬台国の版図を載せておこう。

注・補筆「邪馬台に想定される国の具体的な所在地」に就いて

古代(二~三世紀)に存在した〝邪馬・郁馬・蓋馬〟国の、考古学蹟上の遺跡・痕跡地は、「鴨線江北岸・渾江口より遡ること九粁(キロ)の古馬嶺村周辺から、麻天嶺の中間地域」、即ち、「現・吉林省通化市古馬嶺村から、現・遼寧省丹東市寮馬県との中間地帯約九十粁(キロ)圏内」と推定する。

 可能性としては、「古馬嶺村を中心とする渾江下流域一帯」 の方が強いと言えよう。
 次頁(下図)の図面を参照されたし。

『邪馬台国論争 終結宣言』p.218

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さて、山形史観を支持する身として、主流を占める畿内説と九州説は取り敢えず脇に置いて、小生同様に遼東半島説をとる飯山さんの卑弥呼説を、ここで再確認しておきたい。以下、てげてげHPの「金王朝の “深い深い謎」シリーズから。

「卑弥呼は公孫氏!」の記述は、現在までのところ、中国史書中では、批判・非難の
対象にはなってない。ご安心の程!>山形師のファンの皆さん。

◆2011/02/13(日) 金王朝の “深い深い謎” -76-


『晋書』(巻九十七・四夷傅)には、↓こんな文言がある。
「乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。」
これを翻訳すると…、
「…女子を立て王となす。名を卑弥呼という。宣帝の平らぐ公孫氏なり…。」

◆2011/02/07(月) 金王朝の “深い深い謎” -70-


つまり、卑弥呼は日本人ではなく、中国人(公孫氏)であったということを『晋書』に書いてある事実、これを日本の歴史学者は何とする…。さらに、卑弥呼とシャーマニズムの関係…。

おおらかで神秘的な『亀卜(きぼく)』は、箕子朝鮮→馬韓→天皇陛下と継承されて
いきます。
馬韓近辺にいた卑弥呼にも伝承されたはずです。
「唯有男子一人給飲食傅辞出入」(『魏志倭人伝』)
「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」
この男子は、シャーマン卑弥呼が察した“神意”(=吉凶)を記述する覡(かんなぎ)
でありましょう。
卑弥呼という「巫女(みこ)」に仕える男子一人(=「覡(かんなぎ)」)。この関係は、
「原始神道」の萌芽といえるでしょう。
遠い昔、遠い遼東の地で、卑弥呼も 「原始神道」の形成にかかわっていたのです。
ですから、卑弥呼も、「天皇制」の先祖の一人と考えていいのです。

◆2011/03/01(火) 金王朝の “深い深い謎” -90-


ともあれ、卑弥呼は中国人という〝事実〟に心底驚いた読者は、一度、「金王朝の “深い深い謎」の「◆2011/02/08(火) 金王朝の “深い深い謎” -71-」以降に目を通しておいていただきたい。なぜなら、次稿の「馬韓」と深く関係してくるからだ。

最後に、現実の世界に戻り、以下の飯山さんの「予言」、ここで改めて噛み締めておこう。

21世紀のアジアは、“鬼=鬼道家”になったシャーマン史家=妄想家”が変える!
◆2011/02/13(日) 金王朝の “深い深い謎” -76-



【追記】
19073103.jpg
精神核 Mensa Nuklea

天武天皇 07
■北燕
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


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 北燕地理位置

北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 - 436年)。

鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。

ウィキペディア 「北燕


「中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ」とあるように、北燕は五胡十六国の一国だったのだが、それを統一したのが前回取り上げた北魏ということになる。ご参考までに、五胡十六国が一目で分かる年表があるので、以下に掲載しておこう。

19070301.jpg

4~5世紀、中国の華北に興亡した北方民族(五胡)の建てた国々。304年、劉淵の漢から439年、北魏による統一までの135年間の華北をいう。
 304年に匈奴の劉淵が漢(前趙)を建国してから、439年に北魏の太武帝が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。

世界史の窓「五胡十六国


さて、何故に「飯山史観」カテゴリに、わずか28年という短命で終わった北燕を取り上げるのか、そして北燕が百済、さらには日本に、どのような影響を及ぼしたのかについては、以下に示す飯山一郎さんのHP記事に目を通せばお分かりいただけよう。

それにしても、『北燕』という“流星国家”の輝きは、日本にとっては “国生みの灯”
…中略…

『北燕』の王家の娘 『北魏の馮太后』は シャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)


◆2011/01/31(月) 金王朝の “深い深い謎” -65-


北燕と前回取り上げた北魏の深い結びつきが、これでお分かりいただけたはずだ。

以上、既にお気づきのように、今まで拙カテゴリ「飯山史観」に書き連ねてきた、殷から北燕までの流れは、飯山さんの「金王朝の “深い謎”」がベースになっている。それが、過去の拙ブログでも幾度か書いたように、「金王朝の “深い謎”」の熟読玩味をお勧めする所以である。そうすれば、6月30日に板門店で行われた、トランプ・金正恩首脳対談の背景が、仄かに見えてくるはずだ。

天武天皇 06
■北魏
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19063001.jpg

五胡の一つ鮮卑の拓跋氏が386年に建国し、太武帝の時、439年に華北を統一した。道教を保護し、一時廃仏を行ったが、後に仏教保護に転じた。孝文帝の時、漢化政策をとり洛陽に遷都、その後衰え534年に東西に分裂した。
「世界史の窓」北魏


今から三年前、中国の青州にあった飯山邸で小生は、飯山一郎さんから四日間にわたり中国と朝鮮にまつわる歴史秘話をお聞きしている。当然ながら、北魏も話題に上ったのだが、このあたりは少しだけ拙ブログにも書いた。

上記サイトの表題「古代日本がモデルとした北魏の都」にもあるように、北魏(386~534年)こそが日中秘史を解くキーワードであることが、飯山さんの話からよく理解できた。ちなみに北魏は南北朝時代、遊牧騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国であり、前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた国である(南燕や西燕も鮮卑族が建てた国で、鮮卑族はユーラシア大陸の放牧の民、すなわち我らが同胞ツランである)。
青州で思ふ(3)


小生は遊牧民゛(ツラン)について書いているが、ここで拙稿「天武天皇 02」を思い出していただきたい。

脱アフリカ組のホモサピエンスの一部が、コーカサス山脈を越えてシベリアに進出しているが、この集団が後にツラン(太古シベリアの諸民族を総称)となった。そのツランを構成する民族は大きく分けて三つあり、モンゴル民族、トルコ(テュルク)民族、そしてツングース民族だ。


ウィキペディアの「鮮卑の言語系統」には、以下のように書いてある。

古くは テュルク系であるとする説[20]があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっている[21]。


民族の出自を見極める一つの方法は言語なのだが、言語という観点でみる限り、鮮卑の出自はモンゴル系で落ち着くのかもしれない。それだけ、言語というものは民族の物の見方・考え方を、根底で規定するものがあるからだ。それはともかく、鮮卑の出自がモンゴル系であろうとテュルク系であろうと、同じツランであることに変わりはない。

ご参考までに、モンゴル語、テュルク語、ツングース語の上位言語は、「アルタイ諸語」ということになるが、ウィキペディアが示す以下の言語図は、ツラン民族の分布と重なっているのに注目されたい。

19063002.jpg
The branches of the Altaic language family?
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19063004.jpg

ここで、栗本慎一郎の下図を見ていただきたい。北魏は鮮卑の出とあり、小生も上掲の拙稿で「北魏は南北朝時代、遊牧騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国」と書いている。もう一点、下図から分かることは、日本に直接的な影響を及ぼしたのはツングース語族の民族、すなわち高句麗、扶余、百済であるという点だ。

18121603.jpg
『栗本慎一郎の全世界史』p.198

ともあれ、ツングース民族ではない、モンゴル民族あるいはデュルク民族の流れを汲む北魏とは、どのような影響を間接的に日本に及ぼした民族だったのかについては、飯山さんのHP記事や放知技への投稿で分かる。

最初に飯山さんのHPから、北魏について言及した主な記事を引用しておこう。

「漢民族の滅亡」後、最初に統一中華帝国を再興した『北魏』の本家筋であるからだ。
そして、『北魏』の首都は、『平城』。

◆2011/01/19(水) 金王朝の “深い深い謎” -55-


漢民族が絶滅し、三国時代も終わった、その後…、
『北魏』が河北一帯を統一、一大帝国をつくり、「漢文化=中華文化」を再興する!
ということは…、
「漢文化=中華文化」をつくったのは、漢民族ではない鮮卑族だった! ということ。

◆2011/01/21(金) 金王朝の “深い深い謎” -57-


19063005.jpg
◆2011/01/29(土) 金王朝の “深い深い謎” -63-

北魏馮太后は、天皇家の先祖だった!


掲示板「放知技」でも、飯山さんの北魏に関する投稿がある。

だから、結論を言います。
これ↓を読むと、
http://grnba.com/iiyama/more3.html#TG0417
「せんとくん」のルーツは、扶余(鹿)。扶余は百済。
百済の隣は北魏。北魏は中華文化のルーツ。
(中華文化とは、異民族を漢化=感化する文化。)
その北魏の首都は「平城」。
「平城」は日中両国のルーツ。“格”は日本が上。
これは、とどのつまり…、
日中両国の「歴史的、精神的な皇帝」は、「天皇」!
ということになり、このことを胡錦濤は認識しています。
認識しているから、主席就任の前後に天皇に挨拶した。
(認識しているということは、認めている、ということ。)
天皇が、「平城」という言葉を発されると、その意味は、
日中両国にとって、非常に恐ろしいことになるのです。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/12990511/3/

19070100.jpeg


きょうも、北魏の最盛期をつくった馮太后が天皇家の先祖筋で
あることをズバリ指摘しました。

馮太后は、遼寧省の柳城を首都とした北燕の王族の出身で、
北燕の王族は北魏と高句麗に追われ百済に逃げ込みました。
その百済が北燕の馬具などを日本に持ち込んできて、それが
大阪羽曳野市の応神天皇陵の誉田八幡社に現存しています。

北燕の王族の埋葬品と、応神天皇陵の埋葬品が全く同じ形!
以前、私は、このことを↓ココ↓で説明しました。
http://grnba.com/iiyama/html/16kodaisi.html#RyoNei

ま、誉田八幡社に現存している馬具は、ツラン型騎馬民族の
モノなんですが…。この件は、あとで書きます。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13007953/2/


天武天皇 05
■箕子朝鮮
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ[3]箕子が建国した朝鮮の古代国家[注釈 1]。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、殷朝から周朝への時代変化とともに満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている[4]。
ウィキペデア「箕子朝鮮」

19062104.jpg


最初に、ウィキペディアに掲載されている版図(下図)、これは明かな間違い。その論拠として、故飯山一郎さんが以下のように指摘している。

ウィキペディアで『箕子朝鮮』を調べると、『箕子朝鮮』は図のように現在の北朝鮮と同じだ。

19062101.jpg
ウィキペディア「箕子朝鮮」項の掲載図

『箕子朝鮮』が広大な満州一帯で「殷賑」を極めた国家だったことなど、○で分かってないワケワカメが描いた地図だ。

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◆2011/01/20(木) 金王朝の “深い深い謎” -56-


つまり、箕子朝鮮が建国された当時の領土は河北と満州の地だったはずで(丸印)、次第に自国の領土を拡大、そして殷賑を極めること八百余年…。

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上掲の飯山さんの記事は、本当の箕子朝鮮の版図について解説しているだけではなく、朝鮮半島が朝鮮あるいは韓と呼ばれるようになった由来も述べている。それだけではない。飯山さんは「幽閉史観」を乗り越えることの重要性を、結語として述べていることを付言しておこう。

これからは、全てを、もっともっと広い空間のなかで考えていこう!
『朝鮮』も「朝鮮半島」のなかだけでなく、満州全域をイメージしながら見ていこう!


数日前、酒のつまみの買い出しに街に出たところ、一年ぶりに同窓生のM君と会った。彼はここ数年、母校の大学で行われている週一回のセミナー(戦後史)に積極的に出席、昨年は夫婦でハンガリー、今夏はクロアチアとスロベニアを歴訪するという。大手都市銀行に長年勤めたM君は五十代に突入する少し前に同行を退職、以降は進学塾を開いて生計を立てていた。還暦を迎えたのをきっかけに塾を畳み、今では悠々自適のリタイア生活を送っている。そのM君、母校で歴史を学んでいくうちに、次第に「幽閉史観」から脱しないことには、本当の歴史は見えてこないことを悟ったようで、彼の口から「遊牧民族」の言葉が飛び出した時は本当に嬉しかった。ただ、ツランという言葉、そしてツラン本来の姿については気づいていないようだったので、代わりに「無文字社会」や遊牧民族が及ぼした影響について、大いに語り合ってその日は分かれた。また近く酒を酌み交わしながら、歴史についてじっくりと語り合いたいと思う。

箕子朝鮮の話に戻す。やはり飯山一郎さんのHP記事に、殷滅亡から箕子朝鮮の建国に至る過程を述べた記事があるので、そのリンク、および箕子朝鮮についての重要な指摘を引用、併せて小生の補足を加えておこう。

◆2011/01/17(月) 金王朝の “深い深い謎” -53-

今から3~4千年前に繁栄した殷という国は…、
まだ出現してない漢民族の国ではなく、後に百済国をつくる朝鮮民族の国だった!


小生は天武天皇は百済の一王子であると書いたが、その百済をさらに遡ると殷に行き着く。つまり、日本のルーツは殷だったのだ。

◆2011/01/18(火) 金王朝の “深い深い謎” -54-

殷を倒した周の武王が箕子邸を訪問、政(まつりごと)について質問した時は、
箕子のあまりの博識と徳の高さに驚嘆、武王は箕子を尊敬するあまり家臣とせず…、
朝鮮侯! に封じた。(これが「朝鮮」なる文字が史書に現れる最初である!)
cf. 『史記』 巻38 「武王既克殷 訪問箕子 於是武王乃封箕子於朝鮮」
この後…、
朝鮮侯箕子は、殷の遺民を率いて東方へ赴き、『箕子朝鮮』を建国、礼儀や産業技術を広め、「八條之教」を実施して民を教化、『朝鮮国』を発展させた、という。
cf. 『通典』東夷上 「周封殷之太師之國 太師教以禮義 田蠶 作八條之教
  無門之閉 而人不為盜 其後四十餘代 至戰國時 朝鮮侯亦僭稱王」


どのようにして箕子朝鮮が八百余年も続いたのか、実に良く分かる記事である。また、箕子朝鮮以前に檀君朝鮮があったという伝説が流布しているが、飽くまでも伝説に過ぎない。故鹿島曻が『桓檀古記』を著しており、小生は同書を15年以上前に大枚をはたいて入手しているが、今では後悔している…。

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◆2011/01/19(水) 金王朝の “深い深い謎” -55-

中国五千年の歴史のなかで、「漢民族」の中国と言えるのは、『前漢』と『後漢』だけ!

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これは、漢民族が登場したのは殷王朝以降であったことを示す文章なのだが、実は後漢以降、漢民族は滅んでしまっている。つまり、今の中国本土の中国人は、漢民族ではないということなのだ。そのあたりの論拠を上掲の記事が白日の下に晒しているのだが、掲示板「放知技」の読者にとっては先刻承知の事実である。

尤も、後漢を最後に漢民族は歴史の舞台から姿を消したものの、民族としては今でも生き残っている。生き残っているどころか、今でも中国本土や華僑を動かしている民族だという指摘すらある。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13006114/3/

一方、「客家は漢族よりも古い民族で、西戎(せいじゅう)だ!」という指摘もあり、このあたりについては今後の研究成果を待ちたい。

次回は北魏に筆を進める。

天武天皇 04
■殷
ツラン→ツングース→→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


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現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。巨大な殷王の地下墓である殷墟が発見されている。

前16世紀中ごろ、殷の湯王が、夏の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗遺跡の城郭がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前14世紀の19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時は商といった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。

世界史の窓 殷


最初に、殷の出自を裏付ける史料をネットで探してみたのだが、意外と少ないことが分かった。それはともかく、殷の出自について一番分かりやすく解説していると思ったのが、「るいネット」の以下の記事であり、殷の出自は遊牧民族だと明白に書いてある。

殷帝国の動物犠牲の中の羊の多用をみては、殷族はもと遊牧民として中国に流入した一種族である可能性を窺わせるものである。これを裏付けるものに、上記殷族の主用食糧の大麦も西アジア原産種であるという点である。
殷(商)王朝の出自


ここで思い出すのが、飯山一郎さんの以下の記事だ。

 百済国の先祖は “扶余国”.“扶余国” からは“高句麗国” も出ている.
 “扶余国” の先祖はユーラシア東部の遊牧民 “ツングース族” だ.

◆2009/02/11(水)  日本は,百済の継承国家である!


また、以下のような記事もある。我々日本人と豚の関係が分かり、興味深い。

遠い昔.中国東北部 (満州) の広大な平原で…,
モンゴル族系の扶余族は,ツングース族 と混血して 扶余国 を建てた.
扶余国の王子一派は,さらに南下し,渤海沿岸で馬韓国を吸収して 百済国 をつくる.

◆2009/05/02(土) われわれの先祖は豚を飼う民族だった.


扶余国のルーツはツングースであると、飯山さんは書いているのだが、ここで思い出していただきたいのが、最近の飯山史観カテゴリで毎回冒頭に示す以下の流れである。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


つまり、赤文字で示した流れは、ツングース族の一派である、朝鮮系の流れを示しているのである。

次に注目していただきたいのが、飯山さんの以下の記述だ。

『亀卜(きぼく)』は、“神の意志”を占う秘術として、北方遊牧民の間ではシャーマン
の秘法だった。

…中略…

『亀卜(きぼく)』は、『馬韓』で、さらに高度に発達し洗練されます。
『扶余』の北方シャーマニズム(ツラン・シャーマニズム)が融合されるからです。

『馬韓』に伝えられた『殷』の『亀卜(きぼく)術』の秘法と、“ツラン・シャーマニズム”
合体
これが今後の主題となる『ツランの秘儀』であります。

◆2011/03/02(水) 金王朝の “深い深い謎” -91-


これは、殷から馬韓までの主流は朝鮮系ツングース族だということを示しているわけだが、あくまでもツングース族が〝主流〟だったということで、異民族の影響も受けていたのだ。そのあたりを如実に述べているのが以下の記事だ。

しかし、「卵生説話」なら、そのメッカは南方の島嶼域だろう。それに、玄鳥による妊娠。これは燕を指すと思われるが、夏候鳥だから、南方渡来ということになる。純粋のツングースでは無いということでは。

それに、ツングース系であれば、神が憑依するシャーマンのお告げが政治の中心になる筈。それと、殷の占トは違うのでは。占トは"霊的憑依"ではなく、専門家が"知識"を駆使して天の声を読み取る仕組みである。これは西域の遊牧民の動物骨焼占トや、南海島嶼民の海亀甲羅焼占トの風習に近いのではないかという気がする。

殷の帝も蛮夷戎狄の類が出自


亀卜とシャーマニズムの合体については、別の機会に書きたいと思う。いずれにせよ、遊牧民族もといツラン民族の流れは、実にダイナミックなものだった、ということがお分かりいただけたと思う。

天武天皇 03
■ツングース
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

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ツラン民族圏

ツランの主要な一民族であるツングース民族とは、どのような民族だったのか、「世界史の窓」HPから「ツングース系」という小項目の全文を引用しておこう。

アルタイ語族に属し、中国東北地方で狩猟生活を送っていた民族。その中の女真が金と清を建国した。

 漢民族から見て北方民族に入る民族で、トゥングースとも表記。アルタイ語族に属するツングース語を用いる諸民族をツングース系と総称する。現在の中国の東北地方(旧満州)から南シベリアにかけての森林地帯で、部族に分かれて半農半狩猟生活を送っていた。古くは高句麗を建国した貊族、7世紀末の渤海国を建国した靺鞨族もツングース系とされる。最も有力となったのは女真で、12世紀に金を建国し、中国の北半分を支配した。金は1234年にモンゴルに滅ぼされたが、後の17世紀に満州族と称して清を建国した。


続いて、故飯山一郎さんがHP記事で、ツングースについて言及した記事が幾本かあるが、そのうちの一本を以下に紹介しておく。

遠い昔.中国東北部 (満州) の広大な平原で…,
モンゴル族系の扶余族は,ツングース族 と混血して 扶余国 を建てた.
扶余国の王子一派は,さらに南下し,渤海沿岸で馬韓国を吸収して 百済国 をつくる.
やがて,百済国の末裔(大海人皇子)は日本国をつくる….(cf. 飯山一郎の古代史).

われわれの先祖は豚を飼う民族だった.


掲示板「放知技」にも、飯山さんのツングースについての投稿がある。ここで、ツングース族はウラル・アルタイ語族に属することを思い出すに、ウラル・アルタイ語族についての飯山さんの貴重な投稿が幾つかあり、なかでも重要な指摘は以下だ。

「日本語は、BodyとHeartは南島語から…,
HeadとSpiritはアルタイ語から形成された複合言語である」
ということになります.

そして…,
日本語の「アルタイ語化」は,天武天皇の御代から開始されるのです.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/9/


つまり、過日の拙稿「天武天皇 01」にも書いた通り、「北(ツラン民族)や南(黒潮民族)といった各方面から日本列島に渡来してきた」ことから、南島語とアルタイ語の複合語である日本語が誕生、それが天武天皇の御代以降、「アルタイ語化」した日本語となったわけである。

ここで、母語についてだが、拙稿「和僑」で以下のように小生は書いた。

ここで、人の思考行動形式を支配している根源的なもの、それはその人の母語であると亀さんは思っている。そのあたりを教えてくれたのが、同時通訳の泰斗・故國弘正雄であった。國弘先生の資料が見つからないので朧気な記憶で書くが、「人の生涯の母語は小学校2~3年生ころまでに決まり、その年齢を過ぎると後はどんなに努力してもバイリンガルには成るのかせいぜいで、一部の天才を除き、絶対にバイカルチャーには成れない」というものである。これは亀さんの体験からもその通りだと思う。英語と日本語のバイリンガル、時には数ヶ国語を自由に操る知人友人には数多く出会ったものの、未だにバイカルチャーの人間と出会ったことはない。


母語については、天童竺丸さんの考察も見逃せない。

 今日相互に大きく異なる言語のグループとして、「膠着語」「孤立語」「屈折語」の三つが挙げられる。
「孤立語」とは他の言語と関係を有しない独りぼっちの言語という意味ではなく、文章の中で単語が何時も同じ形で孤立し(それ自身が語尾変化したり他の要素を付加しないでも)文法上のさまざまな意味をもつことを特徴とする言語集団の謂である。支那語やチベット語、タイ語などがこの言語グループに属する。
 いわゆる「てにをは」をくっつけてやらなければ、文法上の意味が明確にならない言語が「膠着語」である。膠でくっつけるように小辞をつけて意味を明らかにする言語というほどの意味である。ツラン民族の言語の特徴はこの「膠着語」である。
「屈折語」とは、動詞も名詞も実際に文章の中で使われるときは、その文法上の意味(役割)によって語形を屈折(変化)させる言語集団である。津田氏の話に出てきた印欧語族は、この「屈折語」のグループに属する。

ツラン魂は健在なり 2


加えて、日本語が北(ツラン民族)と南(黒潮民族)との複合語であるという観点に立てば、同じく天童さんの「わが産土は吉備である」(『みち』平成30年9月1日号)という記事は重要だ。残念ながら同記事の電子化はされていないものの、拙稿「北満州と日本列島 04」に転載したので、関心のある読者は一読願いたい。以下、転載した記事の一部を再掲しておく。

日本語祖語は北方言語と南方言語が渾然一体化を遂げた奇跡の言語であった。構文(シンタックス)は言葉そのものを活用・屈折させニュアンスを表現する印欧語系統の屈折語ではなく、助辞を補うことによって言葉と言葉の関係を明確にするという膠着語の系統を引き、北方ツングース語と密接な関係にある。そして語彙には南島祖語(原始アウストロネシア語)に系統を曳く夥しい言葉があって、濃やかな感情表現には接頭辞強調による段階変化(例えば、あか、まっか、まっかっか)をそのまま採用している。


天武天皇 02
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小生は『飯山一郎最終講義』に、「飯山史観を後世に遺す」と題する追悼文を寄稿、飯山史観に基づき、以下のような日本人のルーツの大枠を示した(p.145)。

ツラン→ツングース→扶余→百済→日本


今の時点で読み返してみるに、大分端折ってしまった感が強い。そこで、これを詳細に示そうとしたら以下のようになった。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→済州島→九州宮崎→志布志・種子島→大阪・難波→奈良


前稿「天武天皇 01」で「天武天皇は百済国の王子」と書いた手前、ツランから百済まで(済州島以降は略)、参考となりそうなHPやブログを引用しつつ、上に示す日本人のルーツのラフスケッチを描いてみることにしよう。

■ツラン
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

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ツラン民族圏

ツランについて語る前に、ホモサピエンスがアフリカを脱出した当時まで、一気に時計の針を戻してみる。

脱アフリカ組のホモサピエンスの一部が、コーカサス山脈を越えてシベリアに進出しているが、この集団が後にツラン(太古シベリアの諸民族を総称)となった。そのツランを構成する民族は大きく分けて三つあり、モンゴル民族、トルコ(テュルク)民族、そしてツングース民族だ。そして、最後のツングース民族こそ、百済国のルーツだ。
北方モンゴロイドの拡散(ツングース族、モンゴル族、テュルク族の起源)

もう一点、忘れてはならないのがツランを誕生させたシベリアで、そこは、人類文明の策源地となった。このあたりについては、拙稿「ツランの原郷」を参照されたい。

その他、旧ブログの拙稿「ツランという絆」では、ツランに関する様々な史料を紹介した。

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※ 『大興安嶺探検』(今西錦司編集 朝日文庫)については、拙稿「歩く思想家」を参照のこと

ツランから百済までの日本人のルーツについて、一気に書き上げるつもりでいたが、どうも無理なようなので、項目ごとに書き分けていきたいと思う。よって、次稿は「■ツングース」について筆を進めよう。

天武天皇 01
四回続いた「蘇我一族」シリーズを終え、今回から新シリーズ「天武天皇」に着手する。いよいよ、飯山史観の山場を迎えたということになるのだが、本来は、 推古朝、舒明・皇極朝、孝徳朝、天智朝のそれぞれについても詳述しなければならないところ、専ら蘇我氏だけに焦点を当てて書いただけで、次の天武朝に移る形になってしまった。結果、飛鳥時代(古墳末期~大和時代)を端折ってしまったのだが、このあたりの穴埋めは、後に飯山史観を一本の電子ファイルに纏める際、流れが分かるように多少は加筆する予定である(この飯山史観カテゴリはあくまでも作業日誌)。現実として、仕事(翻訳)に追われている身の故、なかなか調査や執筆に多くの時間を割けないためなのだが、このあたりは平にご容赦願いたい。

では、早急に天武天皇シリーズを開始させていただく。

■はじめに
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百済国の王子であった天武天皇が、唐による暗殺から逃れるため、済州島から九州へ命からがら日本列島に逃れてきた、というのが飯山史観の要諦なのだが、これは、飯山一郎さんの主張していた「外圧と占領説」、第四回「7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入」に相当する。このあたりは、栗本慎一郎の史観、そして世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長の史観と最も異なる点であろう。

それ以前の日本列島、すなわち旧石器時代から縄文時代を経て、古墳時代(古墳時代シリーズ)、そして飛鳥時代(蘇我一族シリーズ)については、今まで47回にわたり飯山史観カテゴリとして書き連ねてきた。そして、飛鳥時代については前稿「蘇我一族 04」で述べたとおり、北(ツラン民族)や南(黒潮民族)といった各方面から日本列島に渡来してきた、諸豪族が犇めいていた日本列島に蘇我氏が登場、諸豪族の統一が実現したあたりを中心に書いたのだが、さらにその後に至って日本列島に流れてきたのが百済系天武天皇の一団であった。それが、日本の歴史の始まりとなったわけである。蛇足ながら、その時期から現代までの概要を示すとすれば、以下のようになろう。

大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)という“一神教派” が天下を取り、それが壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)という“多神教派”の天下となった。そして公になっていないが三度目の乱が起こって再び藤原氏による体制=“一神教派”の天下に戻り、それが今日に至っても続いている
扶桑国王蘇我一族の真実


上掲の拙稿「扶桑国王蘇我一族の真実」で、世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長の「巻頭言」を一部紹介しているが、重要なので改めて以下に再掲しておく。


みち330号(平成23年01月15日) ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン
みち329号(平成22年12月15日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6
みち328号(平成22年12月01日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5
みち327号(平成22年11月15日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 4
みち326号(平成22年11月01日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 3
みち325号(平成22年10月15日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2
みち324号(平成22年10月01日) ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 1


冒頭の「ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン」にある以下の記述…

罽賓国からやってきた塞族の僧たちは、文明の新たなる発展を報告するためはるばるとツラン文明の本部・司令塔であった日本列島の扶桑国へと訪れてきたのである。


実は、前稿「蘇我一族 04」に引用した栗本慎一郎の言葉に繋がるのである。

日本史は今後、世界史のキーになるというのが私の予想だから、日本史家は今後も視野を広げて研究を続けていただきたいものだ。


それから、巻頭言は「大化改新から壬申の乱へ」と題したシリーズであるのに注目していただきたい。本当に大化改新と壬申の乱があったのかどうか、このあたりについては本シリーズでスポットを当ててみたいと思う。

ともあれ、今後の天武天皇シリーズで描いてみたいのは、天武天皇の正体、すなわち天武天皇のルーツ(ツングース→扶余→百済成立)、そして天武天皇が日本に及ぼした影響であり、今回の「天武天皇」シリーズの次は、南北朝時代、すなわち「南北時代」シリーズに筆を進める予定だ。その間、飯山さんの「外圧と占領説」の第五回、「9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧)」も挿入したいと思っている。

では、次回から本格的に「天武天皇」シリーズに筆を進めることにしよう。

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天武天皇と額田王