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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
志布志の旅 04
志布志滞在二日目、宿泊したホテルをチェックアウト後、志布志市埋蔵文化財センターを訪問、特に印象に残ったのが原田地下式横穴墓から出土したという、軽石製組合石棺の実物であった。しばし石棺の前で時を忘れて立ち尽くしたほどで、当時の古人の心のうちに思いを馳せた次第である。

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その後、志布志市の山奥にある「かごしま ことば塾」を訪問、橋口満塾長のお話を半日にわたってお聞きした。橋口塾長は昭和22年の現曽於市大隅町生まれと、故飯山さんの一歳下だったが、亀さんから見れば人生の先輩である。その橋口塾長が多くを語り聞かせてくれた応接間に、ズラーッと並ぶ大量の日本全土の方言関連の書籍や資料に圧倒されたのだし、橋口塾長自身、鹿児島弁に関する多くの書籍を執筆しておられることを知った。中でも代表作は『鹿児島方言大辞典』(上下巻)だろう。橋口塾長が蒐集した鹿児島方言は、民俗に関するものが中心のようで、南方熊楠や柳田國男の民俗に関心を寄せる身として、橋口塾長のそうした着眼点に舌を巻いたのだし、民俗学的な視座から橋口塾長の語る話は実に興味深いものがあった。

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なかでも、驚愕したのが外域(とじょう)制度である。一般に鹿児島弁というと一つの方言程度の認識しかないのだが、人口に武士の占める割合の多かった薩摩では武士の麓(ふもと)集落ごとに102ヶ所ほどの外域に分け、かつ各々の外域ごとに方言が異なっていたのだと謂う。だから、他藩がスパイに一外域の方言を習得させて薩摩に送り込んだとしても、口から出る方言で忽ち余所者であることが簡単に見破られてしまっただろうし、そこに薩摩の動向を他藩がなかなか掴めなかった最大の要因があったことを今回知った次第である。なかでも、亀さんが長年にわたり注目してきた「加治木」という麓集落、今でも地名として残っているが、そこには西郷隆盛蘇生の家が今でも大切に保存されている。

同時に、加治木は島津家と深い関係があった。そのあたりは以下の史料に目を通していただくとして、皇統奉公衆と交流のあるさる筋から加治木について数年前、長時間にわたって話をきいており、島津家は無論のこと、西郷隆盛とも深い縁のある加治木とは何だったのかということで、さる筋の話を聞いた後に自分なりに調べたのだが、仕事に追われていたこともあって、その後は調査を中断していた。しかし、今回の橋口塾長の話を聞くに及んで、改めて島津家についての調査を再開したいと思う自分がいる。その意味で、もしかしたら飯山史観完成後の暇潰しの候補の一つになるかもしれない。
系図(島津氏<加治木島津家>)

橋口塾長のお話を聞きながら残念に思ったのは、鹿児島弁が消えつつあるという事実だ。橋口塾長の語るところによれば、鹿児島弁を話して理解できるのは、橋口塾長の世代が最後となりそうで、塾長の御子息や孫は標準語しか話せなくなっているという。50年近く前に知己になった友人が大阪や福島にいるが、古い大阪の友人は今でも関西弁丸出しだし、福島の友人の場合、小生の前では標準語で話してくれるものの、彼の祖母は福島弁そのままで、友人の祖母と話をするときは、都度友人に通訳をしてもらったことを昨日のことのように覚えている。だから、方言はそう簡単には消えてなくならないと今の今まで思っていたのだが、どうも鹿児島の場合は事情が異なるようであり、他所とは異なる土地のようだ。このあたりの真因は上掲の外域制度と麓集落にあると、亀さんは橋口塾長の話から思ったのだが、同塾長に再会することがあれば、じっくりとこのあたりについて塾長の意見を聞いてみたいと思う。ご参考までに、関西弁すらも、いずれ消えてなくなると、橋口塾長が語っておられたのを付言しておこう。そして、数百年単位で見れば、確かに橋口塾長の主張は正しかろう。

ともあれ、薩摩、すなわち島津家は文字通りの海洋国家であった。中国や琉球はもとより、多分英国とも交流が深かったはずだ。薩摩藩は下甑島へ渡航という名目で有望な藩士を一旦下甑に送り、そこから若い藩士を英国に留学させているが、そうした留学生の中から、たとえば森有礼といった人物が後に誕生している。ともあれ、海洋国と島津家、明治維新を解くキーワードの一つになりそうだ。

横道に逸れるが、絵画とは云え、西郷隆盛の風貌は南方系を髣髴とさせるに充分だ。もしかしたら、宮古島で発掘されたという縄文人がルーツかもしれないが、このあたりは近く調べてみたいと思う。

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(11)南方からやって来た縄文人

橋口塾長の話に時の経つのも忘れ、話も終盤に差し掛かって陽が傾きかけた頃、今回のミニ志布志一郎会の参加者の一人が、角田忠信博士の『日本人の脳』に絡めた質問を橋口塾長に問うた。これは面白くなるぞと思ったのだが、帰りのサンフラワー号の出航に間に合わなくなるおそれがあったので、時間切れとなったのは残念だった。再び橋口塾長に再会するようなことがあれば、塾長が大好きだという焼酎を酌み交わしつつ、以下の拙稿を紹介して意見を拝聴したり、さらには「下甑島」や「北朝鮮」について語り合ってみたいと心から思った。
北満州と日本列島 04 日本語の源流
ハンガリーと日本 「膠着語」「孤立語」「屈折語」、それぞれの違いについて
乳酸菌と漫画 日本語特有の擬声語(西洋で云うオノマトペとは異なる)


それから、橋口塾長が小生に問いかけた質問、「雪がしんしんと降る」のしんしんは、英語でどのように訳すのか、今でも亀さんは悩んでいる。山岸勝榮先生の「歌詞に見る美しい日本語―英語翻訳ができない1つの理由」と題する記事を再読しつつ、やはり「しんしん」の英訳は無理だなと、改めて思ったものである。

山岸先生の上掲の記事の他、以下の記事でも「雪がしんしんと降る」について言及しているので、関心のある読者は目を通すと良いかもしれない。
角田忠信『日本人の脳』(大修館書店)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

以上、今回を以て「志布志の旅」シリーズを終えることにしたい。そして、本シリーズに目を通してくれた読者に対しては、心から感謝の意を表したい。ありがとう。

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志布志の旅 03
志布志滞在二日目について筆を進める前に、野崎晃市博士がブログ【文殊菩薩】に書き連ねた「飯山一郎先生の最終講義」シリーズで、亀さん的に付言したい箇所が3ヶ所ある。

ルーツ

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。

飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。

飯山一郎先生の最終講義(2)


かつて、亀さんは自分のルーツを少しだが調査したことがある。そして、現在想定している亀さん家のルーツは二つだ。一つは綾部市で、拙ブログにも少しだが書いた。
遠祖を求めて

実は、もう一つ想定しているルーツがある。それは、現在は入院中の実母が元気なころに語ってくれた話が基になるのだが、ナント! 亀さん家のルーツは鹿児島だったと母は言うのだ。母の話によれば、亀さんの父方のご先祖様が参勤交代で、鹿児島から江戸に来たのだが、どういう経緯かは分からないものの、そのまま江戸に住みついたのだという。念のため父の戸籍抄本を確認したことがあるが、出生が東京府北豊島郡日暮里とある。父は大正12年生だが、その5年前までは武蔵国豊島郡日暮里村であった。現在でも荒川区日暮里という地名として残っており、日暮里から薩摩島津家下屋敷跡や、薩摩藩三田藩邸跡までの直線距離は6kmと近い…。飯山史観の編集を終えたら、今度は冥土までの暇潰しにルーツ探しをしてみようかと、ふと思った。

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■明治維新

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩大慈寺は薩摩藩と海外との密貿易の関係を示す証拠であり、また明治維新の思想的源流の一つとしても重要な文化財であるようだ。
飯山一郎先生の最終講義(4)


現在進めている飯山史観の編集は、応神天皇の御代から南北朝あたりまでを主体に纏めるつもりでいたが、今回の志布志訪問で、改めて島津家について思うところがあり、明治維新で中枢的な役割を果たした藩の一つが島津家であったことを思えば、南北朝から明治維新に至るまでの流れを、島津家を中心に纏めてみようかと思うようになった。すなわち、島津家を深く追求することが、飯山史観の完成に欠かせないと思ったのである。その意味で、これが今回の志布志訪問の最大の収穫の一つだったのかもしれない。ともあれ、島津家について何処まで掘り下げるべきか、今後の検討が必要のようだ。

■安西ファイル

飯山先生が議論の教科書として読んでほしいと取り出されたのが、世界戦略情報雑誌『みち』の安西正鷹氏のトランプに関する論考だった。
飯山一郎先生の最終講義(7)


野崎博士の上掲の記事を安西さんに私信で伝えたところ、以下のような回答をもらっている。

いやぁ~、それにしても驚きました!飯山さんの最終講義をYou Tubeで観ましたが、
テキストとしてそのまま使っていたのですね。一部を引用したり軽く紹介している程
度だと思っていたので、本当にビックリです。もはや飯山さんの講義では採り上げら
れないにしても、飯山さんの同志の皆様が引き続き目にするかもしれないと思うと、
これはますます高い質の内容にしなければと、身の引き締まる思いになりました。


これからの安西ファイル、ますます目が離せなくなった。その安西さん、安西ファイルと飯山一郎さんの関りを安西ファイルに書いたのだという。近く『みち』に発表されると思うが、その一部を掲示板「放知技」に転載しておいたので、関心のある読者に一読してもらえたらと思う。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16639517/6/

志布志の旅 02
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大久保酒造で旨い焼酎を御馳走になった一同は、車で目の前にある横瀬古墳へと向かった。飯山さんの最終講義のビデオの冒頭で、横瀬古墳の頂上に立つ飯山さんについて野崎晃市博士は、「古墳を遠くに眺める飯山先生の姿は何か神々しくもあり、まるで古代からタイムスリップしてきた仙人のよう」と表現していたが、正に…。

上掲の仙人発言は昨日紹介した野崎博士のブログ記事、「飯山一郎先生の最終講義」シリーズの初回に書いてあるのだが、ビデオを幾度か繰り返し眺めながら、過日の亀さんの志布志の旅は、まさに野崎博士一行が飯山さんの最終講義を聴いた日に巡った、志布志の地を追認するものだったと今にして思う。

目を転じて、野崎博士らが飯山さんから文字通りの最終講義を受けている様子が、同ビデオに遺ったわけだが、ビデオを通じて最も重要な飯山さんのメッセージがあった。それが以下である。

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加えて、掲示板「放知技」の本スレで、亀さんは飯山史観について以下のように書いた。

過日、志布志を初めて訪れ、横瀬古墳や唐仁古墳群を目の当たりにして、シベリアの地に誕生した墳丘墓(クルガン)の流れを、これらの古墳群が確実に引き継いでいることを肌で感じ取ることができたし、遠祖が遺してくれた古墳群を目の当たりにして故郷に戻ったような気持ちになり、感無量でした。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/964/


応神天皇の御代(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日 - 西暦270年~310年)から天武天皇の御代(在位:天武天皇2年2月27日~朱鳥元年9月9日 - 西暦673年3月20日~686年10月1日)の間に、横瀬古墳(推定築造時期 5世紀中葉-後半 - 西暦440年~490年)や、唐仁大塚古墳(推定築造時期 4世紀末 - 西暦370年~390年)が築造されたのだし、南北朝時代に建立された肆部合の石碑の場合は、「暦應四年十月廿六日西念」(暦應四年は1341年)と石碑に刻まれている。

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■唐仁大塚古墳
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ここで、『唐仁古墳群シンポジウム』と題する貴重な史料を、亀さんは絶食青年から一部頂戴している。これは同古墳群の調査結果をまとめた貴重な史料となっており、東串良町教育委員会の大﨑彩女史が纏めた「唐仁古墳群の調査について」の他、琉球大学法文学部・池田榮史教授の「唐仁古墳群の魅力」、宮崎大学・柳澤一男名誉教授の「古墳時代とはどのような時代か」、鹿児島大学総合研究博物館・橋本達也教授の「唐仁大塚古墳・唐仁古墳群と鹿児島の古墳研究」と、計40ページの小冊だが、中身は濃い。ただ、同史料の通読にあたっては注意すべき点があり、殊に飯山さんの以下の記事を念頭に置くべきだ。

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http://grnba.jp/more106.html#aa11191

上掲の記事以外に、唐仁古墳群で注意すべきは拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介した飯山HP記事があり、唐仁古墳群の真相に迫るうえで貴重な記事となっている。
断定:「日本国」は大隅半島で建国された!
日本建国の秘密は大隅半島にある!

■島津家
初日はグルンパ諸施設、古墳群の他、ビデオにも映る大慈寺、密貿易屋敷、即身院跡を訪問しているが、共通のキーワードは島津家である。島津家の背後に浮かぶ英国の影を忘れてはならないし、謎の多い一族と云えよう。この島津家については、機会があれば取り上げていきたい。何故なら、南北朝以降の鹿児島の歴史を解くキーワードこそが、「島津家」に他ならないからだ。

秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。
深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。

青州で思ふ(6)


その他に大慈寺ついてだが、大隅半島に仏教を伝えたのは、朝鮮半島からの王仁(わに)博士と世間一般では思っているようだが、この仏教伝来もいずれ見直さなければならない時期が到来するだろう。

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次稿では、志布志での二日目について書こう。


志布志の旅 01
先月(1月21日~24日)、四日間かけて志布志市を初訪問してきた。本来なら、帰宅直後に訪問の思い出を記事にしてアップすべきところ、年明け早々からスタートしていた大量の仕事に追われていたこともあって、執筆が今頃になってしまった。

ともあれ、思うところが実に多かった旅だったこともあり、今回は数回にわけて徒然なるままに書き連ねていくことにしたい。よって、本シリーズを終えてから、再び「古墳時代」シリーズに戻りたいと思う。

飯山一郎さんや稲村公望さんはサンフラワー号で大阪・志布志間を往復しているが、小生も今回初めてサンフラワー号に乗って志布志に向かった。出港が夕方の17:55p.m.ということもあり、昼過ぎに大阪駅で猿都瑠さんと待ち合わせ、大阪名物のうどんに舌鼓を打ってからサンフラワー号に向かう。そこで堺のYさんと堺のおっさんと合流して一緒に乗船した。広いロビーの一角では酒を酌み交わしつつ、盛り上がっている四人組のおっさんたちがいたのだが、その集団こそ何を隠そう我々おっさんたちであった。一服するため時々席を離れたが、50m離れた喫煙室の入口(下の写真の真ん中にある白い扉横)あたりからも、残り三人の大きな話し声が耳に飛び込んでくるほどだった。話の内容が〝高尚〟な内容だったら、胸を張って一服したんだが…。

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翌朝、無事に志布志港に到着、さっそく飯山邸へと向かう。意外と港から近かった。てげてげHPでも見覚えのある飯山さんが住んでいた家に入ると、客間の片隅に飾ってあった仏壇と飯山さんの遺影が目に飛び込んできた。そして、「嗚呼、やはり亡くなられたんだな」と改めて思った。手を合わせつつ、心の内で飯山さんと話をした後、今回のミニ一郎会に参加したという三名のメンバーのほか、絶食青年も到着、しばし歓談した後、車に分乗して志布志探索に出かけた。ここでは、初日の出来事を簡単に書いておこう。

初日はグルンパ関連施設と古墳群を主に訪れた。最初に訪れた施設は延命草を使って乳酸菌の餌を製造する施設で、出迎えてくれたのは「華奴 紫馬ラベル」のタイチー君の父君Hさんであった。施設の説明が一通り終わった後、隣接の延命草の畑を案内していただいたのだが、印象的だったのが以下の写真に見る防風林だった。畑には乳酸菌を散布しているのだが、それが右の防風林にまで流れたことから、同じ時期に植えた防風林なのに、乳酸菌が流入しなかった左側と流入した右側とでは、木々の成長が全く違っているのが一目瞭然である。改めて、乳酸間の威力を目の当たりにした思いだった。

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その後、ゴミから土壌を製造する施設や、クリーンセンターを案内してもらった。土壌工場では他では見られない土壌のきめ細やかさが印象的だったし、クリーンセンターでは綺麗に仕分けされたゴミの山が目に焼き付いた。改めて、志布志の人たちの意識の高さに思い致した次第であった。もし、そうした志布志の人たちの協力がなかりせば、工場から悪臭が漂い、今頃は周囲の住民からの猛反発を食らっていたことだろう。

その後、焼酎好きなら一度は呑んだことがあるであろう、華奴の大久保酒造に立ち寄る。工場内の製造工程を案内してもらった後、出来立ての焼酎を呑ませてくれた案内係の人には心から感謝したいし、実に旨かった! よほど旨かったのだろう、帰り道、呑みすぎて車中で眠っていた者も出るほどだったwww

その後は以下の写真にあるように、大久保酒造の工場入口から見える横瀬古墳を訪れた後、さらに唐仁古墳群や肆部合の石碑などを案内してもらったのだが、そのあたりについては次稿に回したい。

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野崎晃一博士の「飯山一郎先生の最終講義」シリーズ】
飯山一郎先生の最終講義
飯山一郎先生の最終講義(2)
飯山一郎先生の最終講義(3)
飯山一郎先生の最終講義(4)
飯山一郎先生の最終講義(5)
飯山一郎先生の最終講義(6)
飯山一郎先生の最終講義(7)


古墳時代 04
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前稿「古墳時代 03」で大隅半島を取り上げると亀さんは書いた。その大隅半島だが、掲示板「放知技」で飯山さんと交わしたやり取りが未だに頭から離れないでいる。ご参考までに、そのやりとりを以下に示しておこう。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16237327/746-747/

一昨年(2017年)10月に行われた衆議院議員総選挙をめぐって、放知技で飯山さんと堺のおっさんが、選挙予測を立てていたのは未だに記憶に新しい。中でも、亀さんが気になっていたのが鹿児島3区であった、同区では小里泰弘氏と野間健氏(元『月刊日本』編集員)の闘いになったのだが、数年前までの亀さんだったら間違いなく野間氏を応援していたと思う。しかし、前回の総選挙があった時点では、小里氏の当選を心から願った。そのあたりの亀さんの心境の変化は、拙稿「孤高たれ」にも書いたので割愛する。

ともあれ、上掲の飯山さんの投稿を読み、小里氏の当選は間違いないだろうと一安心したものだが、もう一つ、上掲の放知技の投稿で気になった飯山さんの記述(赤下線)があった。

風土・慣習が違い,言葉(方言)が違うので,話が通じない!


鹿児島湾を挟んだ形の薩摩半島と大隅半島は、地図を眺める限り距離的に随分と近い。それなのに、「風土・習慣・方言が違っている」とする飯山さんの記述を読み、何故だろうという疑問が頭から離れなかったのだ。そのあたりを確認しようと思い、15年前以上に入手した『隼人の古代史』(中村明蔵 平凡社新書)を、久しぶりに紐解いてみたところ、冒頭に以下のような記述があった。

 地図を広げて、南九州の一帯を見ると、三方を海に囲まれているようすが、すぐにわかる。東に太平洋、西に東シナ海、南にはその両大海の接線上の海面に薩南諸島・沖縄諸島などの、いわゆる南西諸島の島々が点々と浮かんでいる。それら島々の先に台湾島がひかえている。

 いましばらくは南九州本土に視点をあてると、南からえぐるように入江状の鹿児島湾が北に入り込んでいる。その鹿児島湾の東側が大隅半島、西側が薩摩半島である。南海に二本足で立ったような両半島の姿からは、それほどの違いはなさそうであるが、それぞれにかなりの地域的性格の差異が見出される。歴史的背景を主として両半島がどのような差異を見せてきたかは、おいおい語ることにしたい。

 つぎには、それぞれの半島の北につながる地域、両隣接地域は南九州のなかではやや内陸的な要素ももっている。といっても、海とのつながりも直接・間接に見出され、多様な側面をもつ地域である。いずれにしても、南九州は海との関係を無視しては語れない地域の集合体である。

 その南九州には山も多い。山々に囲まれてわずかな平地が点在する、といったほうがわかりやすいであろう。その山の多くは火山とその噴出物が形成したものである。火山が各所に散在し、数万年前から現在にいたるまで、そのなかのいくつかが活動をつづけているのも南九州の特色である。

『隼人の古代史』p.12~14

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「歴史的背景を主として両半島がどのような差異を見せてきたかは、おいおい語ることにしたい」と中村氏は書いているわけだが、残念ながら15年前の亀さんは、同書を四分の一ほどしか読了していない。よって、仕事の合間に最初から読み直している最中であり、通読した後に思うところがあれば記事にするかもしれない。ともあれ、同書は中村氏の集大成ともいうべき本(以下を参照)であるだけに、この機会に一気に通読しておくつもりだ。

小冊子ではあるが、これまでの研究を集約して、おこがましいことではあるが、その精髄ともいえる内容になるように書き下ろした。簡素に集約しつつも、これまでの拙書には収載できなかった、ごく最近の研究成果やその動向を盛り込むことにも努めた。その点では二十一世紀初頭までのハヤト研究の集約でもある。
『隼人の古代史』p.255~256


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ところで、亀さんが飯能スレで鯨肉について書くのは、以下の飯山さんと堺のおっさんとの間で交わされたやり取りが頭に残っていたからだ。

天皇家と下甑島産の鯨肉の関係は濃厚どころか,「捕鯨」は天皇家の支配下にあった!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/845-846/


このあたりの背景は、拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介済である。

応神天皇は仲哀天皇の子?
巨大な前方後円墳の原型は?
やはり応神天皇は…


ここで、「応神天皇は仲哀天皇の子?」をクリックすると、以下の記述に目が留まるはずだ。

もっと不思議なことは…
天皇の軍が熊襲軍に敗れ,天皇が陣中で亡くなられた以降…
熊襲に関する記録が,日本書紀の記述から全く消えてしまうのだ.

熊襲と同じように朝廷を悩ませた「蝦夷(えみし,えぞ)」は,後世まで歴史の記録に残っている.

ところが,3世紀から5世紀にかけて,あれほど強大な勢力を誇示して朝廷に叛乱し続けた『熊襲(クマソ)』だけが,仲哀天皇の崩御(戦死)以降,その名が消えてしまったのか?!

この謎のなかにこそ,じつは,日本国建国と天皇家の秘密が隠されているのだが…,その謎解きを書くことは,簡単には出来ない.


熊襲を隼人と呼ぶようになった背景が、朧気ながらもお分かりいただけたものと思う。ともあれ、今月は志布志を訪問し、昼は古墳を巡り、夜は同志と酒を酌み交わしながら、熊襲であった応神天皇の御代を中心に、多角的かつ徹底的に語り合ってきたいと思う。

【追伸】
昨夕、2月1日が締め切りの大量の仕事(翻訳)が2本入ったことと、今月下旬に志布志と大阪を一週間ほどかけて回る予定とが重なり、以降の拙ブログの更新が滞りがちになる見込みだ。そのあたり、予めご承知おき願いたい。亀さん拝
古墳時代 03
前稿「古墳時代 02」を執筆してから早くも10日以上が過ぎたが、今月は志布志を訪問して古墳群を見学することもあり、いつまでも御屠蘇気分でいるわけにはいかない。よって、今日あたりから南九州の古墳群についての執筆を進めることにしよう。

さて、「古墳時代 02」ではシベリアの地で誕生したクルガン(墳丘墓)について書き、本稿では「ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった」について書くつもりでいたが、やはり最初は九州が誕生したあたりから筆を進めたいと思い直した。

その九州を含めた日本列島が、どのように誕生したのかについては、すでに拙ブログの「奇跡の日本列島」で書いているが、簡単に振り返れば、ユーラシア大陸の一部だった日本列島が、3000万年前あたりから徐々に大陸から引き千切れていき、やがて大陸から完全に日本列島が引き離された…。以下は、完全に引き離された日本列島の状態を示すイラストだ(1500万年前)。

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そして1400万年前頃、地球規模の大噴火が今の九州あたりで発生、その後冷えて地下で固まった軽い花崗岩によって、土地が隆起したことで西日本に山脈が形成された。

300万年前頃、今度はフィリピンプレートが大陸プレートに衝突、それが引き金となって太平洋プレートも日本列島に向かって西進したため、東日本一帯にも山脈が形成された。

100万年前、大陸プレートの移動によって日本列島は一つになったのだが、その頃の様子を示したのが以下のイラストだ。当時は、未だ本州・九州・四国が陸続きだったことが分かる。

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長い年月が流れ、10万年ほど前に九州に旧人が渡ってきたはずだが、旧人については割愛し、新人から筆を進めよう。

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拙稿「北満州と日本列島」シリーズで紹介した、「日本人はどこから来たのか」の「(11)南方からやって来た縄文人」にあるように、縄文文化は北日本で花開いたものと、長い間にわたり我々は思い込んでいた。しかし、ナント1990年代後半、南九州でも驚くべき縄文遺跡が続々と発見されたのである。

そうした縄文の遺産を基盤に、開花したのが九州王朝というわけだが、「日本人はどこから来たのか」の作者は九州の縄文人の場合、スンダランドにルーツを持つ人々だと考えているようだ。確かに地理的な位置からして、南九州にスンダランドから流入してきた可能性は高いのだが、同時に朝鮮半島から対馬を経由して渡ってきたツラン、あるいは北日本から流れてきたツランの可能性も否定できないだろう。何故なら、古墳、すなわちクルガンを誕生させたのは、ツランだったのだから…。

やがて九州に古代文化が誕生、後の九州王国となった。この九州王国だが、古田武彦の説が有名だ。掲示板「放知技」の常連さんの一人、明石原人さんも熱烈な古田史観の支持者の一人であり、以下のように述べている。

日本国の前の王権=王朝が九州にあった
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15885120/786/


それに対して、飯山さんも以下のように肯定した。

私は、古田の言うとおり、「九州王朝」は実在したと思います。

そのひとつが、「阿蘇山」の近辺に存在し、『隋書』に書かれた『俀国』。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15523279/932/


蛇足ながら、上記の「阿蘇山」噴石を巡っての、飯山さんと堺のおっさんのやりとりが興味深い。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16457818/934-935/

さて、古田史観によれば邪馬台国は九州にあったとのことだが、その古田の九州説を、完膚なきまで叩きのめしたホームページ(HP)が存在する。実際に内容を読むに説得力があり、相当インテリジェンスな人物が執筆したHPだということが分かるのだし、亀さんも同HPの主張について全面的に賛同する。ちなみに、このホームページを紹介してくれたのはmespesadoさんで、上掲のHPはmespesadoさんの投稿の中で紹介されており、関心のある読者は一度アクセスしてみるといいだろう。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/7/

次稿では、大隅半島について筆を進めよう。

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宮中祭祀
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即位の礼にて

堺のおっさんが亀さんのブログ記事「歌とシャーマン」を引用しつつ、掲示板「放知技」に質問の形で投稿していたので、亀さんはシャーマニズムと絡めた回答を行っている。その後の見直しで表現の拙い箇所や誤入力の他、追記したい情報も出たので、再編集の上、以下に再掲する。

情報不足なのですが、

それは小生も同じです。早い話が、雲上人の世界で起きていることは、正直言って小生もあまり良く分かっていません。ただ、皇室ジャーナリストといった人たちとの交流、あるいは皇統奉公衆と接触のある人との交流も多少はあることから、小生の場合は一般よりも少しだけ知っているというだけのことにすぎないのです。無論、そうした皇室情報を提供してくれる人たちも玉石混交であり、どの人物が玉あるいは石かという判断は、最終的に自分自身で下さなければならないという作業が伴いますが…。

その玉の部類に属する一人が飯山さんでした。その飯山さん、小生同様に皇統奉公衆の存在を確信していましたし、同時に、雲上人の世界は良く分からないとも仰せでしたが、そうした誠実な回答であったが故に、人として信頼するに足りると小生は判断したのだし、今でも天国にいる飯山さんと〝交流〟を続けているわけです。

ともあれ、雲上人の世界をより正確に見通すためには、皇室に関する独自の情報ルートを、自身で開拓していく努力を怠ることなく続け、その上で栗本慎一郎の謂う全世界史を学び(これが飯山史観を編集する決意をした理由の一つであり、編集を通じて今まで己にとって朧気だった歴史というものを、再構築する上で役立っている)、皇統について出来る限り自身で掘り下げていく姿勢が肝要と思うに至っています。

今日現在の皇統についての小生の見識ですが、これを富士山の登山に喩えれば、ようやく三~四合目あたりに到達したのかなというのが、正直な実感です。そして、今現在感じていることは、如何にあの世に旅立つ日まで皇統の追求に努めたとしても、絶対に頂上に到達することはないだろうと、雲に隠れた頂上を見上げつつ、思う今日この頃です。それでも、頂上を目指して、今日も歩き続ける自分がいます…


それゆえ、國體としての皇室の役割を国民は

歴史観と共に捉えなおす時期が来たのではないでしょうか。


御意。

表層的には、GHQに押し付けられた〝象徴〟としての天皇像、小泉信三の教えを起点に象徴とは何か、象徴としてどうあるべきかについて、今上陛下は模索され続けて今日に至り、それが震災地での両陛下の言動に顕れていると、世間では捉えているようです。また、在位三十年をかけて陛下は漸くにして、戦後の日本が背負っていた戦争という〝重石〟を取り除かれたことから、来年五月に新天皇になられる皇太子殿下は、戦争という重石を背負うことなく、新天皇としての任務を全うできるだろう、といった論調の記事も目にすることがあります。

しかし、皇統という世界の深層に一歩足でも踏み入れると、そんな表層的な観察では想像も及ばぬ世界が広がっている、つまり、皇統の世界とは世間一般で思われているような底の浅いものではないということが、否が応でも肌で感じ取れるようになります。そうした我々の想像が及ばぬ皇統という世界が、過去にあり、現在もあり、未来においてもあるでしょう。だから…


シャーマンとしての天皇にしかなしえない祈りを通した権威。

それは日本国民として、あまりにも贅沢な希望なのだろうか。


贅沢な希望どころか、「シャーマンとしての天皇にしかなしえない祈りを通した権威」が、未来永劫に続くと思って良いでしょう。そのあたり、先週久しぶりに顔を出したまほろば会で、Jinmoさんや天童さんの言葉の端端から読み取れました。斯様に読み取れたのも、やはりシャーマンについて日頃から追及してきた成果が、少しは出てきたのかなと愚考する次第です。

ともあれ、シャーマンの世界を知るには、安西正鷹さんの〝来るべき新しい文明の精神哲学〟とも謂うべき、量子力学を齧るのも一つの道であり、それ以外にも多々手はあります。小生の場合、読書による日頃のシャーマニズムの追求と並行して、過日Jinmoさんが小生に語ってくれた天乃浮石における斎行、来年の五月は無理かもしれませんが、今後は十一月に毎年行われるということなので、いずれ一度は出席してみたいと思っています。

斎行日程は二〇一九年五月一日と決定した。平成から新たなる時代へと移る御代がわりの、その日である。第二の岩戸開きとしての意義に於いて、この日程以上に必然を感じさせるものは有り得ない。


最後に、ご参考までに以下は高橋とみよ女史の言葉です。

天皇陛下としての本来のお仕事は祭祀に始まり祭祀に尽きると言っても過言ではないのです。
「君を守る 私が護る」高橋とみよの政治ブログ



亀さん@人生は冥土までの暇潰し


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【追記】
掲示板「放知技」でmespesadoさんの投稿を読んだので、上掲の高橋とみよ女史の記事を紹介しておこう。
安倍総理ほど海保の重要性を知っている政治家はいない!

海上の道 02
前稿「海上の道」の続編を書かせていただく。テーマーは、西太平洋に浮かぶヤップ島で長年生活している、suyapさんのコメント『海を渡った「縄文人」』についてだ。suyapさんは日本生まれ育ちの生粋の日本人で、過日(11月25日)の「故飯山一郎氏を送る会」にも、遠路はるばるヤップ島から駆けつけてきてくれた、正真正銘の大和撫子である。

最初に、suyapさんが住んでいるヤップ島は、どこにあるのかを確認しておこう。以下の地図は、冒険家の高野孝子女史のサイトからお借りしたものだ。

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さて、拙ブログに寄せられたsuyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』は以下の通りだ。

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suyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』の投稿があった当日、亀さんは久方ぶりに世界戦略情報誌『みち』のまほろば会に出席、続いて翌日は高麗郷を散策している。その報告記事を書くため、suyapさんへの回答記事を書くのが今日になってしまったのだが、それはともかく、まほろば会のあった当日にsuyapさんの投稿があったことは、正に神計らいであった。何故なら、上掲のsuyapさんの投稿を読んでから、まほろば会に出席し、高麗郷を散策したことにより、ある重要なことについて気づかされたからである。それは、シャーマニズムの本質に迫る上で欠かせない一つに読書があるが、加えて、もう一つ欠かせないもの、それこそが体験だということを思い知らされたのだ。つまり、読書と体験は両輪の関係にあるということ。それに関連して、亀さんは掲示板「放知技」に以下のような引用を行っている。

ともあれ、シャーマンの世界を知るには、安西正鷹さんの謂う、〝来るべき新しい文明の精神哲学〟とも謂うべき、量子力学を齧るのも一つの道であり、それ以外にも多々手はあります。小生の場合、日頃のシャーマニズムの追求と並行して、過日Jinmoさんが小生に語ってくれた、天乃浮石に向けた斎行に一度参加してみたいと思っています。次回は来年の五月一日に兵庫県で行われるので、足を運んでみようかと思案中です。

斎行日程は二〇一九年五月一日と決定した。平成から新たなる時代へと移る御代がわりの、その日である。第二の岩戸開きとしての意義に於いて、この日程以上に必然を感じさせるものは有り得ない。


つまり、亀さんは「シャーマニズムの追求」の一環として、シャーマニズムに関する書籍や、Jinmoさんが『みち』に連載中の「寄絃乃儀」を熟読してきたが、単に目で追うだけでは駄目なのであり、やはり身体でシャーマニズムというものを体験しないことには、本当のこと、すなわちシャーマニズムの本質を極めることができないということを痛切したのである。だかこそ、suyapさんの以下の記述に目が釘付けになった(下線は亀さん)。

海の道を考える(想像する)にあたっては、まず海・航海・自然を体験的に「知る」ことから始まるのではないのでしょうか?そして、何千年、何万年を経ていても、人間の生活はそんなに変わるものではありませんから、現存する航海術は、やはり大きなヒントになると思います。


もう一つ、suyapさんの以下の記述…

飯山先生は「大洋を渡る船は全長6~7メートルのカイ付きの丸木船だった」と書いておられますが、発掘で出てきた櫂付の小船は、近海を海岸線づたいに移動するものでしょう。いくらか履修と季節風の助けがあったとはいえ、数十キロ以上ときに何百キロも離れた地点を移動するには、帆走しか考えられません。それに、遠洋航海はそんな気楽なもんではないです。乗船者は誰も「命がけ」は覚悟の上、しかし不安はおくびにも出さず、あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます


suyapさんの「あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます」という行を読んだ瞬間、suyapさんは、本人が意識しているかどうかはともかく、紛う方なき巫女であると思った。過ぐる日の大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」、宿泊先のホテルでチェックインする際、隣から声をかけてくれた女性がいたが、最初は誰だが分からなかった。しかし、その後三次会のショットバーで、小生の隣に座った件の女性が自分はsuyapであると自己紹介してくれた時、第一印象は普通の女性と違うなというものであった。その後になってsuyapさんが巫女であると確信するに至り、何故に他の女性と違うと思った理由が分かったのである。

ともあれ、日本は関東圏の山奥(秩父山地)に住居を構える亀さんは、海というものをあまり知らないのだな、ということを改めてsuyapさんから思い知らされる形となった。

さて、舞台を古墳が誕生した南九州について筆を進める前に、放知技に投稿した上掲の亀さんの投稿、読み返してみて追記しておきたい箇所や入力ミスがあったので、次稿にて訂正したい。

【読書とは…】
若いころ、そして今も人生の羅針盤にしている、今東光語録の中から読書に関する和尚の発言を、『極道辻説法』シリーズ本からピックアップしてみた。上掲の記事に「読書と体験は両輪の輪」と亀さんは書いたが、そのあたりを納得してもらうため、殊に若い読者に何らかのヒントがなればと思い、以下に今東光語録を幾つか引用してみた。

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☆☆ 経験か読書か
 よく世間じゃ読書の大切さを説くが、本当のところ、経験と読書とどっちが人間にとって大事なのか?
(福島県いわき市平 18歳 乙)

それはバカな話で、鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのかというのと同じでな。経験して読書し、読書して経験する、という交互作用によって本というものは生きてくるし、経験というものも役に立ってくるもんでね。経験だって読書だって同じように大切だ。何をとぼけたことぬかしてやがる。てめえ、本なんざ読んだことねえんだろう、こん畜生め! だからそんな質問するんだ。
『続 極道辻説法』p.234


☆☆ 本はどう耽むべきか
 本を読むことによって、感受性・思考力・洞察力を養い、そこから何かを自分の血肉となすには、どのように本を読んだら良いのか? 和尚の思うところをお聴きしたい。
(埼玉県熊谷市筑波 浪人 20歳 匿名希望)

 そんな目的で本を読むんだったら読まんほうがいいね。本を読んで栄養になると思ったら大間違いだ。

 オレが本を読め、本を読めとすすめるのは、それを栄養にするためじゃないんだ。本を読めばいかに世の中にバカが多いかということがわかるからでね。本を読んでいても常に自主的に物を考えるんでないと逆効果になるんだ。本読んで、その本に負けて、その著者の考えに捉われたらもうおしまいだよ。いつでも〝自分″というものがこれを読んで、「オレはこの説に反対である」という意識忘れたら駄目だ。それがなかったら、読書なんてなんの役にも立たん。

 ただやみくもに活字を信用しちゃったら、洞察力も糞もありやあしねえじゃないか。そんなつもりだったら本なんか読むな、こん畜生め!

『続 極道辻説法』p.210


☆☆ 碩学になるには
 私は仏教を専攻している二十歳の学生ですが、和尚のような碩学になるには、どのような心構えで学問を修めれはよいのか? またどのような勉強方法が有効か? をお聞きしたい。  
 (尼崎市 虚無居士)

 人の勉強法を聞いて、「おかげでよくできるようになりました」なんて言う奴があったら、バカだよ、そいつは。

 オレは乱読一点ばりだったね。女郎買いにいっても、どうせ銭がないんだからフラれることの方が多いんだ。女郎はどうしても本部屋を占領している金のある奴の方へサービスよくする。オレなんて、ものの数じゃない。

オレは女郎買いに行く時にも懐ろに本を人れてった。いかなる時でも本が懐ろに入っている。ケンカしてデンと突きがきても本で受けているようなもんで、これはもう重宝なもんだった。だから、女郎屋行っても、女郎がくるまで本読んでたからちっとも退屈しなかったな。外にでかける時は、たとえどんな時でも必ず机にある本を持っていく。文学の本、哲学の本、政治の本、経済の本、なんでもとにかく読みたいものは片っ端から乱読だったよ。碩学だかどうだか知らないけど、うんと本読むということがやっぱり非常に大切なんだな。

 オスカー・ワイルドは、オックスフォード大学じゃ、いつでも一番新刊書を読んでいるんで有名だった。教授も新刊書に関する知識だけは彼に追いつかなかったというんだ。それほど、いつでも時代の先端を歩いていた。もう古典なんかさわらねえ。シェークスピアなんてどうでもいいんだ。シェークスピアのようなものはシェークスピアが書きゃあいいって調子でよ。これも文学者としてのひとつの生き方だな。勉強法としてもひとつの方法ではある。

 とにかく、どういう勉強法とか、どうしたら碩学になれるなんてこと、いくらそこで考えてたってわかりゃしねえよ。そんなこと考えているくらいなら、ゆっくりとマスかいて、頭さっぱりしてから勉強した方がいいぜ。え、お兄ちゃん。

『極道辻説法』p.21~22


海上の道
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ユーラシア大陸に誕生した諸民族(ツラン)を中心に、今日まで様々な観点から筆を進めてきた。そして、常に念頭に置いていたのが、遊牧の民であるツランが利用していた草原の道である。一方、大海にも〝道〟がある。すなわち、〝海上の道〟だ。横道に逸れるものの、今回は海上の道について、思うところを少し書いておきたい。

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最初に、先月行われた故飯山一郎氏を送る会で、亀さんの上のスライドを見た参加者の一人から、「(亀さんの描いた)日本列島からアメリカ大陸への航海ルートは如何なものか」という指摘のメールが届いた。それは、「海の民は航海にあたり決してリスクを冒さない」、そして「海の民は海流や風に逆らわず、むしろ、それを利用して航海する」という旨のメールであり、それを一読し、なるほどもっともな指摘と思い、その貴重な指摘をしてくれた読者に対して、亀さんはコメントで感謝の意を示している。それにしても持つべきは道友であり、有難い指摘であった。

さて、リスクを冒すことなく、かつ自然の力(海流・風)に逆らわず、寧ろ、それらを利用する形で、どのように縄文人は太平洋を渡ったのか、今のところ以下の図が示す点線のルートだとは思うが、このあたりは今後の宿題としたい。

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それはともかく、日本海はおろか、太平洋も自在に航海していた縄文人がいたことは確かである。その彼らが生きた縄文時代とは、一体全体どのような時代だったのかと、いろいろと想像を巡らせていた時、過去にも紹介したことのある飯山論文を思い出した。
”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!
文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと

国境もなかった縄文時代の人たちを、〝脱藩人〟と言うのも何だが、拙稿「南方熊楠の世界(4)」で述べた、脱藩人の心を持っていた人たちこそ縄文人だったと云えよう。

ついでに、上に示す飯山論文で思い出したのが「歴史」、そして「無文字社会」である。以下の飯山さんの投稿を思い出していただきたい。

日本の歴史は天武天皇から始まりました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14186314/917/


歴史とは文字があって初めて歴史となるわけで、その意味で、天武天皇以前の日本列島には、歴史はなかったとする飯山さんの主張は正しい。一方、太古の昔から文字のあった中国は、鮮卑だのといった文字を、文字を持たなかった遊牧民族にあててきたわけであり、加えて自分たちの視点で見た歴史を文字にして残した。これら中国古書に書かれた〝歴史〟を、我々は学校で〝史実〟として学んできたということになるのだが、そろそろ、文字を持たなかったユーラシア大陸の諸民族(ツラン)や縄文人について、見直す時期に来ていると言えそうだ。

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古墳時代 02
掲示板「放知技」で、亀さんが最も注目している投稿者の一人に、愚山人さんという常連さんがいる。その愚山人さんが昨日、以下のような投稿を行っており、思わず唸った。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/34/

亀さんが唸ったのは、愚山人さんの「談合」という言葉である。この談合という言葉だが、実は日本文化の本質そのものをズバリ指した言葉なのだ。そう思っているのは、なにも愚山人さんや亀さんだけではない。世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長も同じなのである。『みち』のホームページには紹介されていないが、最近まで天童さんが『みち』に連載していた、「文明の原郷ツラン」シリーズの第14回、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」に、以下のような記述がある(括弧は亀さん)。

私(天童)はかねてより日本文明の本質的特徴が「談合」にあると考えている


上掲の天童さんの記述は、『ゆがめられた地球文明の歴史』(栗本慎一郎著)のp.78~80の行に対する、書評の中に登場しているのだが、続けて天童さんは以下のように書いた。

談合の結果として出来る統治形態が、すなわち「連合」である。大和朝廷は既存勢力を打ち破った後にできたものではない。既存勢力の談合によって、ある一つの系統を支え従うこととした結果、成立したのである。

それはもう一つの政治形態と比較してみれば、差は歴然となる。つまり、殲滅戦争による支配である。シュメールもまた、都市国家同士の連合によって大帝国を築いていた。シュメールがその連合という統治形態を始めたのであろうか。記録や文書などの物としての証拠はない。だが、先行するミヌシンスク文明の末裔たちが挙ってこの統治システムを踏襲していることに鑑みれば、シュメールはこの統治の智慧を先行のミヌシンスク文明から学んだとと言っても無理はなかろう。


以上までを述べた後、天童さんはシリーズの第14回の本題である、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」という主テーマに移り、自説を展開しているわけなのだが、ご参考までに、第14回を本稿の最後に掲載しておくので、関心のある読者は目を通していただきたい。

さて、ここで思い出していただきたいのは、前稿「古墳時代 01」に書いた、亀さんの古墳をめぐる長年の疑問である。

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


シベリアの大地に出現した諸民族(ツラン)から、後に日本に点在する古墳の原型となった墳丘墓(クルガン)が、何故にシベリアの大地、すなわちツランの地で誕生したのか? それは、膠着語系というツラン共通の言語にあったのか、あるいは、ツラン共通のシャーマニズムや死生観といった宗教にあったのだろうか…。

そのあたりを解く鍵として、同じく天童さんのシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」に注目してみた。

●巨大墳丘墓(クルガン)に関して、少なくとも何らかの発掘調査が行なわれた数例について挙げたにすぎないが、現在ウクライナ紛争やイスラム過激派テロなどによって騒然としている当該地域の世情が安定すれば、今後も史上ユニークなこの埋葬形式の発見・発掘が数多く行なわれ、その全貌が明らかになる日がやがて訪れるかも知れない。

だが、現在はまだ年代的にも紀元前四〇〇〇年から紀元前三〇〇まで相当な長期にわたり、しかも断続的な発掘例しかなく、出土地域もバラバラというありさまである。

クルガンとはいったい何だったのか、どういう人々が築造したのか、そこにそういう意味が込められていたのか等々、その実態に関して今は確たることは言えない状態である。

この特徴的な墳丘墓に関して一般にはほとんど知られておらず、歴史事典などには触れられているが、クルガンをテーマとする専著は日本にも外国にもまだないようである。

しかし、前方後円墳を各地に有するわれわれは、巨大墳丘墓がそこに葬られる権力者ただ一人のためだけではなかったことを知っている。稲村公望はかつて本誌に連載中の「黒潮文明論」において、わが国の古墳が沼沢地の水田開発や洪水防止のための河岸修築により堆積した残土を利用し工事監督責任者の徳を讃える記念碑として築造されたのではないかという見解を披露したことがある。けだし、心して聞くべき卓見である。

というのも、秦始皇帝が遺した巨大地下墳墓は絶大な権力を掌握した始皇帝という権力者一人のための墓であり、ほとんど生前そのままの有様を実物大の兵士や馬で再現しようという権力者の執念のすさまじさには圧倒されるが、そこには一片の祈りも祭りも存在しなかったことを感じてしまうからである。

大陸と日本列島における墳墓についての、この彼我の違いは何なのだろうか。わが国でも豊かな副葬品を伴う古墳を狙った盗掘は確かにあった。だが、たとえ恨み骨髄に達する敵に対しても、その墓を暴き骨に鞭打って辱めるような報復手段は、わが国では一般的な賛同を決して得ることはない。わが列島においては死者を冒涜することは人してあるまじき行為だと考えられているからである。

そういう目を以てクルガンを見ると、そこには秦始皇帝陵にあるような絶対権力者のすさまじい執念というよりは、稲村公望の卓見が教えるような、共同体の祈りの如きものを感じることができる。

ただし、繰り返すが、クルガンに関しては、いまだ確たることは何も言えない状況に変わりはない。


このシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」も、本稿の最後に転載しておいたので関心のある読者は一読願いたい。ともあれ、日本の古墳の原型となったクルガンの発掘調査は、ようやく緒に就いたばかりであり、今の段階では、確定的なことは言えないということが上掲の文章でわかる。だが、クルガンがツランの地で誕生したという史実は、極めて重要な意味合いを持つ。

母語はその人の思考形式、言動を根底から支配していると、亀さんは日ごろから考えているのだが、上の稲村公望さんと天童竺丸さんの言に従えば、ツランのクルガンと、秦始皇帝の地下墳墓との決定的な分水嶺は、膠着語族(ツラン)と孤立語族(秦王朝)にあると言えないだろうか。斯様に、母語というものは、人の思考形式を決定的に左右するものなのだ。ここで、フンボルトが提起した言語形態学だが、世界の言語を、孤立語・膠着語・屈折語の三つに分類している。では、何故に孤立語、膠着語、屈折語なのか、何故に言語によって人の物の見方・考え方が変わってくるのか、といったテーマは興味深いものがあるものの、本稿のテーマと外れるので今回は割愛する。

ともあれ、上掲の天童論文で明らかなように、膠着語系民族と孤立語系民族との間では、墓地や埋葬一つとっても違いが生じてくるものなのだ。このあたり、膠着語系の一人である亀さんは、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」で以下のように書いた。

NHKの「縄文1万年の美と祈り」という番組を見ていた時、縄文人の死生観「再生」のシーンに目が釘付けとなったことを告白しておきたい。つまり、再生のシーンに深く共鳴する自分がいたのであり、朧気ながらも自分に縄文人の血が流れていると、直感的に悟ったのである。


さらに、別稿「縄文の息吹」で亀さんは、英国のストーンヘンジと日本の大湯環状列石を紹介しているが、これは、日本に古墳が出現する前に縄文人が持っていた、自然観(太陽信仰)を示すものであり、栗本氏も以下のように書いている。

古墳時代が始まった後のこと、そこにさらに太陽信仰やシリウス信仰を基礎とし、やがては仏教の弥勤信仰に繋がる「聖方位」(正面の方位を真北から西に二〇度傾ける)が意識的に持ち込まれることになった。縄文時代から日本列島にあった太陽観測のネットワークは冬至夏至時の日の出日没地点から諸般の方位をとるものだった(第四章参照)が、それがこの新たにシリウスの位置を軸にした方位のベースとなったのだ。

 この聖方位は北のシルクロードから北日本へ入り、そこから日本全国へ伝播した。聖方位は中央アジアやモンゴル高原に今もたくさん遺跡において見出されるが、そこが聖方位の起源の地だというわけではない。北シルクロードの要衝セミレチアのソグド人都市(居住地)はほとんど聖方位をもって建設された(第四章参照)し、セミレチアから南へ下がった砂漠地帯のオアシス都市サマルカンドほかにも意識的な聖方位が見出される。

太陽信仰あるいはシリウス信仰あるいは星展信仰あるいは「天」の観念とともに遠くはペルシアを起源とするが、あるいはもっと時代も西へも遠く遡ってバビロニアやコーカサスを起源とすると考えるほうが妥当だ。なぜなら意識的な聖方位がペルセポリスだけでなれく、バビロンやコーカサスにも見出されるからである注6。蘇我氏は重要な都市や建物や宗教施設の配置においてそれにこだわり、聖方位は飛鳥京建設を含む蘇我氏の活動の象徴となったのである。

飛鳥とペルセポリスが繋がるという指摘はこれまでもいくつかあった注7。これを私は、飛鳥はペルセポリスだけでなく(もちろんサマルカンドは言うまでもなく)バビロニアやコーカサスと繋がったものだと考える。

かくして三世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。

注6 聖方位論は『シリウスの都 飛鳥」において詳しく展開した。
注7 たとえば井本英一『古代日本人とイラン』学生社、東京、一九八〇年、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』岩波書店、東京、一九八〇年ほか多数。特に、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』新人物往来社、二〇〇五年。

『シルクロードの経済人類学』p.1;9~20


ともあれ、ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった、ということになる。

次稿では、日本の古墳文化の起点となった、南九州の古墳群に目を向けてみることにしよう。

【追補】
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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」1/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」2/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」3/3

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」1/2

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」2/2