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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
高麗神社と皇室
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高麗神社

平成最後となる来週の天皇誕生日(12月23日)、放知技の数名の道友と一緒に高麗神社を訪問して参拝するが、訪問に先立ち、予習の意味で本稿をアップさせていただく。

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右端は高麗宮司

昨年の9月20~21日、天皇皇后両陛下が埼玉県を御訪問、高麗神社に御親拝され(天皇家と高麗神社)、かつ渋沢栄一記念館を御視察されている。渋沢栄一と言えば、近代日本の礎を築いた人物であると同時に、徳川慶喜公の信任が大変厚い人物であった。そのあたりは、落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』、「第七章  慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。

一方、両陛下の高麗神社ご訪問を巡ってAERAが、「朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、ちょっとした騒ぎが起きた」などと書いていたが、そんなことよりも亀さんが注目したのは、「境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」という高麗文康宮司の発言、そして高麗宮司に陛下が御下問されたという以下のお言葉である。高麗宮司とは過去に幾度か会っているが、どのように宮司が陛下に回答したのか、次回訊いてみたいと思っている。

陛下 :高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか。


それから、以下は2016年4月23日に撮影された写真、「高麗神社に建立された石碑の除幕式に臨席された高円宮妃久子さま」である。

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ちなみに、来年は天皇になられる皇太子殿下も昭和51年、同神社を参拝されている。また、同神社には大勢の政治家も参拝しており、そのうちの六名が後の総理大臣に就任した。さらに、あの川島芳子も同神社を訪れているのだ(川島芳子 生死の謎)。

ここで、読者は思うことだろう、「高麗神社とは一体、どういう神社なのか?」と。このあたりの謎を解くヒントは、上に示した高麗宮司への陛下からの御下問にある。拙稿「まぼろしの古都」を一読いただきたい。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。

天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。

 もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。


天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。


上記に栗本慎一郎氏の名前が出てくるが、『栗本慎一郎の全世界史』p.198にある以下の図をご覧いただきたい。この図については、亀さん的に幾つか納得のいかない点がある。たとえば、「北魏」。栗本氏の図からは、北魏と日本の〝深い〟交流について示されていないが、亀さんが「青州で思ふ(3)」に書いたように、「奈良の平城京は北魏の平壌がモデル」であったことを思えば、何故にこのあたりを栗本氏は言及しなかったのか、腑に落ちないのである。このあたりは、いずれじっくりと確認していきたいと思う。

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北満州と日本列島 05
■弥生時代(前4世紀(前10世紀) - 後3世紀中頃)
弥生時代に関しては、ウィキペディアの解説を引き合いに出し、その上で正しい解答を示す形をとりたい。つまり、今回も前稿の縄文時代同様、世界戦略情報誌『みち』を基に、正しい解答を示すことにしよう。

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さて、現在のウィキペディアの「弥生時代」の項目をみるに、定説通りに弥生時代の始まりを前4世紀としているものの、続いて括弧付きで弥生時代の始まりを(前10世紀)としている。ところが、そのウィキペディアの弥生時代についての解説文の冒頭は、いきなり以下のような文章で始まっている(青下線)…。

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。


冒頭で、「紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称」(青下線)と書き、続く段落で「弥生時代は紀元前10世紀に始まる」(赤下線)と書いているが、弥生時代が始まったとされる前4世紀は何所にいったのかwww

それはともかく、並行してウィキペディアが書いている、「採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の「弥生」時代である」は、まったくの的外れである。このあたりは、ネットでいろいろと書かれているので、本稿では割愛したい。それでも尚、疑問に思う読者は以下の一連の論文に目を通すといいだろう。いずれも世界戦略情報誌『みち』に載った、天童(竺丸)編集長の論文だ。

紀元前一〇世紀水田稲作開始 ←稲作は縄文時代
渡来人先進文化将来説の荒唐無稽
渡来人は日本列島に埋没同化して姿を消した
縄文農耕の成熟と弥生水田稲作
中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」


特に、上掲の一連の論文で注目すべきは、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の文章だ。

 縄文時代を狩猟採集に基づく野蛮な時代、弥生時代を水田稲作開始による革新的時代と捉える単純な図式では、わが文明の骨肉に触れることはとてもできないのだ。縄文・弥生以来連綿として一貫するもの、それこそが日本文明の精髄であり、わが皇室祭祀の中核にある。


止めとして、最終稿の「中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」にある、以下の文章を引用しておこう。

 この副題にあるように、従来久しく教科書的常識とされてきた「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」とする歴史観に真っ向から挑戦するのが著者中島一憲氏の全編を貫く基本姿勢である。それは縄文時代を狩猟採集段階の未開社会とみなす大勢の常識に疑問を持ち、具に検証した事実を踏まえて、「縄文時代とは成熟した文明社会であった」という独自の洞察に支えられているのである。


われわれが学校で習ってきたはずの、「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」は、まったくの嘘っぱちであったことが分かるだろう。

これにて、弥生時代については切り上げ、いよいよ次稿からは飯山史観の要諦である、古墳時代に筆を進めることになるが、その前に、次稿では改めて飯山史観を、「日本列島に流入した人たち」という角度から俯瞰してみることにしたい。ちなみに、以下は飯山さんの放知技への投稿である。

小生,『飯山一郎の“真説・明治維新”』を書きます.

先ず…,序論として「日本歴史原論」.日本の歴史は,外圧と占領により大変化します.
その「外圧と占領」は,今までに7回半ありました.

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.

第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.

第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,坂本竜馬,高杉晋作らの「尊王派」や「倒幕派」を扇動して,幕藩体制の徳川国を倒し,西欧文化万歳!の明治新国家を建国させ,英国による間接支配が始まる.

ただし,高杉晋作は上海から帰国後,西欧列強の「カラー革命」を見抜いていたが…,明治維新の前年,29才で死去.
この高杉晋作の「無念と残念」を,安倍晋三は熟知している.

第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国となる.

第8回目は,現在進行中だが,日本は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16155707/828/


北満州と日本列島 04
■縄文時代(前12000年頃~前4世紀)
ウィキペディアによれば、縄文時代は紀元前12000年頃から紀元前4世紀までとある。しかし、これは明かな間違いで、実は紀元前10世紀ほど前から、すでに弥生時代は始まっていたのである。このあたりについては、次稿の「■弥生時代」で述べるとして、縄文時代が始まったとされる紀元前12000年といえば、すでにシベリアの大地に民族(ツラン)が誕生していたはずで、縄文時代以降に日本列島に渡ってきたのは、シベリアや朝鮮半島からの諸民族、すなわちツランと、南方からの黒潮の民だったと思って差し支えないだろう。

さて、紀元前12000年頃から始まったとされる縄文時代、どのような時代だったのかということだが、実は縄文時代について的確に述べた記事が存在する。それは、世界戦略情報誌『みち』に載った天童(竺丸)編集長の以下の記事である。同記事を読めば、縄文時代とはどのような時代だったのか、手に取るように分かるだけではなく、この日本列島で生を享けたことに、心の奥底で喜びを感じるはずだ。
定住革命の先駆者となった日本 1
定住革命の先駆者となった日本 2

殊に、「定住革命の先駆者となった日本 1」の以下の記述に注目していただきたい。

この日本列島が、世界に例のない聖地だったからである、と。だからこそ、他に例がないほどに恵まれた環境が形成されたのだ。そうでも考えなければ、この恵まれすぎたわが列島の豊かさは説明できない。


この引用だけではピンと来ないかもしれないので、拙稿「乳酸菌と日本人」からも引用しておこう。亀さんは以下のように書いた。

日本列島という地は人類の至宝なのだ。



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われわれの住む日本列島とは、どのような列島なのかについて、さらに知りたいと思った読者は、この機会に『環境と文明の世界史』に目を通していただければと思う。

それから、「定住革命の先駆者となった日本 1」にあった以下の記述…

三内丸山は世界に先駆けた定住革命以来すでに一万年もの長い時間をかけてじっくりと用意されたもの


その通りなのだが、われわれは縄文時代というと、三内丸山を例に挙げるまでもなく、どうも北日本を連想しがちである。しかし、実は南日本でも定住革命が静かに進行していたのだ。そのあたりの詳細は前拙稿で引用した「(11)南方からやって来た縄文人」に目を通していただきたい。 以下の記述に目が留まるはずだ。

日本列島の北方からやってきた人、南方からやってきた人がそれぞれ日本の各地に暮らし、縄文人は均質などではない…

このように、縄文人の興した定住革命は何も北日本に限らず、南日本を含む日本列島全体にわたって起きたのである。


それから、拙稿「北満州と日本列島 03」で、亀さんは栗本慎一郎氏のDNA観を紹介し、必ずしもDNA分析は万能ではないと書いているが、念のため、以下に再掲しておこう。

最近の考古学や歴史学は、染色体やDNAを盲信しすぎてはいないだろうか。再掲になるが、亀さんは拙稿「北満州と日本列島 02」で、栗本慎一郎氏のDNA観を以下のように紹介している。

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


「染色体やDNAを盲信しすぎ」という亀さんの記述は、読者に誤解を与えかねない書き方だったと反省している。そこで、次ように言い換えてみよう。つまり、時と場合によっては、DNA分析は目から鱗の事実を浮き彫りにしてくれる、と。その好例として、以下の記事を紹介しておきたい。
Y染色体DNA系統O3の跳梁跋扈を阻止せよ

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ともあれ、亀さんの言いたかったことは、DNA分析結果を基に書かれた諸記事を目にしたら、牽強付会に過ぎないかどうか、じっくりと見極めることが大切であるということなのである。

最後に、日本語の原型ができたのは、縄文時代だったと亀さんは確信しているが、そのあたりについて的確に述べた天童さんの記事、「わが産土は吉備である」(『みち』平成30年9月1日号)があるので、少々長くなるものの、重要なので以下に引用しておこう。

●もともと日本には単一民族が住んでいたのでもなく、単一言語が話されていたのでもない。有史以来の日本列島には系統を異にするいくつかの民族が地域ごとに纏まって住んでいた。言葉もそれぞれに異なっていた。

ところが縄文時代一万二〇〇〇年の間に、何度も大災害に見舞われることにより、かつまた列島全体および沖縄諸島はもちろんのこと黄海を囲む朝鮮半島南部から山東半島までをも網羅する広範な交易ネットワークに結ばれることにより次第に一体化を強めていき、今からほぼ七〇〇〇年前の縄文中期には日本語の核となる「日本語祖語」が形成されてきた。

その日本語祖語は北方言語と南方言語が渾然一体化を遂げた奇跡の言語であった。構文(シンタックス)は言葉そのものを活用・屈折させニュアンスを表現する印欧語系統の屈折語ではなく、助辞を補うことによって言葉と言葉の関係を明確にするという膠着語の系統を引き、北方ツングース語と密接な関係にある。そして語彙には南島祖語(原始アウストロネシア語)に系統を曳く夥しい言葉があって、濃やかな感情表現には接頭辞強調による段階変化(例えば、あか、まっか、まっかっか)をそのまま採用している。

乱暴に言えば、北方からマンモスを追って日本列島にやって来た狩人たちが気候変動によって大型動物が絶滅して食うに困っていたところを、黒潮に乗って台湾からアリョーシャン列島まで自在に行き来していた生活力旺盛な黒潮の民に助けられ、一緒に仲良く暮らすことになった。……まぁー大雑把にはこんな具合だったのではなかろうか。

異なる言語が一つになるなどということは世界の言語に例がなく、まさに奇跡としか言いようがない。例えば、「~する」という言葉。この言葉は何にでもくっついて、その言葉を動詞化する。読書+する、工作+する、睡眠+する、などの言葉に違和感を感じる人はもはやあるまい。ところが、映画+する、ポケモン+する、などはまだ多少変な感じが伴うが、意味が通じないわけではない。たとえ外国語であっても、「~する」はお構いなしにくっついて、日本語化してしまう。プレー+する、サポート+する……。

何でも受け容れて自家薬篭中のものにする、こんなに包容力に富んだ自由闊達の、滅茶苦茶な言語は世界中にも日本語の外にはない。もちろんそれは、一朝一夕に成し遂げられた奇跡ではない。系統の異なる言葉と言葉を相通じるようにするという創意と工夫が途方もない時間を掛けて不断に行なわれた結果である。それを促したのが、否応なしに襲ってくる自然の大災害だった。

時には、鬼界カルデラ大噴火により九州および西日本の人々が絶滅するような危機に見舞われることもあった。そして、生き残るための対立や抗争があったかも知れない。それとは反対に、生き残った者たちの間で、助け合い協働せざるを得ない状況が生まれたかも知れない。

いずれにせよ、日本列島においては、時として大災害に見舞われることはあるものの、四季折々に齎される豊かな自然の恵み……山の幸と海の幸とが、大量殺戮による異民族絶滅を伴う略奪経済から人々を免れさせてくれたのである。

安定した四季の恵みは列島の各地で定住生活を可能にして、三内丸山で栗を栽培していたように、やがて食糧の管理栽培をも手がけるようになると、より大きな政治単位を目指してムラからクニへ統合の動きが加速される。紀元前一〇〇〇年ころの縄文晩期には陸稲が集団管理栽培されていたし、やがて九州北部と備前平野においては水稲栽培へと発展する。

朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説は、半島在日勢力に加担する学者やNHKなどがいくら垂れ流しに必死になっても、もはや事実の前に破綻してしまった。


次稿では弥生時代について筆を進めるが、これは上の記事の最後にある、「朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説」を中心テーマに取り上げる予定だ。

【グリコのおまけ】
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『環境と文明の世界史』p.6


北満州と日本列島 03
前稿「北満州と日本列島 02」で旧石器時代を取り上げたので、今回は縄文時代を中心に筆を進めるつもりでいたが、ここ数日にわたり加筆したいテーマが出てきたので、前稿に引き続き旧石器時代について言及させていただきたい。

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Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート

最初に、上掲の図は前稿で紹介した「日本人はどこから来たのか」、「(8)日本に到達した現生人類」に掲載されている図である。

しかし、サーッと眺めただけでも、何だかなぁという箇所が随分と目についたのだし、なかでも明らかに間違っていると思った箇所に、緑色や赤色の丸印を入れておいた。

最初に緑色の丸印。矢印を確認するに、アフリカを出た現生人類がアラビア半島の南端を経由して、今のイランに到着、そこを起点にして、ヨーロッパに向かった現生人類がコーカソイド(白人人種)に、シベリアに向かった現生人類がモンゴロイド(蒙古人種)に、オーストラリアに向かった現生人類がオーストラロイド(オーストラリア原住民)になったということを、たぶん上の図は言いたいのだろう。たとえば、赤丸印Bの矢印、すなわちシベリアに向かった現生人類は、後にモンゴル人種になったという具合にである。

ちなみに、上の図はY染色体分析に基づいて推定されたものだが、DNA分析に基づいた推定も、ウィキペディアの「モンゴロイド」に記載されている。

近年のDNA分析によれば、モンゴロイドはアフリカからアラビア半島を経由した出アフリカ集団のうち、イラン付近からアルタイ山脈周辺へ北ルートで移住した人々が、周囲の自然環境により他の「人種」との交流を絶たれ、その結果独自の遺伝的変異及び環境適応を経た結果誕生した「人種」であるとされる。その原初の居住地は、ヒマラヤ山脈及びアラカン山脈よりも東及び北側である。


ウィキペディアも出アフリカはアラビア半島経由としているが、そうではなくてシナイ半島経由だという説(現生人類の出アフリカ経路、「北ルート」が有力か)もあり、亀さんは大阪の〝公演〟ではシナイ半島経由(下図)を採っている。このあたりについては、今後の研究成果を待ちたい。

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それにしても、現生人類がアフリカを出たのはシナイ半島経由、あるいはアラビア半島経由のいずれだったにせよ(あるいは両方)、最近の考古学や歴史学は、染色体やDNAを盲信しすぎてはいないだろうか。再掲になるが、亀さんは拙稿「北満州と日本列島 02」で、栗本慎一郎氏のDNA観を以下のように紹介している。

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


これは、染色体やゲノムについても同様なことが言えるはずだ。

ところで、「Y染色体を用いて推定される現生人類(新人)の拡散ルート」の図に書き加えた赤丸印A、ヨーロッパに向かったのがモンゴロイド(茶色の矢印)としているが、コーカサス人種の原郷がシベリアのコーカサス地方なので、矢印は桃色(コーカサス人種)になるはずである。このあたりの根拠として、やはり栗本氏の主張を引用しておこう。

ゲルマン人は10万年ほど前、コーカサス地方において突然変異により集団的に白子化した遊牧民であるから、当然、他民族より色は白く日照に対して弱かったはずである。白人たちが自らをコーカサス人種と呼ぶのは人類学が発達する前からのことだ。ということは民族の「記憶」があったからであろう。
『栗本慎一郎の全世界史』p.99~100


また、以下のようなことも栗本氏は書いている。

紀元前のチュルク人は、その一部だったキルギス人も含めてコーカソイド(コーカサス人種)であった可能性が高い。言語も今は死滅してしまったインド・ヨーロッパ系統の言語がいくつもあったはずだが、その代表たるトカラ語を含めて基本がすべて未解明である。

シベリアからは南に外れた楼蘭で見つかったミイラ(楼蘭の美女)は明らかにコーカサス人種の特徴を持つし、楼蘭の本名クロライナも印欧語によるものと考えられている。だが楼蘭はほぼ間違いなくキォンヌ帝国の一角(構成の一王国)にあったものである。

『栗本慎一郎の全世界史』p.66


ここで、栗本氏は〝印欧語〟と書いているが、印欧語あるいは印欧語族という言葉には注意が必要だ。天童竺丸さんが「ツラン魂は健在なり 2」で、以下のような卓見を展開している。

いわゆる「アーリア人=印欧語族」なるものも、学問的な成果というより、一五世紀より世界的植民地支配に乗り出した西欧の勢力、とくに英国の東インド会社を拠点にした寡頭勢力がその世界支配の理論的正統性を固めるために編み出した思想謀略(イデオロギー)なのである。

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続いて赤丸印Cについてだが、日本列島に流入した現生人類は、朝鮮半島経由のみとしか、図からは読み取れない。しかし、「日本人はどこから来たのか」の「(10)北方からやって来た縄文人」に掲示されている真上の図からも分かるように、亀さんも同様に日本列島に渡ってきた人々の集団は、主に三ルートあったと思う。また、「(13)大陸から渡ってきた人々」の冒頭でも以下のように述べており、基本的に亀さんも同意見だ。

・大陸から渡ってきたルート ①旧石器時代にシベリア経由で到達した②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した③弥生時代に同じく華北・朝鮮半島経由で到達した④南方から沖縄経由で到達した。


当然、旧石器時代に華北・朝鮮半島経由のルートで、日本列島に渡ってきた現生人類もいたことは十分にあり得ることだし、しかも三つのルートのなかでは最も楽なルートだったはずだ。なを、東シナ海というルートの可能性は、ほぼゼロだ。第一、最澄や空海の時代ですら、多くの船が難破して結局中国大陸に到着できずに海の藻屑となっており、その点から東シナ海の航海はほぼ不可能だったと思う。

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それから、「「日本人はどこから来たのか」の「(11)南方からやって来た縄文人」では、スンダランドについて取り上げているが、亀さんも拙稿「沖ノ島と宗像大社」で取り上げたことがあり、一読いただければと思う。

次に冒頭の図に示した赤丸印Dと赤丸印Eだが、ベーリング海峡を通ってインディアンが北アメリカに渡り、やがて南アメリカに広がったと図から読み取れるのだが、大阪の〝公演〟で示した図で亀さんはベーリング海峡に×印を入れており、また「(13)大陸から渡ってきた人々」にも以下のような記載が見られる。

アメリカに到達したモンゴロイドはなぜか寒冷地に適した新モンゴロイドに変容しておらず、旧来の古モンゴロイドと見られています。


それから、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」では飯山一郎さんの論文を紹介、縄文人が太平洋を横断した論拠を示した。

”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!
文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと


止めとして、ウィルスの観点でベーリング海峡説を否定した、論文や記事を以下に紹介しておこう。

ウィルスから日本人の起源を探る
謎の国々は実在したか?(7) ~ ウイルスと寄生虫は語る


特に、後者の以下の記述は興味深い。

普通の解釈であれば、「南米先住民は、古代に東アジアからベーリング海を経て、北アメリカへ行き、そこからさらに南下したきたのだ。」となります。

しかし、もしそうであるなら、なぜ中米のカリブ海沿岸やパナマの人たち、また同じ南米先住民でも、なぜ、太平洋側であるアンデス地域だけ集中し、他のカリブ海沿岸、アマゾン熱帯雨林、パタゴニアなどの先住民は感染していないのか、不自然です。


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以上、現時点において通説とされている学説には、問題点や間違いが多いのである。そうした現状に対して、栗本氏は自著『栗本慎一郎の全世界史』で、固定概念に囚われている人たち、特に歴史学者らを罵倒しているのだが、それに比べれば、まだまだ亀さんなんか心優しい方だワイ。

本当に疑問に思うなら、そして必要なら自分で調べたまえ。調べもせずにただ疑問に思うような人はただ読むのをやめなさい。そういう人はこの本を読む資格も、歴史の真実を語る資格もないのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.212


次稿では、いよいよ縄文時代に筆を進めよう。

北満州と日本列島 02
前稿「北満州と日本列島 01」では、「遼河文明」というテーマを取り上げたが、今回はもう一つのテーマである、「日本列島に流れ込んできた人々」について取り上げてみよう。

ここで、人々、すなわち現生人類が最初に日本列島に来て定住した、4~3万年前から古墳時代に入るあたりまでは、数万年というタイムスパンがあるので、取り敢えずは以下の年代区分に沿って筆を進めたい。

・旧石器時代
・縄文時代
・弥生時代


なを、古墳時代以降も日本列島への人の流入が続いていたことに変わりはない。ただ、古墳時代の応神天皇(在位期間270年1月1日 - 312年2月15日)と、飛鳥時代の天武天皇(在位期間673年3月20日 - 686年10月1日)の御代は、飯山史観の要諦でもあることから、当時の日本列島への人の流入も含め、多岐にわたって筆を進めるつもりなので、古墳時代以降における人の日本列島への流入は割愛する。

■旧石器時代(~紀元前12000年頃)
日本列島に渡ってきた現生人類が定住するようになったのは、4~3万年前と亀さんは前稿で書いたが、ウィキペディアによれば、岩手県遠野市宮守町の金取遺跡で9〜8万年前の人の足跡の他、石器が発掘されたとある。どうやら、最初に〝人々〟が日本列島にやって来たのは、さらに時間を遡る必要があるようだ。だが、これらの〝人々〟は本当に現生人類だったのだろうか?

ここで、「日本人はどこから来たのか」 という、面白そうなサイトを発見した。そして、亀さんが注目したのは同サイトの(9)旧石器時代の日本にあった、以下の結語である。

私個人的には様々な状況をあわせると、ホモ・エレクトスなどの「原人」はアジアに拡散したが、日本列島にまでは到達できなかった。しかし11万年前よりも以前のかなり古い時代からデニソワ人などの「旧人」は日本に到達していて、生活の痕跡を残した。さらに4万年前頃にはもう舟に乗った現生人類、「新人」が海を渡って日本列島に到達し始めたのだろうと考えています。


同サイトは、「人類が地球外からやってきた」、あるいはシッチン説といった、腰が引けるような記事が目に付くものの、なるほどと思わせる記事も多く、上掲の結語に限っては、ほぼ正しいと亀さんは思う。また、現生人類がアフリカを出たのが10万年前、そして日本列島に到達したのが4万年前という点でも一致している。今後の発掘調査でより正確な時期が判明するとは思うが、大筋は変わらないだろう。

ところで、上記ページにあった指摘で見逃せない記述が幾つかあったので、主なものを以下に列記しておこう。

近年の研究で氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り、大陸と日本列島(北海道は除く)は陸続きにならなかったことが判明した。
【亀さん】数年前になるが、NHKスペシャルで「日本人 はるかな旅」というシリーズを放送していたことがある。中でも、シベリアからマンモスハンターが、陸続きの北海道まで進出してきたシーンが今でも記憶に残っている。では、彼らは北海道から本州へはどのように渡ったのか…、あるいは本州に渡ることはできなかったのか…、このあたりについては、いずれ解明されることを期待したい。

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舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島で産出されたとみられる黒曜石が、関東地方の後期旧石器時代3万8千年前の遺跡で発見されています。このことから日本人の祖先はこの頃既に意図的な航海が可能だった、つまり舟に乗って日本列島にやってくることが可能だった。
【亀さん】おそらくは丸木舟を使用していたのではないだろうか。これは、人類進化学者の海部陽介氏が現在進めている、「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」を通じて、個人的に思ったことである。
【完結編】国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」

2008年になってロシア・モンゴル・中国の国境に近いデニソワ洞窟で人骨のかけらや歯が見つかります。2010年DNAの解析によりこれは未知の人類の化石と判明します。
【亀さん】興味深い記述だと思うし、これなら金取遺跡で発見されたという、9~8万年前の足跡も辻褄が合う。参考までに、上掲のサイトにあったイラストと、亀さんが「日本人のDNA」で取り上げたイラストを以下に並べておこう。

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(9)旧石器時代の日本

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日本人のDNA


ここで注意しなければならないのは、日本の考古学者だ。以下のウェブ記事を参照されたい。
『神の手』に罪は無かった(1)

上掲の記事を書いたのは、あの『神々の指紋』を和訳した大地舜氏で、「現代文明の発祥は6000年前のメソポタミアの古代シュメールだと私たちは信じている」と書いているあたりで、亀さん的にはもうアウトなのだが、そのあたりには目を瞑るとして、考古学者に限らず、他の日本の学会や会社といった組織の硬直化は、しばしば見受けられるパターンである。それにしても、旧石器考古学の学者らを滅多斬りしているあたり、実に小気味よいし、日本の考古学者の実態は大体において大地氏の言う通りなのだろう。

しかし、ここで改めて栗本慎一郎氏の主張を紹介しないわけにはいかない。それは、「DNA」と「石器」についてだ。最初にDNAから…

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


確かに、栗本氏が主張しているようにDNAは万能ではない。第一、現生人類が民族に分かれるようになってから、まだ数万年という僅かな時間しか経っていないことを思えば、今後もDNAが引き合いに出されていたら注意するべきだろう。

次に石器。前稿で文明と文化についての栗本氏の定義を引用したが、その中に重要な指摘がある(下線)。

われわれが文明と呼んでいるのは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられるものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

その総合や統合、時には統治のあり方は文明の性格の重要な要素であって、われわれはしばしば建物や美術・工芸にばかり目が行きがちになることを抑えねばならない

『栗本慎一郎の全世界史』p.20


つまり、あまりにも石器だの土器だのといったモノだけに拘っていると、文明や文化の大筋、あるいは本質と言い換えてもよいと思うが、見逃す恐れがある。このあたり、栗本氏の謂う「生命論」を常に頭の片隅に置いておきたいものだ。
栗本慎一郎の生命論

以上の二点を念頭に、今後の発掘調査に注目していきたいと思う。なを、日本列島に現生人類が渡ってきた4~3万年前だが、この年代は、シベリアの現生人類が多くの民族に分かれてツランが誕生する前であり、したがって最初に日本列島にやってきた人たちも、民族に分かれる前の人たちだろう。

蛇足ながら、大阪での〝公演〟でも発表したように、シベリアから日本列島に渡ってきた現生人類に前後して、南方から日本列島に渡ってきた現生人類もいたことを忘れるべきではないと思う。

次稿では「北満州と日本列島 03」として、縄文時代の人の流入について取り上げる予定だ。

【補足】
現在の世界人口は76億人だが、数万年前は一握りの人類しかいなかったし、もう少しで滅亡という危機にも人類は直面した。

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今日世界人口70億人 生き残る人類と死ぬ人類に分かれていく

滅亡の淵に立たされた人類については、以下のサイトが参考になる。
人類は7万年前に絶滅寸前の状態に追い込まれれていた

北満州と日本列島 01
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北満州と日本列島

アフリカ大陸で誕生した人類がユーラシア大陸に進出し、人類初の文明(ミヌシンスク文明)がシベリアの地で誕生したという、ラフスケッチを前稿(ミヌシンスク文明 02 )で一応描き終えたので、今回から視点を移して、東アジア、すなわち北満州(上図右上の桃色部位)と日本列島に焦点を当ててみたい。

北満州と日本列島についてだが、亀さんが思索を巡らせたテーマは主に二つあった。

一つは、満州の一部である北満州(外満州)の地で誕生した、〝遼河文明〟についてである。この〝遼河文明〟は〝黄河文明〟および〝長江文明〟と並び立つ、中国の〝三大文明〟の一つとして世間では捉えているようだ。その〝遼河文明〟はウラル系民族が興したものであり、その後にツングース系民族が北満州に進出してウラル系民族にとって代わり、さらにその一部が日本列島に渡航したということになる。換言すれば、ツングース系民族こそが我々日本人の祖先というわけだ。

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文明の出発点、南シベリア(『栗本慎一郎の全世界史』p.76)

さて、上掲の「文明の出発点、南シベリア」を見ていただきたい。栗本氏は人類初の文明をミヌシンスク文明としているのだが、このミヌシンスク文明は前稿の天童竺丸さんの論文「ミヌシンスク文明再論」にもある通り、時間を遡っても紀元前3500年のアファナシェポ文明(紀前3500~2000年)がせいぜいである。一方、〝遼河文明〟が誕生したのは、ナント、紀元前6200年前に遡る。

ここで、上掲の「文明の出発点、南シベリア」に描いた、紫色の円で囲んだ箇所に注目すれば、北満州から南シベリアへと矢印が向かっている(逆ではない)のにお気づきと思う。つまり、栗本氏は明らかに、北満州で誕生した諸文化の方が古いことを知っているのである。それなのに、栗本氏は〝遼河文明〟を最古の〝文明〟と呼んでいない…。何故だろうか?

これは、栗本氏の考える文明と文化の定義にある。少々長文になるものの、以下を一読されたい。

われわれが文明と呼んでいるのは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられるものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

その総合や統合、時には統治のあり方は文明の性格の重要な要素であって、われわれはしばしば建物や美術・工芸にばかり目が行きがちになることを抑えねばならない。宗教と交易のあり方は普通、非常に密接なものであって、そのことは王や皇帝の統治の基本にも大きくかかわるものである。私たちはこの前提(宗教と交易のありかたを重視する)を持ちながら、はじめてローマ文明であるとか中国文明、エジプト文明、メソポタミア文明というものを考えることが出来る。だから、交易を考える経済人類学者は歴史の記述に強い関心を持ってきたのだ。

文明とは時間的にも地域的にもある程度の限定があるのだ。たとえば、ローマ文明の概念や成果の中に中世や近代のイタリア文化は含めない。もちろん、現代イタリアにローマ文明の影響があるのは当然だがそれは別問題だ。

また、日本文明という言葉が使われないのは、文明と言うには日本文化の根付く地域が狭すぎるし、日本文化がある一定の期間にだけ特別の性格を持ったということが認められないからである。つまり、地域的にはまとまりが小さすぎ、かつ時間的にまとまりがなさすぎるから文明とは言わない。

一方、文化のほうは、むしろ広がりよりもまとまりや深まりを持つもので、かつ時間的には文明よりも長く、時には永遠に続くものだ。日本文化という場合、あきらかにそうであろう。その場合、もちろん、重要な要素は変化変容することもあるが、いくつかの重要な要素は不変であることが多い。だから、日本文化は世界的にも顕著な根強いものとして存在するのだ。

『ゆがめられた地球文明の歴史』p.20~21


つまり、〝遼河文明〟は文明として、栗本氏の定義に当てはまらないということなのだ。そのあたりを理解するキーワードは、下線で示した「経済人類学」である。

ここで、〝遼河文明〟の中で誕生した諸文化を整理した、サイトがあるので以下に紹介しておこう。同サイトは中国文明、すなわち〝黄河文明〟、〝長江文明〟、〝遼河文明〟で誕生した諸文化を紹介しているサイトなのだが、同ページを下にスクロールしていけば、四分の三あたりに〝遼河文明〟で発生した諸文化の解説に行き着く。
東アジアの古代史

同サイトも、〝遼河文明〟だの、倭国=日本だのと書いているwww。それはともかく、少なくとも亀さんが確認した限り、栗本氏のように経済人類学に立脚した視座で、文明と文化を捉えているサイトに今までに出会ったことがない。この経済人類学については、栗本氏の経済人類学関連の書籍、あるいは栗本氏が私淑していたカール・ポランニーの一連の著作、例えば『経済と文明』あたりがヒントになるが、本稿では割愛する。

次に、北満州と日本列島について、亀さんが思索を巡らせたもう一つのテーマは、日本列島に関するもので、4~3万年前に確実に存在していた日本列島の旧石器時代の人々、そして1万6千年前に縄文時代に突入し、弥生時代を経て古墳時代に入るあたりまで、日本列島に流れ込んできた人々についてである。このあたりは、長くなりそうなので次稿以降に回したい。

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アムール川

ミヌシンスク文明 02
前稿「ミヌシンスク文明 01」において、〝文明発祥の地はシベリア〟と述べたが、それを踏まえて本稿を続けよう。『栗本慎一郎の全世界史』の第三章、「人類文化の起源地・ユーラシア」には、前稿では触れなかった他の重要なポイントが、実はもう一つ書かれている。それは、同章の『■「移動」と「金属」が根本特徴』で言及している、である。

 要するに、われわれが重要視すべきことは二つ、移動と金属だ。

 この二つが南シベリア文明の根本特徴として存在じていた。

 南シベリアの草原と雪の中における文明は、船や馬や馬車での移動と金属の積極利用の姿勢を人類史に持ち込むものだったのである。

『栗本慎一郎の全世界史』p.79~80


ここで、栗本氏の謂う「金属」とは鉄を指しているのだが、今回はこの鉄について少し言及しておきたい。なぜなら、前稿「ミヌシンスク文明 01」で言及した以下の記述と深く関連してくるからだ。

茅葺
シャーマニズム


最初に、世界戦略情報誌『みち』(平成27年4月15日)に掲載された、天童竺丸さんの「古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった」を、本稿の【補足1】に転載したので目を通していただきたい。特に、赤線を引いた二ヶ所は重要である。最初の赤線「神事を以て鉄の生成を神に乞い願った」は、鉄とシャーマニズムの深い結びつきを示すのだし、次の赤線『「葦刈製鉄」と「稲作農耕」という両者が渾然合体したのがわが日本』は、鉄を生成する葦原、すなわち葦刈製鉄について言及しているからだ。

斯様に、葦と鉄との結びつきは我々が想像する以上に深かった。豊葦原瑞穂国という言葉は祖国日本を指しているが、亀さんは瑞穂は稲穂であることは分かっていたものの、何故に豊〝葦〟原なのか今まで気になっていた。それが、「古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった」を読み、漸く腑に落ちたという次第である。そして、栗本氏も鉄に注目していたことは、『■「移動」と「金属」が根本特徴』と題した小節からも窺い知ることができるのだ。

一方、鉄ひいてはそれ以上に重要である卜(うらない)の対象が、戦略あるいは外交であり、国家の命運を左右する判断を下さねばならぬ時であった。そして、その卜が今日の日本にも引き継がれていることを思い出すべきで、そのあたりは飯山一郎さんも以下の記事で述べている。
平成天皇ご即位の際にも亀卜が行われた…

古代人は現代人よりも遥かに深く、自然というものを身を以て知っていた。そうした古代の人々が自然から受け取る情報のアンテナは、現代人のそれよりも格段に鋭く優れていたのだ。そうした自然の情報を受信する古代人のアンテナは、日々自然と接していくなかで磨き上げたアンテナだったとも言える。一方で、現代に生きる我々のそれはひどく錆びついている。それは、科学が「科(とが)の学問」であることを考えれば、我々のアンテナが錆びついてしまったのも無理もないと言えよう。

世界戦略情報誌『みち』の執筆者と読者を対象に、池袋で毎月一回行われている「まほろば会」、現在は安西正鷹さんが中心となって講話を進めているが、毎回まほろば会の後に安西ファイルを送ってくれるのは大変有難い。その安西さんが先月行われたまほろば会で、配布したという安西ファイルを数日前に送ってくれた。テーマは「仮想通貨からお金と経済のあり方を再考する(後編)」で、仮想通貨リップルについて鋭く切り込んだ、実に優れた論文だったので、思わず目を見張ったものである。この貴重な論文はいずれ『みち』に掲載されると思うので詳細は割愛するが、実は論文の結末に、リップルの考察以上に重要な〝安西メッセージ〟が書かれていたので、以下に引用しておこう(下線は亀さん)。


・これは空疎な精神論ではない。物質世界と精神世界に跨る半霊半物質的な、新しいジャンルの科学理論に基づく考えである。すなわち、来るべき新しい文明の精神哲学ともいうべき量子力学に基づく真理なのだ。

仮想通貨からお金と経済のあり方を再考する(後編)


量子力学の台頭で従来の科学が崩壊しつつあり、次の文明原理に人類は進みつつあるのだが、それは、精神世界の古代人から、物質世界の現代人を経て、精神世界と物質世界が融合した世界へ向かう過渡期にあるとも言い換えることができ、量子力学をきっかけに世界の精神構造が変わりつつあることを、安西さんは述べている。ともあれ、古代人の持っていたアンテナ、自然に対する観察眼が如何に凄かったか、そのあたりについては以下の記事からも容易に想像できよう。
古代の「科学」


記事にもあるように、4~5万年前の我々の祖先が持っていたと思われる、研ぎ澄まされた自然観察眼、それから得るインスピレーションとは、どのようなものだったのか、一度は思索を巡らせてみる必要がありそうだ。それが、シベリアの大地に生きた、そして今でも生きているツランの心に迫る、第一歩だ。

なを、別号の同誌で取り上げていた、土師氏についての言及も重要である。たとえば、平成27年8月1日号の『みち』に掲載された、「土師氏・土師部による古墳築造と国作り」(平成27年07月01日)と題する記事には、以下のような記述がある。

土師氏・土師部が陶工・鉄工集団であると同時に、巫覡・巫女を輩出するシャーマン集団だった


その土師氏については、実に興味深い記事が多いのだが、まだ公開されていないのは残念である。

みち426号(平成27年05月15日) 大和は一大製鉄地帯だった
みち425号(平成27年05月01日) 土師氏は製鉄神兵頭の部民だった
みち424号(平成27年04月15日) 古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった
みち423号(平成27年04月01日) 葦刈製鉄はホントにあったのか?
みち422号(平成27年03月15日) 「鈴生」と地名「三碓」の語源

…中略…
みち431号(平成27年08月01日) 土師氏・土師部による古墳築造と国作り
みち430号(平成27年07月15日) 鍛治師とシャーマンと陶工とは血の兄弟だった
みち429号(平成27年07月01日) 土師氏とは渡りの陶工鉄工集団だった

巻頭言


加えて、飯山史観を編集している身として目を引いたのが、8月1日号の表題にある〝古墳築造〟であり、前方後円墳について今の日本で定説となっている大和発生説の他、定説に異を唱える加古樹一氏の説を同記事では紹介している。そしてわかることは、加古氏は古墳築墓はニギハヤヒ系の土師集団と考えていたということだ。だが、前後して飯山一郎さんが。古墳の原型は九州にありという、南九州古墳誕生説を発表しており、このあたりは応神天皇の御代を編集するにあたって、改めて見直し作業を行う予定である。

ともあれ、ミヌシンスク文明について書きたいことは他にも多々あるものの、先(飯山史観の編集)を急ぐため、ミヌシンスク文明についてはこのあたりで切り上げ、次稿では北満州と日本列島について筆を進めていく予定である。

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ゲルマン人も出自はシベリアの遊牧民族!

【補足1】
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古代祭祀の中核は鉄の生成を願うことだった
世界戦略情報誌『みち』(平成27年4月15号)

【補足2】
一口にミヌシンスク文明と言っても、それは三期あるいは五期に分けられると、平成28年10月1日号の世界戦略情報誌『みち』で天童竺丸編集長が述べている。ご参考までに、該当の記事を以下にアップしておこう。

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ミヌシンスク文明 01
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先週の日曜日の11月25日、TBSが毎週日曜日に放送している「世界遺産」が、ホルトバージ国立公園を取り上げていたので、大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」から戻った後、録画しておいた同番組を鑑賞してみた。そして、番組を見ながら脳裏に浮かんだのが、送る会の〝公演〟でも取り上げたツランである。過日の拙稿「ハンガリーと日本」で、亀さんはハンガリーと日本はツラン兄弟国と書いたが、ホルトバージ国立公園で牧畜の生活を営む人々も、シベリアからやってきた遊牧民の末裔であり、どことなく彼らを見て郷愁を覚えたものだ。

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太陽パネルを設置した牧童の家

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茅葺屋根の畜舎(羊)

番組の途中、藁葺屋根の人家や畜舎が映し出された時、思わず亀さんの父方の田舎を思い出したのだし、また、無限に広がっているのではと錯覚しそうな草原は、今年の夏に再訪したアルゼンチンのパンパス(乾いた広大な温帯草原)を連想させるに充分であった。

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大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」において、亀さんが公演を行った時に使用したスライドで説明したように、人類文明発祥の地はシベリアであり、そこから流れてきたツランの一部が現在のハンガリー人の遠祖で、ハンガリー人同様にツランを遠祖に持つ日本人が、ハンガリー人と物の見方と考え方に共通点が多いのも頷けるというものだ。そのシベリアの地で誕生したツランの骨幹を成すものこそ、シャーマニズム、そして二体制(国体と政体)に他ならないのだが、そのあたりは拙稿「天頂に生きる」でも言及したので割愛したい。

さて、シベリアは人類文明発祥の地と書いたが、その人類文明こそが栗本慎一郎氏の謂うミヌシンスク文明なのである。栗本氏はミヌシンスク文明について、どのように書いているか…。少々長くなるが、重要なので以下に引用しておこう。

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『栗本慎一郎の全世界史』p.67

■人類文化の出発地点、ミヌシンスク文明
 北京原人や化石人類ではなく現生人類は、北アフリカからメソポタミアヘ北上した後、コーカサスを通ってさらに北上、ついで西アジアの草原を経て南シベリアに至った。

 インドもメソポタミアと直接繋がっていたわけではなく、北方のチュー川平原や南シベリアと繋がって発展した。インドはその後に、東ペルシアやメソポタミアと相互干渉することになるというわけだ。

 要するに、西アジア草原ルートから南へ下りることがあり、それがインド文明やペルシアになる。このルートと南シベリアが中心であって、そこから分岐して開花したものもあるという点では中国も同じである。古代中国の青銅器文明は」南シベリア経由抜きでは考えられない。

 つまり人類文化の出発地点は明らかに、オビ川やエニセイ川上流の南シベリアの盆地である。

 その地域の紀元前の文明をミヌシンスク文明と言う。

 ミヌシンスクとは現ロシア・シベリアのクラスノヤルスク地方の南、ハカス共和国の東でエニセイ川上流東岸にある盆地名だ。そこを中心に多数の亜新石器時代から青銅器時代の遺跡がある。

 そして実は西はエカテリンプルク東から、東はバイカル湖東南まで広がる多数の文化群が連なっているうちの一つの地域だ。

 ミヌシンスタ以外にも、多数の跡が残っている。単に研究が不足しているだけだ。

 ここを扱うと、紀元後8世紀以降の西アジアの動きがロシアだけでなくイスラム世界東部の歴史を解明することになるのは当然だったが、それでは彼らが後にユーラシアと名づけた地域の重要性を特に確認することになってしまう。それだとひいては東西交流の意味だけでなくアジアの意味の見直しも行わなくてはならないことになる。それが彼らには嫌だったのだ。

 また、ひいてはの話ではあるが、それではメソポタミア文明は、原点でなくある種の「中興の祖」とだけになってしまう。

 メソポタミア文明だけを始原的なものとみなし、その他を雑物としてしか見たくないゲルマン人やユダヤ人の学者は、自分たち自身が深くこの南シベリア文明にかかわっていたと→部では気づきながらも、そこを無視することを選んできた。

 それが許されてしまった理由のひとつには、ミヌシンスク文明の研究が散発的で時には杜撰だったことがある。

 遺跡は少なくとも紀元前4500年のものから多数発見されているが、相互の関係についての研究はきわめていい加減である。

 遺跡は旧ソ連時代から旧チエルタ系の共和国に分散していた。またそれら共和国をまたがるものも多数あった。東のバイカル湖を越した地方(ザバイカル地方)はすぐにモンゴルだったし、アムール川源流域はすぐに北満州だ(正確には北満州がアムール源流と言うべきだが)。

 アムール川源流域とエニセイ川源流域をまとめたあたりの草原からは、後にキォンヌ皇帝家やチンギスカンが出ている。

 実はオホーツク海に流入する大河アムールと北極海に流入する大河エニセイは、源流域ではごくごく近く、相互の距離200キロ未満の位置にある。その地は現在、モンゴルの領域内にあるが、隣接して現中国の東北地方が広がっているところだ。

 東から見ると、アムール川源流域を南端とし、アムール川とエニセイ川やオビ川流城から西へウラル山脈東部のエカテリンブルク郊外あたりとそのすべての北側のタイガ(凍土地帯)をシベリアと呼ぶわけだが、この帯状の南部部分には多数のミヌシンスク文明遺跡が散在している。

 発掘研究が進めば「密集」ということになってもおかしくないくらいの密度だ。

 でも、その研究は旧ソ連時代以来、かなり大雑把でいい加減な(政治的な?)まとめ方がされていたわけである。


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『栗本慎一郎の全世界史』p.74~77


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エニセイ川・オビ川・アムール川

大分長くなってしまったが、要は、亀さんが先週日曜日の公演で示した上掲のスライドのように、人類の文明はシベリアで始まったということを頭に入れていただいた上で、ミヌシンスク文明のパート・ツーについて次稿で書き連ねていこう。

【グリコのおまけ】
NHKで「世界ふれあい街歩き」という旅番組をやっている。これは、レポーターと現地の普通の人たちとの交流を撮影した、どうっていうことはない番組なのだが、それだけに、番組を見ていると思わぬ収穫も時々ある。以下は最近放送された「アルマトイ カザフスタン」編…。

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アルトマイにある〝ラクダの店〟…、やはり、酒に目が行く亀さん!

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呑んでみたいなぁ…

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かつて、カザフスタン人は遊牧民族(ツラン)だった…

〝明るく〟送る会
7月20日に逝去した故飯山さんを〝明るく〟送る会が、11月25日に大阪で開催、出席してきた。午後一時からスタートしたのだが、いきなり、亡くなられた当日に行われたという飯山さんの最終講義のビデオが流れた。これには驚くと同時に、何とも言えぬ懐かしさがこみ上げてきた…。幸い、野崎晃市博士の好意で、ブログ『文殊菩薩』で公開されているので、飯山さんと多少なりとも交流のあった読者に、一度見ていただけたら幸いだ。
『飯山一郎最終講義』のビデオ公開

ビデオの後、稲村公望さんの献杯の挨拶があり、飯山さんが亡くなる一週間前、電話で日本の将来について多くを語り合ったという話が、強く脳裏に焼き付いた。

その後、30分ほど参加者が酒を酌み交わしながら歓談、そして二時半からmespesadoさんによる信用創造を中心とした講演が行われた。内容はメスペサド理論ともいうべき経済の本質に迫ったもので、目から鱗が落ちる思いをした出席者も多かったと思う。このmespesadoさんのスライド資料が欲しいという参加者は、以下に申し込み方法が書いてあるので申し込むとよい。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16563101/26/

Mespesadoさんの講演の後、「飯山史観を後世に遺す」というテーマで、亀さんが〝公演〟を行っており、参考までにスライド資料(18ページ)を本稿の最後に転載しておいた。尤も、Mespesadoさんのインテリジェンスに満ち、優れた信用創造についての講演と比べ、亀さんのそれは落語のような〝公演〟になってしまったwww 実わ、〝公演〟が始まる前に、隣にいた原さんという参加者の一人に、大量のビールを飲まされたこともあり、〝公演〟を始めたころには足元がフラフラ…(嘘) しかし、そのお蔭で、生前の飯山さんの〝公演〟は実際どのようなものだったか、少しは再現できたのかもしれない。送る会は四時に終了のはずだったが、予定時間を遥かにオーバーし、亀さんの〝公演〟が終わったのは四時過ぎwww

時間をオーバーしつつも、遺族の方から挨拶があり、さらに司会の呼びかけで、数名の人が進んで前に出て、飯山さんについての熱い思いを語ってくれた。そし漸くお開きとなった。

近くの居酒屋で二次会を挙行、50名以上が参加してくれた。それでも呑み足りないという人たちが三次会ということで、近くのショットバーでさらに歓談。亀さんも〝飲み足りなかった〟ので、喜んで参加させてもらった。さらに、四次会ということで亀さんの部屋に堺のおっさんをはじめ、事務局の主要メンバーが集結、午後2時頃まで多くを語り合った。亀さんの場合、寄る年波に勝てず(?)、途中で幾度もコックリコックリしてしまったんだが…

それにしても、送る会のスタート直後に映し出されたビデオ、亡くなる当日も元気な飯山さんを見て、改めて亀さんも死ぬ当日までは普段通りで、一気にあの世に行きたいものだと、つくづく思った次第でR。


■スライド資料(飯山史観を後世に遺す)
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卑弥呼は公孫氏』ダウンロード

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世界戦略情報誌『みち』

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■飯山さんの最終講義
飯山さんの最後の本が、野崎晃市博士の尽力で出版された。亀さんの寄稿「飯山史観を後世に遺す」も載っているので、関心のある読者に目を通してもらえたら幸いだ。

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『飯山一郎最終講義 金正恩が統一朝鮮王になる!!』

巫女・雅子妃
皇太子殿下が即位される来年の5月1日が、半年先に迫った。来年の5月1日以降は、どのような日本になるのか…、現在思っていることを少しだけ書いておこう。

最初に、以下の飯山一郎さんの記事を思い出していただきたい。

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【連載:ホンダワケ】 やはり応神天皇は…

特に、紫色の下線で示した文言…

再来年,新天皇になられる浩宮皇太子殿下は…
(母方の江頭家が九州人の末裔である)雅子妃殿下から…
応神天皇の伝説を聞いておられるのではないだろうか?


ここで、雅子妃殿下の文字が目に飛び込む。何故に雅子妃殿下なのか? これは、シャーマニズムのこと、ズバリ言えば、雅子妃殿下は、紛う方無き巫女であられる。

ここで、シャーマニズムについて解説した、優れたHPを紹介しておこう。

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世界史の窓

巫女」、「狩猟民族」(ツラン)」、「ツングース」、「邪馬台国」、「卑弥呼」、「鬼道」、「天皇」と、ここ数年にわたり亀さんが気になっていた言葉が、次々に飛び出してきた。何故に亀さんは、これらの語彙が気になっているのか…。それは、以下の拙稿に目を通せば、朧げに解っていただけるのではないだろうか。

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青州で思ふ(3)

さらに、飯山さんのHPに載った以下の写真を思い出していただきたい。

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◆2012/01/21(奴) 金正恩の恐るべきIT戦略! (7)

このあたり、さらに掘り下げていきたいところだが、公の場である拙ブログに書いたり、今週末に開催される「故飯山一郎を送る会」といった、大勢の人たちの前で話したりできないのが残念だ。

【参考】
雅子妃とシャーマン

【追加】
以下の飯山さんのHP記事、亀さんには気恥ずかしいというか、穴があったら入りたいような記事なのだが、シャーマニズムという大事なテーマなので、敢えて追加した。

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◆2016/10/25(火)  飯山一郎は明日,日本に帰ります