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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
武士の時代 02
20091201.jpg

今回は阿弖流為(アテルイ)について取り上げるが、アテルイと云えば思い出すのがNHK BS時代劇「火怨・北の英雄 アテルイ伝」であり、大沢たかおがアテルイを演じていたのを、今でも鮮やかに思い出す。同ドラマを見たのは、今の今まではホンの二~三年前と思っていたのだが、ネットで確認したところ、放送されたのは2013年1月11日とあった。あれから七年以上もの時間が経ったわけで、つくづく月日の流れの早さを感じた次第である。

さて、上掲のドラマ解説に目を通すに、アテルイは蝦夷の族長とあり、世間でもアテルイの出自を蝦夷としているのが一般的である。ちなみに、蝦夷についてはウィキペディアの「蝦夷」項で、以下のように解説している。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。

中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。


ところが、故飯山一郎さんの考えるアテルイの出自は、世間のそれとは大きく異なっていた。以下は放知技への飯山さんの投稿である。

アテルイは蝦夷の王ではなく,じつは韃靼・突厥の王です.
(蝦夷人には,アテルイのような獰猛さはない.)

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13073855/4/


アテルイの出自は蝦夷ではなく韃靼・突厥の王とする、上掲の飯山さんの投稿を目にした時、もう少しで小生は椅子から転げ落ちそうになったほどである。何故なら、小生も世間同様、アテルイの出自は蝦夷とばかり思っていたからだ。念のため、ウィキペディアの「アテルイ」項では以下のように解説している。

阿弖流爲(あてるい)、または大墓公阿弖利爲(?~延暦21年8月13日)は、日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。

8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷の族長とされ、古代日本の律令国家(朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中にはじめて名前がみえ、延暦二十年の征夷の後に胆沢城造営中の坂上田村麻呂に自ら降伏した。その後は平安京付近へと向かったものの、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出るが、公卿達の反対により盤具公母禮とともに河内国椙山で斬られた。


よくよく考えてみれば、確かに飯山さんが仰せの通りで、蝦夷(アイヌ)は平和志向の民族だった。実は小生、二十代前半の頃に都内の専門学校で、二年制の貿易を学んでいた時、アイヌを研究していた先生の知遇を得、アイヌについて多くを学んだのだし、その後も事ある毎にアイヌについての書籍、あるいはテレビのドキュメンタリーを精力的に見てきたこともあり、今では飯山さんの主張に同意できるのだ。

よって、以降は飯山さんの説に従い、アテルイの出自を韃靼あるいは突厥の王として筆を進めさせていただく。

最初に、拙稿「高麗神社と皇室」に載せた、栗本慎一郎のイラストを以下に再掲しておこう。

18121603.jpg

併せて、前稿「武士の時代 01」に再掲した、ツランから日本に至る歴史の大河を再確認していただきたい。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→日本


飯山史観の正しさを実感している身として、上掲の栗本イラストには同意できない点が多々ある。たとえば、扶余は北魏の流れを汲む亀卜国家である点について、栗本氏は見落としているといったことだ。

ここで、アテルイの活躍した八世紀から九世紀は、上掲の栗本イラストから400年以上の時間的な隔たりがあるが、このあたりを照査する時間的な余裕が今のところ無いので、韃靼・突厥族が日本に侵入したのは、アテルイが誕生した少し前、すなわち飛鳥時代(592~710年)から奈良時代(710~794年)前半にかけてと睨んでいるのだが、今のところ確証はない。しかし、飯山さんが第五番目の外圧とするくらいなので、相当数の韃靼・突厥族が、同時期に北日本に侵入してきたものと思われる。

そして、大和朝廷は韃靼・突厥族の侵入に危機感を抱いて制圧を試み、ついに延暦二十年(801年)、アテルイが坂上田村麻呂に自ら降伏した時点を以て、第五番目の外圧の危機を乗り越えたと云えよう。しかし、考えてみれば大和朝廷にしても、元々は大陸から日本列島に侵入してきた豪族だったのだし、その意味で第五回目の外圧は新旧豪族同士の戦だったと云えよう。

その後、平安時代末期に平氏政権(1167~1185年)が誕生、政権が貴族から武士の手に渡り、その後700年にわたって武士の時代が続いたということになる。

次稿からは、以下の時代区分に沿って、「武士の時代」シリーズを書き進めていこう。

平安時代 794~1185年
鎌倉時代 1185~1333年
室町時代 1336~1573年(南北朝時代・戦国時代)
安土桃山時代 1573~1603年
江戸時代 1603~1868年


【追記】
安倍総理の父方のルーツは、安倍宗任を祖とし、安倍氏44代目の末裔であると、河北新報オンラインニュースが2020年5月1日に報道している。一方、拙稿「安倍晋三のルーツ」において、安倍総理の母方のルーツについても併せて書いているので、関心のある読者に一読戴ければと思う。ちなみに、安倍総理の母方のルーツには、岸信介、佐藤栄作といった、日本の政界に君臨した蒼々たる大物がいた。そして、岸信介も佐藤栄作もルーツが田布施である。この田布施こそ、日本史を解く鍵語(キーワード)だ。

その意味で、上掲の拙稿で紹介している、飯山さんの「日本は今も田布施の国」シリーズの一読をお勧めしたい。

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武士の時代 01
前稿「貴族の時代 07」は貴族シリーズの最終回だったわけだが、同シリーズの最後に小生は以下のように書いた。

次稿では武士の誕生に筆を進める予定だか、堺のおっさんに紹介してもらった、『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎)などを参考資料にする予定だ。以下は、堺のおっさんの放知技への投稿である。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/991/

20090401.jpg


堺のおっさんが紹介の『武士の起源を解きあかす』、この本は武士の起源について追究した本であり、アマゾンは同書の「内容(「BOOK」データベースより)」で、以下のように記している。

武士はいつ、どこで、生まれたのか?七世紀ものあいだ日本を統治してきた彼らのはじまりについては、実ははっきりとした答えが出ていない。かつて教科書で教えられた「地方の富裕な農民が成長し、土地を自衛するために一族で武装し、武士となった」という説はでたらめで、都の武官から生まれたという説は確証がなく、学界は「諸説ある」とお茶を濁す。この日本史における長年の疑問を解消するために、古代と中世をまたにかけ、血統・都鄙・思想に着目し、武士の誕生の秘密を明らかにする。


冒頭にある、「七世紀ものあいだ日本を統治してきた彼らのはじまりについては、実ははっきりとした答えが出ていない」という言葉に注目していただきたい。このように、歴史学者の間でも武士の起源については、意見がまちまちというのが現状で、今後の研究に期待したいところだ。

次に、武士とは何者だったのかと思索を巡らせていたところ、マイペディア(電子版)が「武家」という項目で、以下のように武士について解説していたのに目が留まった。

本来的には武士の家筋をさし,武門と同義。一般的には公家に対する言葉で,鎌倉幕府成立後の幕府・将軍家・御家人を含めた武士一般の総称。武士は平安中期,地方豪族や国司の武装化によって勃興(ぼっこう)し,地方の有力農民層を組織して各地に武士団を形成した。保元・平治の乱で中央政界に進出,鎌倉幕府を樹立してより明治維新に至るまで,政権をその手中に掌握した。


マイペディアの解説も分からないでもないが、さらに時代を遡り、シンプルに武士について定義するとすれば、「敵が襲来してきた時、一族(集団)を護る役目を負った一団」とでも定義できよう。尤も、縄文最盛期は隣同士の争いは少なかったものの、やがて古墳時代に突入するあたりから、大量に渡来人がユーラシア大陸から日本列島に押し寄せ、列島各地に豪族が誕生するに伴い、豪族同士が激しく争うようになったことに思いを致すべきで、このあたりから武士という専門職の誕生に至ったのではと、小生は漠然と考えている。そうした代表的な軍団の一つが、堺のおっさんが下掲の投稿で言及していた隼人族で、この隼人族が武士の起源であった可能性が高い。

ともあれ、武士の起源についての研究は歴史学者に任せるとして、古墳時代以降の日本列島の権力構造を考えるにあたり、以下の堺のおっさんの言葉は重要だ。

日本における、国体と政体の二重構造の起源のヒントも。

政体が国体から派生し、武士に昇華していった過程と読めば納得も行きます。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17178824/724/


これは、『武士の起源を解きあかす』についての堺のおっさんの読後感だが、国体と政体という二重構造から武士が誕生したという、堺のおっさんの指摘は重い。

では、何故に日本列島に国体と政体の二重構造が誕生したのか? このあたりについては、堺のおっさんが上掲の投稿で「亀卜と易経の違い」について言及しているのだが、「国体と政体の二重構造の起源」は亀卜、すなわちツランだ。つまり、亀卜の源流こそがツランなのであり、日本列島に侵入あるいは逃避してきた諸豪族は、亀卜を基底に置いたツランを出自とする、豪族が中心だったことを暗示している。そして、中国本土の場合は亀卜国家の殷王朝から、易経国家の周王朝へと変遷していった。すなわち、堺のおっさんの言葉で謂うところの西洋型の覇権思想が、周王朝以降の中国における思想的な根幹となったわけであり、これが拙稿「米中衝突と香港」の「■大東亜戦争時、白人側に立った中国」という流れに結びつくのである。

中国は大東亜戦争当時(そして今でも)、白人側に付いた国だったからだ。だから、現在では親日の振りをしているが、その腹は反日であることは今も昔も変わりはない。その点、中国の属国である韓国も同様だ。


なを、亀卜国家(殷王朝)のその後だが、そのあたりについては拙稿「天武天皇 02」に掲示した以下の流れを再確認していただきたい。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→日本


無論、上掲の流れから外れて、中国各地の山奥に逃避した亀卜思想を主体とする民族も多かったのであり、その一例が拙稿「天頂に生きる」で紹介した彝族だ。

他にも堺のおっさんは、上掲の投稿で実に重要なことを書いている。

そうなると…

中国の文明は本質的には西欧のそれと同じものと言うことになります。

覇権を求める思考の根源です。

けっして東洋的ではない。

そうすると、世界の覇権を800年周期で

東洋と西洋で交代してきたという歴史観にも修正が必要になります。

つまり、現在の米中覇権争いは

東洋と西洋の文明的衝突なんかではなく、

アジアの西欧的国家とアメリカと言う西洋文明の最終形態の間で起こっている

極めて西洋的な覇権争いであるということです。

したがって、どちらに転ぼうが文明的な転換は起こらない。


では、真の「文明的な転換」が起こる可能性があるのかという点になると、その可能性を探るに亀卜の継承国である日本に求める他はない。そのあたりは、世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長、あるいは栗本慎一郎も述べている他、小生も武田邦彦氏の動画を引用しつつ、拙稿「貴族の時代 04」で人類解放という名の文明の大転換について述べた。
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「なぜいま、世界史なのか?」

ともあれ、日本列島にツランをルーツとする権力の二重構造が誕生、その後は藤原道長の時代に貴族時代の最盛期を迎えたものの、やがて武士の時代に移行、それが明治維新まで続いたということになる。

ここで、改めて飯山史観の外圧説を振り返り、最新の拙稿「退陣後の政局」で示した外圧説の一部を再転載しておこう。

第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.


今までの飯山史観シリーズでは、第4回目の百済の侵入までを述べてきたわけだが、次はいよいよ日本列島で起きた第5回目の外圧、すなわちアテルイ族について筆を進めていこう。

貴族の時代 07
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明仁親王とヴァイニング夫人

現在、仕事の合間に飯山史観シリーズの下調べを進めているが、明治以降の藤原氏の動向、殊に皇室に嫁いだ藤原氏の娘について確認作業を進めているうち、思い出した本がある。

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『隠された皇室人脈』(園田義明)

この本は、皇室のキリスト化を考察するにあたって欠かせない本であり、米国人ヴァイニング夫人(クエーカー教)から影響をお受けになった少年時代の皇太子明仁親王、カトリック教とは縁の深い上皇美智子様、そして皇后雅子様を思えば、現代の皇室を考察するにあたって、キリスト教は欠かせぬテーマの一つとなる。このあたりの参考資料については、以下のブログ記事を一読して戴くとして、本稿では明治以降において、皇室に嫁がれた藤原氏の娘について再確認しておこう。
キリスト教205~皇室とキリスト教

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昭憲皇太后の父・一条忠香は、江戸時代後期の公卿で、関白・一条忠良の四男。一条家は摂関家の一つ。

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貞明皇后の父・九条道孝は、江戸時代後期の公卿で、左大臣・二条治孝の八男。九条家は五摂家の一つ。

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香淳皇后の父・久邇宮邦彦王は、久邇宮朝彦親王の第三王子。久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に、伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。伏見宮家は持明院統の嫡流で、北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする宮家。


そして、香淳皇后以降は、正田美智子、そして小和田雅子と、相次いで民間人が皇室に嫁いだ。

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さて、時計の針を中臣鎌足の時代に戻す。拙稿「貴族の時代 06」で、小生は以下のように書いた。

(関裕二・藤井輝久の)両者とも中臣鎌足コピー説で一致しているのは面白い。できれば関氏の著作に目を通した上で、藤井氏の本と比較してみたいと思うのだが、近く本業(翻訳)が以前のようなペースに戻ることから、当面はお預けになりそうだ。


そんな折、俳優の武田鉄矢が以下の動画をアップしているのを知った。


【武田鉄矢】実は隣国の人だった!?中臣鎌足の日本乗っ取り計画と大きな誤算『続・磐井の乱』~後編~

「実は隣国の人だった!?中臣鎌足」という表題に惹かれ、結局最後まで観たのだが、期待外れもいいところだった。武田鉄矢は関裕二氏の著した、『磐井の乱の謎』(河出書房新社)の内容を、鵜呑みにしていることが一目瞭然だったからだ。そして、武田の説明(読後感)通りの内容の本なら、同書は読むに値しないと思った。関氏が大化の改新が史実であると思っているのだろうと、武田の動画を観る前に薄々感じてはいたが、上掲の動画を観て小生の直感が正しかったことを知ったのだし、『天皇系図の分析について』の藤井輝久氏ほどには、百済三書を解読しているわけでもないことを知った。その証拠が、中臣鎌足の正体を余豊璋(百済最後の王となった義慈王の王子)としている関氏の説である。藤井氏のように、徹底的に百済三書を追究していれば、中臣鎌足=余豊璋(百済王子)などという結論に至るはずがない。ともあれ、藤井氏が主張する中臣鎌足=金庾信(新羅の将軍)」+「郭務悰(唐の官吏)」説、ますます信憑性が高まってきたことになる。

加えて、古墳時代の日本の支配層の98.5%が、渡来人だったと藤井氏は書いているが、これもほぼ間違いないと思う。それに関連して、関氏が勘違いしているのは、当時の朝鮮半島にいた倭人の正体だ。このあたりは拙稿「貴族の時代 05」にも書いたことだが、やはり民間の歴史家であった山形明郷先生が、以下の言葉を遺しているのを思い出していただきたい。

倭人は現韓半島の南部、すなわち慶尚南道の海岸地帯から、全羅南北道の広汎な地域にわたって住んでいた『在地原住民』なのである。その居住区域は、極めて広く、また、その数は厖大なものであったと思われるのである。
『卑弥呼の正体』p.210


しかし、半島にいた倭人とは日本人のことだと、今でも信じている人たちが圧倒的であるのは残念だ。以下は、、デジタル大辞泉が定義している「倭」・・・。

1.日本人の住む国。古代、中国から日本を呼んだ名。
2.(和)日本のものであること。日本的であること。「和の技術」「和に親しむ」


藤原氏に話を戻す。藤原氏は藤原道長(966年~1028年)の時代に絶頂期を迎え、その後は次第に皇室への影響力を低下させていったものの、冒頭に書いたとおり、千年近くにわたって香淳皇后まで、藤原氏は娘を皇室に嫁がせてきたことの意味は大きい。しかし、それでもなを微動だにしなかったのが天皇霊性である。たとえば、今でも続く天皇の毎朝の祈り、天皇霊性が健在であることを示している。だから、過去に幾度もあった皇統断絶を乗り越え、藤原氏から娘を嫁がされても、天皇霊性を堅持してきたことを思うと、感動すら覚えるのである(旧ブログ「天皇霊性の時代」参照)。よって、皇室に入り込んできたキリスト教という新しい流れがあるにせよ、天皇霊性は不変であり続けるに違いない。

次稿では武士の誕生に筆を進める予定だか、境のおっさんに紹介してもらった、『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎)などを参考資料にする予定だ。以下は、境のおっさんの放知技への投稿である。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/991/

あるいは、武士の誕生を省いて、一気にアテルイについて筆を進めるかもしれない。このあたりは、今のところ特に決めていない。最近は飯山史観の執筆が滞りがちだが、これもコロナ禍を通じて世界が大転換期の真っ只中にあるからで、アフターコロナに関する記事が今後も多くなるが、このあたりはご勘弁願いたい。

貴族の時代 06
前稿「貴族の時代 05」で小生は、日本書紀が百済三記のコピーというだけではなく、中臣鎌足も〝コピー〟であると書いた。ここで読者は、では中臣鎌足は〝誰〟のコピーだったのか? という点に関心を抱いたことだろう。

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最初に、民間の歴史家・関裕二氏の場合、中臣鎌足の正体は余豊璋(百済最後の王となった義慈王の王子)であるとしており、題名もそのものズバリ、『豊璋―藤原鎌足の正体』(河出書房新社)という本を著している。2019年11月19日の刊行とあるから、比較的新しい本だ。残念ながら、小生は未だ同書に目を通していない。また、同氏の他の著作のいずれにも目を通していないのだが、息子が同氏の書籍に数冊目を通しているというので、どのような内容の本なのか、今度訊いてみたいと思っている。

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その他に、藤原鎌足の正体を「金庾信(新羅の将軍)」郭務悰(唐の官吏)」と説く、やはり民間の歴史家がいる。故飯山一郎さんが晩年に取り組んでいた、『天皇系図の分析について』の著者・藤井輝久氏だ。ここで、上掲の関氏の著作の刊行は2019年秋と比較的新しいことから、それよりも14年前に出版された、藤井氏の本を関氏が参考にした可能性はある。ともあれ、両者とも中臣鎌足コピー説で一致しているのは面白い。できれば関氏の著作に目を通した上で、藤井氏の本と比較してみたいと思うのだが、近く本業(翻訳)が以前のようなペースに戻ることから、当面はお預けになりそうだ。

ところで、どのていど関氏が史料として百済三書を参考にして、『豊璋―藤原鎌足の正体』を書いたのかは分からないものの、藤井氏の『天皇系図の分析について』の場合、百済三書を重要な史料として徹底的に分析しているのが分かる。そこで、百済三書について簡単な解説を書いておこうと思ったが、その前にネット検索をかけてみたところ、百済三書と日本書紀の関連性について言及した論文、「『日本書紀』編纂史料としての百済三書」と出会ったので、両国(百済・日本)間の史書の比較論について、関心のある読者は同論文に目を通すと良いだろう。参考までに、同論文の「要旨」を本稿の最後に転載しておいた。

次に、藤井氏の『天皇系図の分析について』の場合、中臣鎌足の正体について詳細に書いてある章が無いものかと確認してみたところ、同書の第六章「大化の改新は架空の物語」に目が留まった。同章の第三節「中臣鎌足は、藤(唐)のGHQの郭務悰」で、鎌足を多角的に取り上げていたのである。ご参考までに、同章の第三節は以下のように六項で構成されている。

(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰
(2)郭務悰への疑義--この「壬申の乱」の仕掛け人は、やはり合成人間だった
(3)謎の将軍・郭務悰の正体は新羅使の金押実か
(4)外国の記録に見えない「大化の改新」
(5)藤原不比等の正体
(6)倭国の古代年号の大化(丙戌)六八六年を、日本国は「新」大化(乙巳)六四五年に移動してしまった


どのような内容の節なのかを読者に知っていただきたく、(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰」項を、本稿の最後に転載しておいた。関心のある読者は、一読されるとよい。

繰り返しになるが、ここで改めて書いておこう。小生は天武天皇の御代を以て、「日本の歴史が始まった」と過去に幾度か書いているが、ここで忘れてはならないのは、当時の日本の支配層のほとんどが渡来人であったということだ。藤井氏の場合、確か98.5%の支配層が渡来人であったと、上掲書の何処かで書いていたのを朧気ながら覚えている。

それにしても、日本列島は実に摩訶不思議な処で、天皇を一人だけ立て、残りの住民全員が平等という、他にはない構造に収斂されていった列島なのである。どうして、そのようなことが可能だったのかについては、拙稿「貴族の時代 03」で述べた、「日本列島」、「天皇」、「日本人」の三つのキーワードに深く関与してくるのであり、ここでは繰り返さない。

ともあれ、藤原氏は娘を天皇の后にするという外戚戦略をとり、摂政や関白を務め、政治を代々独占、貴族型政治を実現させた。そして、藤原道長の時代に藤原氏は絶頂期を迎えたが、その後は衰退、今では嘗ての栄光は無きに等しいとは云え、今日でも名家として続いていることは、拙稿「天武天皇 17」にも書いたので詳細は割愛させていただく。

ところで、次回の飯山史観についてだが、「米中衝突」シリーズにも目を通していただいている読者は先刻承知のとおり、6月30日に香港国家安全維持法の再審議で同法が成立、本格的な米中衝突に向かうことは避けられなくなってきた。よって、当面は「米中衝突」シリーズに力を入れていくこと、予めご承知のほどお願いしておきたい。

【参考史料01】
以下は、『日本書紀』編纂史料としての百済三書」という論文の要旨である。

 本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。

 なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。


【参考史料02】
以下は、『天皇系図の分析について』の第六章「大化の改新は架空の物語」の第三節・一項である。

第三節「中臣鎌足は、藤(唐)のGHQの郭務悰」

(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰
 しかも、更に重要なことは、この「大化の改新」と「毗曇の乱」とで当事者までもが全く同一だったということなのです。少し難しくなりますので、必ずやアナタは末巻の図表を指で示して見ながらこの間題をお考え下さい。

 何故ならば「奈良紀」(お手本は新羅史)における天智・中大兄のモデル(但し、今日の平安紀では二分の一。平安紀では合成人間とされてしまっておりますので)は新羅29武烈王・金春秋(在位六五四~六六二年)であり (二三7)、同じく「奈良紀」における中臣鎌足のモデル(但し、今日の平安紀では二分の一。平安紀では合成人間とされてしまっておりますので)は新羅(但し、もともとは、金官王家=倭王)の金庾信将軍だったからなのです。

 しかし、日本紀によりますと、次のように、大化三年(六四七)十二月に、この金春秋が倭国に連れて来られたことになっております。

 「新羅遣上臣大阿飡金春秋等……仍以春秋為質」(孝徳紀)

 ところが、この年が国際的に見まして一体どういう年であったのかと申しますと、この金春秋が文正(子)と共に唐の太宗皇帝のもとに行っておりますので、金春秋自身が倭国へ来ているかどうかは大変疑問なのです。不可能に近かったのです。

 しかも、そのことに加えまして、春秋はその帰途、海上で高句麗兵に見つかり、従者の温君解を身代わりとして小舟で命からがら帰国しているのです。

 ですから、現行平安日本紀では、百済系の作者が、新羅が派遣した単なる使者を王子の金春秋と故意に「取り替え」て記してしまっていた可能性が大であったのです(奈良紀のレベルのモデルでは、素直に天皇として記載されていたからなのでしょう)。

 ですから、実際には、この時は(この時も)金春秋は日本列島へは渡来していなかったのですが、しかし奈良紀での作文では既にモデルとして入れられてしまっていたのです。

  *但し、このときの新羅王子は人質などではなく、逆に、新羅支配下の倭国の支配者としての大王・天皇(物語上のことですから)として記してあった筈です。


 これらのことを、端的にマトメて申しますと、奈良紀におきましては、「天智天皇のモデル=新羅・金春秋」であり「中臣鎌足のモデル=新羅・金庾信」となっていたのです。

 さて、そういたしますと、「大化の改新」での「中大兄(天智)と鎌足」との関係は、それは、とりも直さず、そのモデルとなった新羅の「毗曇の乱」におけます「王子だった頃の金春秋と将軍・金庾信」との関係と全くイコール(ピッタリ同じ)だったということが判ってまいりまして、両事件はその内容、時期のみならず当事者までも、つまり、その全てにつきまして、これまた全く同一だったということになってしまうのです(もう一度、巻末の図表をご参照下さい。今後も時々ね)。

 次に、蘇我入鹿が「朝鮮人」に殺されたことと、その殺した彼の天智大王が百済人であったということは、日本紀自らの記載の分析からも明らかだったのです。

 と申しますのも、日本紀が言うところの「韓人」とは百済人のことだからなのです。その証拠といたしましては、「言韓人者百済也」(欽明紀十七年十月割注)という日本紀の記載自らが、そのことを示していてくれたからなのです。

 だからこそ、「大化の改新」の入鹿暗殺の現場を目撃した古人大兄が「古人大兄 曰 韓人 殺 鞍作臣(朝鮮人が蘇我入鹿を殺した)」(皇極三年六月十二日)と言ったと日本紀には記されております。この韓人とは、「百済人」のことを指していたことになるのです。

 つまり、素直に文字通りに考えれば、目撃した古人大兄が「韓人が入鹿を殺した」と言ったということは、これは平安紀でのメルクマールにおきましては、百済人が入鹿を殺したと表現されていたことにならざるをえないのです。

 そういたしますと、天智大王のモデルが、その前の奈良紀では新羅の太祖武烈王であったものに、「韓人=百済人」が二分の一加えられ、つまり、平安紀での改竄では「新羅・太祖武烈王+百済・王子余豐璋」とされてしまったということ--天智天皇(皇子の頃の中大兄)が殺した(後述)--とも、正に、ピッタリと合致して来るのです。

 このように、後の「平安紀」(現行『日本書紀』)におきましては、この点が物の見事に改竄されてしまい、この奈良紀での「新羅王子」に「百済王子」がプラスされてしまったということが、これでアナタにもよーくお判りになられたことと思います。

 ですから、古人大兄が「百済人が入鹿を殺した」と言っておりますこととも、平安紀上では整合性が見られるのです。

 では次に、「大化の改新」のもう一人の立役者でもございます中臣鎌足の方について考えてみましょう。

 平安紀でのこの合成人間の中臣「鎌足=カマソ」の残りの二分の一のモデルとは一体誰のことであったのか、ということについて考えてみますと、それは「唐=藤=トウ」人系の百済人と思われます「GHQ=占領軍最高給司令官」の郭務悰が、その「二分の一」のモデルだったのです。

 では、何故、郭務悰が唐(藤)務憬なのかと申しますと、「郭務悰=カマソ」というその名に秘められた謎に加えまして、次のような証拠も存在しているからなのです。

 それは、『善隣国宝記』(相国寺の僧瑞渓周鳳の外交史、文明二年(一四七〇)。三1)年〔二四七Q増三1)には、郭務悰のことを、何と!「唐務悌」(『善隣国宝記』所引の『海外国記』天智十年[六七一]十一月)と、ズバリ唐人の務悰であるとの表記が見られるからなのです。「唐=トウ=藤」でありますので、これは合成氏族の藤原氏の四族のうちの一部に唐人も入っていたこと(への繋がり)を示す紛れもない証拠の一つだったのですが、この「藤」が「唐」のことだったことにつきましては既に前述いたしました(三3)。


  *右に加えますに、光明子の署名も、単に「藤三娘」(『楽毅論』奥書)とされておりますよ(フヂ=トウ)。
   このように、「藤=フヂ=比自火」であり、かつ、「藤=トウ= 唐」ということをも、この「藤の字」は意味していたのです(別述)。
   このように、平安紀におけます中臣鎌足の「二分の一」のモデルは、この郭(唐=藤)務悰だったのです。


貴族の時代 05
貴族の時代 03」では、日本史を俯瞰する上で不可欠な三つのキーワード(日本列島・天皇・日本人)、「貴族の時代 04」では、武田(邦彦)史観について言及、本来の飯山史観の内容から大分横道に逸れてしまった感があったが、今回より再び本来の飯山史観の記述内容に戻したいと思う。よって、藤原氏の出自あたりから飯山史観を再開することとしたい。

さて、この藤原氏だが、始祖の中臣鎌足は中臣氏の一族とされている。通説によれば、中臣氏は忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、始祖は天児屋命(あめのこやねのみこと)という神とのことだ。

しかし、天皇(天武天皇以前は大王)を頂点とする日本列島の支配者たちは、大方が渡来人(3~7世紀にかけて、主に中国大陸や朝鮮半島から、日本列島に移住してきた人々)であり、それ以前に日本列島にいた原日本人とは異なる人種だった。

ここで、原日本人と書いたが、元々彼らの遠祖も遥か昔に、日本列島に流れ着いた〝渡来人〟であったことに変わりはない。

尤も、原日本人といっても、脱アフリカを果たした人類が、日本列島に到着して棲み始めた遥かな昔を考えるに、我々の祖先という祖先は全員、朝鮮半島を含むユーラシア大陸から渡来、あるいは南方から黒潮の流れに乗って日本列島に辿り着いた、〝渡来人〟だ。
天武天皇 17


上掲の拙稿「天武天皇 17」で中臣氏の出自について、ソグド人説・南方系説という具合に諸説があることを紹介、小生自身は中臣氏の出自について以下のように書いた。

中臣氏は原日本人という可能性も僅かだが残っているので、今の時点での判定は控えたい。


その後の小生は、古墳時代に豪族たちが渡来する前、日本列島にいた原日本人の民族性を多角的に考察してみた。それで改めて思ったことは、原日本人は外来のもの(人・物)を一旦は受け容れ、やがて自分たちのものにするという、寛容性を持っていた人たちで、同時に人としての優しさを兼ね備えた人たちあったということだ(「貴族の時代 03」参照)。

だから、拙稿「天武天皇 19」で紹介した、「多武峰縁起絵巻」(一部)に描かれている中臣鎌足は、クーデター(乙巳の変)を起こした側だったが、蘇我入鹿の首を刎ねる側にまわった中臣鎌足、原日本人が本来持っていたはずの「優しさ」というものが欠片もない人物、ということが容易に想像できよう。確かに、原日本人のDNAを引き継ぐ我々から見ても、蘇我入鹿の首を刎ねた〝中大兄皇子〟、そして弓矢を手にしている〝中臣鎌足〟にしても、絵巻に描かれているのは残忍な人物像だ。このあたりを考えれば、やはり中臣氏は間違いなく、古墳時代に日本列島にやって来た渡来人の豪族の一つで、それも渡来して日も浅い一族だったのではと思っている(尤も、乙巳の変が史実だった場合の話だが…)。

とすれば、中臣氏は古墳時代の何時頃、何処から渡来してきたのか? このあたりについての正確な情報は、現時点で確認することはできないので当面の宿題とし、今回は『天皇系図の分析について』(藤井輝久著)を叩き台に、鎌足本人あるいは鎌足の遠祖が日本列島に渡来した時期、および何処から渡来してきたのかについて検討してみよう。

最初に、上掲書の第四章「有名な貴族の故郷「本貫」は朝鮮半島だった」の冒頭で、藤井氏の書き出しは以下のように始まっている。

日本列島での主要な「支配者=貴族」の殆どは、早いか遅いかの違いがあるにせよ、、皆、渡来人だった


続いて、同章の第一小節「藤原氏の本貫は南韓の「昌寧」伽耶」(p.163)で、藤井氏は中臣氏の本貫を以下のように書いた。

「藤原氏=中臣氏(中=ナガ=蛇=朴氏。倭人)」であり、その本貫は、朝鮮半島南部の比自㶱(昌寧伽耶)

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上代語で読む日本書紀〔仲哀天皇-神功皇后(1)〕


ここで、「倭人」という言葉が出てきた。小生は藤井氏の『天皇系図の分析について』を通読したわけではなく、確認作業で必要な箇所を都度、目を通したに過ぎないこともあり、藤井氏の倭人観は知らない。しかし、改めて強調しておきたいのは、倭人は日本人ではなかったという点である。拙稿「応神天皇の秘密(3)」で引用した、山形明郷先生の言葉を思い出していただきたい。

倭人は現韓半島の南部、すなわち慶尚南道の海岸地帯から、全羅南北道の広汎な地域にわたって住んでいた『在地原住民』なのである。その居住区域は、極めて広く、また、その数は厖大なものであったと思われるのである。
『卑弥呼の正体』p.210

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倭国の版図紹介ついでに、時代を下った百済・新羅・伽耶の正誤版図を以下に並べておこう。この両版図を載せたのは、拙稿「青州で思ふ(5)」であった。

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尤も、倭人=日本人が今の日本における通説になっているので、注意が必要だ。たとえば、デジタル大辞泉は「」を以下のように定義している。

1.日本人の住む国。古代、中国から日本を呼んだ名。
2.(和)日本のものであること。日本的であること。「和の技術」「和に親しむ」


ところで、藤井氏の著した『天皇系図の分析について』の要諦は、最近の世界戦略情報誌『みち』(六月一日号)シリーズの一つ、「常夜燈」(p.16)にあった、以下の記述が語っていたので、一部引用の形で紹介したい。藤井氏の師匠筋にあたる鹿島曻氏の書籍の多くに目を通した身として、鹿島氏の主張する「日本書紀は百済記のコピー」は正しいと思っているので、素直に読める記事であった。

▼藤井輝久氏の主張は「古事記偽書説」などというような生やさしい代物ではない。偽書説ならば、問題の書物が後世にデッチあげた偽物だと糾弾しているだけで、本物が別にあることは何も否定されていない。だが、藤井氏の言うところは、もっと激しく辛辣で容赦がない。

まず、そもそも日本に独自の天皇などはいなかった。扶余系の百済勢力に属する豪族と、長らく高句麗の属国だった新羅に組する豪族とが各地に割拠・対立していた半島勢力による草刈場であったに過ぎない、と藤井氏はにべもない。

この主張は相当にショックである。日本列島には各地に自生した独自の勢力があって、その勢力が互いに殲滅し尽くすのではなく、ある時点で連合国家を作ろうと「談合」した結果として、大和朝廷が成立したと、古事記と日本書紀に従って素朴に私は考えてきた。前方後円墳もまた半島オリジナルで日本が模倣したと主張する韓国人をもうわれわれは笑えないのか?


つまり、以下の飯山さんの言いではないが、日本書紀といった書籍だけではなく、実は人物も百済の〝コピー〟だったことが、藤井氏の本に書かれていることが分かる。流石は鹿島氏の高弟と思ったものだが、それはともかく、上掲の記事は中臣鎌足も、実は実存の人物ではなかったことを暗に示していると云えよう。

では、中臣鎌足は誰のコピーだったのか、このあたりについては、次稿で取り上げることにしよう。

「天智天皇」も「壬申の乱」も,百済や新羅や伽耶の歴史書のコピーだった!

ま,この「説」が↑↑正解でしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16057898/936/


貴族の時代 04
前稿「貴族の時代 03」では、本来の飯山史観シリーズの流れから外れて、「日本列島」、「天皇」、「日本人」という、日本史を俯瞰する際に不可欠となる、三つのキーワードについての話に始終してしまったことから、今回こそは今までの飯山史観の流れに筆を戻すつもりでいた。

しかし、別の拙稿「米中衝突と香港」で武田邦彦氏の動画シリーズ、「終戦の日から人類解放の日へ」(全17話)を紹介、今朝から見始めたところ、グイグイと引き込まれ、結局、全17話を通しで見てしまった。そして思ったことは、今までに飯山一郎、栗本慎一郎、鹿島曻、落合莞爾、天童竺丸といった先輩方の史観の影響を受けていたこともあり、ここ飯山史観カテゴリでは先輩方の史観を時々取り上げていたが、今後は武田(邦彦)史観も加えることになるだろうということだった。

よって、今回筆を進める予定だった、藤原氏の出自についての記事は次回に回し、今回は武田氏の動画シリーズ、「終戦の日から人類解放の日へ」を一本ずつ紹介するとともに、何故に同シリーズに引き寄せられたのかについて、時々コメントを挟む形で述べてみたいと思う。

最初に、「米中衝突と香港」でも紹介した、「終戦の日から人類解放の日へ」の第一回目を再掲する。


終戦の日から人類解放の日へ(1)人類の歴史は鉄器ではじまった

【コメント】
小生が中学生あるいは高校生だったのは、1960年代後半から1970年代前半にかけてだったが、当時の学校で小生に歴史を教えていたのは、ほぼ全員と言っていいほど日教組の息のかかった教員だった。だから、我々の国日本は、先の大戦で他国を侵略した悪い国という先入観を、彼らに植え付けられたというわけだ。しかし、その後は高校を卒業して一年間働いて旅行資金を貯め、三年間の世界放浪の旅を体験、その時に日本を祖国として捉えるという、当たり前の感覚を取り戻せたように思う。例として、拙稿「暗黒時代を生きる若者」に載せた、パナマ運河での体験の一部を以下に再掲しておこう。

展望台でパナマ運河を眺めているうち、遠方から近づいてくる貨物船に気づいた。そして近づいて来る船の船首に掲げていた日の丸を目にした途端、父そして母のいる遠い故郷を思い出し、不覚にも涙がこぼれてしまった。

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帰国後、近隣のアジア諸国、たとえば、台湾、マカオ、香港、サイパン、インドネシア、フィリピン、シンガポールなどの国々を、会社の夏休み等を利用して訪れた。どの国も戦中は日本の〝植民地〟だったのにも拘わらず、何故か接する人たちに親日的な人たちが多く、次第に学校で習った、「侵略した日本軍」との落差に気づくようになり、何故なのかと考え込んでしまったのである。

爾来、落差の正体を突き止める〝追究の旅〟が始まった。多くの書籍に目を通したり、多くの識者の言葉に耳を傾けたりしてきた。やがて、学校で教わったの全容が掴めた頃、民族派ジャーナリストの山浦嘉久さん、世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長と知己になり、完全に本当の日本を自分に取り戻せたといっても過言ではなく、今ではお二方に大変感謝している。だからこそ、昨日から今朝にかけて観た、武田氏の動画「終戦の日から人類解放の日へ」、武田氏の云う「人類解放」の深い意味が瞬時に掴めたのだろう。

終戦の日から人類解放の日へ(2)鉄器と分化の後は上流階級の人が変わだけ

終戦の日から人類解放の日へ(3)歴史家は私生活だけ

終戦の日から人類解放の日へ(4)技術の進歩も悲惨さを増やしただけ



終戦の日から人類解放の日へ(5)ピラミッド型社会構造の発展と最後

【コメント】
上掲図の左側に三角形が三つ並んでいるが、一番右側の大きな「世界ピラミッド」こそ、小生が日頃書いている「世界権力」である。大東亜戦争当時、世界の諸国のほとんどが世界権力の支配下に入ったが、一国だけ抵抗した国、それが日本だった。そのあたりを図解で示しているのが、上掲図の右側の世界地図である。


終戦の日から人類解放の日へ(6)白人世界帝国・最後の攻撃

【コメント】
先の大戦で日本が白人世界帝国から、総攻撃を受けたことを示しているのが上掲の世界地図だ。日清戦争で白人側に寝返った清国を破り(1894~95)、日露戦争(1904~05年)で日本の植民地化を狙っていたロシアを破り、第一次世界大戦と日中戦争を挟んで、大東亜戦争では、フランス、イギリス、オランダ、といった白人世界帝国を次々に破ったものの、アメリカに対しては前半は勝っていたが、後半では原爆を二度にわたって落とされて敗れた。しかし、戦争には敗れたが、究極的に大東亜戦争の目標を実現できたことは、その後に至って多くの国々が独立したことからして明らかで、まさに1945年8月15日は人類解放の日となったのである。


終戦の日から人類解放の日へ(7)日本の戦争で国と人が平等になる

【コメント】
上掲の図が示す意味は大きい。550万年前に誕生した人類の祖先は、今から3000年前に鉄を発明し、それまでの石器による農業よりも生産性が10倍に高まった。その後も多少の技術的な進歩は見られたものの、3000年前から1945年まで、世界の生活様式は殆ど変化はなかったと云えよう。しかし、1945年8月15日の終戦を機に、史上初めて人類解放を実現、全く新しい世界が目の前に広がったのである。

終戦の日から人類解放の日へ(8)人類を新しい時代に導いた英雄たち(1)

終戦の日から人類解放の日へ(9)人類を新しい時代に導いた英雄(2)

終戦の日から人類解放の日へ(10)終戦の日→人類解放の日

終戦の日から人類解放の日へ(11)その結果(日本、黒人、女性)

終戦の日から人類解放の日へ(12)日本は戦争に負けたのか?

終戦の日から人類解放の日へ(13)科学技術も解放された!


終戦の日から人類解放の日へ(14)お金はまだ解放されていない

【コメント】
1945年以降、人種・性別・科学技術(家電製品等)といった分野で、人類は着実に「平等」に向かって進んでいるが、今日に至っても未だに「平等」を実現できていないのが「お金」だ。しかし、今の世界で「お金」の平等社会を実現できそうな国は一握りで、そのうちの一国が日本である。これが事実であることは、メスペサド理論を追ってきた放知技の読者であれば言わずもがなだろう。今回のコロナ禍を機に、一人でも多くの人たちが声を上げれば、人類史上初めて「お金」で平等な国造りを、日本で実現できる。

終戦の日から人類解放の日へ(15)日本とナチスドイツ

終戦の日から人類解放の日へ(16)なぜ、日本の学者は間違ったのか?

終戦の日から人類解放の日へ(17)なぜ、おじいさんは悪いことをした

ご参考までに、その他にも武田氏の歴史シリーズが幾つかある。

全26話の「反日の根源」
全14話の「大きな歴史・小さな事件」


貴族の時代 03
コロナ騒動が勃発してからというもの、小生は奇妙な感覚に陥っている。それを一言でいうなら、シンクロニシティ…。

つまり、「日本列島」、「天皇」、「日本人」についての見方・考え方で、互いに共鳴(シンクロニシティ)できる人たちが、意外と周囲に多いことに気づいたのだ。今回は、そうしたシンクロニシティを感じた人たち数名に登場していただこう。

■水島総・林千勝
拙稿「米中衝突の背景」で紹介した、水島総氏と林千勝氏による特別対談の動画について、小生は放知技で以下のような感想を述べた。

ちなみに、同動画の後半は、日本人の心の中にある天皇についての話で、小生は二人(林千勝氏と水島総氏)の天皇論に同感である。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17178824/218/


■武田邦彦
どのような点を以て、小生は水島氏と林氏の天皇論に同感したのか? そのあたりについて述べるにあたり、シンクロニシティを感じたもう一人の識者、武田邦彦氏の物の見方・考え方を紹介しなければならない。何故なら、上掲の林氏の場合、「天皇は世界の宝」と指摘しているだけに過ぎないのだが、武田氏の場合、さらに深く掘り下げ、日本人が天皇というものを誕生させたものこそ、「日本列島」に他ならないことを突き止めているからだ。そして、その武田氏の解は、小生が前々から考えていたことと一致していた! 以下、武田氏の動画、および小生のブログ記事・掲示板「放知技」への投稿を、時系列で紹介しつつ、武田氏と小生が共通して抱いている、「日本列島」、「天皇」、「日本人」について紹介するとともに、簡単な解説を加えてみたい。

5月10日、小生は「天武天皇 18」と題するブログ記事をアップ、「■日本人と天皇」という小節で以下のように書いた。

なぜ日本列島に天皇が誕生したのか…、こうした他国にはなく日本人だけにある民族気質が醸成されたのも、やはり日本列島に答えを求めるしかない。なを、日本列島についてさらに深く知りたくなった読者は、拙稿「奇跡の日本列島」に一度目を通していただければと思う。


すると、一週間後の5月16日、武田氏が以下のような動画をアップ…。


【武田邦彦】ついに来ます!本当の「日本」が復活する日が。私は心からそう思っています

最初に、武田氏はコロナ禍についての総括から話に入り、続いて日本が成功した理由として、日本人の民族的な気質にあると言及した。

つまり、今回のコロナ禍を日本が乗り越えることが出来たのは、日本列島そのものに解があると武田氏は指摘しているのだ。換言すれば、日本列島に住む人たちの間で醸成された「平等」という概念こそ、日本が世界で最もコロナ克服に成功した国の一つになったと、武田氏は主張しているのである。

この「平等」という思考行動様式が、日本人の民族気質になったのも、日本列島が北半球では唯一の温帯に属する列島だったからだと武田氏は語っていたが、このあたり、上掲のブログ記事で小生が主張した、「日本列島に答えを求めるしかない」と根底で繋がっているのだ。そうした他の地域にはない、「平等」という民族的気質を醸成した、日本列島に住む人たちの間から世界唯一の「天皇」が誕生した。つまり、世界の他地域で誕生した「王様」とは、根本的に異なるのが天皇なのである。

これは、日本列島に住む人たちが、彼らの中から一人だけ長(おさ)を選び、長以外の全員が「平等」であるという社会を、世界で唯一実現した国だったことを意味する。要するに、階級(身分)制度や奴隷といったものが、日本列島には生じなかったということ。これが、武田氏が言う所の世界唯一の「平等」の国として、日本列島を挙げる所以である。

もう一点、加筆しておきたいことがある。それは、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」(仁徳天皇を偲ぶ詠歌)だ。

5月22日、上掲の武田氏の動画「ついに来ます!本当の「日本」が復活する日が」について、小生は放知技で報告を行った。

シンクロニシティとでも云うのでしょうか、最近小生が取り上げるようになった日本列島と霊性の結びつきについて、武田邦彦氏も以下のような動画をアップしていたのも、とても偶然とは思えず、武田氏と小生というか、コロナ禍を体験中の現代人の深層心理が、何処かで結びついた(顕在=シナプス伝達)ような気がしてなりません。
【武田邦彦】ついに来ます!本当の「日本」が復活する日が。私は心からそう思っています

……中略……

ともあれ、古の人々は、『新古今集』に見出せる仁徳天皇を偲んだ詠歌、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」を例に挙げるまでもなく、精神の崇高さでは現代人よりも遥かに上でした。しかし、三千年前に誕生した寄生虫(DS)のため、一部あるいは大半の人類の精神は、寧ろ退化していく一方だったのも紛れもない事実です。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17178824/261/


5月25日、武田氏が新動画をアップしたので観たのだが、非常に驚いたことがある。


【武田邦彦】15分だけ時間ください!私が生きているうちに皆様にお伝えしたい重要な話。

何に驚いたのかと云えば、5月22日に小生は放知技の投稿に以下を書いたことと関連する。

古の人々は、『新古今集』に見出せる仁徳天皇を偲んだ詠歌、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」を例に挙げるまでもなく、精神の崇高さでは現代人よりも遥かに上でした。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17178824/261/


なんと、武田氏も上掲の動画「15分だけ時間ください!」で、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」を、数度にわたって言及していたのだ。このあたり、偶然を超えた「神計らい」を感じたものである。

ともあれ、同動画は天皇を唯一の長とする発想は、世界の他地域の何処にもなく、日本(およびツラン)独特の体制だった上、それを可能にした背景を具体的に武田氏は述べているので、それだけでも同動画を観る価値はある。

また、〝特殊な組織論〟を教えてくれた動画でもあった。金儲けしか頭にない今の日本の組織のトップ連中にとって、武田氏の話は実に耳の痛い話になったはずだ。

その他、放知技で活発に行われた男系天皇を巡っての議論、そのあたりを武田氏はサラリと、実に的を得た見解を述べていた。

ところで、上掲の動画で武田氏は、「日本人は天皇陛下の子どもだ。だから、日本人全員が血が繋がっている」と述べた。こうなると、最近の拙ブログで連載している、「国士渡邉正次郎」の渡邊氏に、ここで登場してもらわなければならない。

■渡邉正次郎
最近、「国士渡邉正次郎」と題するシリーズを、小生は時折ブログ記事にしているが、今までに紹介してきた渡邊氏の動画を観た読者は、同氏が今の国会議員に最も恐れられている、漢であることが分かったと思う。その渡邉氏、遠祖を辿ると嵯峨天皇に行き着く…。

私は嵯峨天皇の皇子、融(とおる)、嵯峨源氏、源(みなもと)の融の四代目の孫の源の綱(つな)、のちの渡邊の綱で、大江山の鬼退治をした綱の子孫です。
『芸能人、ヤクザ、政治家は弱い者イジメが大好き』p.227


渡邊氏の実父・渡邉政直についてだが、「永田町の性器に天罰!」というブログ記事で、渡邊氏は以下のように実父について述べている。

「会津小鉄会」、「山口組」「稲川会」「住吉会」「極東会」も、正次郎の父、浅草「大羽組」二代目の渡邉政直が、「山口組」田岡一雄三代目と五分兄弟だった
永田町の性器に天罰!


渡邊氏の本やブログを長年にわたり追ってきた小生が、コロナ禍をきっかけに、渡邊氏にアプローチすることにしたのは、史上初めての独立国家を果たせるかどうかという、絶妙のタイミングに日本があるということが一点。そして、コロナ禍以降に訪れるであろう、世界的なパラダイムシフト(大転換)を肌で感じ取り、日本を動かすには国会議員からと判断したからだ。だから、今の国会議員に最も恐れられ、最も影響力のある渡邊氏にアプローチしたのも、こうした理由に依る。

ところで、本記事の冒頭で小生は、シンクロニシティという言葉を登場させた。実は、「シンクロニシティ」そのものの題名で過去に記事を書いたことがある。
シンクロニシティ

同稿の最後に、中央公論社の世界の名著シリーズの『マキアヴェリ』で、ヴィルトゥとフォルトゥナについて言及した箇所を引用したが(p.38~40)、それを久しぶりに読み返すに、今回のウイルス禍は人類が劇的に変わり得る千載一遇のチャンスだ、と改めと思ったのである。よって、ヴィルトゥとフォルトゥナについての行を以下に再掲しておこう。

マキアヴェリ以前の人々はフォルトゥナは気まぐれで彼女のお気に入りの人々にのみほほえみかけるものだと考えていた。しかし、マキアヴェリの独創的なこれらの考え方は、以前からの一般の見解を修正した。彼によれば、事態をコントロールする機会は、短い瞬間においてのみ人閲に与えられている。つまり、好ましい情勢をつかみとることこそヴィルトゥなのである。このように好ましい情勢にヴィルトゥを一致させるという考えは、マキアヴェリの政治思想のうちのもっとも菟命的た姿を示すものなのである。この相対主義は、『君主論』の全巻を通じてひろがっていくことになる。ここにおいてヴィルトゥは、観察と選択と果断によって構成されることとなった。
『マキアヴェリ』p.38


それから、天皇と日本人について追記しておくことがある。〝血縁〟の観点から見るに、我々一人一人の遠祖の誰かが、皇室と血縁で繋がっているという事実だ。拙稿「民のかまどより公を想ふ」で、小生は以下のように述べた。

渡邉氏の選挙演説の内容を伝えながら、「(渡邉正次郎氏のように)高貴な血筋の方は、小生なんかと違いますねぇ…」と言うと、栗原さんは以下のように語ったのだった。

亀ちゃん、お前にも皇室の血が流れているんだよ。いや、日本人なら何処かで皇室の血が流れているのだ。しかし、だからと言って、それが偉いということでも何でもない。

民のかまどより公を想ふ


当初、本稿では飯山史観の「貴族の時代」の続きとして、貴族型政治を実現させた藤原氏の出自について書くつもりでいた。しかし、貴族型政治や藤原氏の出自を語る前に、どうしても、「日本列島」、「天皇」、「日本人」について、ここで俯瞰しておくべきだと判断したので、今回のような記事内容になった次第だ。

次回は、藤原氏の出自について筆を進める予定。

貴族の時代 02
今の小生は、天武天皇シリーズ(計19回)という、「飯山史観」最大の山場を終えてホッとしている。何故なら小生にとって、天武天皇シリーズを終えたということは、マラソンに喩えるなら、ちょうど折り返し地点を通過したことを意味するからだ。勢いに乗って次のシリーズ「貴族の時代」にも早速着手、最初の「貴族時代01」を先日アップした。さらに続けて、貴族の時代の続きを書くつもりでいたが、思うところあって、今まで書いてきた飯山史観を振り返り、これから飯山史観の完成に向けて何を書いていこうかと、一旦立ち止まって考えてみることにした。

■今までの飯山史観
最初に、今までに書いてきた飯山史観を振り返ってみた。

宇宙開闢から飯山史観の連載を開始、人類誕生まで一気に時間の針を進めた。その後の人類は脱アフリカを果たし、主に三つのルートに分かれて世界各地に散っている。一つはヨーロッパに向かったグループ、もう一つはインド亜大陸経由でオーストラリアに向かったグループ、そして最後の三つ目のグループはシベリアへと向かった。シベリアに流れて当地に定住したグループから、様々な民族が誕生、ツランという民族大集団となり、人類初の文明が誕生した。そのツラン文明を源流として、やがて黄河、インダス、メソポタミアで文明が開花している。

次に、視点を日本列島に移してみた。

北方から来たツランの民、そして南方から来た黒潮の民が日本列島で合流、やがて古代日本語の母胎となる言葉が誕生した。その日本列島は北半球で唯一の温帯列島であり、日本列島でしか醸成し得なかったであろう、他地域にはない独特の民族気質を持つ原日本人が誕生した(紀元前1万5千年前頃)。

日本列島に根を下ろした原日本人は最初、狩猟中心の生活を営み、列島各地を流浪していたが、やがて縄文時代に入ると、三内丸山遺跡に見られるように、狩猟型から農耕型へと生活様式が大きく変化、それに伴って定住化が進んだ(紀元前5千年頃)。

約二千年ほど前、古墳文化を背景にした幾つかの集団(豪族)が日本列島に侵入、古墳時代が幕を開けた(紀元前後)。

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天武天皇

諸豪族による群雄割拠が続く日本列島に、今度は百済が侵入、天武天皇によって日本の建国が成し遂げられ、ほどなくして貴族(官僚)型の時代へと移行した。爾来、千年以上にわたって貴族型の社会が今日に至っても続いている(7世紀)。

以上が、今までの飯山史観(計66回)で書いてきた主な流れである。

■今後の飯山史観
次に、飯山史観の完結に向けて、どのような内容で今後は筆を進めていくべきかを考えてみた。

まず、手始めに前稿「貴族時代01」を読み返してみた。藤原氏(藤原不比等)以降、千年以上にわたって今日に至るまで綿々と続く〝貴族支配〟の日本、そして、「中央集権」と「地方分権」という〝リズム〟が、交互に繰り返されてきたことを同稿で確認した(出世外人さんの物差しに基づく。拙稿「貴族時代01」参照)。

日本で歴史が始まって以降、貴族支配型国家という国の形を基本的な骨格として、その後千年を超えて日本の歴史が続いている。その期間の表層的な国の形を大雑把に分類するとすれば、以下のようになろう(飯山さんの二本の物差しに基づく。拙稿「天武天皇 19」参照)。

1.貴族の時代(~平安時代) 藤原道長の時代に藤原氏は絶頂期を迎えた
2.武士の時代(鎌倉時代~江戸時代) 武士が誕生、やがて徳川家康が武家国家の礎を築いた
3.立憲君主の時代(明治維新~大東亜戦争敗戦) 明治維新を迎え、立憲君主型の国家に変貌を遂げた
4.属国の時代(敗戦~平成末期) 敗戦によるGHQ占領が始まった
5.半属国の時代(平成末期~) ネオコンを官邸から追放、半独立国家を勝ち取った


大体以上のような流れで筆を進めていく予定だ。そして、最終章となる完結編では、半属国からの脱皮を図るべく、コロナ禍を引き金とする大転換期の波に乗り、日本史上初の独立国の時代を目指している最中であることを筋道を立てて述べ、日本精神(霊性)を取り戻すまでの道程を示すことができればと思う。

つまり、我々は日本人として何ができるかということを、一人一人が考え、実行に移すことを促すような内容の最終章にしたいと思っているのだ。そうした我が国が歩むべき将来への指針(羅針盤)を書き終えるのは、早くて一年後、あるいは数年が必要になると思うが、最終的に150本前後の飯山史観ブログ記事を、一枚のPDFファイルに纏め終えた時点で、飯山史観の完成となる。

今までのように飯山さんの記事や投稿を単に読んで、「なるほど、なるほど」と感心するだけの時はもう過ぎた。これからは、自分の頭で考え、判断し、行動に移していくことが肝心で、それこそが、飯山さんへの何よりの供養となろう。
『飯山一郎最終講義』p.154


ここで、大きな日本史の流れというか、マクロの視座で飯山史観を執筆していくことを念頭に、取り上げたいテーマは数多くある。そうしたテーマで思いついた項目の一部を、時系列を無視して以下に列記してみた。

・藤原氏の出自(正体)と深謀
・藤原氏の最盛期(藤原道長)
・武士の台頭
・東北の地におけるアテルイと突厥
・明智光秀と天海
・武家国家を成立させた徳川家康の偉業
・律令国家(令和の令は律令の令)
・失敗だった明治維新
・GHQの仕掛けた罠、その罠にはまった日本
・米中対立に見る世界権力(黒い貴族)の正体
・現在進行形のパラダイムシフト
・バクス・ブリタニカ→バクス・アメリカーナ→日本
・南北朝時代の真相
・織田信長の正体
・楠木正成と世阿弥
・日本列島・日本人・天皇・霊性
・日本とツラン
・日本と黒潮
・サンカ(山窩)と部落民
・天皇と金王朝
・日本語の成立
・『近代日本の精神構造』(神島二郎)の解剖
・和食の凄さ

  …………………………………………


上掲のテーマすべてを必ずしも記事にするわけではなく、また、それ以外にも多くの記事にしたいと思うテーマも多々あるが、すべてを取り上げていったら、何時まで経っても飯山史観が終わらないような気がする。よって、マクロの視座(大局的観点)で眺めた、大きな日本史の流れを中心に筆を進め、それ以外にミクロの視座(局所的観点)のテーマを、時折織り込んでいく形で筆を進めたいと、今のところは思っている。

■折り返し地点
以上、冒頭でも述べたように、「天武天皇 19」を以て飯山史観の折り返し地点に到達、続く「貴族の時代 01」を書き終え、さぁ、ゴールに向かって頑張ろうと、本腰を入れて今日も飯山史観に取り組むぞと張り切っていた矢先、渡辺正次郎氏のブログに投稿したコメント21でも述べたように、早ければ今週、遅くとも来週にも再び仕事に追われそうな気配が濃厚だ。よって、仕事が再スタートしたら、再び月数本という記事数に減少すると思うが、そのあたりは予めご勘弁願いたい。

今回のコロナ禍で、欧州の自動車メーカーや機械メーカーが自社工場を一時閉鎖、それに伴って4月29日の仕事を最後に、今日に至るまで仕事ゼロの日が続いていましたが、欧州で経済活動が再開されたこともあり、懇意にしている南欧の翻訳会社からも昨夜連絡があって、「近々大量の仕事を依頼するから、時間を空けておくように」、という依頼のメールが届いて一安心しているところです。


ともあれ、ゴール到達(飯山史観の完成)は大分先の話になる。最後まで無事に完走できるかどうか、今の時点では約束はできないものの、健康に留意し、何とか頑張ってゴールイン(完走)を果たしたいと願っている今日この頃である。

貴族の時代01
早いもので、今日で五月中旬も終わり、明日からは下旬に突入する。今のところ、今月手掛けた仕事(翻訳)はゼロ…。この仕事を始めてから20年が経つが、もし今月の仕事がゼロとなれば、これは初めての体験となる。それだけ、今回のコロナ騒動が如何に深刻なものだったかということが分かるだろう。無論、五月に入っても仕事の打診メールが数本あったものの、得意な分野ではなかったり、翻訳料金で折り合いがつかなかったといった理由で、すべて断った。先月中旬まで、ほぼ連日十時間以上のペースで半年にわたって仕事を熟してきたこともあり、今年一杯は仮に仕事ゼロでも大丈夫な状況にあることから、特に焦りといったものは感じていないものの、いつまでこうした状況が続くのかと、気にはなることが時々あるのも確かだ。まぁ、仕事量が元に戻るまでは、精力的に飯山史観に取り組み、未だ終わっていない昨年末の大掃除をやったり、溜まりに溜まった書籍を読んだり、録画しておいた大量の動画から特に気に入ったものを選んで観たりするなどして、自分なりの充電期間として当面は過ごしていくつもりだ。

では、早急に飯山史観について筆を進めていこう。

大唐帝国の軛から脱し、国造りを成し遂げた天武天皇が崩御して以降、中臣鎌足を始祖とする藤原氏が台頭、貴族支配型の時代に突入したというのが、奈良時代から平安時代にかけての主な流れだが、この貴族支配型、実は千年以上が経過した今でも続いているのだ。より正確に言えば、「天武天皇 19」で述べたように、藤原氏の台頭により貴族支配型政治が暫く続いた後、今度は武士が台頭してきて徐々にその勢力を強め、徳川家康によって武家支配型の時代が確立したわけである。それでも、貴族は日陰で生き延びてきたのだ。その貴族支配型の時代が、再び息を吹き返す切っ掛けとなったのが明治維新で、爾来、今日に至っても貴族支配型が継続しているということになる。ここで、「貴族支配が続いている?」と、首を傾げる読者が少なくないかもしれないので、このあたりを今回は詳述しておこう。

最初に、小生は「天武天皇 19」で飯山さんが遺してくれた、歴史を観る〝物差し〟を二本紹介しているが、実はもう一本ある。それは、2019年4月12日に掲示板「放知技」で発表された、出世外人さんの以下の〝物差し〟だ。

 *大和政権草創期:分権的
    ↓
 *奈良時代~平安時代中期:中央集権的(大宝律令制定 現在に続く徴税機構と官僚機構の成立
    ↓
 *平安時代後期~鎌倉時代:地方分権的
    ↓
 *建武親政:中央集権的
    ↓
 *室町時代~戦国時代:地方分権的
    ↓
 *織豊期:中央集権的
    ↓
 *江戸時代:地方分権的
    ↓
 *明治時代:中央集権的
    ↓
 *大正時代:分権的(大正デモクラシー)
    ↓
 *昭和・平成:中央集権的(大政翼賛、国家総動員法)、グローバリゼーション

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ここで、奈良時代の「現在に続く徴税機構と官僚機構の成立」という説明文に注目していただきたい。これが、冒頭で述べた貴族支配型、別の表現を用いるとすれば官僚支配型を指しているわけで、紆余曲折(一時の衰退)はあったものの、現代にわたっても生き永らえてきたのが貴族(官僚)であり、それが千年以上にわたって続いているわけである。そうした官僚支配型国家の礎を構築した人物こそが、中臣鎌足の〝子〟である藤原不比等ということになる。

ここで横道に逸れるが、通説では藤原不比等は藤原鎌足(中臣鎌足)の〝子〟とされているが、実は不比等は人ではなく、組織を指していると主張していたのが栗原茂さん、そしてシバちゃんことマヨさんだった。今でもネットに残っているブログ「シバちゃんのため息」にある、「サンカの親分」という記事に注目して戴きたい。

結局のところ、藤原不比等という四部族の合成家系がその頂点にあり、その四家がそれぞれの全国ネットを築いたのである。大江山霊媒衆というのは近江に渡来した佐々木源氏部族で、その主家が藤原北家となったため、それ以来影となって北家を支え続けてきたのだ。そしてその配下には全国の渡来職能集団がいて、それらがサンカだったのである。


一読して、頭が混乱した読者が多かったのではないだろうか…。

実は小生、シバちゃんことマヨさんと不比等を巡って議論を交わしたことがあり、お互いに平行線をたどるばかりで埒が明かなかったことから、判定役として小生が懇意にしていた、皇室情報に詳しい栗原茂さんに直接確かめたところ、マヨさんの説に軍配が上がったという次第である。

つまり、不比等の四人の子されている、房前(北家)、麻呂(京家)、宇合(式家)、武智麻呂(南家)は、それぞれ四部族を指しているとする、マヨ説を栗原茂さん支持したわけだ。爾来、十年の時間が流れたが、小生は今でも完全にお二人の部族説あるいは組織説に納得しているわけではない。ただ、不比等と四人の息子が人であれ、組織あるいは部族であれ、どちらでも構わないと今では思っており、歴史という大河から見れば、こうしたことは些細な小波に過ぎないのだ。要は、不比等以降は藤原北家が栄えて今日も続いているという事実を指摘しておけば、今のところ十分かと思う。そのあたりは、拙稿「天武天皇 17」で北家について簡単に述べた。

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出世外人さんの物差しに話を戻す。改めて出世外人さんの物差しを眺めるに、日本という国家は二つの型、すなわち「中央集権」と「地方分権」とが交互に繰り返されてきたことに気づくことだろう。実はこれ、昨今の堺のおっさんが主張する道州制と根底で繋がっているのだ。

そして、刮目すべきは出世外人さんの以下の言葉である。

それでは「和」時代はどちらに向くのかというと、やはり地方分権化の方向で、「道州制」的な体制は自然な流れに思えます。

グローバリズムがオールドファッション化し、ネオコンが弱体化、トランプ氏やプーチン氏など、非介入路線のリーダーが世界を守っています。

日本も、国内をしっかり固めて、日本を取り戻す、調整の時期に入る、といったところではないでしょうか。


過去において、日本列島では「中央集権」と「地方分権」が繰り返されてきた要因(引き金)こそが、飯山さんの言葉を借りれば「外圧と占領」なのだということを念頭に置きつつ、改めて出世外人さんの上掲の投稿を熟読玩味していただければと思う。

それから、上掲の引用で「和」と、小生は令和の令を赤文字で示した。それは、令和の「令」は律令の「令」を指しているのではないかと、指摘する道友(小ボンボンさん)がいたのだ。実に鋭い指摘だし、かつ意味深長だ。

【追記1】
小生は最近、拙ブログで「日本列島」について多角的に述べたが、そうした小生の日本列島観を後押ししてくれる動画が、二日後に公開されたので以下に紹介しておこう。


【武田邦彦】ついに来ます!本当の「日本」が復活する日が。私は心からそう思っています

武田氏の「温暖な列島は日本だけだった」、という発言に注目していただきたい。この言葉の意味するところは深長だ。

【追記2】
旧ブログで、「覇王不比等」という記事を書いたことがある。執筆したのは2007年4月10日と、今から13年前の記事であり、その後は小生の不比等観の変化もあって、今では見直したい箇所が多々あるものの、関心のある読者に一読していただけたら幸いだ。

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天武天皇 19
思えば、天武天皇シリーズを開始したのは昨年の6月11日(「天武天皇 01」)、かれこれ一年近くの月日が経過したことになる。その間、本業(翻訳)で多忙を極めたこと、その他が重なり、遅々として天武天皇シリーズの執筆が進まなかった。

そんな矢先、降って湧いたような新型コロナウイルスの発生、瞬く間に世界中に伝染し、人々を恐怖のどん底に陥れた。それに伴い、最終的な顧客である世界各国の自動車メーカーや機械メーカーが、軒並み自社工場の閉鎖を余儀なくされたこともあり、それに伴って小生の仕事(翻訳)も激減、ここ半年にわたる多忙だった日々が嘘のようだった。しかし、物は考えようで、今までの飯山史観編集の遅れを一挙に取り戻すべく、精力的に飯山史観に取り組める時間ができたことは有難い。それでも、いつまでもこの状態が続くようであれば困るし、秋口には従来の仕事量に戻るだろうと思っているのだが、果たして…

さて、18回に及ぶ天武天皇シリーズを振り返り、いろいろと検討を重ねた結果、一年近くにわたって続けてきた天武天皇シリーズ、今回を以て一応終了することにした。再び本業(翻訳)で忙しくなる前に、天武天皇以降の時代について出来るだけ筆を進めていきたいと思う。よって、今回は計18回続いた天武天皇シリーズの総括とする。

本記事のカテゴリ名「飯山史観」が示すとおり、本カテゴリに書いている記事内容は、故飯山一郎さんの古代史観を一枚のファイルに纏めるにあたって、飯山さんが遺してくれたHP記事と掲示板「放知技」への投稿を中心に、飯山さんの古代史観を纏めていく過程で思ったことや、気づいたこと書き連ねた、謂わば作業日誌である。今のところ、150本ほどの記事数になる見込みだが、最終的に一枚のPDFファイルに仕上げる段階で、重複している箇所や削除すべき箇所、逆に追記すべき箇所が多く出てくるものと思われることから、すっきりと一枚のファイルに纏める作業に着手するのは、150本の記事を書き終えてからにしたいと思っている。ただ、何分にも総編集に向けた確認作業に多くの時間を取られている現状から、そうした仕上げの段階に進むまでには、当初計画していたよりもかなり時間がかかりそうで、もしかしたら二~三年がかかるかもしれない。よって、完成するまでは、健康に留意し、ヨガや散歩等を積極的に行い、玄米を中心にした一日一食主義を貫徹していくつもりだ。

では、さっそく天武天皇シリーズの総括に入ろう。

まず、飯山一郎さんが遺してくれた、飯山史観の〝物差し〟二本を以下に再掲してみよう。

「日本」という国家の出発点は,歴史的には,五つある.

 1.天武天皇の「日本建国」による脱唐国支配国家

 2.藤原(不比等)氏による貴族支配型律令国家

 3.徳川家康による武家支配型・幕藩体制国家

 4.明治政府による脱植民地型海外進出国家

 5.敗戦後の米国による占領・属国支配型国家

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続いて、もう一本…

日本の歴史は,外圧と占領により大変化します.
その「外圧と占領」は,今までに7回半ありました.

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.

第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,坂本竜馬,高杉晋作らの「尊王派」や「倒幕派」を扇動して,幕藩体制の徳川国を倒し,西欧文化万歳!の明治新国家を建国させ,英国による間接支配が始まる.

ただし,高杉晋作は上海から帰国後,西欧列強の「カラー革命」を見抜いていたが…,明治維新の前年,29才で死去.
この高杉晋作の「無念と残念」を,安倍晋三は熟知している.

第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国となる.

第8回目は,現在進行中だが,日本は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ.

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赤文字で示すは、今回で終わる天武天皇の御代だ。天武天皇を以て日本の歴史は始まったということを、過去の「天武天皇」シリーズで小生は度々書いた。それは、歴史を記録するもの、文字が誕生したからであり、それが天武天皇が編纂した日本書紀、そして古事記だ。

加えて、当時の日本列島、そして東アジア情勢を考えるに、大唐帝国は想像を超える大きな影響を周囲に及ぼしていたことに気づく。その唐から命を狙われ、命からがら済州島から九州へ天武天皇は逃れた。それを飯山さんは、上掲の「脱唐国支配国家」という表現を用いたわけだ。無事に日本に逃れた天武天皇は、日本列島に新しい国の形を造る、すなわち日本建国という大戦略(グランドストラテジー)に着手した。だから、日本書紀の編纂目的も唐による暗殺から逃れ、脱唐国支配国家への重要な第一歩だったのだが、そのあたりは飯山さんの日本書紀についての投稿に詳しい。

しかし、藤原氏の台頭で、次第に天武天皇の系統は追いやられてるようになった。再び飯山さんの言葉を借りれば、「貴族支配型律令国家」への移行が始まったのだ。つまり、奈良時代が天武天皇の時代だったとすれば、続く平安時代は「貴族支配型律令国家」の時代、すなわち藤原氏の時代へと移行したことになる。そのあたりは、たとえば天武天皇が編纂した日本書紀が何よりも多くを物語っており、改訂を幾度か重ねた日本書紀、改訂する度に藤原氏寄りの内容になっていったことからして一目瞭然だ。

天武天皇の話に戻る。天武朝は日本の歴史の幕開けという、まさに日本史のターニングポイントであった。だが、何分にも千年前以上も前の出来事だけに、未だに解明されていないことが多く、書物やネット界は、たとえば大化の改新一つとっても百家争鳴といった感があり、賑やかなことこの上ない。小生の場合、大分前から気づいていたことだが、最近になって漸く日本史の核心に一歩迫ることができたように思う。それは、拙稿「天武天皇 18」で述べた「日本列島」で、これをキーワードに置けば、巨視的に日本史の骨格が把握できると思うに至ったのである。

なぜ日本列島に天皇が誕生したのか…、こうした他国にはなく日本人だけにある民族気質が醸成されたのも、やはり日本列島に答えを求めるしかない。


「日本列島」は日本史の骨格を攫む上でのキーワード…、人から見れば牽強付会の謗りを免れないかもしれない。また、後になって訂正をするかもしれない。それはともかく、太古の昔に日本列島に定着した人々は、他にはない日本列島という独特の風土に感化され、次第に寛容さを身につけるようになったのではと思う。それだけ、我々の住んでいる日本列島には不思議な力が潜んでいる気がしてならないのだ。

日本に入ってきた佛教、その後は大きく変容を遂げ、日本の風土に溶け込んでいった…。このあたりに、他国にはない日本人の持つ寛容の精神、受容力といったものを感じます。それが猿都瑠さんの佛教の神道化あるいは日本化を指しているのだと思います。
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上掲は放知技に投稿した小生の一投稿だが、佛教に限らず人も日本列島に定住するようになってから変わった…。そして、定着して日も浅い者は、自身が生まれ育った国の言葉・習慣・思考形式を暫くの間にわたり引き摺っていたということになり、一方、世代を重ね、すっかり日本列島に溶け込んだ人たちは、その思考様式もすっかり今の日本人に見るそれになった(「日本人の心」参照)。そのあたりを確認する意味で、以下の絵巻を叩き台に確認してみよう。

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この絵巻は多武峰縁起絵巻と言い、江戸時代に住吉如慶・具慶が合作の形で描いたものとされ、拙稿「天武天皇 16」でも一度紹介した。この多武峰縁起絵巻、数年前に世界戦略情報誌『みち』の執筆者と読者が集うまほろば会で、講師役を務める安西正鷹さんが言及したことがあり、その時に安西さんが言い放った、「首を刎ねるあたり、温和な日本人には似合わぬ残酷な絵巻」という言葉が、今でも耳にこびり付いている。

安西さんの云い放った「温和な日本人」についてだが、そうした温和な日本人を醸成したものこそ、日本列島そのものに他ならないと思うに至ったのである。そのあたりについて思うところを、拙稿「天武天皇 18」に「■日本人と天皇」と題した小節にも書いている。

我々日本人にとって、天皇とは何なのかと考えることは、実はこれ、己れのアイデンティティそのものを問うことなのである。


天皇について深く追求するようになったきっかけは、まほろば会に顔を出すようになった頃からで、様々な角度から日本と天皇について多くの人たちの話に耳を傾け、また天皇に関する書籍を多く読んできた。そして現在は寛容で優しい日本人が誕生したのも、天皇が誕生したのも、日本列島という風土にこそ解があるのだと思うに至った次第だ(「奇跡の日本列島」参照)。

ここで、上掲の絵巻に話を戻す。天武天皇シリーズの中でも、「天武天皇 16」で一部引用した、『扶桑国王蘇我一族の真実』(渡辺豊和)の一節と、その一節についての小生のコメントを追記した行があるので、以下に再掲しておこう。

蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)


渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。


ここで、、「天武天皇 16」で渡辺氏が記した「聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式」の行は、蘇我氏の一族は北魏にルーツを持っていたことを暗示している。そして、天武天皇のルーツも北魏である。そのあたりは、架空の人物である聖徳太子ではなく、実存の人物であった天武天皇の息のかかった十七条憲法からして明白だ。そして、実際に十七条憲法の作成にあたったのは、土地が温暖で温厚な人たちが住む日本列島にすっかり溶け込み、正真正銘の日本列島の住人になった役人たちだったのだろう。

一方、架空の人物と思われる〝中大兄皇子(後の天智天皇)はともかく、中臣鎌足(後の藤原氏)〟の場合、蘇我入鹿の首を刎ねるという残忍性を示す上掲の絵巻から明白なように、後に藤原氏を名乗る中臣鎌足の出自は、日本に渡来したばかりの者たちの持つそれである。中臣鎌足は未だ日本人の間に溶け込みきれていなかった、つまり渡来して日が浅かったのが中臣一族、後の藤原一族だったのではあるまいか。

そうであれば、果たして藤原氏は何処から来たのか…。次稿から平安時代、すなわち藤原氏が着手した貴族支配型律令国家のラフスケッチあたりから筆を進めたい。

【追記1】α群とβ群
掲示板「放知技」で、mespesadoさんが重要な投稿を行っている。これは日本書紀の正体を考証する上で、欠かすことのできないα群とβ群についての発言だ。ここで、α群とβ群と書くだけでは、何のことやらさっぱりという読者もいるかもしれないので、そのあたりの解説は以下のサイトを参照していただければと思う。
九州王朝説批判

【追記2】守谷史観
天武天皇シリーズを終えるにあたり、多くの民間歴史研究家の研究成果を参照にさせていただき、本当に有難かった。そうした一人として、放知技の常連さんの一人、はぐらめいさんが推薦する、守谷健二氏の「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について」を紹介しておこう。

「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(1)
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(2)
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(3)


守谷氏の天武天皇観と合せて、はぐらめいさんの上記三本の解説記事を読めば、飯山さんの天武天皇観と共通する点、そして異なる点が浮き彫りになり、参考になると思う。

【追記3】『天皇系図の分析について』
晩年、熱心に同書に取り組んでいた飯山さんも仰せだったが、同書の場合、例えば第九章の「卑彌呼の生家は満州の遼東半島」や、第十二章「聖徳太子は架空の人--憲法十七条も架空」といった、賛同できる章があるかと思えば、第二十三章の「天智天皇と天武天皇の正体」のように、同意致しかねる章もあるという具合に、玉石混合の感のある本だ。そのつもりで同書に接すると良いと思う。

【追記4】その他
上掲の『天皇系図の分析について』は、韓国について多くのページを割いている。よって、韓国人の持つ民族性を一度考察してみたいという読者向けに、動画を数本を紹介するとともに、併せて小生のコメントも付記しておく。


【武田邦彦】テレビが絶対カットする彼らの起源!彼らはいったいどこから来たのか?なぜ日本人とこうまで違うのか?日本人全員が思っているこの大疑問

→ 日本人と韓国人をDNAの観点から見ると、かなりかけ離れていると武田氏は説く。


【武田邦彦】誤解?日本の文化は大陸から来たのではく南方から来た。昔は寒くて大陸にはとても住めなかった。夏でも氷が3メートルも積もっていた。

→ 小生は日本列島の遠祖は北方系(ツラン民族)と南方系(黒潮民族)に大分されると思っているが、北方系からの流入、殊に小氷河期の流入を考えるにあたり、様々なヒントを武田氏は上掲の動画でもたらしてくれる。


新羅人 韓国人のルーツは何者なのか? 劣等感発祥、中国化の元凶は新羅だった!!

→ 嫌韓の人が制作した動画ではと思うほど、偏見に満ちた動画である。そして、間違いも多い。例えば「馬韓」。拙稿「天武天皇 09」ても指摘したことだが、馬韓は朝鮮半島南部にあったのではなく、遼東半島にあった国だ。

【追記5】日本列島
以下の記事は上掲の『みち』(平成20年12月1日号)に掲載されたもので、日本列島をテーマとした過去の拙稿でも度々紹介した記事だ。今回の拙稿でも、日本史を紐解く上でのキーワードとして「日本列島」を取り上げていることから、以下に再掲させていただく。

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