FC2ブログ
プロフィール

亀さん

Author:亀さん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

kamesan

人生は冥土までの暇潰し

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
武士の時代 13
21053001.jpg

拙稿「武士の時代 09」以降、南北朝時代に筆を進めて今回で五回目となる。当初は落合莞爾史観と飯山一郎史観という、経糸と緯糸で室町時代という一枚の織物を織るつもりが、いつの間にか今東光史観と落合史観という糸での機織り作業に変わっていた。この分だと、武士の時代の終わりあたりまで、すなわち幕末あたりまでは、今東光和尚、落合莞爾さん、飯山一郎さんの史観を対比させる形で筆を進めていく形になりそうな勢いだ。無論、時と場合によっては栗本慎一郎史観、あるいは天童竺丸さん史観も織り込むかもしれない。

■今東光の足利尊氏評
21053002.jpg
守護抑制(室町時代)地図

さて、南北朝時代シリーズの一環として、同時代に登場した主要人物を一人一人取り上げてみよう。今回は足利尊氏を中心に書き進めていきたい。この足利尊氏、世間での人物評はあまり芳しくないのだが、一方で足利尊氏の人物を高く評価している識者もおり、そのうちの二人を今回は紹介しておきたい。

一人は今東光和尚だ。和尚は歴史小説を多く物にしており、たとえば直木賞を受賞した『お吟さま』をはじめ、『弓削道鏡』、『太平記』、『蒼き蝦夷(えみし)の血』、『延暦寺』等がある。そうした中、文春編集部がインタビューするという形ではあるものの、古代から現代という日本史全体にわたり、和尚がユーモアを織り交ぜつつ、縦横無尽に語り尽くした本としては、やはり『毒舌日本史』に止めを刺す。これが、小生が同書から和尚の発言(歴史秘話)を、多角的に引用している最大の理由だ。

19030403.jpg

その今和尚、『毒舌日本史』でやはり足利尊氏の人物を語っているのだが、以下は『毒舌日本史』から抜粋した紺和尚の足利今氏評の一部である。ちなみに、引用文中の括弧内は小生が追記した。

足利尊氏てえのは流石に政治家だよ。ちゃんと情報網を持っていた。帝(後醍醐天皇)は寵姫(阿野廉子=新待賢門院。 藤原氏公季流阿野家、左近衛中将公廉の子。太政大臣洞院公賢の養女)の言いなりになられる。寵姫の進言は聴かれざるはなく従って人事にまで寵姫は容喙されるという宮廷の内情をしっかりと把握していました。それで彼は新待賢門院にびっくりするほどの贈物を絶えずしたんです。大体、尊氏という男は気前が頗る好い。尊氏とか豊臣秀吉などという後世の語り草になるほど気前の好い人は天下を取りますね。
『毒舌日本史』p.202~203

【コメント】天下を盗った足利尊氏の人物を、余すところなく描いて見せた和尚の言葉である。後醍醐天皇は大の女好きだった帝だが、寵姫の新待賢門院との男女関係は、楊貴妃という寵姫を溺愛した玄宗皇帝を思い出させるに充分だ。


尊氏が一番、邪魔だったのは護良親王と楠木正成の二人です。正成は敵に廻せば手剛い奴だが、何しろ河内の地侍です。官位も低い土豪劣紳です。尊氏の眼から見ればとるに足りない「悪党」あがりです。けれども此奴がさしもの北条執権の体制をゆさぶって崩壊させた油断のならない奴です。赤松円心入道みたいに好餌を与えて買収のきかないのが楠木正成です。従って邪魔ものの一つです。然るに護良親王となると尊氏は源氏の棟梁と吠えたところで頭が上がりません。まして一度は皇太子に擬せられ北条高時の横倉で帝も断念遊ばされたほどの人物です。身は皇室に生まれ給い、しかも『太平記』に不思議な御門主だと書かれたくらい武術にも長じられ、弓はもとより刀術も並ぶ者なく、六尺の堀を飛び越すことが出来るほど御身軽だったと伝えられる。然も三千の僧兵が慕い奉っている。親王の候人、殿ノ法印良忠さえ摂関家に生まれ高貴な公卿でありながらその怪力は驚くべきで六波羅に捕らえられた時も平然として牢破りをして遁逃した。そういう恐ろしい側近を持っていられる。
『毒舌日本史』p.204~205

【コメント】
この短文、楠木正成の出自と人物、そして護良親王の出自と人物を、余すところなく描いて見せた和尚の珠玉の言葉と云えよう。参考までに、過去に拙ブログで二人について言及した記事を数本書いているので、関心のある読者に一読いただけたら幸いだ。
護良親王
楠木正成


その他、『毒舌日本史』の小節「将に将たる逸材・足利尊氏」(p.217~223)だが、題名からして足利尊氏について大きく取り上げた、小節のように感じるかもしれない。しかし、冒頭の「尊氏という男は気前が頗る好い」を補強したのに過ぎない内容なので、この小節自体はさほど読むに値しないと思う。それでも、同節の結語は日本史の一時期を俯瞰する上で、大いに参考になると思うので、以下に結語を引用しておこう。。

鎌倉時代の転換期を作ったのは源頼朝で、それを完成したのは足利尊氏。近代の転換期は信長によって作られて家康によって大成したんです。
『毒舌日本史』p.223


■倉山満の足利尊氏評
ところで、足利尊氏を高く評価しているのは、何も今和尚だけではない。憲政史家の倉山満氏も同様に尊氏を高く評価している。


新番組 歴史人物伝~足利の時代  第1回「 足利尊氏」秋吉聡子 倉山満【チャンネルくらら・6月11日配信】

概ね、倉山氏の足利尊氏評に小生は同意するものである。特に、冒頭で倉山氏が言及していた、室町時代の総論的な話は正にその通りだと思うし(2:25~)、同じ日本人として室町時代を生き抜いた日本人を誇りに思ったほどだ。ここで思い出すのが、拙稿「マキアヴェリの周辺」で紹介したチェリーニの言葉で、「ちょっと散歩に行って、けんかして七人殺してきました」というような世界を彷彿とさせるのが、正に室町という時代だったと云えよう。

ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini, 1500年11月3日 - 1571年2月13日)は、ルネサンス期イタリアの画家、金細工師、彫刻家、音楽家。奔放な「自伝」でも知られる。


21053003.jpg

ちなみに、倉山氏は同動画シリーズの第2回「佐々木道誉」、第3回「足利義満」も公開しているので、関心のある読者は一度観てみると良いだろう。特に佐々木道誉についての動画は、婆娑羅の実態を理解する上で大いに参考になるし、婆娑羅の時代を生き抜くヒントを与えてくれるので、一度は見ておいても損は無いと思う。多分、読者をして気宇壮大な気持ちにさせてくれるだろうし、小さくまとまってしまった現代日本人を思うに、我々と同じ日本人が室町という時代を逞しく生き抜いたのかと思うと、これから婆娑羅の時代を迎える我々としては、実に心強く思うのである。

それから、我々が学校の教科書で教わった足利尊氏の人物画(右側の画)、これは足利尊氏とされているが、実は全くの別人だと倉山氏が明かしており、眼に鱗であった(7:51)。

21053004.jpg

それから、戦前の日本では足利尊氏と言えば、「悪い奴」と叩き込まれていたのを思い出す必要がある。尊氏を高く評価している今東光和尚や倉山氏とは真逆の見方ではある・・・(爆)

21053005.jpg

【追補】
前稿「武士の時代 12」で小生は、今の我々が生きている時代は婆娑羅の時代であると述べたが、それと関連して、最近「放知技」でも婆娑羅についての投稿を行っている。一部を訂正の上、拙ブログにも転載しておこう。

>>274

自己レスです。

小生は上記投稿で以下のように書きました。

> 歴史の教訓から学ぶことが第一歩

今朝方観た動画でも、 三橋貴明氏が全く同じ事を語っていました。
『南北戦争に隠された謎?アメリカが人類史上最速で覇権国に成り上がった秘密』

ところで、三橋氏が言うところの「アメリカが人類史上最速で覇権国に成り上がった秘密」ですが、上掲の動画を一通り観ても三橋氏は解答を述べておらず、どうやら有料講座の中で解答を明らかにしているようです。ちなみに、件の有料講座案内を同動画で三橋氏は紹介していました。
https://in.38news.jp/hakn5_2105_vyond

同ページにアクセスして目に留まったのが、「情報」についての三橋氏の考え方です。同氏は「情報」について、以下のように述べています。
__________
(今回の講座を)有料にすることで、情報の受け手にとってもメリットがあります。


学ぶ姿勢が変わるからです。 あなたも経験があると思いますが、無料で読めるニュース記事なんかはさっと読み飛ばすけれど、身銭を切って購入した本は舐め回すように読み込むのではないでしょうか?


学びの本気度が違うので、当然、情報の吸収力も段違いになります。身銭を切ると、何をするにも平凡な日々から、張りのある毎日に変わります。自分でお金を払うことは痛いことですが、しっかりと自分に返ってきます。


結局のところ、限りのある時間の中で、どれだけ密度の濃い時間を過ごせるかどうか。自ら身銭を切って、いろんな情報を吸収しているあなたならおわかりいただけると思います。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
基本的に小生は三橋氏の主張に同意します。確かに、情報を収集する時間が取れない、日々多忙なビジネスマンにとって、プロである三橋氏の情報への投資は良い買い物だと小生も思います。

ただ、小生の場合はパソコンに向かう仕事(翻訳)に従事して22年と、四半世紀近くを過ごしてきたこともあり、翻訳する分野の情報を収集する必要に迫られ、我流ではあるものの、一応の情報収集能力は身につけたつもりです。

また、翻訳を生業にする者として、世間に出しても恥ずかしくない日本語力を身につけるため、個人ブログやHP(ホームページ)を立ち上げたという経緯がありました。

その後、政治・経済といった時事問題や歴史についても、個人ブログやHPで発表するようになり、今日に至っています。そうした積み重ねのお陰で、少しは世間に出しても恥ずかしくない日本語力が、辛うじて身についたかなと思う今日この頃です。

ここで、上掲の三橋氏の情報についての考え方に対して、二件の愚見を述べさせていただきます。

一つは、仕事でも趣味でもよいので、一度は徹底的に情報を収集する経験をすること。これは、情報提供者が提供する情報の「質」を判断することが可能になるので、できれば時間のある若い時に体験しておくべきかと思います。

もう一つは、情報収集で満足することなく、次のステップ、すなわち苦労して収集した情報の分析を試みることです。そして、その時点における己なりの結論を導き出すという、所謂インテリジェンスも体験すべきだと思います。

これからの世の中、お上は信用できぬ、己の判断で生き抜いていかねばならぬ、といった「婆娑羅」の時代に突入することから、自分の頭で考えに考え抜き、並行して放知技といった場で多くの同志と語り合い、その中で軌道修正をしつつ、これからの人生を歩んでいく、切り拓いていく生き様が大切になるのではと思います。

最後に、今回の三橋氏が有料講座で解き明かしているであろう「秘密」、すなわち歴史を紐解くキーワードが、上掲のページに書いてありました(笑)。
__________
現代屈指の経済専門家 三橋貴明独自の視点から世界の歴史を読み解いたのが「覇権国家800年の興亡」です。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
小生はブログに「800年周期」と題する記事を書いており、それもあって三橋氏の言うところの「秘密」が、「800年」でピンと来ました。放知技の読者であれば、おそらく小生同様に三橋氏の言う「秘密」、その解答を自力で導き出せるのではないでしょうか。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1756.html

健闘を祈ります。


亀さん@人生は冥土までの暇潰し

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17289842/280/


スポンサーサイト



武士の時代 12
前稿「武士の時代 11」を執筆したのが今年(2021年)の2月8日、かれこれ三ヶ月近くが経ってしまったということになる。その間、世界では実に様々な出来事があった。そうした様々な出来事の一つ一つを自分なりに追いつつ、そのうちの幾つかはブログ記事に書き残した。

それにしても、最近に至ってつくづく思ったことは、農業大革命、産業大革命に続く、今の人類が巻き込まれている第三の大革命、すなわち情報大革命は、過去の二大革命とは比べものにならないほど、我々の今までの生き方や物の見方・考え方を根底から変えてしまう、凄まじい大革命だということである。

つまり、農業大革命が人類に食糧の安定供給をもたらし、産業大革命が人類に工業製品の安定供給をもたらしてくれたわけだが、これは物質面で我々を豊かにしてくれた大革命、いわゆる〝物質中心〟の大革命だったと云えよう。一方、現在進行中の情報大革命の場合はどうか? 

実は、この情報大革命は過去の二大革命とは全く性格を異にしている。すなわち、過去の二大革命が〝物質中心〟の革命だったのに対して、情報大革命は〝人間中心〟という性格を帯びた大革命ということだ。

これは、どういうことか?

最初に、現在の情報大革命の実態を把握していただく意味で、以下の論文に目を通していただきたい。
情報革命がもたらすパラダイムシフト

21042001.jpg

上に紹介した論文は、主に経済面から情報大革命を述べたものとなっており、今後は人間中心の経済が花開くと結論づけている論文だ。

では、政治という側面から情報大革命を眺めれば、どのような世界が映し出されるだろうか? 

拙稿「世界権力vs.ナショナリズム」で、小生は以下のように書いている。

「従順な地球市民」の完成に向けたNWOの企みが、成功しつつあると林氏は睨んでいるようだ。しかし、それに対抗している勢力が「ナショナリズム」であり、林氏が考えているように、スンナリとNWOの企みが成就するとはとても思えない。


上記拙文にある「ナショナリズムとは「人間中心」に他ならず、その視座から世界の潮流を眺めれば、NWOの最終目標である「従順な地球市民」とは対極的にあるものこそ、「人間中心」であるということに気づくはずだ。そして、上に紹介した論文は、今後の世界経済が「人間中心」になることを暗示しているわけだが、政治面でも「人間中心」の動きが主流となることは間違いなく、このあたりからも、NWOが目論む「従順な地球市民」が、遅かれ早かれ行き詰まるであろうと、小生は予測しているわけである。そのあたりについて、小生は以下のように書いた。

しかし、皮肉にも〝落選後〟のトランプ人気は衰えるどころか、むしろ日々目覚めつつある人々がアメリカのみならず、世界中も増加しているのが現実で、バイデン政権、米国民主党、ビッグテック、大手メディアといったNWOの鉄砲玉の化けの皮が、今やすっかり剥がれてしまった。


ともあれ、現在進行している情報大革命は、最早人間の力で止めることの出来ない、「人間中心」という言葉で代表される大きな流れなのだ。そして、「人間中心」という言葉から小生の脳裏に浮かんだのが「婆娑羅」(ばさら)であった。すなわち、従来の生き方(伝統的な思考・行動様式)には囚われない、まったく新しい生き方を貫ける人たちの時代が、間もなく到来しつつあるということである。

そうした時代とは、どのような時代なのかを把握するには、過去の歴史から学ぶのが最良で、その学ぶべき時代こそが、現在の飯山史観で取り上げている室町時代、すなわち婆娑羅が台頭した時代なのである。このあたりについて小生は思考を巡らせていたため、飯山史観の新稿の完成が大分遅れてしまった最大の原因ともなった。

「人間中心」、すなわち個人が生き生きと活躍できる時代に突入しつつある今、改めて思い出すのが飯山一郎さんの以下のHP記事だ。同記事は過去のブログ記事で幾度か紹介したことがあり、たとえば「歌舞伎と遊女」・・・。

19021710.jpg

『異形の王権』(網野善彦著)に登場する魑魅魍魎とした「異形の者達」が社会変革を主導した後醍醐天皇の御代.

あの躍動的な時代が…,おそらく,新天皇の御代に,またもや復興してくる予感が,ワシにはある.

新天皇となるべき御仁には,畏れ多いことながら,「バサラ(婆娑羅)」をお許しになる“徳”の深さが垣間見える.

来るべき新時代は,旧時代とは一味(ひとあじ)違った躍動感あふれる「ダイナミック・ニッポン」といった様相を呈するはずである.


◆平成30/02/18(日)  「匠(たくみ)」の熟練された神ワザは…


飯山さんの〝予言〟、「来るべき新時代は,旧時代とは一味(ひとあじ)違った躍動感あふれる「ダイナミック・ニッポン」といった様相を呈するはずである」、こうした婆娑羅の時代に突入しつつあるのが今という時代だ。

それにしても、上掲の飯山HP記事を飯山さんが書いたのが平成30年(2018年)2月18日、逝去する五ヶ月前の記事である。そして、同記事の最終行にあった飯山さんの以下の言葉・・・

楽しみである.長生きする”甲斐”がある.


飯山さん、さぞかし心残りだったことだろう。よって、「小生が自分の目でしっかりと確認の上、いつか天国で再会した時、詳細にわたって報告させていただきますので、もう暫くお待ち願います」と、思わず今は天国にいる飯山さんに小生は声をかけたのだった。

さて、大分道草を食ってしまったが、いよいよ次稿から室町時代、そして足利尊氏について言及していこう。

武士の時代 11
今回は楠木正成について言及していくが、その前に拙稿「武士の時代 10」で、「大塔政略」、「伏見宮」、「堀川政略」といった言葉がいきなり飛び出し、落合史観に不案内の読者には、何が何のことやらサッパリ分からなかったかもしれない。詳しくは落合莞爾さんの著した『明治維新の極秘計画』、そして『南北朝こそ日本の機密』に目を通してもらう他はないが、概略だけでも知りたいという読者は、藤井厳喜氏がアマゾンに投稿した、カスタマーデビューに目を通すといいだろう。
解明された南北朝史の本質:現皇室は南朝正統の嫡流

■今東光と落合莞爾の楠木正成観
最初に、今東光和尚の楠木正成観からいこう。和尚の楠木正成観を最も的確に示していたのが、『毒舌日本史』の以下の行だ。ズバリ、和尚は楠木正成をゲリラの元祖としている。

文藝春秋編集部 チェ・ゲバラですな。

今東光 ゲバラなんかに感服してるんだから日本の大学生なんて甘っちょろいもんさ。ちゃんと日本には楠木正成てえゲリラの親方が在るんだ。ゲバラの最後は民衆の支持を喪ったからです。ゲリラ戦の要項は民衆の支持を取りつけることです。中共の八路軍てえゲリラが成功したのは民衆の支持があったからです。正成は河内ばかりではなく近畿を走り廻って民心を摑んでいたから眇たる河内兵の一隊だけで天下の大軍と拮抗することが出来たんです。ゲリラ教程は楠木流軍学を学べばわかる。尤もゲリラ戦術を勉強してぶち殺されるのも悪くねえが。
 前にも出ましたが当時の「悪」は強いのを意味して悪いというんじゃない。悪源太(義平)とか悪七兵衛(景清)という使い方でも解るように、この悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です。だから武士だか山賊だかわかりません。

『毒舌日本史』p.216


小生も今東光和尚の楠木正成=ゲリラの親方説に同感だ。太平の世にすっかり慣れきった、立派な鎧甲で身を固めた北条軍の大将が、籠城している正成の河内軍を前に、「吾こそは桓武天皇後裔・・・」だのと長々と名乗りあげていると、頭上に糞尿をまき散らされてピカピカの鎧甲が糞まみれになったり、大岩を落とされて大けがをしたり時には死に至ったりと、さんざんな目に遭わされて戦意喪失、多くの北条軍の兵士が逃げ惑ったという。

ここで、少し横道にそれるが、正成の「民衆を味方に引きつける」という戦法、今のトランプを彷彿とさせるではないか。掲示板「放知技」にも書いたが(>>73)、民衆を味方にすることは先手必勝だと、心から思う。

今和尚の上掲の発言、「悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です」にも関連することだが、DSぺったりの一人として、たとえば「トランプは人権問題に無関心だった」と、大嘘をついた池上彰のような輩がいるが、DSに対抗する主流派の親分トランプが耳にしたら、どう思っただろうか・・・。

次に落合莞爾さんの楠木正成観だが、『南北朝こそ日本の機密』第十四章「南北朝偽史を禊祓(みそぎはら)う重要性」の冒頭の小節、「後南朝に対する感傷 地家(じげ)氏・大室寅之祐は大塔宮の子孫」に書かれている、以下の楠木正成評を紹介するに留めておこう。

大塔宮に協力を惜しまず、よく似た運命を辿った楠木正成にも、むろん同じ感情が湧きます。親王と正成が余りにいたわしく思えた私は、以来湊川神社に参ったことはなく、鎌倉宮に近寄ったことも、いまだにありません。可哀そう過ぎて見たくないのです。


お二方の楠木正成観を較べるに、落合さんの場合は「可哀そう」と感傷的になっているのに対して、今和尚の場合は「ゲリラの親方」と剛毅な正成評であり、小生は和尚の正成評の方が気に入っている。

■出でよ、令和の悪党
ここで、和尚は「悪」について語っているのに注目していただきたい。実は、今の世の中ほど楠木正成のような、「悪」が求められている時代はないのだ。平成22年(2010年)7月22日、まほろば会で故山浦嘉久さんは以下のように語った。

これから迎えようとする大転換期(乱世)は、婆娑羅が頭角を現す時代であり、平成版の楠木正成のような「悪党」の出現が望まれる。


正に・・・。

婆娑羅南北朝の動乱期の美意識や価値観を端的にあらわす流行語で,華美な服装で飾りたてた伊達(だて)な風体や,勝手気ままな遠慮のないふるまいなどをいう。語源はサンスクリット語の vajra(金剛・金剛石)の音訳バザラにあるとされる。近江(おうみ)の大名佐々木高氏(道誉)とその一族のような熱狂的〈ばさら〉愛好の武家も続出した。
百科事典マイペディア電子辞書版


■和田家の正体
小生は拙稿「武士の時代 10」で、以下のように書いた。

志布志の戦争で北朝に敗れた南朝が下甑島に逃れ、同島の和田家に囲われつつ、南朝系の血筋を細々と繋いできたのであり、その子孫が後の大室寅之祐ということになる。


南朝の繋累を囲ったという、下甑島の和田家の正体は何者かと、読者は訝ったことだろう。実は、この和田家は楠木正成の直系なのである。このあたりは、拙稿「青州で思ふ(6)」でも紹介した、飯山さんによる掲示板「放知技」への投稿の一部を参照されたい。

下甑島の和田家は、楠木正成の弟、正季系(近畿系)ではなく、楠木正成(大楠公)の嫡男、正行(まさつら、小楠公)の直系を自認しているようだが、伝説!というのが通説。
しかし、下甑島(しもこしきじま)の和田家は、楠家の直系の子孫であることを(一切公言せずも)自認しており、今に至るも徹底して後醍醐天皇側。
300年近い北朝の天下では、南朝は逆賊。その逆賊の謗り(そしり)を耐えぬいてきた! という強い「誇り」を持っている。
600年前、北朝側が南朝側を「根絶やし」にすべく、南九州は志布志まで追討してきた「証拠」(石の板碑)を見ると、下甑島の和田家こそが楠木家の本流・直系であるとの「自認」が正しい! と、私は思っています。


飯山さんも仰せのように、下甑島の和田家は楠木正成の直系と思って差し支えないだろう。こうした視座で改めて眺めると、下甑島に逃れた南朝系の子孫から、後の明治天皇(大室寅之祐)までの流れ、「薩摩ワンワールド(英国)」と「島津家」の存在、それらが複雑に絡んで現皇室にまで繋がっている裏史は、飯山史観でしか解くことはできないはずだ。

斯様に、下甑島には実に多くの謎が秘められているだけでなく、日本史の秘密を解くキーが隠されている可能性すらある。実現には至らなかったものの、一時は志布志市で勉強会をやろうという話も出たほどで、その辺りの事情は以下のPDFファイルに詳しい。

1月18日(水)、下甑島(しもこしきじま)で楠木正成家の墓守りを代々務める和田家の総代が、グルンパ運動家の飯山一郎氏に電話、「元日本郵便副会長の稲村公望先生をお呼びし、古代から中世にかけての日本の歴史について、語り合う勉強会を今春あたり志布志市で開催して欲しい」という内容だったという(具体的な日時および場所は未定)。さらに総代は電話口で、「菊の御紋を家紋とする和田家の秘話を勉強会で披露する。それにより、南北朝の争いの謎、天皇家の金塊の謎等も全て明らかにする」と飯山氏に語った…
http://www.nextftp.com/tamailab/etc/study session in 2017.pdf


蛇足ながら、上掲のPDFファイルの最終行には、実に興味深いリンクが三本張られているので、この機会にアクセスしていただければと思う。

■楠木正成と世阿弥
21020802.jpg

楠木正成と観阿弥・世阿弥は血縁関係にあったと、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.210~211)で述べている。

伊賀の上野に上島家と名乗る旧家があるんです。その上島家に河内国の玉櫛荘に楠木入道正遠の女が嫁に行っている。これで想像がつくように表向きは両家とも地頭の下司職ぐらいの家柄同士というところ。裏へ廻れば堂々たる悪党です。この正遠がどうやら正成の父親に当たるようです。

・・・中略・・・

この女(正成妹)が上島家に嫁いで清次という子を産んでいる。この清次が後の観阿弥すなわち観世流祖になった。だから観阿弥は楠木正成の甥です。この観阿弥の子こそ能の大成者となった世阿弥であります。


このあたりについては、最近ではネットでも知られつつあるようで、一例として上掲の家系図を載せた「観阿弥・世阿弥は楠木正成の血族」がある。

21020801.jpg

そーみなさん、いつも投稿ありがとうございます。

太平記は黒須氏か今和尚のいずれかを読めば十分かと思います。和尚の東光太平記は確か全六巻でした。

和尚に纏わるエビソートには色々とありますが、一昨日お会いした栗原茂氏との語らいの中で、和尚は歌舞伎役者のパトロンの末裔ということを初めて知りました。そこから話が発展して、世阿弥のパトロンであった佐々木道誉にまで話が及んでいます。黒須紀一郎氏の『婆娑羅 太平記』にも、佐々木道誉が準主役の形で活躍しますのでご期待ください。

世阿弥と云えば、恥ずかしながら『風姿花伝』を未だ一度も目を通したことがないことに、今気が付きました。読みたいけど、当面は読む時間がなさそうだな…。でも、子ども達には是非に読んで欲しいので、源氏物語の現代語訳を最近出した林望氏の『風姿花伝』を手に入れ、読ませようと思います。世阿弥の『風姿花伝』は、日本の誇る最高の芸術の書であると、大勢の識者から直接間接聞き及んでいます。

投稿: サムライ | 2010年4月 8日 (木) 午前 08時07分

『真贋大江山系霊媒衆』


次回は、足利尊氏について言及する予定である。

【追記 1】黒須紀一郎
旧ブログで取り上げた黒須紀の作品。

『覇王不比等』
『役小角』


現ブログで取り上げた黒須紀一郎の作品。

『天保蘇民伝』
『真言立川流』


【追記 2】皇居前広場の正成銅像
16101301.jpg

過日、ある読者から以下のような質問が拙ブログに寄せられた。

皇居の一角の公園に皇居を向いた楠正成公の銅像が、建てられたのも誰かが意図しての事なのでしょうか?


それに対して、小生は以下のように回答している。

当時(現在も)は北朝と信じられていた皇室の公園に、何故に南朝の楠木正成の銅像が建立されたのか? このあたりは明治政府の富国強兵策と深く関与してきます。つまり、当時の政府が狙っていた民意の高揚(統一)です。


ところで、上掲の写真は皇居前広場にある楠木正成像だが、如何にも楠木正成は立派な武将という印象を受けるのではないだろうか。ところが、実際の正成はそうではなかったようだ。そのあたりは、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.208)で以下のように語っている。

宮城前広場に建っている高村光雲作の正成さんは大将軍の姿で本物とは大違い。ありゃ足利尊氏将軍にさも似たりで。本物の正成さんは大して風采もあがらねえ、河内のおッさんやね。


【追記 3】今東光×奈良本辰也対談
19030402.jpg

今東光と奈良本辰也による、実に興味深い対談がネットで公開されているので、歴史に関心のある読者に一読をお勧めしたい。

今東光×奈良本辰也対談 1
今東光×奈良本辰也対談 2
今東光×奈良本辰也対談 3
今東光×奈良本辰也対談 4
今東光×奈良本辰也対談 5
今東光×奈良本辰也対談 6
今東光×奈良本辰也対談 7


【追記 4】文観
落合さんの『南北朝こそ日本の機密』で個人的に収穫があったのは、文観の人物について深く知ることができたことだ。そのあたりは、拙稿「真言立川流と今東光 2」に書いている。

文観については、後醍醐天皇と楠木正成の橋渡しを行った人物、程度にしか小生は思っていなかったのだが、同書のp.94にある以下の記述に久方ぶりに接し、明治維新時の薩長に都合の悪い存在だったことを思い出した次第である。

文観の実跡を調べると明治維新後の政界を支配した薩長政体にとって、極めて都合の悪いことが出てくる恐れがあったことです。
『南北朝こそ日本の機密』p.94


こうなると、「大塔宮の偽装弑逆を企画したのはおそらく文観」(p.187)と、断言する落合さんの言葉が不気味に響いてくるから不思議だ。

武士の時代 10
昔から天台宗の古僧による後醍醐天皇への評価は暗愚、一方で護良(もりなが)親王への評価は英明と、はっきりと分かれていたことは、拙稿「武士の時代 08」に既述した。

落合莞爾さんも、小学生四年時の担当だった吉田耕先生、さらには中学生の時に後南朝研究に没頭していた叔父から、天台宗と同様の後醍醐天皇評と護良親王評を聞いたと、『南北朝こそ日本の機密』の第十四章「南北朝偽史を禊祓(みそぎはら)う重要性」、「後南朝への感傷」節で述べている。つまり、後醍醐天皇が暗愚と思われているのは、「後醍醐天皇の建武中興の失敗の最大の原因は、護良親王と楠木正成の二人を喪ったからだ」と、今和尚が語っているように(『毒舌日本史』p.205)、やはり落合さんの担任や叔父も同様なことを語っていたことが、落合さんの『南北朝こそ日本の機密』に書かれており、小生も天台宗の古僧、そして落合さんの担任や叔父に同意するものである。

その落合さん、担任や叔父から耳にした護良親王評から、さらに一歩踏み込んだ護良親王についての考察を、『南北朝こそ日本の機密』第Ⅲ部『秘策「大塔政略」』の第八章「南北朝解消の秘策」で展開している。つまり、捕えられて鎌倉送りとなった護良親王、脱牢に成功して生き長らえ、大塔政略を実現したと落合さんは書いているのだ。

なを、『南北朝こそ日本の機密』の目次はアマゾンには載っていないが、幸い以下のサイトで同書の目次を詳細に載せている。そして、目次を眺めるだけでも同書の大凡の内容が掴めるので、実に有り難いサイトだと小生は思う。
『南北朝こそ日本の機密』目次

さて、「やっぱり護良親王は生きていた!」と、落合さんは長年主張しているわけだが、果たして真偽のほどはどうなのか・・・。

実は『南北朝こそ日本の機密』が出版される前、小生は落合さんから同書の草稿を電子ファイルで送っていただいたことがあり、中丸祐昌氏の著した『南北朝異聞』について落合さんが以下のように評していたことから、小生も護良親王生存説を信じるようになり、そのあたりは拙稿「南北朝異聞」にも述べた。以下、左稿でも引用した落合さんの『南北朝異聞』評である。

その内容(『南北朝異聞』)を十分信ずべきものと判断する私は、その著の存在をここに紹介し、以て大塔宮生存説の一証とさせていただきます
『南北朝こそ日本の機密』p.184

13111004.jpg


上掲の拙稿を公開した当時は尤もな話だと、小生も護良親王(大塔宮)生存説を信じたものの、その後において調査を重ねていくうち、幾つか腑に落ちない点が目に付くようになった。特に、飯山さんの〝下甑島説〟が決定打となり、小生は拙稿「薩摩ワンワールドと皇室」で以下のように書いた。

さて、薩摩ワンワールドと皇室について、最近の飯山さんの投稿は飛び飛びなので、独断と偏見を恐れず以下のように纏めてみた。

(1)第一ステージ:九州を舞台に、大化の改新に先行して蘇我氏(仏教派)と物部氏(神教派)が戦った。
(2)第二ステージ:同じく九州を舞台に南北朝の時代、南朝と北朝が志布志で激しく戦い、南朝が敗北、南朝の生き残りは下甑島(しもこしきじま)へ逃亡した。
(3)第三ステージ:江戸中期、下甑島に逃亡していた南朝側の子孫が、薩摩に聳える金峯山の麓に移住、準備を整えた上で長州の熊毛郡・田布施へと向かった。


ここで(2)の南北朝時代に焦点を当てるとすれば、学校で習った南北朝説から、『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房)の落合説に至るまで、さまざまな南北朝説に亀さんは接してきた。『南北朝こそ日本の機密』は落合秘史の核であり、個人的に落合秘史の中でも一番好きな作品なのだが、それでも、『南北朝こそ日本の機密』に書かれている内容が、南北朝秘史の決定打とは未だに思えないのだ。

ところがここに来て、「南朝と北朝が志布志で激しく戦った」という、「え?」と思うような新説を飯山さんが発表した。なかなか面白い説なので、今後は時間をかけて吟味してみたいと思う。ともあれ、南北朝を含めた「日本の機密」の発掘という、亀さんの残りの人生の暇潰しのテーマを、お陰様で見つけることができたようだ。


一方、明治天皇の正体は大室寅之祐であるとする点で、落合さんも飯山さんも一致しており、小生も20年以上前に鹿島曻の『裏切られた三人の天皇』に接し、「明治天皇=大室寅之祐」説として、旧ブログに載せたこともあることから、お二方同様に明治天皇=大室寅之祐説を信じている。

明治天皇(1)
明治天皇(2)

21020601.jpg

ともあれ、飯山史観に従えば、大室寅之祐のルーツは同じ南朝系は南朝系でも、志布志の戦争で北朝に敗れた南朝が下甑島に逃れ、同島の和田家に囲われつつ、南朝系の血筋を細々と繋いできたのであり、その子孫が後の大室寅之祐ということになる。小生は飯山史観を基底においている(信じている)こともあって、さる筋(栗原茂さん)や落合莞爾さんの説く、大室寅之祐のルーツは護良親王とする説よりも、和田家に囲われていた南朝系の子孫こそが大室寅之祐だとする飯山説の方を信じる。

その一方で、冒頭で紹介した『南北朝こそ日本の機密』の目次を、改めてじっくり眺めるに、第Ⅳ部「伏見殿の真相」の真偽を見極める意味で、一度は時間を掛けて伏見宮について検証する必要があると感じているのも確かだ。何故なら、堀川政略を落合さんに伝えたさる筋(栗原茂さん)から、実に多様な視座から伏見宮について直接聞き及んでおり、伏見宮について一度整理する必要性を感じているからだ。

次稿では、今東光和尚や落合莞爾さんの楠木正成観を取り上げたい。

【追記】
『南北朝こそ日本の機密』のカスタマーデビューを、小生がアマゾンに投稿したことは、拙稿「武士の時代 09」にも書いたが、実は天童竺丸さんや藤井厳喜氏もカスタマーデビューを書いているので、以下に紹介しておこう。

[カスタマーデビュー 1]
國體の謎に迫って神国日本を顕彰し、読む者の常識を打ち砕く驚愕の書
世界戦略情報みち編集人天童竺丸


[カスタマーデビュー 2]
解明された南北朝史の本質:現皇室は南朝正統の嫡流
藤井厳喜


武士の時代 09
今回より南北朝時代について筆を進めていく。最初に、南北朝という時代のイメージを大雑把に掴んでいただく意味で、百科事典「マイペディア」(電子版)の解説を引用しておこう。

南北朝時代
1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。以前は政治史的時代区分として南朝と北朝とに分裂した1336年から1392年の両朝合一までをいった。建武新政は武士階級を失望させ,1335年足利尊氏は京都を占拠,持明院統の豊仁(ゆたひと)親王(光明(こうみょう)天皇)を擁立。後醍醐天皇は吉野に移った。1336年から京都の北朝は建武の年号を襲用,吉野の南朝は延元と改元,以後両朝は別々の年号を設けた。現実には南朝と足利政権との対立であった。1337年新田義貞ら北陸勢力の壊滅,1343年北畠親房指揮下の常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北。その後は幕府内の足利直義と高師直(こうのもろなお)との勢力争いを発端として,20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。足利義満が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝の後亀山天皇が京都に帰還して足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい,内乱のなかで山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し,荘園制を基盤とする貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。


室町時代という時代区分の初期に、南北朝時代が組み込まれているのがお分かりいただけるだろう。

実は、落合莞爾史観と飯山一郎史観の深奥がよく分かる時代こそが、南北朝時代なのだ。だから、1333年に室町時代、すなわち南北朝時代に突入してから60年後の1392年、時の三代将軍であった足利義満が、南北朝動乱に終止符を打ったあたりまでを、定説に従って南北朝時代とし、これを数回に分けて述べさせていただきたいと思う。

■落合莞爾の南北朝観
13050610.jpg

小生は前稿「武士の時代 08」で、「次稿より落合史観を縦糸に、飯山史観を横糸にして、南北朝という一枚の織物を完成させていく予定」と書いた。何故なら、落合莞爾さんは『南北朝こそ日本の機密』を著しているだけでなく、後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)の血筋を引いてるからだ(同書p.274)。

ちなみに、小生はアマゾンに「サムライ」という旧ハンドル名で、「落合莞爾氏の熱い思い」というタイトルの書評を書いたことがある。

13050401.jpg

加えて、数年前に小生は和歌山市に居を構える落合邸「狸庵」で草鞋を脱ぎ、数日間ほど泊めて戴いたこともある。その時は栗原茂さん、天童竺丸さんも前後して狸庵で草鞋を脱いでいたのだが、彼らから耳にした南北朝に関する秘話は膨大な量になった。中には、公の場であるブログ記事に出来ない内容の秘話も実に多いのだが、これから数回にわたり支障の無い範囲で、そうした秘話もさり気なく織り交ぜて書いていきたいと思っている。

■飯山一郎の南北朝観
一方、飯山一郎さんの南北朝観につい述べるにあたり、最初に取り上げなければならないのが肆部合の石碑だ。

21020201.jpg
志布志に南北朝の秘密が隠されていた!

読者は上掲の記事「志布志に南北朝の秘密が隠されていた!」で、以下の飯山さんの記述に目が釘つげになったことだろう。

私は、じつは、この2ヶ月間、この『肆部合の石碑』という文章にハマりにハマって、パラノイアみたいになってしまい、もう何百回読んだことだろう?


〝何百回読んだ〟とは、如何にも飯山さんらしい物の言いだ(笑)。このように、白髪三千丈的な物の言いは、山東省青洲の飯山邸でも幾度か耳にしているし、てげてげHPや放知技に目を通したことのある読者なら先刻承知のはずだ。

それはともかく、『肆部合の石碑』についてだが、実は小生も二年前にサンフラワー号で志布志市を訪問、同石碑を目の当たりにしている。同石碑の前で、吉野を拠点としていた南朝が命からがら九州へ逃れたものの、足利尊氏の下知を受けた北朝が志布志まで押し寄せ、再び戦火を交えた頃にタイムスリップしたような感覚に陥ったものだ。

なを、その後の経過については飯山史観の独占場となる(他の南北朝に関する史料や論文には一切出てこない)。

21020202.jpg
長目の浜(上甑島)

ここで、飯山さんの南北朝観を敷衍するとすれば、滅亡の瀬戸際まで追い詰められた南朝の繋累は、東シナ海の下甑島に逃れ、同島で息を潜めつつ子孫を繋いできた。その南朝の繋累を匿まっていたのが和田家であり、今でも皇室とは深い繋がりがある。繋がりがあると云うよりは、現皇室の〝金庫番〟を仰せつかっていると書いた方が正しいだろう。

ともあれ、今の時代においても鹿児島という地で見え隠れする英国の影、島津家の正体、西郷隆盛大久保利通らの行動等々、実に鹿児島は歴史の秘話で満ちた地なのだが、このあたりは小生が飯山さんから聞き及んだ範囲で、折に触れて記事にしていく所存である。そのため、次稿以降は南北朝という時代を中心に、ブログ記事のテーマが彼方此方に飛ぶかもしれないが、そのあたりは予めご承知おき願いたい。

武士の時代 08
前稿「武士の時代 07」でお約束したように、本稿より本格的に南北朝時代について筆を進めたい。

最初に、武士の時代という中にあって、南北朝時代はどのような時代だったのか、ここで再確認しておこう。

20112502.jpg
日本史年表

上掲図は「日本紙年表」に掲載されている、「日本史年代早見表」だが、大雑把すぎるので、ここはウィキペディアの年表も、一部抜粋の形で以下に掲示しておこう。御参考までに、飯山史観の「武士の時代」シリーズの範囲が一目で分かるよう、700年間に及んだ武士の時代を赤枠で囲んでおいた。

20112501.jpg

ここで、ウィキペディアが鎌倉時代の末期を、「建武の新政」としているのに注目していただきたい。そして、続く「南北朝時代」は室町時代に入れているのが分かる。

では、建武の新政とは、どのような時代だったのか? 最初に、マイペディア(電子版)の解説を見てみよう。

建武新政
1333年―1336年の後醍醐天皇による公家一統政治。正中の変・元弘の乱を経て,護良(もりよし)親王や楠木正成らの活躍で鎌倉幕府を倒し,天皇独裁の官僚国家の樹立を企図,摂政・関白の廃止,雑訴決断所以下の部局の新設,国司・守護併設などの施策を行った。しかし古代の延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)を理想とする政策は武士階級の反発を招き,後醍醐天皇の信任を得ていた新田義貞も足利尊氏の武力には力及ばず短時日のうちについえた。


要するに、後醍醐天皇による建武の新政は三日天下ならぬ、三年天下で終わったということだ。なを、マイペディアは「護良(もりよし)親王」と記しているが、落合莞爾さんによれば、「護良(もりなが)親王」という読みが正しいということで(「護良親王と淵辺義博」参照)、小生も落合さんの説に従うことにする。御参考までに、後述する今東光著『毒舌日本史』も正しく、「もりなが」とルビを振っていたが(p.201)、流石は和尚だと思った。

さて、上掲のマイペディアに登場する人物に、南北朝の主要人物が名を連ねているのが分かる。後醍醐天皇を筆頭に、子の護良親王、楠木正成、新田義貞、足利尊氏らである。また、その他に後醍醐天皇と楠木正成の間を仲介した文観も重要人物の一人だ。文観については、「真言立川流と今東光 2」と題する拙稿で既述済みである。

ともあれ、次稿より落合史観を縦糸に、飯山史観を横糸にして、南北朝という一枚の織物を完成させていく予定だが、どのような織物が完成するのか、今から楽しみだ。

20112503.jpg

さて、過去に多くの歴史学者が、建武新政についての書籍や論文を著してきた。そして、歴史学者によって建武新政の見方・考え方は様々だろうが、「公家一統を計った後醍醐帝による、三年間という短期間の統治」、といった表現で建武新政の時代を要約できよう。だから、建武新政に関する諸説については、直接ネット等で確認していただくとして、本稿ではそうした〝通史〟からは窺い知ることのできない、天台宗から見た後醍醐帝観について、以下に簡単に紹介しておきたい。その場合、やはり今東光和尚の著した『毒舌日本史』(文春文庫)の一小節、「阿呆らしい建武中興」(p.198~223)が最も優れていると思うので、同節を叩き台として引用させていただく。

なを、久しぶりに同小節読み返してみたところ、他の小節と比べて数多くの赤線や青線を引いた跡があった。多分、それだけ立ち止まったり、考えさせられたりした、行の多かった小節だったのだろう。よって、改めて読み直した上で、個人的に引いた青線や赤線の行の中から、幾つかの行を引用しつつ、引用毎に小生の【コメント】を添えてみた。

天台宗では古来、学匠は後醍醐帝を決して英明な天子とは言わないんだそうです。寧ろ、暗愚な天子として嫌っています。
『毒舌日本史』p.199
コメント次稿から開始する南北朝時代で詳述するが、戦前の大日本帝国軍によるスローガン、「忠君愛国」を具現化している人物として、後醍醐天皇の下臣であった楠木正成がおり、その正成は戦中にあって軍神として崇められていた。だから、楠木正成は無論のこと、後醍醐天皇についても悪く言うこと、戦中は絶対にタブーであったはずだが、そうした時代にあっても、天台宗では自分たちの後醍醐天皇観を曲げなかったと云う。だから、外部に漏れた場合、即不敬罪の廉で逮捕され、重罪に処せられていたことだろう。


僕も仏縁あって天台宗の僧侶となった限り、このような一大事(後醍醐帝は暗愚説)は後世の史家のために書き残す義務を痛感したので仏天の冥罰を怖れることなく書いたのです。
『毒舌日本史』p.200
コメント和尚が天台宗の大阿闍梨から、後醍醐帝=暗愚について口伝されたのは戦後の話であり、不敬罪といったことを怖れる必要もなかった時代のことである。それでも、門外不出だったはずの後醍醐帝=暗愚説について、『毒舌日本史』に書き残した和尚の男気、小生は高く評価したい。


如何に大塔宮(護良親王)が優れていたかという例から見ますと、御在山の時から殿ノ法印、光林坊玄尊、赤松則祐などという候人が居たことでもわかりますな。
『毒舌日本史』p.202
コメント護良親王が如何に優れた親王であったか、ということを物語る和尚の話である。ちなみに、天台宗で後醍醐帝は暗愚であると口伝で伝えられてきたのは、護良親王と楠木正成を帝の過失で、死なせてしまったことによる。また、これこそが、後醍醐帝が足利尊氏に敗れた最大の要因であった。


ただ、護良親王の周囲にいた僧侶らには、宮廷という場における複雑怪奇なやりとり、裏切りや陰謀が日常茶飯事だった政治の世界は、彼らにとって想像を絶する世界だっただろうから、後醍醐帝を暗愚と思ってしまったのも無理はない。

その他、小節「あほらしい建武新政」で今東光和尚は、楠木正成と足利尊氏についても多くを語っているのだが、長くなりそうなので次稿以降、この二人の人物を取り上げた時、和尚の言葉を引用したいと思う。

武士の時代 07
前稿「武士の時代 06」を執筆したのが、一ヶ月ほど前の10月29日、その時は次稿で鎌倉時代について筆を進めると約束している。しかし、数日後に行われた米大統領選、当選者が未だに決まらないという異常事態をアメリカは迎えたのだった。「時代が大きく動いている」と直感的に思った小生は、時を移さずして情報収集や分析に着手、やがて、今のアメリカで起きていることは、グローバリズムvs.ナショナリズムという、大きな時代のうねりであると確信するに至った。

飯山史観の最終章で、日本の未来について執筆を予定しているが、現在進行形の大変革が、日本の行く末を大きく左右するのは確実であり、この一ヶ月にわたって飯山史観の執筆を中断したのも、決して無駄にはならないだろうと今のところは思っている。

20112102.jpg
兼六園の唐崎松剪定

それにしても、80本近くの飯山史観カテゴリ記事を自分に書かせてきたもの、それは何かと考えているうち、ふと思い及んだことがある。それは、飯山史観の執筆は、毎年晩秋に行っている剪定作業に似ているな、ということであった。

つまり、仮にここに一本の大木があるとする。庭師は大木の〝個性〟を見極め、その大木に相応しい剪定作業を進めていくわけだが、ここで飯山史観を一本の大木と喩えるなら、その大木の個性を最大限に引き出す剪定は、今の小生が行っている飯山史観の編集に似ていると、直感的に思ったのだ。その直感がやがて確信に変わったわけである。

よって、この飯山史観という大木の個性を最大限に引き出すべく、思い切り切って余計な枝葉を切り落とし、時には一部の大枝も敢えて切り落としつつ、飯山史観の骨格、凄さが一目で分かるようにした、編剪定作業を最後まで進めていきたいと思った。

それから、周囲を見渡すと時々、隣接する栗原茂史観という大木、天童竺丸史観という大木、落合莞爾史観という大木、栗本慎一郎史観という大木が目に飛び込んでくる。風雪に耐えてきたそれらの大木の個性を、傍目で見ながら十分に参考にしつつも、あくまでも飯山一郎史観という大木の個性を最終に引き出すこと、このことに集中していきたい。

さて、本来の飯山史観に話を戻す。鎌倉時代について多角的に筆を進めるつもりでいたが、平安時代という貴族の時代から武士の時代に移行した時代、それが鎌倉時代だったと本稿で表記しておくに留め、次稿から直ちに南北朝時代について筆を進めたいと思う。それは、南北朝時代を深く追究してきた飯山史観という大木だけではなく、同じく南北朝時代を追究した落合史観という大木が隣に聳え立っているからだ。この大木同士が、果たしてどのように共鳴するのか、次稿で南北朝時代に筆を進めるにあたっての一つの楽しみだ。

それにしても、本稿のみを以て鎌倉時代を通過してしまうのも、何とも勿体ない気がする。思いつくだけでも、鎌倉時代についてのテーマが幾つか思い浮かぶのだし、テーマ毎に記事の一本、場合によっては数本の記事にしたいものもあるのだが、そうすると飯山史観の編集が、いつまで経っても終わらないというジレンマに陥ってしまう。よって、今のところ諦めるしかないのだが、どうしても書きたいと思っら、迷わず記事にするつもりだ。

●事件
元寇 承久の乱

●人物
源頼朝 源義経 北条政子 運慶 快慶 

●文学
『新古今和歌集』 『平家物語』 『方丈記』 『徒然草』 『愚管抄』 『宇治拾遺物語』 『小倉百人一首』

●仏教
浄土宗 浄土真宗 時宗 日蓮宗 臨済宗 曹洞宗

●芸能
猿楽 田楽能


午後のコーヒーを飲みながら、思いつくままに羅列してみた。本来入れるべき項目も他にあるかもしれない。また、テーマによっては既にブログ記事になっているものもある。たとえば、「運慶」、「百人一首の暗号」といった具合だ。

教科書的に鎌倉時代のお復習いをするのであれば、以下のウエブページ等をサーッと見ておくだけで十分かと思う。ここは一つ、肩の力を抜いて鎌倉時代を鳥瞰してみよう。
鎌倉時代

武士の時代 06
武士の時代 02」では、飯山一郎さんの第五回外圧説、すなわちアテルイについて書き、続いて平安時代末期に誕生した平氏政権(1167~1185年)を取り上げると約束しておきながら、あちこち道草をしていたこともあり、今日にいたるまで遅々として筆が進まなかった。一段落した今、本来の飯山史観の流れに戻すべく、平氏政権の時代から再開しよう。最初に、掲示板「放知技」に投稿した伯家神道・・・。

伯家神道とは平安時代から明治維新に至るまで、宮中祭祀を司ってきた古神道を指していますが、この800年というタイムスパン、現在筆を進めている「武士の時代」の800年と、時期的に重なっています。つまり、日本列島が武士の時代に突入した頃と時期を同じくして、伯家神道が台頭してきた・・・。貴族の時代から武士の時代への移り変わり、何か大きな時代精神の変化が当時の日本列島で起きたはずです。このあたり、次稿「武士の時代」シリーズで書き表せればと思っています。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16711142/143/


本題に入る前に、上掲の投稿で小生は「800年」と書いたが、正しくは「700年」である。お詫びして訂正させていただく。

さて、「貴族の時代から武士の時代への移り変わり、何か大きな時代精神の変化が当時の日本列島で起きたはず」と書いのは、伯家神道と武家政権(平氏政権)がほぼ同時期に始まり、明治維新を迎えるに及んでともに歴史から消えていったからだ。これは単なる偶然の一致だったのか、それとも何等かの深い関連性(原因)があったのだろうかと、投稿後に調べてみたが、特に関連性はないという結論に至った。

そのあたりは、ウィキペディアの「伯家神道」項の小項「前史」を一読すれば分かるので、以下に引用させていただく。

律令制のもとで、神祇官の長官である神祇伯には、当初は大中臣氏が任ぜられ、後に藤原氏や源氏など他の氏族も任じられるようになった。花山天皇の皇子清仁親王の王子延信王は万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下すると、永承元年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。神祇伯は延信王の後、その子康資王、三条天皇の皇曾孫敦輔王、大中臣親定、村上源氏の源顕房の子顕仲、顕仲の甥顕重と補任された。康資王の孫の顕広王が永万元年(1165年)に神祇伯に任ぜられて以降、その子孫によって神祇伯は世襲されるようになり、後にこの家系は「白川家」や「伯家」、「白川伯王家」と呼ばれるようになった。


よって、藤原道長の時代にピークを迎えた貴族政権の衰退に合わせて、次第に武士が力を持つようになり、最終的に平氏政権の誕生に至ったというのが自然な考え方と云えそうだ。ちなみに、「平氏政権」項の小項目の「意義と評価」には、貴族政権から武家政権へ移行した原因の一つとして、以下のように書かれており、「貴族社会の対応能力の無さ」が原因とする解説に、小生は同意するものである。

『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平氏を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平氏一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。


ただし、貴族政権の衰退から一気に武家政権になったわけではなく、段階を踏んで武家政権へと移行したことが分かるのだし、治承三年の政変(1179年)に平氏が国家機構の支配権を掌握した時点を以て、真に平氏政権が成立したとする見方もあるようだ。

それから、40~50年ほど前、すなわち1970~80年代あたりまでは、平氏政権は武家政権ではなく貴族政権だったとする見方が、多くの歴史学者の間にあったことを指摘しておきたい。そのあたりの詳細は、上掲のウィキペディアの「平氏政権」項の小項目、「意義と評価」を参照のこと。


平家物語 祇園精舎/岩佐鶴丈

ともあれ、平氏政権が終わり、時代は鎌倉時代へと突入していった。次稿では、その鎌倉時代を取り上げる予定である。

武士の時代 05
前稿「武士の時代 04」で小生は、『月刊日本』(2018年1月号)に掲載された、「佐藤優 『愚管抄』で危機の時代を読み解く」という記事の結語を紹介した。

米中主導のグローバリズムや皇統の問題に直面する今、私たちは『愚管抄』で13世紀にタイムスリップしてもう一つの日本と向き合いながら、日本国家とは何か、皇統とは何か、考えを深めていきたいと思います。


十年の長きにわたって続いた、『太平記』を読み解くの最終講義で、『愚管抄』と『神皇正統記』という相反する史論を採り入れた古典が、『太平記』であると佐藤氏は語っていたのだが、ここで、これら三冊の古典を振り返ってみるとすれば、最初に言及すべきは、『愚管抄』および『神皇正統記』だろう。この両書は、中世日本を代表する史論書であり、後の『太平記』に多大な影響を及ぼしただけでなく、徳川光圀(『大日本史』)、山鹿素行(『武家事紀』)、新井白石(『古史通』)、頼山陽(『日本外史』)らも同様な影響を受けたことは夙に知られている。

ところで、「グローバリズム志向の『愚管抄』、そしてナショナリズム志向の『神皇正統記』」と、前稿で小生は書いたが、このあたりを一層明瞭にする意味で、佐藤優氏自身による解説を、『月刊日本』(2018年1月号)から転載しておこう。

 ここで提起されている本質的な問題は、グローバリズムです。『愚管抄』は末法思想と百王説にもとづいて「天皇は百代で滅ぶ」と予言し、『太平記』は「不徳の君子は位を失う」と予言していますが、これらは仏教的・儒教的(孟子的)なグローバリズムです。天皇はグローバリズムに呑み込まれて必然的に衰退するんだという認識ですね。その意味で『愚管抄』は仏教的な普遍性を説いたグローバリズムの書なのです。

 これに対して全面的な反論を展開した思想書が『神皇正統記』です。北畠親房は『神皇正統記』の開巻劈頭で「大日本者神国也」と宣言し、日本は神国だから天照大御神の子孫である天皇は永遠に続くと確信したのです。その意味で『神皇正統記』はわが国の特殊性を謳ったナショナリズムの書なのです。

 このように『太平記』には『愚管抄』の論理と『神皇正統記』の論理が混在しており、『太平記』を理解するためにはそれらを理解する必要があります。それだから『太平記』を読み終わった後、これからは『愚管抄』、そして『神皇正統記』に遡っていきます。


一方、以下の佐藤氏の発言・・・

『愚管抄』と『神皇正統記』を読めば、日本が分かると私は思う。南北朝時代はそれ以前とそれ以後の日本を画する時代であって、『愚管抄』までの日本と『神皇正統記』からの日本は、違う国だといっても過言ではありません。


これは、どういうことか?

佐藤氏が『太平記』を講義していた十年間は、報告記事の形で『月刊日本』にも毎月掲載されていたものであり、実に優れた文章だったので小生は毎号欠かさず目を通していたものだが、残念ながら『愚管抄』の報告記事は、『月刊日本』には掲載されていない(月刊日本HPで確認済み)。『太平記』講義の報告記事が優れていただけに、『愚管抄』の報告記事が無いこと、残念な思いである。何故なら、「『愚管抄』までの日本と『神皇正統記』からの日本は、違う国」とする佐藤氏の言葉、飯山史観を熟知する身として、どうも腑に落ちない言葉であり、何故に佐藤氏はそのように考えたのか、本当のところを知りたかったからだ。

さて、両書の成立時期だが、『愚管抄』が成立したのは南北朝以前の鎌倉時代、承久2年(1220年)、そして『神皇正統記』の初稿が完了したのが、延元4年(南朝)/暦応2年(北朝)(1339年)(修改完了は興国4年/康永2年の1343年)の南北朝時代だ。

南北朝時代を境に、それ以前とそれ以降の日本は大きく異なるとする佐藤氏の言葉、何故に佐藤氏はそのように思うのかは、今のところ不明なので脇に置いとくとして、いずれ南北朝に筆を進める段階に入ったら、飯山史観を中心に、今東光史観と落合莞爾史観を加味して筆を進めていくつもりである。佐藤氏の上掲の言葉の真意も、判明したら併記したいと思う。

最後に、飯山さんが語った南北朝について、重要な発言を以下に再掲しておこう。

600年前、北朝側が南朝側を「根絶やし」にすべく、南九州は志布志まで
追討してきた「証拠」(石の板碑)を見ると、下甑島の和田家こそが楠木家
の本流・直系であるとの「自認」が正しい! と、私は思っています。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15558491/310/


小生も上掲の飯山さんの発言に関連して、拙稿「薩摩ワンワールドと皇室」を書いている。

一方今東光和尚の後醍醐帝観については、拙稿「隠岐島に残る悪政の烙印」で記事にした。

また、落合莞爾さんの後醍醐帝観については、『南北朝こそ日本の機密』を紐解くと良いだろう。または、以下の拙稿を参照のこと。

「南北朝こそ日本の機密」
今日的な問題 -南北朝-
落合秘史II


【追記】

【Front Japan 桜】ナショナリズムと資本主義経済 / 拡大する中国の歴史改ざん / 韓国猛追!日本の漫画・コミックの不安な未来[桜R2/10/19]

佐藤氏のグローバリズムvs.ナショナリズムが中世日本の話なら、上掲の動画で三橋貴明氏が語る「ナショナリズムと資本主義経済」は、現在進行中の話であり、両者を対比させる意味で興味深いはずだ。尤も、佐藤氏の「グローバリズムvs.ナショナリズム」は歴史に重きを置き、一方で三橋氏の場合は経済に重きを置いているので、この違いを念頭に置いた上で、見比べていただきたい。

因みに、上掲の動画は一時間半と長いが、三橋貴明氏による「ナショナリズムと資本主義経済」についての解説は、15:40 - 31:45と15分ほどなので、そこだけでも見ることをお勧めする。

20102401.jpg

殊に、最後の方で三橋氏が掲示した以下の図表、現時点における日本の本当の姿を示した図表であり、日本で生を享けたことの幸せを感じさせてくれる図表だ。だから、日本人としての自信と誇りを取り戻す意味でも、一人でも多くの同胞に三橋氏の言葉に耳を傾けて欲しいと願う。

20102402.jpg

武士の時代 04
前稿「武士の時代 03」で、武士の時代を切り拓いた平氏政権から筆を進めると書いたが、もう少し回り道をしなければならなくなったようだ。それは、平氏政権について漠然と思索を巡らせていた時、佐藤優氏による『太平記』の講義を思い出したからである。

これは、『月刊日本』の執筆者や読者を中心に、佐藤氏を囲んで『太平記』を読み解いていくという小人数の講義であり、十年にわたって続いた、息の長い講義だった。小生は実際に出席したことはないが、上の息子が高校生の時に『太平記』に強い関心を抱き、出席者の一人であった、山浦嘉久さんを介して幾度か出席していた。講師役の佐藤氏をはじめ、出席していた山浦さんや稲村公望さんとの交流も深まり、本人にとって得がたい無形財産となったことだろう。その後、息子は京都の大学に進学したため、自然と講義から足が遠のく形となった。一方、講義そのものはその後も続けられ、十年という長い時間をかけ。ついに『太平記』全巻の講義の最終回を迎えたわけだが、その報告が『月刊日本』に掲載された以下の記事である。

佐藤優 『愚管抄』で危機の時代を読み解く

20102202.jpg


では、何故に佐藤氏は十年という長きにわたり、『太平記』の講義をボランティアで行ったのか。さらに、佐藤氏をして講義を続けさせたものは、一体全体何だったのかということになるが、その答えが上掲の記事に書いてある。

資本主義が行き詰まった現在、私たちは再び「近代の限界」に直面しています。この問題を解決しない限り、現下の危機は克服できないはずです。その意味で私たちは改めて「近代の限界」に取り組み、「近代の超克」を考える必要があるのです。

 その上で重要なのが、かつての「復古維新」の思想なのです。実際、この思想はグローバリズムが行き詰まった状況で出て来ました。目指すべきモデルが同時代(共時性)に求められないため、過去(通時性)に求められたのです。


そして、『太平記』の講義を終えた佐藤氏、次に『愚管抄』の講義を新たに開始すると宣言したわけである。

20102203.jpg

何故に『愚管抄』なのか? そのあたりの理由について、佐藤氏は以下のように述べている。

米中主導のグローバリズムや皇統の問題に直面する今、私たちは『愚管抄』で13世紀にタイムスリップしてもう一つの日本と向き合いながら、日本国家とは何か、皇統とは何か、考えを深めていきたいと思います。


上記のような言葉を佐藤氏が発したのは、『平家物語』が、グローバリズム志向の『愚管抄』、そしてナショナリズム志向の『神皇正統記』という、思想的には相反する関係にある、二つの思想を採り入れた古典だからだ。

つまり、ディープステート(米国)や中共(中国)を代表とする、グローバリズムの立場に立脚して書かれたのが『愚管抄』、一方で皇統、すなわち反グローバリズム(ナショナリズム)の立場に立脚して書かれたのが『神皇正統記』と佐藤氏は考えているわけで、以下は上掲記事における佐藤氏の結語だ。

米中主導のグローバリズムや皇統の問題に直面する今、私たちは『愚管抄』で13世紀にタイムスリップしてもう一つの日本と向き合いながら、日本国家とは何か、皇統とは何か、考えを深めていきたいと思います。


この佐藤氏の発言について、もう少し解説を加える必要があるが、これは次稿で展開していこう。

【追記1】
20102201.jpg

『太平記』の劇画を描いたさいとう・たかを氏と、今回取り上げた佐藤優氏という珍しい取り合わせの対談記事がある。
さいとう・たかを氏 ゴルゴ13がAI兵器にも負けない理由

特に印象に残ったのは、以下のやりとりであった。

さいとう:ゴルゴは標的をじっと待つでしょ。“間”がある。この“間”というのは、日本人的感覚で、他の文化からはなかなか理解しにくい。自分で描いていて、ある時、気づいたのですが、ゴルゴの行動は「無私」なんです。

佐藤:私が無い、の無私ですか?

さいとう:そう。たとえていうなら、剣の達人の無の境地に近い。撃つ時に、自分が無いんです。侍でいうところの居合い。一刀で相手を倒す。アメリカだとそうじゃない。機関銃をダダダダダダッと撃ちまくるほうがウケます。

佐藤私、先生の『太平記 マンガ日本の古典』(中公文庫)も好きなんですが、あの面白さは「ゴルゴ=侍」にも通じるところなんでしょうね。ゴルゴの強靱な精神力は、弓道をやっている人とも近いような気がします。


さいとう氏は「間」は日本的感覚と語っているのだが、逆に言えば英語に通訳あるいは翻訳する際、頭を抱える日本語だということになる。この「間」だが、それに近いニュアンスが"space"に含まれている(『COBUILD English Dictionary』より)。

If you give someone space to think about something or to develop as a person, you allow them the time and freedom to do this.
* You need space to think everything over...


そこで、たとえば「間を生かす」を英語で表現するとすれば、"to give space meaning"が近いかもしれないと今のところ思っているが、決してイコールではない。その意味で、改めて能や歌舞伎から、゛「間」について学び直す必要がありそうだ。