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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
天武天皇 16
前稿「天武天皇 15」で、乙巳の変について言及すると小生は書いた。何故か?

最初に、小生の所有する『マイペディア』という電子百科事典は、乙巳の変について以下のように解説している。

乙巳の変
645年(大化1年)中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが,蘇我大臣(おおおみ)家を滅ぼして新政権を樹立した政変。645年が干支(かんし)の〈乙巳〉にあたるため,その名がある。なお政変から新政権樹立に至るまでの一連の政治変革を〈大化改新〉と呼ぶが,この呼称は近代に入ってのものである。


ここで、思い出していただきたいのは中大兄皇子、すなわち後の天智天皇とされる人物で、小生は前稿で以下のように書いている。

聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかった…


小生が天智天皇は実存の人物ではなかったかと、何故に思っているのという点については、前稿に書いたので確認していただくとして、多分、乙巳の変について最も核心に迫った日本の識者は、天童竺丸さんと安西正鷹さんだと小生は思っている。その意味で、天童さんがウェブで公開している記事の紹介と同時に、小生が独断と偏見で各々の記事にコメントを追記してみた。

20032801.jpg

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 1

蘇我入鹿を惨殺した宮廷の現場にいたが事情を知らされていなかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が自家に逃げ帰り語った「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉だ。「鞍作臣」とは入鹿だが、「韓人」とは誰か。それは明らかに、入鹿殺害の張本人の中大兄皇子である。では、なぜ彼は「韓人」と呼ばれたのか。


上掲の文章からも明らかなように、天童編集長も中大兄皇子(天智天皇)を、実存の人物と見ていることが分かる。このあたり、天武天皇を架空の人物とする故飯山(一郎)さん、そして小生の見解と異なる点である。それはともかく、天智天皇のモデルはいたのであり、飯山さんが晩年、熱心に取り組んでいた『天皇系図の分析について』の場合、p.913の第22章の第1節「平安・日本書紀での天智天皇とは「百済王子と新羅王子」との合成人間」と述べている。小生は違うように思うのだが、そのあたりについては飯山史観の筆を進めていく間に調査し、判明したことを書いていくこととしたい。

ところで、問題は「韓人」だ。何故に、中大兄皇子は「韓人」と日本書紀に書かれているのか…。問題の「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」と書かれている行は、皇極天皇の巻(日本書紀)なのだが、この「韓人」の解釈を巡ってネット界隈では今でも、百家争鳴の呈を成していることもあり、最終的な結論は暫く先に延ばすことにしたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2

書紀割注にある、「韓政」(からひとのまつりごと)と呼ぶにもっとも相応しいのは、中大兄皇子すなわち天智天皇による改新政治であった。国を失った百済を救済するために大軍を催して遠征し白村江の戦いで大敗を喫したのである。日本書紀の筆は蘇我政権にこと寄せて、中大兄=天智天皇の弊政に筆誅を加えたのだと考えられる。


その根拠として、天童編集長は渡辺豊和氏の著した、『扶桑国王蘇我一族の真実』を引用している。

蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)


渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 3

いわば自らの出自ともいうべき北方ツラン的な要素を歴史から消し去った転換点こそ、大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期にある、と私は思う。そして、その最大の問題点が、蘇我氏の痕跡をわが歴史から抹殺したことにあることを教えてくれたのが、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』であった。

 渡辺豊和は蘇我氏とはトルコ系騎馬民族の「高車(こうしや)」ではなかろうかとの説を提案している。


「大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期」と天童さんは書いているが、再び飯山史観に基づけば、これも架空の「混乱期」と言える。そのあたりは、やはり『天皇系図の分析について』も第6章「「大化の改新」は架空の物語」(p.211)、あるいは第8章「「壬申の乱は架空の物語」で詳述している。

それはともかく、ここで蘇我氏が登場してきた。渡辺豊和氏は、「蘇我氏とはトルコ系騎馬民族」としているようだ。一方、『天皇系図の分析について』の藤井輝久氏は、第18章「蘇我氏と物部氏の対立の真相」で、「蘇我氏=金官国」(p.772)と明記している。ここで言う金官国とは、藤井氏にによれば九州にあった倭国を指していることが分かる(p.51)。このあたり、渡辺史観と藤井史観とでは異なるが、精査が必要と思うので、結論は先送りにさせていただく。今のところ、小生は渡辺史観を支持するものである。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 4

『梁書』に登場する当時の日本にあったとされる国名は、「倭国」「文身国」「大漢国」「扶桑国」の四つである。


天武天皇の御代以前の日本列島は、各地の豪族による群雄割拠の時代が続いていた。そして、『梁書』が四つの国が日本にあったとする記述は実に貴重である。また、東北を拠点としていた扶桑国は、今東光和尚の何の本だったかは忘れたが、東北地方の豪族は良馬を産出していたという記述を思い出すのだし、馬と言えばツランを連想せずにはいられない。その意味で、扶桑国のルーツはツランであろうと、今の小生は思っている。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5

大和朝廷の成立以前のそうした地域勢力をどう捉えるかは、それぞれ見解が分かれる所だろうが、渡辺豊和は『梁書』に拠って、古代の日本には、「倭」「文身国」「大漢国」「扶桑国」と呼ばれる四つの国があったとする説に注目をしている。「倭」とは九州勢力、「文身国」は出雲、「大漢国」は河内(大和も含むか?)、「扶桑国」は計算上は北海道渡島半島付近となるが、東北地方全域に及ぶ勢力であったろうと渡辺は考える。


扶桑国の勢力が、東北地方に及んでいたという渡辺氏に小生は同意する。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6
コメント略。

ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン
コメント略。

ここで改めて思うことは、晩年の飯山さんが熱心に取り組んでいた、藤井氏の『天皇系図の分析について』、小生も飯山さん同様、腰を据えて取り組む、すなわち批判的読書に徹しなければと一瞬思ったものだが、そうすると飯山史観の完成が益々遅れてしまう。よって、飯山史観、天童史観、鹿島史観、栗本史観について、小生はある程度なら把握しているので、鹿島史観をベースにした藤井氏の『天皇系図の分析について』は参考程度に留め、飯山史観の完成に向けて筆を進めていきたいと思う。

次稿では藤原氏を取り上げる予定である。

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天武天皇 15
天武天皇については、過去14回にわたって執筆してきた。よって、今回からは天武朝が誕生した経緯を振り返ってみたいと思うが、その前に、改めて天武天皇についての御浚いをしておきたい。

最初に、過去の14本の天武天皇に関する記事で、小生が伝えたかった天武天皇像は以下のとおりである。

1.日本史の始まり天武朝
これは、天武天皇以前の日本列島には「歴史」というものが無かった、という意味になる。換言すれば、真の日本の歴史の始まり、それは天武天皇の御代からということだ。

7世紀までの日本列島には、歴史も言語もなかったのです!
日本の歴史=『日本書紀』をつくったように、日本語をつくったのも百済なのです。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/2/


2.済州島人だった天武天皇
当時の済州島は百済の領地の一つで、そこに御座されていたのが百済王子の一人、天武天皇であった。その後、天武天皇が済州島から命からがら九州へ逃れたのも、大帝国唐に命を狙われていたためだ。なを、天武天皇が百済人であったことは、拙稿「天武天皇 02」~「天武天皇 11」で既述した。

詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。
(飯山一郎訳)天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に帰ってよろしい)と言った.
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!


3.『日本書紀』編纂の狙い
このあたりについては、以下の飯山さんの投稿を参照のこと。

「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


ここに、百済の貴人であった天武天皇が済州島から九州へ逃れた背景が示されている。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14758876/751/

赤色の下線に注目していただきたい。何故に「讖緯説」と「天智」が〝秘鍵〟なのか…。そのあたりを十分に理解しておかないことには、天武天皇が日本書紀の編纂を命じた本当の目的も分からなくなる。その意味で、以下の飯山さんの遺稿、日本書紀に隠された「讖緯説」を正しく理解する上で必読と云えよう。
日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題

もう一つの秘鍵「天智」だが、以下の飯山さんの記述に注目していただきたい。

「天智天皇」も「壬申の乱」も,百済や新羅や伽耶の歴史書のコピーだった!

ま,この「説」が↑↑正解でしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16057898/936/


どういうことか…?

これは、聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかったということだ。

壬申の乱は,日本列島内での権力闘争ではありません.←これが「飯山史観」です.
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16216140/370/


では、天智天皇が架空の人物だったとすると、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしたというクーデーター、すなわち、乙巳の変とは何だったのかということになる。よって、次稿では乙巳の変について少し言及してみたい。

天武天皇 14
本日は3月11日、生涯忘れることのできぬ、あの東北大震災が発生した日だ。よって、毎年行っていることだが、本年も午後2時46分に一分間の黙祷を捧げたい。

さて、「飯山史観」という新カテゴリを設けたのは2018年9月19日、ほぼ一年半前となる。その間、60本ちょうどの飯山史観カテゴリの記事を書いてきたことになるが、この飯山史観の完成までに、今のところ計150本ほどの記事数になる見込みであり、あと90本ほどの記事を書き終えた段階で、漸く飯山史観の完結ということになりそうだ。だから、現時点ではマラソンの折り返し点にすら達していないことになる。かつ、ここ暫くは仕事等で多忙だったこともあり、記事をアップするペースも大分落ちてきた…。これではいけないということで、そろそろ飯山史観の執筆にエンジンをかけることにした。

そこで、飯山史観シリーズの執筆勘を取り戻す意味で、「天武天皇 01」以降をサーッと読み返してみた。

最初に、「天武天皇 01」を読み返してみて、『扶桑国王蘇我一族の真実』という本からの引用に改めて注目した。何となれば、天武天皇の御代から現在に至るまでの我が国のかたちを俯瞰する上で、改めて吟味する必要がありそうな引用だったからだ。

大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)という“一神教派” が天下を取り、それが壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)という“多神教派”の天下となった。そして公になっていないが三度目の乱が起こって再び藤原氏による体制=“一神教派”の天下に戻り、それが今日に至っても続いている。


著者である渡辺氏の「一神教派」という記述には思わず苦笑したが、それはともかく、この引用を久しぶりに再読しながら、故飯山(一郎)さんの朋友であり、古代史を巡っての好敵手でもあった小川秀之氏が、放知技に投稿した藤原家についての記述を思い出した。

狡猾な人々を多くだした藤原氏ももとはソグド人を祖にもっていたのかもしれない。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/475/


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NHKの番組「アイアンロード」。鉄の発祥の地を現在のトルコにしているが、明らかな間違い。鉄を含む、人類文明発祥の地はシベリアである。

この小川氏の投稿に、実に興味深い記述がある。それは、人の身体的特徴に関する記述で、例えば始皇帝の父親が碧眼だったということから、始皇帝は漢人ではないといった小川氏の推測に小生は同意するものである。そんな折、小生が仕事で多忙を極めていた1月13日、NHKが「アイアンロード ~知られざる古代文明の道~」と題する、実に興味深い歴史番組を放送した。先月末まで続いた仕事が一段落した昨日、漸く同番組を鑑賞したのだが、最も強烈な印象を小生に植え付けたのが「金髪のミイラ」であった。

◆ミイラ20031101.jpg

神計らいか、今年の1月15日に発行された世界戦略情報誌『みち』の「巻頭言」でも、同番組を取り上げていた。そして、巻頭言を著した天童竺丸さんも2005年にアルタイ山脈で発見されたという、スキタイ王族の金髪のミイラに注目したようだ。ご参考までに、同記事を本稿の最後に転載しておくので、関心のある読者に目を通していただけたら幸いだ。ともあれ、小生が注目したのは同記事の以下の結語である。

大量に鉄を生産して強大な覇権を建てたのがヒッタイト、スキタイ、そして突厥だった。彼らはいずれも、古代ミヌシンスク文明の影響下にあり、いわばツランの末裔たちだった。


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王家の谷に点在するクルガン(古墳)群

ツラン民族を顕わす特徴の一つが遊牧民であることは、今までの飯山史観、その他の拙稿で多くを書いてきたが、同番組で改めて鉄と馬の結びつきに思いを致した次第である。つまり、鉄の発見によって初めて、人類は馬を自由自在に操り、長距離を移動できるようになったという同番組の解説を耳にした時、小生は思わず膝を打った。

続く「天武天皇 02」~「天武天皇 11」では、人類文明発祥の地シベリアに誕生したツランから、百済に至るまでの大雑把な流れを示した。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


百済人であった天武天皇の遠祖も、遡れば最終的にツランに行き着くということに改めて注目していただきたい。

天武天皇 12」では、以降の天武天皇シリーズで取り上げたいテーマを羅列したが、その後の様々な思索の積み重ねにより、追加したり取り止めたりするテーマが多く出た。そのあたりは、以降の拙稿でご確認いただきたい。

最新の天武天皇シリーズ「天武天皇 13」では、天武天皇は済州島の貴人であったことを実証した。そして同稿で日本書紀の正体について書く約束をしていたが、同記事で紹介した飯山さんの日本書紀に関する投稿を改めて再読するに、小生が書きたかったこと、すなわち日本書紀の正体をズバリ書いてあったので、拙稿では割愛させていただく。

また、以下の飯山さんの投稿も参照のこと。

20031107.jpg
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/5/

加えて、拙ブログでも飯山さんの日本書紀について、多角的に紹介している。

天武天皇を巡る裏史
安曇族と宗像族


まだ、(飯山史観を執筆する)エンジンが本調子ではないので、もう暫くは気の向くまま天武天皇シリーズについて筆を進めさせていただこう。

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天武天皇 13
前稿「天武天皇 12」をアップしたのが9月18日、それから二ヶ月以上もの間が空いてしまった。今年の9月は例年よりも酷暑の日が多かったこともあり、日によってはエアコンのスイッチを入れて仕事をしていたのを、つい昨日のことのように思い出す。ところが、ここ数日の深夜から朝方にかけては石油ストーブを点けて仕事という具合に、秋の気配を感じないまま一気に夏から冬に突入していたという、何とも不思議な感覚に陥っている今日この頃だ。そうなったのも、仕事(翻訳)で多忙を極めていた為だったのだが、この状態が来年の一月末まで続くwww

そんな折、ふと目に留まったのがJINMOさんの以下のツイート…


JINMOさんのアメリカ人の親友が、自らボーイング787を操縦してアメリカ本土(デンバー)から東京へ飛行、JINMOさんの演奏を聴いた後、わずか20時間ていど日本に滞在しただけで、蜻蛉(とんぼ)返りで本土に戻っていったというのだが、実に痛快な話というか、スケールの大きな話ではないか。小生は飛行機の操縦はできないが、せめて正月休みくらいはノンビリと、近場の温泉にでも足を延ばしてみるかな…。どうせなら、飛行機に乗って韓国や香港といった近場にでも…、と頭に浮かんだのだが、昨今の政情から今というタイミングで行くのも何なので、台北の郊外にある北投温泉あたりがE-かも…

さて、天武天皇シリーズの続きに筆を進めるとしょう。前稿の「天武天皇 12」で、「天武天皇は百済人」について書くと約束していたが、その前に、前稿で紹介した飯山一郎さんの「外圧と占領」以外に、もう一つの日本列島史、すなわち「国家の出発点」という飯山さんの別の視座を、この機会に紹介しておきたいと思う。飯山さんが国家の出発点について書いていたのは、「政治を語るための前提条件について」シリーズ第6弾で、残りのシリーズ5本のリンク先も併せて紹介してあり、現在本スレの主テーマとなっている政治・経済について、飯山さんの政治観を改めて確認しておく意味で、同シリーズを再読してみるとよいだろう。以下、飯山さんが遺してくれた、もう一つの日本列島史観だ。

「日本」という国家の出発点は,歴史的には,五つある.

 1.天武天皇の「日本建国」による脱唐国支配国家

 2.藤原(不比等)氏による貴族支配型律令国家

 3.徳川家康による武家支配型・幕藩体制国家

 4.明治政府による脱植民地型海外進出国家

 5.敗戦後の米国による占領・属国支配型国家
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/370/


「2」で、藤原不比等が登場している。天武天皇シリーズを終えたのち、南北朝時代まで一気に筆を進めようと思っていたが、やはり、当時、そして今日に至っても皇室に深く食い込んでいる、藤原氏について少しは書かねばなるまいと思った。しかし、藤原氏に深入りしすぎると、なかなか飯山史観の完成に至らないので、当時の藤原氏については簡単に触れるに留めるつもりだ。

ともあれ、話を天武天皇に戻す。当時の時代背景で注目していただきたいのは、「脱唐国支配国家」という飯山さんの言葉だ。脱唐国支配国家とは、どういうことか? 実は、ここに天武天皇が済州島から日本列島に渡来した秘密が隠されている。ここで、当時の唐と朝鮮半島諸国との関係、殊に百済との関係は、どのようなものだったのかについては、飯山さんによる放知技への投稿が参考になるので、以下に一部を引用しておこう。

7世紀中葉。白村江の戦いで“大唐帝国”に大惨敗を屈した百済国は、“大唐帝国”の殲滅(せんめつ)作戦から逃れるために、慌ただしく九州に逃げ込んできた。
しかし、「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令情報は、はるか九州にも伝わってくる…。
そのため、北九州に上陸した百済国の王族・貴族は、“大唐帝国”の追討殲滅作戦に恐れおののきながら、南九州までの逃避行を決行する。
南九州は大隅半島の志布志近辺まで這々の体(ほうほうのてい)で辿り着いた百済国の王子・大海人皇子は、大急ぎで天武天皇と名乗り、大慌てで「正史」の編纂を命じた。そのときに初めて「日本」という国名が、苦し紛れの状態の中で発明された…。これが7世紀末の「日本」でした。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


上掲の飯山さんの投稿が、日本史の秘密を解き明かす上で貴重なものとなっているのは、日本書紀の成り立ち、すなわち天武天皇が唐を騙すために編纂したものであることが一目瞭然となっているからだ。

ここで、百済王族の王子の一人であった天武天皇(大海人皇子)の場合、半島経由で北九州へというルートではなく、済州島(耽羅国)経由であった点に注目されたい。つまり、天武天皇は済州島から直接、南九州は鹿児島へ命からがら逃げてきのだが、この済州島が日本と百済を繋ぐ重要拠点であったことは、飯山さんが以下のHP記事で明確に述べている。
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!

この飯山さんの済州島説に対して異を唱えているのが、飯山さんの朋友である小川秀之氏だ。

僕は百済の後継国や日本の建国は辛酉年の661年や初代の天皇は天武天皇ということをはっきり認識するにいたったのは飯山一郎氏の論の影響による。
僕と飯山一郎氏の見解の相違は飯山一郎氏は天武天皇は百済の出自と考えているのだが、僕は天武天皇は高句麗の出自だと考えているぐらいのものであろう。
百済は高句麗より分離し南下したのは最近までは朝鮮半島と思っていたのだが、最近ではそうではなく遼東、遼西へと南下しやがて山東にまで南下し山東半島から対岸の今の京城あたりに渡ったのではないかと思うようになった。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/336/


それに対して、飯山さんは以下のように回答している。

天武天皇と済州島との関係には只ならぬものがあります.
たとえば,
天武天皇二年(673年)8月25日 に次のような記事があります.
 「詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。」 
    ↓  ↓  ↓
 「天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.
  よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に
  帰ってよろしい)と言った」.

その済州島は古名を「耽羅」といい,百済の属国!でした.
「耽羅」という言葉自体が,百済の属国という意味です.

『日本書紀』では,耽羅と日本の交流は日が浅く,耽羅国が日本国に初めて
入朝したのは,661年のことでした.

それが,673年の記事では,天武天皇が耽羅の使人に対して「祝い事などの
儀礼以外は呼び寄せない」と言っておられる.

このウラの意味は↑天武天皇と耽羅との「付合い」が「祝い事」以外の面でも,
深い同盟関係にあった,ということでしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/340/


そうした若干の違い(と云っても、この違いは途方もなく大きいのだが…)が、飯山さんと小川氏の間にあるにせよ、ここで言及しておかなければならないのが、晩年の飯山さんが熱心に毎日少しずつ読み進めていたという、『天皇系図の分析について』(藤井輝久 今日の話題社)という本だ。

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小生も同書を入手し、幾つかの章に目を通してみたが、途中で妙に懐かしい気分になったものである。この不思議な感覚、何なのだろうと思っているうち、目を通した同書の「おわりに」(p.1110~)で、「鹿島曻」の名前が目に飛び込んできた…。ここに至って、漸く〝妙に懐かしい〟と思った訳が分かったものである。

二十年前の小生は、鹿島曻が著した本を十冊前後入手し、そのほとんどに目を通している。大変刺激に満ちた本であったが、なかでも目が釘付けになったのは、日本書紀の正体を述べた行であった。つまり、日本書紀は、「百済の歴史書のコピー」であると、鹿島は喝破していたのだ。これは、どういうことか…? と長年頭から離れなかったのだが、飯山一郎さんの日本書紀に関する投稿を目にして、漸く納得のいく「全体像」が見えてきたというわけだ。次稿では、そのあたりの簡単な解説を試みたい。

天武天皇 12
19061101.jpg

今回より、百済人の天武天皇その人について言及していきたい。ここで、天武天皇のことを百済人と書いたが、その百済が歴史に登場するまでの流れを示す意味で、「天武天皇 02」(ツラン篇)から「天武天皇 11」(百済篇)と、延々と10本の記事を書き連ねてきたのは、飯山史観では天武天皇を以て日本の歴史の始まりとしているからだ。換言すれば、我々日本人のルーツを振り返るための10本記事だったと云えよう。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→日本


さて、小生は「天武天皇 01」で以下のような結語を書いた。

今後の天武天皇シリーズで描いてみたいのは、天武天皇の正体、すなわち天武天皇のルーツ(ツングース→扶余→百済成立)、そして天武天皇が日本に及ぼした影響であり、今回の「天武天皇」シリーズの次は、南北朝時代、すなわち「南北時代」シリーズに筆を進める予定だ。その間、飯山さんの「外圧と占領説」の第五回、「9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧)」も挿入したいと思っている。


上述の天武天皇の正体(出自)については、上掲の10本記事で一通りのラフスケッチを描き終えたと思うので、以降の天武天皇シリーズでは、天武天皇が日本に及ぼした影響、つまり、飯山さんの「外圧と占領説」(拙稿「古墳時代 11」参照)に従えば、第四回の「7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入」のラフスケッチとして、当時の日本を取り巻く東アジア情勢、さらには、日本にとっての天武天皇とは、どのような存在だったのか、どのような影響を後の日本に及ぼしたのかについて簡単に描いていきたい。よって、現在考えている天武天皇シリーズ後半の流れは、大凡以下のようになる。

■天武天皇は百済人
・大海人皇子(天武天皇)は百済人(王子)という根拠
・『天皇系図の分析について』を著した藤井輝久と鹿島昇との関係

■天武朝時の東アジア情勢
・天武天皇が済州島から日本列島に渡来(逃避)した理由
・天武天皇の御代における栗本慎一郎の東アジア観
・天武天皇の御代における天童竺丸編集長の東アジア観

■天武天皇と記紀
・飯山一郎さんが明らかにした、天武天皇が記紀編纂を命じた時代背景
・『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』と日本書紀の関係

■日本史の始まり
・天武天皇の御代を以て日本の歴史が始まったと言える理由

■蘇我氏と天武天皇
・竹内宿祢・天智天皇vs.天武天皇
・蘇我氏から天武朝、そして藤原氏への変遷
・壬申の乱という虚
・その他


もしかしたら執筆の途中で追記したり、、別テーマについても言及するかもしれない。ともあれ、天武朝についてのラフスケッチを描き終えたら、以降の飯山史観の完結までの流れとして、今のところ大凡以下のような流れを予定している。

■天武天皇から、第五回・外圧と占領「9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧)」まで

■第五回・外圧と占領以降から、南北朝時代(14世紀)まで

■南北朝から、第六回・外圧と占領「19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,英国による間接支配開始」まで

■第六回・外圧と占領から、第七回・外圧と占領「20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国」まで

■第七回・外圧と占領から、第八回・外圧と占領の「米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る」まで

■第八回・外圧と占領から、世界と日本の将来を以て完結


昨今の拙ブログの一カテゴリ「裏史」は、このあたりを念頭に置いて諸記事をアップしている。たとえば、以下の四本記事だ。

二・二六事件と現代
ツランと世界権力(中級編)
ツランと世界権力(初級編)
NHKの正体


拙ブログの飯山史観以外のカテゴリ、特に裏史カテゴリには、今後も国内外に囚われることなく、飯山史観と繋がる様々な裏史について書き連ねていきたいと思う。なを、次稿は「■天武天皇は百済人」を予定している。

天武天皇 11
9月9日深夜、関東地方を直撃した台風15号が関東・東北を通り過ぎたと思ったら、フェーン現象により同日の日本各地の気温は軒並み35℃超、特に新潟の場合は38℃を観測したという。そして翌日の10日も前日同様、猛烈な暑さが続いた。本日の12日現在、千葉県全体で未だに停電状態の家屋が34万戸という。場所によっては、停電だけではなく断水もしているというから、猛暑が続いているだけに、住民の皆さんの健康面・衛生面が心配だ。

ところで、直前の4本記事で言及してきた、世界権力に関連するテーマ以外にも、記事にしたいテーマがたくさんあるのだが、前回の「天武天皇 10」をアップしたのが8月16日、一ヶ月近くも間を空けてしまったこともあり、飯山史観の完結までに、最低でも100本前後の記事を今後予定している手前、そろそろエンジンを再始動したい。

■百済
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

19090901.jpg

百済(4世紀前半-660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。
ウィキペディア 「百済


上掲のウィキペディアの「百済」項と版図は完全な間違い。正しい版図は以下のようになる。

19090902.jpg
『邪馬台國論争 終結宣言』p.194

何故、ウィキペディアの説明と版図が間違っていると、断言できるのかということについては、拙ブログの「飯山史観」カテゴリ、就中、「天武天皇 09」(馬韓篇)と「天武天皇 10」(夫余篇)で凡そ解っていただけると思うが、念のため、以下に飯山一郎さんのHP記事などを追加しておこう。

最初に、以下は飯山さんが百済について書いた諸HP記事で、個人的に注目した箇所である。

 『梁書』百済伝
 其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、
 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
 >その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、
 >西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた
 >遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。

◆2008/04/19(土) 「百済や帯方郡が遼西にあった」という証拠


「百済や帯方郡が遼西にあった」としているのは、何も上掲の『梁書』だけではない。『周書』、『宋書』、『通典』も、押し並べて百済は遼西にあったとしているのだ。

また、掲示板「放知技」にも以下のような飯山さんの投稿がある。

天皇家のご先祖は『史書』が記した「東胡」と…、
『殷帝国』をつくった「朝鮮族」との混血です。
この「混血族」が『百済国』となるのですが…、
『百済国』は朝鮮半島の国ではありません。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13005084/2/


それから、百済を考えるにあたってシャーマニズムの観点も重要となる。

『百済国』とは、“馬韓国” のアミニズムを吸収したシャーマニズムの国家なのである。
ここで…、
これまでの物語を大雑把にまとめてみよう。
卑彌呼の邪馬壹国が参内した帯方郡で、殷と、北魏と、北燕と、馬韓と、扶余が合流し、
百済国となり…、
韓半島まで東遷 (東征) し、満州で百済国が滅びると、百済国は日本に渡来してくる…。
百済人の血は、殷、北魏、北燕、馬韓、扶余、倭…、そして卑彌呼のDNAが渾然一体と
なった血脈で、この血流の一貫性こそが、万世一系の神話なのである。

◆2011/02/25(金) 金王朝の “深い深い謎” -88-


以上、百済という国のかたちを解っていただいたと思うので、次稿からは、いよいよ百済国の王子(大海人皇子)であった天武天皇と済州島、天武天皇と記紀など、ありとあらゆる角度から、天武天皇について筆を進めていきたいと思う。何故なら、日本の歴史は、天武天皇を以て嚆矢(日本の歴史のはじまり)とするからである。

天武天皇 10
■扶余
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19081501.jpg

夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、拼音: Fúyú、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。
「ウィキペディア」夫余


最初に、扶余のルーツについて一言。拙稿「天武天皇 03」でも紹介した飯山一郎さんのHP記事、以下に再掲するので目を通していただきたい。

遠い昔.中国東北部 (満州) の広大な平原で…,
モンゴル族系の扶余族は,ツングース族 と混血して 扶余国 を建てた.
扶余国の王子一派は,さらに南下し,渤海沿岸で馬韓国を吸収して 百済国 をつくる.
やがて,百済国の末裔(大海人皇子)は日本国をつくる….(cf. 飯山一郎の古代史).

われわれの先祖は豚を飼う民族だった.


拙稿「天武天皇 02」でも述べたことだが、ツランの主な民族は三民族、すなわち、ツングース族、モンゴル族、テュルク族だ。そして夫余はモンゴル系だったが(別の説もある)、ツングース族と混血したというわけだ。そのあたりについて、栗本慎一郎が興味深い関係図を作成している。

19081502.jpg

上掲図の詳細は『栗本慎一郎の全世界史』の第9章、「アジアの中の日本と中国」(p.194~)を参照していただきたいが、殊に小節「■フーユ、コマと日本とのつながり」(p.197)は、夫余、高句麗、百済を取り上げているだけに注目だ。ただ、栗本は北魏と日本の深い繫がりには言及しておらず、そのあたりは飯山史観を最終的に総編集する際に、補足の形で追記したいと思っている。

それから、扶余から一気に高句麗と百済が出来したのではなく、複雑な過程を経ているのだが、そのあたりの詳細については、『みち』の天童竺丸編集長の巻頭言を参照していただきたい。
高句麗と百済の建国の母を産んだ卦婁部

ともあれ扶余のルーツは上述の通りであるが、金正日・金正恩親子が自身の故地として、愛して止まない馬韓国は夫余によって吸収され、やがて百済が誕生したということになる。

次稿では、天武天皇と深い縁のある百済について筆を進めよう。

【追記1】
小生は拙稿「天武天皇 04」で、以下の飯山さんの記述を紹介している。

『亀卜(きぼく)』は、『馬韓』で、さらに高度に発達し洗練されます。
『扶余』の北方シャーマニズム(ツラン・シャーマニズム)が融合されるからです。

『馬韓』に伝えられた『殷』の『亀卜(きぼく)術』の秘法と、“ツラン・シャーマニズム”
の合体! これが今後の主題となる『ツランの秘儀』であります。

◆2011/03/01(火) 金王朝の “深い深い謎” -90-


ここで馬韓だが、同国は殷の子孫が建国した国だ。そのあたりは、「金王朝の “深い深い謎” -70-」を参照していただくとして、興味深いリツイートを道友のJINMOさんが行っていたので紹介しておこう。


亀卜が明治以降に皇室に導入されたという、八幡書店の新書紹介をリツイートしたJINMOさんに感謝したい。では、明治以前の皇室は、どうだったのかということになるが、殷王朝の流れを汲む皇室であることを思えば、シャーマニズムは古来より綿々と受け継がれてきたはずである。また、亀卜が明治以降に皇室に導入という指摘で、咄嗟に脳裏に浮かんだのが田布施、すなわち大室天皇だった。

【追記2】
野崎晃市博士も、ブログ【文殊菩薩】で“鷹狩”の視座で百済と高句麗の出自は夫余であることを述べている。
鷹狩は扶余から百済経由で日本へ

天武天皇 09
ふと気がつくと、飯山史観シリーズ、今回の「天武天皇 09」で56本目だ。思えば、「飯山史観の事始め」と題した飯山史観の第1回目をアップしたのが、昨年の9月19日だから、かれこれ一年近く飯山史観シリーズを執筆してきたことになる。実のところ、小生の感覚としては飯山史観の三分の一が、漸く終わったなというのが正直なところで、残りの三分の二の100回分ほど、すなわち飯山史観の完結までには150本ほどの記事数になる見込みだ。加えて、現代、そして未来について特に力を入れて書きたいと思っているので、もしかしたら、200本を超えるかもしれないwww 

飯山史観は過去の歴史を主テーマとしているのに、何故に小生は現代と近未来について力を入れたいと思っているのか、そのあたりの答えは、以下の飯山一郎さんの朋友である、ヤン(梁)さんの言葉の中にある。

歴史の知識を漫然と増やすのではなく、今を知るために歴史を学ぶ!
…という姿勢。これが飯山史観の核にある考え方です。

◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-


そう、「今という時代」は、どのような時代なのかについて正確に把握するために、小生は飯山さんの遺してくれた飯山史観を、一種の解説本のスタイルで書き連ねているというわけで、徹底的に解説していく、所謂、「急がば回れ」というやつだ。

飯山史観をスタートした一年前は、50本ていどで飯山史観を完結できると思っていたんだが、見通しがあまちゃん…、もとい甘ちゃんだった(爆) 愚痴はともかく、早速今回のテーマである「馬韓」に入ろう。

19081201.jpg
独立騒動”で芸能界引退危機の能年玲奈、法廷闘争に向けて勉強中!


■馬韓
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19081202.jpg

三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
「ウィキペディア」三韓



上掲の版図と解説はウィキペディアからの引用だが、これは全くの出鱈目。

19081205.jpg

山形先生も『邪馬台国論争 終結宣言』で、「前三韓」と題した一章を設けているが、飯山一郎さんも同章をベースに、『天皇制誕生前夜のクロニクル』なる記事を執筆、「◆2011/02/25(金) 金王朝の “深い深い謎” -88-」に全文が引用されている。よって、本稿でも以下に全文を引用させていただこう。

『天皇制誕生前夜のクロニクル』 (Ver 2.00)
飯山一郎 
  .

 「いま、北朝鮮は、百済国の前身 “馬韓国” の後継国家のようだ。」
…とヤンさんはポツリと言った。この意味を理解できる日本人は少ないだろう。
“馬韓国” とは、いったい、どんな国家だったのか?
ヤン教授の説明は、鎌倉時代の歴史書 『吾妻鏡』 のように難解だった。
そこで、私、飯山一郎が “てげてげ” (=大雑把) だが 簡単明瞭に説明したい。

古代朝鮮には、馬韓、辰韓、弁韓という国があった。いわゆる 『三韓時代』 である。
この 『三韓』 は、いわば競合関係にあった。対立もしていた。
もし、対立が深まり、戦争前夜のような深刻な事態になると、『辰王』 が仲介に入った。
『辰王』 とは、現在のタイ国の 『プーミポン国王陛下』 のような存在だと思っていい。
タイ国では、正式に 『プーミポンアドゥンラヤデート』 と お呼びしなければならない。
『プーミポンアドゥンラヤデート』 とは 「大地の力・並ぶ事なき至高の権威」 という意味
である。つまり、「最高権力」 ではなく、「最高権威」 である。この点、注意されたい。

三韓時代の 『辰王』 は、必ず 「馬韓国」 の王が即位した。
『辰王』 は世襲制であり、首都は 「月支国」 にあった。
『辰王』 は “鬼道” に優れ、“鬼道” によって三韓を支配下においていた。
この “鬼道” は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム) に近かった。
『殷』の末裔(哀王・準)が馬韓王になった経緯では、“殷の鬼道”も混入しただろう。
『北魏』や『北燕』の鬼道が混入したであろうことも、可能性は非常に高い。
『辰王』 の “鬼道” は、日本の古神道や “卑彌呼の鬼道” に近いと思っていい。
なお、卑彌呼 (の使者) が帯方郡を訪れる際、“馬韓国” は通過地だった。
さて、突然…、
『辰王』 の統べる “馬韓国” に “侵入”してきたのは “扶余国” の残党であった。
“扶余国” は、ツングース族の末裔である。
ツングース族の王も、“鬼道” に優れた “草原のシャーマン”(巫師) であった。
“シャーマン” とは、ツングース語の「šaman、シャマン」から派生してきた言葉だ。
“扶余国のシャーマン” は、“馬韓国の辰王” の地位を奪い、やがて、帯方郡の故地に
新しい国家を立ち上げる。これが 『日本国』 の先祖 『百済国』 である。
したがって…、
『百済国』とは、“馬韓国” のアミニズムを吸収したシャーマニズムの国家なのである。

ここで…、
これまでの物語を大雑把にまとめてみよう。
卑彌呼の邪馬壹国が参内した帯方郡で、殷と、北魏と、北燕と、馬韓と、扶余が合流し、
百済国となり…、
韓半島まで東遷 (東征) し、満州で百済国が滅びると、百済国は日本に渡来してくる…。
百済人の血は、殷、北魏、北燕、馬韓、扶余、倭…、そして卑彌呼のDNAが渾然一体と
なった血脈で、この血流の一貫性こそが、万世一系の神話なのである。

ちなみに “馬韓国” は、帯方郡の南にあった。
現在の平壌は、当時の “馬韓国” の南端部に位置している。
まさしく、“不思議に満ちた地政学” である。

【参考文献】 『三国志魏書』扶余国伝、『三国志魏書』馬韓伝、『後漢書』馬韓伝、『晋書』馬韓伝、『北史』百済伝、
        『唐会要』百済伝、『通典』百濟、『隋書』百済伝、『周書』百済伝、『梁書』百済伝、『宋書』百済伝。


19081203.jpg
(邪馬台国論争 終結宣言)p.118

19081204.jpg
(邪馬台国論争 終結宣言)p.126

続きは、「◆2011/02/28(月) 金王朝の “深い深い謎” -89-」以降を読めば、朧気ながらも三韓の大凡の全体像が掴めるはずだ。ここで、異論はあると思うが、以下の飯山さんの言葉を思い出していただきたい。

『馬韓』や、『北燕』のような“流星国家”の存在に注目しないかぎり、日本の歴史は
見えてこない。


もう一点、三韓、殊に馬韓は今日の金王朝にとって重要な意味を持つ。以下の記事を参照。記事の内容を素直に理解できれば、今日の北朝鮮(韓国ではない)の立ち位置がわかるはずだ。

『馬韓』は、金正日・正恩父子が愛する遼東半島にあった!
◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-


天武天皇 08
■邪馬台国
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19073102.jpg

邪馬台国という言葉を耳にすると、咄嗟に脳裏に浮かぶのが、山縣明郷先生の『邪馬台国論争 終結宣言』(後に三五館より装い改めて『卑弥呼の正体』として復活)だ。この本によって、小生の東アジア観が根底から覆されただけではなく、故飯山一郎さんを知る切っ掛けともなった。

19073100.jpg

上掲の山形先生の『卑弥呼の正体』の場合、もう一冊の著書である『古代史犯罪』とともに、日本の歴史学会などから未だに無視され続けている。しかし、一握りではあるものの、同書に目を通し、書評を残している在野の歴史愛好家もいるのだ。たとえば、「頑固爺の言いたい放題」というブログであり、同ブログのオーナーである池澤康氏は以下のような書評を書いた。
邪馬台国は朝鮮半島にあった?!

邪馬台国の遼東半島説を打ち出した山形先生に対して、池澤氏は異を唱え、九州説を採っているのがわかる。そして、上掲の記事の中で池澤氏は、以下のように結論づけていた。

端的に言って、山形説は『倭人伝』を捏造と批判してるに等しいが、それにしては列島に関する記述に具体性があり、とても創作物語とは思えない。


池澤氏の「列島」という記述に注目していただきたい。明らかに、九州説をとる池澤氏は、『倭人伝』に出てくる「依山㠀為國邑」(山島に依り国邑を為す)とは、日本列島のことだと思っていることが分かる。

一方、同じ山形先生の本から、池澤氏と真逆の結論に達したのが飯山さんで、放知技の以下の投稿を参照されたい。

  また、『魏志倭人伝』が日本古代の事象を記した歴史書ではないこと
  も証明しきっています。
  したがって、卑弥呼の邪馬台国の所在地も日本列島ではなかったと
  明確に述べています。
  これは、「日本人の歴史観」と「常識」を根底から突き崩す大変な史観
  だと言えましょう。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13652197/824/


止めとして、以下の飯山さんのブログ記事を紹介しておこう。

この2冊(『卑弥呼の正体』・『古代史犯罪』)を眼光紙背! 熟読玩味すれば、
目からウロコどころではない! 脳細胞が入れ替わるような知的衝撃で、あなたは、
歴史観どころか世界観も人生観をも変えざるを得ないショック症状に見舞われる!

◆2011/02/03(木) 金王朝の “深い深い謎” -68-


もう一点追加しておくとすれば、邪馬台国は日本列島(畿内説と九州説)にあったと信じ込んでいるのは、日本の歴史学者だけという事実だ。

邪馬台国と卑弥呼の物語が古代日本の歴史だと思い込んでいるのは、
日本人だけ。

◆2011/02/12(土) 金王朝の “深い深い謎” -75-


次に、以下に示す通り、山形先生の『古代史犯罪』でいうところの、古代史犯罪を犯した過去の日本の歴史学者の流れを汲む人たちは、とてもではないが『古代史犯罪』の書評など怖くてできないはずだ。ともあれ、飯山さんあるいは坂口孝男氏といった山形先生の関係者を除き、骨のある山形本の書評を一度も目にしたことがないのだが、もし知っている読者がおられたら、ご一報いただければ幸いである。

遼東半島の熊岳城にあった『百済建国の始祖尉仇台之碑』を現在の韓国忠清南道
の錦江まで移動し、そこが「百済建国の地」であった! などと偽装する。
この悪質さ! これは完璧な犯罪! です。
こういう犯罪行為を、帝国陸軍と東京帝大は、共同して行っていました。

◆2011/02/03(木) 金王朝の “深い深い謎” -68-


最後に、旧著『邪馬台圀論争 終結宣言』から一部を抜粋、併せて邪馬台国の版図を載せておこう。

注・補筆「邪馬台に想定される国の具体的な所在地」に就いて

古代(二~三世紀)に存在した〝邪馬・郁馬・蓋馬〟国の、考古学蹟上の遺跡・痕跡地は、「鴨線江北岸・渾江口より遡ること九粁(キロ)の古馬嶺村周辺から、麻天嶺の中間地域」、即ち、「現・吉林省通化市古馬嶺村から、現・遼寧省丹東市寮馬県との中間地帯約九十粁(キロ)圏内」と推定する。

 可能性としては、「古馬嶺村を中心とする渾江下流域一帯」 の方が強いと言えよう。
 次頁(下図)の図面を参照されたし。

『邪馬台国論争 終結宣言』p.218

19073101.jpg


さて、山形史観を支持する身として、主流を占める畿内説と九州説は取り敢えず脇に置いて、小生同様に遼東半島説をとる飯山さんの卑弥呼説を、ここで再確認しておきたい。以下、てげてげHPの「金王朝の “深い深い謎」シリーズから。

「卑弥呼は公孫氏!」の記述は、現在までのところ、中国史書中では、批判・非難の
対象にはなってない。ご安心の程!>山形師のファンの皆さん。

◆2011/02/13(日) 金王朝の “深い深い謎” -76-


『晋書』(巻九十七・四夷傅)には、↓こんな文言がある。
「乃立女子為王、名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。」
これを翻訳すると…、
「…女子を立て王となす。名を卑弥呼という。宣帝の平らぐ公孫氏なり…。」

◆2011/02/07(月) 金王朝の “深い深い謎” -70-


つまり、卑弥呼は日本人ではなく、中国人(公孫氏)であったということを『晋書』に書いてある事実、これを日本の歴史学者は何とする…。さらに、卑弥呼とシャーマニズムの関係…。

おおらかで神秘的な『亀卜(きぼく)』は、箕子朝鮮→馬韓→天皇陛下と継承されて
いきます。
馬韓近辺にいた卑弥呼にも伝承されたはずです。
「唯有男子一人給飲食傅辞出入」(『魏志倭人伝』)
「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」
この男子は、シャーマン卑弥呼が察した“神意”(=吉凶)を記述する覡(かんなぎ)
でありましょう。
卑弥呼という「巫女(みこ)」に仕える男子一人(=「覡(かんなぎ)」)。この関係は、
「原始神道」の萌芽といえるでしょう。
遠い昔、遠い遼東の地で、卑弥呼も 「原始神道」の形成にかかわっていたのです。
ですから、卑弥呼も、「天皇制」の先祖の一人と考えていいのです。

◆2011/03/01(火) 金王朝の “深い深い謎” -90-


ともあれ、卑弥呼は中国人という〝事実〟に心底驚いた読者は、一度、「金王朝の “深い深い謎」の「◆2011/02/08(火) 金王朝の “深い深い謎” -71-」以降に目を通しておいていただきたい。なぜなら、次稿の「馬韓」と深く関係してくるからだ。

最後に、現実の世界に戻り、以下の飯山さんの「予言」、ここで改めて噛み締めておこう。

21世紀のアジアは、“鬼=鬼道家”になったシャーマン史家=妄想家”が変える!
◆2011/02/13(日) 金王朝の “深い深い謎” -76-



【追記】
19073103.jpg
精神核 Mensa Nuklea

天武天皇 07
■北燕
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


19070300.jpeg
 北燕地理位置

北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 - 436年)。

鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。

ウィキペディア 「北燕


「中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ」とあるように、北燕は五胡十六国の一国だったのだが、それを統一したのが前回取り上げた北魏ということになる。ご参考までに、五胡十六国が一目で分かる年表があるので、以下に掲載しておこう。

19070301.jpg

4~5世紀、中国の華北に興亡した北方民族(五胡)の建てた国々。304年、劉淵の漢から439年、北魏による統一までの135年間の華北をいう。
 304年に匈奴の劉淵が漢(前趙)を建国してから、439年に北魏の太武帝が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。

世界史の窓「五胡十六国


さて、何故に「飯山史観」カテゴリに、わずか28年という短命で終わった北燕を取り上げるのか、そして北燕が百済、さらには日本に、どのような影響を及ぼしたのかについては、以下に示す飯山一郎さんのHP記事に目を通せばお分かりいただけよう。

それにしても、『北燕』という“流星国家”の輝きは、日本にとっては “国生みの灯”
…中略…

『北燕』の王家の娘 『北魏の馮太后』は シャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)


◆2011/01/31(月) 金王朝の “深い深い謎” -65-


北燕と前回取り上げた北魏の深い結びつきが、これでお分かりいただけたはずだ。

以上、既にお気づきのように、今まで拙カテゴリ「飯山史観」に書き連ねてきた、殷から北燕までの流れは、飯山さんの「金王朝の “深い謎”」がベースになっている。それが、過去の拙ブログでも幾度か書いたように、「金王朝の “深い謎”」の熟読玩味をお勧めする所以である。そうすれば、6月30日に板門店で行われた、トランプ・金正恩首脳対談の背景が、仄かに見えてくるはずだ。