本日発行の世界戦略情報誌『みち』の校正を手掛けていたところ、村上学さんの深層潮流シリーズ第18話、「神戸の街と六甲山」に目が留まった。村上さんは六甲山について以下のように書いている。
六甲山の南側には、神功皇后が三韓征伐の帰途に直接指示して作らせたとされる長田神社、生田神社、住吉神社が並んでいる。光輝く禿山の南側に、まったく違う祭神の神社を三つ並べた理由は、神功皇后の大切な身内の中に、祀る神を異にする違う民族が三つあったということを意味する。どの民族も大切にする証として、それぞれの神を同等に扱ったのだ。そうすれば三つの民族はここにルーツを感じて争い事は絶対起こらない。ヒッタイトが支配地の民族をコントロールしたのと同じである。 世界戦略情報誌『みち』(令和二年六月十五日号)p.3
「ヒッタイトが支配地の民族をコントロールしたのと同じである」という記述から、咄嗟に連想したのが、ヒッタイトと日本が遠祖を一にしているツランである。拙稿「天武天皇 14」でも、ヒッタイトについて言及した記事を引用している。
大量に鉄を生産して強大な覇権を建てたのがヒッタイト、スキタイ、そして突厥だった。彼らはいずれも、古代ミヌシンスク文明の影響下にあり、いわばツランの末裔たちだった。 世界戦略情報誌『みち』(令和二年一月十五日号)p.1
同時に、「三つの民族」、あるいは「どの民族も大切にする」という村上さんの記述は、最近書いた拙稿「貴族の時代 03」を彷彿させるものがあった。
これは、日本列島に住む人たちが、彼らの中から一人だけ長(おさ)を選び、長以外の全員が「平等」であるという社会を、世界で唯一実現した国だったことを意味する。要するに、階級(身分)制度や奴隷といったものが、日本列島には生じなかったということ。これが、武田氏が言う所の世界唯一の「平等」の国として、日本列島を挙げる所以である。
「ヒッタイト」以外に、小生が注目したのは「石屋」という言葉である。
神功皇后の頃に、巨大な石の切断や加工が必要な用途としては、古墳や石棺くらいしか思い浮かばない。日本の伝統的な建築様式は、伊勢神宮がそうであるように、掘立柱を四方に立てた木造の米蔵建築である。ピラミッドや石造りの宮殿は無かったのではないか。石の文化は日本には無かったことになっている。
石の文化は無くても、なぜか石屋の文化は古代から存在していて、今に引き継がれている。 世界戦略情報誌『みち』(令和二年六月十五日号)p.3
この「石屋」という言葉から、舎人学校での栗原発言を小生は思い出した。舎人学校とは、まほろば会とほぼ同じメンバーが集い、皇室情報に詳しい栗原茂さんを囲んで、月に二回のペースで開かれていた会合である。幸い、「ヒッタイト」と「石屋」に関する、栗原さんの発言メモ(2010年12月22日)が残っていたので、以下に一部引用しておこう。
・ヒッタイトと云えば、鉄である。しかし、現代科学が懸命に取り組んでいるのにも拘わらず、未だに解明されていないのが鉄という金属だ。鉄民族たるヒッタイトは、今までの青銅文明を壊して直ぐに消え去ったのは何故なのか…。
・ベネチア、ツラン、日本は三つ巴。(日本国内に目に見えぬベルリンの壁あり)
・草原の道をつくったのは、紀元前800年代のスキタイであり、日本ではサンカと呼ばれている民族である。彼らは天皇の墓つくりのプロ集団であった(石屋)。→ 現在の北鮮をつくったのが、日本のサンカである。
村上説では日本に鉄を持ち込んできたのがヒッタイト、栗原説ではスキタイという違いがあるにせよ、どちらも遠祖がツランという点で共通している。拙稿「天武天皇 14」でも紹介した、以下の記事を思い出していただきたい。
大量に鉄を生産して強大な覇権を建てたのがヒッタイト、スキタイ、そして突厥だった。彼らはいずれも、古代ミヌシンスク文明の影響下にあり、いわばツランの末裔たちだった。 世界戦略情報誌『みち』(令和二年一月十五日号)p.1
因みに、拙稿「蘇我一族 04」で栗本慎一郎の本から、スキタイについての行を一部引用している。
蘇我氏や聖徳太子はおそらくは、一般にスキタイと呼ばれる遊牧民の特定の一角にあった人たちでミトラ教的価値観を持つ人たちであった。 『シリウスの都 飛鳥』p.3
蛇足ながら、上掲の村上稿に「出雲」、「伊勢」といった言葉が登場しているが、上記の2010年12月22日の舎人学校でも、やはり出雲や伊勢についての栗原発言があった。今回の主テーマとは外れるので、以下に当時のメモに挟んでおいた二枚のイラストのみを以下に掲示しておこう。


それから、村上さんの「六甲山」で思い出したのが、六甲山系の金鳥山、そしてカタカムナだ。旧ブログでも「謎のカタカムナ文明」と題する記事を書いている。

久しぶりに『謎のカタカムナ文明』(阿基米得著 徳間書店)を紐解くと、第Ⅰ章「カタカムナ文献とは何か?」の冒頭が、以下の記述で始まっていた。
樋口清之氏も調査した金鳥山 本書で論ぜられるであろうテーマの直接の起源は、槍崎皐月が兵庫県六甲山系の金鳥山近くの山中で体験したひとつの事件にあるとされている。この金鳥山は、高級住宅街として知られる阪急沿線の芦屋と岡本のちょうど中間あたりに位置する標高五百メートルの低い山で、一見したところ、この幻想小説じみたストーリーの舞台としては、はなはだふさわしくないようにも思われる。
しかし、山の中腹には保久艮神社があり、平安時代に編纂された『延書式』の「神名帳」にも掲載されていることからすれば、いずれ由緒ある古社にはちがいない。この神社の社殿をとりまいて、巨石を環状に配置した遺跡が鎮座している。いわゆる〝磐境〟である。
それは社殿などの形式が現われる以前の、神道の原初的段階における祭祀形式とされており、戦前には現国学院大学の教授、樋口清之氏も実際に調査にあたったことがある。また磐境の周辺からは銅鉾が、境内や山中からは土器や住居跡が発掘されており、いずれも弥生時代のものとみられている。
磐境については、単なる原始神道的な遺跡というよりは、何らかのオカルト的パワーと密接な関係があるとする確信が、一部のエキセントリックな郷土史家たちの間には根強くあるようで、なかなか意味深長であるとこじつけられなくもない。
昭和二四年の一二月から翌二五年の三月にかけての六四日間、樽崎皐月は助手の青年数名とともに、この金鳥山中の狐塚とよばれる塚の近くに穴を掘ってこもっていたという。それは「大地電気」の測定という研究目的のためであった。
ある夜のこと、彼らは一人の猟師の訪問をうけた。猟師は鉄砲をガチャつかせながら、恐い顔をしてこう言った。
「お前たち、なんのためにやって釆たんだ? 泉に妙なものを仕掛けるから森の動物たちが水を飲めなくて困っているじゃないか。すぐに取り除け。それから狐は決して撃つんじゃない。兎ならあるから、ホレくれてやる」と腰に下げたものを投げだして行ってしまった。「妙なもの」とは微動量検出のために取りつけた装置である。槍崎は言われたとおりに装置を撤去した。
つぎの夜、またも猟師は現われた。今度はすこぶる上機嫌。
「お前さんたちは感心だ。穴居しなければ本当のことはわからんもんだよ」
とほめた上、お礼にと古い巻物をとり出して見せてくれたのである。それは江戸時代の和紙に筆写したとみられ、八〇個の渦巻状に、丸と十字を基本とした図象が記されていた。 『謎のカタカムナ文明』p.21~22
上掲の引用文にある猟師こそが、あの平十字(ひらとうじ)である。もしかしたら、平十字は村上さんのいう「祀る神を異にする三民族」のうちの一民族の末裔だったのかもしれない。
最後に、今回の村上稿で最も注目したのが、「神功皇后は三韓貴族の出身」という記述だった。当時(古墳時代)は朝鮮半島から続々と豪族が日本列島に渡来していた時代であり、神功皇后が三韓貴族の出身だったとしても不思議ではない。否、三韓貴族の出身だったからこそ、新羅征伐に半島へ乗り込んだということになろう。
なを、神功皇后時代を遡った話になるが、百済、高句麗、新羅が建国される以前の前三韓について、拙稿「天武天皇 09」で触れているので、再読していただければ幸いである。
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