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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
命の大河
正次郎のNewsToday」というブログがある。小生は同ブログのオーナーである、渡邉正次郎氏のブログ記事や本を、十年以上前から殆どに目を通している。そして、満を持して同ブログに投稿したのが今年の4月7日だった。何故に小生は、渡邊氏へのアプローチ決意をしたのか? その理由は二つある。

理由その一
渡邊氏の氏姓鑑識を慎重に行った結果、アプローチするべき人物と判断した為。
理由その二
中国の武漢で発生したウイルスが引き金となり、日本はもとより世界の大転換期をついに迎えたと判断した為。


以上、主に二つの理由に拠るものだが、理由その二については今までの諸記事、殊に「米中衝突」シリーズで、度々取り上げてきたので多言は要さないと思うが、理由その一の氏姓鑑識については、戸惑う読者も多いかと思うので、以下に解説しておこう。

■氏姓鑑識
最初に氏姓鑑識(しせいかんしき)の定義であるが、「相手の氏(うじ)と姓(かばね)を調べ、その人物を鑑識する行為」、すなわち、その人物の本性を炙り出す手法にほかならず、初めての相手との接し方を決める上での重要な準備作業ということになる。

長文だが、氏姓鑑識についての論文を本稿の【追記】に転載しておくので、氏姓鑑識について関心を持った読者は一読されるとよい。因みに、同論文の執筆者は栗原茂さんと云い、ご本人から今回の論文はもとより、小生の手許にある栗原さんの執筆した文書、全てを公開しても良いという旨の承諾を既に得ている。ただ、栗原さんの文章は難解なため、心して読んで戴ければと思う。

次に、相手の氏姓鑑識を行うにあたって、必要となる資料は以下のとおりである。

家紋
過去帳・除籍謄本


何故に上掲のものが必要となるのか、その理由について以下に述べておこう。

■家紋
20071305.jpg

家紋と云えば、読者自身の家紋をはじめ、幾つかの有名な家紋が脳裏に浮かぶことだろう。そして、意外と植物をモチーフにした家紋が多いのだ。これらを植物紋と云うのだが、「日本の家紋」というホームページを見れば、様々な植物が紹介されているのが分かる。

20071301.jpg

その他として、動物紋、器物紋、建築紋、自然紋、幾何紋、文字紋などがある。ちなみに、亀さん家の家紋は、幾何紋の「丸に三つ引き」だ。この紋が誕生したのは比較的新しく、鎌倉時代以降である。丸に三つ引きについては、ネットで確認するだけでも様々な解説ページがあり、参考になる。たとえば、【丸に三つ引きの家系の由来】といった具合にだ。

20071300.gif
丸に三つ引き

十年ほど前、小生が栗原茂さんから氏姓鑑識を学び始めた頃は、植物紋が中心であった。だから、植物学の入門書を足掛かりに、必要に応じて数冊の植物学の専門書も手掛けた。何故なら、師匠の栗原茂さんに云わせれば、「人の遺伝子と植物の遺伝子を剖判することは、氏姓鑑識における家紋(植物紋)を識る上で必須条件」ということになるからだ。

最近の小生は、日本列島をテーマにした記事を多く書いているが(たとえば、「貴族の時代 03」)、それは、その人が住んでいる土地によって植物相が異なってくるのだし、長年その土地に住み続けている一族のDNAと形容すべきか、その一族の思考行動様式の核を最も的確に表している家紋として、土地の植物が選ばれたのではと推定しているからだ。

20071303.jpg
抱き茗荷

たとえば、ブログ「民のかまどはにぎはひにけり」のオーナー、抱き茗荷さんは小生の道友だが、彼の家の家紋は抱き茗荷だ。その道友が以下のような記事を書いている。
家紋「抱き茗荷」~植物と人格の類似性~

同記事の最終行に、「現象をありのままとらえる視点でもう少し植物を観察していきたい」と書いた抱き茗荷さん、その後の成果を是非とも知りたいところだが、ブログ更新が2018年8月5日以降止まっている。どうしたのだろうか…。

ところで、植物以外に動物紋や自然紋を選んだ人たちもいた。また、器物紋や建築紋は、それを主な生業としていた家職の人たちが選んだのではなかったか…。因みに、亀さん家は幾何紋だが、上掲のHP記事【丸に三つ引きの家系の由来】にしても、ネットで簡単に入手できる情報以外は言及しはていない。そこで、氏姓鑑識の玄人である栗原茂さんから、8年前(2012年11月24日)に教わった、丸に三つ引き紋の由来について記しておこう。

亀さん家の「丸に三つ引き」だが、比較的新しい家紋であり鎌倉時代以降のものだ。そして、天皇家への貢献度で本数が決まる。最も貢献した家が一本、続いて二本、三本と続くわけである。


これが、拙ブログを「toneri」(舎人)としている理由である。

■過去帳・除籍謄本
どのような形でご先祖様が具体的に、天皇家に奉仕したのかは分からないのだが、天皇家から離れて以降の亀さん家の家職について、最近新たな発見をしたので以下に書いておきたいと思う。

それは、昨年の暮れに逝去した母の原籍を取得するため、母の生まれ故郷を車で久方振りに訪れた時である。町役場で母の原籍と同時に、母方のルーツを調査するために必要な資料として、ついでに除籍謄本も申請したところ、実に驚いたことに、母の父の父、つまり母の父方の祖父は養子だった…。そのあたりを説明をしてくれた町役場の職員さんの前で、「エッ!」と、思わず驚きの声を上げたほどだった。それにしても、何故に母の祖父は婿入りしたのか…。その後、様々な角度から検討を重ねた結果、一つの結論らしいものを得た(今後の調査如何では変更もあり得る)。それは、母方のルーツの家職が朧げに浮かんできたということだ。つまり、人が身に着けている「衣」関係を家職としているのに気づいたのだ。

たとえば、母の父は紋服に紋を描くのを生業としていたし、今でも元気に生活している叔父も家紋描きの職人だ。そして母の母は拙稿「母方のルーツ」にも書いたように、衣類のチェーン店「島村」と深い繋がりがある。

さらに、養子に入った母の祖父の旧ルーツを調査してみたところ、除籍謄本に書いてあった母の祖父の出生地に、なんと同姓の洋品店があるのを突き止めたのである。近く最終的な確認のため、件の除籍謄本のコピーと一緒に手紙を認め、その洋品店に母の祖父との繋がりを問い合わせるつもりだ。

ともあれ、小生から見て母方の家職は「衣」ということになり、無論、母の父の仕事であった紋服に紋を入れる仕事も、「衣」と深くつながる。思えば、小生はあまり勉強のできなかった子供だったが、何故か絵を描くことだけは得意だった。一時は漫画家を目指していたほどだ。その意味で、小生は母方の祖父、そして叔父の血を確実に受け継いでいるのが分かるのだ。そして、下の息子(次男)が将来の職業にしたいという、仕事について教える専門学校でも、デザインは重要な分野の一つだし、彼は幼いころから絵を描くのが上手だったことを、改めて思い出した次第である。

一方、長男は大学を卒業後、運送業界の分野では業界一の会社に就職、確実に父方の家職の道を歩んでいることが分かる。つまり、下掲の写真に写る小生の父方の祖父は、運送業を手広く展開していたようだし、父も国鉄に定年まで勤めていた。小生も自動車メーカーに勤め、現在も従事している翻訳の仕事の多くが自動車に関するものだ。こうした点から考えるに、父方のルーツの家職は「運送」だったのではないかと想像している。

それにしても、何故に一族の家職が、「衣」あるいは「運送」という具合に、一つの大きな枠に収まるのか…。思えば、小生は十代の頃はオートバイで日本各地を訪れたものだし、その後は九州一周から始まり、やがて三年間かけて世界一周を体験している。このように、運送という家職の一面を現わす「移動」が、どうやら自分は好きなタイプの人間のようだ。尤も、ここ二十年は自宅の仕事部屋に閉じこもり、母方の家職である衣のように、家で専ら仕事をしてきた。しかし、時々は父方の〝運送〟が頭を擡げ、一昨年はアルゼンチン、昨年は鹿児島・山形・大阪、今年は正月に台湾を訪れている。ウイルスや母の一周忌がなければ、多分今年の夏も何処か海外に出かけていたに違いない。

■繋累(ルーツ)
亀さん家の繋累については拙ブログでも度々書いてきた。たとえば、「一葉の古写真が語りかけてくるもの」…

20071302.jpg
祖父と父(大正12年)

写真に写る祖父は、明治28年12月生まれで、昭和14年6月に43歳で没している。写真は赤子だった父を抱いている祖父の写真だから、大正12年1月に生まれてから数ヶ月後の父を祖父が抱いている写真ということになり、91年も前の写真だ。それにしても、写真に写る26歳前後の祖父と誕生して間もない父を眺めていると、何とも不思議な気持ちになってくる。

さらに祖父の父、すなわち亀さんからみれば大祖父にあたる熊太郎は天保13年8月に生まれ、明治39年に没している。さらに、熊太郎の父、すなわち亀さんにとっては高祖父にあたる八兵衛の場合、生年月日は不明だが、明治4年2月に64歳で没したと墓誌に刻まれていた。ということは、逆算すれば文化4年(1807)年あたりの生まれとなる。さらにそれ以前も知りたかったのだが、残念ながら八兵衛までで、それ以上遡ることはできなかった。しかし、確実に言えることは、この地球上に生命が誕生してから亀さんが生まれるまで、何億年という時間をかけて流れてきた、命という名の大河の存在であり、綿々と命のバトンタッチが続いた末、漸く亀さんが誕生したという事実である。このあたりについては、「引き継がれていく命」と題した拙稿にも書いた。


ともあれ、下の息子が無事に専門学校を無事に卒業して就職し、飯山史観シリーズを書き終えたら、その後は精力的にルーツ探しの旅を行っていきたいと、今から夢見ている。

【追記】
以下、栗原茂さんの筆による氏姓鑑識についての論文である。

真贋・大江山系霊媒衆

●人の生命活動と語彙
 語彙(ごい)は単語の総体とか、ある単語の集まりに属する単語とか訳され、近代日本では皇紀二五三一年(明治四年=西暦一八七一年)に神祇官(じんぎかん)編輯寮(へんしゅうりょう)から「語彙」が出ており、上田万年・樋口慶千代(よしちよ)の「近松(ちかまつ)語彙」など、一定の順序に単語を集録した書物のことを表す言葉とされている。また日本語の語彙を出自から分類するとし、大きく和語(わご)、漢語(かんご)、外来(がいらい)語そして、それらが混ざる混種語(こんしゅご)に分けることも定説に成り得ている。さらに、こうした出自(しゅつじ)から分類する言葉を「語種」といい、和語とは日本古来の大和(やまと)言葉で、漢語とは支那(しな)渡来(とらい)の漢字の音を用いた言葉で、外来語とは支那以外の海外から取り入れた言葉であると説(と)かれる。たとえば日本語の語彙は構成面から、単純語「あたま、かお」「うえ、した」の如(ごと)く語源まで遡ら(さかのぼ)ない限り、それ以上は分けられない語と、複合語「あたまかず、かおなじみ」「うわくちびる、しもはんしん」のように、単純語を幾つか組んで意識する語を用いるが、現代では言葉の氾濫(はんらん)が止(や)むことない。
 現代日本語の表記では、平仮名(ひらがな)や片仮名(かたかな)の表音文字(ひょうおんもじ)と、漢字を以て表意文字(ひょういもじ)とする字種表記法が用いられる。必要あれば、アラビア数字やローマ字(ラテン文字)などの併用も加わり、漢字の読み方では、支那式とされる音読み、大和言葉の読み方とされる訓(くん)読みが結び付くこともある。また日本語の方言には固有の表記体系がなく、書き言葉として使う頻度(ひんど)も少ないため、実際上に不便を来(きた)すことがないともいわれる。
 日本語の歴史に関しては、奈良時代以前は母音(ぼいん)八種説が有力とされ、記紀や万葉集など万葉仮名の表記では、「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」に仮名二種類(甲類・乙類)が存在するとし、音韻(おんいん)の区別を表すとの指摘も生じてくる。そして平安時代八母音はなくなり、国定語(こくていご)五母音に改められるともいわれ、上代日本語の語彙は母音の出現仕様が、ウラル語族やアルタイ語族の母音調和法に類似するともいう、何事も体系化して、その仕様を高める人の性癖は由(よし)としても、日本語に限らず、言葉の世界では未だ人の生命活動を説明しきれていない。
 元来、日本に文字と呼べるもの無しとする説(せつ)あり、言葉の表記に支那から渡来の漢字を用いたという暗愚(あんぐ)に基づき、いわゆる神世(かみよ)の文字は後世の偽作ときりすてる。この妄説(もうせつ)は皇紀六六〇年代(西暦一世紀)頃の遺物(いぶつ)とされる、福岡市出土の「漢委奴国王印」(かんのいのなのこくおういん)などに依拠(いきょ)したり、応神(おうじん)天皇条を描く『古事記』を解義(かいぎ)できないまま、百済(くだら)の王仁(わに)(帰化人)が持ち込む「論語(ろんご)十巻、千字文(せんじもん)一巻」などを頼るものである。政府御用の学徒と称する筋や似非教育下の有識者と称する筋が陥る落とし穴は、まさに大江山系霊媒衆の真贋と同じく語族分類を奉(ほう)じる幻覚(げんかく)としか言いようがない。これ単(ひとえ)に人の生命活動が何たるか弁え(わきま)ず知に溺(おぼ)れる因果であり、日野本に潜む情報など読みほどく力はあるまい。

●霊操と霊媒について
霊操(れいそう)については、別冊『超克の(ちょうこく)型示(かたしめ)し』でキリスト教団イエズス会をモデルとし、既に持論を展開しているので参照されたい。ここでは霊媒について述べたい。抑(そもそ)も自然界の営みは、各種各様の場(環境)を形成して、場の営みは安定しようとする物質の要求に見合う振動をもつメカニズムから、各種各様の周期性(サイクル)を生み出していく。この周期性をもつメカニズムは、分解と復元を可能とする結合法に則(そく)して、各種各様の活動を生み出すようになる。すなわち、生命の始原(しげん)は宇宙の営みであり、宇宙は時空の間(ま)を行き交(か)う電磁波(でんじは)が交接しながら、各種各様の場つまり地球も生み出したが、地球生命の特質的主成分は水であり、水の物性(ぶっせい)電磁波と共振する電磁波との相互関係を解(と)かないと、宇宙と地球生命の活動メカニズムは剖判(ぼうはん)しようがない。
 剖判とは、剖(わか)れることが判(わか)ること、即ち分解と復元の結合法を知ることにある。サイエンスを科(とが)の学という日本文学の目論見(もくろみ)はともかくとして、サイエンスの訳(やく)「知ること」は未(いま)だ水の結合法も仮定・仮説から脱していない。これは実証現場と論証現場の市場原理に要因があり、前者は物性の究明に偏り(かたよ)、後者は天性の究明に偏り、互いの結合を急ぐため構造不全による剥離(はくり)は免れ(まぬが)ず、剥離のとき、互いは相手の性質を千切り取り、もはや素(もと)の性質に戻れない宿痾(しゅくあ)を抱えたまま、更(さら)なる接合を求めるため、結局は玉虫色的(たまむしいろてき)な生き方を謀(はか)るほか仕様(しよう)がなくなるのだ。言うまでもなく市場原理とは需給関係にあり、互いに求め合う清算方式に狂いが生じるとき、互いは競い争うことで、勝ち組と負け組を生み出して格差を生じる。この格差は統治(とうち)能力で安定を保てるが、統治能力が不足すると、不安定の極限では戦争さえ免れず、鎮定(ちんてい)の究極は統帥(とうすい)能力を以(もっ)て問われる。
 水の物性が主成分たる地球生命は、天性と共振する遺伝情報をもつ核様体(かくようたい)(細胞)から様々な生命を生み出して、最も新種の人命も生み出すが、多細胞生命体である人の物性は天性との調和を求め遺伝情報の限界を知らされる。この感覚から自然界を畏怖(いふ)する信仰が芽生(めば)えて、直流回路を主とする精神的感応(かんのう)が研(と)ぎ澄(す)まされていく。これをテレパシーとも称する現代であるが、それは表情や身振(みぶ)りを含め言語を整える原動力となり、原始的アニミズムに基づく音律(おんりつ)に通じると、象形な(しょうけい)ど模写(もしゃ)する芸能が盛んになり、結局は場の営みに伴う言葉(ロゴス)を作り出しシャーマニズムが生まれる。因(ちな)みに、遠感(えんかん)現象を司る(つかさど)直流回路は、電荷(でんか)移動の向きが時間的に変化しないため、電圧(でんあつ)も変わらない。
 ゆえにアニミズムの主体は電波伝播(でんぱ)であり、アニミズムとシャーマニズムとが合流するプロセスに働くのが交流回路である。交流回路は電圧の発生ほか、交流RCL回路、レジスター(抵抗)、コンデンサー(蓄電(ちくでん))、コイル(螺旋(らせん))、波の伝播など、各種各様の媒介(ばいかい)エネルギーが働いて、磁場の強弱作用と深く関わる。すなわち、直流型エネルギーが強く働くとき、人の物性も精神的感応(かんのう)を強めるが、交流型エネルギーの費消(ひしょう)を高めると、前記媒介(ばいかい)作用を受けて、電圧や磁場の強弱は人命そのものを左右することになる。例えば電気抵抗率の指標(しひょう)を示すものに、抵抗温度係数(TCR)、変化値(へんかち)(ドリフト)、雑音(NF)の物理量計測法あるが、これら数値が高まると停電より恐い脳障害さえ免れない。このメカニズムが霊媒衆の真贋を見極める筆者の拠(よ)り所であり、霊操(マインドコントロール)を祓(はら)い清め、実証および論証の統一場として、以下の史観に通ずるのである。

●神託という名の正体
 通説に従うと、シャーマン(霊媒衆)の語源はツングース族に由来し、シベリア、アメリカ、アフリカなどの先住民の間か(あいだ)ら出現したと伝わる。日本では巫(ふ)(かんなぎ)の字が当てられ、神に仕(つか)える未婚の少女を指す場合は巫女(みこ)、また男の場合は巫覡(ふげき)といい、神楽(かぐら)を奏(そう)し、神慮(しんりょ)を宥(なだ)め、神意を覗(うかが)い、託宣(たくせん)を告げる呪術を(じゅじゅつ)使う職能も(しょくのう)ある。祭政一致(さいせいいっち)を行う社会には、神託(しんたく)が国家の思想を左右することもあり、神界(しんかい)、霊界(れいかい)、自然界などと、霊的な交信を行うとき、大別二通り型のトランス(恍惚(こうこつ))状態が見られるという。一つは神霊(みたま)がシャーマンに乗り移る型、もう一つはシャーマンの魂魄(こんぱく)が神霊界または自然界を行き交う型とされる。これらのシャーマンを尊信(そんしん)して、神霊(しんれい)あるいは死霊(しりょう)など霊的な存在を認める風潮がシャーマニズムといわれる。また大和言葉では、界(かい)を「サカヒ(イ)、シキリ」と訓(おし)えて、霊(れい)を「ミ、チ、ヒ」と訓えた名残(なごり)が、現在にも生き続けている。
 古代ギリシアの都市デルボイを賑(にぎ)わせたシャーマンの物語が広く知られる。この仮説は都市デルボイでシャーマンがアポロンの神託を告げることにあるが、この神託を聞くため集まるのは各地の大公使(たいこうし)はじめ、情報を求める衆生((しゅじょう)迷う世界に留まる全ての生き物)が主流となり、日ごと増す賑わいのなか、いつしか都市デルボイは情報交換の場として国際市場の中枢を(ちゅうすう)占(し)めるようになる。この繁盛記(はんじょうき)が擬似(ぎじ)バブル崩落(ほうらく)に行き着く末(すえ)は、常に繰り返されるパターンゆえ、多くを記(しる)す必要あるまいが、神託授受(じゅじゅ)に関して、その人選と交接信号はじめ、情報化されるプロセスほか、そもそも神とは何ぞやが判明しないまま何ゆえ人は神を仰(あお)ぎて集まるのか。前記通説に従えば、シャーマンの霊的交信はトランス状態と見なしており、交接信号の公式も証(あか)さず、直流(テレパシー)と交流(情報化)の関係も解(と)かずに、当たるも八卦(はっけ)で占うため、神託は単なる詐術(さじゅつ)か仮説にしかならない。
 神霊界や自然界を行き交うシャーマンが、神の正体も証(あか)せないまま、独(ひと)りで神託に酔(よ)う遊びは由としても、その神託が大規模な権力を形成すれば、現時国際法では独占禁止法の網(あみ)に掛かるが、通称九・一一事件後アメリカ大統領が発する声明は、独禁法を突き抜けて結果は進退きわまる状況に難渋している。大統領本人がシャーマンなのか、あるいは側辺(そくへん)従事にシャーマンがいるのか、その所在が何であれ、悪の枢軸国を指定した大統領に開戦決行を促したのは、大統領自身が「神託による」と声明している。さて?神託が絶対的な正義とすれば、シャーマンの言い分もまた、正義でないと奇また珍なり、神に託されたと装い目先の迷いを切り離せば、邪気(じゃき)を集めて暴走する。すなわち、都市デルボイの物語が繰り返され、現代でも多数の自称シャーマン(占い師)が実在しているのだ。
 人脳(じんのう)が電脳(でんのう)を頼る電子社会において、その要衝路(ようしょうろ)は情報を電波伝播(でんぱ)するロードマップに示されるが、問題は通路が構造不全で成ることにある。電気デバイスが雑音を出す代表的原因は熱であるが、その過程では電荷(でんか)の発生と消滅などの雑音ほか、パワースペクトルの密度が周波数に逆比例する雑音も生じる。生命細胞の内部は外側に対して、負(ふ)に帯電(たいでん)する性癖(せいへき)をもつが、心臓は収縮に先立ち、心房(しんぼう)上部の洞結節(とうけっせつ)にある細胞から、電気的パルスを放射して瞬時に負の帯電(たいでん)を脱(だつ)分極する機能を有する。この電気的パルスが心室筋(しんしつきん)に届くと心筋(しんきん)細胞は、次々に脱分極を始めて、先端が波面(はめん)の如く広がり、結果的に身体表面に電位(でんい)分布が発生する。これを利用するのが心電図であり、その装置を狂わすとし、電子端末(たんまつ)は設置場所の近くで使用しないよう警告(けいこく)している。すなわち、シャーマンの交接信号は波が実相であり、その波長と波形は、相対性理論と量子論の確執(かくしつ)として、未だ実証また論証も統一場に達していないのだ。

●日野人種論に要する補足
 再び日野本の一部分を借りるが、「纏頭回(てんとうかい)は『アリアン』人種なるも、現今(げんこん)はほとんど清国人(しんこくじん)に類化せり。…その特徴なお全く消滅せず、男子は鬚髯(しゅぜん)ともに密かつ美に、眉目(びもく)の間(かん)は自(おの)ずから白皙(はくせき)人種の骨相(こっそう)に酷似(こくじ)する所ありて、女子は殊(こと)に然(しか)りとす…」以下は省(はぶ)くがアリアンに触れておきたい。西欧中心主義の我田引水(がでんいんすい)によれば、アリアン種(しゅ)は彼ら流儀(りゅうぎ)の仮説つまりギリシア語の「愛智(あいち)」に基づき、西北印度(インド)に根ざす印欧(いんおう)語族を誑か(たぶら)し、世界と人生を客観的・理性的に追究して、その根本原理を啓(ひら)く種と自画自賛(じがじさん)する。アリアの地が現アフガニスタンに当たり、インドに侵入した白皙人種が現地の古代宗教を借り、彼らの流儀に改変のうえ、人の本能的属性たる知を刺激したことは間違いない。後世この刺激に誘(さそ)われ、彼らの死生観(しせいかん)を哲学(てつがく)と訳(やく)すのが、西洋にかぶれる日本の知性派である。
 哲学も結局は宗教の亜流(ありゅう)であり、白皙(白色)人種とは形而下(けいじか)特徴の分類により、直毛または波状毛その身長は比較的に高く、狭く長い鼻、豊富な体毛(たいもう)など挙(あ)げられ、頭の形や皮膚(ひふ)の色、毛髪の色において、かなりの変異も生じてくる。この人種は更なる分類として北欧人、アルプス人、地中海人、ヒンドウー人などに分けられる。このうちヒンズー教の聖典(せいてん)ヴェーダを改変のうえ、インドの民(たみ)を南北に分断すると、上層階級と下層階級の間に分裂と敵対の感情を醸成し(じょうせい)ていき、植民地分割統治を進めたのがアリアンといわれ、軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)の言論を通じて、アリアン学説なる暴論が普及していく。この妄説(もうせつ)を覚醒(かくせい)させるには国土(こくど)を王と定めて、最高位の人を副王と決した、史上最初の帝国アッシリアの代まで遡る(さかのぼ)必要あるが、本稿の真贋・大江山霊媒衆に則り(のっと)別の方法で解くことにする。
 皇紀二六六八年(二〇〇八)ノーベル・ショーは物理部門三名、化学部門一名の日本人授賞を決して、本年も商業メデイアの動向調査を終えたが、うち「オワンクラゲ」と同じ傾向を示す化学部門において、素粒子(そりゅうし)研究分野から派生した量子色理論(りょうしいろりろん)がある。古代ギリシャ語アトムを日本では原子と訳して、陽子、中性子、電子の粒(つぶ)三種を素元(そげん)的粒子の訳で素粒子と呼んでいる。現時は更に小さいフォトン(光子(こうし))、ニュートリノ(中性微子(ちゅうせいびし))と陽電子(電子の反粒子)の発見を通じて、クオーク説が提案され、点状の粒子クオークは紐(ひも)の如きものに結ばれると仮定、これを力尽くで取り出そうとすれば、紐が千切れるため色を配(はい)したらという仮説が生まれて、量子色理論と名付けられる。つまり、赤、青、緑の三色を合わせれば白色になり、白色ならクオーク単独の出現はないと、説明さえ出来れば勝手を貫く現状がノーベル・ショーの実相である。
 素粒子間に働く相互作用四種とは、重力、電磁気力、弱い力、強い力と知られる。うち重力は軽い素粒子レベルだと、非常に弱く精密測定に掛からないという。電磁気力は化学反応の全てに不可欠の支配力をもつという。弱い力は極めて短距離の作用をして、陽子を中性子に変えるため、当初は電磁気力と異なると見られたが、統一場理論の出現で両者の力の源は同じと転じられた。強い力はπ(パイ)中間子が、陽子と中性子、陽子と陽子、との間に交換される核力(かくりき)の事で、一〇のマイナス一三乗センチメートルの距離に限り、働くという説のもとサイエンスは現時の国際社会をリードしている。ただし、これに政治が応じるか否(いな)かは別であり、東インド会社の事例を引けば、白色の性癖は歴然であり、勝ち戦を(いくさ)企む知の暴走も詳しくを論ずるほど、底が割れてくるのだ。

●大江山系霊媒衆の神託経路
さて本題に入ろう。神託とは神の存在なくして成り立たず、神託は情報だから、情報の発信源が神ということに異論はあるまい。先(ま)ず、神の所在は何処(いずこ)にあるのか、そして神が発する信号は如何(いか)なるものなのか、気を象る(かたど)意の働きから、落ち穂を拾(ひろ)う如く万葉の開化文明に臨(のぞ)んだ人の属性は、何時(いつ)しか知に溺(おぼ)れて天性を疎か(おろそ)にしてきた。その退化性因果に伴い文理(ぶんり)が生じると、シャーマンはトラスト状態になるというも、その実証メカニズムが放置される愚昧(ぐまい)を恥じない。文理に問えば、電子の質量×光速二乗=エネルギー化の式は承知しており、相対性理論の名付け親も文理の経路で生まれた。音(波)を言葉(粒)に置き換えたのも文理であり、実証を論証に置き換えるのも文理の仕事である。
 電荷移動は向きが変わらないとき、電圧も変わらないというメカニズムは文理の常識で直流回路と名付けられた。これは「電気が流れた即ち電荷が移動した」と同義で、「波が止まれば粒また粒が動けば波」に通じて、宇宙恒久の周期性一端といえるが、交流回路の併用なしには情報と成り得ない。即ち文理を解いていくと、シャーマンの通信手段を直流回路と仮定して、次の情報化には交流回路が必須との仮説が浮かび上がる。これと相対性理論さらに量子論を組み合わせ、回路操作のエネルギーが光速二乗と電子の質量で決まる算段(さんだん)を施せば、およそ神の正体を証(あか)す手掛かりは得られよう。現時は相対性理論が空間は無という間違いを改めた量子論の時代であり、その確執も波形と波長に絞(しぼ)られ、波と粒に生じる因子の揺らぎも明らかにされている。
 電子の質量と光速二乗を掛算(かけざん)したとき、そのエネルギーはさておき、そのスピード感は如何(いか)ほどか、似非教育で感性を鈍化(どんか)させるより、直流回路を体認するほうが、閃く(ひらめ)核心に達するのは早かろう。このスピード感に同調できる人命機能は意の働き以外なく、今際(いまわ)の際(きわ)に走馬燈の如く巡(めく)るめく感覚に通じる喩(たと)えともなろう。而(しか)して、この際(さい)の波は音になる前の段階があり、波の粒が音に変わるとき、多種多様の信号を生みだし、直流回路の電波伝播を感応する人の意に通じる。この信号(音)の多種多様性とは、時空の間を行き交う因子の揺らぎに生じるため、気象を含む環境の相違で信号が異なるとも錯覚する。これが交流回路に働く磁場の強弱作用と深く関わり、転訛(てんか)していく電波伝播ゆえ、共時性を伴う場の歴史は重大なのである。信号を言葉に置き換えるとき、人が有する遺伝情報も決して無関係といえず、日野が信仰の伝染、宗教心の遺伝に踏み込む所以(ゆえん)ともなる。
 本稿は科学読本でないため、子細を省くが、電子は電場と磁場を得て、運動の安定性を確保するが、放射性元素のように、安定を自爆(じばく)させる電子運動も観測されている。これら端的な事例にすぎないが、畢竟(ひっきょう)の資源は電場と磁場に生じる波に始まり、波は電気力と磁気力を含む螺旋(らせん)構造のもと、互いにスピンする立体運動を通じて、引力と反引力を生み出す経路をたどる。現時この波を電磁波と呼んでいるが、電磁波にも普通の波と共振する波があり、引力は普通波と共振波が引き合うこと、反引力は共振波と共振波が反発し合うこと、また普通波と普通波が交差するとき、互いの電気力と磁気力が衝突して生じるのが静電気である。つまり、透過力は一定の条件下にある共振波に限られ、この透過力は光速二乗のエネルギーを有するため、神すなわち宇宙万般(ばんぱん)と人の意を引き合うには、普通波を放つ宇宙と、共振波を放つ人の意にさほどの時間は掛からない。さて、波の機能性を突き止めて済む話ではなく、神界、霊界、自然界を網羅(もうら)する宇宙を知ろうとすれば、霊媒衆に与えられる信号が如何なるものかを解かねばなるまい。

●神と霊媒衆の交接信号
 筆者は前項で『文理』と記したが、その味わいは文系が実証現場の理をパクリ、理系は論証現場の文をパクル、同根の性癖(せいへき)を表現したにすぎない。これと同じ現象で臨(のぞ)む分野が言語の性質を解く研究領域であり、そのフィールドワークは傾聴に(けいちょう)値するが、場の歴史に伴う共時性を究(きわ)めていくと、翻訳(ほんやく)は必ずしも決定打とならない。つまり、言語の相似性と意味の共通性、また言語の特異性など、言葉の発祥は音(おと)の捉(とら)え方(かた)に関わるため、大自然の磁場に生じる強弱作用が起これば、万言(まんげん)の相似性・共通性、特異性など、それら類似性を翻訳(ほんやく)しても、それ贋作(がんさく)に耽(ふけ)り、霊媒衆を装う裏付けにしかなるまい。
 人の本能的属性は幾星霜(いくせいそう)を数(かぞ)えつつ、人口増殖を実現して、様々な生命の絶滅種(ぜつめつしゅ)を救う手立ても講じているが、環境変異に関わる人の営みは功罪その影響力が小さくない。音の発信源たる波は、波長と波形を有しており、波長と波形は因子で異なり、因子は周期性を有する恒久化メカニズムを喪(うしな)わない。すなわち、因子は固有の波長と波形から音を発する素元の構造を有して、宇宙を塑性(そせい)する全ての媒体(ばいたい)と関わり、その媒体を透過したり、また衝突したり、衝突に際しては素元音(そげんおん)の変化も生じる。これが直流回路、交流回路を通じて得る音の性質であり、宇宙万般(神)とシャーマンが交接する信号でもある。
 万葉一言一句(いちごんいっく)を編(あ)む人の社会において、宇宙四元素を気(空気)、火、水、土ともいう上代から、元素周期表のH(水素)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)を基礎とする現代までの間に、語彙変遷の旅は激しい因子の揺らぎに晒(さら)されている。人の本能的属性が飽和(ほうわ)状態に達すると、人は不飽和を求めて移動しており、移動に欠かせない言葉も著しい混種語を生み出していくが、最も重大なことは、共時性に伴う場の歴史である。古事記や日本書紀を編む段を決するまで、日本は先代の旧辞(きゅうじ)(古い口伝の言葉)を誦(しょう)習す(しゅう)る官吏(かんり)を備えていた。誦習の義が諳(そら)んじて慣(な)れ親(した)しむことは言うまでもない。
 皇紀暦元年は西暦前六六〇年に相当する。すなわち、皇紀元年までの日本は、飽和移動民(難民)の亡命ほか密入があるも、未だ不飽和状態を保ち得ており、人の営みも超克の型示しをモデルとしていた。その代表的儀礼が新嘗祭(にいなめさい)であり、精霊(せいれい)の宇宙四元素が充(み)ちる場に恵まれるなか、役(えんの)行者((ぎょうじゃ)シャーマン)は神の信号に接するも、言葉より実行に努めて原義の確信を得ようと専念した。例えば、稻(いね)、麦(むぎ)、豆(まめ)、粟(あわ)、黍(きび)などの栽培から、砂糖、塩、酢、醤油、味噌などの加工を通じて、海洋生命の飽和を不飽和に導く法まで、四季折々(しきおりおり)の周期性実測を励行(れいこう)していく。この経路から整えられた霊言(たまこと)を「あおうえい」として、因子結合法に則り、語彙の分解と復元を試(ため)すため、文字より、口伝(くでん)の誦習を繰り返す専門的な姓((かばね)家業)を配していた。以後、様々な語種が飽和状態に晒(さら)されると、その移動性は人の移動より早く広がり、霊言「あおうえい」も方言(ほうげん)と交接して、語種の飽和状態を不飽和に導く必要が生まれてくる。この転機が皇紀暦を建てる要因に成り得ている。

●大江山に巣立つ霊媒衆
 さて、駈(か)け足(あし)で神と霊媒衆(シャーマン)の交接メカニズムを述(の)べてきたが、神は宇宙万般ゆえ信号の発信源は特定一ヶ所に限られない。宇宙四元素あるいは元素周期表とかに従えば、天啓説(てんけいせつ)、仏教説、神道説(しんとうせつ)など、何れも傾聴に値するが、敬服するまでもない人の本能的属性を隠さず、神霊(みたま)も魂魄(こんぱく)も媒体に穢(けが)される因果を含ませている。宇宙は穢を祓と(けがれ はらう)同時に逆も真なりを証(あか)しており、その変則的周期性を見せるが、変則もまた人に都合よい統計の算段にすぎない。未だ朝令暮改を繰り返すも、何ゆえ天気予報が盛んなのか、その現実を見渡せば、農工商の市況操作を企む(たくら)算段は歴然であり、当たるも八卦(はっけ)の占いを未だ信奉する政策の底が割れてくる。これも霊媒衆を装い神を邪神(じゃしん)に組み換えた、似非教育に降(くだ)る天誅であり、以下その例示に大江山を題材とし、その霊媒史を禊祓していく。
 京都・大江山の呼称は二ヶ所で使われる。一つは福知山(ふくちやま)市北端に標高八三三メートルの大江山があり、近傍(きんぼう)に元伊勢(もといせ)と称する内宮(ないくう)と外宮(げくう)が設けられている。もう一つは右京区と亀岡市の境にある老坂峠(おいのさかとうげ)を大枝山(大江山)と称する。大江山を舞台とする技芸が描く物語で知られるのは、世阿弥(ぜあみ)作また宮増(みまし)作ともいう謡曲その古名「酒呑童子(しゅてんどうじ)」は、現代に至るも広く語り継がれている。これ中世に盛行(せいこう)した妖怪変化(ようかいへんげ)説の一つ、「大江山絵詞(えことば)」も御伽草子(おとぎぞうし)「酒呑童子」と関連して、源頼光(らいこう)らの鬼退治を絵巻物で描いたもの。技芸脚色は兎も角として、古書では大(おほ)が尊称とされ、江(え)に枝の字を当てる慣行もあり、コトタマ説の解くところ山は八間(やま)すなわち八尋殿(やひろとの)に置き換える。その意味は大八洲(おほやしま)あひる文字の原型で真智形(まちかた)に喩(たと)えられる。八尋殿の現代訳は、幾尋(いくひろ)もある広い殿舎(でんしゃ)といい、尋は長さの単位を指すが、成人の両腕を左右へ広げ指先から指先まで、六尺(約一、八メートル)が通常の目安とされている。因みに、酒呑童子の本拠は伊吹山(いぶきやま)(滋賀県)とされる。
 大江山に巣立つ霊媒衆の歴史を繙け(ひもと)ば、青銅器が流行していく時代において、鉄を使うヒッタイトほか、スキタイ、ウイグルなどの種と同じように、共時性を伴う場に相応(ふさわ)しい神の信号と交接した痕跡を刻んでいる。これ記紀に出る伊吹山と関連して、岐阜県に及ぶ伊吹山地(いぶきさんち)の主峰が、標高一三七七メートルの伊吹山であり、日本武尊(やまとたけるのみこと) が東征から帰る折あらぶる神の祟(たた)りを受けたとされ、山頂に懸(か)かる雲が青い気を含むため、山神(やまかみ)の息吹(いぶき)に見立て名付けられたといい、薬草と高山植物が豊富な地帯と伝わる。老坂峠(大枝山)は山陰道に通ずる京の出入口であり、他方の大江山と結ぶ陸路はもとより、この両大江山と伊吹山とのロードマップに重大な場は琵琶湖である。文明わずか五千年としても、歴史の常は天変地異にあり、同様の時空を刻むのは霊媒史も同じである。つまり、大江も伊吹も神との交接を同じくして、互いは陸路と水路の流通を形成していくが、人の本能的属性は錬金術に不可欠のアヘンに惑(まど)わされ、大江山に巣立つ霊媒衆も葛藤(かっとう)やむなくなる。
 日本先住説は後に別冊で述べるが、日本への亡命を含む難民および密入の渡来は、既に縄文時代にあろうと何らの不思議もなく、これを以て日本精神が渡来人に絶滅されるなど有り得ない。現代は、沖縄、北方領土の強奪占領、他国軍駐留の蹂躙下(じゅうりんか)で、北朝鮮の拉致犯罪まで見逃し、全く無力の為(ていた)体(らく)を示す政府外交であるが、これ古来日本人を装う混血の種が跳梁す(ちょうりょう)る位相にすぎない。日本精神の本義は競わず争わずにあり、その型示しは万世一系を保つ神格天皇が代表しており、日本武尊を諭(さと)し救うのも、酒呑童子を更生するのも神格ゆえの振る舞いにある。それはさておき、物性資源に乏しいという前提のもと、文明開化を海外先達(せんだつ)とする思潮(しちょう)は何処(いずこ)より生じたるか。これこそ、大江山系霊媒衆に問われる真贋問題であり、その前提を祓えば、日本の自給自足も何ら悩むべくもない。
 
●大江山霊媒衆が絡む事変の例
 伊吹山地の資源は皇紀元年から同二二六〇年(一六〇〇)まで、即ち関ヶ原の合戦まで物性リサイクルを保ち得たが、通説の鉄砲伝来以降は著しい費消で乏(とぼ)しくなり、現在その面影(おもかげ)を残す現象は、旧丹波一帯(たんばいったい)の各所に育つ産物にしか見られない。山陰道八ヶ国の一つ丹波は、皇紀一三七三年(七一三)北部五郡を割(さ)いて丹後国(たんごのくに)を設けたが、鎌倉期は六波羅(ろくはら)探題(たんだい)が守護して、いわゆる南北朝期に至ると、守護は仁木(にき)氏(足利実国(さねくに)が祖)から山名(やまな)氏(清和源氏義範(よしのり)が祖)さらに細川氏(清和源氏足利支流足利義季(よしとも)が祖)と移り、室町期に入り、江戸時代七藩が分立して、廃藩置県(はいはんちけん)後は京都府と豊岡県(とよおかけん)に分かれ、豊岡県の一部が京都府その残余(ざんよ)を兵庫県に編入したのは同二五三六年(一八七六)のことだ。現在も丹波各所に育つ産物には、例えば豆、茸、(きのこ)栗など特に味わい深いものがあり、その付加価値は広く知られるが、それは宇宙四元素とともに、要因はニッケル鉱床に(こうしょう)事由がある。これも大江山霊媒衆の託宣に基づく成果の一つで場の歴史に嘘は通用しない。
 電熱線の代表格ニッケルは発熱するが、電気抵抗率が大きいため、電磁波が流れにくい物性を有する。伊吹山に漂う(ただよ)雲が青い気を含んだり、京都の地下水脈が豊富なのも、これ大水量の琵琶湖が存する所以であり、大江山ニッケル鉱床を含めて、似非教育下における文理では剖判し得まいが、ここは詳論を(しょうろん)省(はぶ)いて本題を進めていく。大江山霊媒衆も真贋を問われる転機は皇紀元年に始まるが、現代に通じる重大転機は三淵晴員(みふちはるかず)の子が細川元常に養子入り、安土桃山時代の武将にして歌人、細川幽斎(ゆうさい)(藤孝(ふじたか)一五三四~一六一〇)の代で織田信長が天下に響(ひび)くころである。これ文明地政学叢書(そうしょ)(文明地政学協会刊)第一輯(しゅう)「歴史の闇を禊祓う」と、第二輯「超克の型示し」を参照されたい。即ち、キリスト教団イエズス会により、霊操ルネサンスが跳梁し出すころ、既に日本へ渡来の帰化人たちが、その魔術に拐か(かどわ)されて、日本に潜伏中の異教活動を本格化させたことにある。
 信長の火薬(かやく)思想は石山(いしやま)衆との戦(いくさ)で知られるが、当時、石山の地名で知られるのは滋賀県大津市にあり、西の音羽山、笠取山を越えていけば京都に連なる。また同地石山寺を開く天平勝宝(てんぴょうしょうほう)年間(七四九~五七)は皇紀一四〇九~一七年に当たるが、源氏衆の間で記紀編纂(へんさん)に倣(なら)い源氏物語が書き始められ、後(のち)の紫式部は同寺の硯を(すずり)用いたとされる。なお前方後円の石山古墳が所在する場は三重県上野市にある。石山寺の号は石光山(せっこうさん)と称して、如意(にょい)輪観音(りんかんのん)が本尊とされる。因みに、仏法は阿弥陀如来(あみだにょらい)を中心に、観世音(かんぜおん)(観音(かんのん))菩薩(ぼさつ)を左に勢至(せいし)菩薩を右に配して阿弥陀三尊と称するが、観音菩薩は六菩薩の化仏(けほとけ)といわれ、如意輪観音はその一つとされる。つまり、観音は衆生が唱える音声を観(かん)じて、慈悲(じひ)を降(くだ)し解脱(げだつ)を得させる由ゆえ、言霊(ことたま)の交接信号に当たり、また勢至は餓鬼(がき)、畜生、(ちくしょう)地獄(じごく)から衆生を救う道に立ち、臨終の(りんじゅう)際に来迦(らいか)これ極楽(ごくらく)へ引導(いんどう)する由ゆえ、言霊の情報化に相当する。阿弥陀如来が言行一致(げんこういっち)を促す(うなが)のも必然である。さて、この石山寺は後に真言宗東寺(とうじ)派が引き継ぎ運営されるが、信長と戦う主体は石山本願寺(大阪市東区馬場(ばんば)町)である。
 後の大阪城本丸に当たる場に所在した石山本願寺は、皇紀二一五六年(一四九六)浄土真宗八世の蓮如(れんにょ)(一四一五~九九)が開いており、同二一九二年(一五三二)に京の山科(やましな)本願寺を焼失することで本寺(ほんてら)とされた。しかし、同二二四〇年(一五八〇)に織田信長と合戦のすえ焼失、その信長もまた本能寺で焼き討ちされる。本能寺は初め本応寺と書いて油小路(あぶらこうじ)高辻と五条坊門の間に開かれたが、のち四条西(にし)洞院(とういん)油小路へ移ると、応の字を能に変じて信長駐屯のとき焼失する。現在は法華宗(ほっけしゅう)本門流の本山として、京都市中京区寺町へ移転している。さて、洞院は藤原北家西園寺(さいおんじ)流の公経(きんつね)三男実雄(さねかつ)が祖の姓氏である。ここに藤原の氏姓鑑識を述べる気はないが、滋賀県野洲(やす)に異称「近江富士(おうみふじ)」と呼ばれる三上山(みかみやま)は標高四二八メートル、御上(みかみ)神社の祭神降誕地として知られる。これより著名なのが、藤原秀郷を俵藤太に(たわらのとうた)仕立てあげ、三上山の百足(むかで)退治という技芸を使う絵巻である。平安初期の武将秀郷は、平(たいら)将門を(のまさかど)討つ功で下野守と(しもつけのかみ)なり、その子孫に亘理(わたり)、小山(おやま)、結城(ゆうき)、下川辺(しもかわべ)など家格の確かな諸氏を出すも、秀郷は生没年(せいぼつねん)不詳という謎を潜ませる。この奇で珍なる素姓(すじょう)隠匿(いんとく)を常とするのが疑史であり、性癖は放火と消火のマッチポンプにある。

●鎖国は何ゆえ生じたのか
関ヶ原は岐阜県南西端の地名であり、伊吹山地と鈴鹿(すずか)山脈との地峡部(ちきょうぶ)に位置して、交通要衝路に当たるが、古くは不破(ふは)の関が置かれ、安土(あづち)桃山時代に中山道(なかせんどう)の宿駅となり、北国街道および伊勢街道の起点となる。この場の合戦を機に日本の政権は、再び富士山の東へ移ることになり、鎖国体制を整えていく段に歩を進める。ただし、皇紀二二四〇年(一五八〇)すなわち関ヶ原の合戦二〇年前のこと、長崎知行(ちぎょう)とキリスト教団イエズス会の間で締結済の、統治委託契約に基づく港占有権の譲渡があり、長崎の交易所を封鎖するまでに至らない事情を抱えていた。この国際条約は信長没二年前に当たる。
 この頃の前後を少し付記しておく必要がある。
 同二二〇三年(一五四三)ポルトガル船が鉄砲を持ち込む
 同年、カトリック教会ポーランドのコペルニクスが地動説を発表する
 同二二〇九年(一五四九)イエズス会ザビエルの鹿児島上陸その滞在二年という
 同二二四二年(一五八二)ローマ教皇グレゴリウス一三世が太陽暦を制定する
 同二二六〇年(一六〇〇)東インド会社ロンドンが設立される
 同年 、関ヶ原の合戦で東軍(徳川家康側)が勝利する
 同二二六二年(一六〇二)東インド会社オランダが設立される
 同二二六四年(一六〇四)東インド会社フランスが設立される
同二二六九年(一六〇九)長崎北部の平戸(ひらと)にオランダ商館が開設される
 同二二八四年(一六二四)オランダが台湾占領開始三七年間を総督する
 同二二九六年(一六三六)後金(こうきん)(支那)国号を清(しん)(一九一二まで)と改称する
 同二三〇五年(一六四五)清朝(支那)が南京を攻略する
 同二三一二年(一六五二)第一次英蘭(えいらん)戦争二年後に停戦も第三次まで断続する
 同二三二二年(一六六二)明朝((みんちょう)支那)崩壊が完結する

 つまり、長崎県は平戸島(ひらとしま)全域と度島(たくしま)一帯の辺(あた)りが、屈曲する海岸線で良港に富む多くの拠点を有しており、鎌倉時代の松浦氏は既に城下町を設けていた。古くは支那大陸や朝鮮半島との交易を主としたが、皇紀二一五二年(一四九二)イベリア半島のレコンキスタが終結すると、教皇ワンワールド構想の尖兵(せんぺい)として、先ずポルトガル船が鉄砲を携え(たずさ)平戸に強引な寄港を果たした。因みに、通常レコンキスタは再征服と訳され、イスラム教とキリスト教の長期戦にバスクが巻き込まれ、最終的にバスクを取り込むキリスト教が勝利する歴史に使う言葉である。このレコンキスタ渦中に派生するのがポルトガルであり、戦争の終結後成立するのがイスパニア(スペイン)であり、以後「太陽が没する事なき帝国」と称され、教皇カトリック教会の評価が高まる。航海士コロンブスの物語ほか、多くの伝記伝説を残すが、最も重大な基礎は教皇パウルス三世(在位一五三四~四九)のとき、母校パリ大学の郊外モンマルトル中腹にある諸殉教者聖堂に学友七人が集まり、教皇絶対説を掲(かか)げ修道会認可を得るイエズス会の発足に絞(しぼ)られよう。発足五年後(一五四三)に早くも会員数六〇人限(げん)の撤廃(てっぱい)を取り付け、学友七人中の一人ザビエルが鹿児島に上陸する。既に信長一六歳は鉄砲に強い関心を抱(いだ)いており、ザビエルの霊操に接して、日本古来の伝統を打ち砕く兵法を(ひょうほう)編み出していく。
 この信長に仕えた明智光秀(あけちみつひで)は清和源氏土岐(とき)氏の流れ、美濃国(みののくに)(岐阜県)土岐郷(ときごう)に住し(じゅう)た源光信(みつのぶ)が祖で賴貞(よりさだ)のとき、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い美濃国守護となり、代々世襲するが、斎藤道三(さいとうどうさん)に攻められ滅亡する。光秀は近江(おうみ)の坂本城主、従弟(いとこ)の光春(みつはる)は丹波福知山城主となり、信長討伐の先鋒(せんぽう)を果たすも半月後に坂本城で自刃(じじん)する。この光秀の後見が清和源氏足利支流に養子入りした細川幽斎であり、信長、秀吉、家康に仕えて、最後は熊本城主となる。なお近江坂本の地名は比叡山の麓が(ふもと)名の謂(いわ)れであり、延暦寺(えんりゃくじ)の門前町また北陸道に沿う琵琶湖東岸の港町として発展していた。信長と行(こう)を同じくしながら、秀吉は中華思想を、家康は人権思想を体現その違いを歴史に刻んでいる。秀吉は天下を征すると、摂家(せっけ)・近衛(このえ)前久(さきひさ)の娘(前子)を自分の養女とし、後陽成(ごようぜい)天皇の中宮((ちゅうぐう)皇后)として、自ら関白(かんぱく)兼太閤(たいこう)の位を(くらい)横取り、聚楽第(じゅらくだい)を設け天皇の行啓を(ぎょうけい)強行、没後は吉田神道(よしだしんとう)の「明神」(みょうじん)で祀(まつ)られる。家康は臨済宗南禅寺(なんぜんじ)住職の金地院崇伝(こんちいんすうでん)をして、キリシタン禁止令を発布しており、天台宗喜多院(きたいん)住職の南光坊天海(なんこうぼうてんかい)をして、山王一実(さんのういちじつ)神道「権現(ごんげん)」で祀られた。これら暴挙こそ日本歴代の政府外交が繰り返す粗末であり、本義天皇制のほか救うべく道はないのだ。
 太上天皇((おほきすめらのみこと)上皇)すなわち今上天(きんじょう)皇が皇太子に譲位のあと呼ばれる尊称は、持統(じとう)天皇が文武(もんむ)天皇へ譲位して始まるとされる。以後、親王家から即位した皇室家の当主に、同等の尊称を用いるケースとして、後高倉院(ごたかくらいん)、後崇高院(ごすこういん)、慶光(けいこう)天皇の三例あるが、詳しくは別冊「超克の型示し」を参照されたい。皇紀二二六八年(一六〇八)この事例を真似(まね)た家康は政権を秀忠に譲ると、自ら大御所(おおごしょ)と名乗り、崇伝と天海を参謀格として、信長、秀吉らが施した政策の残像(ざんぞう)消去に躍起(やっき)となる。その要諦(ようてい)は外政より、内政の引き締めが急務ゆえに鎖国は最も手早い措置であり、内外の乱れを封じる策に諜報活動は必須となる。忍び寄る海外動向は付記の通り、家康没は同二二七六年(一六一六)ゆえ、大御所八年間の生活が隠密(おんみつ)体制を整えることになるのも宜(むべ)なるかな。技芸は忍者物語を痛快とするが、事実とは小説より奇なり、宗教を知らざれば奇で珍なるも、宗教を知れば奇も珍もあらざり、その忍びが大江山に潜伏するのも、共時性を伴う場の歴史ゆえである。

●閑話休題
大江山と筋(すじ)の違う霊媒衆に触れておきたい。奈良県南部の大峰山(おおみねさん)を別称で金峰山(きんぶせん)という呼び方がある。皇紀二四三九年(一七七九)光格(こうかく)天皇即位に際して、役(えんの)行者没(ぎょうじゃ)一一〇〇年遠忌祭(おんきさい)の勅命で(ちょくめい)神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)の諡号(しごう)が発せられた。而(しか)して、当の役行者は天武(てんむ)天皇在位中に没したことになり、古事記は天武天皇の勅命で編纂(へんさん)に及ぶため、当時の伝承は官の誦習が基礎であり、神との交接も音声が司配(しはい)したことになる。大峰山脈の主要部諸峰(しょほう)を総称して呼ぶ大峰山(大峯山)は、北部を金峰山(きんぶせん)と呼ぶ場合に南部の総称として使われる。修験道(しゅげんどう)第一の行法は(ぎょうほう)陰暦四月八日に入るのが通例とされ、熊野から入るのを「順の峰入り」また吉野から入るのが「逆の峰入り」と伝わる風習が慣例とされる。同二三五一年(一六九一)以来、金峰山(きんぶせん)頂上の経塚(きょうつか)から数次にわたり、大量の経筒、経箱、神像、仏像など出て発掘も盛んに行われた。吉野の金峰(きんぶ)神社は、金山毘古命(かなやまびこのみこと)を祭神として、野山の地主神(ちぬしかみ)また金鉱の守護神という信仰の対象とされ、別称では、蔵王権現(ざおうごんげん)、かねのみたけ神社、金精大(こんしょう)明神で知られる。同じく吉野の金峯山寺(きんぶせんじ)は、金峰山(きんぶせん)修験本宗の総本山で、役小角(えんのおつぬ)の創建と伝わり、天平年間(七二九~四九)行基(ぎょうき)が蔵王権現を祀るともいう。行基(六六八~七四九)は百済王の子孫といわれ、姓氏は高志(こし)、和泉((にきいずみ)大阪南西部)の人といい、元興寺にて得度(とくど)、諸国行脚(あんぎゃ)では、道路の補修、堤防の築造、橋梁の架設、貯水池の設置など、多くの事績をこなし、寺院建立も少なからず、東大寺の大仏(だいぶつ)造作に際しては、勅命のもと奉仕に励んで、聖武(しょうむ)天皇から大菩薩の号を賜ると伝わる。因みに、高志は越(こし)で北陸地方の古称と同じ義を含むが説くを省くとする。
 金峰山(きんぶせん)の読み方が違う山名、山号、神社名が他にある。長野と山梨の県境に見える秩父山地の主峰は金峰山と書くがキンプサンまたはキンポウサンと読んで、北側から千曲川に南側から釜無川に清流を発する源である。この山も古来信仰の対象となり、祀るのは武蔵(むさし)蔵王権現であり、古くは水晶の(すいしょう)産地と知られる。神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の浄智寺はキンブサン(金峰山)と読む山号で知られる。新潟県長岡市のキンブジンジャも金峰神社と書いて、吉野と同じく金山毘古命を祭神とするが、同一三六九年(七〇九)に北国鎮護(ちんご)のため吉野から勧請し(かんじょう)たと伝わる。
 大峰山(大峯山)は狭義で山上ヶ岳(さんじょうがたけ)を指す場合もある。山上ヶ岳は標高一七二〇メートルであるが、大峰山脈の諸峰は大凡(おおよそ)一二〇〇~一九〇〇メートル台で聳(そび)える。山上ヶ岳は役行者修験道の根本道場といわれ、金峯山寺があり、修験道の開祖を山上様と(さんじょうさま)称(たた)え慣(なら)わす風習もある。また山上寺(さんじょうじ)と呼ぶ寺があり、滋賀県神崎郡永源寺町にある臨済宗永源寺派の大本山とされて、永源寺の別称として使われる。因みに、蔵王権現とは、役行者が修験中感得した悪魔を降伏させる菩薩であり、忿怒(ふんぬ)の相(そう)で右手に三鈷(さんこ)(両端三つ叉(また)の爪(つめ)もつ金属亜鈴(あれい)の如きもの)をかざし、右足をあげた像で描写されている。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂というが、役小角創建とされる山上ヶ岳の蔵王堂は参詣が困難のため、天平年間に行基が現在地に安置したという。ただし、同二〇〇八年(一三四八)反建武(はんけんむ)政権に属した高師直の(こうのもろなを)兵火(へいか)で焼かれ、同二一一六年(一四五六)に再建という記録がある。この事件は、いわゆる南北朝の物語一端であり、足利尊氏の執事として、政務の実権を掴んだ師直が足利兄弟の和議により、摂津武庫(むこ)川で上杉顕能(あきよし)に殺される天誅で決着した。
 さて、この大峰山地に巣立つ霊媒衆と、大江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを見る位相が顕(あら)われる。むろん、神との交接に共通性が多いのは当たり前であるが、簡潔な究め方をすれば、格の違いであり、大江山では本義のアマテラスと交接し得ない電気抵抗率に揺らぐ格しかない。何ゆえ天武天皇が古事記編纂の勅命を発したのか、神と交接する神格天皇の位相を剖判(ぼうはん)すれば、実兄の天智天皇即位に際して、皇太子となるも、今上の重篤に(じゅうとく)接し、その平癒(へいゆ)を願い吉野山中で心身を浄める。これを政府御用達(せいふごようたし)の書記は吉野へ退去と取り違えるが、後世もまた先例に温(なら)う行政の保身主義に拘泥(こうでい)して、現代に至れば、公金の横領独占は恒常となり、政官業言(げん)一蓮托生のサバイバルしか見られない。神の信号は言語(ごんご)道断(どうだん)の相を示して、無責任な地球温暖化などに構わず、サバイバルとは違うリサイクルの原義を解くが、その原義を解くにはアマテラスを悟(さと)るほかない。

●鎖国下の大江山総督図
 皇紀元年、日本は飽和状態に達した神世(かみよ)(宗教界)を不飽和に導くため、超克の型示し現人神(あらひとがみ)(神武(じんむ)天皇)をして、日本列島全域の行政改革に歩(ほ)を進めた。その歴史を伝承する文献が記紀であり、皇親(すめむつ)の型示しは、「天(あま)の誓(うけ)ひ(い)」「天の岩戸開き」「須佐之男命(すさのをのみこと)と櫛稲(くしいな)田姫(たひめの)命」「大国主(おほくにぬし)命の経営」「武甕槌(たけみかつち)神の言(こと)向け和(にぎ)は(わ)し」「国譲(くにゆず)り」「天孫(てんそん)降臨(こうりん)」「海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)」などに刻まれている。吉野に根ざした「かんながら」は畿内(きない)を確立すると、国体の附託を担う政体に行政が移されて、政体は歴代現人神の型示しに倣(なら)い霊媒衆参集の地を大江山と決した。標高日本一の霊峰富士(不二)を仰いで、およそ標高半分の大峰山脈さらに半分の大江山をして、神意忖度(そんたく)の行政改革が続けられていく。その行政に不満が鬱積(うっせき)して、東国(とうごく)行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歴史を踏まえつつ再び東国政権を構築するのが江戸幕府である。
 家康は大御所と称して、富士山を仰ぎ見る駿府(すんぷ)(静岡)を開くと、大江山の動向を諜報(ちょうほう)活動する体制を整えるべく励んだ。頼朝の失敗を繰り返さないためである。キリシタンの蕃植ほ(はんしょく)か、国外政治の侵入を鎖国で封じつつ、最も懼(おそ)れるべきは、西国(さいごく)政権が積み上げた歴史の重みゆえ、大江山総督のため、紀伊(きい)と尾張(をわり)を結ぶ三方のロードマップを描き強化を急いだ。さらに本拠の江戸(東京)を安定させるため、東国の要と(かなめ)して、水戸(みと)(茨城)に最も重大な布陣を敷くと、権現たる自らの安置場所を日光と定め臨終に備えた。二荒山(ふたらさん)は男体山(なんたいさん)の別称として使われるが、標高二四八四メートル、補陀落(ふだらく)(観音浄土)を意味して音(おん)はニコウ(二荒=日光)と読まれる。男体山は日光火山群の主峰ゆえ、上古は沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇紀一四二七年(七六七)勝道(しょうどう)上人の(しょうにん)創建と伝わる社殿が麓にあり、山上に奥宮(おくみや)また中腹に中宮(なかみや)が設けられている。この二荒山神社の祭神は大己貴(おほなむちの)命、田心姫(たごりひめの)命、味耜高彦根(あじすきたかひこねの)命であり、勝道上人は神宮寺も開いており、桓武(かんむ)天皇の上野(こうずけ)国講師(こうじ)に任ぜられている。因みに男体山は日光富士の別称を有する。
 鎌倉幕府滅亡の主因は現人神の軽視にあり、室町幕府滅亡の主因は現人神を叉(また)割(さ)く罪の天誅であり、家康もまた源氏に固執して、武士(家人)の一念を貫こうとしたが、霊媒衆真贋を見極められず、江戸幕府の行く末は軽輩の手で倒される。これら政体の観音浄土を成すのは、常に現人神の禊祓であるが、ここでは鎖国下の大江山に巣立つ姓と(かばね)して、その屋号「出口」の観音につき触れておく。出口を直訳すれば、神意は口から出る音(おと)すなわち言葉で発せられ、その音を手に託せば筆先(ふでさき)となり、口と手は情報が同じ義で成らなければ意味はない。つまり、風紀(ふうき)を乱す「口八丁手八丁」の如きと異なるのだ。霊言「て」音(おん)を記紀に載る百神その宝座(ほうざ)に照らせば、天之吹男神(あめのふきをのかみ)は津島(つしま)を宝座としており、「て」は脳内神経の扉を開く「つ=大戸日別神(おほとひわけのかみ)」の働きを承(う)けて、日(ひ)=霊(ひ)すなわち神の信号が吹く風の如く出てくる位相を意味する。宝座すなわち島の意味は「締(し)め括(くく)る」である。津島の津は港のように、発声言語が集まり出て行く位相を意味する。次の霊言「く」音は沫那芸神(あはなぎのかみ)で宝座は佐渡島(さどのしま)(佐(たす)け渡(わた)し締め括る)である。沫は泡(あわ)と同義で反引力に相当するため、共振電磁波すなわち「あ」と「わ」の関係に通じて、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)(男系因子)また伊邪那美神(いざなみのかみ)(女系因子)の如く、相互分担して、明瞭な意味を選(よ)り分け繰(く)り結ぶ操作をいう。さらに霊言「ち」音は宇比地邇神(うひちにのかみ)で宝座は筑紫島(つくしのしま)(尽くし締め括る)である。その神意は宇宙と比するとき、地球は邇(ちか)し「い=須比智邇神(すひちにのかみ)」が承けて、須(統(す))べからく智に比す事柄は邇(に)たりを意味する。ゆえに出口は単なる家名ではないのだ。
 現人神の威厳を畏怖する江戸幕府は、表門に京都所司代を配して、朝廷の専権事案たる行政を悉く干渉しつつ、裏門は大江山霊媒衆を操作するため、奈良市北東部にある柳生の地に陣屋を設けて、伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)に根ざす霊媒衆を採用した。伊賀は大化改新で伊勢に併合されたが、天武天皇のとき再び伊賀国となり、平安期は平氏そして鎌倉期は大内氏、室町期は伊勢北畠氏の勢力下に置かれた。この伊賀と伊勢を江戸幕府に託されたのは藤堂(とうどう)氏であり、祖は近江国愛智(えち)郡を司る大領(郡司長官)家のうち、犬上郡藤堂村に住して始まり、六角氏、京極氏に仕え、初代藩主の高虎(たかとら)は浅井、織田、豊臣のち徳川に仕える。甲賀は滋賀県南東部の信楽(しがらき)丘陵を占める地で、天武天皇即位のころ鹿深(かふか)と称して、日本書紀に記される地名であり、古くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地として知られる。つまり、西国の飽和状態を不飽和へ導くため、東国へ移動した政体であるが、その不飽和も大凡二七〇年しか続かない。

●大江山発祥の大本信仰
 徳川将軍家は一五代まで約二七〇年を持ち堪(こた)えたが、その成果は神格天皇家が、後陽成天皇(第一〇七代)から孝明天皇(第一二一代)まで皇女(おうじょ)二天皇を含め、歴代一五皇親(すめむつ)で支えた皇紀二二六三~二五二六年があるからだ。本稿は同二六六八年(二〇〇八)の今を歩むが、この時代の禊祓は別冊「超克の型示し」を参照されたい。さて、職能や地名など所縁(ゆかり)とする姓氏が出現すると、政体は次第に姓氏階級制度を設けるようになり、朝廷では源平藤(げんぺいとう)(藤原)橘(きつ)の四姓が政権争奪を行うようになり、その鬱積(うっせき)が募(つの)るや公家侍(くげさむらい)と家人(けにん)の集合体が朝廷制に嫌気(いやけ)がさし、幕府(武家政治)を建て封建制を敷(し)くようになる。神格を保つ天皇は皇親の勅を(みことのり)遵守のうえ、姓氏(せいし)超克の振る舞いで型示しする。氏上(うじがみ)に準ずる民も姓氏は埒外(らちがい)とされたが、幾たびかの戸籍開放を経ながら、次第に家名も許されて、明治に至るや全ての民が家名の登録を急がされる。この制度は鎖国一五代に及ぶ継続を経てこそ成り立つ話であり、開国制度下の移民法では難を極めて、皇国史観の如く「国民は統(す)べて天皇の赤子(せきし)」と嘯く(うそぶ)政策など通用するはずもない。
 鎖国下において、幕府が難渋した政策の一つに非人(ひにん)(無戸籍者)の扱いがあり、結局は被差別業種の管理下に編入その非人を戸籍に組み入れた。非人は技芸が達者で定住を嫌う修験者(しゅげんじゃ)から、犯罪を背負い逃げ回る狡猾者(こうかつもの)まで、身素(ミソ)も組素(クソ)も一緒の如くされて、被差別業種の管理下に放り込まれた。この厄介(やっかい)を担う被差別業種の管理職には、その見返りたる政府公認の独占公益事業が与えられた。これが現在の同和問題であり、今や政官業ゆ着の温床となり、これに相乗りの言(げん)を巻き込みつつ、似非教育下の点取り小僧(こぞう)を養う民主化が今日(きょうび)の実相となる。戸籍の売買(うりかい)や貸借(かしかり)は古か(いにしえ)らあり、戸籍は政府を支える住民基本台帳の原本ゆえ、外圧開国下で戸籍が株式と同じ如く扱われたら、もはや祖国は営利追求の法人会社に委ねられると同様になる。明治政府が民の家名登録を急いだ事由であるが、問題は西洋ルネサンス被霊操官(ひれいそうかん)を養成のうえ、和魂(わこん)洋才(ようさい)なる妖怪(ようかい)が巣立つと、鎌倉時代に始まる封建制の特殊法人を詐取(さしゅ)して、祖国を株式組織としたのが現時の民主化である。
 識字率(しきじりつ)が低い明治初期、国民みな家名登録する制度の名付けに、枝葉末節の事実は広く伝わるも、歴史を見透かす波形は浮かばない。真贋を問わず、易断(えきだん)に呆(ほう)ける風俗は時代を選ばないが、人の本能的属性は常に利己欲優先の信仰を潜ませつつ、家名登録に際しては名跡苗字(めいせきみょうじ)を望む富裕の層ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢(みつ)ぐを惜しまない。幕政総督下で自在性を損なう大江山霊媒衆にとり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付け親を任じる役割は千載一遇(せんざいいちぐう)であり、貢(こう)を惜しまない富裕層が群がることもあり、貧困の層には無償で名付けを施すため、その信奉礼賛(らいさん)で大江山に差し込む光も俄に(にわか)広く強まる。むろん大江山に土着の霊媒衆は少なくとも、もとより霊媒衆は修験道(しゅげんどう)を旅するため、そのネットワークは全国津々浦々に及ぶものがある。ここに苦もなく、大本講社が起ち上げられても何ら不思議はあるまいが、そこに忘れてならないのは、維新の神仏分離令(一八六八)や神格天皇の東京行宮(あんぐう)(一八六九)など、本稿序段に記した重大施策なのである。再び書き置くと、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、平民苗字(みょうじ)許可制(同年)、寺社領没収(一八七一)、士族および平民の身分制存続(同年)、壬申(じんしん)戸籍実施(一八七二)の経歴であり、その要略は別冊「歴史の闇を禊祓う(みそぎはら)」に著(あら)わしている。
 壬申戸籍すなわち国民みな家名登録の実施は、霊媒衆に千載一遇をもたらし、大江山が俄に活気づくのも当然だろうが、鎖国下で辛酸を体認している霊媒衆は、再び同じ苦渋を招くほど愚かではない。神仏分離令は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)テロを引き起こし、寺社領没収の引き金に利用されるが、最も重大な政治暴力は神格天皇の東京行宮(あんぐう)に尽きる。力不足の維新政府は現人神の威徳を必要としたのだろうが、いわゆる南北朝の暴走政権でさえも、神格天皇の行宮(あんぐう)を政争の具に(つばら)用いる何ぞは控えている。大東亜戦争を歴史の闇へ封じるために、前代未聞の東京国際軍事裁判を強行した戦勝連合国でさえ、自ら出廷も辞さない現人神の勅に恐れ戦い(おのの)ているのだ。然(しか)るに維新政府は霊操感染に呑み込まれ、現人神の威徳さえ封じる和魂洋才のもと、経歴詐称の富国強兵制度を強行していく。最終的に未曾有の原爆投下で史上最大のジェノサイド(皆殺し)を招くが、その経過は別記とし、ここでは大本講社を起ち上げた大江山霊媒衆の真贋に焦点を絞るとする。

●大江山霊媒衆と在来宗教
 神すなわち宇宙万般に働くエネルギーは、その一つとして人を生み出したが、人は神の信号を託宣と称して、事物の解明に励み場の歴史を整え始める。而して、場の歴史に伴う土地柄には、人の遺伝情報も加わるため、これを崇(あが)めて神霊(しんれい)と称するようになる。神霊(かみたま)を祀る行事が慣例化していくと、人は「まつりごと」の場に伴う共時性のなか、次第に集団生活の利便性に目覚めて、共時性に伴う統一場の歴史へ向け歩を進める。この場の統一に不可欠の理を(ことわり)宗教と呼ぶようになるが、その理は私を(わたくし)率いて公の(おおやけ)道を啓く由ゆえ、宗教は迷う世界に留まる衆へ(もろびと)法を説く一面も重要になる。この衆生を束(たば)ねて運営するのが教団の仕事であり、講(こう)とも称するが、これを通常一般は宗教と履き違えている。もとより宗祖は霊媒衆ゆえ遍在(へんざい)は当たり前であり、天啓も仏教も神道も霊媒衆を宗祖として、教団経営に成功した教主が各宗各派の教祖で祀られるだけである。つまり、神世(かみよ)が飽和状態に達して人世(ひとよ)に移るとき、その起原は場の歴史で異なるも、節々(ふしぶし)に巣立つのが教主であり、神世の時代とは、共時性を伴う場の歴史が統一された時空のことをいう。
 皇紀二五三二年の壬申戸籍実施を奇貨(きか)として、大江山霊媒衆は自然発生的に大本教団を設けたが、神仏分離令の愚策により、仏教系事物は神道系テロに破壊・焼却され、寺社領没収の政策暴走もあり、強い忿怒(ふんぬ)を潜ませつつ、在来教団の動向観察に徹した。この宗教弾圧は明治天皇の東京行宮(あんぐう)、皇国史観の暴挙を決行するために、衆生の関心を他に向ける苦肉の策だろうが、信長の火薬思想に通じる教皇制であり、維新元勲がイエズスの霊操に感染したのは疑いあるまい。即ち国民みな天皇の赤子という皇国史観、これ天啓一神教の根幹であり、信長の火薬思想もまた然り、近時では、信長崇敬の首相が郵政民営化のみを唱え、形(なり)振り構わず選挙を強行して、身内をも砕く刺客まで送り込んでいる。これら異教霊操の宗教弾圧に立ち向かう尖兵たるは、仏教僧とその信徒であるが、これも教祖の名を借りた各宗教団の運動にすぎなく、霊媒衆が行う神霊との交接とは無関係である。政府と在来教団の抗争も内実は目先しか見えず、国家百年の大計は埒外であり、ひたすら開国の津波に彷徨う生き残りでしかない。
 大江山霊媒衆にとり、現人神の東京行宮(あんぐう)は最大の危惧(きぐ)であり、その予兆(よちょう)を透(す)かす信号は承知しており、その重圧も十分に認識していた。抑も(そもそ)神格は、霊峰富士を東に仰いでこそ備えられた資質であり、皇祖皇宗(こうそこうそう)(スメラミオヤスメラオンハシラ)の遺訓もまた、霊峰富士の御来光をアマテラスに見立て、天皇自身の慢心を抑えるよう諭(さと)している。こうした勅諭(ちょくゆ)を知るゆえ、役行者は吉野に根ざしたのであり、霊媒衆もまた神格天皇に仕えるべく大江山に控えたのである。しかし、天皇の東京行宮(あんぐう)は決定的な遺訓の冒涜(ぼうとく)であり、大江山霊媒衆の歴史も必然性を以て壊(こわ)れ行くしかない。ただし、人世が壊れようと、神すなわち宇宙が壊れるはずもなく、神格という意が葬られる理もなければ、霊媒という交接信号が絶える証も(あかし)なく、況や科(とが)の学に剖判など出来ようもない。霊操なるものも所詮(しょせん)は人の知に止(とど)まり、宇宙を操る(あやつ)何ぞ出来る現実もなければ、神格を超える何ぞは有り得ない。ここに大本教団の巣立ちがあり、在来教団との違いは、在来教団が教祖の名を借り、教主の経営手腕に縋(すが)るところ大に比して、大本教団は霊媒衆すなわち宗祖が集いて、その生き残りを目指しており、そこには真贋問題を潜ませている点である。
 宇宙万般に働くエネルギーに則り、共時性を伴う場の歴史を統一すべく、人は衣食住に基づき、道徳(どうとく)の規範(きはん)を整えていく経路に生(い)かされる。こうした大系を神格は新嘗祭(にいなめさい)の儀(ぎ)で顕わしており、その振る舞いと型示しをして、漢字は社禝の(しゃしょく)語を当てて、のち社禝は神道分野にも溶け込んでいく。この大則は霊媒衆の始発点であり、また終着点でもあり、常に不安定な自然界と接しながらも、安定を保つ要求度のため働く使命があり、その「まつりごと」に仕える立場として、霊媒衆の存在は政体にも大きな影響を与えている。政体とは常に不安定な衆生の日常を支えるため、やむにやまれぬ強制も要するが、その強制作用の可否は情知(じょうち)で推(お)し測れず、そこに政治家といえども、信仰という現実は免れない。これら大系の基礎を整えた最大の要因が場すなわち聖地であり、聖地は私(霊媒衆)を公に導く宇宙エネルギーと交接する場であるゆえ、その神格を整えて始発した皇紀暦を踏みにじる行為は、政体に如何なる事由あろうと許されるはずもなく、大江山に根ざす霊媒衆は自ら真贋を自問自答しつつ、史上初の大本教団創設を決したのである。

●東京遷宮後の大江山霊媒衆
戦記や情話を好む傾向は人の持ち味ゆえ、絵画、物語、マンガなど、その時代の流行(はや)り廃(すた)りも無視はできず、公を司る首相が「マンガ」を愛読しても仕方ないが、議会弁舌中の原稿にある漢字が読めないのは、何とも慈悲の念を禁じ得ない終末期を迎えている。これ壬申戸籍実施後の氏姓鑑識によれば、その無知蒙昧(もうまい)も宜(むべ)なるかな、家名の祟(たた)りに呪(のろ)われた歴史の掘り起こしにすぎない。国民みな家名の登録に際して、全国津々浦々で名付け親を任じた霊媒衆は、古来日本の住民基本台帳に深く関わり、個々の人別改め(にんべつあらた)にも必然性から多くの個人情報を有している。むろん戸籍の売買や貸借は古くからあり、摂家制度の成立以後は特に家名の洗浄も著しくなり、武家(ぶけ)が天下を握ると、その戸籍の人質(ひとじち)政策が強まり公武(こうぶ)の見境(みさかい)も入り乱れるが、江戸時代に公卿(くぎょう)、武士、賤民(せんみん)を除く人別帳が作られ、前述の如き措置も講じられた。而して、氏姓鑑識は不可能のように思えるが、もとより名付けは霊媒衆の職能に始まるため、その取材を誠実に行えば難しくはない。
 明治天皇が東京へ行宮(あんぐう)するに当たり、最も危惧されたのは京の都の行く末であり、これ燻り(くすぶ)続ける火種(ひだね)を残せば、霊媒衆の如きでは鎮(しず)めるのも不可能である。ここに神格たるの所以があり、維新前夜に孝明天皇崩御という禊祓により、喪(も)に服すること諒闇三(りょうあん)年の間が超克の型示しで保たれたのだ。皇紀二五二六年(一八六六)一二月二五日に、孝明天皇は宝寿(ほうじゅ)三六年の御生涯を閉じられるが、同二五二七年(一八六七)一月九日が明治天皇即位年月日であり、神格在位が空白一四日間あるのは何を意味しているのか。玉虫色の理屈を捏(こ)ねる常套手段は通史の冒涜であり、神武天皇即位で始まる皇紀暦に鑑み(かんが)れば、天皇在位空白が意味するところは、記紀の神世が伝えるように、飽和を不飽和に導く場合に要する喫緊(きっきん)の手当てであり、飽和ガス抜き措置にも通じる神格の禊祓があるのだ。その実証論は科学読本を編輯するとき説くが、事物は不安定回避の寸前が最も不安定であり、霊媒衆が神との交接で最も閃く(ひらめ)瞬間の出来事である。ゆえに、大本教団を興す霊媒衆にとり、この諒闇三年の間は、皇紀暦を隈(くま)なく遡る(さかのぼ)時空に匹敵(ひってき)するのだ。
 政体は常に不安定要素と競い争うため、その使命を誤れば移り変わるが、肇国の(ちょうこく)淵源(えんげん)を思い起こせば、日本政府は皇紀暦を以て誕生したのであり、その皇紀暦は未だ万世一系の型示しを喪(うしな)う現実に晒されていない。すなわち、日本政府は神格天皇の「まつりごと」に共振共鳴して肇(はじ)まるため、政権が勝手に国体を変える他国と異なり、国体の附託を承(う)けて政体という機関が生まれたのだ。国権の最高機関を国会と定める現行法でも、天皇の御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)なければ、日本政府は全く機能しないのが現実である。政体がどうあろうとも、この伝承に基づく型示しと、古来日本人に宿る遺伝情報に順う(したが)からこそ、民は明日への希望を喪わないのであり、希望を喪わないがゆえ、理屈もなく神格天皇を仰ぐのである。これに順応できない似非教育下の官吏(かんり)は、もはや日本人と見なされなくとも仕方ないのが現状で恥じるしか救われない。さて本題の大本教団である。
 出口の姓は家名として使われるが、その実態は法人名であるゆえ、ローマの教皇制度の如く理解しなければ、大本教団の実態を剖判する何ぞは無理というものだ。図書の旅から歴史を渉猟する労(ろう)に敬意は惜しまないが、私は公のため、命を惜しまず働いてこそ真価が問われる生き物である。そこにスサノオがアマテラスに救われる真価があり、スサノオは神話の王者また現世の王者であるが、単に命を惜しまない私なら枚挙(まいきょ)に遑く(いとまな)おり、私事(しじ)に病(や)めばスサノオに成れない。スケールは小さいが、西郷隆盛が何ゆえ官軍の将また官軍の賊と成りしか、何ゆえ自刃(じじん)に至るのか、孝明天皇に拝謁(はいえつ)して、私を捨て公に働く価値観に確信を得たゆえであり、のち任侠に徹するほかない自らの出自を知るからである。それを英雄とする情には慈悲の念を禁じ得ないが、西郷が透徹したように、神格天皇あればこそ殺し屋を率いる任侠も救われるのだ。政策テロの生みの親は政体であり、殺し屋の生みの親も政体であり、これ大江山霊媒衆の修験道にも通じている。

●紙が神となる時代到来
筆者は付和雷同(ふわらいどう)の個人情報に辟易(へきえき)やまないため、概説(がいせつ)は他書(たしょ)に委(まか)せて、個人情報は公に寄与その働きが未来に役立たないのならば、敢(あ)えて記述を控えるようにしている。どんな論説を講(こう)じようと、文明史を遡れば、後世(こうせい)の論説は前世(ぜんせ)の借用でしかなく、言(げん)で金儲けを企む筋には与(くみ)しない。例えば、現物取引一辺倒の旧き時代に、豊穣と守護を乞(こ)う市民層と約して、自ら霊(ひ)知(し)り(聖)(ひじり)の神を編(あ)むユダヤは、その言(書)を以て会員制マルチ商法の市場を形成している。これ後(のち)に旧約聖書と呼ばれるが、その住民基本台帳には個人情報が刻まれて、簡単に脱会を許さないシステムが組み立てられていく。ただし、現物だけでは魅力も乏しくなり、先物取引を加えた新約聖書が出現すると、際限なき人の欲望は新たな市場を求めて流れを変える。もとより市場は競い争う一面を有するため、肝心要の(かんじんかなめ)現物を生み出す労働市場にも、大きく波のうねりが起こり、そこにコーランの共同体が生じても何ら不思議はない。これら誓(ちか)いを結ぶ土台こそ契(ちぎ)り約(やく)す言葉ゆえに、言語が移り変われば翻訳の是非で争いも起こり、約定の(やくじょう)改めを巡る内輪(うちわ)もめも見境なくなり、現代は国際間を結ぶ条約す(じょうやく)ら玉虫色ワードのほか終着点に達しない。
 鎖国が開国の備えにならないまま、現人神の行宮(あんぐう)まで強行した維新政府は、神仏分離と寺社領没収により、和魂洋才という陳腐(ちんぷ)な官吏を養成したが、仕官御免の不穏(ふおん)要因を取り込めず、西郷ら公の使命を感得した人材をも封じた。むろん東京行宮(あんぐう)に際しては、多くの天皇側辺に仕えた姓も(かばね)同道しているが、その姓す(かばね)ら現人神から遠ざけて、政府は現人神を独占する体制を敷いていく。そんなことで揺らぐ神格ではないのと、京の都をして、神格伝承の苗裔が(みょうえい)巣立つ神計(かみはか)らいもあり、その未来を透徹した孝明天皇の禊祓には、人知では計り知れないこともある。維新後に明治天皇が京都へ行幸す(ぎょうこう)るには、相応の困難が伴うも大本教団にとり、政府の監視が鎖国時より和ら(やわら)ぐのは、逆に幸い(さいわ)であり、もとより神格に仕えた在京の姓と(かばね)も頻繁(ひんぱん)に行き交うを可能とした。また名付け親に謝(しゃ)する信者の参詣(さんけい)など隠(かく)れ蓑(みの)となり、公に尽くすため、意図的に改名する神格側辺も少なくない。さらに政府の要人は大半が軽輩の誹(そし)りを免れないが、幕末雄藩(ゆうはん)の上級武士は仕官御免が多くいて、これ在野の志士として、大本教団活用の道筋を啓く一派を形成していく。
 紙の普及で新約聖書が出版されると、以後ベストセラー・トップの座は如何なる書物が出現しても、その座を譲らず、現在も圧倒的なシェアを保持し続けている。この紙を安く作り、大量に供給し得た先駆けは、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で知られる支那であり、印刷の機械化に取り組み成功したのは、産業革命下のドイツであり、新約聖書の著作権は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)あるも教皇権限とされる。皇紀二五八九年(一九二九)バチカン市国が成立すると、紙の資源となる森林地帯は大凡(おおよそ)バチカン系に抑(おさ)えられ、紙が神を支配する奇妙な時代に突入する。通貨の基軸が紙に移行すると、その基軸価値を巡る紙幣(しへい)戦争が起こり、第一次世界大戦の停戦でポンドを基軸とした金本位制が出現するも、第二次世界大戦の決着でポンドはドルに座を奪われ、元来が銀本位性のドルは金と兌換(だかん)を停止、以後ユーロダラー(対外ドル資金)は利ざや稼ぎで暴れ回るため、ヨーロッパは独自のユーロ圏を形成していく。現時アメリカ発の紙幣不信は、戦争へ暴走する気力も起こらず、紙と神の違いも分からないまま、ただ強がるだけの遠吠えしか聞こえない。この行く末を透かすには、この経絡に連れ添う一蓮托生の日本も他人事(ひとごと)でなく、認識を改める必要がある。
 幕末維新に際して、最も犠牲者を出した雄藩(ゆうはん)は会津(あいづ)と福岡であり、その動向は「歴史の闇を禊祓う」にも記したが、維新元勲(げんくん)の外交と異なり、福岡藩士は在野を行き交う歩幅を活かして、支那大陸の各所に拠点を設けつつ、ユーラシアやヨーロッパもロードマップに加える旅に出ていく。紙が力を強める時代に照らせば、支那浙江(せっこう)省にて新約聖書(紙)の出版を委(まか)され、財閥となる宋(そう)一族三姉妹の嫁入り先など広く知られるが、このバイブルは既に大江山霊媒衆が解読しており、大本教団と行き交う浪士(ろうし)ほか、京の都に留まる保守系公家衆の手引きとして、教皇ワンワールド構想を探究する糧(かて)ともなる。大政奉還に纏(まつ)わる話は尽きないが、もとより神格の理は(ことわり)振る舞いで示されており、如何なる事態があろうと内政も外交も超克の型示しは変わらない。この威徳が紙の力で崩れる何ぞありえず、この威徳が備わるには、記紀が描く神世の経路と同じように、如何なる論説も幻想と実相とに峻別し得る体認を要するのだ。これ日清戦争すなわち紙を解くカギでもある。

●日清戦争前後の霊媒衆
 前記「●鎖国は何ゆえ生じたのか」項において、鎖国前後の出来事を少し付記しておく必要を生じたが、本項も同じ趣旨により、開国前夜まで付記しておく必要がある。
 皇紀二三三二年(一六七二)仏蘭(ふつらん)侵略戦争勃発六年後に落着する
 同年、霊元天皇下(在位一六六三~八七)、将軍四代目(徳川家綱)の晩期に当たる
 同二三四九年(一六八九)英仏植民地戦争勃発八年後に終結する
 同二三五九年(一六九九)清朝が英国へ対広東(かんとん)省貿易を許可する
 同二三六一年(一七〇一)王国プロイセンの成立
 同二三六六年(一七〇六)露国(ろこく)がカムチャッカを領有する
 同二三六七年(一七〇七)王国ブリテンの成立
 同二三七三年(一七一三)露国ペテルブルクに遷都する
 同二三七五年(一七一五)東インド会社が広東商館を設置する
 同二三八〇年(一七二〇)清朝がチベットを領有する
 同二三八七年(一七二七)清露(しんろ)国境協定を結ぶ
 同二四〇四年(一七四四)英仏間に北米植民地戦争勃発四年後に落着する
 同二四二八年(一七六八)露土(ろと)(トルコ)戦争勃発六年後に落着する
 同二四三五年(一七七五)米(べい)一三州独立戦争八年後に成立する
 同二四三九年(一七七九)イランにカジャール朝が成立する
 同年、光格天皇即位に当たり、将軍一〇代目(徳川家治(いえはる))の晩期に当たる
 皇紀二四四四年(一七八四)東インド会社が英政府下に統合される
 前年、アイスランドのラキ大噴火と、日本の岩木山、浅間山の大噴火がある
 同二四四九年(一七八九)欧州フランス革命五年後ナポレオンが台頭してくる
 同二四五九年(一七九九)軍人ナポレオン執政が成立する
 同二四六一年(一八〇一)朝鮮でキリスト教徒の迫害が徹底される
 同二四六三年(一八〇三)米国が江戸幕府に長崎通商を強要する
 同二四六四年(一八〇四)露国が江戸幕府に長崎通商を強要する
 同二四六六年(一八〇六)神聖ローマ帝国が崩壊する
 同二四七〇年(一八一〇)清朝アヘン流入の禁止政策を断交する
 同二四七六年(一八一六)英国が江戸幕府に琉球通商を強要する
 同二四七七年(一八一七)英国軍船が日本の浦賀水道に来港する

 つまり、鎖国下であろうと、出入国は条約上の制限範囲内なら有効ゆえ、それに基づく外交政治の往来や交易通商の偽装ほか、恒常的な密出入国を含めて、国際情勢の激動これ尚一層と盛んになるが、付記は出入国双方向の盛んを裏付ける情報である。これら情報の収集と分析は、古来神仏に仕える霊媒衆に優(まさ)る存在はなく、それは時空を超え今に通じる位相(いそう)ゆえ、人の信仰は朽(く)ち果てないのだ。問題は霊媒衆の真贋であるが、その鑑識(かんしき)を歪(ゆが)め狂わす要因もまた人の信仰であり、世に憚る(はばか)を恥じない占い師の盛んなるときは、世相が歪んでいく前兆であり、人の信仰もまた迷路を彷徨(さまよ)うほか仕方ないのだ。神仏分離令また寺社領没収という暴挙(ぼうきょ)のもと、和魂洋才なる妖怪を養い育む(はぐく)政策は、情報の収集と分析を似非教育下の霊操信徒に託したまま、皇紀二五五四年(一八九四)ついに日清戦争へ歩が進むを免れず、支那大陸に巣くう欧州戦線の津波に呑み込まれていく。
 中華思想を掲(かか)げ自ら壊(こわ)れた明朝の(みんちょう)あと、支那は族種の異なる清朝に(しんちょう)変わり、自ら明朝の冊封下(さくほうか)で半島を征した李氏(りし)朝鮮も、次は清朝に跪く(ひざまず)屈辱を繰り返し、本貫(ほんがん)の異なる両班(やんぱん)が群雄割拠するなか、神聖ローマ帝国を崩壊させた津波(つなみ)に襲われ、支那大陸はアヘンの衛生劣化が拡散拡大していき、朝鮮半島も耶蘇教(やそきょう)感染を鎖国で封じようとする。しかし、津波構造のメカニズムに無知の時代、目に見える津波より、目に見えない心理的津波のほうが影響力は甚大(じんだい)である。同二五三〇年(一八七〇)プロイセン=普(ふ)は仏戦(フランス)争の結果、国名をドイツに改変、同二五四二年(一八八二)にオーストリア、イタリアと秘密軍事に関する同盟(三国同盟)を成立させると、その対立軸として、同二五五一年(一八九一)の露仏同盟、同二五六四年(一九〇四)の英仏協商、同二五六七年(一九〇七)の英露協商すなわち三国協商が結ばれる。この対立は同二五七四年(一九一四)のサラエボ事件を契機に第一次世界大戦へと雪崩(なだ)れ込んでいく。この間の同二五四四年(一八八四)には、清朝とフランスとの間にベトナムの支配権を巡る戦争があり、翌年にフランスが勝利すると天津(てんちん)条約が結ばれ、その波及が鉄道敷設(ふせつ)権に及んで、フランス領インドシナの成立まで広がる植民地化の波となり、支那や朝鮮の亡命勢力が日本へ雪崩(なだ)れ込んでくる。
 これら津波現象が読み切れず、朝令暮改の津波予報を担(にな)うのが和魂洋才ゆえ、日清戦争以後の不様(ぶざま)は三国干渉しか形にならない。ところが、日本政府は戦勝気分に浮かれ、その気分に危機感を抱(いだ)く霊媒衆は、既に支那や朝鮮に拠点を設けた浪士と連携して、出口姓を名乗る清吉の出番を整えることにする。以後、日野本『伊犁(いり)紀行』ほか、それ以前に書き添えた情報など含めて、大本教団の活動は本格的に外交政治へ関与していくが、日露戦争前後の外交補佐は大半が旧福岡藩士で占められていた。いわゆる出口王仁三郎は国内用のプロパガンダであり、王仁三郎(上田鬼三郎)を軸に描く講社大本の活動は、その講社に集う軍人と霊媒衆の混成構造で情報発信されていく。而して、王仁三郎の入蒙秘話(にゅうもうひわ)などはSFすなわち空想科学小説と同じように、知的ミステリーを好む属性を刺激して、神話と実話が相ま見える妙味(みょうみ)を醸(かも)し出すが、所詮(しょせん)は記紀に似て非なるものである。
 筆者は本稿で日野家が北朝に属したと前記している。ところが、いわゆる南北朝を描く物語『太平記』に出る日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと)らは、南朝に仕えた重臣であり、ミステリーに長じる知性を惑わすが、知性は氏姓鑑識に興味がないようである。氏姓鑑識は少なくとも史観の入口であり、同二五二六年(一八六六)すなわち改元二年前に生まれた、日野強は士官学校を数え二四歳で卒業すると、陸軍歩兵少尉に任官その後三年間は消息不明という経歴が、防衛庁防衛研修所戦史室で岡田が調べた記録と日野本は書いている。この日野が鎌倉幕府に斬首(ざんしゅ)された資朝、俊基の系統を汲(く)むのか、汲まないのか、そこまでは踏み込む必要ないと決したのか、あるいは承知のうえ記述を省いたのか。日野強に特命を降す筋を当時の参謀総長は明示せず、復刻本は「その筋…」を参謀本部と読解するが、岡田の謹厳実直は意図的な嘘を含まないため、氏姓鑑識を省いたと断じるのが正しい。

●日野氏庶流の日野強情報
 通説に従えば、日野氏は中臣鎌足系(なかとみのかまたり)の藤原北家流・真夏(まか)が祖といわれ、孫の家宗(いえむね)が山城国宇治郡(京都市伏見区)日野に法界寺(ほっかいじ)(真言宗)を創設、のち資業(すけなり)が薬師堂を建立して日野氏を称したという。また代々(だいだい)が儒道と歌道で朝廷に仕えており、室町時代に将軍家と結縁(けちえん)が成り家格の安定を図るも、将軍八代目義政(よしまさ)の室(しつ)となる富子(とみこ)が応仁(おうにん)の乱を引き起こす火種(ひだね)を生むともいう。即ち富子が産する義尚(よしなお)を次期将軍にすべく、山名(やまな)氏を後見役として応仁の乱に及ぶ原因とされる話のことだ。富子は専横を極め政治に介入のうえ、京七口に(ななつくち)関所を設け税を課したり、高利貸し、米相場にも手を出すなど、市場混乱を招く張本人と見なされるが、たとい悪女としても同類の責任転嫁は政治の常である。こんな物語をして歴史が組み立てられるのも、氏姓鑑識が粗末ゆえ起こる現象であり、大江山に根ざす大本教団の講社(こうしゃ)を何ゆえ綾部(あやべ)に据(す)えたのかを、氏姓鑑識がないまま、個人情報の糸を手繰(たぐ)れば歴史が千切れるのも当たり前である。
 本稿第二回項(通巻二七九号)に記す通り、日野強が新疆を(しんきょう)目指しハミ、トルファンを経て省都(しょうと)ウルムチに到着、このとき清国の文武(ぶんぶ)諸官と漢詩交流を重ね、南州少佐と(なんしゅうしょうさ)呼ばれ大歓迎され、新疆の巡撫(じゅんぶ)や布政使(ふせいし)ほか、赴任のため途次(とじ)滞在中の伊犁(いり)将軍などに、特段の厚遇を得るのも、姓((かばね)家業)に根ざす遺訓として、儒道歌道に通じたからで、家訓に学ぶ伝承あればこその恵みなのである。また日野は宗教観として、信仰の伝染および宗教心の遺伝まで踏み込み「信仰も宗教心も、人から人へと、系統的経路を通り伝わるは免れないため、その祖先とか人種により、また智識(ちしき)程度の如何(いかん)により、崇拝(すうはい)する信奉(しんぽう)する、宗教の同一ならざるは、自然の勢いなり」と結ぶのも宜(むべ)なるかなである。さらに日野は浄土真宗本願寺法主(ほっす)に昇る大谷光瑞(こうずい)一〇歳年少を通じて、特命遂行に特段の協力させるが、これぞ日野が少尉任官後三年間(一八八九~九二)の消息不明事由と重なる。
 大谷家には天皇歴代の皇女(おうじょ)が降嫁(こうか)しており、その経歴は省くも、大谷光瑞(一八七六~一九四八)が日野と出会うのは、嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)宝寿一一年に当たり、光瑞一四歳のちロンドン留学(一八九九~一九〇二)一〇年前に当たる。当時二四歳の日野は、神仏分離令、寺社領没収などの後遺症が残るなか、愛媛県出身で軍閥(ぐんばつ)と無縁ゆえ、京都在留の歴代天皇家側辺(そくへん)および大江山霊媒衆の手配により、主に軍事訓練の移動を繰り返し、京を中心に二六歳までの三年間を過ごし、丸亀の歩兵第一二連隊附で年末(ねんまつ)中尉に進級するのは二七歳である。日野は既に年少六歳の出口清吉とも、出会いを重ねており、日清戦争勃発年(一八九四)においては、釜山(ぷさん)に上陸後各地を転戦して、講和後は大連湾(だいれんわん)から乗船して混成第九旅団の編成地に帰還した。清吉も台湾へ出征その帰還船内で病死、全身包帯巻き姿で海中に葬られたとする偽装も、本稿第一回の冒頭に記している。以後、清吉の消息は北清(ほくしん)事変(一九〇〇)の殊勲者として、名を改め京都日出(ひので)新聞に報じられるが、参謀本部出仕(しゅっし)の日野が対露戦略に則り、現地赴任(一九〇二)後一〇年を特務で働くことも、既に記しており、日露講和後(一九〇五)の両者は、日野が功(こう)四級金鶏(きんけい)勲章、清吉が再び京都日出新聞に軍事探偵として報じられる。
 皇紀二五六六年(一九〇六)日野は「その筋…」より、新疆視察の特命が降ると、身の回りを備えるや直ちに北京(ぺきん)入り、以後は『伊犁紀行』に詳しいが、本稿も概略を抜粋して紙面を費やした。日野本に清吉は登場しないが、監修の岡田は日野が綾部に帰住(きじゅう)するのは同二五七九年(一九一九)と記し、大本教の幹部となり、翌年五六歳の長逝と書き記して日野の個人情報を結んでいる。同二五八四年(一九二四)に王仁三郎は朝鮮経由で奉天(ほうてん)に到着する。大正天皇宝寿四六年であり、前年には関東大震災が生じており、皇太子殿下の裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が摂政宮を果たしておられた。同二五四〇年(一八八〇)日野一四歳のとき、京都堀川御所に貴子(うづみこ)が降誕(こうたん)のち辰吉郎(たつきちろう)と称(たた)えられる。日野が伊犁紀行を終えて東京に戻るのは、同二五六七年(一九〇七)四二歳のとき、辰吉郎二八歳であり、清朝は袁世凱(えんせいがい)が担(にな)うも同二五七二年(一九一二)には、宣統帝(せんとうてい)退位の幕引きがある。ヨーロッパ発の津波は、支那大陸と朝鮮半島に及ぶほど大きくなり、日清戦争、日露戦争を誘引(ゆういん)して日本に雪崩(なだ)れ込む亡命勢力も、人知では計測不能の土石流(どせきりゅう)に巻き込まれる。

●堀川辰吉郎その降誕説
アマテラスの本義に逆(さか)らう文明が行う侵略に、大正天皇は慈悲の念を禁じえず、超克の型示しで女官(にょかん)制度を禊祓している。明治天皇までの女官制度は、皇后(中宮、後宮)ほか順に典侍(すけ)、権典侍(ごんのすけ)、掌侍(しょうじ)、権掌侍、命婦(みょうぶ)、権命婦、女嬬(にょじゅ)などの階級があり、皇統譜に刻む位階は典侍と権典侍に限られていた。これを大正天皇は皇后のみ妻帯すると、他の女官は総て皇后および皇后が認め(したた)る子に仕えるだけとした。皇紀二五四〇年(一八八〇)貴子の降誕は嘉仁親王の降誕翌年に当たり、明治天皇が京都行幸のとき、用意されていた施設を堀川御所というが、そこで幼年期を過ごしている。当時、堀川の地は皇統譜に記載される系統ほか、旧摂家制度下の公卿(くぎょう)クラスが住む屋敷以外はなく、ある種の治外法権(ちがいほうけん)が働いた地と受け止めても間違いはない。この事実をして、堀川辰吉郎が明治天皇の皇子(みこ)と勘ぐる好事家(こうずか)を刺激するが、真実は明治天皇も、辰吉郎自身も知る由のない位相である。没年は同二六二六年(一九六六)一二月一九日ゆえ行年八七歳の生涯となる。
 皇紀暦上最大の暴挙、現人神の東京行宮(あんぐう)をして、睦仁(むつひと)親王(明治天皇)の東上を案じた勢力が大室(おおむろ)寅之助を代(かわ)り役(やく)とする噂話もある。本稿も真贋問題を採り上げているが、その目的は個人情報に埋没するのでなく、過去と未来の連続性を禊祓のうえ、成るようになる透徹(とうてつ)史観を通じて、飽和を不飽和に導く答を出すことにある。以下、堀川辰吉郎の噂話に不可欠の個人情報につき、例の如く少し付記しておく必要がある。
★岩倉具視(ともみ)(一八二五~八三)堀河康親(やすちか)二男、一四歳時に岩倉具康(ともやす)家へ養子入り、三〇      歳時に鷹司政通の(たかつかさまさみち)門流として、孝明天皇の侍従(じじゅう)このとき和宮降嫁(かずのみやこうか)を推進これ      幽居(ゆうきょ)の原因といわれ、探偵好事家は天皇毒殺の首謀説を唱える。
 ★井上馨(かおる)(一八三六~一九一五)萩藩士井上光亨(みつあき)二男、父は徳山藩士棟居景敏(むないかげとし)の弟で      井上家へ養子入り、馨は兄幾太郎(重倉(しげくら))と明倫館(めいりんかん)へ遠距離通学、二〇歳の とき志道(しどう)慎平家へ養子入り名を文之輔また推精(これよし)と改めるが、密航二八歳時に 企て養子先への迷惑を考え井上姓に戻り、維新政府の元勲まで昇る。
 ★貝島(かいじま)太助(一八四四~一九一六)炭坑事業二七歳で興し、西南役で(せいなんのえき)巨利を掴(つか)み五〇歳 時に井上馨の後援で大之浦(おおのうら)を買収、翌年の日清戦争を機に事業拡大五五歳で      合名会社貝島鉱業を設立して、筑豊(ちくほう)一の炭坑王となる。
 ★乃木(のぎ)希典(まれすけ)(一八四九~一九一二)長州藩士の子五九歳時に学習院院長就任、明治天皇      崩御年九月一三日六四歳で妻とともに自刃(じじん)で殉死(じゅんし)を遂(と)げた。
 ★頭山(とうやま)満(みつる) (一八五五~一九四四)平岡浩大朗(初代社長)の玄洋社(げんようしゃ)に協力し、長寿の      生涯を敬天愛人(けいてんあいじん)に尽くし、玄洋社の海外活動を支えるため、在野の自在性を      縦横に活用のうえ、国内活動の重鎮を為(な)し、杉山茂丸とも親密に通じた。
 ★孫文(そんぶん)中山((ちゅうざん)一八六六~一九二五)支那人三二歳のとき横浜上陸、のち辛亥革命の軸に      働き五〇歳時に初婚の妻と離縁して、直ちに浙江省財閥二女宋慶齢(そうけいれい)二三歳と      再婚するが、以後ブルジョワ批判のなか支那特有の愛国心を貫いた。
 ★張(ちょう)作霖(さくりん)(一八七五~一九二八)日清戦争後、若き馬賊で台頭するが、日本軍の捕縛(ほばく)      処刑が決したとき、陸軍参謀次長の児玉源太郎に救われ、以後協力者として      日本軍のため働いたが、国際勢力が企てた謀略で爆殺される。
 ★岡田茂吉(もきち)(一八八二~一九五五)東京浅草橋場町に生まれ、綾部講社が第一次受難に      見舞われる前年三九歳のとき大本教入信、のち王仁三郎に異能を指摘されて      霊媒に専念、脱会時五二歳で応神堂を開業、現世界救世教を創設する。
 ★張(ちょう)宗援(そうえん)(一八九二~一九四八)伊達(だて)宗敦(むねあつ)男爵(一八五二~一九〇七)六男順之助の      支那名であり、檀一雄(だんかずお)の小説「夕日と拳銃」のモデル、学習院に在籍したが      大陸の馬賊を率いて暗躍したとされ、子の宗義(むねよし)は拓殖大学教授となる。

 つまり、辰吉郎に関わる個人情報一端であるが、岩倉没三年前に生まれた辰吉郎は自分自身が何者かを問わずして、その生涯を全うし得る神格を備えていた。岩倉家は関白(かんぱく)近衛尚道(ひさみち)の子が久我(こが)通言(みちのり)家へ養子入り、その子具堯(ともたか)に羽林家(うりんけ)(公家侍)創設の許しが下されて始まる。さらに具堯の子有能(ありよし)は千種(ちぐさ)(羽林家)姓で分流し、その子が植松(うえまつ)(羽林家)姓で分流こののち岩倉は、千種、植松の分家と養子縁組で結び合せるも、広雅(ひろまさ)八代目が早くに死去、柳原家から養子を迎えて岩倉具選(ともかず)九代目とする。柳原は日野家庶流であり、具選と同じ血脈を有する、柳原光愛(みつなる)二五代目の娘(愛子)が大正天皇の生母とは、広く知られて柳原二位局(にいのつぼね)の別称でも親しまれる。具選嫡流は孫が早世して、今城(いまき)家の子で繋(つな)ぐも同じく早世、直ちに大原(おおはら)家から養子を迎えるが、その後も苦しい後継を続けていく。今城は花山院(かざんいん)(精華家(せいがけ))系中山親綱(ちかつな)一四代目の子を家祖とし、大原は宇多(うだ)源氏庭田(にわた)(羽林家)の系を引く分流であるが、岩倉具慶(ともよし)一三代目となる大原の父は富小路貞直(とみこうじさだなを)の子で、富小路は二条(摂家(せっけ))系庶流半家(はげ)に許された姓である。また貞直の父は清原氏舟橋(半家)庶流に当たる伏原宣条(ふしはらのぶえだ)(平堂上)(ひらとうしょう)ゆえ、岩倉家の格付けを低く見る傾向も出てくる。この傾向も似非教育下の格付け会社に阿る(おもね)市場経済に通じている。
 宣条の生母は柳原光綱(みつつな)二〇代目の娘であり、宣条の正室は柳原紀光(もとみつ)二一代目の娘ゆえに氏姓鑑識は重大なのだ。さて、岩倉具視一四代目であるが、父は萩原員幹(かずみき)の子康親で一三代目として、堀河家に養子入りしている。先ず堀河家を要略すると、祖は藤原北家長良(ながら)系高倉庶流の親具(ちかとも)が、藤原北家道隆系庶流水無瀬(みなせ)兼成(ともしげ)一九代目へ養子入り、子の康胤(やすたね)が姓を許され始まる。また萩原家は本姓卜部(うらべ)氏で吉田神道系支流に当たり、分家に錦織を(にしごおり)出して共に公家(くげ)社会へ参入するが、その出自が霊媒衆たるは歴然の痕跡を刻んでいる。水無瀬の家系は六代目のとき、三条家に嫁ぐ娘の縁組みを通じて、三条の子が水無瀬家に養子入り相互結縁を濃くしていく経歴があり、具視に不可欠の氏姓鑑識は高倉家であるが、これは長くなるので省くほかない。具視と三条実美(さねとみ)(一八三七~九一)の確執を中岡慎太郎(一八三八~六七)が取り除いたり、参内七卿落(さんだいしちきょうお)ちした両者が九州太宰府(だざいふ)へ向かう行程なども氏姓鑑識なくして解けず、辰吉郎降誕が具視没三年前の解き方にも通じるのだ。
 井上馨の兄重倉を戸主(こしゅ)とする抄本に(しょうほん)、重倉五男で辰吉郎の名が見られ、生年は明治二四年(一八九一)と記され、貝島太助の姪(めい)寿子と婚姻している。これを根拠に堀川辰吉郎を仮想して、謎の情報解明を仕掛ける出版物あるが、衆生が驚歎す(きょうたん)る故人の事跡に遭遇して何かを企むのは、善し悪し問わず、慎ま(つつし)なくてはいけない振る舞いである。井上馨五六の歳時その兄五男の辰吉郎は行方が知れず、筑豊一の炭坑王貝島の姪も消息が知れない何ぞ有りえず、有り得ないがゆえ、堀川辰吉郎にこじつけ、「誰が何して何とやら」の物語に時間と費用をかければ、そのコストを回収しようするため、歴史を千切り取るべく作用が起こり、最も大事な統一場を遠ざけてしまうのだ。辰吉郎の降誕年を巡る憶測は、他(ほか)にも大正天皇と同じ明治一二年から、伊達順之助と同じ明治二五年まで、実に一三年の差異は時空の冒涜であり、商業ジャーナリズムの無知蒙昧(もうまい)を自ら立証するものである。付記した個人情報も多くの出版物あるが、彼らは彼らなりに、その使命を決するに辰吉郎の存在が無視できない。ところが付記人物伝に辰吉郎の情報は出てこない。

●堀川辰吉郎のエピソード
皇紀二五六七年(一九〇七)伊犁紀行を終えた日野は、東京へ戻る前に京の大谷光瑞を訪ねたと岡田は調べており、日野本復刻の謹厳実直さに敬意を表する。本稿も冒頭で講社大本へ入信した、軍人名一部を冒頭(ぼうとう)に記しており、王仁三郎(おにさぶろう)の入蒙に強い影響力を及ぼす陸軍の代表格が日野であれば、海軍の代表格は矢野祐太朗(ゆうたろう)と記した。両者は既に予備役(よびえき)の身分であり、王仁三郎入蒙(一九二四)は日野没(一九二〇)後ゆえに、少し矢野の個人情報に触れておく必要がある。同二六二二年(一九六二)に「いのちの会」と称する宗教法人が設立認可され、本部は日本最大の古墳がある応神天皇陵(大阪府羽曳野(はびきの)市誉田(こんだ))に隣接の誉田(ごんだ)八幡宮の敷地内にある。初代名誉会長は堀川辰吉郎であり、最高顧問に山形県出身の塩谷信男(一九〇二~二〇〇八)が就き、提唱者森蔭彬韶(もりかげおとつぐ)の子尊宗(たかむね)が運営責任者で起ち上げられている。因みに塩谷は開業医で香淳皇太后の覚(おぼ)え厚き霊媒衆である。そこに保管される神盤は秦(しん)の始皇帝(しこうてい)ゆかりのもの、孫文が辰吉郎に渡しており、他に矢野が設計製作した神界剖判図も備えられている。
 筆者は東宝ニューフェース第二期生で映画俳優の中丸(なかまる)忠雄フアンであるが、事由は彼が筆者の郷土で同級生の三遊亭円楽(本名吉川)らと小学校を過ごし、俳優になると名優の三船敏郎に殊のほか可愛がられ、多くの大作(たいさく)に出演その素姓(すじょう)に興味を抱(いだ)いて、いつの日か出会うべく予感を温め(あたた)ていたからだ。中丸夫人の薫と(かおる)出会うのは、彼が芸能活動を減らし趣味の陶芸に勤(いそ)しむ時であり、薫に頼むと温めていた予感が適(かな)えられた。中丸薫は多くの著作と講演活動で広く知られるため、子細は省くが、自ら堀川辰吉郎の娘として育てられ成長していく自叙伝も著わし、自身の奇で珍なる体認により、自ら霊媒衆の如く振る舞う性癖を隠さない。筆者は瞬く間に中丸忠雄と親しくなり、中丸夫妻の婚姻を慶ぶ辰吉郎が結婚披露宴前に逝去したこと、その人物像について、彼は自分の如き凡人には全く理解に及ばず、知ろうとも思わないまま、筆者との出会いだけを喜んでくれた。もちろん筆者は薫の著書を読んでいないし、彼が感じたままの辰吉郎を聞くだけ、むしろ自分が何者かを知る旅の面白さを彼と話したにすぎない。
 個人情報を得たいのであれば、対象が存命の場合その本人が知らない本人の情報を蓄え取材に臨み、故人なら取材対象と情報交換し得る準備が必要であり、その備えがないまま相手と接しても意味はなく、知りたい情報など得られない。中丸薫と同じく本人も確証を得られないまま、辰吉郎の子の如く育まれるエピソードは数多(あまた)あり、筆者の知り合いでは浮谷(うきや)東次郎(とうじろう)と話したことが偲(しの)ばれる。東次郎は同二六二五年(一九六五)鈴鹿(すずか)サーキット建造中のなか、レーシングドライバーとしての練習中に事故死しているが、浮谷家は千葉市川市で約三〇〇年を継ぐ旧家であり、ここに嫁ぐのが辰吉郎の娘という和栄(かずえ)で東次郎の生母に当たる。若いころ既に自分さがしの旅をしていた筆者は、東次郎に限定されず特に旧家の知友と話し合う場を多く有して、逆に東次郎から堀川辰吉郎とは何者かと聞かれて調べたことがある。東次郎は筆者の一年下で死後も伝説が朽ち果てない。
 同二六〇一年(一九四一)真珠湾宣戦三ヶ月前に生まれた筆者は、終戦まもない頃から父と父の知友すなわち旧軍部の膝のうえで、多くの大言壮語(たいげんそうご)を聞かされており、その影響甚大にして、正月と天長節に(てんちょうせつ)行う皇居一般参賀(さんが)を慣例としていく。その体認を続けるうち神格天皇と天皇制の間に違和感を持ちはじめ、その違和感を潜ませつつ、筆者の生き様を操作する死に神に取り憑(つ)かれた。さて辰吉郎に関するエピソードは、他にGHQ統計局長カーペンターの在日中、前夫との間に産した双子の女児を抱えた芳子が、カーペンターと婚姻して、カーペンターの本国帰還に当たり、双生児の在米永住を巡る大騒ぎは、米国で広く知られるが、その事由は芳子の父が堀川辰吉郎とされたがゆえ、全米ジャーナリズム喧噪(けんそう)の原因と成り果てたのだ。つまり、知る人ぞ知るのが堀川辰吉郎であり、この騒ぎを機に辰吉郎の個人情報は検閲(けんえつ)管理下に置かれたが、既に操作不能の情報もあるため、その情報錯綜(さくそう)を工作して、実子(じっし)との確証ない子の出現を利用するため、辰吉郎のエピソードは情報抹殺を企む現実のなか、勝手に独り歩きしていく話が多く出てくる。

●大宅壮一手記の王仁三郎
 戦後ジャーナリズム操作の日本言論界を剖判すると、大宅壮一(おおやそういち)(一九〇〇~七〇)には慈悲の念を禁じ得ないが、辛口評論でマスコミの王者に君臨したため、その生(い)け贄(にえ)とされ媒体を彷徨(さまよ)う運命は免れない。大宅の代表的遺言(ゆいごん)は、自戒(じかい)を含め日本人一億を総白痴(はくち)化と見る捨(す)て台詞(せりふ)であるが、最も懼(おそ)れたのは、自分が在籍したマスコミの為体で(ていたらく)あり、口先や筆先の虚(むな)しさを痛感していた。現在では何を勘違いしたのか、大宅の自壊(じかい)を解(げ)せない夜郎(やろう)自大(じだい)が尖兵(せんぺい)となり、自ら白痴をさらし、民主化の波間(なみま)に浮き沈みしている。好奇心旺盛の少年期に大宅は王仁三郎(一八七一~一九四八)を見ており、その布教活動の異様さから感受した思いが去らず、既に還暦を越えた王仁三郎の寿命を考えてか、予約ないまま講社大本の本部綾部を初めて訪問したという。
 大宅は大阪府茨木(いばらき)に生まれ、皇紀二五八七年(一九二七)に『文壇ギルドの解体期』で論壇デビュー、筆名「猿取哲」の活動期(一九四五~五〇)を含め、多くの流行語を生み出すなか、『炎は流れる』で菊池寛(きくちかん)賞(一九六五)をとる。この大宅に従えば、本名上田鬼三郎(おにさぶろう)は神秘体験を重ねつつ、病気治療を伴う布教活動に勤(いそ)しみ、二八歳にて稲荷(いなり)講社に属する皇道(こうどう)霊学会の創設を行うなか、綾部に住む「出口なを」と出会い、翌年「なを」を教主に「金明霊学会」の創設も仕上げる。以後、日刊新聞の発行などマスコミを利用した布教により、全国的に教勢を広げるも弾圧(一九三五)を受け翌年解散する。この組織が再び世に出るのは、改称した大本愛善苑(一九四七)であり、のち旧称の皇道(こうどう)大本に戻し復活するが、大宅が王仁三郎と対座したのは弾圧直前のことである。
 以下その手記を損傷しないよう心掛け、大宅の王仁三郎観を要略しておきたい。
 大本布教で聖師(せいし)(王仁三郎)が茨木に来たとき、少年大宅は友に誘われ一里の道を歩き会場入りした。聖師は「天地壊滅の予言」を講じており、その盛況ぶりに大宅は先ず目を奪われ、胸の動悸(どうき)を抑(おさ)えること出来ずにいたが、のち友が信徒になり、宣伝使(せんでんし)まで昇ると大宅も訳書『共産部落の研究』を読み、その講説が大本教、天理教、金光(こんこう)教に共通し得る運動と解した。大宅が聖師を訪ねるべく思い立つのは、当時センセーションを巻き起こし世間の注目を浴びる、反宗教闘争に向き合う聖師と会うのが動機であり、アポもなく丹波綾部に出かけたと嘯く(うそぶ)書き方で始まる。
 大宅が綾部(あやべ)に着くと、綾部町大字(おおあざ)本宮町一番地 出口王仁三郎の標札が(ひょうさつ)あり、門前にはコンクリート造りのキリスト教会が建てられていた。付近の人に聞くと、聖師は亀岡での夏期講座に出向いて留守との由ゆえ、大宅も亀岡に向かうが、綾部と亀岡は町の大きさも印象も似ており、明智(あけち)光秀ゆかりの亀山城跡に陣を取る「天恩郷」が、大本教第二本部と銘打ち使われていた。銀杏(いちょう)の老樹を中心として、大祥殿、明光殿などの大建造物群が立ち並んでおり、聖師の養子では日出麿(ひでまろ)や宇知麿(うちまろ)などが控えていた。紹介状もアポもない面会申し入れに対して、こともなく聖師は大宅に会うという返事があり、宿をとる大宅は自ら手紙を認め(したた)番頭に使いを頼んだという。番頭は聖師が散歩中と告げたが、やがて宿にいる大宅に電話があり、今夜は疲れが出ているため、明日午前中に明光殿へ来られよと約束が交わされた。このあと大宅は意図的に自分を著名人と思わせる書き方をしている。
 聖師は浴衣の上に絽(ろ)の羽織をかけ、頭に烏帽子(えぼし)の如きものをかんむり、長身肥大は顔も声も大きく、還暦を過ぎたとは思えないほど、若々しく元気が溢れていたという。聖師は自分の歌集一万を自撰するため、五〇~六〇万首を詠むと言い放つが、例えば一日に一〇首とすれば、年三六五〇首、三年で約一万首、五〇万首を詠むには一五〇年かかる計算と大宅は詰問した。それに聖師は一日に二~三〇〇首を詠むと応(こた)え、全国短歌結社八〇余に載せるほか、他に数種の機関雑誌があり、それらに寄稿すると言い放つが、大宅が調べた内実は、短歌結社や機関誌が、単なる自社の会計一部を聖師に負担させるべく、取り憑く利殖行為にすぎないと、見抜いたことも述べている。
 また聖師の小説は予定一二四巻の長編であり、当時七二巻まで出来ており、総題『霊界物語』のもと、全体を分類一二部冊さらに各部を一二巻に分け、各冊平均で四六版四〇〇ページと見積もれば、全部で四万九六〇〇ページに及ぶが、これを聖師は一冊三~四日で仕上げるという。その分類一二各部支別の標題を、「霊主体従」「如意宝珠」「海洋万里」「舎身活躍」「真善美愛」「山川草木(さんせんそうもく)」などと大宅は記している。どうあれ、大宅も書記を職業とする身分ゆえ、その速記力に驚歎を(きょうたん)隠していないが、筆者にしてみれば別に驚くに値しないことで、古来伝承に基づく翻訳など器用達者であれば、聖師程度の技芸は幾らでもあり、その工房(こうぼう)もまた古くから存在している。
 大宅は聖師が使う多数の筆名について、特に次の如き名を記している。出口瑞月、月の家和歌麿、月の家風宗、井出王川、石山秋月、十和田勝景、三国一峰、嵐山桜楓、保津渓流、室戸岬月、琵琶湖月、静波春水、山紫水明、寿翁無塵、出雲八重垣、仙史万公、亀山万寿、水呑玉子、福禄寿翁、和知漁水、大江山風などであるが、これらの筆名を如何なる事由で選んだかに触れておらず、ここでは筆者も邪推(じゃすい)を慎むことにする。他に聖師が行う余技として、大宅は絵も上手(うま)いと書き加えて、我流の自由画みたいに見えるが、それらは武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)よりも伸び伸びしたユーモラスがあり、仏画もあれば、俳画のように武士が城の上から小便する絵もあり、ほか楽焼きや書道も素人ばなれと記している。人の評価を年齢で測る気はないが、大宅三〇歳半ばの評論であり、ここまで紹介すれば筆者が何ゆえ本項を書くのか、史家を任じるのであれば、既に気付かなければ史家とはいえまい。その事由は後述するとして、もう少し大宅の手記を加えておく。
 聖師いわく「大本は宗教にあらず、大本教とは新聞辞令みたいなもの。大本とは、政治、経済、芸術みな引っくるめて、宇宙の大本を説くことにある」と。これは大宅が聞きたい最重要課題すなわち反宗教闘争に対して、聖師の本音を引き出す経路に通じていく。この言に続いて、聖師は本願寺その他の既成宗教に巣くう腐敗堕落(ふはいだらく)をののしるが、大宅が取材方向をマルクス主義宗教論に切り替えると、その手の理屈は興味なく「議論をしたけりゃ宣伝使とやるがよい」とかわされ、大宅は宣伝使と議論する気が毛頭ないため、これにて落着と引き下がることになる。筆者の要略これで十分と思い終(おえ)るも、結びに聖師すなわち上田鬼三郎の本音が潜む歌三首を、大宅の手記から抜粋(ばっすい)その補足としておく。
 ★宗教は 数多(あまた)あれども おしなべて 営利会社の 変名な(かわりめい)り
 ★宗教の 美名にかくれ 曲神(まがかみ)は 人の汗すい あぶら飲むなり
 ★宗教は 牧師僧侶を ふりすてて 人の心の 奥底(おくそこ)に棲(す)む

 つまり、上田鬼三郎と大宅壮一は同じ族種の系であるが、この種は常に内訌(ないこう)を繰り返す戸籍編入のもと、例えば、前述している細川氏と同じく異相を好む癖がある。皇道大本を標榜しつつ、門前にキリスト教会を建造その混淆(こんこう)を隠そうとせず、来るモノ拒(こば)まず、去るモノ追わずを装うパフォーマンスは、聖師を訪ねる大宅の偽り(いつわ)方も同じこと。上田家伝(かでん)で広く知られるのは、立体画法を使う円山応挙(まるやまおうきょ)ゆえ、鬼三郎が上手い絵を描くとか、上田と結縁の武者小路実篤と比較するなど、大宅は古来承知の痕跡を刻んだのだ。聖師と大宅は既に互いが同族と心得ており、大宅の本当の目的は、綾部に弾圧の手が及ぶことを告げて去るだけにある。また何ゆえ上田が綾部に移住したのか、それは清和源氏海野(うんの)氏流の海野幸隆が信濃国小県郡真(ちいさがたぐん)田庄松尾城に住し、真田氏を名乗るまで遡る必要あるため、本稿は省くが、ここでは綾部大本教が大江山講社の一つとだけ記しておく。

●紫禁城内に辰吉郎の小院
読者の趣に(おもむき)沿わず辰吉郎の成長記録は省くが、それは筆者の如き器が(うつわ)神格の成長記録を記す何ぞ資質は持ち合せないからだ。皇紀二五五二年(一八九二)出口なを教主が担(かつ)がれ綾部大本教が興るとき、出口清吉二一歳、上田鬼三郎二二歳、日野強二七歳、日清戦争が同二五五四年(一八九四)すなわち二年後に始まり、それぞれの消息については好事家の注目する的にもなるが、辰吉郎については、ほとんど関心が持たれることはない。それは辰吉郎本人の意と関係なく、辰吉郎と直接関係した時代の重役達が、自らの使命に比して測り得ない存在であり、その存在を表現すべき言葉を持たないからである。しかし、宇宙生命一端を担(にな)う人の使命は、過去と未来の連続性がなければ、現人神といえども要求度を満たすことはできず、その連続性に順えば、神格に達しない命ほ(いのち)ど、通史の接(つ)ぎ穂(ほ)として辰吉郎の事績(じせき)を知る必要がある。筆者は既に神格天皇が行う超克の型示しを著わし、その威徳に順う使命を明らかにしているため、言葉に不足は生じても、辰吉郎が混迷も極まる大陸で貫いた型示しは、本稿の課題完遂(かんすい)条件ゆえ明らかにせねばならない。
 辰吉郎三一歳の支那大陸入りは、明治天皇崩御二年前、皇太子嘉仁親王三二歳、皇家は既に裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)、雍仁(やすひと)親王(秩父宮)、宣仁(のぶひと)親王(高松宮)と相次ぎ降誕され国体安堵(あんど)が定まるも、支那は辛亥革命(一九一一)落着の前年に当たり、朝鮮半島も韓国併合条約で日本の総督府が設置された年である。当時、紫禁城(しきんじょう)(北京)の威容は、外郭(がいかく)の東西約七〇〇メートル、南北約一〇〇〇メートルが高い城壁で囲まれ、城内二分の南半(なんはん)が公式政治の場として、北半(ほくはん)が皇帝の私的生活の場に使われていた。建造物八〇余を設けた皇宮(こうぐう)は、宣統廃帝溥儀(ふぎ)の退出(一九二四)翌年、内務部古物陳列所の場を、故宮(こきゅう)博物院の名称に変えて、支那五〇〇年来の禁制地が初めて公開される。既に当時の情勢は本稿にも別冊『歴史の闇を禊祓う』にも書いており、この紫禁城北半の皇宮一つを寓居(ぐうきょ)とするのが堀川辰吉郎である。
 日清戦争講和(一八九五)後の独仏露による三国干渉は、日野本に書かれるように清朝人民の遺憾(いかん)とするところ、清朝皇帝の中華思想にも反するところであり、爾後(じご)の日露戦争(一九〇四~〇五)を踏まえ、支那は日本に勝手な期待を寄せていくのであるが、政府は方向性が異なるため、清朝重役は辰吉郎に救いを求めたのである。日本政府は三国同盟と三国協商の利権闘争を視野に捉えつつ、その津波のメカニズムが判らないまま、日露戦争勝利という勘違いのもと、大西洋(たいせいよう)戦争すなわち第一次世界大戦(一九一四~一八)に巻き込まれていくが、三国同盟(一八八二)に対する、三国協商の成立(一九〇七)を冷静に解析(かいせき)したのは大江山霊媒衆であり、その頂点に据(す)えられたのが辰吉郎である。植民地化の波が襲(おそ)う海外に分布して、大江山霊媒衆が行う情報分析を参考とし、その活動分野に広く深く潜入し得るのは、相手の信任なくして成り立つ訳がない。そこに働くエネルギー源は権力とか、財物とかの問題にあらず、悔いなき仕事に一命を投ずる覚悟であり、況や(いわん)先の戦争終結に貢献した覚悟の代表事例とは、無礼にも神風特攻隊の異名(いみょう)で呼ばれる若き命に尽きるが、この覚悟あればこそ歴史が支えられているのだ。
 紫禁城内に辰吉郎の小院を準備したのは、杉山茂丸ほか在野の志士であり、清朝皇帝の信任なければ、成立する話でもなく、ましてや力尽く何ぞ有り得る訳もなければ、入城が辛亥革命一年前という共時性が重要なのである。何ゆえ辛亥革命の臨時政府が南京(なんきん)という場を選んだのか、南京に中華民国臨時政府樹立(一九一二・一・一)、宣統帝(せんとうてい)退位(同年二・一二)、北京で袁世凱(えんせいがい)臨時大総統就任(同年三・一〇)、こうした共時性に伴う場の歴史に基づけば、清朝重役が辰吉郎に救いを求めるのは歴然だろう。同年六月八日に日野中佐は「陝西(せんせい)省方面ニ到リ諜報活動ニ従事シ、特ニ該方面ニ於ケル共和制反対党ノ動静ヲ偵知(ていち)スルヲ勉ムベシ」の辞令により、再び特務活動を展開していく。日本政府がドイツに宣戦布告(一九一四・八・二三)まず青島(チンタオ)を占領すると、同年一一月七日に軍政下へ置き対支那特務工作の中心地としており、この第一次世界大戦の終結後パリ講和会議で日本は山東省ドイツ権益を獲得する。このとき、日本政府は青島を含む膠(こう)州湾租借権も手に入れ都合勝手な支那を怒らせ、北京大学生の通称五四(ごし)運動を機に、支那大陸は日貨(にっか)排斥(はいせき)などの抗日運動を広げて、同じく都合勝手な日本政府の迷走図も加わると、ヨーロッパの飽和を象徴する運動インターナショナル思想に絡(から)め取られる。

●紫禁城皇帝と辰吉郎入営
辰吉郎の寓居(ぐうきょ)が紫禁城内(しきんじょうない)に定まり、宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ)(一九〇六~六七)五歳と辰吉郎が触れ合えば、それは王子と神格の出会いゆえ、瞬く(またた)間(ま)に溥儀が辰吉郎を慈父(じふ)と慕(した)うのは、至極(しごく)当然の位相であり、それを瞬時(しゅんじ)に感得するのが真の霊媒衆である。乱世のもと、生誕二年後三歳で皇帝の座に就く溥儀と比するに、袁世凱(えんせいがい)(一八五九~一九一六)五〇歳が双肩(そうけん)に担う課題は余りに重すぎた。新疆探査(しんきょうたんさ)のため、日野が北京を南下(一九〇六)して、最も早く訪ねたのは多賀(たが)宗之(むねゆき)であり、多賀は袁世凱の招聘で軍事顧問として、四年前から直隷(ちょくれい)省都の保定(ほてい)に駐留中とは前記しており、その並並ならない関係も暗示しておいた。それは上原多市、呉(ご)禄貞(ろくてい)、升允な(しょういん)どの段で明らかにしており、溥儀一七歳(一九二二)の師傅(しふ)に王国維(おうこくい)を推挙した升は、溥儀一九歳(一九二四)が紫禁城を出るとき、行を共にし天津(てんちん)の日本租界で没年(一九三〇)を迎えたと岡田は記している。この間に没する支那の象徴が袁世凱であり、孫文(一九二五)であるが、溥儀二九歳は満洲国創建(一九三四)を以て支那自立の道を目指した。その改暦を康徳帝(こうとくてい)元年と称する。
 皇紀二五七〇年(一九一〇)辰吉郎三一歳の紫禁城入営に添(そ)えると、復刻(ふっこく)日野本は貴い(たっと)情報を潜(ひそ)ませており、読書に辟易(へきえき)やまない筆者も刺激されるが、本稿監修の天童(てんどう)が何ゆえ読めと勧(すす)めたか、その閃き(ひらめ)が今さらのように見えてきた。前記の大宅は王仁三郎没(一九四八)時に吹き荒(すさ)ぶGHQ統制(とうせい)のなか、自虐(じぎゃく)的ジャーナリズム従属制に居残(いのこ)ると、自戒(じかい)を含め賤(いや)しさ極(きわ)まるマスコミの位相を暴(あば)くため、総白痴化(そうはくちか)の捨て台詞(せりふ)を吐くが「いま思うと王仁三郎の振るまい宜(むべ)なるかな」とも遺言(ゆいごん)している。大宅は地元茨木中学の風紀を乱して退学処分、東大文学部社会学科中退など、その反発力を糧として、マスコミの寵児(ちょうじ)に躍(おど)り出る道を歩むが、戦後の魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈す(ちょうりょうばっこ)る渦中に晒されるほど、かつて綾部大本を破壊した深層構造が念頭(ねんとう)から去らない。辰吉郎没(一九六六)四年後に死ぬ大宅が、王仁三郎の振るまい宜(むべ)なるかなの言(げん)は、戦後に辰吉郎の存在を知り得てからであり、当然その取材を試みたが相手にされる筈(はず)がない。死に神を背負う筆者が生きながらえ、本稿に取り組むなか、天童(てんどう)が筆者を活(い)かそうとする閃きは大宅と筋が異なり、何かを感じての公理(こうり)に通ずるもので邪気(じゃき)を含まない。以下その気風(きふう)を明らかにする。辰吉郎の入営に杉山茂丸(一八六四~一九三五)は欠くべからず存在であり、その働きあるがゆえ杉山も悔(く)いなき使命を全う(まっと)する幸運を得たのだ。
 杉山については、『歴史の闇を禊祓う』にも記したが、同二五五一年(一八九一)杉山二八歳のとき、玄洋社(げんようしゃ)の石炭交易を隠(かく)れ蓑(みの)とし、東洋浸食の拠点香港(ほんこん)を探(さぐ)る仕事を自らに課した。以後その往来(おうらい)を頻繁(ひんぱん)に繰り返すと、香港を舞台に国際勢力の動向を自らの肌身(はだみ)に刻み込んでいく。日清戦争講和後の三国干渉(一八九五)は、杉山三二歳にとり、自らの生死(せいし)に係(かか)る問題であり、それは公に身命(しんめい)を投ずる私の味わいであるが、以後、杉山は同郷官吏の金子堅太郎と親密に連携していく。もとより伊藤博文の殺害を企て政治運動に飛び込む杉山ゆえ、死に神を背負う自らの命運は承知しており、目の前に立ちはだかる壁また垣根が巨大なほど、それを乗り越えようとしていく性癖(せいへき)が止(や)まない。その渦中(かちゅう)で死ぬのは本望(ほんもう)ゆえ、自身が思いもしない運気も少なからず、その行き着く先には、自ら得た情報を剖判し得る霊媒エネルギーも待ち受ける。杉山の邪気を含まない霊媒エネルギーが最大に達したとき、そのエネルギーを受け止めた存在こそ真の大江山霊媒衆であり、それ以降の杉山は辰吉郎二〇歳の求心力を軸として、その遠心力たるフィールドワークは他の耳目(じもく)を惹(ひ)くエネルギーを持つようになる。
 同二五五九年(一八九九)から同二五七〇年(一九一〇)まで、即ち義和団(ぎわだん)結成の排外運動から、清朝が列強国に宣戦布告(一九〇〇)日本軍も出兵するが、それは日露戦争へ連関していき、南満州鉄道設立(一九〇六)、伊藤博文暗殺(一九〇九)など、外交上の諸問題に必ず杉山の存在があり、日本では大逆事件(たいぎゃくじけん)の検挙が開始(一九一〇)され、この年に杉山最大の仕事として、辰吉郎の紫禁城(しきんじょう)入営が決行されている。むろん杉山が如何(いか)に力んでみたところで成就な(じょうじゅ)るものではないが、その邪気を含まない働きは、真の霊媒衆が行う情報解読を承けて、多くの辰吉郎ネットワークを動かすエネルギーと成りえる。軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)の人物伝は自らの取材不足を恥じず、邪気を孕(はら)むため、その主人公に力を注ぐ必須の求心力に気付かないが、幾ら文章が達者であろうと、仮定と仮説で塗(ぬ)り固めた論説などは伝記を冒涜するだけの話にしかならない。以下この辰吉郎入営の仕事は何であるか、綾部大本講社の破壊(一九三五)に伴う共時性など、真贋・大江山系霊媒衆を見極める位相を明らかにし、過去と未来の連続性を透かしていく段に入ろう。

●辰吉郎入営の仕事とは
数理、物理、文理が使う術語に位相があり、数理は部分集合から組むある種の集合族を指すが、たとえば集合Aの部分集合で組む集合族をGとするとき、次の条件四つを充(み)たす場合はAの上の位相と定める。①AはGに属する。②空(くう)集合はGに属する。③Gに属する任意の個数を加えた和(わ)集合はGに属する。④Gに属する二つの集合の共通部分がまたGに属する。つまり、Aの他にも多くある位相のうち一つを指定するとき、これら条件四つを使いAの上の位相を定義するのが数理である。これトポロジーともいわれて、通常は位相空間論と位相幾何学とに大別され、位相が与えられた空間における集合や写像を研究する場合に使われる。また物理においては、単振動や波動のように、同じ運動が周期性をもつ場合一周期ごとに繰り返される変数の値をいい、振動や波動が時刻も場所も同じ状態なら同位相と見なしている。この物理に倣(なら)うのが文理で男女、年齢、職業、階層、地域に伴う会話や文章に現われてくる言葉の違いなどに応用されている。
 辰吉郎入営の仕事は、この位相を総合的に整理しないと意義が通じない。トポロジーは現時の電子分野を司る術であるが、このソフトウエアを取り込むハードウエアの経絡部(けいらくぶ)が構造不全のため、電子社会も果てしない攻防戦を繰り返すほかない現実がある。この因果応報を脱する参考事例として、辰吉郎入営の位相は簡潔(かんけつ)も極(きわ)まるのだ。昭和天皇の御製(ぎょせい)「日々(にちにち)の このわがゆく道を 正さむと かくれたる人の 声をもとむる」は、明らかに紫禁城に入営した辰吉郎の「成し得た仕事の位相を示されたい」という義を顕(あら)わすもので神格ならではの交接信号である。例えば、昭和の大戦終結に際して、敗戦に打ち拉(ひし)がれた日本を新開するため、神格天皇が行啓の挙(きょ)を決したのは、超克の型示しであり、その振る舞い何らの揺らぎもなく、その位相は辰吉郎の紫禁城入営に通じている。すなわち、地球全体から見れば、紫禁城は地域限定の一点(いってん)にすぎないが、当時このローカル駅は世界中に根を張るローカル線のターミナルに成り得ていた。ところが共時性を伴う位相の核様体(かくようたい)は飽和の態(てい)にあり、多細胞生命体の「一即多(いちそくた)、多即一(たそくいつ)」が分断されていた。
 辰吉郎の紫禁城(公地)入営には、神格ならではの位相が明白に見られる。場の歴史を貫く共通項を拾い上げると、公有地であれ、私有地であれ、場は自分の手が及ばない干渉行為により、その権利関係が突然消滅することがある。そこに共通するのは、理不尽たる投機的な病因が潜んでおり、公有地と私有地では明らかな位相の違いが見られる。さらに公有地の断層を掘り下げていけば、遍在的な生命活動の価値を創出する、神格ならではの堆積(たいせき)があり、その揺るぎのない型示しは、個々の私を吸引しつつ、私は等身大の場を分(わか)ち個々の生活価値を養う蓄え(たくわ)も重なる。この位相は聖地と呼ぶほかない。つまり、生命数が限られる日常生活は、時空を刻む場の歴史に支えられ、その歴史は、公たる意の働きから私たる物の働きを生み出していくが、その遠心力は核心を象る(かたど)求心力に連(つ)れるため、核心運動を司る求心力は「一即多、多即一」が本義なのだ。
 辰吉郎入営時の支那大陸は、東洋思想、西洋思想、妖怪インターナショナル妄想などの知が錯乱(さくらん)して、統御(とうぎょ)不能のローカル線が絡(から)み縺(もつ)れ合うなか、まさに核心の揺らぎは著しく凡(すべ)てが空(から)回りを続けていた。これぞ馬力本願が陥る人世(ひとよ)の位相であり、アマテラスの義を解(かい)せぬスサノオの実相なのである。言葉が正義とか力が正義と嘯く(うそぶ)偏向(へんこう)は、現時における国際条約が玉虫色ワードに依存していることでも証明されるが、当時の支那大陸は条約を結べば結ぶほど裏切られる現実に立往生していた。また技芸は単なる労働の成果で何らの付加価値も生み出さず、その流行(はや)り廃(すた)りは常に賞味期限が付きまとい、現時は処分費用が正味の数倍にも及ぶ負の技芸一色時代に廃り果てた。唯一付加価値を有するのは、技芸に先立つ要素であり、物質なら土地また物性なら因子が代表格といえようが、それもこれも宇宙万般のエネルギーが素(もと)であり、それらと交接し得る人の持ち味は意のほかない。実証現場も、論証現場も、その問われるところは結合法にあり、結合後の分解と復元に変質や変性があれば、物質と物性は恒久化を保てず、単なる徒花(あだばな)で散るしかない。つまり、分子構造の位相を剖判する義であるが、辰吉郎の振る舞いと型示しは、紫禁城の核心に揺らぐ因子を補正しながら、支那特有の求心力が働くよう環境を整えたのだ。

●敬天愛人の道義は死なず
皇紀二五七〇年(一九一〇)時の辰吉郎を核心として、その遠心力を強めていく在野(ざいや)の国士連(こくしれん)から、次の人名(生没年)を記すが、この脈絡に透ける統一場とは何か、共時性を伴う場の歴史は、史家の力量を試(ため)す問題を含んでいる。
 ★堀川辰吉郎(一八八〇~一九六六)当時三一歳(行年八七歳)
 ★杉山茂丸(一八六四~一九三五)同四七歳(同七二歳)
 ★内田良平(一八七四~一九三七)同三七歳(同六四歳)
 ★頭山 満(一八五五~一九四四)当時五六歳(行年九〇歳)
 ★日野 強(一八六五~一九二〇)同四六歳(同五六歳)
 ★出口清吉(一八七二~一九三九)同三九歳(同六八歳)
 ★大谷光瑞(一八七六~一九四八)同三五歳(同七三歳)

 日清戦争(一八九四~九五)から日露戦争(一九〇四~〇五)まで、その御破算(ごはさん)企図(きと)を剖判(ぼうはん)するのは容易でないが、維新の失政は西郷ら参議(さんぎ)の下野(げや)に端(たん)を発している。明治憲法発布は皇紀二五四九年(一八八九)二月一一日であるが、同二五三二年(一八七二)壬申二月に実施の戸籍法により、登記された総人口は三三一一万八二五人といわれ、兵部省は(ひょうぶしょう)陸軍および海軍の二省を設けて廃止、御親兵(ごしんぺい)も近衛部隊(このえぶたい)の設置で再編、学区と義務教育の制定もあり、改暦布告が出る前提に連(つら)なる。その翌年一月に徴兵令の(ちょうへいれい)布告があり、西郷ら参議の下野も決せられ、地租改正条令公布さらに内務省設置が施さ(ほどこ)れると、全国の各地に徴兵令反対一揆が勃発(ぼっぱつ)し始める。いわゆる征韓論(せいかんろん)(当時国名は朝鮮)の議は西郷ら参議の下野を歪曲する後付(あとづけ)であり、それは西南の役(えき)(一八七七)を政府の都合勝手で取り仕切る方便(ほうべん)にすぎない。その証は(あかし)二年後の国勢調査(一八七九)に通じており、平民(へいみん)全体の中に占める士卒(しそつ)の割合を出す住民基本台帳に隠されている。
 全国平均五・一九パーセント(約二〇人に一人)を士卒とする割合に対して、旧薩摩藩士卒は二六・三八パーセント(四人に一人以上)とされるが、この住民基本台帳の作成に何ゆえ士卒を算段する必要が生じたのか。官軍の将が居並ぶなか、筆頭格の西郷が何ゆえ官軍の賊となりしか、その事由は辟易やまないほど伝わるも、ただ慈悲の念を禁じ得ない論説だけでは、歴史が千切れるのも当たり前である。西郷自刃の翌年、帳じりを合わせる如く大久保も暗殺され、約三ヶ月後に近衛砲兵大隊の叛乱(竹橋事件)など、その禊祓は独り神格天皇の型示しに救われ、同二五三九年(一八七九)八月三一日に降誕されたのが明宮嘉仁親(はるのみやよしひと)王(大正天皇)であり、この年に前記の国勢調査が行われている。そして翌年産声を発した貴子(うづみこ)が堀川辰吉郎であり、同二五四一年(一八八一)には、明治天皇の詔書発布により、同二五五〇年(一八九〇)の国会開設が決せられる。大日本帝国憲法発布に至る間八年を費やす事由もまた、辟易やまない政府御用達(ごようたし)の弁舌で誤魔化(ごまか)すが、共時性を伴う場の歴史は未だ統一されていない。
 憲法に添(そ)う衆議院議員選挙法は、同時に貴族院令公布も伴うが、第一回衆議院議員の総選挙(一八九〇)を経て、同年一一月二九日に帝国議会の運びとなり、明治憲法の発効が現実となるも、すでに日清戦争の下敷きは進行していた。ここで最大の問題は戦争講和の準備を怠らないこと、それは西郷自刃と大久保暗殺の愚を繰り返さない、周密な意を含む敬天愛人の道義であるが、政府の間抜けは、その重大な遺訓を全く解(げ)せないでいた。敬天愛人は西郷に限らず、古来日本の連続性を貫く道義であり、幕末の大政奉還は維新政府の重役にとり、忘れるはずのない体認である。ところが、科学第一世代の実証に目が眩んだ軽佻浮薄の成り上がりは、公私(こうし)の分別を葬る開国の津波に慌(あわ)てふためき、曲学阿世(きょくがくあせい)の衛生劣化に感染するや、検証もないまま、科(とが)の学を奉ずる異教に取り込まれていた。蓋然性(がいぜんせい)を潜めた科学が連発する造語は、法理に彷徨(さまよ)う曲学阿世(きょくがくあせい)を刺激して、国際条約を結ぶ法制上解釈の先導役を果たし、その流行病(はやりやまい)は和魂洋才と称(たた)える妖怪も増産していた。
 サイエンス(知ること)は、電子の発見(一八九一)で天国と地獄を味わうが、現実の難儀を一手に担うのは国際政治であり、その結果として、万般の思潮が引かれ者の小唄に斉(ひと)しい御破算方式に取り込まれる。列強勢力は戦争を政策の手段とし、弱小勢力は思想的連携を革命の手段とし、その行く末は東西冷戦構造に連結して、いまだ互いに浮き沈みを続ける現実から脱せられないでいる。日清戦争に講和の準備を怠る政府に対して、杉山は次の日露開戦前に講和の準備を済ませ、脆弱な政府を補う在野の歩幅を活かしたが、その子細は『歴史の闇を禊祓う』に述べたので省くとする。これ西郷は死すとも、敬天愛人は死なず、西郷や大久保の本懐が在野に生き続けた証であり、以後、政府の軽佻を(けいちょう)補う日本精神は辰吉郎を求心力として、その遠心力を強めるが、以下その痕跡を浮かび上がらせる必要がある。何ゆえか、個人情報を弄ぶ勢力の千切り取り思想を放置しておくと、すでに起こり得ているが、電子に依存する時空の回転は速いため、核心の揺らぎ一つで遠心力は大きくぶれ、放射性元素の自爆(じばく)と同じく自壊(じかい)は瞬時に連鎖するからだ。

●道義を喪う政策の落とし穴
通説は西郷と大久保を対立させて、共時性を伴う場の歴史を誤魔化(ごまか)すが、これは現時(げんじ)の政治も踏襲す(とうしゅう)る性癖であり、道義の崩れた政策が行き詰まるとき、必ず言い訳に使う権力指向の方便にすぎない。神の子と仰ぐキリストを十字架に曝(さら)す思想は、その祟(たた)りを畏(おそ)れて西暦を定めるや、百年=一世紀の単位ごと「チェンジ」を装うが、その内実は分派分立に根ざす、異種混淆(こんこう)の移動民国家が興じ(きょう)る賭(か)け事(ごと)でしかない。たとえば、現時の日本社会を率(ひき)いる暴走勢力も伝染病の「百年に一度…」に冒され、日本の百年前を真摯(しんし)に振りかえる姿勢を一顧(いっこ)だに示さない。大陸二国との戦役を済ませたころ、即ち日本の百年前は戦費を調達するため、海外資本に国債や社債を委(ゆだ)ねており、赤字財政は今も変わらないが、現時債務は国民貯蓄が上回るため、日本は脆弱な(ぜいじゃく)政府を支える体力を有する。問題は物量的な心配なくても、精神的な強弱が百年前に劣るため、再び世界が御破産に揺らぐなか、同盟依存の政府は戦争も回避できず、いつか来た道に不様(ぶざま)を曝(さら)し続けている。
 個人情報を弄ぶ現時の千切り取り思想は、百年前の比ではなく、構造不全の電脳回路に宿る雑菌(ざっきん)が横溢(おういつ)して、先送り政策の「チェンジ」で御破産を繰り返している。人は五十歩百歩の生き物ゆえ、男が女に化けたり、女が男に化けたり、それを職能としたり、それに憧れたり、その性癖を払拭す(ふっしょく)ることは出来ないが、この「チェンジ」も千切り取り思想の為(な)せるところである。それもこれも、飽和状態を脱するため、道義を喪う(うしな)政策が生み出す落とし穴であり、その通史には、慈悲の念を禁じ得ない事象もあるが、連続性を絶つ私的行為は道義を逸(いっ)している。たとえば、男装(だんそう)で公に身命(しんめい)を投じた女傑(じょけつ)に玄洋社(げんようしゃ)設立の先駆け高場乱(たかばおさむ)あり、その意を継ぐ出口清吉の娘(羅龍(らりゅう))は馬賊の頭領として、満蒙間を結ぶため尽くした川島芳子など育てたが、道義を喪う政策が生み出す「チェンジ」は、私利私欲で連続性を絶つ行為を恥じず、その流行病(はやりやまい)を弄ぶ現実に興じ(きょう)ている。敬天愛人の公は政策に殺されたが、その意は辰吉郎を求心力として、その遠心力は世界各地に古くから潜在する在野の日本精神を刺激した。
 皇紀二六六九年(二〇〇九)時空を百年前に巻きもどせば、今の世界的状況を写像(しゃぞう)して余りある通史の連続性が浮かび上がる。史家は自らを省みるチャンスゆえ、日々(にちにち)の世相をリアルタイムで解(と)けば、現時の政策に歴史を読む力が働いているか、答は歴然で霊媒衆の真贋を見極めるのも大した労苦は伴わない。ただし、表層現象は結果であり、その結果は何が起因で生じたか、その深層構造に潜む連続性を証(あか)す力量が問われる。つまり、戦争に勝つ手段をサイエンスに転じて、その兵器が後遺症を伴うこと、その情報が欺(だま)し合う社会構造を生(う)むこと、その起因は百年前に盛んとなり、それらの結果は連続性を絶(た)つどころか様々な現象を表出している。他方この後遺症は似非教育に浸透して、日本の場合、無気力無責任な知的障害の官民がはびこり、神格を人格に貶め(おとし)て恥じないまま、伝統的に根ざす日本の貯蓄性向を担保とし、公金の私的流用が当たり前の総白痴化も表出された。それは政策に群がる官民すべての性癖であり、似非教育制度を脱しないかぎり、決して改良には至らないが、性癖は意に順え(したが)ば誰にも改良可能なことである。
 在野に潜む情報を掘り当てるには、国際政治に必須の条約すなわち玉虫色ワードを解(と)く能力あれば、誰にも可能であり、条件は誰にも取り憑(つ)く邪気(じゃき)を祓(はら)えばよく、難儀に屈せず敬天愛人の公を貫くことだ。猟官運(りょうかん)動に公は存在しない。邪気を孕(はら)まぬ子のハーモニーを聞くとき、その音は凛(りん)と韻(ひび)く風雅(ふうが)を醸(かも)し澄(す)み渡るが、その音域に行き交う霊言(たまこと)は開かれた空間の自在性を有して、超克の公が私一切を忘我(ぼうが)に導く力を備えている。これが紫禁城に入営した辰吉郎の道義ゆえ、溥儀五歳に備わる忘我と韻き合うなか、溥儀二〇歳に際して支那五〇〇年に及ぶ禁制地が開かれ、閉じられた空間を出る歴史の旅立ちとなるが、人の本能的属性が厄介(やっかい)なのは、自ら閉じられた空間を好む立身出世欲である。都合勝手な立身出世欲を操るのは、玉虫色ワードを多用する似非教育であり、蓋然性の閉じられた空間へ逃げ込む科学を放置したまま、国際政治は兵器の開発に熱中する現実もある。歴史を読む能力が問われる最大の職能は政策であるが、公(道義)の不在を自白して余りある政策は官から民への委任に勝るものがない。この発想こそ、在野で貫く敬天愛人に対して、道義不在の国際政治が自ら呪縛に陥る証で(あかし)はないのか。

●深層構造に潜む在野の情報
考古発掘が進む段で必ず浮かぶのは、政府が断を下す歴史の改めであるが、その改めは政策に関わるため、優柔不断(ゆうじゅうふだん)を伴う社会はジェネレーション・ギャップを抱えたまま似非教育だけが独り歩きする。この現実は核家族化の拡散を増長させて、いまや生活コストを支えるプライマリー・バランスを保てず、政府も果てしない財政悪化に右往左往を続けて描く未来図に信は集まらない。議会制民主主義のもと、与党だ野党だと騒いでも、現実の社会構造は国民全体が生み出すのだから、経世済民(けいせいさいみん)を求めるほど、その責任は自分に跳ね返るだけだ。さて、この現時に勝る塗炭(とたん)の苦しみを再生に導いたモデルこそ、深層構造に潜む在野の情報であり、常に改めを繰り返す情報とは完全に種(しゅ)が異なる。人は人たる生き方を欲しながら、人たる所以(ゆえん)を知性に求めるが、その知性が病(や)んでいれば使命の行く末も儚く(はかな)終わる。これが乱世(らんせい)と治世(ちせい)の違いで、日本の修羅(しゅら)は今後が本番である。
 古来ジャーナリズムはシャーマンに発するも、現時ジャーナリズムに根ざす本能は似非教育に病んでおり、その病に(やまい)気付いても免疫(めんえき)力が弱いため、自ら命を投じる取材も成果は得られず、深層構造に潜む情報は掘り起こせない。その象徴こそ現時「チェンジ」を持て囃(はや)し酔い痴(し)れる衆生の(しゅじょう)姿であるが、寄生本能も露(あら)わな現時ジャーナリズムは自ら壊れゆく儚さに気付かない。乱世に辰吉郎を求心力とし、その遠心力を強めた奉公(ほうこう)こそ治世を担う原動力であり、治世の猟官運(りょうかん)動は寄生体の駆動力ゆえ、常に保身の私利私欲が付きまとい公が遠のく危険と共存している。つまり、物質一種類が対で成る原則は、その治世を担う知性にも当てはまり、物証主義が高まるほど、政府も賞味期限が縮むばかりだ。維新改革制度は西洋の行政を輸入すると、和魂洋才という妖怪養育に公金を費やし、似非教育下に巣立つ妖怪は昭和の大戦を潜(くぐ)り抜けると、占領政策に従属して、玉虫色に化けていく祖国運営の要と(かなめ)なり、国権の最高機関を弄ぶ存在となる。結果、現時の日本社会は賞味期限を誤魔化す食品と同じように、国権の最高機関も賞味期間が短くなるばかり…。
 閑話休題(かんわきゅうだい)、古来日本の奉公に生きる在野の情報を掘り起こそう。皇紀暦を刻む前の日本列島は、先住民の集落ほか、渡来の移動民が加わるも、不飽和の状況下にあり、崇拝する信奉する宗教間に起こる争いも、互いに生活を脅かすまで至らないでいた。ところが天は異常気象をもたらし、地殻(ちかく)は下部(かぶ)マントル層の活動で津波や地震を引き起こし、結果的に生じる衛生劣化は生命メカニズムまで破壊していく。人知(じんち)を越えた大変動に慌(あわ)てふためく本能的属性は、不飽和を求め逆に飽和状態を生み出すことになり、その淘汰(とうた)現象を通じて自然発生的に求められたのが神格の統治能力で、超克の型示しが皇紀元年となる。奉公の神格モデルは皇紀暦制定前にも存在しており、先住民も渡来人も、その威徳に順い奉公を身に帯び各種の姓((かばね)家業)を設けていた。この姓に巣立つ異能の先達(せんたち)こそ、皇紀元年から世界各地に配置されて、天文気象ほか場の歴史を情報化のうえ、生涯を奉公に尽くし悔い無き人生と自覚する達人(たつじん)である。この先達は男女を問わず、幼年三歳ころから世界の結界(けっかい)領域を修験(しゅげん)の場とし、成年一五歳に達すると、その動向は広域に及んで、一旦緩急あ(いったんかんきゅう)れば義勇奉公これ天壌無窮の(てんじょうむきゅう)皇運(こううん)に身を委(ゆだ)ねて惜しまない。以下この先達を「皇統奉公衆」と仮称のうえ、大江山系霊媒衆や在野の浪士と区別、必要のとき書き加えていく。
 辰吉郎を核心の陽子とすれば、皇統奉公衆は中性子に相当し、在野の浪士が電子軌道を埋めていくなか、大江山系霊媒衆は陽電子の役に相当する。問題は放射性元素の如く自ら壊れるを恥じない政府にあり、その不規則運動は原子番号 ラジウムが同 ラドンに化け目を眩(くら)ますように、妖怪の立身出世は私利私欲に塗(まみ)れていくのだ。ゆえに在野の規則的な運動が政府に使役(しえき)されるなど、全く起こり得るはずもなく、因子が異なる奉公は種の違い歴然を証明している。この原則に気付かぬ史観が似非教育の本質なのだ。さて道義不在の乱世に当たり、袁世凱は溥儀一一歳時に没し、孫文は溥儀二〇歳時に没するが、その間に溥儀は辰吉郎を慈父(じふ)の如く敬い成長する。溥儀一七歳に際して、王国維(おうこくい)を師傅(しふ)に推挙した升允六五歳は没八年前に当たり、その生涯に年少一四歳の清吉を深く信頼して、杉山とも強い結び付きのもと、日蒙親善の運動にも大きく寄与貢献している。日野は辰吉郎の入営前年に没するが、王仁三郎に入蒙を促した第一人者であり、在野に潜む情報を知らずして玉虫色の歴史本を渉猟しても、過去と未来の連続性は道義が通らないのだ。

●辰吉郎入営三五年の要路
皇紀二五七〇年(明治四三年)から同二六〇五年(昭和二〇年)まで、辰吉郎の入営は皇統奉公衆を通じて、神格天皇三代の禊祓に順い働くなか、日本政府の頽落(たいらく)を補うだけに止(とど)まらず、敗戦後の外地乱世を緩和するため、世界各地に重大な痕跡を刻んでいる。この皇統奉公衆の勇躍(ゆうやく)は潜在性が道義であり、それがまた奉公の本義であるため、霊媒衆また在野浪士の働きに同化しても、その連続性を保つ伝承法は完全一線を画(かく)している。筆者が何ゆえ彼らとの所縁(ゆかり)を持ち得たかは、論じても詮(せん)ない話であり、この起稿途中で死するも筆者の命運ゆえ仕方がない。本稿の特徴は、政府御用達(ごようたし)の疑史(ぎし)に重複しないこと、さらに史家を装う売文情報に与(くみ)しないことが本筋である。個人情報が知りたければ、日本の住民基本台帳を編む霊媒衆を取材したり、通史の玉虫色を解(と)きたければ、実証現場に潜む機密情報を取材すれば済む話であり、いずれも分解と復元を繰り返していけば、千切り取りの剥離は必ず偽物(にせもの)と判明し、本物は剖(わか)れることが判(わか)るように教えてくれるものだ。
 皇統奉公衆は多国語を自在に操るが、日本語のとき、重要部分は必ず大和言葉を用いる性癖を有する。無駄口(むだぐち)一切なく、その仕種(しぐさ)は柔和(にゅうわ)であるが、大胆な所作(しょさ)のなか、時々その気配(けはい)を断つ場合があり、俊敏と持久という相反する両極を備えており、修羅を知る筆者も脱帽するほかない。日露戦争五年後から昭和大戦終結年まで、この間三五年これ人の平均寿命に受容可能な年数であり、共時性を伴う場の歴史が多種多様であろうと、支那大陸をターミナルとして、世界的ローカル線が入り込む状況を剖判(ぼうはん)していけば、その立体構造が過去と未来の連続性に通じるのは歴然と浮かび上がる。日本の場合、政策を蹂躙す(じゅうりん)る猟官運動の増長は止まらず、軍閥が頽落(たいらく)していく様(さま)は改まらず、天誅は関東大震災を以て形に顕(あら)われるが、政府は神格天皇の禊祓に頼るだけ、青年将校発起二・二六事件すら神格天皇直裁という御心痛を患わ(わずら)す始末となる。支那大陸では、欧米露が混み合う大陸文明の列強勢力により、すでに植民地化されていたアフリカ、アジアを巻き込んで、いかにも西洋式風俗ならではのインターナショナリズムまで吹き荒れるなか、肝心要の北京は自立政府が不在という為体で(ていたらく)あり、辰吉郎の入営なければ、あるいは満洲建国なければ、現在の北京政府は成立しようのない痕跡を刻んでいる。
 前記●敬天愛人の道議は死なず記載の人物は、堀川辰吉郎を除くと、史家の知るところ少なからず、彼ら自身が得た情報の解析に際しては、その情報と解析を補うため、大江山霊媒衆が加わることもある。しかし、皇統奉公衆の場合、その身に帯びる情報の価値観は全く異なり、神格以外に判断不能の事案が多くある。つまり、皇紀暦以前の不飽和状態に巣立つ彼らのネットワークは、不飽和を保つ遺伝子が備わるとともに、飽和状態の到来と超克のプロセスも遺伝情報に組み込まれており、その伝承一貫性は連綿して、厳しい環境状況で育まれるため、奉公の心髄が骨身に染み込んでいる。たとえば、未曾有の天災など起こると、人の本能的属性は天災に人災を加える事例は多くあり、そのとき、政策を預る職能の杜撰(ずさん)さとか、日常の危機管理不足など表面化するが、皇統奉公衆は危険を日常的に体認するため、公私の分別を瞬時に透徹して、至高の行動成果を挙げるのだ。それは悠久不断の遺伝情報とともに、その情報の普遍性を保つ日常生活がなければ、瞬発的に出会う緊急事案に対して、奉公の神髄を極める結果など生まれない。辰吉郎入営三五年の要路に皇統奉公衆は不可欠の存在であり、それがゆえ、辰吉郎を求心力に遠心力を強めて働いた杉山らも、辰吉郎に関する情報は表現しようがないのだ。
 論壇(ろんだん)が賑(にぎ)わう思潮は何処より生まれたか、これも発祥はシャーマンにあり、その神託が功を成すと信仰が広がり、やがて神は正体不明のまま、宗教化されるが、人の都合勝手を統治に導くため、統帥権(とうすいけん)を伴う議会が生まれ、論壇の場が賑わうようになる。これら場の歴史を掘り起こすとき、共時性を粗末に扱う史観は道義が通らず、必ず歴史認識の違いで争いの火種が燻る(くすぶ)ようになる。燻る火種が燃えさかるのは、天変地異により、人の本能的属性が暴走するとき、これ飽和状態に陥る始まり、誰もが知り得ることであるが、これを天変地異でなく、人為的に企むのがマッチ・ポンプであり、放火と消火を仕掛けられ支那大陸は世界規模の戦場地とされた。その火種は中華思想と西欧中心主義にあり、その根が互いに絡み合い、もつれ合うようになれば、閉じられた空間のなか、養分を奪(うば)い合うのは必然であり、思想とか、主義とかは、開かれた空間の千切り取りでしかない。結果、養分枯渇(こかつ)の根はうら枯れを免れず、地上に浮き上がり、天日に曝(さら)され、風が吹き荒(すさ)べば摩擦(まさつ)で火がおこり、山火事の如く燃え盛(さか)る火種が散るのも当たり前ではないか。この火種を最小単位に鎮(しず)めるのが、辰吉郎入営の要路であり、そこに皇統奉公衆が働く素地がある。

●溥儀の紫禁城退出動機
辰吉郎入営の初仕事は宣統帝(せんとうてい)(溥儀(ふぎ))退位の環境整備であり、南京(なんきん)に臨時政府の樹立が成ると、翌月溥儀退位すなわち支那は廃帝(はいてい)時代となり、その翌月には袁世凱(えんせいがい)が北京(ぺきん)で臨時大総統に就任したが、大言壮語は中華思想の性癖ゆえ大総統も祝着と(しゅうちゃく)ならず、翌年(一九一三)李列鈞(り れっきん)(江西都督)らの反袁世凱運動が起こる。つまり、山西省都(さんせいしょうと)のクーデターに始まる南京政府樹立を第一革命とすれば、江西省都(こうせいしょうと)の独立宣言は第二革命であり、孫文(そんぶん)ら南京側も袁糾弾に呼応したが、李は北洋陸軍に打ち克(か)てず、袁もまた三年後に没して群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)の幕開けとなる。これ辰吉郎入営六年の間である。この間に日野は「共和制反対党ノ動静を偵知(ていち)スル…」の辞令(じれい)を受けて、廃帝四ヶ月後に支那へ出向き、その帰朝報告(一九一三)を済ませ、大佐に昇進すぐ予備役編入となるが、再び支那に渡るや、青島(チンタオ)を本拠に日支合弁の会社を経営したと日野本はいう。また宗社党(そうしゃとう)や革命党の士と交流して、支那人社会に受け容れられたともいうが、宗社党は清朝擁護派(しんちょうようごは)の再興(さいこう)運動であり、その真反対(まはんたい)が革命党ゆえ、幾ら日野が優れた特務といえども、簡単に済む話でなく、そこに潜む多くの謎を解く課題があり、その謎は皇統奉公衆を知らずして解くことは出来ないのだ。
 日本政府は対独宣戦布告(一九一四・八・二三)を発して、第一次世界大戦に参戦この停戦(一九一八)は欧州で決まり、翌年パリ講和会議で決せられた内容は、日本が青島を含む膠州湾の(こうしゅうわん)租借権(そしゃくけん)ほか、支那大陸にドイツが保有する権益の譲渡(じょうと)と定められた。ここに重大な歴史認識のズレを生じる問題があり、通称五四(ごし)運動が抗日(こうにち)を盛んとし、以後反日(はんにち)が本格化するという通説が現在に尾を引いている。そもそも世界大戦の結果に生じる問題は日支間の位相を越えており、共時性を伴う場の位相を統一総合しなければ、何のため世界大戦と呼ぶのか道義が通らないではないか。すなわち、火種は国際労働者協会創設(一八六二)に端(たん)を発しており、第一インターナショナルはパリ・コミューンの理屈論争で消し炭(すみ)の如く散らされ、第二インター(一八八九~一九一四)も結果は同様であり、次の第三インター(コミンテルン)に及ぶ間の火種は、支那大陸に撒(ま)き散らされ、その燻り続ける思想という火種は消し炭ゆえ、燃え盛るのも簡単で矛先(ほこさき)は日本政府に向けられた。これも日露戦争を上手(うま)く鎮(しず)めた在野の労苦に対して、爾後(じご)の外交を迂闊(うかつ)に過ごす日本政府の権益抗争に要因があり、その主犯こそ中華思想を読めない和魂洋才なのだ
 ロシア一〇月革命(一九一七)の二年後ボリシェヴィキ(のちソ連共産党)は、第一回モスクワ大会を開催二一ヶ国の代表が参じており、世界革命と称する実現を目指し各国へ支援を行うと宣言レーニンがデビューする。他方ミラノ(イタリア)ではムッソリーニが戦闘ファッショを結成(一九一九)し、社会党や共産党と武力衝突その勢力は議会三五の議席(一九二一)を占めて、翌年には国王から組閣を命じられている。またドイツ労働党ヒトラーと貴族ゲーリングの会合(一九二二)は、貧困層ナチ党と上流階級を結び付けて後の政権成立(一九三三)に達していく。これら共時性を伴う場の動向を含めずに、支那反日運動の推移を読むだけなら、その視野は単なる千切り取りゆえ、現時ジャーナリズム商業一色と何ら変わらず、その自虐感情が亡国に向かうのも宜なるかなである。この間に辰吉郎は閉じられた空間の紫禁城を開かれた空間へ導くため、皇統奉公衆の報告を受けて行く先を透かし、自ら溥儀を養育のうえ、支那特有の訓育は王国維に託していた。
 皇紀二五八一年(一九二一)は大正天皇在位一〇年に当たり、皇太子裕仁親王二一歳の御学問所解散とともに、欧州歴訪六ヶ月の旅、帰国後の同年一一月二五日に摂政宮となる位相ゆえ、共時性を伴う場の歴史は重大な節目を刻むことになる。詳述は別記で記すほか許されないが、渡欧先の滞在国はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、バチカンを含むイタリアに限定されていた。随行(ずいこう)は閑院(かんいん)宮載仁(ことひと)親王元帥(げんすい)以下三四人、乗員を運ぶのは改装された軍艦(ぐんかん)香取(かとり)で護衛艦(ごえいかん)を従え同年三月三日に離日した。この重大事もまた世界的な共時性を伴う場の歴史ゆえ、神格皇太子の禊祓は(みそぎはらひ)満願(まんがん)の目的を達したが、帰国二ヶ月後に首相原敬は(たかし)鉄道転轍手(てんてつしゅ)二〇歳に刺殺された。つまり、内外風雲が吹き荒ぶなか、その経世済民を問われる日本政府は、自ら国運の定まる先を読めず、神格皇統の渡航反対に説得も成し得ないまま、その醜態を(しゅうたい)晒(さら)したため、旧土佐藩士の血を継ぐ中岡艮一(こんいち)が政権責任者の首相を封じたのであるが、これ政治に絡む遺恨(いこん)と違う公なのだ。それを政治的謀略と読み違えるのが、似非教育下の性癖であり、そんな推理を弄ぶ風俗を募らせるがゆえ、歴史が千切り取られるのである。それはさておき、この神格皇太子の渡欧に潜む情報こそが溥儀旅立ちの仕度(したく)であり、皇統奉公衆の本領に通じていく筋となる。

●皇太子裕仁親王の神格
皇紀二五八三年(一九二三)摂政宮裕仁親王は、北白川宮能久(よしひさ)親王の御霊(みたま)を鎮魂(ちんこん)のため台湾に行啓する。日清戦争講和の条約により、能久親王(一八四七~九五)は台湾平定に向かうが、享年一〇月二八日に現地で薨去(こうきょ)された。のち台湾に設けられる神社六八のうち能久親王を祀るのは五八あり、その評価については諸説あるも、神格の意に通じない話は論じても詮ない説ゆえ、行啓の義も的外(まとはず)れが多くある。総督府総務長官の賀来(かく)佐賀太郎(さかたろう)が説く親王(しんのう)の道徳(どうとく)と仁慈(じんじ)にしても、様々な捉(とら)え方(かた)あるのは仕方ないことであり、この行啓を終えて摂政宮が帰国すると、日本政府を揺るがす天誅二つが降(くだ)される。一つは日本共産党創設が発覚したこと、もう一つは関東大震災であり、いずれも神格皇太子に不敬(ふけい)を重ねる天罰が政府を襲うのである。同年一二月二七日に難波(なんば)大助が起こす事件は、関東大震災で延期された神格御成婚の儀を再び遅らせるものであり、山本権兵衛(ごんべえ)内閣の総辞職、警視庁総監罷免(ひめん)と管轄(かんかつ)地一般警官の免職など、共時性を伴う場の歴史は千切り取りを許されない歴史を刻んでいる。因みに難波事件は虎ノ門事件とも呼ばれている。
 翌二五八四年(一九二四)一月二六日、立太子礼(一九一六)を機に隔靴掻痒(かっかそうよう)の干渉が始まるも、数次の騒乱を超克した神格皇太子御成婚の儀が挙行された。この間に台頭これ著しいアメリカはワシントン会議(一九二一)を開催して、欧州列強に仲間入り、日本は対米六割比率を承認せざるを得なくなる。また事実上の対ボリシェヴィキ戦(一九一八~二二)もあるなか、陸軍は三度の人員削減(一九二二~二四)海軍は主力艦の建造中止に追い込まれ、山県(やまがた)没(一九二二)さらに政党内閣制開始(一九二四)など、擬似(ぎじ)天皇制が陥る先は神格以外に知る由(よし)もない。以後、統帥権の独り歩きが始まり、政党の間抜け和魂洋才が埋めるも、文民に軍の暴走を封じる手立てないなか、支那朝廷の再生と日本社会を救うため、辰吉郎と神格皇太子を結ぶ仕事は皇統奉公衆がフル回転する。皇太子御成婚の祝着を奇貨(きか)として、辰吉郎は溥儀を日本租界へ移すため、随伴(ずいはん)の王国維や升允など含めた護衛に皇統奉公衆を用いている。孫文没(一九二五)に際しては、支那五〇〇年の禁制地公開を決行して、支那人の愛国心を慰めるなど、時局柄こんな発想も断行も支那に当事者能力なく、神格以外に成し得ない事績また歴然ではないか。
 翌二五八五年(一九二五)宇垣(うがき)陸相は「中学生以上の軍事教練に、現役将校を配属する許可を得たい」と摂政宮に上奏し(じょうそう)た。これ文官と武官の間に衝突を引き起こし、教育界は侃々諤々(かんかんがくがく)の議(ぎ)で揺らぐも、腐食頽落(ふしょくたいらく)が進む軍閥(ぐんばつ)抗争を戒め(いまし)るとともに、軍部内に燻る(くすぶ)鎮撫(ちんぶ)効能(こうのう)および妖怪覚醒の良剤た(りょうざい)るは否(いな)めない。この上奏を陸相の発想と読むのが、物証しか信じない官吏(かんり)の限界であり、このとき陸相が宇垣というだけで、宇垣は単なる増長ゆえの発心(ほっしん)にすぎない。大正天皇の意を継ぐ皇太子は、以後、辰吉郎の紫禁城入営に関する機密情報を受け取りながら、自ら軍事関係の行啓に時空を使い分ける。同年八月五日、葉山に待機する戦艦長門(ながと)に乗るのは、摂政宮、高松宮、久邇宮(くにのみや)の青年将校であり、駆逐艦(くちくかん)四隻(せき)を伴い最北の樺太(からふと)(サハリン南部)大泊港を(おおどまりこう)目指した。日本人居留民六万ほどの歓迎を受け上陸すると、連日行幸の視察に教育環境や産業現場は当然として、最も時間をかけたのは樺太特有の植物観察と記録されている。これぞ神格の神格たる所以であり、万世一系これ歴代の生命メカニズムは、共時性を伴う場の歴史にあり、空と海と陸の滋養(じよう)に生かされる植物を知ることは、その土壌(どじょう)(鉱物)と動物を知ることに通じて、そこに手を加える人の生き方あれば、これ先住アイヌ民族ゆえに、深く敬意を表する意味を含むのだ。
 樺太で会得(えとく)した時代の気風を東京に持ち帰る皇太子は、日光滞在中の天皇と皇后を訪ね自ら覚(おぼ)えた認識を奏上す(そうじょう)るや、大正天皇その禊祓に安堵(あんど)の念を深くし、貞明(ていめい)皇后その皇祖皇宗に感銘を奉じて、新婚生活も僅かな良子(ながこ)妃殿下の高い霊性に皇太子を託する。政府は第四九議会(一九二四)から第五二議会(一九二五)まで、加藤高明を首班に護憲三派の政党連合体制が主導するも、私利私欲の脆(もろ)さは議会内抗争を再燃(さいねん)させて、その争う火種は常に都合勝手な天皇制解釈を名分に使用していた。結果、太政官(だじょうかん)制度の廃止以来、初めて法律上の「国体」が問われる事態となり、その議は不毛も極まり、祖国を暗黒に導く夜郎(やろう)自大(じだい)が跳梁跋扈そ(ちょうりょうばっこ)の様(さま)は省(はぶ)くが、これを救う禊祓は常に神格のほかなく、大正天皇崩御と昭和天皇即位により、辛うじて幕末維新の二の舞は繰り返されずに済んでいる。これらの型示しは歴代神格の常道であり、孝明天皇崩御の際も同じこと、このときも神格の型示し未曾有の危険を封じる禊祓に救われた。ところが、聖地の所以を知らないまま、統治権と統帥権を弄ぶ社会は、神格を東京行宮に閉じ込める愚策を改めようとせず、自ら袋小路(ふくろこうじ)に迷い込む政策を連発するようになる。

●大嘗祭と東京行宮の贖罪
 皇紀二五八六年(一九二六)一二月二五日、大正天皇四八年崩御を受け継ぐ昭和天皇は宝寿二六歳、皇統その第一二四代目の即位であり、同二五八八年(一九二八)一一月六日京都へ還幸その四日後に祭祀(さいし)を行い、参列およそ二七〇〇人の前で次の勅(みことのり)を発する。

朕(ちん)内(うち)は則(すなわ)ち教化(きょうか)を醇厚(しゅんこう)にし愈(いよいよ)民心(みんしん)の和合(わごう)を致(いた)し益(ますます)国運(こくうん)の隆昌(りゅうしょう)を進(すす)めんことを念(ねが)ひ外(そと)は則ち国交(こっこう)を親善(しんぜん)にし永(なが)く世界(せかい)の平和(へいわ)を保(たも)ち普(あまね)く人類(じんるい)の福祉(ふくし)を益(えき)さんことを冀(ねが)ふ爾(なんじ)有(ゆう)衆(しゅう)其(そ)れ心(こころ)を協(かな)へ力(ちから)を戮(あわ)せ私(わたくし)を忘(わす)れ公(おおやけ)に奉(ほう)し以(もっ)て朕が志(こころざし)を弼成(ひっせい)し朕をして祖宗(そそう)作(さく)述(じゅつ)の遺烈(いれつ)を揚(あ)げ以て祖宗神霊(しんれい)の降鑒(こうかん)に対(こた)ふることを得(え)しめよ

同月一四日の静夜(せいや)から一五日の未明(みめい)まで続く大嘗祭は(だいじょうさい)、儀仗兵(ぎじょうへい)が居並ぶなか、公式参列が祭祀用の社殿(しゃでん)に近い座席を埋め尽くし、絹の白生地(しろきじ)斎服(さいふく)を纏(まと)う天皇が采女(うねめ)と掌典を(しょうてん)先導に歩を進めて、木造(もくぞう)建屋(たてや)三棟(さんとう)の社殿へ独り身を潜めていく。最初の社殿で沐浴(もくよく)その身を浄(きよ)め高天原(たかまのはら)の降臨(こうりん)を振る舞うと、次に扈従(こしょう)らと廊下を進んでいき、東方の悠紀殿(ゆきでん)、また西方の主基殿(すきでん)において、独り聖儀(せいぎ)を行うのであるが、両殿の中には御衾(おぶすま)、神座(かむくら)、御座(みくら)が設え(しつら)られ修験の超克が待ち受ける。天皇は自らの身に御衾を重ねると、皇祖皇宗(スメラミオヤスメラオンハシラ)の体認まで超克を尽くし、天照大神(アマテラス)と同位相の悠久を覚えたとき、その神々に与えられし、供え物を奉じて現人神(あらひとがみ)に蘇る(よみがえ)のである。さて東京行宮の贖罪は以下の如し。
 同年支那大陸では、三月に南京(なんきん)の英米(えいべい)領事館が革命軍兵士に襲われ、揚子江(ようすこう)に駐屯中の英米軍艦は直(ただ)ちに市街へ砲撃開始、これ日本領事館も襲(おそ)われたが、このとき日本軍は既(すで)に撤兵(てっぺい)しており、政府は何ら手立てを講(こう)じられないでいた。唯一(ゆいいつ)日本の被害を最小限に食(く)い止(と)めたのは正体不明の働きであり、のち紅卍会と(こうまんじかい)噂が流れて、辰吉郎と結ぶ仮説を建てる話もあるが、実相は皇統奉公衆の働きである。以後、支那国民革命軍は北上を続け北京(ぺきん)へ向かうとの情報もあり、日本は第六師団五〇〇〇人の部隊を青島(チンタオ)に派遣(はけん)した。五月に政府派遣軍は支那革命軍と最初の衝突これ済南(さいなん)事件と呼ばれ、翌年初頭(しょとう)まで決め手を欠くまま長引(ながび)くが、この間六月四日に起こるのが張作霖爆殺事件であり、この主犯説は視野の狭い仮定と仮説に惑(まど)わされ、共時性を伴う場の歴史は無視これ現在に尾を引いている。火種が尽きない世界事象は八月パリ会議の開催となり、日本は不戦条約と言うが、日本以外ではケロッグ=ブリアンと呼び「国家政策の手段としての戦争を放棄し、紛争紛議一切は平和的手段で処理解決する」との趣旨で条約締結される。さて何ゆえのためか、これぞ国家を預る政府が悩むコミンテルンの存在であり、その革命思想は国家=宿主(やどぬし)に巣くう寄生体で既にロシアは立場が逆転しており、他の国々も侵蝕き(しんしょく)びしい状況下にあり、日本も例外に非(あら)ず、この条約は平和と逆のコミンテルンに対する宣戦布告なのだ。
 不戦条約すなわち戦争放棄は現行法にも規定され、現在は集団自衛権とか平和貢献とか騒いでいるが、その解釈「何でもあり」は語るも虚(むな)しい劣化(れっか)ぶりである。翌二五八九年の世界最大ニュースは、かつて史上最大のロードマップを支配したローマ帝国にあり、国王皇帝と勢力二分した法王教皇の模様替えが行われ、世界最小の場にして、世界最大の力を潜ませるバチカン市国が成立したことだろう。既(すで)に大江山系霊媒衆も潜入そのうちミイラ取りがミイラとなる現実もあり、昭和大戦後のイスラエル建国にも通じており、現時ではパレスチナとの間で迷走やまない現実を抱えている。宗教は斯(か)くも虚しい歴史を刻むなか平和を希求(ききゅう)しているが、これ他人事(ひとごと)ではなく、神格の意を解(かい)せない日本政府が満洲建国の義を崩してしまう歴史にも通じている。これ宿主と寄生体が一対(いっつい)で成る生命メカニズムに遵え(したが)ず、自ら飽和に陥る高熱症状に原因があり、張作霖爆殺の呪縛(じゅばく)に慌(あわ)てふためき、疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)の連鎖(れんさ)を生み出す事象に通じる。昨今、この主犯はコミンテルンという説が浮上する始末もあるが、当時日本の高熱症状を検診すれば、その要因は治安維持法制定(一九二五)に端を発しており、改定(一九二八)後ヒートアップ著しい様(さま)は、戦後GHQによるパージと同じゆえ、こんな暴力はコスモポリタンの発想でしか浮かびようがない。もはや支那大陸の実相は日本の運命そのものとなる。
 同年一〇月二四日、株価破綻(はたん)は金本位制の崩壊を意味して、その恐慌(教皇も)は国際社会に前例のない影響を及ぼすことになる。関東軍高級参謀河本大佐の後任は石原中佐が赴任(ふにん)しており、東三省((とうさんしょう)満州)軍閥(ぐんばつ)は張作霖の子の学良が(がくりょう)引き継いで、その支配する地は南京国民政府の支配下に統合されていた。日本議会は調印済の不戦条約をめぐり、後々(あとあと)も侃々諤々(かんかんがくがく)の解釈論に明け暮れたが、その最大テーマが満州における租借権に尽きることは疑いようがない。しかし、この課題もまた通説は千切り取りでしかない。つまり、清国(しんこく)と日本の締結条約に満州租借権があり、のち南満州鉄道設立(一九〇六)など、日本が施す(ほどこ)政策は開拓のみならず、張作霖(地方軍閥)を支持その経営に協力して、列強が力尽くで得た植民地化政策とは完全異質なのだ。不戦条約パリ会議で日本の全権大使(枢密(すうみつ)顧問官内田康哉(やすや))は、その経緯(いきさつ)を説かず、本音が異なる条約規定に調印してしまうのだ。今さら国内で井(い)の中の蛙に(かわず)等しい鳴き声を発しても、国外に通用するはずなく、張作霖の後継が南京国民政府に統合されるよう、その仕掛けを施せば、もはや不戦条約により、国際法を操る玉虫色ワードは、日本の満州租借権を無効にするなど簡単である。

●満州建国への道のり①
張作霖爆殺と同じ工作は戦史の常であるが、政党間抗争と軍閥抗争に揺らぐ日本は私が公を司る本末転倒のもと、支那反日感情の対策に追われ、自虐(じぎゃく)史観と圧政(あっせい)史観が錯綜(さくそう)する呪縛に絡(から)め取られる。大正天皇崩御三日後すなわち元号「昭和」が公式発表の日、政府の首班加藤高明(本姓服部)没すぐ若槻(わかつき)禮次郎(れいじろう)(内相)が臨時兼任その三日後、正式に若槻政権組閣この内閣四ヶ月を持ち堪(こた)えず、後継田中義一(ぎいち)政権二年三ヶ月弱の退陣は、張作霖爆殺約一ヶ月後であり、次の浜口雄幸(おさち)政権(一九二九~三一)は、大恐慌、ロンドン海軍条約、佐郷屋留雄(さごうやとめお)の襲撃などあり、再登板の第二次若槻政権も八ヶ月で終わり、これ継ぐ犬養毅政(いぬかいたけし)権は約五ヶ月後の海軍青年将校五・一五事件により、犬養没これ蔵相の高橋是清臨時兼任(一一日間)となる。以後、齋藤實政(さいとうまこと)権二年一ヶ月強があり、岡田啓介(けいすけ)政権一年八ヶ月の終末に発生するのが二・二六事件(一九三六)である。すなわち、昭和の幕開け早々から戒厳令布告まで、その史談は尽きないが、共時性を伴う場の歴史は何れも、国際外交と切り離せず、そこに潜む情報を掘り起こさないと、最も卑劣な私利私欲に公は骨の髄までしゃぶられるのだ。これ現在その私利私欲が充満に達している。
 浜口は満州事変の前夜に没したが、同年七月に満州万宝山(まんぽうざん)(長春近郊)で支那と朝鮮の住民衝突事件が起こる。これ朝鮮に飛び火して、全土で朝鮮人が支那居留民を襲い殺害も少なからず、その責任は何と日本総督府へ向けられ、今度は支那全土で日本製ボイコット運動の広がりが急を告げる。以後の経歴は、東京国際軍事裁判史観の暴走に政府が怯(おび)える始末ゆえ、田母神(たもがみ)論文(二〇〇八)レベルで大騒ぎするが、過去と未来の連続性は何事も正直な現実を生み出すのだ。そもそも満州事変の如きは歴史の常であり、各国政府と国際革命が互いに利己欲を競い争うなか、南京地方自治体の訴えを、何ゆえ国際連盟理事会が受理する必要を生じたのか、その工作も然りであるが、それが読めない日本政府も乱世を透(す)かす能力など持ち合せないのだ。連盟理事会は日支双方にケロッグ=ブリアンの協定を発動して、日本に同年一一月一六日を期限の占領地撤退を求める議決を済ませた。通説は以後満洲建国の話が持ち上がり、関東軍立案について、天皇も宮中グループも何らの異を唱えずといい、第二次若槻内閣が同年一二月一三日に総辞職したと伝える。
 辰吉郎は入営当初に清朝再生を視野に捉えており、その意は皇統奉公衆を通じて東京の昭和天皇にも通じている。通説の宮中グループはともかく、天皇が満洲建国に特段の異を顕(あら)わさないのは、清朝再興について、辰吉郎に絶対の信を託していたからだ。奉天で対日協力支那人らと関東軍司令部による会議(一九三二)は、同年二月一六日に行われ、東北行政委員会設立のもと、翌々日、この委員会は満洲建国その独立を決した。翌月一二日に犬養政権は、支那大陸内に満洲および内蒙古(うちもうこ)の分離、さらに独立国家建設の推進に承認の方向性を明らかにし、その法的整備に当たる旨(むね)を政府方針と定める。ここに至る具体的な経過は侃々諤々の議あるが、諸説ああ言えば、こう言う詮(せん)ない話であり、都合勝手な歴史認識のもと、閉じられた空間で競い争う理屈抗争に本稿は与(くみ)さない。満州事変それは錦(きん)州占領さらに上海事(しゃんはい)変への流れとなるが、その節々(ふしぶし)で戦火を打ち消す超克は独り神格天皇で余人(よじん)を以て故(ゆえ)なしは歴然だろう。その型示しが満洲建国なのだ。
 犬養政権の閣内不一致は、上海事変で高熱症状の伝播(でんぱ)が若い純心に広がり、前政権大蔵大臣の井上準之助、また三井合名理事長の団琢磨(だんたくま)が相次ぎ暗殺され、犬養殺害に止(とど)まらず政友会本部、日本銀行、警視庁の襲撃にまで及んだ。さらに内大臣(ないだいじん)牧野伸顕(のぶあき)の官邸に投げ込まれた爆弾は、宮中グループ浄化(じょうか)のビラも巻き散らした。この青年将校による重大事は陸海軍上層の心胆(しんたん)を揺るがし、議会二分の政党内閣に信は集まらず、立憲制支持で安住に堕(だ)した宮中グループにも陰(かげ)りを生じさせた。共時性を伴う場の歴史においては、イタリア式ファシズム、ドイツ式ナチズム、ソヴィエト式ボリシェヴィキ、また英米仏(えいべいふつ)の協商ビジネスなど、総じて戦争準備に勤(いそ)しむ体制に追われていた。特に米国ハーバート・フーバー政権は満洲建国に真っ向から反対を表明するや、その大統領の経歴に相応(ふさわ)しく諜報工作の限りを尽くし、支那団を囮に(おとり)国際連盟理事会ネゴシェーション攻勢を強めていた。それは植民政策で成り上がる国家の性癖であり、列強国の共有資質ゆえに、世界恐慌を脱するに当たり、日本に恨みはなくとも、支那の権益拡大に日本は余計と算段したのだ。

●満洲建国への道のり②
 皇紀二五九〇年(一九三〇)を機に宮中グループに登壇するのは、世襲貴族の三代目に当たる近衛文麿(このえふみまろ)(公爵)、木戸幸一(きどこういち)(侯爵)、原田熊雄(はらだくまお)(男爵)らであり、牧野内大臣の秘書官長時代の木戸日記は広く知られる。同二五九三年(一九三三)一月一四日、閑院宮参謀総長が昭和天皇に「満州への部隊増派」を奏上したとき、牧野や木戸の記録によると天皇は「満州に付(つい)ては此(こ)れまで都合好く進み来(きた)りたり、誠に幸な(さいわい)り、今後功(こう)一簣(いっき)を欠く様(よう)の事ありては遺憾(いかん)なれば、熱河(ねっか)方面に付ては特に慎重に処置すべし」と伝わる。この伝(でん)が核心を得るか否かは、解釈様々(さまざま)あることから答は歴然であり、書記官の能力が問われても天皇の語録(ごろく)には成り得ないのだ。すなわち、この伝は辰吉郎の進める満洲建国に支障など生じぬよう、意が通じる閑院宮載仁親王に十分な配慮を要請したのである。先には、日清戦争後の台湾平定で北白川宮能久親王が薨去され、その行啓で得た公に臨(のぞ)む大御心(おおみごころ)の実践覚悟があり、三国(さんごく)干渉で遼東半(りょうとう)島を清国(しんこく)に返還するなど、神格の透徹史観には微塵(みじん)も私が入り込む余地などないのだ。
 さて満州増派の事由であるが、ケロッグ=ブリアンを名分(めいぶん)に日本包囲網を狭(せば)める各国の動きを見ると、既にソ連は極東軍再編のため、対ヨーロッパ空軍部隊を移動させ、さらに太平洋艦隊の強化も急いでいた。それは曰(いわ)く因縁の断続性(だんぞくせい)があるも、アメリカは最も支那侵攻の後発ゆえ、その手詰りと焦りを打開するため、最適は日本をターゲットにするのが最も手早いと作戦を組んでいた。北平(ペイピン)(北京(ぺきん))の紫禁城(現天安門)と天津(テンチン)の日本租界を結ぶライン、また北京ー奉天(ほうてん)の鉄道ラインには錦州があり、満洲建国に熱河省(ねっかしょう)を行き交うロードマップは必須の条件であり、日本は早くに南満州鉄道を敷設(ふせつ)しており、清朝復活に熱河を抑(おさ)えるのは、最重要課題ゆえ相応の準備を要する。これを通説は日本軍による熱河侵攻というが、後年の歴史が証明するように、南京(なんきん)政府は国共合作など経(へ)るや、最終的に支那八路(はちろ)(露)軍と国民政府の戦と(いくさ)なり、大陸は支那八路軍が収奪し(しゅうだつ)て、国民政府は台湾掠奪の(りゃくだつ)植民地化を果たし、現時は敗戦国日本の賠償で成り立つ現実を享受している。似非教育下に巣立つ史観は勝てば官軍と逆上(のぼ)せて、負ければ賊軍と自虐に酔い痴(し)れ自ら矜恃(きょうじ)を喪うが、戦後日本の政策まさに典型と言わざるを得ない。
 茂丸没二年前、良平没四年前、清吉没六年前、それぞれ死に神を背負う公には、相応の遠心力を伴う働きがあり、それは溥儀の側辺にも働いており、辰吉郎の意は皇統奉公衆が代行するも、そこには何一つ合議の場を要しないまま、核心を出て核心へ戻る物質恒久化リサイクル・システムの運動が保たれていた。それが公の原義なのだ。これに比する私のメカニズムは核心が知で成るため、常に意を尽くす禊祓を欠かせないのであるが、不規則運動を常とする機関に慣(な)れてしまうと、独りに堪(た)えられず、赤信号みんなが渡れば恐さも感じない不良に化(ば)けていく。かつて筆者は高松宮宣仁(のぶひと)親王殿下に問(と)うを許された。それは青年将校五・一五事件に加わる在野の志に(こころざし)関する問いであるが、宮は「当時、海軍一部に第二の同様事件を醸(かも)す空気は消えておらず、その目的の禊祓は重大ゆえ…」と思(おぼ)し召(め)され「通常ロンドン条約に係(かか)る問題を第一段といい、社会改造は第二段という考え方が伝わり広まるが、第一段は軍内首脳に向けての不平不信を何とかして一糸(いっし)も乱れぬよう整備する目標を抱えており、第二段は政党の腐敗(ふはい)、財閥(ざいばつ)の横暴(おうぼう)、農村の疲弊(ひへい)、道徳の堕落(だらく)、為政(いせい)の態度、等々の社会問題であり、条約問題は副(ふく)とも思えるが、大部分の純心を汲み取る公が法に適(かな)わぬは、我が身の不徳かな…」と諭(さと)された。この事件は将兵が軍司法機構で結審(けっしん)を受けるが、民間人は一般法廷で裁(さば)かれ、その刑の軽重は大きな違いを生じており、筆者は宮の思し召しを賜る(たまわ)までは、独り国賊(こくぞく)たらん死に方を潜ませていたのだ。
 克己自立(こっきじりつ)すなわち禊祓が不足していると、皇統奉公衆の生き様は理解できず、杉山らの生き方に接しても意味はなく、単なる想像を巡(めぐ)らす幻覚しか浮かばない。図書を渉猟して自分の好みに惚(ほ)れるのは勝手だろうが、誰が何して何とやらより、自分自身が先人の遺訓超克を為(な)さねば、先人に苦笑されるのが精精(せいぜい)ではないのか。どうあれ、南京自治体と列強勢力に潜む算段合致の結果は、支那八路軍が革命ソ連と結びつき、中華人民軍が米国方(べいこくかた)と結びつき、その接合は国際連盟(れんめい)に剥離(はくり)現象を引き起こし、大戦後に綻び(ほころ)を繕い(つくろ)化ける国際連合(れんごう)が現在を賑(にぎ)わしている。日本の国際連盟脱退(一九三三)は、齋藤政権二月二十日に決せられ、同月二四日の連盟会議で満洲国否認が決まると、三月二七日に日本政府は連盟脱退を正式に通告している。つまり、満洲建国記念日の決め方については、史家の解釈も様々あるが、暦法これ総じて皇紀暦に比するものなく、万世一系また比するものない歴史認識が重大なのである。通説は溥儀執政(しっせい)年間を皇紀二五九二年(一九三二)から翌年まで大同と号して、同二五九四年(一九三四)から同二六〇五年(一九四五)まで溥儀皇帝の康徳年間と号するが、この算段こそが歴史の千切り取りなのである。

●満洲建国の義は今も死なず
 溥儀二七歳(一九三二)の執政を傀儡(かいらい)政権と見なす発想は、神格の振る舞いと型示しを解(かい)せない民主化一念ゆえ仕方ないが、溥儀は行年六二歳(一九六七)すなわち辰吉郎没の翌年に生涯を閉じるまで、辰吉郎を慈父と敬う姿勢は微塵も揺るがない。これ視界を広げ満洲建国と国際連盟脱退の時空を見ると、列強文明は世界恐慌により、内政の動乱は在来保守と革命思想が混濁(こんだく)それは前記しているが、こうしたとき、歴史の常は外政に振り向け国内の目を逸(そ)らす政策が常道である。その象徴が戦争なのは言うまでもない。ナチズムやファシズムはベルサイユ体制の破壊に勤(いそ)しみ、東インド会社ロンドン設立(一六〇〇)と歩(ほ)を合わせるイギリスは、該(がい)会社の広東(かんとん)商館設置(一七一五)また該会社のイギリス政府統合(一七八四)さらに対支(たいし)アヘン戦争など、その経歴を踏まえ、満州建国へ向かう清朝再生に強い警戒を抱(いだ)いていた。その証が(あかし)保護貿易主義への転換であり、特恵的(とっけいてき)な関税(かんぜい)障壁スターリング・ブロックを設ける決議に顕(あら)われている。他方(たほう)アメリカは新大統領フランクリン・ルーズベルトのもと、経済復興ニューディール政策を講(こう)じながら、より低い関税で相互貿易協定を結ぶ背反(はいはん)の矛盾(むじゅん)を施し(ほどこ)ている。この手前勝手な孤立主義は南部黒人差別を放置したまま、西半球およびフィリピンの対日輸出減少策に顕われる。これら欧米の都合勝手を上回るのが革命思想である。
 帝国ロシアを破壊した民主勢力ソ連は、何とも奇怪(きかい)な強権運営を行うが、似非教育下の論説これを共産党独裁と称して、民主化に対峙(たいじ)させたり、資本自由市場と単一統制市場に対峙させたり、未だ本末転倒の屁理屈(へりくつ)を止(や)めない。どうあれ、東西冷戦構造という理屈はダブルスタンダードであり、互いに民主化を進める点では何も変わらず、その主権を機関投資家にするか、労働組合にするかの違いだけだろう。また経営支配権の行使は投資家と操り人形の談合(だんごう)で決せられ、それを労組(ろうそ)の専従委員が認証する仕組みでしかなく、社会も政権も会社も誰のモノか何ぞ議論しても意味はない。それを侃々諤々の議に仕立て上げる化け物がジャーナリズムであり、その情報を高値(たかね)で買うか安値(やすね)で買うか、それは買い手が決めようとも、内容は天気予報と同じ当たるも八卦の占いと何ら変わらない。ソ連の計画経済を支える予算の裏付けは、満州という地の利を活かした場の簒奪(さんだつ)が主体であり、これ他人のモノを自分のモノと思い込む労組の性癖に通じている。つまり、過去と未来を結ぶ連続性を読むには、不連続線が生じる気圧メカニズムも把握(はあく)する必要があり、満洲建国に伴う場の共時性を見渡すと、天気予報レベルの情報では済まないのだ。
 皇紀二五九六年(一九三六)二月二六日、陸軍青年将校の決起事件が発生これ先の海軍青年将校決起四年後ゆえ、如何なる理屈を講じようとも、高松宮宣仁親王殿下の思し召し以外その的確(てきかく)さを顕わすものはない。その事由五・一五事件の裁(さば)きは、官と民を差別する不合理な司法措置を講じたが、その禊祓二・二六事件の裁きは、官民の別なく死刑銃殺の司法措置が執(と)られた。前に筆者は宮殿下の諭旨(ゆし)を「…」に止(とど)めたが、これこそ司法公正を念じる奉公の祈願であり、神格天皇が御心痛超克の直裁を降す導きにより、在野の奉公が喩(たと)え思い込みにすぎなくとも、純心は鎮魂(ちんこん)冥土(めいど)に達していく筋に救われるのだ。銃殺刑に処せられる段で北一輝(きたいっき)が「天皇陛下万歳」という伝(でん)あるが、奉公に置き換えれば官と民を分け隔(へだ)てなく裁く法務は理想であり、死に神を背負う奉公の本懐(ほんかい)なのである。もはや祖国平定は神格の禊祓以外になく、天皇は民(たみ)を救うが、民に天皇を救う何ぞ出来るはずのない現実がある。政府は西郷を賊としたが、明治天皇の国会開設詔書は西郷の汚名を打ち消す浄化の禊祓となり、昭和天皇の戒厳令発布は官民公正の裁きとなり、もとより、死に神を背負う奉公は神格天皇にのみ救われるが、その覚悟こそ「天皇制護持」の意であり、先の大戦における「総玉砕」(そうぎょくさい)にも通じて、現在が生かされているのだ。
 弛緩(しかん)が著しくなるとき、天意は必ず人為を戒めるが、その天変地異もまた人為の結果で起因探究を怠ると、歴史は再び繰り返される。岡田政権を継ぐ廣田弘毅(ひろたこうき)政権一年弱、次の林銑十郎政(せんじゅうろう)権四ヶ月二日、第一次近衛文麿政権(一九三七・六~三九・一)、平沼騏一郎(きいちろう)政権八ヶ月弱、阿部信行(のぶゆき)政権四ヶ月半、米内光政(よないみつまさ)政権六ヶ月六日、第二次と第三次の近衛政権(一九四〇・一~四一・一〇)、東條英機(とうじょうひでき)政権(~四四・七)、小磯國昭(こいそくにあきら)政権八ヶ月半、鈴木貫太郎(かんたろう)政権(一九四五・四~同年八・一七)つまり、大正天皇崩御後二〇年間に組閣は歴代二四~四二回であるが、同様に昭和天皇崩御後二〇年間も歴代七四~九二回の組閣ゆえ、両時代とも一八回の組閣を要しているのだ。この損傷も著しい二〇年の節目を刻むに際して、唯一の救いは新天皇の即位と大嘗祭であるが、通史一貫する連続性に満洲建国の道のりも重大な痕跡であり、現時と今後を透かす史観には必須なのだ。

●大江山系霊媒衆の真贋透徹
 さて、これまで本題の核心を透徹するため、共時性を伴う場の歴史から、主要な位相を写し出したが、そろそろ本稿の締め括りに歩を進めていきたい。通説の文明史を認識する前に必要な心がまえは、考古発掘の都度(つど)、常に焼き直し止(や)まない図書渉猟にあり、記紀が後発の所以(ゆえん)を解(と)けば史観の基礎(きそ)も透(す)けて見える。何処(いずこ)の場であれ、史書の出発点は神話に始まり、そこに登場する神々は何時(いつ)しか場の領域を定めるようになり、やがて場の歴史は人に置き換えられるが、むろん神話の作者は人ゆえに、神の正体を証(あか)さないかぎり、場の領域を奪い合う歴史に落とし処は定まらない。考古発掘と図書渉猟の経験則(けいけんそく)に基づく歴史認識もあるが、単なる重(かさ)ね合わせ論は、現時の実証現場では通用せず、照合の解き方さえ多くの問題を含むのが現状である。それもこれも、結合体の分解と復元を成し得ない剖判軽視に原因があり、剖判の義を究(きわ)めれば、記紀が描く神々は音=波その字=粒が対発生(ついはっせい)と分かり、そこに大江山系霊媒衆の真贋も透けてくるのだ。つまり、大江山系は記紀が描く世界共通の性癖を意味するが、日本の大江山に巣立つ霊媒衆は例証となりえる。
 結論を簡潔に示すと、真(しん)は役行者(皇統奉公衆)と大江山系奉公衆を指しており、贋(にせ)は大江山系スサノオ信仰衆と教団マルチ宗教衆のことであり、本義と虚偽は奉公か奉私(ほうし)かで定まるが、前者と後者の分別は立身出世欲に顕われる。如何なる事象にもポテンシャルを含む質量があり、そこに潜むエネルギーが弱まれば、その場の歴史は地層に沈むほかなく埋(う)もれる。これを掘り起こすのがジャーナリズムの本務(ほんむ)であるが、現時ジャーナリズムの実際は奉私であるため、過去と未来の連続性は透けてこない。潜在力とは氷山の(ひょうざん)ごとしで核心に及ぶほど、不純物(ふじゅんぶつ)の侵入を許さない仕組みがあり、その透明性こそが奉公に尽くす恒久化エネルギーを生み出すのである。核心に不純物を集める製氷は(せいひょう)広く知られ、現在は透明と偽る(いつわ)製氷も見られるが、食品添加物(しょくひんてんかぶつ)と同じ紛(まが)い物(もの)に欺(だま)されるのは、氷山の一角だけ見る粗末ゆえ、瞬く間にポテンシャルも尽きてしまうのである。
 昭和元年の若槻政権から戦争終結の鈴木政権まで組閣一八回に照らし、平成元年からは竹下登政(たけしたのぼる)権一年七ヶ月弱、宇野宗佑(うのそうすけ)政権二ヶ月七日、第一次と第二次の海部俊樹(かいふとしき)政権(一九八九・八~九一・一一)、宮沢喜一(みやざわきいち)政権一年九ヶ月四日、細川護煕(ほそかわもりひろ)政権一〇ヶ月二十日、羽田孜(はたつとむ)政権二ヶ月二日、村山富市(むらやまとみいち)政権一年六ヶ月余り、第一次と第二次の橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)政権(一九九六・一一~九八・七・三〇)、小渕恵三(おぶちけいぞう)政権(~二〇〇〇・四)、第一次と第二次の森喜朗(もりよしろう)政権一年二一日、第一次~第三次の小泉純一郎政(こいずみじゅんいちろう)権(二〇〇一・四・二六~〇六・九)、安倍晋三(あべしんぞう)政権一年一日、福田康夫(ふくだやすお)政権一年弱、麻生太郎(あそうたろう)政権(二〇〇八・九月~)と継(つ)がれている。この間(かん)いわゆる五五年体制ひび割れ現象のもと、自民党の下野(げや)また自民党と社会党の残滓(ざんし)による合従連衡な(がっしょうれんこう)どあり、いま最終局面たる教団と陣笠代議員(じんがさだいぎいん)とが組む政権により、私利私欲に塗(まみ)れた社会は終末を迎えている。ポテンシャルを使い果たし途方(とほう)に暮(く)れる未来を透かすと、鮮明に浮かび上がるのは歴史の連続性であり、その原型は皇紀暦のほかなく、そこに活路を見出すのは史家以外に誰が為(な)せようか。
 歴史は繰り返される。何ゆえか、過去と未来の連続性なければ、生命メカニズムの場は保持できず、場に根ざす遺伝情報すなわち歴史なくして人は生きられず、その歴史を読む能力如何(いかん)により、未来は透けてくるが、そこには場の共時性と潜在力また天変地異などの総合設計能力が問われてくる。これら連続性で皇紀暦に優る現実はなく、その万世一系は聖地に根ざし、未来の透徹モデルが生まれ、皇統奉公衆の源流も同じ巣立ちとなる。いま満洲建国の義に立ち返るとき、その場は何処(いずこ)に当たり、今昔の日本政府を動かす原動力と駆動力はなにか、また関東軍などに比するべき現時の存在とはなにか、その要素とすべき因子を手繰り出して、当時の原風景を写し出せば、現下に展開される世界情勢の相似性は歴然と顕われるではないか。たかが一二〇年に満たない立憲議会制のもと、組閣九二回も施す呪縛とはなにか、施政に民意を汲み取るのは今昔常道であり、公を頼りに私の生活を築く素地も今昔常道であり、社会が頽落していく原因は公その問題一点だけだろう。人が他の動物と違うのは、不自然な二足歩行を成長の証と見なす点であり、その間に自ら身に帯びる必然性は養う力の偉大さではないのか。

●克己自立の公とはなにか
黄道(おうどう)(太陽系軌道)を公転(こうてん)しながら、白道(はくどう)(衛星系軌道)を伴い自転(じてん)する惑星すなわち月と地球の関係は、公と(おおやけ)自=私(わたくし)で成り立つ生命の起源であり、与えるのみ見返り求めない陽光と月光に生かされている。而(しか)して、人は陽光と月光に順う(したが)のが道義であり、人が都合勝手に振る舞えば、相応の天誅が降(くだ)されるのも宜(むべ)なるかなである。これ公の義なり、この義に順うとき、人は養う力を体認のうえ、教える処ま(ところ)た禁じる処を身に帯びて、豊穣な(ほうじょう)る克己自立(こっきじりつ)の道が啓(ひら)けるのである。これまた教育の淵源(えんげん)であり、この体認を経(へ)ないまま子を養えば、養われる子は養う力を知らず、教わる力また禁じられる力も覚(さと)らず、ただ利己(りこ)に埋没(まいぼつ)するほかない。この頑是(がんぜ)ない幼子(おさなご)を似非教育下に追いやり、子の情緒を(じょうちょ)損(そこ)なう境遇で(きょうぐう)遊(あそ)ばせれば、凶暴性を兼(か)ね備える純真は(じゅんしん)、早熟の(そうじゅく)知力これ奸計(かんけい)をめぐらし、早熟の体力は暴走をくりかえし、競い争い欺し合う風潮の波及も当たり前である。
 現時教育環境は結果を伝えるのみ、結果の丸呑みで学位を配(くば)る制度は、対症療法と(たいしょうりょうほう)何ら変わらず、抗生物質(こうせいぶっしつ)と耐性菌(たいせいきん)が「イタチごっこ」を繰り返すだけ、結果を生み出す起因も知らないまま、単なる従僕連絡係を(じゅうぼくれんらくがかり)教職員と偽れ(いつわ)ば、鶏が(にわとり)先か卵が(たまご)先かのゲームに親(した)しむ子は仮想空間へ身を潜ませる。而して、子は知りたきを知らされず、不信が募(つの)る風俗性を脱するため、電子バーチャル空間の虜に(とりこ)なるのも必然であり、奸計と暴走その狭間(はざま)に周章(しゅうしょう)狼狽(ろうばい)の本能的属性三種により、現実空間を破壊しようとする衝動に(しょうどう)駆(か)られる。他方(たほう)すでに似非教育下で学歴社会を謳歌(おうか)した生(い)ける屍ら(しかばね)は、互いに絡(から)み合い縺(もつ)れ合い圧(へ)し合う様相を続けるうち、結び目も綻び(ほころ)目も判(わか)らなくなる社会を出現させており、千切り取るほかない思考認知症のもと、何でもチェンジの繰り返しに埋没している。政策だとか政局だとかの問題ではなく、凡(すべ)ては似非教育の学校制度に集束す(しゅうそく)るほかない現実があり、公を知らない生ける屍が教育環境を嘆(なげ)いても詮(せん)ない話ばかり、克己自立を促す(うなが)には、養う力の偉大(いだい)さが何処(いずこ)に存(そん)するか、その体認が先決(せんけつ)と実践(じっせん)するほかないのである。
 皇紀二六六九年(二〇〇九)すなわち平成二一年は、大江山系霊媒衆の真贋を見極(みきわ)める最適年(さいてきねん)であり、同時に史家の力量も厳しく問(と)われる年(とし)となる。時空を二〇年前に巻き戻し場の歴史を振りかえれば、労使共闘の東西冷戦構造が弾(はじ)けており、第三局の支那も天安門事件により、市場開放のロードマップは再び支那大陸にターミナルを敷(し)き終えた。日本も労使共闘すなわち自民党と社会党による談合政治が弾き飛ばされ、官僚統制も様変(さまが)わりを免れず、労使共闘に第三局の教団(公明党)を政権へ取り込む化(ば)け方(かた)をした。これら洋(よう)の如何(いかん)を問わない共時性は何ゆえ起こり得るのか、実体構造は成り行き任せにあるが、これ設計図法に置き換えれば、国王と法王の両頭政治が好例であり、人は五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)の証と(あかし)も成るが、このダブル・スタンダードに霊操を加えたのが似非教育の源流であり、蓋然性(がいぜんせい)を伴う科学万能(ばんのう)主義が巣立つと、宗教を装う教条主義は政治の第三局となる。つまり、立憲政治にとり、中華思想や仏教思想は第三局にすぎないため、玉虫色政治が行き詰まるとき生(い)け贄(にえ)の運命は免れなくなる。
 陽光も月光も現時は電光を以て代行する時代であるが、通称九・一一事件は終日電光で成り立つ文明の脆(もろ)さを象徴する出来事ではないのか。つまり、光(こう)は公(こう)そのもの電光もまた公(こう)でなければならないが、世界貿易センタービルを照らす光(こう)と公(こう)の関係を省み(かえり)れば、克己自立の公で(おおやけ)運営されたという痕跡は見当たらない。更(さら)なる不様(ぶざま)は後始末(あとしまつ)にあり、いかなる理屈を用いようとも、公転と自転の運動メカニズムは何一つ見当たらない。もはや千切り取りようのない私が明らかになるだけであり、これまでは隠(かく)しおおせた私利私欲が見るも無残に表面化している。その連続性一端が現在進行形の金融恐慌であるが、単なる結果に慌てふためいても、その起因が判らなければ未来は透かせない。通称九・一一事件を海軍青年将校五・一五事件、また陸軍青年将校二・二六事件に照らすなら、現下(げんか)の金融恐慌を西暦一世紀すなわち百年に一度と嘯く(うそぶ)暖気(のんき)な洒落(しゃれ)で済ます何ぞ論外である。教皇の冠に(かんむり)は金融が憑(つ)き物だとしても、金融はポテンシャルなくして成り立たず、教皇がモスクを訪問礼拝した含意(がんい)を解(と)きほぐすなら、これも既(すで)に潜在力が乏(とぼ)しい顕(あら)われであり、キリスト教とイスラム教のダブル・スタンダードに惑(まど)わされていれば、日本の貯蓄性向も瞬く間に軍票廃棄処分にされる運命は免れまい。

●御用史観の隠謀と謀略
通説の盤双六(ばんすごろく)はインドに始まり、支那大陸を経由、日本に渡来したといい、その初見は奈良時代以前とされ、古くから賭(か)け事(ごと)に用いられたという。このゲームは賭け事に興じる戯れ(たわむ)ではあるが、盤上に棋子(きし)(駒石)を並べておき、采(さい)(サイコロ)二個を木か竹の筒に入れ・振り出し・目の数だけ棋子を進め、相手の陣営(じんえい)に早く入る方(ほう)が勝(かち)というもの。これ江戸前期に絵双六(えすごろく)が出ると民(たみ)の間に(あいだ)広まるが、この種(しゅ)ゲームの原型(げんけい)かはさておき、過去と未来の連続性により、囲碁(いご)、将棋(しょうぎ)、麻雀、(マージャン)歌留多(かるた)など、またイリュージョン・マジックの系まで、数え上げればキリのない類似(るいじ)ゲームが続出しており、現在の電子化社会では老若(ろうにゃく)男女(だんじょ)その場も問わず、仮想空間に身を曝(さら)す現実との確執(かくしつ)が多く見られる。いずれも流行(はや)り廃(すた)りあるが、その変遷(へんせん)は遺伝情報に基づいており、人の本能的属性でもあり、場の歴史に伴う共時性で見れば、その養分(ようぶん)の多くは隠謀(いんぼう)や謀略に(ぼうりゃく)費消(ひしょう)されている。
 本能的属性の利己欲(りこよく)を満たすには、現実と未来図の錯綜(さくそう)空間を彷徨(さまよ)いつつ、その不安定要因を取り除くため、自他(じた)の隠謀や謀略にエネルギーを費消して、自らの仮想空間を作る場合もあれば、疲労困憊(こんぱい)して利己欲を投げ出す場合もある。ところが、行政機構は個人と異なり、職能を投げ出すことは許されないため、公私(こうし)の分別(ぶんべつ)を前提として、様々な隠謀や謀略を想定のうえ、改変(かいへん)やまない御用史観に基づき未来図の設計に取り組んでいる。似非教育下の最大過失(かしつ)ここに存(そん)する。すなわち、公は私を率(ひき)いる要素ゆえに、唯一(ゆいいつ)付加価値を持つエネルギー源であり、労働の成果に過ぎない技芸(ぎげい)の分別を前提とする何ぞは、以(もっ)ての外(ほか)であり、同時に隠謀や謀略に乏しい御用史観で未来図を描けば、現下の利己欲に応じた政策など出来ようはずもなければ、未来ビジョン何ぞは文字通り幻覚(げんかく)にすぎない。これら盤双六以下の能力しか発揮し得ないのが似非教育の特質である。前記の通り、奉公は現象成果を生み出す潜在力こそが資源であり、氷山の一角しか見ない御用史観では現実は疎(おろ)か未来さえ負の遺産に押し潰(つぶ)される。
 現下の金融恐慌という千切り取り思想のもと、政府紙幣の発行はどうかという莫迦(ばか)げた歴史認識がある。本誌安西稿の足下(あしもと)にも及ばない史観であり、すでにポテンシャル枯渇(こかつ)の時代に亡骸(なきがら)を曝(さら)して何とする。流通経済を促す通貨の信用力とは、本位財に伴う潜在力に依存するほかなく、その根幹を成すのは、共時性を伴う場の歴史にあり、付加価値を生み出す要素すなわちポテンシャルが決め手となるのだ。昔年(せきねん)の埋蔵金(まいぞうきん)とか、近年のM(エム)資金に斉(ひと)しき呆(ほう)け話のように、宗教的信奉あるいは軍事力崇拝により、隠謀や謀略を以て一過性通貨を捻(ひね)り出せば、その果てが戦争へ通じるのは古今(ここん)の教えではないか。つまり、宗教的信奉の銀行不倒神話は既(すで)に宴の(うたげ)彼方(かなた)に葬ら(ほうむ)れ、軍事力崇拝の軍票が(ぐんぴょう)戦場に消える事例など遑な(いとま)くあり、しかも、預金封鎖や軍票廃棄など政府は平然と御破産するのだ。直近の教皇託宣に「我々は科学を認めるが、我々を救うのは神である」の言(げん)あり、相(あい)も変わらず神の存在を唱(とな)えるが、科学の生(う)みの親である神は旧態依然のまま済ませている。これ記紀では科学第一世代を蛭子(霊流子(ひるこ))と述べ、未熟も極まる段を示すが、現時の実証科学現場を知れば、すでに三柱貴子す(みはしらのうづみこ)なわちアマテラス、ツクヨミ、スサノオの正体は明確に論じる段に進んでおり、あとは真の霊媒衆による論証を俟(ま)つだけである。
 因みに通説の蛭子説に触れておく必要がある。
 神話イザナギ、イザナミの男女二柱(だんじょにちゅう)の間に産まれた最初の子ヒルコは、三年を過ごすも脚(あし)が立たず、流し捨てられたといわれる。この「日る子」はアマテラスの別名である「大(おほ)日?尊」(ひるめのみこと)に比する意を含んでおり、アマテラスを女またヒルコを男に喩(たと)えるが、これ中世以後エビスの尊称となり、海上や漁業の神あるいは商売繁盛の神とされ、七福神(しちふくじん)の一つで鯛(たい)を釣り上げる姿に風折烏帽子(かぜおりえぼし)を被(かむ)ることで知られる。エビスも三歳まで脚が立たないと伝わり、歪(ゆが)んだ形や不正常な様相の形容に使い福の神に肖る(あやか)願いを込める。エビスは漢字表記で蛭子、蝦夷、恵比寿、恵比須、戎、夷、胡などあり、恵比須網端(あば)とか恵比須石また戎金(かね)とか戎紙など枕にエビスを載せる熟語が多くある。すなわち、仮想空間であれ、御用史観であれ、盤双六系の隠謀や謀略は想定の範囲内に限られるがゆえ、その限界値は公を保つ潜在的エネルギー量を基準にすれば、通貨の信用力は簡単に測れるが、似非教育下の位相に潜在力は存在していない。生ける屍の常套文句(じょうとうもんく)は「じゃあ、どうする」これぞ似非教育下の総白痴化現象であり、自らの無知蒙昧(むちもうまい)を恥じないまま、養い教えて禁じる原義を知らず、跳梁跋扈する現代ジャーナリズムに通じていく。

●透徹史観に映る現況図
 現代テレビ文明は、携帯用インターネット端末(たんまつ)に蹴散(けち)らかされ、その生き残りに最後の足掻(あが)きを繰り返しているが、無残に散りゆく徒花(あだばな)の醜さ(みにく)は見るも儚い(はかな)曝(さら)しもの。それさえ気付かない流行病(はやりやまい)には慈悲の念を禁じ得ないが、時事ニュースのほか、報道と偽る(いつわ)井戸端会議の不様は自ら朽ち果てるしかない。それもこれも、横並びで御用史観の隠謀や謀略に属するため、そこにポテンシャルは微塵(みじん)も残存しておらず、単なる視聴率を競い争う電波公害を拡散するだけ、結果あらゆる公害病には潜伏(せんぷく)期間があり、その後遺症たる経験則は承知しても、精神を蝕む(むしば)総白痴化には処方がない。つまり、現下金融恐慌は楽観・悲観の限界値を越えており、教皇と金融の歴史に鑑み(かんが)るなら、蓋然性では済まない潜伏後遺症が病源ゆえに、マスイも効(き)かず、精神異常のワクチンは出来ないため、生活給付金のようなアヘンでごまかせば、モルヒネの禁断症状も及ばない現実が透けてくる。ケシは大江山系霊媒衆と対発生(ついはっせい)の関係にあり、文明開闢の(かいびゃく)段から、現在いな未来に向けても、その薬効(やっこう)と薬害(やくがい)の功罪一元性(こうざいいちげんせい)に変化は起こらない。
 古来ケシは文明と歩(ほ)を合わせ、その隠謀や謀略に荷担(かたん)してきたが、科学第一世代の兵器開発に歩(ほ)を合わせると、英支(えいし)アヘン戦争を奇貨(きか)として、軍費調達(ぐんぴちょうたつ)の手段となり、近代化の尖兵(せんぺい)たる金融政策の要に(かなめ)位置するようになる。麻薬(まやく)の怖さは、中毒に気付いたときは既にポテンシャルを使い果たしており、幾(いく)らヘッジを賭(か)けたと思い込んでも、その賭場(とば)を操る(あやつ)先物(さきもの)にのめり込むほかないシステムのもと、利息(りそく)(ゾンビ)が利子を積み上げていく幻想空間から脱せられないのだ。つまり、いかなる理屈を用いようとも、現下金融恐慌は麻薬中毒症状の終末現象ゆえ、末期ガン患者と同様の覚悟も必要となる。ところが、国際金融シンジケートが頼るのは電脳ゆえ、生き物の感覚を分別できず、たとえば、痛みを感じて当たり前のこと、また感じたら危険信号と覚(さと)る機能さえ持ち合せない。いまや同様の認知障害は国際政治に行(ゆ)きわたり、生活給付金の横並びなど、その痛みをアヘンで封じようと企む暴走ぶりは、総白痴化を越え総アヘン禍(か)による総不感症に達しており、これ救う道は神格の禊祓を手本とし、自らが更生に励むのほかはない。
 聖地を高天原の領域と定めた日本文明は、公地の確立とともに、荘園と(しょうえん)称する私有地の開墾(かいこん)に従事(じゅうじ)するなか、時代の変遷(へんせん)に見合う場のポテンシャルを蓄え(たくわ)ていき、その潜在力を原資(げんし)として、生活の基盤を整える通史を積み上げてきた。この荘園システム構造は秀吉が施す太閤検地(たいこうけんち)で姿を消すが、そのポテンシャルは何ら損傷さ(そんしょう)れておらず、その地層に深く根を張る潜在力はGHQさえ気付かずにいた。ところが、金利自由化(一九八五)を自ら呼び込む総白痴化現象が露わ(あらわ)になると、土地本位制を支える貯蓄性向(ちょちくせいこう)を自ら破壊する金融政策のもと、土地評価も預金利息も潜在力消滅の自爆(じばく)テロを決行している。氷山の一角に過ぎない金融バブル論も、単なるヒト・モノ・カネの説も、生ける屍の合唱は単なる消費性向の戯言(たわごと)であり、貪欲(どんよく)な胃袋しか持たないゾンビと何ら変わりなく、その不感症は現代テレビ文明が尖兵となり、もはやアヘン禍は政策中枢にまで蔓延(まんえん)して止(や)まない。これらは歴史問題であり、無知蒙昧が騒ぐ「どうする」より、先ず成るようになる時代を透かした現況図がなければ公は浸透しないのだ。
 金融三業種の住み分けは、古来ニギリ(契約)の大前提として、その信用力保全のためホテンを必要とし、直接相場は証券が、間接相場は銀行が、機関投資は保険が、それぞれ政府の干渉を伴い始まるが、その資金は次第に国境を越えるようになる。これ場の歴史に伴う共時性で見ると、前記の通り、宗教的信奉あるいは軍事力崇拝のファンド、また荘園システム構造の特殊なファンドを基礎に起ち上げられている。そこに相(あい)乗りするのが個人投資家であるが、ホテンに関する情報が乏しいため、金融三業種の託宣(たくせん)とニギリ、現在と未来の保障(ほしょう)を得ようとした。以後の経歴は本稿これまでの記述に「お金」を当てはめれば済む話であり、隠謀や謀略を含む信託(しんたく)ルーレットは、常に弾丸(たま)をトバシ限りないゲームの繰り返しとなるのだ。また弾丸(ぎょく)のトバシ先にも隠謀や謀略は付きものであり、御用史観が描く図柄(ずがら)では、東京国際軍事裁判と同じ結果しか得られないのだ。にも拘(かか)わらず、何ゆえ日本は戦後復興を成し得たのか、しかも財政の債務超過が幾ら嵩(かさ)んでも、それに堪(た)えうる原資の正体とはなにか、これこそ遺伝子に宿るポテンシャルであり、荘園システム構造に潜む底力に支えられていたのだ。

●透徹史観に映る未来図
労使共闘のダブルスタンダードに第三局を交(まじ)える社会は、その形態も様々あるが、主権在民と嘯く(うそぶ)立憲構造の主体は多数決のため、その合議(ごうぎ)に付きまとう総論賛成・各論反対の呪縛が問題となる。つまり、全体図が部分図を統御(とうぎょ)するメカニズムは、何某(なにがし)かの強制力で部分接合を補足しなければならず、科学の変遷(へんせん)に連(つ)れ民主化が普及していくと、国際間を結ぶ吸着法が必要となるのだ。以後このメカニズムの決め手は、部分接合を適(かな)える実証的吸着法が要と(かなめ)なり、科学は物理吸着と化学吸着の実証法を差し出すが、いずれも決定的な欠陥は接合に耐用年数(たいようねんすう)があり、そのたび、分離あるいは剥離(はくり)を繰り返す点にある。それはロボットやサイボーグの限界を示すものであるが、国際シンジケートはマネーも人が扱う傀儡(かいらい)と勘違(かんちが)いのうえ、通貨本位制に基づく国家の格付けにまで触手を(しょくしゅ)伸ばした。結果的に潜在力を使い果たした金融は自ら破綻(はたん)に追い込まれ、もはや如何なる通貨を生みだそうと基軸通貨のポストは定まらず、電子マネーに活路(かつろ)を見出(みいだ)そうとしても、前世紀末に施した国際決済銀行の謀略すなわちBIS規制が仇(あだ)となり、自ら犯した禁じ手が自らの首(くび)を絞(し)め結果的に霊流子(ひるこ)と同じ運命をたどるほかない。
 物質や物性の恒久化リサイクルシステムと無縁の生ける屍は、細胞培養(ばいよう)クローン現象を剖判し得ないまま、市場原理と嘯く神学論争に酔い痴れ音字(おんじ)を弄ん(もてあそ)でいるが、その口舌(こうぜつ)や筆先(ふでさき)の空回(からまわ)りも政策に縋(すが)ればこその話であり、政策がポテンシャルを使い果たせば、養分(ようぶん)枯渇(こかつ)で自ら朽(く)ち果てるしかない。現代ジャーナリズム自壊の命運(めいうん)であるが、それもこれも後発(こうはつ)テレビ映像の網膜(もうまく)剥離に要因があり、ロボット、サイボーグ、クローンなど、生殖的機能を喪う(うしな)生き物が増えており、その認知症は若年化(じゃくねんか)の傾向一途を免れない。文明史観に伴う現況図を透かし、以後これら諸問題を未来に結び付ければ、場の歴史に伴う共時性は如何なる展開を見せるのか、透徹史観の写像(しゃぞう)は国際外交が厳(きび)しくなる。人は衣食住で文明開化したが、その要諦(ようてい)は不飽和を保つことにあり、人口問題が絡む自給率の確保は何より重大な未来テーマとなる。この重大テーマを疎か(おろそ)にした文明は、いまや高い自給率を持つ政府も、低い自給率に悩(なや)む政府も、未来の養分まで食(く)い潰(つぶ)しており、相互一長一短の鬩(せめ)ぎ合いは円滑な外交を展開する何ぞ有り得ない。
 現在そして未来にとり、最も畏怖(いふ)すべきことは天誅で(てんちゅう)あり、すでに予兆(よちょう)は年々の天災と人災に顕(あら)われており、海洋深層部のマグマを含め地殻(ちかく)の振動も通常にあらず、宇宙船ゴミ廃棄(はいき)の放置(ほうち)も天変地異に影響していく。さて、これら課題を抱(かか)える未来の原動力は、何をエネルギー源に形成されるのか、その道筋こそ後発(こうはつ)の記紀に示されており、似非教育下の呪縛を解(と)き放(はな)つため、史家に問われる力量は特段重大となるのだ。すでに実証現場の基礎資料は臨機応変(りんきおうへん)の技芸に活(い)かされているが、その価値観は私利私欲に基づく特許独占権に拐か(かどわ)され、記紀が描くところの皇統奉公に反している。これを正(ただ)すのは公と私を峻別す(しゅんべつ)る史家の能力に期待するほかなく、史家を自負するのであれば、実証現場を体認(たいにん)することで情報統一の場を啓(ひら)く責務(せきむ)がある。これ得手(えて)・不得手(ふえて)の問題ではない。よく一芸(いちげい)に秀(ひい)でるは万技(ばんぎ)に通じるが如きの独り歩きあるが、幾ら技芸に優れようと、私を率(ひき)いる公の統一場が現出されなければ、過去の迷言(めいげん)に酔い痴れ潜在力を使い果たすだけだ。公は総てが万民(ばんみん)の資源であり、独占権を欲する利己欲は公にあらず、その証は(あかし)無意味な独占スクープを競い争うジャーナリズムが売り物とするなど、目に余る現実が象徴している。
 似非教育自壊の現象も未来図の範疇で(はんちゅう)あり、すでに学校制度の崩落(ほうらく)は避(さ)けられず、その受け皿に外交問題が絡むのも現実である。つまり、教え育む(はぐく)成果を徳(とく)知(ち)体(たい)で測るのは世界共通の標準であり、徳(とく)は意で源泉は公にあり、知の性質は本能的属性ゆえ私、体(たい)は行為を以て徳知の程度を現わすため、国際五輪(ごりん)大会も支持されるが、近代オリンピックが外交に関(かか)わり、その主催権(しゅさいけん)が国家の威信を唱(とな)えることは広く知られている。問題は公と私の確執(かくしつ)原因であるが、平和の祭典(さいてん)は国益優先の矛盾を含んでおり、蓋然性(がいぜんせい)の玉虫色ワードを使う条約は国際政治の要で(かなめ)あり、どこにも公私の整合(せいごう)が見当たらない。ところが、現下の実証現場においては、波形(はけい)と波長(はちょう)の謎(なぞ)が解明されつつあり、これまで統一場の理を妨(さま)げていた呪縛が少しずつ溶(と)け始めている。これこそ未来に差し込む希望の光であるが、これに同時並行して為(な)さねばならない重大テーマに史観がある。すなわち、文明史最大の弱点は公私整合できないまま、知の極致(きょくち)たる史観を原動力に文明を衝突させたことにある。意に倣(なら)う知の置き所を定めるには、記紀を知で読まず、記紀を意で読む訓練を積み上げれば、その禊祓により、天の岩戸が啓(ひら)き成るようなる未来に光明が(こうみょう)差し込むのだ。

 プロローグ
物心恒久化リサイクルシステム原義については、図解を要するため、本稿に示せないが日本列島が最も聖地に相応(ふさわ)しい所以(ゆえん)は、空と海と陸の滋養が永遠不滅であり、その気流と潮流また大地の生命メカニズムが一体化している点にあり、記紀の神髄でもある。

  了
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コメント

亀さん、ご無沙汰しております!
便りがないのが良い便り、ということでご容赦ください

真贋・大江山系霊媒衆の掲載感謝致します
久しぶりに栗原さんの執筆に目を通し魂が化学反応を起こしたようです

現在コロナのおかげで限定的に与えられた時間を体で満喫中ですが、
落ち着き次第、心の波を粒子にすべくブログを再開する予定です
その時はまたご笑読くださいませ
[2020/07/13 23:41] URL | 抱き茗荷 #- [ 編集 ]


おっ、抱き茗荷さん、生きていたんですね!!!!!!!

> ブログを再開する予定

それは楽しみです!! ただ、栗さんのような難解な文章にはしないで頂戴寝 m(._.)m

亀の頭でも解る文章をお願いします。

コロナ禍が落ち着いたら、名古屋あたりで再会しませう。その日までお元気で!



亀さん拝
[2020/07/14 01:59] URL | 亀さん #FlJCcfGk [ 編集 ]


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