録画してあったNHKの再放送番組(初回放送は2012年3月10日)、「3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく~」を見た。内容は若手の哲学者・東浩紀氏が在京都の梅原猛を訪ね、梅原の話に耳を傾けるというものだった。梅原猛と言えば、四十代の頃に西洋哲学の限界を感じ、日本文化に回帰した哲学者という印象が個人的に強く、亀さんが二十代の頃、日本の古代史に関心を抱くようになったのも、梅原の『隠された十字架』や『地獄の思想』といった、一連の著作から受けた影響が多少はあったと思う。

しかし、後になって飯山史観を知り、その飯山史観の編集を手掛けるようになった今では、梅原の限界が見えてきたのも確かだ。一例として、『天皇家の“ふるさと"日向をゆく』を取り上げてみよう。アマゾンの「カスタマーレビュー」に、サーッと目を通してみたが、その中で最も優れていたレビューは、mon8氏のレビューだと個人的に思う。殊に、mon8氏がレビューで紹介していた、『天皇家の“ふるさと"日向をゆく』からの引用を読み、唖然とした。
私の旅は本居宣長のいうところに従って、なるべく「古事記」と「日本書紀」に書かれていることを素朴に信じ、その物語が一貫性をなすかどうかを探究する旅であった。 『天皇家の“ふるさと"日向をゆく』
飯山史観の編集に着手した身として、記紀、特に日本書紀が成立した経緯を知るだけに、梅原の上の記述、あまりにもナイーブすぎると分かるのだ。
肝心なテレビ番組「3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく~」だが。どのような内容の番組だったのか、その大凡の流れが分かるブログ記事を以下に紹介しておこう。 老兵は黙って去りゆくのみ
同ブログ記事で亀さんが思わず唸ったのは、同ブログの記事そのものではなく、同記事に寄せられた黒沢孝裕氏という人のコメントであった。以下に全文を転載しておくが、黒沢氏は「老兵は黙って去りゆくのみ」を介する形で、梅原本人に以下のように問うた。
梅原先生は西田の次の箇所をどうお読みになるのでしょうか。
「私はデカルト哲学へ返れというのではない。唯、なお一度デカルトの問題と方法に返って考えてみよというのである。(中略)哲学の方法は何処までもデカルト的でなければならない。何処までも否定的自覚、自覚的分析である。この故に哲学は個人主義的とか自由主義的とかいうのではない。哲学は自己を否定すること、自己を忘れることを学ぶのである」
「人は真実在は不可知的というかも知れない。もし然らば、我々の我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかはない。そこからは、死生を賭する如き真摯なる精神は出てこないであろう」
僕はこの文章に、身が震えるような共感を覚えます。さながら行によって身を清められたようです。勿論、こんな抽象的な短い引用で、何かが分かったと言っているのではありません。また、先生に向かって、夜郎自大なデカルト擁護の説法をするほど自惚れてはいないつもりです。「草木国土悉皆成仏」にも宮沢賢治にも限りない郷愁を感じているのです。しかし、頭の硬い近代人である僕には、一旦デカルトに返り、西田に学び、存在についての思い込みを正すという迂回がないと、恵み深く畏敬的でもある自然を素直に受け入れられないということかも知れません。
一読して、梅原が青年期に強く惹かれたという、京都学派の西田幾多郎の言葉を梅原にぶつける形で、黒沢氏は梅原に問うているのが分かる。しかし、今回のテレビ番組に登場した梅原を見た限りでは、梅原が西田の問いに答えることは、恐らくできなかったのではと思う。
それはともかく、レビュー全文から伝わってくる黒沢氏の人物に心を打たれた。哲学、そしてデカルトに纏わる西田の的確な言葉を引用するという教養の深さ、一見批判の形をとりつつも、相手(梅原)へ心配りを忘れないという黒沢氏の人としての優しさ、なかなかの人物と見た。そのあたりが、同氏の文体全体から伝わってくるのである。
もう一つのブログを紹介しよう。「読書日記」というブログだ。同番組を見たというブログ主のt-forreal氏の場合、冒頭で以下のように書いている。
非常に残念な内容だった。
いきなり、同番組を同ブログ主は否定、その理由が以下である。
人間中心主義の西洋哲学は、自然や環境を支配の対象としてとらえ、それを破壊することを常として、揚句の果てに原子力災害を引き起こした。だから、西洋哲学は生き詰まりを見せており、それに代わるものとして、人間と自然を調和することを根本に据えている日本古来の思想に立ち返るべきである。以上が小沢―梅原の論点である。
これは、20世紀以前の西洋の思想に基づいた観方で、それ以降の構造主義、ポストモダン、分析哲学、科学哲学、プラグマティズム周辺の考え方をほとんど無視した恐るべき結論である。現代の西洋思想は、人間中心主義、ヨーロッパ中心主義あるいは近代的思惟と呼ばれるものに対して、いかにそれを乗り越えるか、という歴史である。それをほとんど無視して日本の思想の優位性を説くのであれば、西洋から見れば逆の意味で日本中心主義、自民族中心主義のドグマに陥っていると簡単に指摘されよう。それは西洋の反対のバージョンである人間中心主義ではなかろうか?
このように、同ブログ主は梅原を一刀両断、結語として以下のように述べた。
だいたい、グローバルな世の中で東洋だの西洋だの言って正統性を主張すること自体ナンセンスだ。人類としての存在が我々の唯一の拠り所となるはずだ。他との違いより共通点を見出すべきだ。
このあたりのブログ主の主張は分からないでもないが、上掲の黒沢氏のような人としての優しさに欠けているのが気になった。尤も、亀さんにもそうした傾向があるので、ここは他山の石とせねば…。

ともあれ、ブログ主の結語「他との違いより共通点を見出すべきだ」、確かにその通りなのだが、梅原が日本の思想の原理だと主張する、「草木国土悉皆成仏」について深く言及していなかったのは残念である。その意味で、「一神教vs.多神教」、「アニミズム」、「言霊」といったテーマを追求している身として、同ブログ主の記事には物足りなさを感じた。孫子ではないが、「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」を思い起こし、彼(西洋哲学)の深掘りと同時に、己、すなわち日本の思想の深堀りも、冥土までの暇潰しとして進めていかねばと心から思った。
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