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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
天武天皇 16
前稿「天武天皇 15」で、乙巳の変について言及すると小生は書いた。何故か?

最初に、小生の所有する『マイペディア』という電子百科事典は、乙巳の変について以下のように解説している。

乙巳の変
645年(大化1年)中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが,蘇我大臣(おおおみ)家を滅ぼして新政権を樹立した政変。645年が干支(かんし)の〈乙巳〉にあたるため,その名がある。なお政変から新政権樹立に至るまでの一連の政治変革を〈大化改新〉と呼ぶが,この呼称は近代に入ってのものである。


ここで、思い出していただきたいのは中大兄皇子、すなわち後の天智天皇とされる人物で、小生は前稿で以下のように書いている。

聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかった…


小生が天智天皇は実存の人物ではなかったかと、何故に思っているのという点については、前稿に書いたので確認していただくとして、多分、乙巳の変について最も核心に迫った日本の識者は、天童竺丸さんと安西正鷹さんだと小生は思っている。その意味で、天童さんがウェブで公開している記事の紹介と同時に、小生が独断と偏見で各々の記事にコメントを追記してみた。

20032801.jpg

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 1

蘇我入鹿を惨殺した宮廷の現場にいたが事情を知らされていなかった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が自家に逃げ帰り語った「韓人、鞍作臣を殺しつ」という言葉だ。「鞍作臣」とは入鹿だが、「韓人」とは誰か。それは明らかに、入鹿殺害の張本人の中大兄皇子である。では、なぜ彼は「韓人」と呼ばれたのか。


上掲の文章からも明らかなように、天童編集長も中大兄皇子(天智天皇)を、実存の人物と見ていることが分かる。このあたり、天武天皇を架空の人物とする故飯山(一郎)さん、そして小生の見解と異なる点である。それはともかく、天智天皇のモデルはいたのであり、飯山さんが晩年、熱心に取り組んでいた『天皇系図の分析について』の場合、p.913の第22章の第1節「平安・日本書紀での天智天皇とは「百済王子と新羅王子」との合成人間」と述べている。小生は違うように思うのだが、そのあたりについては飯山史観の筆を進めていく間に調査し、判明したことを書いていくこととしたい。

ところで、問題は「韓人」だ。何故に、中大兄皇子は「韓人」と日本書紀に書かれているのか…。問題の「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」と書かれている行は、皇極天皇の巻(日本書紀)なのだが、この「韓人」の解釈を巡ってネット界隈では今でも、百家争鳴の呈を成していることもあり、最終的な結論は暫く先に延ばすことにしたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 2

書紀割注にある、「韓政」(からひとのまつりごと)と呼ぶにもっとも相応しいのは、中大兄皇子すなわち天智天皇による改新政治であった。国を失った百済を救済するために大軍を催して遠征し白村江の戦いで大敗を喫したのである。日本書紀の筆は蘇我政権にこと寄せて、中大兄=天智天皇の弊政に筆誅を加えたのだと考えられる。


その根拠として、天童編集長は渡辺豊和氏の著した、『扶桑国王蘇我一族の真実』を引用している。

蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)


渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 3

いわば自らの出自ともいうべき北方ツラン的な要素を歴史から消し去った転換点こそ、大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期にある、と私は思う。そして、その最大の問題点が、蘇我氏の痕跡をわが歴史から抹殺したことにあることを教えてくれたのが、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』であった。

 渡辺豊和は蘇我氏とはトルコ系騎馬民族の「高車(こうしや)」ではなかろうかとの説を提案している。


「大化の改新から壬申の乱へと至る政権の混乱期」と天童さんは書いているが、再び飯山史観に基づけば、これも架空の「混乱期」と言える。そのあたりは、やはり『天皇系図の分析について』も第6章「「大化の改新」は架空の物語」(p.211)、あるいは第8章「「壬申の乱は架空の物語」で詳述している。

それはともかく、ここで蘇我氏が登場してきた。渡辺豊和氏は、「蘇我氏とはトルコ系騎馬民族」としているようだ。一方、『天皇系図の分析について』の藤井輝久氏は、第18章「蘇我氏と物部氏の対立の真相」で、「蘇我氏=金官国」(p.772)と明記している。ここで言う金官国とは、藤井氏にによれば九州にあった倭国を指していることが分かる(p.51)。このあたり、渡辺史観と藤井史観とでは異なるが、精査が必要と思うので、結論は先送りにさせていただく。今のところ、小生は渡辺史観を支持するものである。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 4

『梁書』に登場する当時の日本にあったとされる国名は、「倭国」「文身国」「大漢国」「扶桑国」の四つである。


天武天皇の御代以前の日本列島は、各地の豪族による群雄割拠の時代が続いていた。そして、『梁書』が四つの国が日本にあったとする記述は実に貴重である。また、東北を拠点としていた扶桑国は、今東光和尚の何の本だったかは忘れたが、東北地方の豪族は良馬を産出していたという記述を思い出すのだし、馬と言えばツランを連想せずにはいられない。その意味で、扶桑国のルーツはツランであろうと、今の小生は思っている。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 5

大和朝廷の成立以前のそうした地域勢力をどう捉えるかは、それぞれ見解が分かれる所だろうが、渡辺豊和は『梁書』に拠って、古代の日本には、「倭」「文身国」「大漢国」「扶桑国」と呼ばれる四つの国があったとする説に注目をしている。「倭」とは九州勢力、「文身国」は出雲、「大漢国」は河内(大和も含むか?)、「扶桑国」は計算上は北海道渡島半島付近となるが、東北地方全域に及ぶ勢力であったろうと渡辺は考える。


扶桑国の勢力が、東北地方に及んでいたという渡辺氏に小生は同意する。

ツランの足跡 ─ 大化改新から壬申の乱へ 6
コメント略。

ツランの足跡 ─ 遙かなるツラン
コメント略。

ここで改めて思うことは、晩年の飯山さんが熱心に取り組んでいた、藤井氏の『天皇系図の分析について』、小生も飯山さん同様、腰を据えて取り組む、すなわち批判的読書に徹しなければと一瞬思ったものだが、そうすると飯山史観の完成が益々遅れてしまう。よって、飯山史観、天童史観、鹿島史観、栗本史観について、小生はある程度なら把握しているので、鹿島史観をベースにした藤井氏の『天皇系図の分析について』は参考程度に留め、飯山史観の完成に向けて筆を進めていきたいと思う。

次稿では藤原氏を取り上げる予定である。

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天武天皇 15
天武天皇については、過去14回にわたって執筆してきた。よって、今回からは天武朝が誕生した経緯を振り返ってみたいと思うが、その前に、改めて天武天皇についての御浚いをしておきたい。

最初に、過去の14本の天武天皇に関する記事で、小生が伝えたかった天武天皇像は以下のとおりである。

1.日本史の始まり天武朝
これは、天武天皇以前の日本列島には「歴史」というものが無かった、という意味になる。換言すれば、真の日本の歴史の始まり、それは天武天皇の御代からということだ。

7世紀までの日本列島には、歴史も言語もなかったのです!
日本の歴史=『日本書紀』をつくったように、日本語をつくったのも百済なのです。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/2/


2.済州島人だった天武天皇
当時の済州島は百済の領地の一つで、そこに御座されていたのが百済王子の一人、天武天皇であった。その後、天武天皇が済州島から命からがら九州へ逃れたのも、大帝国唐に命を狙われていたためだ。なを、天武天皇が百済人であったことは、拙稿「天武天皇 02」~「天武天皇 11」で既述した。

詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。
(飯山一郎訳)天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に帰ってよろしい)と言った.
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!


3.『日本書紀』編纂の狙い
このあたりについては、以下の飯山さんの投稿を参照のこと。

「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


ここに、百済の貴人であった天武天皇が済州島から九州へ逃れた背景が示されている。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14758876/751/

赤色の下線に注目していただきたい。何故に「讖緯説」と「天智」が〝秘鍵〟なのか…。そのあたりを十分に理解しておかないことには、天武天皇が日本書紀の編纂を命じた本当の目的も分からなくなる。その意味で、以下の飯山さんの遺稿、日本書紀に隠された「讖緯説」を正しく理解する上で必読と云えよう。
日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題

もう一つの秘鍵「天智」だが、以下の飯山さんの記述に注目していただきたい。

「天智天皇」も「壬申の乱」も,百済や新羅や伽耶の歴史書のコピーだった!

ま,この「説」が↑↑正解でしょう.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16057898/936/


どういうことか…?

これは、聖徳太子同様、「天智天皇」も実存の人物ではなかったということだ。

壬申の乱は,日本列島内での権力闘争ではありません.←これが「飯山史観」です.
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16216140/370/


では、天智天皇が架空の人物だったとすると、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしたというクーデーター、すなわち、乙巳の変とは何だったのかということになる。よって、次稿では乙巳の変について少し言及してみたい。

天武天皇 14
本日は3月11日、生涯忘れることのできぬ、あの東北大震災が発生した日だ。よって、毎年行っていることだが、本年も午後2時46分に一分間の黙祷を捧げたい。

さて、「飯山史観」という新カテゴリを設けたのは2018年9月19日、ほぼ一年半前となる。その間、60本ちょうどの飯山史観カテゴリの記事を書いてきたことになるが、この飯山史観の完成までに、今のところ計150本ほどの記事数になる見込みであり、あと90本ほどの記事を書き終えた段階で、漸く飯山史観の完結ということになりそうだ。だから、現時点ではマラソンの折り返し点にすら達していないことになる。かつ、ここ暫くは仕事等で多忙だったこともあり、記事をアップするペースも大分落ちてきた…。これではいけないということで、そろそろ飯山史観の執筆にエンジンをかけることにした。

そこで、飯山史観シリーズの執筆勘を取り戻す意味で、「天武天皇 01」以降をサーッと読み返してみた。

最初に、「天武天皇 01」を読み返してみて、『扶桑国王蘇我一族の真実』という本からの引用に改めて注目した。何となれば、天武天皇の御代から現在に至るまでの我が国のかたちを俯瞰する上で、改めて吟味する必要がありそうな引用だったからだ。

大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)という“一神教派” が天下を取り、それが壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)という“多神教派”の天下となった。そして公になっていないが三度目の乱が起こって再び藤原氏による体制=“一神教派”の天下に戻り、それが今日に至っても続いている。


著者である渡辺氏の「一神教派」という記述には思わず苦笑したが、それはともかく、この引用を久しぶりに再読しながら、故飯山(一郎)さんの朋友であり、古代史を巡っての好敵手でもあった小川秀之氏が、放知技に投稿した藤原家についての記述を思い出した。

狡猾な人々を多くだした藤原氏ももとはソグド人を祖にもっていたのかもしれない。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15862681/475/


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NHKの番組「アイアンロード」。鉄の発祥の地を現在のトルコにしているが、明らかな間違い。鉄を含む、人類文明発祥の地はシベリアである。

この小川氏の投稿に、実に興味深い記述がある。それは、人の身体的特徴に関する記述で、例えば始皇帝の父親が碧眼だったということから、始皇帝は漢人ではないといった小川氏の推測に小生は同意するものである。そんな折、小生が仕事で多忙を極めていた1月13日、NHKが「アイアンロード ~知られざる古代文明の道~」と題する、実に興味深い歴史番組を放送した。先月末まで続いた仕事が一段落した昨日、漸く同番組を鑑賞したのだが、最も強烈な印象を小生に植え付けたのが「金髪のミイラ」であった。

◆ミイラ20031101.jpg

神計らいか、今年の1月15日に発行された世界戦略情報誌『みち』の「巻頭言」でも、同番組を取り上げていた。そして、巻頭言を著した天童竺丸さんも2005年にアルタイ山脈で発見されたという、スキタイ王族の金髪のミイラに注目したようだ。ご参考までに、同記事を本稿の最後に転載しておくので、関心のある読者に目を通していただけたら幸いだ。ともあれ、小生が注目したのは同記事の以下の結語である。

大量に鉄を生産して強大な覇権を建てたのがヒッタイト、スキタイ、そして突厥だった。彼らはいずれも、古代ミヌシンスク文明の影響下にあり、いわばツランの末裔たちだった。


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王家の谷に点在するクルガン(古墳)群

ツラン民族を顕わす特徴の一つが遊牧民であることは、今までの飯山史観、その他の拙稿で多くを書いてきたが、同番組で改めて鉄と馬の結びつきに思いを致した次第である。つまり、鉄の発見によって初めて、人類は馬を自由自在に操り、長距離を移動できるようになったという同番組の解説を耳にした時、小生は思わず膝を打った。

続く「天武天皇 02」~「天武天皇 11」では、人類文明発祥の地シベリアに誕生したツランから、百済に至るまでの大雑把な流れを示した。

ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済


百済人であった天武天皇の遠祖も、遡れば最終的にツランに行き着くということに改めて注目していただきたい。

天武天皇 12」では、以降の天武天皇シリーズで取り上げたいテーマを羅列したが、その後の様々な思索の積み重ねにより、追加したり取り止めたりするテーマが多く出た。そのあたりは、以降の拙稿でご確認いただきたい。

最新の天武天皇シリーズ「天武天皇 13」では、天武天皇は済州島の貴人であったことを実証した。そして同稿で日本書紀の正体について書く約束をしていたが、同記事で紹介した飯山さんの日本書紀に関する投稿を改めて再読するに、小生が書きたかったこと、すなわち日本書紀の正体をズバリ書いてあったので、拙稿では割愛させていただく。

また、以下の飯山さんの投稿も参照のこと。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13047287/5/

加えて、拙ブログでも飯山さんの日本書紀について、多角的に紹介している。

天武天皇を巡る裏史
安曇族と宗像族


まだ、(飯山史観を執筆する)エンジンが本調子ではないので、もう暫くは気の向くまま天武天皇シリーズについて筆を進めさせていただこう。

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放浪世代
昨年の晩秋以降、一月末と二月末締め切りの大量の仕事二本が立て続けに入り、大童の数ヶ月だったのだが、それも漸く一段落した今、放知技の読者に約束していた、天武天皇シリーズの続きに筆を進めたいと思うが、その前に掲示板「放知技」で強く印象に残った、堺のおっさんの投稿について一言感想を述べておきたい。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17003576/418/

赤色の下線で示した「テレワーク」という言葉に注目していただきたい。仕事(翻訳)で使用することの多い、日経の「CD-ROM 日経経済・ビジネス用語辞典」(絶版)は、ビジネス関連の翻訳の仕事を数多く手掛ける小生にとって、実に重宝な電子辞書となっている。その日経の電子辞書、「テレワーク」を以下のように定義している。

テレワーク 〔経営用語辞典〕
tele-work

 Eメールやインターネットなどの急速な普及によって,就業者は事業所などの特定の場所で働かなくても済むようになった。事業所とは別の場所(tele),たとえば自宅で十分仕事ができるようになった。このため,通勤困難な高齢者や障害者,家事と仕事の両立に悩む女性などにとってメリットが大きいため,この種の就業者が急激に増加している。しかし,発注企業と就労者との間で報酬金額,支払い時期などの基本的契約条件が示されずにトラブルの原因となることもあるため,労働省がガイドラインの作成に取りかかっている。


ウィキペディアの「インターネットの歴史」によれば、パソコン通信の時代からインターネットの時代に変わりつつあった1990年代半ば以降、「インターネットは文化や商業に大きな影響を与えた」とある。

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アシストの代表取締役会長ビル・トッテン氏の企業HPから拝借

小生がサラリーマン生活から足を洗い、いずれは個人貿易を開業するつもりで、当面の生活費を稼ぐべく、翻訳者としてのフリーランス生活に入ったのが2000年の4月だった。サラリーマンとして長年勤めていた会社を辞めたのが1998年9月30日、翌年の4月から一年間、浜松町にあった翻訳学校に一年間かけて通っている。だから、同校を修了した2000年3月末、独立開業の世界に足を踏み入れる準備が整ったということになる。そして初受注の翻訳の仕事は、忘れもしない同年6月であった。さらに翌年、翻訳者仲間のサークルが中心となって、Forbes誌の記事翻訳を請け負うことになり、当時は翻訳者として駆け出しだった小生も、翻訳チームの一員に加えてもらったのである。
亀さんが手がけた海外誌の記事翻訳

爾来、20年が経過した。その後のインターネットの急激な発展により、今ではノートバソコン一台あれば、地球の裏側でも仕事ができることを、一昨年の2018年の夏、地球の裏側のアルゼンチンの友人宅で身をもって体験した。

映画「男はつらいよ」の寅さんは、トランクを片手に日本各地を飛び回っていたが、小生もノートパソコンを片手に、二年後には世界を再び放浪する計画を立てている。計画と書けば聞こえは良いが、特に行先を決めているわけではなく、雲が東に流れて行けば東に行き、北に流れて行けば北へ向かうという、十代の頃に体験した、三年間に及ぶ世界放浪の旅の再開である。現在は、下の息子が四年制の専門学校に通っているので、彼の学資等を稼ぐため今すぐには放浪の旅を実践するわけにはいかないが、彼が卒業した二年後には開始するつもりだ。

二年後と謂えば69歳…。日本人男性の場合、健康寿命は72.14歳だというから、それが小生にも当てはまるのなら、三年間ほどしか健康でいられる時間がないということになる。むろん、先のことは分からない。しかし、健康である限り、半年は日本(春・秋)、残り半年は海外(夏・冬)で生活するつもりだ。旅費などはネット環境が整っている処なら、滞在費や旅行資金くらいは現地で生活しながら稼げる。

そして、小生の密かな願いは、旅の途中で息を引き取ることだ。カミさんや子供たちには、「もし、海外で息を引き取ったら、面倒くさいとは思うが現地に赴いて荼毘に付し、菩提寺に納骨してくれ」と依頼済みである。

【追記1】
フリーランスと言っても、テレワークだけで可能な翻訳といった仕事もあれば、喫茶店のマスターといった、テレワークとは無縁の仕事もある。とあもれ、フリーランスと言えば聞こえはいいが、決して楽な仕事ではないということ、この機会に強調しておきたい。

よって、現役のサラリーマンで、早期退職を夢見ている、殊に三十代から四十代の人たちに忠告。フリーランスの世界は甘いものではないということを、肝に銘じていただきたく、以下の記事を紹介しておこう。
「早期退職してよかった?」脱サラした60歳カフェ店主の哀しい回答

小生のような何の取柄もない者でも、20年に及ぶフリーランサーとしての経験の積み重ねがあるからこそ、ノートパソコン片手に世界を放浪できるのである。

【追記2】
東洋経済が興味深い記事を公開しており、特に印象に残ったのが、藤原新也氏の言葉だ。

『印度放浪』を書いた俺などは放浪世代だけど、たった1人で捨て身で旅するような若者が今はいない。


藤原氏は小生同様に若いころ(1960~1970年代)に世界を旅した、同じ放浪世代同士なのだが、その藤原氏の言葉、同じ放浪世代として大いに頷けるものがある。

しかし、現実には世の中を見渡せば世界を放浪している若者もいるのだ。例えば、小林希さんという旅行作家だ。かつての放浪世代として、実に嬉しい限りでR。
仕事で迷ったら、迷わずひとり旅に出よう!

洞察歯観のすすめ(41)
過日の台風19号で崩れた千曲川の堤防近くに居を構える、歯科&音楽ウォッチャーさんから今年初めての原稿が届いた。ウォッチャーさんの新記事、今か今かと心待ちにしていた読者のため、早速アップしよう。

今回の内容は宮沢賢治ファンだけではなく、シャーマニズムに関心を抱く読者にとっても必読でR。

宮澤賢治 ラプソディ

###遠いところへ行くのでしょう ねぇ 行くのでしょう 私を置いて~
世界のどこへ行ったって 今も争い続いている いつになれば小鳥たち 羽ばたけるの?~
世界のどこへ行ったって 想定外の雨や嵐 地球の悲しみの声 聞こえるでしょう~
世界のどこへ行ったって 自分ファーストを叫んでいる 見えない壁で心が離れていく~
きっと私は行くのでしょう 心を決めて~ ###

今年、令和という新しい時代の幕が上がる、ほんの少し前のこと。
ある雑貨店で買い物をしているときに、「遠いところへ行くのでしょう~」と歌う曲が流れていました。昭和時代のフォークソングを思わせる、シンプルで覚えやすいメロディーに乗せて女性デュオによる歌のようで、何とも懐かしい気分になったのですが・・・その歌う内容が、不思議と心の奥に流れ込んで消えることなく帰宅しました。
帰宅後、あれこれと調べてみたところ、歌っているのは、ビター&スィートという女性デュオで、今年3月27日に「遠いところへ行くのでしょう」というタイトルでシングルCDが発売されていました。その後も何度か店先で耳にすることはあったのですが、令和の幕が上がると、いつの間にか聞こえなくなりました。
シンプルなメロディーに乗った歌詞は心から離れることなく・・・。


~遠いところへ行くのでしょう~と、歌に誘われてというわけではありませんが・・・この秋口あたりから、休日を利用しては、あの町~この町、田舎町を歩くという小さな旅を楽しんでおります。
そのようななか、ある田舎町で歩き疲れたところで目にとまった歴史博物館。よく見ると小綺麗なレストラン喫茶があり、そこで珈琲を飲みながら一息つていたときのこと・・・マガジンラックに並べられていた小雑誌を何となく手に取って、パラパラと流し読みをしていたところ、
「歌は時を超えて**印度の虎狩り」というエッセイを見つけました。
「印度の虎狩り」というのは、「セロ弾きのゴーシュ」の物語で、ゴーシュが猫に聴かせたハードロック?風味な曲のタイトル。
小雑誌のエッセイには、次にようなことが記されてありました・・・
***「印度の虎狩り」という曲は、架空の音楽と思われるけれど、佐藤素平氏(宮澤賢治研究家であり、作家で、オルガニスト)の研究によると、昭和6年にビクターから「印度へ虎狩りですって」という歌のレコードが発売されていたらしい。おそらくダンス音楽で、男性歌手が歌っている。ところどころに虎の咆哮なども入るユーモラスな曲であり、物語のなかで猫がのたうち回る状況とはちょっと違う気がする。賢治は曲名だけを知ってヒントを得たのだろうか。***

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エッセイを読み進めているうちに、ひょんなことを思い出しました。とはいっても、はっきりとしたものではなく、おぼろげながら浮かび上がってきたもの・・・それはもう随分前のことになりますが、蒲田東二氏が話していたことで・・・この出そうで出てこないもやもやを抱えたまま帰宅したものの、わずかに部分的な記憶しか蘇らず、その後、四畳半倉庫の段ボールをひっくり返すこと二日と半日。鼻水啜りながら、やっと見つけ出したのが「憑霊の人間学」という一冊。
これは、平成元年、佐々木宏幹氏と蒲田東二氏が、憑霊とシャーマニズムのもつ多種多様なアスペクツ(諸相)について自由に考察するという「憑霊の人間学」と題した二人の講話と対談をまとめたもの。久しぶりに手にとりページを追ってみました。
下記 出そうで、なかなか出てこなかった蒲田東二氏が話した内容をいくつか紹介してみます・・・
***この前(1989年)の12月2日は、私にとっては凄く象徴的な体験だったんですが、学校を学生といっしょにでた途端、学生の一人が「お月さんと星がくっついてる」というので私も見てみると、本当に三日月と星が合体しているんですね。今まで見たことのない不思議な光景でした。
その時に感じたのは、それぞれの家には家紋がありますが、月と星が家紋になっている家があり、それは千葉氏の家紋で、三日月の上に北極星がある。千葉氏は妙見信仰もっていた一族だった。真っ先に、千葉氏が復活するのではと思いました。
平成という名前がついてしまったからには平静ではいられないのが歴史の掟のようなもので、日本では、「平」という文字がついた時代は乱世になってしまうという宿命をもっている。「平」の字が頭についた元号は、「平冶」が最初で、その年の12月に平治の乱が起こっています。そしてこれが源平の合戦の引き金となって、慈円のいう「「武者の世・乱世」の中世を生み出していくわけです。そして、二番目に「平」の字がついたのが、この平成時代なんです。
平成の幕開けは、日本内外で天安門からベルリンの壁崩壊まで、東からへ極端から極端へ動き続けました。これは一体、誰が仕組んでいるのでしょう。一体なんのなせる業なのでしょうか。この現象は様々な伏線の上に成り立ってきたものですから、一概にカルマとは簡単にはいえない。歴史の大きなうねりを今年ほど特に感じた年はありませんでした。そうした矢先にこうした天体ショーがあった。
ところで、幕末期の国学者・平田篤胤は、千葉氏の出身で、千葉氏が復権してくるということは、ある意味で平田篤胤が復権してくるという意味も含んでいる。平田篤胤は、仙道虎吉とか、道教、あるいは神道でも非常にシャーマニズムと結びついている神道。あるいは、密教の世界を探求してきたわけです。そして、日本の霊学の先駆者でもある。平田篤胤を含むこれらの研究は、1960年以降からかなり注目されてきたわけですが、これがいよいよトータルに浮かび上がってきた時代がきたのかなという様々な感慨が巡りました。
と同時に、ちょうどその時刻には、地中海のマルタ島で米ソの首脳が対談を行っていた。そして、声明に米ソの両首脳がいっしょに現れたというのは前例がないということが報道されました。マルタとポスト・マルタでは世界史がかなり違っているのだと思う。つまり、第二次世界大戦の米ソ両大国を軸とした冷戦構造の変化にきざしが現れたのです。そして、それは、1992年のEC統合などの動きを更に複雑にしていく歴史出来事だと思います。
そういうことを考えてみると、この月と星は、アメリカとソビエトの象徴ではないかと思えてきます。国の家紋である国旗を見ると、アメリカの星条旗、ソビエトにも星の形に似た鎌がある。そこで、新聞でちょうどマルタ島の対談が始まった時刻というのは現地時間で午後十時で、時差の八時間を考えると、日本時間では、ちょうど午後六時なんです。米ソの首脳が会っていたときに月と星の動きと深く照応しあっていて、天体の動きから社会の動きを読み取ることも可能だと、おそらくシャーマンならば考えると思うんです。ですから、我々の世界は、自然科学的な説明、社会科学的な説明も出来ますが、星を読んだり月を読んだりすることで、世の動きと未来を感知することが出来る。そういう星を読む人たちというのは、シャーマン的な能力を持って現象を読み解き、それを理論化し体系化していったわけです。そういうことをこの前に感じました。
月と星の合体は、新しい時代を告げる象徴的な天体ショー。おそらく、それと関連して、今までのシャーマニズムとは違うシャーマニズムが今日現れてきている。それを、ネオ・シャーマニズムと呼んでいます。
さらに、世界宗教である仏教にもネオ・ブッティズムとして新たな展開期を迎えているといえます。そしてまた、天皇の崩御に始まるこの一年は、神道にとっても未来を占うような年でした。そういう意味では、ネオ・シントイズムが語られ始めることしょう。
おそらく、日本の文化に深く根ざした宗教のなかでは、シャーマニズムとブッティズムとシントーイズム、このいずれの局面にもネオとつく新しい動きがすでに始まっていますし、それはこれから、かなりはっきりと浮かび上がってくるに違いありません。この、ネオ・シャーマニズム、ネオ・ブッティズム、ネオ・シントーイズムという新しい動きの日本における先駆者的人物がいます。***

日本における先駆者的人物とは・・・
***その先駆者的人物というのは、ほぼ同時期に生きた、宮澤賢治 南方熊楠 折田信夫、この三人です。この三人は、いずれもシャーマニズム、シントーイズムに内的に深く拘わった、新しいビジョンや生き方を示した人物ではないか。そこに、たとえば月とか星とか象徴的な天体的シンボルが表れてきている。***

蒲田氏は三人の人物を登場させているのですが、その内の一人が、セロ弾きのゴーシュ(宮澤賢治)!というわけです。
そして、蒲田氏は、賢治の「東岩手火山」という詩を紹介しつつ、・・・
「月は水銀 後夜の喪主 火山礫は夜の沈殿
火口の巨きなゑぐりを見ては たれもみな驚くはずだ (風としづけさ)
いま漂着する薬師 外輪山 頂上の石標もある (月光は水銀 月光は水銀)」
(賢治は、この詩を東岩手火山へ登り、その時の体験をもとに下山した翌日に記したという)

・・・この賢治の詩について、次のように話を進めます。
***古来、月は錬金術の一方の非常に重要な象徴であり、水銀というのは人間の心・魂・精神を変えていく目に見える物質ですから、水銀は流とか蛇とかのシンボルとも結びついた。液体であるけれども個体である。さまざまに姿形を変えていく両義的な存在としての水銀は、アストラル体やエーテル体とも結びつく。流れうごめいて姿を変えていく、そういう魂の変成状態を媒介する物質として水銀というものが注目されてきたわけです。錬金術において水銀がもっている象徴的意味合いは非常に深いものがある。水銀を飲んだ人は死にます。死を体験するということは、シャーマニズムにおける根本体験なんですね。死を体験せずにシャーマン的世界はわからないし、宗教的本質はわからない。死と再生というのは、シャーマニズムのなかにある、あるいはイニシエーションがもっている秘技的核心ですから、死をいかに体験するか、また、いかにして生きたまま死を体験するかという点は宗教的体験の核心にある。
そういう時に、水銀というのは自ら死に近づいていくための、それを導いていくためのひとつの物質といえるかもしれない。シャーマン宮澤賢治は、
「月光は水銀 月光は水銀」
と繰り返し、月光世界と水銀の統合を語ります。ここでは、月光はまさに水銀そのものです。そして、その月光が当たっている自分の魂というものを浮遊させ、それをどんどんハイにさせ変えていこうとする。まさに魂の錬金術が今行われようとしている。***

シャーマン宮澤賢治・・・

賢治が東岩手火山に登ったとき、午前三時頃、岩陰から火口に向かって、一時間近く朗々と南無妙法蓮華経を唱えていたいいます。山に同行した賢治の教え子の一人、照井謹次郞氏は、
「宮澤賢治先生の声は、ものすごくきれいだった」
と思い出を語っておりますが、午前三時。これは、とても大事な時間であると蒲田氏は指摘します・・・

***夜中の三時というのは非常に大事な時間です。前の日が完全に終わって、次の日が始まる時間が午前三時なのです。私が出会った日本の霊能者は、いつも午前三時が自己変容の象徴的な時間になると言っています。
例えば、沖縄のノロの家系に生まれた人は、結婚しましたが、離婚せざるを得ない非常に苦しい状態になった。その時に、毎晩午前三時に神様にたたき起こされる。起きたくないと思っても背中に龍が浮かんできて、自分を突き上げてくる。ですから、起きざるを得ない。起きて、水行とか交信が始まる。そして、神様がいろいろその人に指示を与える。これは、シャーマンがシャーマンになっていくための巫病に一種といえます。
巫病というのは、シャーマンがイニシエーションを通過する一時期に現れてくるコンフリクトや症状です。社会的には狂気にも見られるものです。また、本人も一体自分に何が起こっているのか自覚的につかめない状態です。またある別の何人かの人物も、午前三時に命じられて行をさせられるといいます。また、修験者の人も午前三時に起きて瞑想する。
会う人会う人なぜか知らないけど午前三時という。ということは、午前三時に始めるということは、少なくとも修行とか神事というものは一時間近くかかりますから、三時から四時の間、丑寅の時刻から虎の時刻にかけて行われるということです。おそらく古代の神事も重要な時間帯としてその時間に行われていたに違いない。呪いの丑の刻まいりもそうですね。宮澤賢治はそういうことを意識しておりません。彼は三時か四時頃に意識の変調状態に入りかけていた・・・***

さて、宮澤賢治とは・・・蒲田氏の話は、まだまだ先があるのですが、このあたりで、鎌田氏の語りを一時心に留め置き、改めて宮澤賢治の世界を引き寄せてみるのも良いか思います。美しい日本語を書く賢治の作品は、読み始めると不思議にも、いつの間にやら聴いている・・・に、変化し、読んでいる最中、何やら今までに聴いたことのない音楽が心内に浮かび上がってくるやも知れません。

ーー追記ーー

~遠いところへ行くのでしょう~~という昭和風味のメロディーに乗って、田舎町散策していたところ、偶然にも?巡り会った「歌は時を超えて**印度の虎刈り」というエッセイの載った小雑誌のおかげで、セロ弾きのゴーシュの物語や蒲田氏の話を思い出したわけですが・・・そう言えば、
「メロディーは脳に、ハーモニーは呼吸に作用する。リズムは、手足の運動や血管の循環、物質代謝を左右する。病は、この三つのバランスが崩れることだから、音楽で調整してやれば良い」
と語ったのは、確か、シュタイナーだったか・・・?
「メロディー ハーモニー リズム」・・・とすると、セロ弾きのゴーシュは、音楽療法の達人であり、名医である。と、いうことになるでしょうか・・・!
以前、音楽評論家の萩谷由喜子氏が、
「宮澤賢治は、大正七年頃、花巻の岩田用品店で初めて本格的な洋楽レコードを聴いて、たちまちその虜になった。蓄音機のラッパの中に首を突っ込むようにして全身全霊で音楽を浴び、クラシック音楽から独自の霊感を得て、その手法を自身の文学作品に豊かに反映させていた。まさに、クラシック音楽のレコードこそ、賢治文学の霊感の源泉だったと言っても過言ではない」
と、賢治と音楽について語っておりましたが、宮澤賢治は音楽から何か透明な力を得ていたのでしょう。しかし、それは、何もクラシック音楽だけに止まるものではく、もっと身近な土臭さを感じさせる音からも肌で見えない力を吸収していたはず・・・「セロ弾きのゴーシュ」の物語を読むにそのように感じます。子どもの頃、「セロ弾きのゴーシュ」を読んでいると、身体の中を色々な音楽が駆け廻るような感じを受けたことを思い出します。五十音という音符を用いて書き上げた音楽作品なのかも知れません。
ところで、ゴーシュの家を訪ねた森の動物たち!この動物たちは一体何者だったのでしょう・・・ゴーシュと動物たちが会話する中に、そのヒントが潜んでいるような気がします・・・

ーー追記 その2ーー

このところ、レイ・ブライアント・トリオのアルバム
「ゴッド・ファーザー」を寝酒代わりに聴いておりますが、賢治作品に触れるときBGMにも大いに役立ちそうです。と言っている今、聴きつつ呑みつつしており・・・酔いつぶれる前にもうひとつ。
レストラン喫茶で手にした小雑誌のエッセイにあった、「印度へ虎狩りですって」・・・実はこの曲!聴いたことがあります。コミックソング風でイントロ部分は、ハリマオ!でも出てきそうな雰囲気があり、大滝詠一あたりがプロデュースして、リバイバルさせていたなら、案外面白いワールド・ミュージックに仕上がっていたかも知れません。
~~ハリマオ!~~
活躍していたのは半世紀以上も前のこと。久しぶりに、主題歌を聴いてみたくなります。



台湾と西田哲学
本日の1月11日、台湾で総統選が行われる。多くのマスコミが蔡英文総統の圧勝を予測しており、小生も1月5~7日にわたって訪台しているが、同様に蔡総統の圧勝という空気を感じ取ることができた。

今回、久方ぶりに台湾を再訪したのは、台北の中心から電車で30分ほどの所にある、北投温泉の湯に漬かりたかったからだ。そして、せっかく台湾を再訪するのだから、旅のお供にということで一冊の本を旅行バッグに詰めたのだが、それは『李登輝の偉業と西田哲学』(柏久 産経新聞出版)という本であった。

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昨年の10月25日に上梓されたという同書の存在は、旅立つこと二日前、台湾関連の情報入手にネット検索していた折に知り、即アマゾンに注文、届いたのは訪台前日の午後ギリギリであった。だから、初めて同書のページを開いたのは成田空港へ向かう車中だったのだが、やがて同書の世界に没頭していく自分がいた。結局、同書を読了したのは三日後、成田空港に着陸する一時間ほど前で、久方ぶりに青線や赤線で一杯の本となった。読了に時間がかかったのは、幾度も同書を閉じて思索を重ねることが多かったためである。中でも、深く思索を重ねたのが著者である柏久氏の哲学観、そして親鸞であった。

■柏久氏の哲学観
柏久氏の哲学観を一言で言い表すなら、「死と使命」ということになろうか。柏氏は同書の中で以下のように述べている。

西田のフィロソフィーレンに影響された李先生(李登輝)、その使命は公儀に尽くして台湾の人々を幸せに導くというものだった。またわが父祐賢の使命も、より良い農学の実現によってより良い農業、延いてはより良い社会を導く、ということだったと言える。いずれにしろフィロソフィーレンは、人生における最大の苦悩である死の恐怖を克服するための道を導くだけではなく、この世において自らに与えられた使命を自覚させてくれるのである。
『李登輝の偉業と西田哲学』p.126


最初に「死」。昨年の12月17日、長期入院中だった母(享年92歳)が静かに息を引き取った。親戚や近所の助けもあり、滞りなく喪主としての務めも無事に終えた今、現在は2月1日に執り行う忌明けの準備に大童の日々を送っている。こうした身内との別れを体験した直後の訪台だっただけに、柏氏の語る死生観に思うことが多かったのだろう。

実は、西田幾多郎、柏祐賢(柏久氏の父)、李登輝の三者に共通するものが身内の死であり、三者とも各々最愛の長男に先立たれている。これは偶然という言葉で片付けられるようなものではなく、人間世界の不思議さを感じたものである。だからこそ、人が最も恐れている死についての柏久氏の言葉には、鬼気迫るものを感じたのも道理であった。

西田の場合、長男のみならず、妻をはじめとする他の身内も時期を前後して亡くしているが、西田の場合、こうした具体的な形の悲哀だけに留まるものではなかった、と柏氏は語るのであった。

人間にとっての一回限りのこの世(此土)での人生が有限であること自体が悲哀であるというのである。宇宙が無限であるのと比すれば、人の一生など無きに等しい。現実を対象的・物質的に見る限り、それは紛れもない事実である。しかし人生とはそれだけのものなのであろうか。もしそれだけのものなら、ひとは救われない。そこで宗教というものが出てくることになる。
『李登輝の偉業と西田哲学』p.116


この柏氏の言葉、自分も実母を亡くした直後だっただけに、一層身に染みた行であった。

次に「使命」。柏氏は哲学と使命についても以下のように述べている。

愛知すなわちフィロソフィーがもたらすものはひとそれぞれで異なるであろうが、それは、阿弥陀仏すなわち宇宙の理によって与えられた此土(この世)における「使命」なのだと、私は考えている。
『李登輝の偉業と西田哲学』p.124


自分も、一昨年の夏にアルゼンチンを訪れ、友人宅に一か月ほどお世話になっていた時、今後の己れの生き方についての思索を重ねたものであり、以下のようなことを小生は書いた。

今振り返るに、アルゼンチンでの一ヶ月間は、冥途までの暇潰しを決定付ける旅となったようだ。
アルゼンチンで思ふ(8)


すでに、「飯山史観」というカテゴリに書き連ねてきた同史観編集の作業日誌、記事総数が60本に達しており、飯山史観完結までに最低でも150本の記事を書くことになると思うので、60本ということは漸く三分の一強を終えたことを意味している。

完結した暁には一枚のPDFファイルに纏め、掲示板「放知技」の同志に配布、最終的なチェックを依頼した後、アマゾンあたりから電子出版の形で出したいと思っている。それにより得た収益は、志布志市に飯山さんの石碑を建立したいという、堺のおっさんの提案に賛意を示していることもあり、その建立資金に役立てて欲しいと思う。

飯山史観を完成させた後の話になるが、健康体である限り、一年の半分は日本、残り半分は海外で生活するという、大雑把な人生計画を立てている。旅行資金に関しては、ノートパソコン一台あれば世界の何処でも仕事ができるので(アルゼンチンで体験済み)、特に心配はしていない。無論、単なる物見遊山の旅や長期滞在で終わらせるつもりは毛頭なく、思索の旅あるいは滞在にしていくつもりだ。これは、拙稿「」に示した井筒俊彦の「東と西の生きた思想的対話の場」、という言葉の実現を念頭に置いたものであり、これは、柏氏が同書で述べる以下の結語にも相通じるのである。

結局、人間にとってもっとも根源的な問題である死を乗り越え、「いかに生きるべきか」を教えること、使命感を植え付けることなのである。
『李登輝の偉業と西田哲学』p.135


ここで、柏久氏の本には、ヨーロッパの若者の間で西田哲学ブームが起きていることを匂わす記述がある。

西洋の若者二〇人ほどが案内人に先導され、熱心に展示物や流れる音声に耳を傾けているのに出会い、いかに西欧において西田哲学が注目されているのかもわかった。
何故いま西田哲学に注目しなければならないのか?
科学主義イデオロギーの席巻によって、人間を「物」としてしか見ることのできなくなっている現状は、こころを失った人々が不幸の道を転げ落ちている状態だからである。

…中略…

いまや世界には一国主義、拝金主義がはびこり、「正義」が滅びた感がある。それに気づきはじめた一部の西洋人は、主観と客観を分離することなく、現実をありのままに捉え、主体的に生きる道を示す西田哲学に注目しはじめたのである。そこには対立ではなく、調和を導くヒントが隠されているからである。

『李登輝の偉業と西田哲学』p.126~127


また、拙稿「日本人は何を考えてきたのか」でも、小生は以下のように書いた。

改めて西田幾多郎の凄さを再認識し、現在世界で西田哲学が見直されつつあることを知った。


■親鸞
『李登輝の偉業と西田哲学』を通読して、最も驚いたのが親鸞についての行であり、その行を目にするまでの自分は、西田幾多郎の哲学に最も大きな影響を与えたのは、禅宗だろうとばかり思っていた。しかし、そうではなかったことを知った時、愕然としたものである。その親鸞と西田幾多郎の繋がりを語る柏久氏の言葉には重みがあり、かつ、西田哲学の真髄に触れることができたことから、柏氏には心から感謝したい。

西田の宗教が禅ではなく親鸞だ、ということに私が気づいたのは、二人の学者との出会いがあったからである。決定的であったのは、維摩経を研究する宗教学者橋本芳契との出会いであり、橋本との出会いを導いたのは、京都学派に属する哲学者大嶺顕との出会いであった。
『李登輝の偉業と西田哲学』p.101


■日本精神
今回の訪台で最も印象に残った光景がある。それは、滞在先のホテルから北投温泉行の地下鉄駅に向かう途中で目にした、あるビル前の歩道で目撃した光景で、一人の老婆が歩道を清掃していたのである。日本では当たり前の光景なのだが、それを台湾という異国の地で目撃した時は、心から感動した自分がいたのであり、咄嗟に脳裏に浮かんだのが同じ台北に居を構える李登輝であった。こうした光景が今でも台湾に残っているのは、李登輝の偉業であると云っても過言ではなかろう。その後、読み進めていた『李登輝の偉業と西田哲学』の中で、以下の記述に出会った。

李(登輝)氏は,「(例えば)ゴミひとつ落ちていない社会、日本のそういう秩序が台湾の国づくりに欠かせない」という。「公」よりも「私」が優先された国民党政権時代の教育の残滓が、現在でも色濃く残る「中国人化」した台湾社会に影を落としていることは確か。このことが国際社会における「台湾自立」のための足かせになっていると李氏はいいたげだ。
李氏は、危機をバネに困難を克服、成長を遂げようとする日本人の根底に「哲学」「秩序」があると肌で感じ、その「力」を台湾に応用するべく思いをめぐらせているようにみえる。同時に「日本人」を原風景とする李氏は、いまの時代を生きている「日本人」にも、そのことを伝えようとしているに違いない。

『李登輝の偉業と西田哲学』p.147


帰国後、「■日本精神」について筆を進めていた時、脳裏に浮かんできたのが黄文雄氏であった。黄氏の日中比較文化論は一読するに値するが、そのあたりを如実に物語っている行があり、この機会に紹介しておきたい。それは、黄氏の著した『日本人の道徳力』の第4章「善悪とは何か」である。殊に、第5節「仏教の明快な善悪の判断基準」に親鸞が登場しているのに注目していただきたい。また、同章は優れた日中文化比較論というだけではなく、我々日本の大人が日本のみならず、世界の若者に伝えていくべき、ある種の指針ともなり得るものだと思った次第である。だから、海外に長期滞在の折には、現地の若者と積極的に交わり、黄文雄の云うところの「日本人の道徳力」について、彼らに語り聞かせたいと密かに思っている。

日本で活躍している外人タレントの一人に、サヘル・ローズさんというイラン人女性がいる。小生、彼女については以前から注目しており、彼女に関する記事も過去に数本書いてきた。たとえば…

施設で育った私
素顔のイラン


そのサヘルさんが、最近立て続けに二本の番組に登場していたのだが、両番組とも実に優れた内容であった。

砂浜に咲く薔薇(ばら)のように
イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦

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どのような番組だったのかは、実際に観ていただくとして、今回は井筒俊彦に焦点を当てたい。何故か? それは、はぐらめいさんが自身のブログで、幾度か井筒俊彦について取り上げていたからだ。最近も井筒俊彦について、以下のような記事をアップしておられた。

100分de名著「善の研究 西田幾多郎」

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特に印象に残ったのが、はぐらめいさんの以下の記述である。

若松英輔氏が三島由紀夫に惹かれることはない。井筒俊彦にしても、西田幾多郎にしても、「自己を垂直的に深める」ことが第一義であった。三島はといえば、ひたすら「知識の海」を泳いでいたように見えてしまう。


「自己を垂直的に深める」という言葉から、咄嗟に脳裏に浮かんだのが、小生が18歳の時に体験した座禅である。これは新入社員研修の一環として、禅宗のとある古刹で他の新入社員50名ほどと一緒に、同寺の宿坊で草鞋を脱いだ時のことである。それから半世紀の時間が経過、その間は一度も禅寺に足を運んだことはないが、考えようによっては、毎朝座禅を組んでいると云えなくもない。何故なら、毎朝実践しているハタヨガ、ハタヨガは身体のストレッチと世間では思われているが、実はヨガの始めと終わりのポーズは、ある意味、座禅と共通するものがあるのだ。

ともあれ、座禅とは無の境地、すなわち大悟徹底を目指す修行なのだが、井筒俊彦も子供時代、父親から厳しく座禅の修行をやらされていた。それが、後の「自己を垂直的に深める」という、井筒俊彦の生き様に繋がったと云えよう。

ところで、上掲の「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」を観つつ、己の人生を集大成する上で、井筒俊彦の哲学を採り入れることができるのではと、ふと思った。以下、己の人生を振り返るにあたり、是非に振り返ってみたい幾つかのテーマである。

■言語
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小生が十代の頃だったと思うが、『20カ国語ペラペラ』(種田輝豊 実業之日本社)という本を入手、熱心に読んだ在りし日のことを思い出す。しかし、井筒俊彦の場合は20ヶ国語どころの話ではない。なんと、30ヶ国語以上をマスターしたのだという。

小生の場合、第一外国語は英語だが、それでも大した英語力には達しなかった上、肝心な母語である日本語ですら、未だに心もとない有様である。まさに、日暮れて道遠しとは、このことだ。

■宗教
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井筒俊彦は、ギリシャや中東を含めた、様々な東洋の宗教や哲学に共通する構造を見出し、上次元の東洋哲学という一つのものにようと試みた

宗教は、その人が信条としているもの、その信条が生き様に反映されているものだ。どの宗教が、その人にとって心の宗教になるのかと云えば、やはり生まれ育った土地、そして母親の子守歌を聞きながら身につけた母語で決定する。たとえば、上掲の「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」に登場する、以下のシーンが如実にそのあたりを物語っているのだ。サヘルさんは8歳の時に来日しているのだが、この年齢は既に母語が確定した年齢だ。そのあたりは、以下のシーンを見て一瞬で分かったものである。

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テヘランの街を見下ろす丘に腰を下ろしていたところ、どこからともなく聞こえてくるコーランに涙するサヘルさん

しかし、天童竺丸さんから一神教の正体について伝授された身として、東洋のみならず、さらには世界の統一という井筒俊彦の思想が、一神教をも飲み込むものだろうかと、ふと思った。このあたりについては、これから思索を重ねていくことで、今までに見たことのない光景が見えてくるのかもしれない…。

■人類
井筒俊彦は、東洋の諸哲学と西洋の諸哲学との間に横たわる、垣根を乗り越えようと試みていた。以下の写真は、当時一流の世界の哲学者が議論を戦わせているシーンである。

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毎年スイスのマッジョーレ湖で開かれていた、神秘主義の国際学術シンポジウムであるエラノス会議において、熱い議論を戦わせる世界各国の哲学者たち。井筒俊彦も数年(1967年~1982年)にわたり参加していた

ここで、未だに世界で紛争が絶えないのは、一神教徒が中心のDS(Deep State)の存在が大きいと小生は思っている。

それでも、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)を信仰する人たち、一方で多神教を信仰する人たちとの間には垣根はないと、直観的に思うのである。東洋の様々な宗教・哲学・思想だけに限定すれば、各々が共通してくるところは深層意識、すなわち心の一番深いところのはずで、そこに至って初めて得られる境地があるのではないだろうか。そして、それは禅の道にも繋がる。

ともあれ、サヘルさんのインタビューで、中沢新一が語っているように、「最終的にヒューマニズムを目指す」というのが、小生が余生において常に念頭に置きたいものなのだし、今生の世で目指していきたいものだ。

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中沢新一

■無

以上、西田幾多郎や井筒俊彦といった先達の教えを受けつつ、今後は一層真剣に無の境地を目指したいと、改めて思った小生であるが、これは集団で行うものに非ず、独りでやるものであるのは言うまでもない。そのあたりが分かっていないのが、飯山陽女史だ。


つくづく、言葉は怖いものだと思った。飯山陽女史の『「誰にも認識できないものをオレだけが知っている」的研究』という言葉、同女史が西田幾多郎や井筒俊彦の云う無の世界に、無知であることを赤裸々に示す言葉になっているだけではなく、この二人の知の巨人には到底及ばぬ器であることが一目瞭然となっている。

ともあれ、はぐらめいさんに紹介していただいた、『100分de名著「善の研究 西田幾多郎」』にあった、若松英輔氏の書いた小節『「無心」の世界』(p.55~)、西田の「知意未分以前の統一」、あるいは鈴木大拙の「無心(霊性的直覚)」の域まで達するよう、今後は修行を積み、究極的には自他の「分別」が無くなるという境地に、あの世に行くまで到達したいものだと、心から思った。

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鎌倉にある井筒俊彦の自宅で、写真に手を合わせるサヘルさん

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遺影の横に供えられている皿に認められた「無」は、井筒俊彦自身の筆

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自宅近くの井筒の墓で手を合わせるサヘルさん

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座禅を組むサヘルさん

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井筒俊彦の遺言1

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井筒俊彦の遺言2

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井筒俊彦の遺言3

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井筒俊彦その人を理解する上で不可欠の書


天武天皇 13
前稿「天武天皇 12」をアップしたのが9月18日、それから二ヶ月以上もの間が空いてしまった。今年の9月は例年よりも酷暑の日が多かったこともあり、日によってはエアコンのスイッチを入れて仕事をしていたのを、つい昨日のことのように思い出す。ところが、ここ数日の深夜から朝方にかけては石油ストーブを点けて仕事という具合に、秋の気配を感じないまま一気に夏から冬に突入していたという、何とも不思議な感覚に陥っている今日この頃だ。そうなったのも、仕事(翻訳)で多忙を極めていた為だったのだが、この状態が来年の一月末まで続くwww

そんな折、ふと目に留まったのがJINMOさんの以下のツイート…


JINMOさんのアメリカ人の親友が、自らボーイング787を操縦してアメリカ本土(デンバー)から東京へ飛行、JINMOさんの演奏を聴いた後、わずか20時間ていど日本に滞在しただけで、蜻蛉(とんぼ)返りで本土に戻っていったというのだが、実に痛快な話というか、スケールの大きな話ではないか。小生は飛行機の操縦はできないが、せめて正月休みくらいはノンビリと、近場の温泉にでも足を延ばしてみるかな…。どうせなら、飛行機に乗って韓国や香港といった近場にでも…、と頭に浮かんだのだが、昨今の政情から今というタイミングで行くのも何なので、台北の郊外にある北投温泉あたりがE-かも…

さて、天武天皇シリーズの続きに筆を進めるとしょう。前稿の「天武天皇 12」で、「天武天皇は百済人」について書くと約束していたが、その前に、前稿で紹介した飯山一郎さんの「外圧と占領」以外に、もう一つの日本列島史、すなわち「国家の出発点」という飯山さんの別の視座を、この機会に紹介しておきたいと思う。飯山さんが国家の出発点について書いていたのは、「政治を語るための前提条件について」シリーズ第6弾で、残りのシリーズ5本のリンク先も併せて紹介してあり、現在本スレの主テーマとなっている政治・経済について、飯山さんの政治観を改めて確認しておく意味で、同シリーズを再読してみるとよいだろう。以下、飯山さんが遺してくれた、もう一つの日本列島史観だ。

「日本」という国家の出発点は,歴史的には,五つある.

 1.天武天皇の「日本建国」による脱唐国支配国家

 2.藤原(不比等)氏による貴族支配型律令国家

 3.徳川家康による武家支配型・幕藩体制国家

 4.明治政府による脱植民地型海外進出国家

 5.敗戦後の米国による占領・属国支配型国家
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/370/


「2」で、藤原不比等が登場している。天武天皇シリーズを終えたのち、南北朝時代まで一気に筆を進めようと思っていたが、やはり、当時、そして今日に至っても皇室に深く食い込んでいる、藤原氏について少しは書かねばなるまいと思った。しかし、藤原氏に深入りしすぎると、なかなか飯山史観の完成に至らないので、当時の藤原氏については簡単に触れるに留めるつもりだ。

ともあれ、話を天武天皇に戻す。当時の時代背景で注目していただきたいのは、「脱唐国支配国家」という飯山さんの言葉だ。脱唐国支配国家とは、どういうことか? 実は、ここに天武天皇が済州島から日本列島に渡来した秘密が隠されている。ここで、当時の唐と朝鮮半島諸国との関係、殊に百済との関係は、どのようなものだったのかについては、飯山さんによる放知技への投稿が参考になるので、以下に一部を引用しておこう。

7世紀中葉。白村江の戦いで“大唐帝国”に大惨敗を屈した百済国は、“大唐帝国”の殲滅(せんめつ)作戦から逃れるために、慌ただしく九州に逃げ込んできた。
しかし、「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令情報は、はるか九州にも伝わってくる…。
そのため、北九州に上陸した百済国の王族・貴族は、“大唐帝国”の追討殲滅作戦に恐れおののきながら、南九州までの逃避行を決行する。
南九州は大隅半島の志布志近辺まで這々の体(ほうほうのてい)で辿り着いた百済国の王子・大海人皇子は、大急ぎで天武天皇と名乗り、大慌てで「正史」の編纂を命じた。そのときに初めて「日本」という国名が、苦し紛れの状態の中で発明された…。これが7世紀末の「日本」でした。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16427145/18/


上掲の飯山さんの投稿が、日本史の秘密を解き明かす上で貴重なものとなっているのは、日本書紀の成り立ち、すなわち天武天皇が唐を騙すために編纂したものであることが一目瞭然となっているからだ。

ここで、百済王族の王子の一人であった天武天皇(大海人皇子)の場合、半島経由で北九州へというルートではなく、済州島(耽羅国)経由であった点に注目されたい。つまり、天武天皇は済州島から直接、南九州は鹿児島へ命からがら逃げてきのだが、この済州島が日本と百済を繋ぐ重要拠点であったことは、飯山さんが以下のHP記事で明確に述べている。
◆2008/05/10(土) 天武天皇は,済州島の御方である!

この飯山さんの済州島説に対して異を唱えているのが、飯山さんの朋友である小川秀之氏だ。

僕は百済の後継国や日本の建国は辛酉年の661年や初代の天皇は天武天皇ということをはっきり認識するにいたったのは飯山一郎氏の論の影響による。
僕と飯山一郎氏の見解の相違は飯山一郎氏は天武天皇は百済の出自と考えているのだが、僕は天武天皇は高句麗の出自だと考えているぐらいのものであろう。
百済は高句麗より分離し南下したのは最近までは朝鮮半島と思っていたのだが、最近ではそうではなく遼東、遼西へと南下しやがて山東にまで南下し山東半島から対岸の今の京城あたりに渡ったのではないかと思うようになった。

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それに対して、飯山さんは以下のように回答している。

天武天皇と済州島との関係には只ならぬものがあります.
たとえば,
天武天皇二年(673年)8月25日 に次のような記事があります.
 「詔耽羅使人曰。天皇新平天下。初之即位。由是唯除賀使。以外不召。」 
    ↓  ↓  ↓
 「天武天皇は,済州島の使人に,自分は天下を平定し初めて天皇に即位した.
  よって今後は祝い事などの儀礼以外は呼び寄せることはない(済州島に
  帰ってよろしい)と言った」.

その済州島は古名を「耽羅」といい,百済の属国!でした.
「耽羅」という言葉自体が,百済の属国という意味です.

『日本書紀』では,耽羅と日本の交流は日が浅く,耽羅国が日本国に初めて
入朝したのは,661年のことでした.

それが,673年の記事では,天武天皇が耽羅の使人に対して「祝い事などの
儀礼以外は呼び寄せない」と言っておられる.

このウラの意味は↑天武天皇と耽羅との「付合い」が「祝い事」以外の面でも,
深い同盟関係にあった,ということでしょう.

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そうした若干の違い(と云っても、この違いは途方もなく大きいのだが…)が、飯山さんと小川氏の間にあるにせよ、ここで言及しておかなければならないのが、晩年の飯山さんが熱心に毎日少しずつ読み進めていたという、『天皇系図の分析について』(藤井輝久 今日の話題社)という本だ。

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小生も同書を入手し、幾つかの章に目を通してみたが、途中で妙に懐かしい気分になったものである。この不思議な感覚、何なのだろうと思っているうち、目を通した同書の「おわりに」(p.1110~)で、「鹿島曻」の名前が目に飛び込んできた…。ここに至って、漸く〝妙に懐かしい〟と思った訳が分かったものである。

二十年前の小生は、鹿島曻が著した本を十冊前後入手し、そのほとんどに目を通している。大変刺激に満ちた本であったが、なかでも目が釘付けになったのは、日本書紀の正体を述べた行であった。つまり、日本書紀は、「百済の歴史書のコピー」であると、鹿島は喝破していたのだ。これは、どういうことか…? と長年頭から離れなかったのだが、飯山一郎さんの日本書紀に関する投稿を目にして、漸く納得のいく「全体像」が見えてきたというわけだ。次稿では、そのあたりの簡単な解説を試みたい。

大義
東日本を縦断した台風19号、死者75名に上ったという(読売新聞)。亡くなられた方々には、心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。加えて、未だに行方不明者16名というニュースには、もはや言葉もない。長野には知人・友人が何人かいるが、その内の一人から一昨日連絡があり、彼は崩れた千曲川の堤防から車で20分ほどの処に居を構えており、辛うじて難を逃れたと知らせてくれた。ただ、鉄道やバスの復旧の目途が立っていないとのことで、一日でも早い復旧、そして日常生活を取り戻せることを心より願う。

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さて、暫く仕事(翻訳)に追われていて、ブログ更新も滞っていたが、一段落した今、久しぶりに記事を一本書いておきたい。それは、「大義」である。この大儀だが、三年前に大義について著した『GHQが恐れた崎門学』(坪内隆彦著)を、小生は以下のように紹介している。

来年(2018年)は明治維新150年という大きな節目を迎えるわけだが、同書の優れた点は、維新後間もなくして急ピッチで進められた文明開化、すなわち西洋化による人心の退廃と功利追求がもたらした、弊害についてものの見事に抉り出してみせ、さらには〝大義〟を重んじ、西洋化に抵抗した在野の先達が居たことを、改めて我々に思い起こさせてくれた点、現代を生きる日本人にとって必読の書と云えよう。
GHQが恐れた崎門学


「明治維新」という言葉から、『明治維新という過ち』という本を著した原田伊織氏なる人物を思い出したのだが、坪内氏は上掲の自著のなかで、原田氏のことを徹底的に批判している。そのあたりを如実に物語っているのが、『GHQが恐れた崎門学』のp.246~256なのだが、幸い、YAMINABEというブログが全文を引用しているので、関心のある読者は目を通すといいだろう。
【転載記事】歪んだ「明治維新否定論」を糺す──────「見直し」の名を借りた有害無益な妄説を斬る≪前編≫
【転載記事】歪んだ「明治維新否定論」を糺す──────「見直し」の名を借りた有害無益な妄説を斬る≪後編≫


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前後して、偶然だがNHKのアナザーストーリーズで、三島由紀夫のことを取り上げていたので、録画したものを見てみた(「三島由紀夫 最後の叫び」)。

三島事件の解説者として、元ラジオ局記者・三木明博氏、元サンデー毎日記者の徳岡孝夫氏らが登場していたが、あまりにも三島に対する見方が浅いのにはガッカリした。さらに呆れたのは、芥川賞を受賞した平野啓一郎氏を、「三島由紀夫の再来」と紹介していたNHKの姿勢だ。

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この平野氏だが、同氏の国際感覚をあからさまに示す動画があったので、以下に紹介しておこう。


日本の著名作家が判決文を読まずに煽るのは止めろとコメンテーターを批判!その前に、条約・公文書を読みましょう!!

同氏の国際政治についての音痴ぶり、呆れるほどである。この日韓外交問題だが、小生も掲示板「放知技」に少しだけだが書いているので、以下に再掲しておく。

小生が文在寅のことを「馬鹿じゃないかと思う」と書いたのは、徴用工訴訟で韓国最高裁が日本企業に賠償を命じたことに対して、当初の文在寅は最高裁の判決に介入しないというスタンスをとり、やがて同調する姿勢に転じたからで、これは明らかに国際法に違反していました。それでも、文は本当の馬鹿ではなく、青瓦台に巣食うネオコンに脅されているためだと、思うようにしていました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16851868/210/


ここで、最近の拙稿「二・二六事件と現代」の【追補2】で、少しだけだが三島由紀夫を取り上げている。

■などてすめろぎはひととなりたまひし
今まで、三島由紀夫に関して二つの点で分からないことがあった。一つは、三島の著『英霊の声』の中で、三島は天皇に対する呪咀の声を書き残している。二・二六事件で刑死した英霊たちが裏切られたと、昭和天皇を呪ったのは分かるが、どうして特攻隊の英霊たちも昭和天皇を呪ったのかが分からなかった。もう一つは三島の遺した檄文である、政体を守るのは警察が、国体を守るのは軍隊であるべきで、軍隊が復活しないことには、2年以内に米軍の傭兵・あるいは米国の属国になってしまうという、内容の意味するものが分からなかった。


実は、この三島のことを快く思っていなかったのが、昭和天皇、上皇陛下、そして今東光である。最初に、昭和天皇の三島観は以下のようなものであった。

松本 昭和天皇が生涯、口に出したくないと思った三人の人物がいます。それは出口王仁三郎、北一輝、三島由紀夫の三人です。三島事件が起きた日に侍従長の入江相政は天皇に報告しています。そして、翌日呼び出された入江は、「天皇は三島のことも仰せだった」と書き残しています。このことも実録に出てきません。
『月刊日本』12月号 p.55
松本健一氏逝く


続いて、以下は上皇陛下の学友の言葉である。

僕はいろんな人から御進講を受けているけど、三島由紀夫さんのお話は聞かない。三島さんの思想は、八紘一宇、国民皆兵で、天皇は私的な一家の幸せを求めるものではないと考えているんじゃないかな。
日本人は何を考えてきたのか


最後に今東光和尚の三島由紀夫評。

★三島由出札夫について
 私は三島由紀夫の大ファンです。彼の作品はほとんど読みましたし、彼の生きざま、死にざまにも共鳴できます。先生は文壇で顔が広いので、きっと生前の彼にもお金いになったと思いますが、彼はどんな人柄の人だったのですか?  (大阪 大学3年 Y・U)
 オレは以前『稚児』という小説を害いたことがある。その中に珍本がでてくるんだが、これが実際比叡山にある門外不出の珍本で、足利時代の写本なんだ。オレは坊主をやってた関係上、それでもかろうじて見ることができたくらいのもんだが、そいつを三島由紀夫がそっくり引用しやがって、「見た」というようなことを書きやがった。オレと会った時「いや、今さんのあれから引用したと書くのを、原稿を急がされたもんだから書かずに渡した」なんてごまかしやがってな、あの野郎。オレはそれ以来、彼を作家としても、人間としても信用しないね。しかし、オレには非常に謝ってね、「本にする時にはちゃんとただし書きを入れます」なんていいながら死んじゃったんで、それもどこまで本心でいったのかわからんな。だからオレは、自分の本の中で、そのことを書いといたよ。三島由紀夫がこの珍本のことを見たように書いているが、あれは絶対にそんなことはあり得ない、あれはそっくりオレのを引用したんだってことを、もう、エゲツなく書いてあるんだ。後世を誤るからね。ま、世間じゃなんていうかしらないけど、オレはヤツを信用しとらんよ。

『極道辻説法』p.230


加えて、上掲の拙稿「二・二六事件と現代」を、はぐらめいさんに最近取り上げていただいているが、はぐらめいさんの記事にも三島についての記述があった。

三島由紀夫は「嫌いな軍人は誰ですか?」の質問に「真崎甚三郎」と答えたという。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1464097474 大東亜戦争を主導した統制派に対するに、真崎らを首魁と見なされる皇道派、その真崎を貶めることで、大東亜戦争の真相が見えなくなる。三島由紀夫も例外ではなかった。
『近衛上奏文と皇道派ー告発 コミンテルンの戦争責任』(山口富永)


話は変わるが、上掲の拙稿「日本人は何を考えてきたのか」で、西田幾多郎を取り上げているが、拙ブログでも少しだけ西田について言及したことがある。

改めて西田幾多郎の凄さを再認識し、現在世界で西田哲学が見直されつつあることを知った。


幸い、NHKの100分de名著が「善の研究」を放送中で、今回の主テーマ「大義」と絡めて、一度取り上げたいテーマだ。

精神核
道友である歯科&音楽ウォッチャーさんの最新記事、「洞察歯観のすすめ(40)」をアップしているが、ウォッチャーさんの原稿をやり取りする時、いつの間にかウォッチャーが近状報告をしてくれるようになった。そして今回、上掲の新記事でやり取りしていた時、強く印象に残ったのが以下のウォッチャーさんの言葉だった。

7月に入り、JINNMO氏の「精神核」を入手し、移動のお供に、風呂のお供に聴いております。ミスター・クロウリーと王仁三郎の肉声を生成してつくりあげたという今回の作品、大変興味深く、そして心地良く聴いております。(遊び心なくしては出来ない作品と感じました)
クロウリーと王仁三郎の肉声を素材に・・・というより、両者とJINNMO氏の共演であろうと思います。ミスター・クロウリーと王仁三郎が、JINNMO氏を呼んだのかも知れませんね。更にいえば・・・もう一人。大事な共演者が、見えないところにいるのではないでしょうか・・・?


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音楽に関しては玄人のウォッチャーさんと違って、小生の場合、歌を歌わせれば本職の落語家すらも腹を抱えて笑うという、まったく音楽とは縁遠いのにも関わらず、実は小生も「精神核」をコッソリと入手して聴いた(爆)。しかし、何だね、よぅ分からんかった(大爆) それよりも、気になるのはウォッチャーさんの以下の言葉…

もう一人。大事な共演者が、見えないところにいる


咄嗟にJINMOさんの最新記事(『みち』9月15日号)を思い出した。いつの日か、JINMOさんとウォッチャーさんを引き合わせてみたい…。どのような音楽論が飛び出すんだろうかと、今からワクワクする。

【追悼】
長年大変お世話になった山浦嘉久さんの逝去を知った。JINMOさんのツイートで山浦さんとのスナップ写真を何枚か並べたツイートが、9月17日に投稿されていたので、「アレ?」と頭の中で引っ掛かっていたのだが、その後に至って山崎行太郎氏のブログ記事を読み、漸くツイートの背景が納得できた次第だ。