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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
応神天皇の秘密(2)

実に衝撃的な内容であった。
応神天皇の秘密(1)


今回より「応神天皇の秘密」に筆を進めていくことになるが、その前準備として二本の小節を書いておきたい。一本は、我々が学校の教科書で習ってきた日本史。これを、一度突き放す形で見直して欲しいと思い、本稿「■日本史の〝常識〟を乗り越える」を書いた。そして、もう一本は次稿で取り上げる予定の「■応神天皇の生きた時代」で、応神天皇の御代とは、どのような時代だったのかについて振り返ってみたいと思う。何故なら、そうしないことには、何故に飯山史観が〝衝撃的〟なのか、てんで分からなくなるからである。

■日本史の〝常識〟を乗り越える
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初代の神武天皇から綿々と続いてきた皇統、現在の今上陛下は初代神武天皇から数えて第125代目の天皇であられる。神武天皇以降、2678年もの時間が経過、読者の頭の中では、天皇家について分からないことが幾つもあるのではないだろうか。たとえば、手許にある『天皇家の謎』の目次に目を通すに、以下のようなことが天皇家にまつわる謎とされているようだ。

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念のため、久しぶりに同書をサーッと斜め読みしてみたが、無知蒙昧という他はない。たとえば「謎の四世紀をめぐって」(p.52)という小節だが、五世紀前半の応神天皇とも関連してくることもあり、少々長くなるものの、以下に同小節の全文を引用しておこう。

謎の四世紀をめぐって
抜け落ちた大和朝廷成立と倭の五王

史書に記されない空白の時代
まだ日本に文字が入っていなかった時代の出来事を知るには、周辺の国、なかでも中国の史書に頼るしかない。

実際、日本列島の出来事と思われる記述は、西暦五十七年ごろの『漢書地理史』にはやくも登場している。また、有名な邪馬台国と卑弥呼について書かれているのも中国の『魏志倭人伝』だ。

ところが、ある時期から中国の史書に、日本の記述が見られなくなる。およそ百年、西暦四世紀から五世紀にかけての出来事が、まるでわからなくなってしまうのだ。

古代のことだ。百年くらい、どうということはないと思われるかもしれない。

だが、この百年は、日本という国にとって、きわめて重要な百年なのだ。

というのも、それ以前の中国の史書は「倭」という国について記述している。それは、女王卑弥呼の「邪馬台国」に連なる国だ。

ところが百年後、再び中国の史書に登場するのは、いわゆる「倭の五王」と呼ばれる大王たちで、彼らはいずれも「大和朝廷しの「天皇」に相当する人物なのである。

この百年は、大和朝廷成立の経緯が詰めこまれた、きわめて重要な年代だった。にもかかわらず、なんの記録も残されていない。ゆえにそれを「謎の四世紀」と呼ぶのである。

謎の百年の間になにが起こつたのか?

大和朝廷成立にかかわる百年が抜けているということは、この日本という国の起こりが抜けているということに等しい。

つまりわれわれは、もっとも重要な「国の始まり」の歴史がわかっていないのだ。

ちなみに「倭の五王」とは、『宋書』や『梁書』に登場する「賛(讃)、珍、済、興、武」五人の王のことをいう。この五王がどの天皇にあたるかについては諸説あるが、最後の「武」を雄略天皇にあてることはほぼ一致している。そして「興」が安康天皇、「済」が允恭天皇ということも問題はない。意見が分かれるのは賛と珍で、それぞれを履中・反正天皇にあてる説もあれば、応神・仁徳天皇にあてる説もある。

が、いずれにせよそれは十五代から二十一代という天皇の時代であり、それ以前の初代神武天皇から応神天皇までの時代がそのまま謎の四世紀、ということになるわけだ。

四世紀、列島で何が起こっていたのか?

邪馬台国論争にしても、もとはといえばここに原因がある。邪馬台国は畿内にあり、そのまま大和朝廷になったのか? あるいは九州の邪馬台国が東征したのか? 邪馬台国が九州の地方勢力で終わり、大和朝廷は別にどこかで発生した可能性もある。騎馬民族による日本征服説にしても、やはりこの謎の四世紀の出来事なのである。

辛亥銘鉄剣と雄略天皇
ところで、日本にも数少ないながら、この時代の史料が残されていた。

一九七八年のことだ。埼玉県行田市の埼玉古墳群稲荷山古墳から出土した鉄剣に、百十五字からなる金象嵌の銘文が刻まれていることがわかったのだ。

衝撃的だったのはそこに「私は獲加多支鹵大王に仕え、天下を治めるのを補佐してきました。そこで辛亥年七月に、これまでの功績を剣に刻んで記念とします」(意訳)と書かれていたことだった。というのも、「辛亥年」は四七一年と推定されるので、文中の「獲加多支鹵大王」は、「オホハツセワカタケル」――雄略天皇ということになるからである。

雄略天皇は、中国の史書に「倭王武」として登場する人物だ。つまり、この天皇が実在し、しかも当時、勢力を北関東にまで及ぼしていた、という証明になるわけである。

一方、この「辛亥年」を六十年後の五三一年とする説もある。この場合は、「ワカタケル」は欽明天皇ということになる。

この違いは大きく、もしも「ワカタケル」が雄略天皇なら、謎の四世紀からわずか百年で東国に勢力を伸ばしていたことになる。その場合、畿内勢力はかなり早い段階から成熟していた――邪馬台国は畿内にあった――ことの傍証になるというわけだ。はたして、どちらが正しいのだろうか。

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どうだろうか? もし、読者が上記の小節を読んで、何等疑問を感じなかったのであれば、以降の拙記事に目を通す前に、『卑弥呼の正体』(山形明郷 三五館)を熟読していただきたいと思う。

ちなみに、『天皇の謎』を著したのは歴史雑学探究倶楽部という所のようだが、雑学の名が示すとおり実に雑な内容、出鱈目のオンパレードである。上の小節「謎の四世紀をめぐって」に目を通しただけでも、卑弥呼が日本列島に居たと思い込んでいる、倭が日本列島にあったと頭から信じ切っているといった具合で、目も当てられないとはこのことだと思った。もし、歴史雑学探究倶楽部のように、倭が日本列島にあったと思い込んでいる読者がいたとしたら、上に紹介した『卑弥呼の正体』の第九章、「倭はどこだったのか」の熟読をお勧めする。

ともあれ、『天皇家の謎』では日本の四世紀は謎であると主張しているのだが、とんでもないことである。そのあたりは、次稿以降において敷衍していくとして、「応神天皇の秘密」シリーズを開始する理由の一つが、この機会に、従来の教科書的な日本史を乗り越えて欲しいからだ。

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応神天皇の秘密(1)
大阪府羽曳野市に位置する応神天皇陵、飯山一郎さんや堺市の同志と一緒に訪れたのは、前日は紀伊田辺に泊まり(「南方熊楠の世界(1)」参照)、翌朝の特急に乗って堺市に到着した3月3日(土)だった。そして翌日に跨がること2日間、応神天皇を中心テーマとした、興味深い歴史の講義を飯山さんから受けたのだが、実に衝撃的な内容であった。だから、一刻も早く放知技の読者に報告したかったのだが、その直前に訪れた紀伊田辺でも多くの出来事を体験したこともあり、最初に南方熊楠シリーズを書いたのと、仕事(翻訳)の納期に連日のように追われていたのとで、なかなか「応神天皇の秘密」シリーズに筆が進まなかった。しかし、昨日今日に至って漸く仕事が一段落、応神天皇シリーズに取り組むことができるようになった次第だ。

さて、本シリーズでは幾本かの記事を書く予定だが、初回の今回は両日とった行動のあらましを述べておこう。

■3月3日(土)
飯山さん一行は志布志と堺を結ぶフェリー「さんふらわあ」で、前日の3月2日18:30に志布志を発ち、翌日3月3日午前8時50分に大阪に到着、その足で宿泊先のホテルに直行している。だから、到着したばかりの飯山さん一行が、ホテルのロビーで寛いでいた時、亀さんも同ホテルに到着した形だ。そして挨拶もそこそこに、早速、飯山さんによる応神天皇を中心とした、飯山史観の講義がスタートしたのだが、その日に飛び出した飯山史観については次稿以降に書く。

その後、堺市役所の展望台に向かい、眼下に仁徳天皇陵を眺めつつ、再び飯山さんの講義が続いた。本来は同展望台で昼食会のはずが、参加者からの質問が相次いだため、「一日一食の猛者ばかりなのだから、昼飯くらい抜いても大丈夫だろう」という飯山さんの鶴の一声で、同展望台での昼食は急遽中止、急ぎ車に分乗して応神天皇陵へと向かった。(後で聞いた話だが、参加者の一人「舎弟のもっちゃん」は一日三食主義だったようで、大変な思いをしたらしい…笑)

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百舌鳥古墳群をめぐって活発な議論が交わされた

到着後、最初に応神天皇の御霊に二礼二拍一礼した後、神主さん親子の説明を受け、続いて宮内庁管轄の応神天皇陵に案内していただき、ほぼ全員が生まれて初めて、応神天皇陵の一部を目の当たりにした。なかでも猿都瑠さんの場合、実に思うところ大だったようだ。

その後は全員で堺市に戻り、夕食会。最初は話者の中心が飯山さんだったのだが、次第に堺市役所の展望台で合流したYさんが話のリードを握るようになった。やがて、話(酒?)の勢いで全員でYさん宅に押しかることになり、そこで二次会と相成る。その後はホテルに戻り、堺のおっさんの部屋で飯山さんをはじめ皆さんが集合、深夜まで話が続いたというが、亀さんは紀伊田辺での疲れが溜まっていた上、珍しく当日は酔ったこともあって、残念ながら顔を出していない。

■3月4日(日)
翌日の3月4日、ホテルのロビーに再び集合。飯山さんによる講義が暫く続いた後、堺のおっさんから今後の乳酸菌事業の詳しい説明があった。その後は再び車に分乗して、大阪は難波へと向かた。今思い出すに、活気に満ちあふれた難波を肌で感じるという、滅多にない機会となった。

昼食に鯨料理専門店「徳家」で、美味しい鯨料理に舌鼓を打ちつつ、さらに楽しい会話が弾んだ。ふと腕時計を見ると、もう夕方の5時半、皆さんへの別れの挨拶もそこそこに、急ぎ新大阪駅の新幹線のホームへ向かってダッシュ、辛うじて終電数本前の電車で関東のチベット、飯能に戻ることができた。

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次稿より、いよいよ飯山さんが堺市で語ってくれた、応神天皇の秘密に迫る話に筆を進めることにしよう。

南方熊楠の世界(4)
■エコロジーと乳酸菌
今回をもって南方熊楠シリーズの最終回とするが、この機会に鶴見和子の著した『南方熊楠』の最終節を紹介しておこう。

iv 自然の循環の法則をとりいれた新しい技術の開拓をめざす
南方植物研究所は実現しなかった。しかし、南方が、栽培した藻から寒天を作り、寒天によってバクテリアを培養し、バクテリアによって空中の窒素を分離するというアイディアは、自然然循環の法則を、人間がとりいれて、技術化するという考えである。これは、自然を人間が、人工の法則によって支配するという原理にもとづく機械文明の技術観と異る。自然支配の技術観が、公害を生み出し、自然環境を破壊することによって、人間そのものを崩壊させている今日の地球上の状況対して南方の自然と共生するという考えは、未来を先取りしていたということができる。

南方熊楠を、近代日本の独創的な思想家として、わたしは評価する。この本は、その発端を示しただけである。読者のとりひとりが、南方の原典を読み、そこに流れる思想の水脈を掘りあてていただきたい。今、日本で起こっている、そして地球上で起こっている、人間の問題を解き放つ水路を開くために、尽きせぬ泉がそこにあるとわたしは考える。

p.241


最終節で注目していただきたいのは、「今、日本で起こっている、そして地球上で起こっている、人間の問題を解き放つ水路を開くために、尽きせぬ泉がそこにある」という結語だ。何故なら、この鶴見の結語は、今や大きく時代が動こうとしている現在と、多くの点で重なってくるからだ。そのあたりは、掲示板「放知技」でも話題になった、「第52回国家公務員合同初任研修開講式」での安倍総理の訓示に耳を傾ければ、肌で感じることができるはずだ。

加えて、「南方の自然と共生するという考えは、未来を先取りしていた」という鶴見の記述、この南方のエコロジー観こそ、鶴見の『南方熊楠』を貫いている南方思想なのだが、この南方思想を具現化した一例が、飯山一郎さんが提唱している乳酸菌である。乳酸菌については、飯山さんのHPの読者であれば説明は不要と思うが、乳酸菌が近未来に大きくブレークすることを予感させる記事を、野崎晃市博士の『文殊菩薩』から一本だけ紹介しておこう。
大連の食品加工業者と会合

また、3月4日の堺市での会合でも、飯山さんと堺のおっさんから、乳酸菌を主体とした今後の事業展開についての貴重な話を伺っている。

このように、乳酸菌一つとっても無限のフロンティアが目の前に広がっているのだが、乳酸菌やAIだけに限らず、新時代を切り拓いていく上でキーとなるのが人材である。前稿「南方熊楠の世界(3)」で、現代日本人のタイプを亀さんは以下のように分けた。

国粋派
コスモポリタン派
脱藩派


同稿では脱藩派について少し触れただけであり、また国粋派とコスモポリタン派に至っては解説すら行っていないので、この機会に今までの亀さんの歩みと重ね合わせる形で、上記三タイプの人間型について敷衍しておこう。

■コスモポリタン派
「南方熊楠の世界(3)」にも書いたとおり、亀さんの脱藩人としての修行は、十代という多感な時期に日本を飛び立った日、1972年3月23日に始まった。その後、多感な時期を三年近くにわたり海外で過ごしたことで、「己れを生み育んでくれた祖国を思う一方で、相手の国籍や肌の色に拘ることなく、お互いに同じ人間として自然に接することができる」という、脱藩人としての土台が辛うじて完成したのである。

ここで、三省堂の大辞林(電子版)は「コスモポリタン」について、どう定義しているのか確認しておこう。

一つの国や民族にとらわれず、全世界を自国として考え、生活する人。世界市民。国際人。


一見、脱藩派の定義かと勘違いしそうな定義である。それはともかく、そもそも大辞林が定義するような「全世界を自国として考え、生活する」人間が、本当に存在するのだろうか…。大辞林の「コスモポリタン」の定義、言葉の響きこそ心地よいものの、実は根無し草と紙一重、否、はっきり言ってしまえば根無し草そのものを指しているに過ぎない。

このあたりをもう少し具体的に、言葉の観点から考察してみよう。亀さんが私淑していた故國弘正雄の話を、拙稿「和僑」に書いたことがある。

ここで、人の思考行動形式を支配している根源的なもの、それはその人の母語であると亀さんは思っている。そのあたりを教えてくれたのが、同時通訳の泰斗・故國弘正雄であった。國弘先生の資料が見つからないので朧気な記憶で書くが、「人の生涯の母語は小学校2~3年生ころまでに決まり、その年齢を過ぎると後はどんなに努力してもバイリンガルには成るのかせいぜいで、一部の天才を除き、絶対にバイカルチャーには成れない」というものである。これは亀さんの体験からもその通りだと思う。英語と日本語のバイリンガル、時には数ヶ国語を自由に操る知人友人には数多く出会ったものの、未だにバイカルチャーの人間と出会ったことはない。


「人の思考行動形式を支配している根源的なもの」こそが母語なのであり、別の表現を使うとすれば、子守歌を聞きながら自然に身につけた言葉こそ、母語と云えるのである。こうした視点を持つ身として、「一つの国や民族にとらわれない」だの、「全世界を自国として考え、生活する」だのといったのは、単なる根無し草の戯れ言にしか映らないのである。

かつて、亀さんは道友の葛巻岳さんと一緒に、「脱藩道場」を立ち上げたことがあり、この「脱藩」という看板名は、藤原肇氏の著した『日本脱藩のすすめ』から来ている。因みに、『日本脱藩のすすめ』は以下で読むことができる。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/library/dappan/dappan.html

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このページは、亀さんが『日本脱藩のすすめ』をOCRで読み取って電子データにしたものだ。この作業を行ったのは20年前のことで、当時の亀さんは「国粋主義者vs.コスモポリタン」という構図しか頭に無かったのだが、同書のお陰で、第三の「脱藩人」という概念を獲得できたことは、今思うに大きかった。

しかし、当時の亀さんはコスモポリタンと脱藩人の区別が余り明確ではなかったのも本当だ。たとえば、あのジョージ・ソロス。当時の亀さんは、ソロスと言えば超金持ちの投資家ていどにしか思っていなかったのである。だから、小人数での会合で藤原氏が、「ジョージ・ソロスからメールで返信をもらった」と、自慢げに携帯でソロスの私信を見せてくれた時は、「あの有名なソロスから…、大したものだ!」と、大変感心した己れを今でも覚えている…。

■国粋派
その藤原氏と喧嘩別れをした頃、藤原氏を通じて付き合いの始まった栗原茂さんに、『みち』の編集人・天童竺丸さんに引き合わせてもらったという次第である。同編集室に集う人たちは、コスモポリタンとは対極的な立場の人たちで、己れを生み育んでくれた祖国をこよなく愛する、国粋主義傾向の強い人たちであった。ここで再び三省堂の大辞林を紐解けば、国粋派すなわち「国粋主義」について以下のように定義している。

自国民および自国の文化・伝統を他国より優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方。


『みち』の編集室で月に一回行われる「まほろば会」には、月刊日本の関係者も参加しており、それが縁で同誌の定期購読を始めている。当時の同誌はまさに、国粋主義を地で行く雑誌だったし、自分の知らなかった祖国日本の姿について、実に多くを学んだものである。

しかし、時間の経過とともに『月刊日本』と『みち』の限界が見えるようになってきたのも確かだ。たとえば『月刊日本』、既に拙ブログでも記事にしたとおり、今や同誌は完全なネオコン誌に転向した雑誌である。一方、『月刊日本』の関係者が参加する『みち』の場合はどうか? 今のところあからさまなネオコン路線に染まっていないし、個人的に同誌の校正のお手伝いもしている上、人間的に温かい人たちが多いことから、当面はお付き合いを続けさせていただくつもりだが、コスモポリタン派vs.国粋派というモノサシで分けるとすれば、明らかに『みち』も国粋主義的な傾向の強い雑誌であることは確かである。

たとえば、一昨年の秋に中国の青州市を訪問、帰国して久方ぶりにまほろば会に顔を出した時、常連の一人に、「あっ、支那の臭いがする」と声高に言われた時は、ただただ苦笑するしかなかった。『みち』の執筆者も一部を除き、全員が中国ではなく支那と言ったり書いたりしているのだが、これは表現(言論)の自由であり、亀さんは全く気にもしていない。ただ、拙稿「青州で思ふ(7)」にも書いた、毛允明社長や張苓明氏の人物を目の当たりにしている身として、中国人が嫌がっている支那という言葉を口にすることは、今後もないだろう。仮にお二人の前で支那という言葉を口にすれば、それまでに築いてきた良好な関係は、一瞬にして水泡に帰す。

■脱藩派
以上から、現代日本人、殊に新時代の日本を背負う、若い日本人の理想像は脱藩人である。だから、一人でも多くの若い日本人の脱藩人を輩出させることに、残り少ない冥途までの人生を懸けたいと、心から思う今日この頃である。

南方熊楠の世界(3)
■南方熊楠と柳田國男
鶴見和子の『南方熊楠』に目を通して、気づいたことがある。それは、南方熊楠と対比する形で、柳田國男を引き合いに出していることだ。そして、鶴見は柳田よりも、南方の生き様に惹かれているのが分かるのである。そのあたりを如実に物語っている、鶴見の記述を幾つか引用しておこう。

しかし、神社合祀反対をめぐる二人(南方熊楠と柳田國男)の往復書簡は、この二人の相違をしだいに大きくさせ、「いきさつ」がなくても、疎遠になったかもしれないと私には思われる。

第一に、「地域」または「地方」に対する双方の感覚の差である。

南方は、定住者の立場から、地域を見た。柳田は、農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た。南方は、地方にいて地方から中央を見、柳田は中央にいて中央から地方を見たともいえる。

第二に、南方は、世界の、そして地球の一部としての、地域(エコロジーの単位)を考えたのに対して、柳田は、日本国の一部としての地域(政治的単位)を考えた。

第三に神社合祀反対運動において、南方が、地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていったのに対して、柳田は正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した。

第四に、南方が、外国の学者へも傲をとばして、国外の世論を結集しようとしたのに対して、柳田は、そのような行為は国辱を外にさらすものだと激しく反対した。南方は、今日のことばでいえば、国をこえた民際交流を射程に入れていたのである。柳田はこのことに関して、日本国家の外に出ることができなかった。

第五に、柳田は「常民」を造語し、それをかれの民俗学の中心においた(鶴見、『漂泊と定住と』、88~90ぺージ。色川、『柳田国男』、34~39ぺージ参照)。

南方は集合名詞として人々をとらえなかった。あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた。
p.156~157


谷川健一は、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかったことである。……南方の学問の魅力は、知識を統制したり制限したりしないことである。そこには全エネルギーの躍動と奔騰がみられる。すなわち、床の上にばらまかれた燠のような彼の知識をとおして、人間とは何かという質問に私たちは直参し得る。その問いは泰西模倣の学に甘んじなかった柳田がついに答えなかったものであり、南方は不十分ながら答えているのである。
p.197


南方は、一方で多系的発展をみとめた点で、当時西欧で支配的であった進歩史観を超えており、他方で近代社会の基層に、原始、古代心性が存在することの普遍性を喝破したことにおいて、柳田を超える。
p.201


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殊に、上に挙げた二番目の記述、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかった」という行を目にして、アッと思った。

つまり、柳田は「日本人とは何かという問いに終始」していたという、谷川健一の柳田評を何故に鶴見が敢えて取り上げたのかと、あれこれ考える自分を忽然意識した時、はっと驚いたのである。南方も鶴見も、十代から二十代の前半にかけ、一年以上の長期にわたる海外生活を体験しているではないか…。

南方や鶴見同様、亀さんも十代の頃に日本を飛び出し、三年近くにわたる海外放浪を体験しているが、そうした多感な十代から二十代前半にかけ、我が身を日本の外に置いて初めて身につくもの、所謂〝(国際)感覚〟とでも云うべきものがあり、その〝感覚〟が身についている者でなければ、到底理解し得ないものだと気づいたのである。

この〝感覚〟というもの、言葉で表現するのは難しいのだが、「人類皆兄弟」という〝感覚〟とでも云えようか…。これは、ほとんど日本列島を離れたことがない人たち、あるいは長期の海外生活を体験したとしても、中年以降に体験してる人たちには、恐らくは頭では理解できるにしても、到底肚では理解し得ない類いの〝感覚〟だとしか言いようがない。

今にして思えば、亀さんが相手の国籍や肌の色に拘ることなく、同じ人間として付き合うことに何等違和感が無い理由も頷けるのだ。だから、「長期の海外生活の後、あなたの人生の方向性というものが、大きく決定づけられたのではありませんか?」と、紀伊田辺にある南方熊楠邸の庭で暫し語り合った、南方熊楠の血縁者だという婦人に指摘された時、ハッとしたのだった。そして、多感な時期に長期の海外生活を体験した者にしか身につけようのない、ある種の〝感覚〟の正体を、朧気ながらも掴めたような気がしたのだ。だからこそ、表層的(頭)にではなく心の奥底(肚)で、南方熊楠の生き様に共鳴し、その南方について書く鶴見にも共鳴できたのだと、今にして思う。

かつて亀さんは、現代日本人を三通りに分類してみたことがある。

国粋派
コスモポリタン派
脱藩派


亀さん自身は三番目の脱藩派に最も近いと思っているし、「バイカルチャーという性向を持ち、己れを生み育んでくれた祖国を思う一方で、相手の国籍や肌の色に拘ることなく、お互いに同じ人間として自然に接することができる」真の脱藩派人間を目指し、生涯を終えたいと思った。

【グリコのおまけ】
今夏、アルゼンチンに一ヶ月滞在するが、親友のホルヘから漸くメールが届いた。どうやら、仕事で隣国のチリに出かけていたようだ。メールには以下のようなことが書いてあった。

… my mother, Isolina is now 91 years old, she is fine and will be so happy to see you again.

…中略…

So happy to see you again!!!!


1972年、ホルヘの自宅に亀さんは泊めていただき、二年後の1974年にホルヘが亀さん宅をご両親を連れて訪問している。残念ながら、当時の亀さんはサンフランシスコに居たので、その場に居合わせることはできなかったのだが…。

ともあれ、「So happy to see you again!!!!」にはグッと来た、有り難うな、ホルヘ…。現地では大いに酒を酌み交わそうぜ。

以下の拙稿に載せた写真に、ホルヘの御母堂Isolinaが写っている。これは1972年の写真だから、あれから46年もの月日が流れたわけだ。まさに、光陰矢の如し…。
思い出のアルゼンチン 2

南方熊楠の世界(2)
■南方マンダラと人体
時折、人体は小宇宙に喩えられることがある。そう言えば、NHKが「人体 神秘の巨大ネットワーク」と題するシリーズを放送中であり、拙稿「山中伸弥と巨大利権」でも同番組を紹介している。参考までに、NHKの同番組のPRサイトにあった紹介文を以下に引用してみよう。

脳や心臓が人体の中心」なんて考え方は、もう捨てよう。
あなたは知っているだろうか?
体の中で、あらゆる臓器や細胞が、まるでにぎやかに会話するように、
ダイナミックな情報交換を繰り広げていることを。
それはまさに、人体という名の「巨大な情報ネットワーク」。
いま、あなたの体内で交わされている、臓器たちの熱い会話が、
あなたの命を、健康を、支えているのだ。

人体 神秘の巨大ネットワーク


ここで、冒頭の「脳や心臓が人体の中心なんて考え方は、もう捨てよう」を目にして、何をいまさらという感が強い。このように思えるようになったのも、西原克成先生の著作との出会いが大きく、そのあたりは旧ブログの「内臓が生みだす心」にも書いた。その他にも旧ブログでは西原先生の著作を取り上げており、たとえば「免疫力を高める生活」や「究極の免疫力」といった拙稿がある。

その後、人体という小宇宙という観点で、亀さんなりに調べてきたワケだが、特に大きかったのが、飯山一郎さんが提唱する乳酸菌との出会いだ。たとえば、飯山さん本人が出演した、「蘇生」という映画…。

ところで、「人体はネットワークだ」というNHKの主張、実は、「人体はネットワーク」どころか、人体よりも上次元の宇宙と万物との間に存在するネットワークについて、はるか昔に喝破した人物がいる。南方熊楠その人である。その南方の南方マンダラには、「宇宙はネットワーク」という信念が貫かれているのであり、それを知る身として、NHKに「人体はネットワーク」といまさら言われても、当たり前のことを言っているようにしか映らないのだ。

むろん、NHKが「人体ネットワーク」シリーズで紹介しているのは、細胞、さらにはDNAといったミクロの世界を取り扱ったものであり、こうした世界を知らずに南方熊楠はあの世へ旅立っている。ワトソンらがDNAの二重螺旋構造を発見したのが1953年だから、12年も前の1941年に逝去した南方熊楠が、ワトソンの業績を知るよしもない。だが、1903年7月18日付けの土宜法竜宛ての書簡に、南方マンダラが初出しているのであり、DNAの二重螺旋構造発見に遡ること、なんと半世紀も前のことだ。ある意味、南方は50年後のDNA二重螺旋構造、そして今日のNHKの人体ネットワークを〝予言〟していたと言えなくもない。

以下、鶴見和子の著した『南方熊楠』から、今回のテーマと深く関連する行のみを抜き書きしておこう。

かれが、粘菌に対して抱いた異常なほどの関心もまた、この「南方曼陀羅」の発想と関係がある。粘菌は、植物でもあり動物でもある。動物と植物との結節点であるという意味で、また、生命の原初的形態であるという意味で、自然と人間との関係の萃点にあると言ってよい。大乗仏教は、人類に対象を限らず、人類を含むすべての生類のあいだの因果関係をその宇宙観の中に包蔵していると南方は考えた。南方が粘菌の研究と、比較民俗学との間をゆきつもどりつしたのは、二兎を追ったのではないとわたしは考える。それは「南方曼陀羅」の示すかれの宇宙観の帰結であるように思われる。
p.24


宇宙には、事不思義、物不思議、心不思議、理不思議がある、と南方はいう。近代科学が比較的うまく処理しつつあるのは、物不思議である。数学や論理学は、事不思議を解くが、形式論理学では、複雑な事不思議を十分に解きあかすことはできない。心不思議、理不思議に至っては、近代科学ではまだわからないところが多い。
p.84


南方の学風は、「検証の理論」からはほど遠い。しかし、「生成の理論」には類似点があるといえる。杜会科学における「検証の理論」は、数学および理論物理学をモデルとして構築されたのに対して、「生成の理論」は生物学をモデルとしていると思われる。南方がイギリスで勉学した時代の先進の科学は生物学であったが、のちに理論物理学が花形科学となった。そして現在、ふたたび生態学をふくむ生物学が脚光をあびていることを考えると、科学理論の歴史は、一サイクル転回しつつあるということができる。そのような脈絡の中でとらえるとき、南方の学問のスタイルは、時代おくれではない。「生成の理論」が、「検証の理論」の解毒剤であるのとおなじような意味で、南方の学風の中から理論を引き出すことが、新しい理論構築のために役に立つかもしれない。
p.179


「南方曼陀羅」は、地球上のあらゆる場所の動植物の棲態と人間の生きざまの相互関連と相互比較の見とり図でもある。そのまんなかに、あらゆる関係が収斂する場である「萃点(すいてん)」がおかれている。「萃点」をもたない比較は真の意味の比較ではないことを、この図は示している。神社合祀反対運動は、南方の比較の学の萃点であり、それゆえにこそ、わたしたちは南方の比較の学を、ほんものの学問として学ぶことができるのである。
p.232


以上の抜き書きそれぞれについて、あれこれと思うところがあるのだが、いまだに本業(翻訳)の締め切りに追われている身、機会があれば愚見を述べるということにしたい。

【追記1】
今回の紀伊田辺再訪で最も印象に残ったのが、南方熊楠邸でお会いした、南方と血縁関係にあるという婦人との会話であった。以下は、南方熊楠邸と隣接する南方熊楠顕彰館のパンフレットである。

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【追記2】
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南方熊楠邸を前に、南方熊楠の血縁者と語る在田辺の友人

洞察歯観のすすめ(30)
実は、歯科&音楽ウォッチャーさんからの便りは13日(火)に届いていたのだが、拙稿「民族性の違い」にも書いた微分積分混じりの英文の翻訳に四苦八苦、辛うじて締切日ギリギリの昨日提出できたので、早速ウォッチャーさんに以下のような詫び状を入れた…

ウォッチャーさん、今回は大分遅れて申し訳ない。今、一ヶ月近くにわたった仕事が、今日の締切日ギリギリに漸く終わりました。微分積分だの、比例定数だの、亀の頭の周りを★がたくさん、チンからチンからと回っていましたが、漸く消えていこうとしていますwww


なを、お約束している「南方熊楠」シリーズと「応神天皇の秘密」シリーズも近々アップする予定である。


ひな祭り前日・・

日本テレビ系で放送された、朝のワイドショーで、「インフル花粉症」という・・・聞き慣れない「病」?が、紹介されました。
***インフル花粉症とは、インフルエンザと花粉症が同時、または連続して発症することを指す。インフルエンザと花粉症が同時に発症すれば、花粉症によるくしゃみや咳でインフルエンザの菌を飛散させてしまう可能性がある。また、連続して発症した場合には、インフルエンザで免疫力が下がってしまうことから、花粉症が重症化してしまう。具体的には、熱や喉の痛み、場合によっては喘息の症状が出たり、今まで罹患していなかった新たな花粉症を発症したりしてしまう可能性がある***


これは、インフルエンザと花粉が合体して、広く世間に恐怖をまき散らす・・・だから早めに病院へいらっしゃい!というコマーシャルなのでしょう。しかし、インフルエンザも花粉も、ピンクレディーのようなアイドル・コンビなら小春気分といったところでしょうが、とんだ悪党コンビにされてしまい、怒り心頭かも知れません。

インフルエンザ・ワクチンといえば、過去において、ほとんどその効果なしとされ、ワクチン製造継続がストップするのでは・・・ワクチン製造消滅の危機へと追い込まれたことがありました・・・・

元・国立公衆衛生院 疫学部感染症室長 母里啓子氏が、下記のような話をしております。
***インフルエンザ・ワクチン、打ったことありまか?
小学校、中学校時代に、学校の集団接種で打った記憶のある方は多いと思います。大人になってから打ちましたか?
子供のいる親御さんは、お子さんを連れて、医療機関へ打ちに行ったことがありますか?
年配の方は、
「打っておかないと危ないですよ」
などと脅されていませんか?
年配のご両親に、そんなふうにインフルエンザ・ワクチンの予防を奨めていませんか?
インフルエンザ・ワクチン、どうしてみんな打つのでしょう。もちろん効くと思っているからでしょう?でも、まったくと言っていいほど効かないのですよ。これは、ウイルスを学んだものにとっては常識です。

インフルエンザ・ワクチンは、{効果はあまりない}という前提の上に成り立っているワクチンなのです。
一体どのくらい効かないのか。厚生労働省の研究機関でインフルエンザ・ワクチンを奨める立場の人たちでさえ、
「まったく効かないわけではないだろう」
という程度の言い方しかしていません。
インフルエンザ・ウイルスは、人に感染しながら、絶えず形を変えるウイルスです。しかも、人間だけでなく、鳥や豚など、多くの動物に感染します。このウイルスに効果のあるワクチンを作ろうとすることが、そもそも非常に無理があるのです。

インフルエンザ・ワクチンは、戦後、日本に駐留していたアメリカ軍の奨めで製造されるようになりました。最初は、鉄道員や郵便局員などの公共性の高い仕事の人に、優先してワクチン接種が行われていたのです。ところが、一向にインフルエンザの流行はなくなりません。すでにその当時から、インフルエンザ・ワクチンの効果のほどは疑われるようになりました。
やがて、
「インフルエンザ・ワクチンは非力なワクチンだ。個人に打っても効果がない」
ということになり、ならば、
「小学生や中学生に集団接種することで流行を防止しよう」
という方針が立てられました。インフルエンザに感染しやすい小中学生にワクチンを打っておけば、それほど大きな流行にならないから、社会全体をインフルエンザから守ることになるだろうという仮説に基づいた方針です。これを、「学童防波堤論」といいます。
そして、1962年から、小中学校で、インフルエンザ・ワクチンの集団接種が始まりました。さらに、1976年には、3歳から15歳までの子供たちへの予防接種が義務化されます。
・・・にもかかわらず、インフルエンザは、日本中で毎年流行し続けました。学級閉鎖もよく行われました。厚生労働省(当時)は、
「その原因は摂取率が低いからだ」
と叱咤し、そう言われた校医たちは真面目に努力を続けたものの、摂取率が上がっても学級閉鎖はなくならない。そのうち、校医たちの間で、ワクチンの集団接種は意味がないのではないかと、問題になっていったのです。

1979年。群馬県前橋市の一人の子供が、インフルエンザ・ワクチンの集団接種後、けいれんを起こしました。校医だった医師と前橋市の医師会では、これは紛れもなくワクチンの副作用であると判断し、国に認定を求めました。その申請は却下されてしまいました。この出来事を機に、前橋市医師会は集団接種をやめるという決断をするのです。ただ集団接種をやめるだけではなく、集団接種を続けている周辺の市と、前橋市のインフルエンザの流行状況を、5年間、徹底的に調査しました。膨大なデーターを「ワクチン非接種地域におけるインフルエンザ流行状況」という報告書をまとめました。
通称「前川レポート」といわれるこの調査で、インフルエンザ・ワクチンの集団接種をしている地域と、していない地域とで、インフルエンザの流行の大きさに差がないことがはっきり証明されたのです。つまり、インフルエンザ・ワクチンの集団接種には意味がないということです。また、1992年から94年にかけては、インフルエンザ・ワクチンを含む様々なワクチンの副作用によって被害を被った人たちが起こした20年以上に及ぶ訴訟に、次々に勝利判決が下りました。国の過失責任が認められ、ワクチンへの不信感が社会にもどんどん高まっていきました。そしてついに、1994年、小中学校への、インフルエンザ・ワクチンの集団接種が中止されたのです。ピーク時には、3000万本近く製造されていたインフルエンザ・ワクチン。その製造量は、1994年には30万本に落ち込みました。***

ここで、ワクチン産業・・・意気消沈。消えてなくなるかに思われた。ところが・・・

***1990年半ばあたりから、厚生省は、高齢者や病気を持っていてインフルエンザにかかると合併症を起こしやすいと思われる、ハイリスクといわれるグループへのインフルエンザ・ワクチン接種を奨めるようになりました。ターゲットを高齢者へと切り変え、2000年には、「インフルエンザは風邪ではない」というキャッチコピーとともに、インフルエンザは、「人の命を奪う恐ろしい病気」であるという宣伝が大々的になされるようになりました。
さらに追い風のように、鳥インフルエンザやSARS(重症急性呼吸器症候群)が社会的問題になったのです。
するとたちまち、
「スペイン風邪のようなインフルエンザの大流行は、いつ起こってもおかしくない」
「インフルエンザ大流行時の最悪のシナリオを想定しよう」
といった脅し文句が飛び交い、インフルエンザの恐怖を煽るような情報がメディアを賑わせました。
鳥インフルエンザは、毎年流行するインフルエンザとはかけ離れたウイルスですし、SARSは、そもそもインフルエンザとは別の病気です。それなのに、騒ぎの中で、インフルエンザワクチンがどんどん打たれるようになりました。おかしなことです。いつ起こるか分からない鳥インフルエンザに現行のインフルエンザ・ワクチンはなんの効果もありません。また、SARSに備えてインフルエンザ・ワクチンを打つのは、SARSが怖くて麻疹のワクチンを打つようなものです。しかし、何かしら効果があると勘違いして、インフルエンザ・ワクチンを打ちに走った人が大勢いたのです。そして、みるみるうちに、インフルエンザ・ワクチンは製造量を盛り返していくのです。***

インフルエンザ・ワクチン製造の落ち込み、復活。その後については、母里啓子氏が、平成19年。「インフルエンザ・ワクチンは、打たないで」というタイトルで一冊にまとめています。それにしても、何ら根拠のない不安を煽る宣伝ワクチンは、効果抜群。
ひな祭りから一週間後・・・

幼なじみからメールが入り内容を見ると、お医者から、そろそろガン検診を受けてはどうかと、お誘いを受けたようで・・・。
さて、受けるべきかどうか、少々迷っている様子。後日、食事をしながら話を聞いたところ、お医者先生からガンという病は、死に至る病、不治の病などと不吉なフレーズを聞かされた挙げ句、
「検診は早めに受けておいたほうが良いですよ」
と言われたとのこと。
まあ、しかし、「死に至る病」「不治の病」・・・これは、お医者一座による、創作劇(架空 欺瞞 フィクション嘘)であると捉えた方が良さそうです。(創作劇は、医療界だけのことではありませんが・・・)
事実ではなく、想像によってつくり出された、お医者一座による「不治の病」の一幕にお付き合いすると妙に座り心地のよい、死定席を勧められることになるので、「君子医者に近寄らず」と松本光正氏が言っておりますが、近寄らぬが得策ということでしょう。
幼なじみには、
「健康のためなら・・・もう死んでもいい!ということなら、行ってらっしゃい」
そう言って、医療に関する本を二冊、手渡しました。果たして、どのような判断をすることやら。
不治の病の講義を聞かされるより、富士の高嶺でも眺めて、先斗町、鴨川散歩でもしたほうが、よっぽど健康的!
そういえば、先斗町の近くに美味しい珈琲店が・・・店名が出てこない?!

追記

この冬は、飽きるほど雪かき運動をしておりました。
雪かき運動時に、ステイタス・クオーを聴き、夜はアルゼンチンタンゴ。
アルゼンチンタンゴで、「ホテル・ヴィクトリア」という曲があります。
これを聴くと思い出します。昭和のホームドラマ「おかみさん 時間ですよ」。
劇中、隣のまりちゃんが、
「白雪姫みたいな心しかない私~」
と歌っていたあの曲を・・・。



「ホテル・ヴィクトリア」


となりの真理ちゃん

ソーカ、ウォッチャーさんは真理ちゃんが好みのタイプだったのか…www

南方熊楠の世界(1)
3月2日、新大阪駅10:15発のくろしお7号に乗り、紀伊田辺駅には12:38に到着、実に40年振りに踏んだ紀伊田辺の土であった。駅の改札口を出ると、そこには懐かしい友人K君の顔が…。最初にK君の自宅に寄り、上さんへの挨拶もそこそこに荷物を預け、車で南方熊楠顕彰館→天神崎(ナショナル・トラスト発祥の地)→南方熊楠記念館→白浜の観光スポット(白良浜・円月島・千畳敷・三段壁・平草原)と巡った。最後に訪れた平草原には、白浜の街を一望の下に見渡せる展望台があったのだが、そこから念願だった神島を目にすることができ、感無量であった。

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中央やや右寄りの小島が神島(亀さん撮影)

この神島であるが、皇太子時代から粘菌に関心を持たれていた昭和天皇の強いご要望もあり、昭和4年6月1日、神島で熊楠は陛下をお迎えしている。その後、御召艦・長門の艦上にて約25分間、田辺湾の生物について熊楠は御進講を行ったのだった。ちなみに昭和天皇は後、御製に南方熊楠の名を詠んでおられるのだが、そのあたりは拙稿「南方マンダラ」で紹介済みである。

一通り熊楠の足跡を巡った後、長生の湯でK君と露天風呂に浸かりながら、お互いの近状報告、家族、人生の無常、その他について、しばし時が経つのも忘れて語り合った。辺りが暗くなりかけた頃、夕餉の支度を終えたK君の上さんが、我々が戻るのを待っていることもあり、急ぎ夕方6時過ぎにK君宅へと向かった。

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そして迎えた翌朝、新大阪行きの6:51発のくろしお6号で紀伊田辺を発った。わずか半日の滞在だったとは云え、実に密度の濃い旅となった。ここに、改めて半日もの時間を割いて、南方熊楠の足跡巡りに車で案内してくれた、友人K君に心から感謝の意を表したい。本当にありがとう。

さて、旅は続く。新大阪駅に向かう途中の和泉府中で下車、仁徳天皇陵を横目で見ながら、徒歩で飯山一郎さんの仲間が待つホテルへと向かった。その日は堺市に一泊したのだが、実に多くの出来事があった。このあたりの報告は、稿を改めて「応神天皇の秘密」(仮題)として、別シリーズの形で書く予定であるが、その前に、しばし「南方熊楠の世界」シリーズを続けさせていただきたい。ちなみに以下は仮題だが、予定している今後の「南方熊楠の世界」シリーズ内容である。筆を進めていく過程で、以下の予定稿の中で取り止めたり、あるいは別テーマに置き換えたりするかもしれないこと、予めお断りしておく。
■南方マンダラと人体
■南方熊楠と柳田國男
■エコロジーと乳酸菌
■死生観


歴史の闇
例によって、安西正鷹さんが安西ファイルを送ってくれた。実に有り難いことであり、やはり持つべきものは道友である。

さて、今回の安西ファイルで特に注目したのが、「●まつろわぬ神々の反逆」と題する小節であった。以下、同小節を全文引用しておこう。

まつろわぬ神々の反逆
・神社本庁は、敗戦によって国の管理下から離れた神社界をまとめあげるために生まれた民間の宗教法人。神道系の宗教団体として日本で最大。約8万社ある日本の神社のうち7万9千社以上が加盟。その特徴は、伊勢神宮を「本宗」と位置づけたところにある。本宗とは、おおもと、本源を意味する。つまり、皇祖神である天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に戴く形で神社界を組織化している。
・ところが、日本の神社で祀られている神々のなかには、『古事記』『日本書紀』などの神話には登場しないものも少なくない。天神も八幡神も、神話には出てこない。稲荷神を祀る伏見稲荷大社は、神社本庁が誕生する際にその傘下には入らなかった。
・八幡神は、もともと九州北部、宇佐地方の渡来人が祀っていた神であり、後に応神天皇と習合して、第二の皇祖神ともされるようになる。その由緒からして、天照大神とは直接には関係しない。少なくとも、八幡神社が伊勢神宮の下にあるというわけではない。
・神社本庁は、ひたすら伊勢神宮の権威を高め、20年に1度の遷宮を無事に果たすことを使命として、傘下の神社から遷宮の必要経費を徴収してきた。伊勢神宮の権威を高め、それを維持することが、神社界全体の利益になるという考え方である。だが、それは、伊勢神宮以外の神社を支える手立てを講じないことを意味する。
・伊勢神宮を頂点とするピラミッド型の支配構造のなかで、天津神系の神社が優遇され、国津神系の神社が冷遇されている。国津神系神社の積年の潜在的な不満と反発の種が、宮司人事の強権発動を機に発現し始めた可能性がある。


安西さんの応神天皇についての記述を目にするに及んで、紀州田辺を訪問した帰り道、途中下車して和歌山市の狸庵に居る、落合莞爾さんを尋ねてみようかと、ふと思った。何故なら、安西ファイルに目を通して、落合さんの主張する「八幡天孫ホムダワケ=第15代・応神天皇」について、この機会に突っ込んで質問してみたくなったからだ。
<落合秘史シリーズ>

しかし、まだ落合さんの応神天皇説について、しっかりと把握しているわけではないので、今回は応神陵と誉田八幡宮(主祭神=応神天皇)のみにしようかと迷っている。

ここで、さらに応神天皇に纏わる歴史の深奥に迫っているのが飯山一郎さんで、掲示板「放知技」の以下の投稿に注目していただきたい。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16256324/794/

上の投稿で紹介されている【連載:ホンダワケ】三部作は、真に歴史の闇に迫る上で必読の部類に属す。
・【連載:ホンダワケ】 応神天皇は仲哀天皇の子?
・【連載:ホンダワケ】 巨大な前方後円墳の原型は?
・【連載:ホンダワケ】 やはり応神天皇は…

ともあれ、久しぶりの紀州田辺…、昨夜も鶴見和子の『南方熊楠』に接し、南方熊楠の海外放浪についての行を読んだが、やはり十代の頃に三年間にわたり、世界各地を放浪した身なので、実に共鳴する箇所が多く、また南方熊楠の心に一層迫ることができたように思う。

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南方熊楠(左)

【お知らせ】

今週後半から数日にわたり、紀州田辺を中心に関西方面を旅する故、旅発ちまでに仕事を片づけたり、旅の準備や情報収集に時間を取られそうです。よって、関西から戻ってくるまでは、特別大きな事件でも起きない限り、ブログ更新を休む予定です。

民族性の違い
現在、来月16日締め切りの大量の仕事(翻訳)に四苦八苦している。本来なら、楽々締め切りまで終わるはずの翻訳量なのだが、今回はナント、頭の痛くなりそうな微分積分の公式がアチコチにwww

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亀さんの場合、仕事のほとんどを海外の翻訳会社から承っているが、仕事を引き受けるにあたって、自分の専門分野(自動車・機械・石油・電子機器・マーケティング)の範疇かどうか、じっくりと見極めるのを常としている。現在手掛けている翻訳は、最初の部分だけ原文(英語)にサーッと目を通し、電子機器にインストールするソフトが主テーマと判断、これなら楽勝だと思って承ったのだが、途中でナント微分積分の公式のオンパレード…。

それでも、一応承ったからには、最後までやり遂げなければならないつうのが翻訳者なのだ。かつ、今週末に和歌山県に出かけるので、「悪いけど、数日旅に出る予定があるんで、締め切りを少し延ばしてくんない」と頼んだところ、あっさりとOK、締切日を一週間も延ばしてくれた。だから、このように余裕をもってブログ記事を書けるつうワケなんだが、その仕事を依頼してきたのは南欧の翻訳会社で、結構大きな翻訳会社(多分、南欧では一番大きい)だ。

しかし、ラテン気質つうか、その翻訳会社で亀さんを担当しているのは、ナント30名近くのコーディネーター(翻訳を依頼してくる女の子)だ。流石に南欧の翻訳会社だけあって、時には一日あたり10名もの女の子が、ドーッと亀さん目がけて仕事の打診メールを送ってくる日もしばしば…。すべてを承るとパンクする(処理しきれない)ので、半分以上は断っているのが現実だ。また、マリアだのシルビアだのといった、同じ名前のコーディネーターが数名かいるので、頭が混乱したことも一度や二度ではない…。だから、時々訳出済みの間違ったファイルを送ったりして、お姉ちゃんたちに怒られたことも多い。

その点、西欧つうか中欧の翻訳会社のコーディネーターは、緻密かつ堅実だ。例えば昨年の11月、20万ワード(英語)前後の翻訳を今年の1月から3月にかけてお願いしたいと、ここ10年近くの付き合いのある、ドイツの翻訳会社のコーディネーターからメールがあり、亀さんは3ヶ月で一気呵成に翻訳を完了させるものとばかり思っていたところ、そうではなくて最初は用語集作成のため用語の翻訳、続いて略語解説の翻訳依頼という具合に、(翻訳の)同業者なら分かってくれると思うが、実に理想的な翻訳作業の進め方なのである。多分、半年以上の時間をかけて、全体で20万ワードを亀さん一人で翻訳するのだと思うが、その間に当方ではクライアントの主要製品について勉強したり、1ヶ月ほど海外(南米)に出かけるなど、余裕をもって仕事に取り組めるので実に有り難い。

それにしても、同じヨーロッパつうのに、こうも民族によって違うものなのか…。

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お付き合いのある翻訳会社のお姉ちゃんたち(米国)

互助の精神
今週後半、紀州田辺の友人と久しぶりに再会するにあたり、現在『南方熊楠』(鶴見和子 講談社学術文庫)を読み進めているが、時折立ち止まって本のページを閉じることがある。昨夜も、南方熊楠の独創性は何処から来ているのかと、あれこれ考え始めたためページが進まなくなった。その時、目にしたのがmespesadoさんの投稿である。
■ 「自衛隊」の方が「軍隊」よりも「格が上」である ■

読み進めながら、ハッとしたのが以下の文章だ(一部改行)。

もともと生物は、通婚可能なグループの構成メンバーを「助け合う」ことにより、将来にわたる遺伝子の繁栄に有利になることから、「助け合いの精神」「利他の精神」というものが「本能」として組み込まれています。これは霊長類たる人類にも成り立つ原則なんですが、日本以外の世界では、異なる風俗習慣を持った民族がぶつかり合うことが多かったことから、日本以外の世界では、「ゲームの理論」で有名な「やったもん勝ち」のロジックが「利他の精神」より遺伝子の繁栄に有利になってしまったことから、この「利己的」あるいはキレイな言葉を使えば「個人主義」的な倫理が主流になってしまったわけですが、ひとり日本だけが霊長類本来の「利他的」本能を維持している、ということを述べました。


ここで、七年近く前、東日本大震災の直後だというのに、整然と列をなして並ぶ同朋を思い出したのである。

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東日本大震災の被災者たち 暴動・略奪なく「助け合いの精神」発揮

mespesadoさんの云う、生物が本来持っているという「利他の精神」については、最近も「狼の群れと暮らす」という記事をアップし、ロシアの動物行動学者のヤソン・バドリゼ氏の記事を紹介したが、実は同稿では紹介しなかったエピソードがもう一つある。それが以下だ。

ある時、オオカミたちに熊から身を守ってもらい、彼は彼らが利他的になり得ることの証人となった。人間を身内の一員と見なしたオオカミたちが熊を追い払い、科学者の命を救ったのだ。


この利他的精神という視座で軍隊と自衛隊を比較した、mespesadoさんの投稿は実に新鮮であり、お見事である。ここで、他者には無い物の見方・考え方を、どのようにmespesadoさんは身につけたのか、という素朴な思いが湧き上がったのであり、しばし独創性そのものについて、アレコレ考えを巡らせていた。

そして、ふたたび鶴見の『南方熊楠』に戻り、ページを捲っていく中で、幼年期に周囲の大人たち、殊に親が子の人間形成に及ぼす影響の大きさについての行を読むに及んで、古来から引き継がれてきた互助の精神、mespesadoさんの言葉を借りれば、「助け合いの精神」あるいは「利他的精神」が、未だに残る日本列島が脳裏に浮かんだのだった。

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大陸側から見た日本列島

【グリコのおまけ1】
改憲で自衛隊に感謝を示そう

【グリコのおまけ2】
涙腺崩壊寸前!震災時助かった赤ちゃんと自衛官が1年後に再会した写真が話題に